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ハレのバッハ [音楽]

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バッハには20人の子どもがいたというのはよく知られた話だが、どうしてもそれは 「あんなにたくさんの曲を書いていながら、すごいなぁ」 という下世話な話題になってしまいがちだし、その子どもの人数の多さから21人目の子どもだというふれこみのP・D・Q・バッハというギャグまで生み出している。
実際にはバッハの20人の子どものうち、半分は子どものうちに亡くなっているのだが、残りの10人のうち、作曲家として名を成したのが4人いる。ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ、ヨハン・クリスティアン・バッハである。

この4人のうち最もすぐれていて、かつ有名なのはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ――いわゆるC・P・E・バッハであると思うのだが、それは父親の影響を受けながらもその書法を引き継ぐようなことはなく、彼独自の作品を生み出し、その後の世代であるベートーヴェンなどへの橋渡しをしたという業績にある。

でありながら、父バッハの存在があまりにも巨大過ぎるため、どうしてもバッハといえばJ・S・バッハだし、まだ知らない曲がたくさんあるのに息子の曲を聴くのもどうだろう、みたいなことで、意外にC・P・E・バッハへ興味を拡げることにためらいがある。
それをクリアするひとつのきっかけとなったのは武久源造の演奏であった。音はJ・S・バッハからの継続した流儀であり、つまりバロックの音構造であるように見せかけながらやがて微妙にバロックから離れ出す。そう感じたとき、それがC・P・E・バッハに対する興味なのか、武久源造という演奏家に対する興味なのかが私自身の中でも判然としなかったのだが、C・P・E・バッハはチェンバロを好まずクラヴィコードやフォルテピアノを想定して曲を書いたというのも、時代の流れによる楽器の変遷に対応したということだけでなく、脱バロックの意志を示しているように思う。
それゆえに現代ピアノで弾かれたC・P・E・バッハはすでに完全にバロックではなく、何かもっと次の違う次世代のものであるという確信に至るのである。

だが、そうしてお手軽にYouTubeを渉猟しているうちに、どんどん本来のテーマから逸れていくのが移り気というか愉しみでもあるのだが、バッハの4人の息子の中で、たぶん一番聴かれていないマイナーな人がヴィルヘルム・フリーデマン・バッハであるといっていいだろう。
wikipediaでもフリーデマン・バッハに対する記述はそんなに重きを置かれていないし、ja.wikiには曲のリストさえない。過保護で夢想家で虚栄心があり猜疑心があり人望がなくて、と、もうさんざんな書かれようである。晩年は職を捨て放浪の日々だったという記述まである。

そのフリーデマン・バッハのフルートのためのデュオを聴く。この編成の曲はFk54からFk59まで6曲が存在するが、下にリンクしたYouTubeの動画はf-mollのFk58であり、フルートとオーボエによるデュオで演奏されている。
ありふれた通俗な表現でいってしまえば、エマヌエル・バッハが太陽とするとフリーデマン・バッハは月である。エマヌエル・バッハのかっちりとした構成力と明快さがその特徴だとすれば、フリーデマン・バッハはもっとルーズで恣意的で気ままである。だがその中にかすかなひらめきと翳りとそして寂寥が存在している。悲しさといってもよい。だがその悲しさは何となくふわふわとしていて、その存在感そのものが稀薄である。
光があれば必ず影がある。兄弟とか姉妹というものは、不思議に必ず対照的な性格があらわれたりするが、それはバッハの息子たちの間でも当然のごとく、顕著である。それがキリスト教的にいえば神の摂理というものなのだろうか。
フリーデマン・バッハはそんな気持ちで、そんな意味あいでこの曲を書いたのではないかもしれない。だが意識下にあるイメージが何百年も経った曲の中に残ってしまうというのが、いわゆる音楽の魔のしるしなのである。


Sebastian Wittiber, José Luis Garcia Vegara/
Wilhelm Friedemann Bach: Duo Nr.6 in f-moll Fk58
https://www.youtube.com/watch?v=kw8EumF3zqo

