So-net無料ブログ作成

カニグズバーグ『クローディアの秘密』を読む [本]

konigsburg01_190519.jpg
E. L. Konigsburg

E・L・カニグズバーグ (E. L. Konigsburg, 1930-2013) の『クローディアの秘密』は岩波少年文庫に収録されている有名な児童書だが、家出をしてメトロポリタン美術館に泊まるという面白い発想なのに引き込まれてしまう。
だが ”From the MIxed-up Files of Mrs.Basil E. Frankweiler” が原書のタイトルで、このままのタイトルだったら翻訳書としてはちょっと無理。『クローディアの秘密』と変えたのは鋭い。大貫妙子の〈メトロポリタン美術館〉(1984) という曲は、この小説を元ネタにしていて、NHKの〈みんなのうた〉で繰り返し流されている。〈ピーターラビットとわたし〉と並ぶ大貫妙子のかわいい曲の双璧である。

物語の冒頭、フランクワイラーという人の手紙文で始まるので、これは何? と思うのだが、それは結末で全てが明らかになる。家出という、本来なら暗い題材のはずなのに全然暗くない。その家出の理由というのがつぎのように書かれている。

 当のクローディアよりこのわたしにはっきりわかる原因もあったかもし
 れません。毎週毎週が同じだということからおこる原因です。クローデ
 ィアは、ただオール5のクローディア・キンケイドでいることがいやに
 なったのです。(p.11/漢字にふられているルビは省略。以下同)

でも家出をしてみじめな状態になるのは避けたい。だから街の中に隠れてしまおう。クローディアはそう考える。「家出をする」 のではなく 「家出にいく」 というのだ。

 クローディアは、町が大すきでした。町は優美で、重要で、その上にい
 そがしいところだからです。かくれるには世界でいちばんいいところで
 す。(p.13)

クローディアは入念に下調べして、3人いる弟の中で一番信頼できそうなジェイミーを仲間に引き入れて、ヴァイオリンのケースとトランペットのケースに下着を詰め込んで、2人で家出し、メトロポリタン美術館に寝泊まりする。ジェイミーを選んだのは、実はお小遣いを貯め込んでいて一番お金持ちそうだったからでもある。クローディアはもうすぐ12歳、ジェイミーは9歳。ふたりの会話はちょっと生意気だ。
メトロポリタン美術館はたいへんな入場者数で、その小説が書かれた頃は無料。いかにして警備員の目をかわして夜の間、美術館の中にい続けるかというクローディアの知恵が冴える。もっとも今だったら警備用の機器もあるし、こんなことはできるはずがない。そうした可能性が存在していた、のどかな時代だったのである。

家出のプランを主導したのはクローディアだが、お金を管理しているのはジェイミーで、クローディアがタクシーやバスに乗りたがっても、頑として拒否して歩くことを強要される。悪ガキなんだけれど、とても細かくて笑ってしまう。高いレストランには入らず、安そうな店に入って食事をし、昼は美術館に見学に来る小学生の団体にまぎれて、一緒に食事してしまう。
クローディアは家出をしても汚い格好になってしまうのが嫌で、2人は毎日着替え、でもヴァイオリンのケースやトランペットのケースがトランクがわりでは、服は幾らも持って来られなかったので洗濯する。貸洗たく機屋 (コインランドリーのこと) に行ってまとめて洗うと、白い下着がグレーになってしまう。あ~あ。でも、めげない。
噴水をお風呂がわりにして身体を洗っていると、ジェイミーが噴水に投げ入れられたコインを見つけて、しっかり頂戴してしまう。まぁつまり2人は、今だったら細かな犯罪になってしまう 「悪さ」 を重ねているわけだ。

 あらゆる種類の上品さのつぎに、クローディアが愛しているのは、よい
 清潔なにおいなのです。(p.65)

だが、最近美術館が安く買い入れて特別展示されているミケランジェロの作かもしれないという彫像にクローディアは興味を示し、それを調べるために図書館に行ったりして推理を巡らす。そしてその証拠を発見し匿名の手紙を美術館に出す。そこから話は急展開してフランクワイラーの話につながるのだが、フランクワイラー家を訪ねた2人は、家出をしていることを見破られ、そして2人の家出には終わりがくる。
フランクワイラーが2人を諭す言葉は、単に家に帰りなさいという意味だけでない重層的な意味を伴って聞こえる。82歳のフランクワイラーはクローディアにこう言う。

 「冒険はおわったのよ。なんにでもおわりがあるし、なんでもこれでじゅ
 うぶんってものはないのよ。あんたがもって歩けるもののほかはね。休
 暇で旅行にいくのと同じことよ。休暇で出かけても、その間じゅう写真
 ばかりとっていて、うちに帰ったら、友だちに楽しかった証拠を見せよ
 うとする、そんな人たちもいるでしょう。立ちどまって、休暇をしみじ
 みと心の中に感じて、それをおみやげにしようとしないのよ。」 (p.203)

フランクワイラーが言うのは彫像の真贋がどうなのかとか、それが金銭的にどのくらいの価値があるかなどということは 「もの」 の本質ではないということ。彼女の中でそれが真のものであるのならばそれでいいのだという、一種の諦念でもあるのだ。
さらに彼女はクローディアが、日々新しく勉強しなければならないという意欲に答えて言う。

 「いいえ。」 わたしはこたえました。「それには同意できませんよ。あん
 た方は勉強すべきよ、もちろん。日によってはうんと勉強しなくちゃい
 けないわ。でも、日によってはもう内側にはいっているものをたっぷり
 ふくらませて、何にでも触れさせるという日もなくちゃいけないわ。そ
 してからだの中で感じるのよ。ときにはゆっくり時間をかけて、そうな
 るのを待ってやらないと、いろんな知識がむやみに積み重なって、から
 だの中でガタガタさわぎだすでしょうよ、そんな知識では、雑音をだす
 ことはできても、それでほんとうにものを感ずることはできやしないの
 よ。中身はからっぽなのよ。」 (p.225)

クローディアやジェイミーには、フランクワイラーのそうした忠告はきっとまだわからない。貪欲な知識欲は若いときほど旺盛であるし、好奇心も強く働く。だがそれを自分の中で消化し整理して理解しなければ何にもならないということは年齢を重ねる毎にわかってくるはずだ。それをしみじみと感じる。
いつまでも吸収するだけでなく吐き出さなければならないということ、でもそうして繭を吐き出さないうちに人は死んでしまうのかもしれない。無駄に蓄積して使われないままの知識は、堆積した無数の書物やもう開こうともしない何冊もの写真アルバムと同じように、甲斐の無い忘却の海に沈む。

konigsburg02_190519.jpg
The Met and Thomas P. F. Hoving
(メトロポリタン美術館の前に立つトーマス・ホビング。
彼はこの小説が書かれた当時のMetのディレクター)

konigsburg03_190519.jpg
著者自身によって描かれた『クローディアの秘密』の挿絵


E・L・カニグズバーグ/クローディアの秘密 (岩波書店)
クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))




大貫妙子/メトロポリタン美術館
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21967891

大貫妙子/ピーターラビットとわたし (live)
https://www.youtube.com/watch?v=eltLkyzwUkQ
nice!(78)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽

ゴロウ・デラックス最終回 ― 沢木耕太郎 [本]

gorodelux_final_190402.jpg

毎週楽しみにしていたTBS深夜の《ゴロウ・デラックス》が3月28日で終わってしまった。毎回取り上げられる 「課題図書」 はヴァラエティに富んでいて、稲垣吾郎はきちんとその本を読んでいて、地味だけれどとても良質な番組だったのに残念である。本に対する興味だけでなく、たとえば吉本ばななの回を見て 「ポメラ、いい!」 と思ってしまったりするミーハーな私なのである (まだ買ってないけど)。

最終回は沢木耕太郎。課題図書の『銀河を渡る』は『深夜特急』後の25年分のエッセイを集めた内容とのこと。最終回らしい人選だが、こうした番組には今まで出たことがなかったという。
登場早々、出演した動機を聞かれて 「気まぐれ」 でというのに加えて 「分の悪い戦いをしてる人のところには加勢をしたくなる」 という。もちろん稲垣の立場に対する気持ちだが、続けて稲垣の主演映画《半世界》のことを褒めて相手の心を摑んでしまう。インタヴュアーとしてのテクニックは、さすがだ。稲垣と沢木、どちらがゲストなの? という感じに立場が逆転してみえてしまう。

外山惠理アナが朗読する。

 ノンフィクションを書くに際して、まずなにより大事なのは 「私」 とい
 う存在である。
 その 「私」 が 「現場」 に向かうことによってノンフィクションは成立す
 る。