武久源造/
C.P.E. Bach: 12 Variations auf die Folie d’Espagne Wq.118/9
https://www.youtube.com/watch?v=aBzkMRd6Em4

中川京子/C.P.E. Bach: Solfeggietto c-moll Wq.117
https://www.youtube.com/watch?v=Xm79mUVD_2I


Patrick Gallois, Kazunori Seo/
Wilhelm Friedemann Bach: Duets for Two Flutes (NAXOS)
W.F.バッハ:2本のフルートのための 二重奏曲集




Wilhelm Friedemann Bach Edition (Brilliant Classics)
BACH/ EDITION -BOX SET
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Laughter in the Dark ― 宇多田ヒカル [音楽]

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宇多田ヒカルの《Laughter in the Dark Tour 2018》は最初の予約段階であっという間に売り切れてしまった。さすがに発売日前にすでに売り切れというのはマズいと思ったのか、追加生産になったが、届くまで約1カ月。それより前にYouTubeを探していたら、ある程度upされていたのでそれを観ていた。

下にリンクしたのはそのライヴ映像の中の〈First Love〉(1999)、〈COLORS〉(2003)、〈SAKURAドロップス〉(2002) だが、どの曲もおそろしいほどの密度のライヴ映像であり、それぞれの楽曲の発表時とは異なった印象を受ける。歌唱が完璧であるだけでなく、歌詞の中に今まで気がつかなかった意味が読み取れてしまって、それは私が齢を重ねたことによって理解できるようになってきたからなのだと思うのだが、逆にいうと、宇多田が過去のその時点でこれだけの楽曲を作っていたということに驚くばかりだ。初期に作られた曲の内容が早熟過ぎて、やっと今、年齢が追いついてきたような気がする。

〈First Love〉を聴いていて思ったのは、これは尾崎豊の〈I LOVE YOU〉への一種のアンサーソングだということだ。尾崎の曲冒頭の

 I love you
 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ

に対する

 今はまだ悲しいlove song
 新しい歌うたえるまで

そのように思ったのは宇多田が〈I LOVE YOU〉のカヴァーを歌った映像を見たことが私の意識の底にあったのかもしれないが、でもこの2曲には何らかの共通性があるのを感じる。メロディが似ているとかではなく、全体のテイストから醸し出されるイメージ。これは今まで漫然と見過ごしていたことだ。ただ〈First Love〉が〈I LOVE YOU〉と決定的に違うのは、

 明日の今頃には
 あなたはどこにいるんだろう
 誰を想っているんだろう

と未来形で歌う個所である。実はそれは未来でなく過去のことで、そのことは (つまり恋は) すでに終わっているのに、なぜ未来の不確定なできごとのように歌うのか。繰り返される同じ個所を見るとそれはもっとよくわかる。

 明日の今頃には
 わたしはきっと泣いてる
 あなたを想ってるんだろう

きっと泣いているのだろうではなくて、もうすでに泣いてしまった後なのだ。それなのに明日泣くかもしれない、それはあなたを想っているからなのかもしれないというふうに未来形にしてボカす。その歌詞の書き方の深さに気付く。
というより実は、直接関係はないのだが、この前読んでいた鴻巣友季子の『翻訳ってなんだろう?』の中に、「過去の中の未来は訳しにくい」 という説明があって、そこからの連想が私に新しい視点を与えたのかもしれない。

〈COLORS〉の歌詞も明快なイメージでありながら抽象的でもあり、すべての色に陰翳を感じる。青、白、オレンジ、黒、赤と色を繰り出していながら、最後の色は不明である。それはもはや 「あなたの知らない色」 なのであり、そこに到達するまでにすでにキャンバスは塗り潰されていて、もう何の色でもないのだ。だから知らない色であり、それは 「灰色」 であり 「白黒のチェスボード」 であるような、最終的には虚脱した無彩色へと還ってゆく。
shelaに《COLORLESS》(2001) という私の愛聴アルバムがあって、白、赤、紫、オレンジ、セピアと色について歌った曲をまとめたときのアルバム名がcolorless、それは矛盾だけれど色が多く集まることによってその総体はかえって色彩を失うということをあらわしている。イメージとしては同じだ。

〈SAKURAドロップス〉もオリジナルのPVはどぎつい程の色彩に満ちていた。オリジナルPVの最初に出てくる格子柄でわかるようにそのイメージは伊藤若冲からの連想である。だがこのライヴ (Laughter in the Dark Tour) で歌われるこの曲は、もっとずっと色彩感がない。

 降り出した 夏の雨が涙の横を通った すーっと

は〈真夏の通り雨〉(2016) の

 愛してます 尚も深く
 降り止まぬ 真夏の通り雨

に通じる。だが〈SAKURAドロップス〉を宇多田が書いたのは2002年なのだ。だとすれば 「夏の雨が涙の横を通った」 という歌詞はまるで予言のように響いてくる (〈真夏の通り雨〉の収録されているアルバム《Fantôme》は母・藤圭子へのレクイエムだといわれる)。夏の雨はtearsでなくdropsなのだ。
「恋をして」 から始まるリフレインは3回あって、その後半部分を並べると、

 桜さえ 風の中で 揺れて やがて花を咲かすよ
 桜さえ 時の中で 揺れて やがて花を咲かすよ
 桜まで 風の中で 揺れて そっと君に手を伸ばすよ

3回目が 「桜さえ」 でなく 「桜まで」 になっていること。そして3回目の桜は単に花を咲かすのでなく、擬人化されていて 「手を伸ばす」 こと。その微妙な変化の違いは、「恋をして 終わりを告げ」 ることが、同じ言葉でありながら1回目と3回目では異なることをあらわしている。
その3回目のリフレインの直前の

 一回り しては戻り
 青い空をずっと手探り

では 「一回り」 「戻り」 「手探り」 と 「り」 の脚韻があるが、この曲の中での 「り」 は 「終わり」 の 「り」 でもあるのだ。桜色の中でたった一度だけ出てくる青い空の虚無感が胸に突き刺さる。
Laughter in the Dark Tourライヴの〈SAKURAドロップス〉の後半には、Prophet-6によるシークェンス・パターンを使った宇多田のキーボードのソロがある。

ネットを検索しているうちに小田和正と宇多田ヒカルによる動画を見つけた。ギター1本によるデュエット。透明なシンプルさのなかに歌が屹立する。


Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018 (SonyMusic)
https://www.yodobashi.com/product/100000009003133662/
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Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018
2018.12.09 幕張メッセ
First Love
https://www.youtube.com/watch?v=NuKluSrbHik

COLORS
https://www.youtube.com/watch?v=OutA_EstePs

SAKURAドロップス
https://www.youtube.com/watch?v=cTT6ExQUvts

     *

小田和正/宇多田ヒカル クリスマスの約束2016
2016.12.19 赤坂BLITZ

Automatic
https://muxiv.net/ja/mv/5427010

花束を君に
https://muxiv.net/ja/mv/5426011
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Candy ― ナット・キング・コール [音楽]

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Nat King Cole (wikipediaより)