そして、

 「好奇心」 が私を現場に赴かせる。

のだが、その好奇心には角度が必要なのだという。それはどういうことかというと、何か興味のあることがあってもそれは線が1本あることに過ぎなくて、何か別の興味が起こったときに2本目の線ができて、2本の線の交点ができる。そのように交点ができないと取材するとか書こうとする気にはならないのだという。
そのような動機を得て取材するとき、インタヴューのコツとして、相手を理解したい気持ちが大切なのだという。あなたのことを本当に理解したいのだというと、相手は一瞬ひるむが、ひるんだ後に心を開いてもらえれば、それは圧倒的に深い内容になるというのである。
SMAPにいたとき、どうだったの? と聞かれて、稲垣は 「独特な緊張感があった」 とも 「そのグループにいさせてもらっているという感覚」 「大企業に勤めているような感覚」 とも答えるのだが、すっかり稲垣が取材されてしまっている。

代表作である『深夜特急』に関する発言も興味深い。デリーからロンドンまで、バスで行くことができるか。しかも乗り合いバスで、と宣言したとき、それを支持してくれた人はほとんどいなかったという。そしてその旅が終わったら、そのことを書けるかと思っていたらなかなか書けなかった。メモではなく、手紙と金銭出納帳を資料として旅のことを書いたとき、その旅が身体のなかから消えていったという。それまではずっと身体のなかに重く残っていたのだそうである。
旅で一番重要なことは何か? それは 「人に聞くこと」 である。分かっていても聞く。尋ねて耳を澄ませて聞く。それによって人と人との出会いが生まれ、コミュニケーションが生まれるのだ。そう述べる沢木の主張は、インタヴューのコツのときに言った相手の心を開かせることと同じだ。

番組終盤、稲垣が最後の朗読として『銀河を渡る』に収録されている年長の作家との話を読む。

 「もし家に本があふれて困ってしまい処分せざるを得ないことになった
 としたら、すでに読んでしまった本と、いつか読もうと思って買ったま
 まになっている本と、どちらを残す?」
 「当然、まだ読んだことのない本だと思いますけど」
 すると、その作家は言った。
 「それはまだ君が若いからだと思う。僕くらいになってくると、読んだ
 ことのない本は必要なくなってくるんだ」
 齢をとるに従って、あの年長の作家の言っていたことがよくわかるよう
 になってきた。そうなのだ。大事なのは読んだことのない本ではなく、
 読んだ本なのだ、と。

そして話題はカポーティへと移って行く。

 先日も、書棚の前に立って、本の背表紙を眺めているうちに、なんとな
 く抜き出して手に取っていたのは、トルーマン・カポーティの 「犬は吠
 える」 だった。この 「犬は吠える」 において、私が一番気に入っている
 のは、中身より、そのタイトルかもしれない。
 犬は吠える、がキャラヴァンは進む――アラブの諺
 誰でも犬の吠え声は気になる。しかしキャラヴァンは進むのだ。いや、
 進まなくてはならないのだ。恐ろしいのは、犬の吠え声ばかり気にして
 いると、前に進めなくなってしまうことだ。
 犬は吠える、がキャラヴァンは進む……。

読んでいる内容だけでなく、稲垣吾郎の声はとても心地よい。この番組は終わってしまったが、また次の機会があることを期待しようと思う。

* カポーティはそのアラブの諺をアンドレ・ジッドから教えられた、とwikipediaにある。


沢木耕太郎/銀河を渡る (新潮社)
銀河を渡る 全エッセイ




ゴロウ・デラックス最終回 ― 沢木耕太郎
https://www.youtube.com/watch?v=BFEb8GupqoU&t=5s
nice!(94)  コメント(6) 
共通テーマ:音楽

ほしおさなえ『三ノ池植物園標本室』を読む [本]

ほしおさなえ_標本室.jpg

小説でも映画でもそうなのだが、最初から最後まで読み通して (見終わって)、もう一度最初に戻ると、あ、そうなのか、と気づくことがある。ここに伏線が書いてあるじゃん、とか、ここはそういう意味だったのか、とか、要するに初見の導入部のときは緊張していて理解力がまだ目覚めて無いのだ。ニブいんだよ、と言われればその通りなんですけど。

この小説の主人公は大島風里 [ふうり]、ビルの20階にある会社に勤めているが、間違えて18階でエレヴェーターを降りたらそこはもぬけのカラの広々としたフロアで、ああ疲れた、と思わずフロアに横になったら夕方まで眠ってしまう。あわてて会社に戻って、しどろもどろに言い訳したが、もう退社時間。会社は昇給もなく、賞与もなく、有給もとれなくて毎日残業、昼休みもないほど忙しく、何より雰囲気が悪くて、どんどん人が辞めてゆく。何かこれダメだ、と思ってしまって、今後のことも考えず、風里は退職届を出して、会社を辞めてしまう。これからどうしよう。
そうそう、そんな会社辞めちゃっていいんだ、と納得しながら思い入れてしまう私がいる。

文庫本のカヴァーにはとても簡単で明快な要約がある。

 職場で身をすり減らし、会社を辞めた風里。散策の途中、偶然古い一軒
 家を見つけ、導かれるようにそこに住むことになる。近くの三ノ池植物
 園標本室でバイトをはじめ、植物の標本を作りながら苫教授と院生たち、
 イラストレーターの日下さんや編集者の並木さんなど、風変わりだが温
 かな人々と触れ合う中で、刺繍という自分の道を歩み出していく――。

風里の行動は、世間で言うところのドロップアウトなのだが、そんなに強い意志もなく悲愴感もない。古い家を見つけ、今住んでいるマンションより家賃が安いので、そこに引っ越すことにする。大学附属の植物園のバイトを見つけ、植物の標本づくりをするようになる。新聞紙の間に採集した植物をはさんで乾かすという、「押し花」 の要領だ。そして趣味の刺繍を再開する。
そのようにして新しい世界が広がってゆく。ほのぼのとした筆致で、これは理想郷の話なのかもしれないと思う。

でも、ほのぼのムードのままでは続かない。
それまで風里の一人称で書かれていた記述が 「4 星」 で突然変わる。語っている 「わたし」 は村上葉 [よう] という名の中学一年生。しかも時代も少し過去のことらしい。
下巻になるとひとつのセクション毎に話者が変わり、時も現在と過去とが交互に語られる。風里が思いつきで借りた古い家にまつわる歴史。そして三ノ池があって、二ノ池があるのに、なぜ一ノ池が無いのか。

下巻のカヴァーの要約は次のようになっている。

 風里が暮らす古い一軒家には悲しい記憶が眠っていた。高名な書家・村
 上紀重とその娘・葉、葉と恋仲になる若き天才建築家・古澤響、過去の
 出来事が浮かびあがるうち、風里にも新たな試練が。風里は人々の想い
 をほどき、試練を乗り越えることができるのか――。

ストーリーはミステリのようでもあり、幻想文学風にも読めたりする。だからあまり書いてしまうとファースト・インプレッションを減殺することになるかもしれないので感想だけを述べることにする。

書家と建築家とその周囲に集まる人々の葛藤。しかし書家は文字の原初形態のような、文字であって文字でないような込み入った線のつらなりを残して死んでしまう。建築家はこの世に存在できないような出入口の無い家の設計図を書いて死んでしまう。そしてその葛藤と糸のもつれは子孫に引き継がれる。
そうした才能に較べれば、風里は何も持っていないようにみえる。だがもしこれをRPGと仮定するのならば、風里は刺繍という類いまれな武具を持っていたのだ。

高名な親を持った子どもは、親の才能を乗り越えられないために絶望するが、風里はごく平凡な家庭の娘である。だが子どもの頃、何気なくはじめた風里の刺繍は地味ながら緻密で、すぐに母親の技倆を超え、母は風里に道具を揃えてくれた。そして趣味だった刺繍は見出されて次第に仕事となってゆく。

刺繍の糸は、しかしもつれた人間関係のメタファーでもあり、そして解説でも指摘されているようにDNAの構造をも示している。
人間は必ず死ぬが、DNAはずっと継続して生き延びてゆく。生物学者は 「人間とはDNAの乗り物」 であり、DNAが次々と新しい乗り物に乗り換えてゆくために人間は死ぬのだ、とまで言い切るが、そこまでシニカルに考えなくても、遺伝というシステムの中に過去の記憶が残るのだとするのならば、人間は永久に死なないのだ。