〈ハーバー・ライツ〉という曲がなぜか気になって検索していた。この前読んだ小西康陽の本の中に、ラジオ関東で〈ポート・ジョッキー〉というケン田島の担当していた音楽番組があって、そのオープニングがビリー・ヴォーンの〈ハーバー・ライツ〉だったとのことだが (p.213)、もちろんその番組を聞いたことはない。だが〈ハーバー・ライツ〉という言葉から醸し出されるその時代の感じはなんとなくわかってしまう。
私にとっての検索の動機は、単純にハーバー・ライツという言葉が存在していて、それは私の幻想の中にあるひとつのきっかけでありトリガーであったのだが、それは説明すると長くなるし、ごく私的な回想なので、そんなことはどうでもいい。というより調べているうちに当初の目的が失われてしまって自分が何を目的として探しているのかがわからなくなる。
Herbour Lights はヴィルヘルム・グロシュ (Wilhelm Grosz, 1894-1939) の作曲したスタンダード・ナンバーであるが、この曲はヴィルヘルム・グロシュという名前ではなく、ヒュー・ウィリアムズ (Hugh Williams) として書かれた曲である。ヒューという名前から連想するのは『星の時計のLiddell』であるが、ビックス・バイダーベックは夭折したコルネット奏者である。そしてウラジーミルは元KGBの大統領ではなくウラジーミル・ナボコフのことである (バイダーベックについてはすでに書いた→2012年08月16日ブログ)。

ヒュー・ウィリアムズの曲には他に〈夕陽に赤い帆〉があって、この曲もかなり知られているスタンダードである。彼はウィーンの音楽家でもともとはクラシックの人であったが、ナチスを避けてアメリカに渡り、ポピュラーソング、映画音楽などに携わった。だが詳しいことは知らない。
〈ハーバー・ライツ〉は1937年にフランセス・ラングフォードのために書かれた曲である。この気怠い雰囲気がたまらない。戦前のアメリカのポピュラーソングの典型であり、音楽が最も輝いていた時期の頃だったのだろうと思う。
ラングフォードのオリジナル録音は、伴奏楽器のためもあるのかハワイアンなテイストもあるし、気怠さが顕著である。それは私が望んでいたハーバー・ライツという語感から来る肌寒さと孤独なイメージとは異なるものだが、何も考えなくてよい愉悦のFM番組の音のようでもあり、過去に浸るのにはこうした曲に限るのかもしれない。

だが〈夕陽に赤い帆〉(Red Sails In The Sunset) を聴こうとしているうちにナット・キング・コールに行き当たった。私はあまり歌ものを聴かないので、彼のアルバムは《After Midnight》しか持っていなかったように思うが (他にもあったかもしれないが忘れてしまっている)、歌だけでなくピアノの明快なスウィング感が伝わってくるアルバムである。
YouTubeにある彼の歌唱による〈アンフォゲタブル〉〈ルート66〉のような、よく知られている曲のどれを聴いても全く破綻がなくて安心して聴くことのできる歌手である。
オリジナルのLP《After Midnight》には入っていなかった曲がCDになってから追加され、トータルの曲数が多くなってしまうというのがこのアルバムにも見られるが、〈キャンディ〉(Candy) があるのに気がついた。

〈キャンディ〉はアレックス・クラマーの書いた曲で1944年に出されたとwikiにある。早速、ナット・キング・コールの〈キャンディ〉を聴いてみたのだが、ジョニー・マーサー、ジョー・スタッフォード、ポール・ウェストン&ザ・パイドパイパーズによる〈キャンディ〉もあって、この違いが面白い。
山中千尋が初めてヴァーヴからリリースした《Outside by the Swing》という2005年のアルバムは、澤野工房のときよりもやや肩に力が入っているなというのが最初の印象だったが、このアルバムの最後に、オマケのように、お遊びのように入れたピアニカによる〈キャンディ〉があって、これがとても心がなごむ。以前、この最後のトラックばかり聴いていたことがあるが、おそらく山中千尋にとっては本望ではない。


Nat King Cole/
The Complete After Midnight Sessions (Poll Winners)
The Complete After Midnight Se




Frances Langford/Harbor Lights
https://www.youtube.com/watch?v=SLeXA0FapcM

Nat King Cole/Red Sails In The Sunset
https://www.youtube.com/watch?v=HLQZZoAkdig

Nat King Cole/Unforgettable
https://www.youtube.com/watch?v=JFyuOEovTOE

Nat King Cole/Route 66
https://www.youtube.com/watch?v=dCYApJtsyd0

Nat King Cole Show Feat JATP/I Want To Be Happy
https://www.youtube.com/watch?v=CUD0QiD00hY


Nat King Cole/Candy
https://www.youtube.com/watch?v=MiUzwUGh--U

Johnny Mercer, Jo Stafford, Paul Weston
& The Pied Pipers/Candy
https://www.youtube.com/watch?v=6j6t2zcdkw0

山中千尋/Candy
https://www.youtube.com/watch?v=6sEf139WeU8
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aikoのまとめ [音楽]

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近くに古本などを扱うリサイクルショップがあって、以前は何軒かあったんですが、皆つぶれちゃって最近利用しているのは1軒のみ。でもその店は歩いて行ける距離にあります。それでこの前、小西康陽の本を読んだことを書いたんですけど、DJに使うためにはシングル盤がいいんだというお話で、う~んそうかシングル盤か、シングル盤ならいいんですね、とCDシングルを買ってみたけれど嵩張るばかりで、音楽はすぐ終わってしまいますよね。もちろん小西先生が言っているのはアナログのドーナツ盤のことで、こういうCDシングルのことじゃないんです。わかってないなぁ。

いや、これはつまりわかってるんだけどわかってないフリしてるだけで、単なるシャレです。CDシングルっていうのは一種のプロモーション用というか宣材のような気もする。しかも昔のシングルCDっていうのは、すごく小さい直径 (8cm) で、長方形のパッケージに入っていたけど、さすがに最近見かけません。あ、でも先日タワレコで安斉かれんというポスト・ギャル系みたいなデビュー盤を無料で配っていましたがこれは小さなCDで懐かしさを感じました。懐かしいとは言っても新品の8cmCDを新品で買ったことはないんですけど。それなのにノスタルジアを気取りたいのか、いまさらって感じもするけど、こうしたムリムリはプロモの仕掛けとしては楽しいのかもしれない。タイアップしてるM・A・Cとしてはベージュ系のリップが売れてた頃のブーム再来を狙ってるのかもしれないけれど、う~ん。

ところでシングルCDの話ですけれど、これも初回限定盤とかあるみたいで、それだとDVDが付いていたりその他のオマケが付いたりしてなかなか面白い。そのリサイクルショップで、たぶんコレクターの人が手放したのだろうと思われるPerfumeのシングルがあったので10枚くらい買いました。写真集とかシールとかもそのまま入っていて、ほとんど新品というか、うち2枚は未開封でした。うわ、オトナ買いだとは思うんですが、でも1枚180円。ちょっと高いかな。昔は50円か100円だったのにぃ。

で、その中古CDの中に、これはシングルCDではないんだけれど、aikoの《まとめ》というのが棚に並んでいて、さすがに180円ではなかったのですが、これはどうもベスト盤らしい、ふたつあってひとつは赤い箱、もうひとつは青い箱で、これも面白いかもしれないと思って買ってみたのですがホントに面白かったのです。
その面白かったことというのはベスト盤の曲の入っているほうのCDじゃなくて――あ、もちろん曲もあのぐにゃぐにゃ屈折するaiko特有のメロディラインで楽しめるのですが――オマケに付いてるCDのことで、「aikoのオールナイトニッポン」 というタイトルが付いています。オールナイトニッポンという深夜の番組があって、aikoはそれを担当していた時期があったそうなんですが、それの再録ではなくて新たに、あたかも番組のようにして収録した録音がこのCDということらしい。
ただ私には弱点があって、というのは私は深夜放送というのを知らない。深夜のAMでそういう放送があったということは知識としては知っているんですが、実際に聴いたことはほとんど無いに等しいんです。深夜放送というのは受験勉強を夜にやっていて、それをやりながらラジオ聴いていたらラジオのほうが面白くて、結局勉強できなかったというような話をよく聞きましたが、そもそも私はオバカで勉強しなかったので。で、深夜放送を知らないということもそうだし、駄菓子屋を知らないというのもそうだし、あと何かなぁ、知らないことっていうのはとことん知らないのです。まぁよくあることといえばよくあること。ずっと日常的な家並みの道を歩いてきたのにカドを曲がったらそこはずっと向こうまで無機質な白い塀が続いているだけで風景が欠落してしまったような軽いショック、みたいな意外性というのか、そういうのが人間の経験とか記憶の中にもきっとあるんじゃないかと思うのです。
ですからこういうフェイクな深夜放送みたいなのを聴いてもこれが果たしてその当時の再現なのか、それともちょっと違うんじゃないの、と思うのかが私には判断できなくて、それを実際に知っている人とそうではない人とでは受け取りかたにきっと差があるんだろうと思います。