風里は 「夢見」 かもしれないと言われる。風里の親戚には、もう亡くなっているのだが珠子おばさんという 「夢見」 がいて、風里はそのことを母から聞く。そして風里の夢に珠子おばさんが現れる。とじこめられた人を救出するにはその夢を開封して、もつれた糸をほどかなくてはならない。それができるのは、糸をほどくことのできる器用な人だけなのだという。つまり風里はジェダイのような能力者なのだ。

「葉」 という名前も 「睡蓮」 という名の奇妙なかたちの椅子も、風里が最初に刺繍した 「テッセン」 のハンカチも、すべては植物であり、植物は弱いように見えて、実は強い。それはほんの数行で語られる奏の性的描写の中に克明にあらわれる。
そして、書も建築も刺繍も陶芸も、この話に描かれているすべてはアナログな手仕事で、コンピューターは介在していない (たぶん描かれている時代には、まだコンピューターによる建築設計は存在しない)。そのアナログさと潔癖さが心地よい。

古い家の佇まいや、いつもは無いはずの離れに行く道が存在するのはトトロのようだし、幻想の草原のイメージはナウシカのようであるが、そもそもジブリの設定そのものが過去の児童文学や幻想文学等に見られるステロタイプのヴァリエーションでもあるのだ。
風里の家の近くにあった井戸は一種のタイムトンネルのようでもあり、一通の空封筒が時の流れを行き来する。井戸はまた、不思議の国のアリスであり、底の水面に映る顔は井筒である。しかしそこで描かれるのは 「おいにけらしな」 「おいにけるぞや」 と呼び交わす老いの悲哀の影ではなく、少女の頃の葉によって体現される未来への若いいのちである。
そうしたメタファーとラストシーンから類推すれば、この小説の読後感は明るい。


ほしおさなえ/三ノ池植物園標本室 上 (筑摩書房)
三ノ池植物園標本室 上 眠る草原 (ちくま文庫)




ほしおさなえ/三ノ池植物園標本室 下 (筑摩書房)
三ノ池植物園標本室 下 睡蓮の椅子 (ちくま文庫)




nice!(90)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽

100分de名著『赤毛のアン』を読む [本]

LMMontgomery1935_190107.jpg
Lucy Maud Montgomery, 1935 (wikipediaより)

NHK《100分de名著》という番組のテキストについて、以前、ハンナ・アーレントの回について書いたことがあるが、今回はモンゴメリの 「赤毛のアン」 である。2018年10月に放送された番組用のテキストで講師は茂木健一郎、その意外さに引かれて読んでみた。このテキストは入門用として便利なのだが、実は放送自体はまだ観たことがない。録画しておけばよいのだが、いつも忘れてしまう。

とりあげられているのはアン・シリーズの第1作『赤毛のアン』(Anne of Green Gables, 1909) である。原タイトル 「グリーンゲイブルズのアン」 がなぜ 「赤毛のアン」 になったのかはNHKの朝ドラでも説明されていたので繰り返さないが、タイトルが 「グリーンゲイブルズのアン」 だったらこんなに有名な作品にはならなかっただろう。もしも映画《アナと雪の女王》が《Frozen》のままだったら、という仮定と同じである。

茂木健一郎の『赤毛のアン』の読書遍歴が述べられているが、それを読むと彼がとても熱心にアンを読んでいたことがわかり、「意外な」 という先入観がどんどん消えて行くのが実感できる。彼が最初にアンを読んだのは小学校5年生のときだそうだが、

 ある日、図書館の書棚を眺めていて、『赤毛のアン』の背表紙だけがぱ
 っと輝いているように見えて、導かれるように手を伸ばしたのです。お
 もしろいかおもしろくないかまだ判断できないはずなのに、読む前から
 惹きつけられる本というのがたまにありますね。脳科学者としては、そ
 こで神秘的な解釈はしませんが、僕にとってはそういう数少ない貴重な
 本です。(p.6)

だが読んだあと、すぐに傑作だと思ったわけではない、とも書く。惹きこまれたのだけれどその理由がわからない、なぜなのかというのである。
私は茂木健一郎とは違って脳科学者ではないから、安易に神秘的な解釈をしてしまうほうなのだが、本がこちらを呼ぶことはよくある。書店で本を見ていても、視覚の隅になにか異常な微動のようなものがあって、その方向に視線を転じるとタイトルの羅列のなかにひとつだけ光っている本があるのである。しかもそいつは、かならず 「買ってくれ!」 と言うのだ。仕方がないので買うことにする。ぼんやりしているときのほうが、この呼び込みに引っかかりやすい。でも 「買ってくれ!」 という本は自分に自信のある本だろうから、そんなにハズレは無い。

茂木の解説のなかで一番面白かったのはクオリアという概念である。
それはピクニックに行ってアイスクリームを食べられるかどうか、という場面の説明なのだが、マリラの持っていた紫水晶のブローチが行方不明になり、マリラはアンを疑うのだが、アンは正直に白状すればピクニックに行けるかもしれないと思って、外に持ち出して湖に落としてしまったというウソをつく。ところがかえってマリラの怒りを買ってピクニックに行くことを禁止されてしまうのだが、実はマリラの勘違いでブローチは出てくる。そこであわててアンをピクニックに行かせるというエピソードである。
この湖で遊んでいたというアンのウソの話のなかで、また例によって 「コーデリア姫ごっこ」 という言葉が出てきて、アンはコーデリアにご執心なのだと読んでいてかなり笑ってしまうのだが (アンはマリラと初対面のとき、名前を聞かれて、コーデリアと呼んで欲しいというのだ)、そんなにしてウソをついてまでピクニックに行きたいと願うのは、そこで未知の食べ物であるアイスクリームが食べられるということにあるのだ。
ピクニックにどうしても行きたい、なぜならアイスクリームが食べられるから。そのことをアンはダイアナから聞くのだが、でもアイスクリームというものがどうしてもイメージできない (当時、アイスクリームは稀少な食べ物であった)。

 アンは、「どんなものかダイアナは説明しようとするんだけれど、アイ
 スクリームって、どうも想像以上のものらしいわ」 とも言います。(p.54)

この、「アイスクリームを食べるということは実際に体験しなければ理解することができない」 というようなことをクオリアというのだと茂木は解説する。「人が感覚的・主観的に感じたり経験したりすることで得られる独特な〈質感〉を表す概念」 と注釈で説明されている。そして、そうしたことをアンが、さりげなく語ってしまうことが 「生きることの真実」 なのだともいうのだ。

もうひとつ、アンの思考の特質として茂木が挙げるのが、マイナスをプラスに変えてしまう転換作業の解説である。

 人間の脳の働きから考えると、次のようなことが言えます。「エマージェ
 ンシー (emergency)」 (=危機) から 「エマージェンス (emergence)」
 (=創発) が生まれる。アンが孤児院へ逆戻りする運命だと知った時に
 「コーデリアと呼んでください」 と言い出したり、リンド夫人への謝罪に
 行く途中で突然うきうきし始める様子を見ると、まさにこれだと思いま
 す。脳において情動反応の処理を司っているのは扁桃体ですが、好悪・
 快不快といった感情は表裏一体のものなので、ちょっと見方を変えるこ
 とで、マイナスの感情をプラスに変えることができるのです。(p.44)

現実に嫌なことは数多くあるけれど、それを乗り越えるための力が 「想像力」 であるというのだ。scope for imagination という言葉がアンのパワーの元であり、想像力を働かせる余地があるのならば、それを自分にとってプラスの方向へと変えられる可能性があるからだという。だがそれは幼くして全てを失ってしまったアンだったからこそできたので、とも説く。
アンの方法論と志向性は極端だが、決してあきらめないこと、常にその時点で最善の方法を模索して自分を変化させていくことは、とても単純かもしれないが、シリアスな人生の指針である。

emergencyとemergenceという対比する概念と同様な例として、passionという言葉の二重性も挙げられている。

 「情熱」 と 「受難」 は、英語では同じ言葉、パッション (passion) です。
 アンのギルバートに対する情熱は、最初の出会いが不幸だったという受
 難によってこそ育まれたのかもしれません。(p.77)

そして茂木は、アンがマシュウとマリラに育てられることによって変わっていっただけでなく、アンが2人に対して影響を与えて、アンと同じように2人も変化していった、もっといえば成長していった、それがヒューマニズムのもとなのだという。アンはインフルエンサーであり、そしてこの小説自体は一種の教養小説 (Bildungsroman) であるとするが、この相互的影響力の指摘が最もこの小説の本質をつく部分である。

 マシュウとマリラは、自分たちの役に立つように、男の子を引き取ろう
 とした。ところが、マシュウの発想が転換して、自分たちがアンの役に
 立つことができるのではないか、と思うようになる。これは非常に深い
 ヒューマニズムだと思います。マシュウは、アンと出会うことによって、
 確かに人間として成長しているのです。(p.35)