その内容としては、aikoの曲もちょっとはかかるしジングルみたいなのもあるんだけど、でもほとんどはひとりで喋ってる。そのときBGMがかかってるわけではなくて、ただ喋っているだけのその背後にシンとしたスタジオの空気感が存在しているのが伝わってきて、その音にあらわされない空気感がよくて、これは夜っぽいなとも思いますし、オンエアという言い方をしますけど、あぁ、エアなんだ、つまり言葉が電波に乗って空気中を伝わってラジオで受信されるという魔法のようなシステムが実感できます。っていう素朴な感想がまるでオコチャマ。
(TVっていうのはたとえニュース番組でも常に背後がざわついていて、ほかの番組だともっとそう、常に音楽やざわめきや何かがあって、つまりノイズの上に乗った言葉がある。でもラジオはそうではない。)
でも一日経つと、何が話されていたのか全然記憶に無くて、ただ面白い話だったなぁとか、大阪弁メチャいいなぁとかそういう印象だけが残っていて、だからそれがAMの味なのかもしれないとも思います。FMの音のほうがきれいだけど、FMの音には何かのキモチワルイ成分も少し入っていてAMにはそれがなくて庶民的です。
話されている内容は結局どうでもいいのかもしれない。たとえばお得なランチとか安い居酒屋での集まりとか、そこでの話はきっとほとんどがどうでもいいことで言葉はことごとく空気の中に消えてゆく。でも残るべきことというのはたぶんもとからそんなに無いんだ、と思うと、記憶なんてどうでもいいんだと思えます。来る日も来る日も前の日の繰り返しのようで、そのうちにどんどん時が経っていってこれは魔法というより騙されているだけなのかもしれないと思いながら時は経ってしまうものなのだから。


aikoの詩。(ポニーキャニオン)
aikoの詩。(初回限定仕様盤 4CD+DVD)




aiko/横顔
https://www.youtube.com/watch?v=Cd3xak-bpg8

2002.09.07 POP JAM
https://www.youtube.com/watch?v=_Jj06KKZCis

尚、現在販売されている《まとめ》の通常盤にはaikoのオールナイトニッポンは収録されていません。
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ルツェルンのユジャ・ワン [音楽]

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Yuja Wang

ユジャ・ワンの別の演奏を探していたとき、たまたまYouTubeで見つけたプロコフィエフがあったのでそのことについて書いてみたい (尚、前回書いた簡略な記事はこれである→2018年05月12日ブログ)。
ユジャ・ワン (Yuja Wang, 1987-) は中国人のピアニストであるが、かなり多くの録音がリリースされていてとても追い切れない。彼女はテクニックのことばかりが言われるが、問題はテクニックではなく、難曲の中からどのようにその作品のテーマを、あるいは情感を汲み取れるか否かにある。

プロコフィエフの〈トッカータ〉(toccata d-moll, op.11) は1912年、まだサンクトペテルブルク音楽院に在学中の21歳のときに書かれた小曲である。1912年にはピアノ・コンチェルト第1番 op.10、ピアノ・ソナタ第2番 op.14などが書かれているが、それらは若きプロコフィエフの才能が開花し始めた頃であるとともにロシア帝国の末期であり、それ以後の彼の一生を考えると、最も幸福な音楽環境の時代だったといえるのかもしれない。1917年にロシア革命が起こり、ロシアはソヴィエト連邦となるが、共産主義とは文化芸術を蹂躙するだけの政治体制であり、それは彼の死まで継続してその才能を阻害した。