こうした茂木の解説から私が受けた印象は、その物語自体が幾らでも深く読み込めるということだけでなく、言葉 (言語) というものが持つ本来の強さについて語っているということにまで敷衍して考えることができる。アンの言葉は単純なイマジネーションの増幅作業ではないということ、そこに何らかの芯がなければそれは単なる夢物語だが、強い芯があるからこそ、どんな想像力の翼があってもそれは強風に負けないだけのパワーがあるということの示唆である。

表紙の 「夢は終わり、人生がはじまる。」 というキャッチは重い。アンが大学に行くことをあきらめてマリラと暮らすことを選ぶことを示しているのだが、つまり夢と人生は対比する概念なのだということがここに現れている。

尚、茂木の解説のなかに、古い時代のエピソードとはいえ、児童文学を juvenile と表現している説明があった。juvenileは近年、使わない言葉のように聞いていたが、そんなことはないというふうに捉えてもよいのに違いないと、少し溜飲が下がった次第である。語彙の貧困と狭窄はどの言語にも共通する問題のように思える。


100分de名著・赤毛のアン (NHK出版)
モンゴメリ『赤毛のアン』 2018年10月 (100分 de 名著)

nice!(89)  コメント(10) 
共通テーマ:音楽

錦見映理子『リトルガールズ』を読む [本]

nishikimi_cover4_181213.jpg

『リトルガールズ』に出てくる大崎先生のインパクトは絶大である。大崎先生は中学校の家庭科の非常勤講師で55歳。ある日、それは授業参観日なのだが、突然、ピンクのひらひらしたディオールのワンピースを着て教壇に立つ。
小太りで、地味な服しか着ていなかった彼女の変身に皆、騒然とする。あだ名をつけられ陰口を言われる。でも彼女は屈しない。いままで着たいと思っていた服を着ていなかっただけに過ぎないのだから。何を着たって勝手、何を言われても構わない、と思うのだ。
本の紹介記事で篠原かをりはこう書く。

 服とブスを巡る問題は、根深い。ブスでないと許されない着こなしなん
 て聞かないが、美人でないと着てはならないとされるものは多い。ピン
 クだったりフリルやレースが使われていたりする可愛いものや、派手だ
 ったり、露出が多いものも。逆にブスに許されているのは、黒や茶の目
 立たない服である。極力自然物に擬態していろとでもいうのだろうか。
 本当は法律の範囲内で 「着ている」 という事実があれば、それで十分な
 はずなのに、勝手にルールを定めてそこから外れた人間は糾弾しても良
 いとされている。

そう書くのは篠原自身が選んで着た服を非難されたという経験からなのである。そして篠原はこうしたメソッドを 「現代の冠位十二階」 だと指摘するが、ほどほどにとか、失礼のないようにとか、意味もなくTPOがどうとか、他人の着るものに対して似合うとか似合わないとか主観的判断でインネンをつけ、ヒエラルキーを作り上げ、それに合致しない者を排除しようとする行為、これは昔からずっと続いている陰険な差別意識に他ならない。

ところがその大崎先生に美を見出す人が出現する。それは産休になった教師のかわりにやって来た猿渡という美術の教師で、一瞬にして大崎先生に美を感じ、自分の描く絵のモデルになって欲しいと繰り返し迫るのだ。
その依頼を最初はふざけているのだろう、からかっているのだろうと斥けていた大崎先生だったが、猿渡の真剣さにだんだんと頑なさが崩れてゆく。

だがこの小説の主人公は中学一年生の沢口桃香である。桃香は杏梨と仲がよいが、やや近寄りがたい雰囲気のある浅羽小夜が気になっている。瀬波勇輝は桃香のマンションのむかいの警察官舎に住んでいて、桃香と幼なじみである。
勇輝は桃香の誕生日プレゼントを何にしようかと思って、小夜に相談する。そして手芸の得意な小夜に教えてもらいながらポーチを作るうちに手芸にハマッてしまう。
一方、絵を描くことが好きな桃香は小夜に頼んでモデルになってもらうが、小夜が桃香に対して好意以上の恋愛感情を抱いていることを知る。

桃香の母親である夕実はアパレルのセレクトショップを経営していて、不動産業をしている夫 (つまり桃香の父親) の行人とは理想的な夫婦のように見える。だが夕実には恋人がいて、桃香の父親は行人ではなく、その恋人である早瀬らしい。そして夕実の店の上客のひとりが大崎先生なのである。

やがて大崎先生は猿渡の依頼に根負けして彼の絵のモデルになるが、猿渡は学校の美術準備室にも自作のヌードの絵をたくさん陳列していて、そのうちに私はヌードにされるのではないかと危惧する。ところが猿渡にはルイ子という恋人がいて、彼女は彫刻をやっているのだが、猿渡が妙な絵を描くようになったことから彼の動向を詮索し、そのモデルが大崎先生であることをつきとめる。ルイ子は猿渡と大崎先生の関係に嫉妬するが、彼女も大崎先生の美に目覚めてモデルの取り合いとなる。

というようなストーリーなのだが、簡単にいうと3つの三角関係のようなものが成り立つ。大崎先生・猿渡・ルイ子と桃香・勇輝・小夜、そして優美・行人・早瀬の3組である。これらの関係性はちょっと見ると複雑そうなのだが、それを簡単に読者に理解できるように読ませてしまう作者の筆力が冴えている。
大崎先生は冒頭にすごいインパクトで登場して、その後、ストーリーのなかに溶け込んでしまうように見えながら最後にやはり強い印象を残してくる。生徒から 「ピンクばばあ」 とか 「エロばばあ」 と言われながら決してそうではないのだ。
小夜が桃香のことを同性愛のように思っているのとか、その2人の間に立つ勇輝が、結局サッカー部を辞めて手芸部員になってしまうあたりは、ちょっとした少女マンガ的テイストな感じがする。
芸能関係を目指している杏梨は演劇部に属していて、文化祭でチェーホフを演じるのだが、その後、それぞれの未来への道はどんどん分化して変質してゆく。つまり桃香、小夜、杏梨は三人姉妹なのだ。

だがそれぞれに皆、力強いしたくましい。大崎先生も猿渡も、暗い印象を持たれてしまう小夜も、そしてそうした人々に翻弄される主人公の桃香も、悩んだり迷ったりしながらも芯がある。小説全体はライトな感じで簡単に読めるのだけれど、芸術とはなにかという隠された問いの意味は意外に深い。


錦見映理子/リトルガールズ (筑摩書房)
リトルガールズ (単行本)

nice!(76)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

まだらの腕 ― 深緑野分『ベルリンは晴れているか』を読む [本]

fukamidori_berlin_181012.jpg

読みながら最初に思い出したのはフルトヴェングラーがハーケンクロイツの下でワーグナーを指揮している映像だった。芸術が歪んだ目的に利用された好例であり、一見整然とした演奏会のようでありながら、その時代の恐ろしさを垣間見せる映像。
『ベルリンは晴れているか』は戦後すぐのベルリンを舞台にした物語。その間に幕間として戦時中の主人公のクロニクルな過去が挟まれる。冒頭から全く弛緩の無い展開にどんどん引き込まれる。ほんの少しの時間でも読み進めたい小説というのは滅多にないが、その滅多にないような小説を久しぶりに読んだ気がする。
『ベルリンは晴れているか』というタイトルはルネ・クレマンの《パリは燃えているか》を連想させるが、内容はヘヴィであり、冷静にナチスの恐怖政治とその後の疲弊した混乱のベルリンを描いている。

以下に出版社のサイトにある簡単なあらすじを引用する。

 1945年7月。ナチス・ドイツが戦争に敗れ米ソ英仏の4ヵ国統治下にお
 かれたベルリン。ソ連と西側諸国が対立しつつある状況下で、ドイツ人
 少女アウグステの恩人にあたる男が、ソ連領域で米国製の歯磨き粉に含
 まれた毒により不審な死を遂げる。米国の兵員食堂で働くアウグステは
 疑いの目を向けられつつ、彼の甥に訃報を伝えるべく旅立つ。しかしな
 ぜか陽気な泥棒を道連れにする羽目になり――ふたりはそれぞれの思惑
 を胸に、荒廃した街を歩きはじめる。

ミステリ仕立てになっているが、基本的には歴史小説的であり、ミステリではないと私は思う。あえてミステリだとするならばその手法は、ある有名なミステリ作品のプロットに似ている (この本をすでに読んだ人はコメント欄等でそれをバラさないように)。そしてドイツの戦中戦後の歴史を非常によく調べているのがわかるし、あまりにもドキュメンタリー風に読めてしまう部分があって、読み進めるのを躊躇うほどである。日本人作家がここまでドイツの歴史を読み込んで書けるのか、ということに対しては逆に、ドイツ人でなかったからこそ書けた、書いてしまえたという論理が成立するのだと思う。

ストーリーの中で重要な役目を果たしているのは黄色い1冊の本で、それはエーリッヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』(Emil und die Detektive, 1929) の英訳本である。主人公の少女アウグステが英語を学ぶきっかけとなった本であり、アウグステの手から本は何度も失われるが奇跡的に戻ってくる。それだけでなくケストナーがナチスの時代には焚書の対象であったこと、そして焚書の対象から免れていた児童文学である『エーミールと探偵たち』がベルリンを舞台とした物語であることなど、幾つもの意味がその本に籠められている。
不良の少年たちと出会い、木炭車で移動したり、無理矢理カエルを食べさせられたりする場面は、まさに児童文学的なワクワク感に満ちているのだが、その輝きは一瞬のことで、すぐに暗い現実がのしかかる。

また固有名詞として、ジードルング (1920年代にドイツで建築された集合住宅)、フラクトゥーア (ナチス時代に好まれた飾り文字)、ユンクメーデルブント (少女団)、レーパーバーン (公認売春街) など、興味深い言葉に惹かれる。

ナチスが行ったこと、そしてドイツ人に対しての指摘と断罪は、NKVD (ソ連の秘密警察) のドブリギン大尉の言葉に端的に表れている。

 大尉はにやりと唇を歪ませ、紫煙を吐いた。
 「フロイライン、あなたも苦しんだのでしょう。しかし忘れないで頂き
 たいのは、これはあなた方ドイツ人がはじめた戦争だということです。
 “善きドイツ人”? ただの民間人? 関係ありません。まだ『まさかこ
 んな事態になるとは予想しなかった』と言いますか? 自分の国が悪に
 暴走するのを止められなかったのは、あなた方全員の責任です」 (p.239)

深緑野分とマライ・メントラインの対談の中で、メントラインは次のように語っている。

 日本人が戦争を考えるときにドイツに価値がある点は、日本がただでさ
 えグレーなものをよりグレーにして曖昧にしてきたのに対して、ドイツ
 の場合はアウシュヴィッツを見てもわかるように、言い訳のきかない極
 端なことを現実にやってしまったことにあると思います。
 (ちくま/2018年10月号。以下同)

曖昧にしてきたことというのは端的に言ってしまえば、A級戦犯に全ての罪を押しつけ、われわれ国民は被害者だったという日本人の言い訳に対しての否定である。それに関連してブルンヒルデ・ボムゼルの《ゲッベルズと私》の映画に対しても言及しているのだが (ボムゼルはゲッベルズの秘書だったが、そのインタヴューで 「ホロコーストに関しては知らなかった」 と述べたという)、メントラインは、

 どうも日本では映画で描かれたボムゼルさんはちょっと可哀想という捉
 えられ方だったらしいけど、私から見てそれはありえないですね。日本
 だと大学教授でも浪花節的な同情論に染まってしまうイメージがありま
 す。ドイツのインテリ層はそれがなくて 「なぜこの人は平気で矛盾した
 ことを言うんだろう」 と考える。

これに対して深緑は、やはり自分も日本人的な思考をしていて、「“理解ができるのでは” というところから入ってしまい、「この人は何が悪かったのか」 みたいな分析より理解を優先させ」 てしまうと応じているのだが、これに対してメントラインは 「分析から入るとSFになって、例えばP・K・ディックの『高い城の男』でナチス幹部を 「こいつらの本質はこうだ」 と並べて説明する感じになってしまいがちな気がする」 と言う。
ボムゼルの述懐のドキュメンタリーと、ハンナ・アーレントが最近再認識され、たとえば『イエルサレムのアイヒマン』が再版されているのには関連性が存在するように思う。そしてメントラインの、分析的な手法の限界という指摘は鋭い。
だが、偉そうなことを言っていたドブリギン大尉には彼なりの野心があって、結局彼は粛清されてしまうのだが、それはソヴィエト (=ロシア) という国のメタファーでもあり、ナチスとは異なった意味での恐怖政治が存在していることは自明である。

『ベルリンは晴れているか』では単にナチスの対ユダヤ人政策、つまり人種差別だけでなく、男性優位な思想、障碍者や同性愛者への差別なども描かれていて、そのどれもが過去のドイツの戦争で起こったことだと過去形で語るだけではその本質を理解したことにはならない。それは現代にも同様に通用している真正の鏡のようでもある。


深緑野分/ベルリンは晴れているか (筑摩書房)
ベルリンは晴れているか (単行本)

nice!(86)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

褪せたジーンズのように ― 音楽で読む『限りなく透明に近いブルー』 [本]

murakamiryu_180829.jpg

その古書店は照明が暗くて、どこまでが売り物の本であるのか、書棚に収まっている本とそこからはみ出して雑然と床に積み上げてしまっている本が混然としていて、しかも並んでいるのは古い本ばかりで時間を遡っているような錯覚に陥りそうになる。焼けた紙色の村上龍『限りなく透明に近いブルー』を見つけた。背文字も焼けているが1976年の初版だった。
確か文庫本で読んだことはあるが、それも随分過去のことでほとんど忘れているし、読んでいたときもよくわからなかったような記憶がある。でもせっかくだから再読してみた。

とてもクリアな文章。キャラクターが明快に書き分けられていて、誰が喋っているのかわからないというようなことがない。過去に読んだときよくわからなかったのは、私の読解力がまだ無かった頃だったからに違いない。若い頃は読書スピードだけはあったが、読み飛ばすだけで解釈能力が無かったのだ。
『限りなく透明に近いブルー』はドラッグとセックスの日々を描いているのだが、ドラッグの影響から広がる幻想の描き方が鮮明で、つまりそれがクリアという印象になったのだといえる。主人公はリュウという名前で作者本人のように思えてしまうが、作者は作者であり主人公とは異なる位置にいて、その冷静な描写力が尋常ではない。タイトルの 「限りなく透明に近いブルー」 という言葉が出現してくる個所もカッコいい。
この作品は村上龍の処女作であり、この作品で彼は芥川賞を受賞した。その当時、こうした背徳的な内容でありながら賞を与えざるをえなかったのは当然であるし、また、反対した選考委員がいたことも納得できる。

作品内に出てくる音楽に注目して読んでいった。
アルバム・タイトルがはっきりと出てくる音楽はそんなに無い。ドアーズの《The Soft Parade》(1969/p.22)、イッツ・ア・ビューティフル・デイの《It’s a Beautiful Day》(1969/p.33)、マル・ウォルドロンの《Left Alone》(1960/p.42)、ローリング・ストーンズの《Sticky Fingers》(1971/p.42)、オシビサの《Osibisa》(1971/p.64)、バーズの《Mr.Tambourine Man》(1965/p.148, 但し、ファーストアルバムと書かれているだけでアルバムタイトルは明記されていない) である。
曲名が出てくるのはストーンズの〈タイム・イズ・オン・マイ・サイド〉(Time Is on My Side, 1964/p.30)、〈いそしぎ〉(The Shadow of Your Smile, 1965/p.35)、〈黒いオルフェ〉(Manhã de Carnaval, 1959/p.60)、〈ミー・アンド・ボビーマギー〉(Me and Bobby McGee, 1969/p.121, 村上はボギーマギーと書いている。クリス・クリストファーソン、フレッド・フォスターが1969年に書いた曲だが、村上が想定しているのはおそらくジャニス・ジョプリンの歌だ。アルバム《Pearl》(1971) 所収)、〈水晶の舟〉(Crystal Ships, 1967/p.128, ドアーズの1st《The Doors》所収。村上は水晶の船と書いている)、〈ドミノ〉(Domino, 1970/p.183, ヴァン・モリソンの4th《His band and the Street Choir》所収) である。

クラシック音楽でタイトルが出てくる曲は全くない。曲そのものが聞こえることもなく、作曲者名が出てくるだけである。シューベルト (p.80)、ブラームス (p.97)、シューマン (p.128) しかない。主人公などがクラシックを学んでいたことが仄めかされるが具体的な言及はない。クラシックはこの小説には不要と考えたのだろう。