プロコフィエフの〈トッカータ〉はシューマンの〈トッカータ〉に影響されて作られた曲だという。どちらも急速ないわゆる常動曲で、延々と積み重ねられてゆくリズムの動きと全体の佇まいが確かに似ている。だがもちろんプロコフィエフのほうが現代的であり、無調に近い。
どちらも短い曲でありインパクトがあるので、アンコール曲とするのには好適である。シューマンの場合、唯一、繰り返し出てくる明確なメロディのようなものがあるが、その弾き方でピアニストのスタンスがわかるような気がする。シフラはそのメロディを大切に叙情性をこめて扱うが、ポゴレリチだと他の部分とそんなに分け隔て無く、均等に弾いてしまう。リズムに対する感覚もシフラとポゴレリチは対照的で、シフラは全体的に流麗、ポゴレリチは棘がある。私の感じ方では、シフラには 「シューマンなんだからこのくらいの感じで」 とする予めの意図があり、ポゴレリチには 「シューマンでも現代曲でも同じじゃん!」 とする均質化の認識があるように思える (もっともポゴレリチは現代曲や現代曲に近い曲は弾きそうにない。なぜなら古典を弾いても現代曲風だからなのだが)。

さて、ユジャ・ワンのプロコフィエフの〈トッカータ〉だが、下にリンクしたのは2018年ルツェルン音楽祭におけるライヴで、プロコフィエフのピアノ・コンチェルト第3番の演奏後のアンコールの映像である。彼女は繰り返しプロコフィエフのコンチェルトを演奏しているので得意曲だと思われるが、同じプロコフィエフを得意としているピアニストにエル=バシャがいて、そのエル=バシャの同じ曲を較べてみると面白い。エル=バシャのほうが音の輪郭がかっちりとしていて厳格だが、しなやかさではユジャ・ワンのほうが聴きやすくて心地良さがある。
かつてエル=バシャの弾いたプロコフィエフのソナタ第2番を聴きながら、私は同曲のリヒテルの弾き方について不満があると書いたが (→2012年06月17日ブログ)、もっと言えばリヒテルってこの曲がわかってないんじゃないの? というくらいの疑いだったのだが、逆にいうとどんどん現代的に弾いてしまうと、このプロコフィエフに付随していた時代の色彩がふり落とされてしまうのかもしれない、とも今になると思う。だが同時にそんな時代の古びた色彩など消し去ってしまったほうがいいと考える自分も同時にいて、なぜならプロコフィエフの作品はそれだけで自立しているのだから歴史という泥臭い幻影など不要だとも思うのだ。

そしてユジャ・ワンのピアニズムには余裕があって、だからこの複雑でわかりにくい曲想から立ちのぼってくる香気が、若きプロコフィエフの言葉を紡ぎ出しているようにも聞こえる。プロコフィエフのほうがショスタコーヴィチよりわかりやすいのは、彼がショスタコーヴィチほど屈折していないからだろう。
バルトークの弦楽四重奏曲がベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲に対するオマージュであることは、全く関連性の無いような印象を持ってしまうかもしれないのにもかかわらず自明のことであるが、そこに存在するバルトークの屈折した心情とは異なり、このシューマンとプロコフィエフのトッカータの近似性はもっと具体的で、それは単純なテクニックの積み重ねによるメカニカルな表現が、作曲家の抽象性への美学に対する共有感覚として同一だからである。
そうしたアプローチは若きプロコフィエフがその後に経験することになる革命という名の愚劣で悲惨な状況の裏に潜むくだらなさとか、その後のジダーノフ批判というような痴呆的で愚鈍な腐敗をあらかじめ無意識的に予想し無化していたように私には感じられるのだ。音楽は政治性という醜悪な圧力には無力であるが、それゆえに醜悪になろうとする素地を持たない。