ロックでは他に、映画《ウッドストック》(1970) でのジミ・ヘンドリックスが凄かったということや、パーティーに踏み込まれて連れて行かれた警察で、若い警官がレッド・ツェッペリンのファンだったことなどが語られている。アルバムは1stの《Led Zeppelin I》(1969) から《Led Zeppelin III》(1970) までが発売されていた。
だがこの小説の登場人物たちが熱心に聴いているのは、ストーンズとドアーズである。ビートルズは全く出て来ないし、日本のグループサウンズを非難している個所もある (p.123)。つまりとてもわかりやすい。今ほど音楽は多様化されておらず、音楽に対する標準的な常識というかコンセンサスが存在していたように思えるからである。こうした若者たちは誰でもストーンズやドアーズがどういうものだか知っていたし、その反応も悪くいえばステロタイプであり、もっといえば素朴であった。この時代の若者の一面を映す風俗小説なのである。

この本が出版されたのが1976年。村上龍は当時24歳であり、主人公のリュウは19歳と設定されているから、5年前は1971年であり、ストーンズの《Sticky Fingers》(1971) が出たばかりという事実と合致する。それゆえに作者=主人公であり、この話は実話だと指摘する批評もあるが、そんなことはどうでもいい。

2018年の今、価値観は多様化し、音楽も小説も、すべてはバラバラで、共通認識を持てるものはほとんど存在しない。そして文化は、もしそれが文化として分類されるのだとしたならばなのだが、スマホであったりゲームであったりする。
音楽は、たとえばヒットチャート番組は曲全部を流さない。全部流していると飽きられてしまうのである。何事も短く、さらに短くすることが標準的であり、ツィッターやラインはその象徴である。
金原ひとみの『蛇にピアス』(2003) は、過去の福生と現代の渋谷、場所も時間も異なるにせよ、村上の時代に通底している。
だが、唐突だがたとえば最果タヒは、

 きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
 きみはきっと世界を嫌いでいい。
 そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。

と『夜空はいつでも最高密度の青色だ』の冒頭に書く。村上龍の時代と現代は、恋愛の様相が異なっているように見えながら実はそんなに変わってはいない。従属物に惑わされているだけで裸にすれば本質は同じだ。最果タヒが時として優しく暴力的であるところにも共通するなにかがある。
でも色に違いがある。「透明に近いブルー」 と 「最高密度の青色」。だが青は次第に色褪せる。色褪せるジーンズのように。

 Busted flat in Baton Rouge, Waiting for a train
 I was feeling near as faded as my jeans.
             ― Me and Bobby McGee


村上龍/限りなく透明に近いブルー (講談社)
新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)




Janis Joplin/Me and Bobby McGee
https://www.youtube.com/watch?v=N7hk-hI0JKw
nice!(74)  コメント(10) 
共通テーマ:音楽

知性が潰えるとき ― ル=グィンの追悼特集におもうこと [本]

LeGuin_180818.jpg
Ursula K. Le Guin (Hürriyet Daily Newsより)

この数日、急にしのぎやすくなってきたような気がする。兇悪な夏の力がやっとのことで衰え、夕空には三日月が浮かんで、金星が寄り添っている。空は秋だ。三日月は日々太り、半月となり、金星は少しずつ位置を変える。

『SFマガジン』8月号はアーシュラ・K・ル=グィンの追悼特集だった。小谷真理の追悼記事のなかで《letters to Tiptree》(Twelfth Planet Press) という本のあることを知った。ティプトリーに宛てた手紙という形式をとっているが、ティプトリーはすでに亡くなっているので、それは片道書簡的なトリビュートの集成に過ぎないのかもしれない。しかし、ル=グィンとティプトリーとは実際に手紙の往復があり、そしてティプトリーがその仮面を最初に脱ぎ捨てたのはル=グィンに対してであったのだという。
2人はともに知的な家庭のもとに生まれ、その作風がジェンダーを超越しているところも似ている。ティプトリーはゴシップの巣窟的メディアへの対処を含めてル=グィンに相談したが、ル=グィンは誠実に応答したという。SF界における最も重要な作家であるル=グィンとティプトリーにそうした交流のあったことに心が安らぐ。

当時、フェミニズムはまだその存在が成立しつつあるような時代で、ともするとそれは尖鋭で過激で攻撃性を帯びることがあった。しかしル=グィンはその頃から大人であった。攻撃に対する攻撃でなく、ウィットを持って、的確に下劣な悪意をかわすが、それには感情的な拒否反応でなく理性的な方法論が必要なのである。

アースシーの物語 (ゲド戦記) は当初3部作であり、ずっと時が経ってから後期3部作が追加された (それが開始されたのはティプトリーが亡くなって2年後であったという)。前期3部作における若きゲド、そしてテナーは一種のエリートであり、エリートゆえの高慢を持っていたという。それは作者であるル=グィンや、そしてティプトリーにも存在していた高慢さに他ならない。
テナーが名も無き者であったことは、フェミニズム成立以前の暗黒時代のメタファーであり、ブロンテ姉妹やヴァージニア・ウルフなどを通じて継続発展してきたジェンダー認識を反映させたことにあった。

しかし後期3部作において、ゲドは魔法の力を失うが、それはエリートの崩壊としてのメタファーでもあり、そうなったときのゲドや、そしてテナーは、不完全かもしれないがより深い人間性を帯びるのである。
魔法や巫女は幻想であり、自己中心的なエゴのメタファーであり、翻ってそれらは現在の電子的技術依存の世界を批判しているように私には思える。
インターネットは失敗であり、それは虚偽の再生産装置でしかなく、未来からこの時代を振り返ったとき、何の文化的痕跡をも残さない。残るのは巨大な虚無である。amazonが嫌いというル=グィンの言葉から (若島正の連載文にあり) 私はそうしたメッセージを感じ取る (ル=グィン自身は電子書籍自体を批判はしていないが)。

もっともル=グィンにしても前期3部作のとき、そうしたメッセージを包含させようと意識的に考えていたのではなかったのかもしれない。それはぼんやりとした暗喩であり、無意識に生成されたのかもしれない。しかし後期において、魔法が幻想であったこと、それはヴァーチャルであり 「真の力」 を持っていないこと、それゆえに偉大な魔法使いなど存在しないことに関してル=グィンは意識的である。魔法は男性中心世界のパワーの象徴であり、それはその後のジェンダー的認識から見ればすでに旧弊な発露であることに成り下がる。
魔法は無益なもののみに奉仕し、邪悪なものを生み出し、そして名も無きものを作り上げたのだ。巫女は傀儡に過ぎず、神秘性を煽ることは男性中心世界の方便である。都合の悪いことから目を逸らさせるために神秘が存在する。

とすれば東のさいはての島はあいかわらず神秘の国である。その島では、セクハラやパワハラがまかり通り、強欲と専横が支配し、かつてエコノミック・アニマルと呼ばれた形容は死に絶えているように見せかけながらいまだに健在であり、その名前を唱えることは揶揄とはならず羨望への言葉となる。伝説の彼方にあった黄金の国では経済のみが正義なのである。
知性の無いところに文化はなく、創造性も育たない。その結果、東のさいはての島は秩序が崩壊し腐敗が進んでいる。

ル=グィンから教えられたことは数多い。しかし信頼すべき知性は潰えてしまった。愚鈍な無知は知を食い荒らし、世界に跋扈する。無知性は常に知性を凌駕し、決して滅びることはないのである。


SFマガジン 2018年8月号 (早川書房)
SFマガジン 2018年 08 月号


nice!(71)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読む [本]

TobuKujaku_180805.jpg

この本を読みながら私が連想していたのはジョン・ディクスン・カーのことだった。カーはミステリの巨匠であり 「密室もの」 を得意とする作家である。「密室もの」 とは、誰も入れないカギのかかった部屋で殺人が起きた、どうやってそんな不可能なことが起きたのか、その謎を見事に解く探偵、というのが王道のパターンである。
しかしカーの場合、あまりにも不可能犯罪にこだわり過ぎるゆえに、提示した謎が完璧に解明されなかったり、曖昧なままに終わったりすることがある。そのようにときどき取りこぼしをしてしまうのも含めて、それがカーの魅力でもあるのだが、謎が全て解明され、伏線が全て回収されるのが本来のミステリの醍醐味である。

でも『飛ぶ孔雀』の場合はそうならない。あちこちに伏線というか、「手がかり」 のようなものが散在しているのだが、それはほとんどが何も解決されないし、思わせぶりな固有名詞は最後になっても何だったかわからない。つまりまるでカーのようなのである。だが、そうした読み方をすると流れを見失う。なぜならこれはミステリではなく幻想小説だからだ。すべては散らかったままで、どこにも収斂していかない (ように見える)。

だが、私がカーを連想したのは、もっと他の部分にあった。カーには『盲目の理髪師』(The Blind Barber, 1934) という作品があって、彼の著作の中ではあまり評価が高くないが、特徴としてファース (farce) な設定がある。ファースとは 「どたばた」 とか 「茶番」 という意味であるが、いわゆるお祭り騒ぎ的なシチュエーションであって、『盲目の理髪師』は代表的なファースの作品であるといってよい。それと同様の雰囲気が『飛ぶ孔雀』の前半部、「飛ぶ孔雀」 にも感じられる。
舞台となる大パーティは 「川中島Q庭園での夏の大寄せ」 というイヴェントであり、その喧噪の中で同時多発的に色々なことが起こるというのがファースを描こうとする作家の意図なのであるが、それが必ずしも読者にとらえきれるかどうかはわからない。なぜなら喧噪は愉悦よりも焦燥を感じさせることのほうが多いからだ。

ひとことで言ってしまえば、読みにくい小説である。それは構文が、いつものように、やや標準的な流れではないこと、加えて今回は非常に多くの体言止めがあり、それが文章にとりつきにくい印象を強くしている。しかしそうした人工的ともいえる技巧はすべて、あらかじめ意図されたものだといってよい。
あちこちに飛散する 「手がかり」 のような宝石は、多くがイミテーションであって (覆された宝石のような朝だ)、もっといえば忍者が撒いてゆく 「撒きびし」 のようなものなので、ひとつひとつにあまりかかわりあっていてはいけない。ぼんやりと読んでいくことによって、かえって全体像が見えてくるはずだ、と思う。

ネットの読書サイトに書き込まれている感想などを読むと 「よくわかりませんでしたので、もう一度読んでみたいと思います」 というようなコメントがあるが、それはリップサーヴィスであって、二度と読み返すことはないのではないかと思う。
夾雑物あるいは装飾音符が多過ぎるのだ。でもそれは 「めくらまし」 であって、多少飛ばしてでもどんどん読んでいく限り、そこにあらわれてくる印象は意外にシンプルであるはずだ。
もっとも私はそうした読み方をせず、ひとつひとつに目を留めて読んでいったので、はっきりいってへとへとである。というか、見事に作家の手玉にとられたのである。

『飛ぶ孔雀』は前半の 「I 飛ぶ孔雀」 と後半の 「II 不燃性について」 の2つに別れている。I の舞台は 「川中島Q庭園での夏の大寄せ」 が中心であり、メインの動物キャラは孔雀である。II の舞台は温湯設備を中心とした地下に広がる街 (のようなもの)、あるいは山の上にある 「頭骨ラボ」 と呼ばれる研究施設 (なのだが、そこはホテルのようでもある) であり、動物キャラは大蛇である。
動物キャラという呼び方はふざけているように思われるかもしれないが、確かにそれらは出現するけれど、実在感がなく必然性がないことにおいて、イメージ・キャラクター的な印象を持ってしまうのだ。それなのになぜ 「飛ぶ孔雀」 なのだろうか。と、このようにあらかじめ疑問を提起しておくのだが、その解法はないのだ。それがこの小説の作法だからである。

描かれているこの世界の中の最も重要な現象は、火が燃えにくいということである。

 シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。(p.7)

なぜ、どんな事故があったのかは説明されない。それはこの世界内における暗黙の既定事実なのである。火が燃えにくいので、調理もしにくい。だが、場所によって燃えやすい場所、燃えにくい場所が存在する。

登場人物たちはトエだったりタエだったり、あるいはミツだったりセツだったり、似た音が錯綜し印象に残りにくい。さらにはKだったりQだったりと完全に記号化され、読者が感情移入することを拒否している。Q自身も結婚式が済んでも、新妻がカエかタエかナエか思い出せない (p.133)。全ては作者のチェスの駒に過ぎない。
Kという記号から、しかし読者はカフカの登場人物をイメージするが、Qは倉橋由美子の 「スミヤキストQ」 かもしれないと漠然と思う。

KとQはかわるがわる登場するが、後半になってこの世界がパラレルワールドらしきことが明かされる。

 これらの事象はすべてQの存在する側にのみ存在し、Kの側には存在し
 ない。(p.219)

そして、

 口辺に火傷跡のある犬のみ両側を自在に行き来するが、これも購う罪が
 ある。(p.219)

世界が重なっていることは犬があらわれると男がいなくなり、男があらわれると犬がいなくなるという描写ですでに暗示されている (p.34)。
だから単純に 「シブレ山の近くにシビレ山というのがある」 (p.33) のではなくて、「事故のとき、シブレ山が左右ふたつに増え」 (p.13) たのでもわかるように、世界はパラレルなのである。

ペリット (wikiに拠れば、鳥類学における用語で、鳥が食べたもののうち、消化されずに口から吐き出されたものを指す) は特徴的なガジェットであるが、ピンセットによる解剖というミクロなものの対比として、頭骨ラボが存在する。これは一種のアナロジーで、細胞レヴェルに於ける微細な構造と、巨大な世界の構造とに奇妙な相似が存在することに似ている。

後半の 「II 不燃性について」 は、断片的ながらもややストーリー性があるが、頭骨ラボのある山の上と、公営浴場・温水プールなどの施設のある地下との空間的な対比が形成されている。
火が燃えがたいものにもかかわらず、地下は温熱によって暖かく、そして湿潤なイメージがある。石などの無機物は畸形化し、次第に成長して巨大になってゆく。

ダクト屋のセツも、カスタマイズした路面電車を動かす運転士ミツも、女性は皆、たくましい。あるいはBやネズミのように不良少女風だ (ネズミと聞くと思い出してしまうのは村上春樹だが)。Bとネズミは反目しあうが、ネズミとは喫煙常習者を指す隠語でもあり、そして喫煙者狩りの巻き添えになってネズミは死ぬ (p.148)。旧型昇降機は落ちるべきして落ちたのだ、そしてネズミと私が呼んだ子は、結局、身元も名も不明、とBらしき女は言う (p.223)。

その世界は疲弊していて、無機物を中心とした変形や隆起にさらされ、人々は皆暴力的で猜疑心にこり固まっている。
だが、ストーリーが終わりに行くにしたがって、暴力性はそのままで、叙情的で感傷に満ちた風景に傾斜してゆく。

 このところしきりに眠たがる小娘はリと名のり、リツかリィかと何度聞
 き直してもリッ、と舌先で弾いて丸めるように発音した。どうにも呼び
 づらいまま名無しの小娘状態となっているのだったが、「あんたらダク
 ト屋仲間なのかね」 床に直接陣どったひとりが厭な目つきで問いかけて
 きて、Kと小娘を見比べたのちにふたつの買い物袋をじっと見つめるの
 だった。(p.221)

Kとリ、Qとリツの関係性は重層していながら少し違う。ここにもパラレルワールドが見られる。煙草屋が閉店してそこから飼い犬を引き取ったBは継母から罵られるが、その後に続く籠の中で泣きわめく赤ん坊といった情景 (p.137~138) から連想するのは『不思議の国のアリス』の公爵夫人だ。
とすれば、眠りたがるリは眠りネズミなのかもしれない。
KがいてQがいるのは、トランプの王と女王を暗示しているが (そしてそれはアリスの登場人物でもある)、ではJはどこにいるのかというと孔雀 (Q-Jack) の中に隠れている。「キング、クイーンそしてジャック」 はナボコフでもある。

 でもこれは夢、小娘は思うのだったが、(p.242)

とあるように小娘はアリスでもあるのだ。
いよいよ話も押し詰まる頃になって突然和風な風景が出現する。

 「――さん、あたしずっと待っていたのよ」
 電車の音が遠のくと声は再びひそひそと話しかけてきて、ごくごく微量
 の恐怖、今は身に迫るように濃厚な夜の川の気配と中洲一体のざわめく
 生活音が感じられ、退路はもはや存在しない。聞こえた声はどうもほん
 の稚い少女のそれであるような――むかし夜の河原に傷み放題でぎしぎ
 し軋む物干し場があって、出入り口の明るい窓障子がつねに閉じていた
 が、奥にはつまりこの六畳間と台所があったのか。ようやくKは心づき、
 今は呼ばれてここまで来たのだと無理なく納得されるのだった。(p.240)

この部分は演劇的ないしは映画的なイメージを喚起する。それは《泥の河》のようでもある。そしてこの描写は 「I 飛ぶ孔雀」 冒頭のシーンからの地続きである。

 下流に向けてどうどうと動いていく川の気配を全身で感じながら火箸を
 使っていると、いつものことだがまるで舟の艫 [とも] に座っているよ
 うだと思う。中洲の最南端に細く突き出たこの場所は、少しの増水でも
 真っ先に水没してしまう場所であるから、物干し場の構造は何度も濁水
 に浸かった挙句の傷み放題、床板は波打ち、七輪とトエのかるい重さに
 も耐え難いようだった。(p.7)

物干場の前のKとリのシーンは『銀河鉄道の夜』のパロディのように感じる。

 「兄さんもいっしょに」 吹き上げる強風のなか、青く発光する四人乗りゴ
 ンドラへ押し込まれながらリは懇願したが、腰の命綱で足場の手摺に固
 定された係員はKを押し戻した。「駄目だね。万能のチケットが通用する
 のはいつでもひとりだけだ」 (p.237)

これは最後のシーンに続く。

 「上から見たわ、電飾だらけの立派な電車が連なっていく通りを」 高揚
 のままに声を張って叫ぶと、「ぼくたちこれからそこへ行くんだよ」 応
 じる若々しい道連れたちは誰もが踊りの足拍子。「君は特別な乗車券を
 持っているんだね。一一五〇型なら、運転士が女なんだよ」 (p.242)

女運転士とはずっと不在だったミツである。そして 「万能のチケット」 「特別な乗車券」 とは『銀河鉄道の夜』のキーワードである。なぜここで『銀河鉄道の夜』が出現してくるのだろうか。銀河鉄道とは死への旅路に他ならない。

最後に先生と読者モグラの幻想の会話:
読モ 先生。読んではみたんですけれどむずかしくてよくわからなくて、読んでても眠くて眠くて。
先生 むずかしいって言ったって Finnegans Wake よりは簡単でしょ? 眠らないで Wake して読みなさい。でないとティーポットに押し込めちゃうよ。
読モ いと深くですね? えぇと、じゃ、ことらさんって何ですか。虫食い穴って異次元への穴ですよね。ことらさんが虫食い穴から出てくるんですか。空洞君っていうのもわかんないし。
先生 あなた、少しは自分の頭で考えなさいよ。そうゆうふうにすぐにSFっぽく考えるのはよくない。
読モ これって小説技法としても凝ってるし、ひょっとしてコルタサルへの挑戦って意味あいもあるんですか。136頁に 「植木鉢が転がる未舗装の地面には石蹴り遊びの図形がうっすら見える」 ってさりげなく書いてありますけど。
先生 コルタサルはシャッフルしてるだけじゃん。ジョン・ケージと同じよ。
読モ 肯定も否定もしませんね。でも幻魔団ってダサ過ぎませんか。
先生 ダサいのが時代性を現してるんじゃない。あまりナウい名前だったらおかしいでしょ。
読モ 先生、最近はナウいなんて言いません。227頁でフキエが 「あたしは混乱を招く者。あるいは災いを望む者」 って嘯くというシーンがありますが、ネルヴァルの Je suis le ténébreux のパロディですよね。
先生 あなた、フランス語で引用できるのはそこだけでしょ。
読モ われは冥き者、ってカッコいいですよね。あ、そうだ。今、思いついたんですけど。
先生 言ってみなさい。
読モ アリスっぽい雰囲気からすると、空洞君ってハンプティ・ダンプティじゃないんですか。つまりエンプティ。くだらな過ぎるダジャレですけど。だとすると双子はトゥイードルダムとトゥイードルディー。
先生 トリンドル玲奈なんて知らないわよ。
読モ 図星なんでしょ。ヒトデは海の星。彦星はアルタイル。
先生 よくわかんない。
読モ 籤は10枚と1枚で合計11枚。ってことはサッカークジなんですか。
先生 そこまでは気がつかなかった。ザブトン1枚。
読モ ザブトンありがとうございます。ついでですが先生あたし、サンダルを無くしたの。
先生 夏だからサンダルかよ。
(注:この会話はフィクションです。実在の人物とは関係ありません)


山尾悠子/飛ぶ孔雀 (文芸春秋)
飛ぶ孔雀


nice!(72)  コメント(6) 
共通テーマ:音楽

素敵なボーイフレンド — 結城昌治『夜の終る時』 [本]

yorunoowarutoki_180615.jpg

戦後ミステリのベストという惹句に引かれて結城昌治『夜の終る時』を読む。
結城昌治 (1927−1996) はミステリをはじめとして、広いジャンルの著作があるが、『夜の終る時』(1963) で日本推理作家協会賞を、そして『軍旗はためく下に』(1970) で直木賞を受賞している。

『夜の終る時』は日本における警察小説の嚆矢とのことだが、ちくま文庫版の編者・日下三蔵と作者自身との解説によれば、もともとアメリカに悪徳警官ものというジャンルがあって、それを意識して書かれた作品であること。そしてそのユニークさは、それまでの日本のミステリ系小説において警官とは正義の味方であったところに、そうではないキャラクターの警官や刑事を出現させたことなのである。
「もっとも腐敗しやすいのが権力」 であると結城は書いているが、その権力構造の典型的なかたちのひとつに警察組織があり、その中で必ず起きている腐敗を描いたとき、最もいきいきとするのは、近年のTVドラマ《相棒》で実証済みである。つまり『夜の終る時』は《相棒》の祖先のような作品である。
しかも解説によれば、西村京太郎の十津川警部ものより10年も前の作品であるとのことだ。

ただ、作品構造としてユニークなのは、長めの第一部と短い第二部とが全く違う手法で書かれていることで、第一部はオーソドクスな推理小説風、そして第二部が倒叙法による犯人の独白を主体としていることである。
第一部のはじめのほうは、ひとりの刑事が行方不明になってしまっていることから、ずっと不安な感じを持続させているのだが、はっきりいって少し重厚、というよりも単に動きののろい展開のようにも感じてしまう。でも文章に破綻がなく緻密な感じで読ませる。何人もの登場人物の登場のさせかたと扱いかたが上手い。そして事件が明確になることで俄然動きが起こり、ストーリーは意外な方向に向かって行く。

単純に第一部の書き方そのままで押し切ってもよかったのに、結城は第二部の手法をとりたかったのだろう。それがある意味、文学的であり、ややウェットでダークな印象を残す。話者の急な切替にもかかかわらず、それが自然につながって読めてしまうところに著者の筆力がある。

いわゆるミステリものについて、あまり内容を書いてしまうのはルールに反するので書かないが、それよりも面白かったのは、この1963年当時の風俗が読み取れるからであった。
その時代にはどのようなものあったか、とか、どういうものが流行していたのか、というようなことに目が行ってしまう。

もちろんその頃には携帯電話はないし、ポケベルさえない時代だから、刑事が警察に定期的に電話を入れるという方法きり連絡手段がない。その定時連絡が無いのはおかしい、ということから物語が始まっているのだ。それはこの時代だからこそできた設定なのである。

固有名詞にも時代が感じられる。刑事の乗る電車は国電だし、NETテレビとかいう名称が出てくるし、「ズベ公」 とか 「ぐれん隊」 のような、ほぼ死語なのではないかという言葉が使われている。死語ということでいえば、「ボーイ・フレンド」 という言葉も出てくるのだが、これも最近はまず使わない名詞なのではないだろうか。だからかえって新鮮である。
刑事にこの靴下はなぜあるのか、と問われて答える女の言葉にそれがある。

 「ボーイ・フレンドのよ。昨日の晩ここに泊まって、置いていったんだ
 わ」 (p.99/ページ数はちくま文庫版・以下同)

「ボーリング場」 の描写もあるのだが、たぶん当時は最先端の娯楽のひとつだったのではないだろうか。wikiによれば、ボウリングが爆発的に流行したのは1970年頃とあるが、それよりもかなり前だからである。
また、高級そうなバーの入り口のドアの描写に 「紫色をした一枚ガラスのドア」 (p.23) というのがあって、色ガラスのドアというのがその手の店の典型的なステイタスであったことがわかる。

有名な俳優が恐喝されて何度も金を脅し取っていたという話では、10万円、10万円、5万円、5万円と合計で30万円も取られたというのであるが、わざわざ脅しに来て渡した金が5万円なんて大変良心的な恐喝だ。当時の貨幣価値が今とは随分違うことがわかる。

この時代の日本の推理小説系の作品を見ると、たとえば松本清張『砂の器』が1961年、ハードボイルドの大藪春彦『蘇える金狼』が1964年というようにプリミティヴだがヴァイタリティのあった頃である。そして中井英夫の『虚無への供物』も1964年とある。どの作品にも時代的な古さは存在するのだろうが、それよりも物語性の強さが魅力を持続させているだろうと思う。


結城昌治 夜の終る時/熱い死角 (筑摩書房)
夜の終る時/熱い死角 (ちくま文庫)

nice!(71)  コメント(8) 
共通テーマ:音楽