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Abbado, Wang/Lucerne Festival, Mahler, Prokofiev (Euroarts)
Lucerne Fest / Mahler Sym 1/ Prokofiev Piano Cto 3 [Blu-ray]




Yuja Wang/The Best & Rarities (Deutsche Grammophon)
Best & Rarities




Yuja Wang/Prokofiev: Toccata op.11
As broadcasted by ARTE TV. Lucerne Festival 2018
https://www.youtube.com/watch?v=AVpnr8dI_50

Abdel Rahman El Bacha/Prokofiev: Toccata op.11
https://www.youtube.com/watch?v=XYFpfFsbshk

《参考》
Ivo Pogorelić/Schumann: Toccata op.7
https://www.youtube.com/watch?v=EUHobIa3TL0

György Cziffra/Schumann: Toccata op.7
https://www.youtube.com/watch?v=NncHj0BKCps

《参考の参考》
Yuja Wang/The Best & Rarities (アンコールなどのベスト盤)
https://www.youtube.com/watch?v=yIAk61xEZ80&list=PLkLimRXN6NKxB7z1YvaIxkEWWjatj4Oi9
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フランソワ・クープラン《Les Nations》 [音楽]

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François Couperin

バッハの時代以前に遡ることへの私の興味は、リチャード・パワーズの『オルフェオ』がきっかけである。主人公エルズと彼の幼なじみだったクララは大人になってからイギリスで再会するが、もはや彼女は新しい音楽への興味を持った才気煥発な女の子ではなく、バロックとバロック以前の古風な音楽に絡め取られていて、エルズは彼女から神々しさが失われていると感じる。古風な音楽は一種の迷宮であり、そこに深入りし、奏でられる音楽をエルズは 「永遠に忘れ去られていたかも知れない不揃いな真珠」 と形容する。それは幻滅と訣別を意味し、エルズはクララを捨て去るのだが、クララの神々しさを失わせた音楽の迷宮とはなにかということに私はかえって惹かれたのだった。クララが輝きを失ったのは、その生命を古楽に吸い取られたからである。では彼女を形骸化してしまった魔の音楽とは何だろうかというのが私に与えられた命題のように思えた (パワーズ『オルフェオ』については→2015年10月23日ブログ参照)。

だがスウェーリンクもそうだしシャルパンティエもそうだが、そんなに簡単に答えは出ない。シャルパンティエからマラン・マレへと視野が広がっていくことによって闇はさらに曖昧になり、深い森はさらに深くなる (マラン・マレについては→2019年05月01日ブログ参照)。そのラインハルト・ゲーベルのアルヒーフ盤《Le Parnasse français》のセットの中にあるクープランを聴く。以下は初心者バロック・ファンのひとりごとなので、見当外れなことがあってもご容赦のほど。

フランソワ・クープラン (François Couperin, 1668-1733) はフランスのバロック期の作曲家で、J・S・バッハ (1685-1750) よりやや前の人である。でもクープランというと、クープランより《クープランの墓》のほうが有名なのかもしれないという危惧もある。
ラヴェルの《クープランの墓》の中には〈リゴドン〉という曲があって、あたかもセリーヌのようだが、ラヴェルの命名は昔の舞曲配列のイミテーションであり、そしてリゴドン (rigodon あるいは rigaudon) には鐘の意味もあるという。同じラヴェルの曲にある〈鐘の谷〉の cloche とはどう違うのだろうか。というようなことは単なる些末な連想に過ぎないのでどうでもいいことなのだが。

クープランでもっとも重要で有名なのはクラヴサン曲集であるが、ゲーベルのセットに収録されているのは《Les Nations》(1726) という室内楽であり、それは4つの組曲からなっている。ordreという序数を使い、1er ordreから4e ordreまであるが、それぞれが La Françoise, L’Espagnole, L’Impériale, La Piémontaise と名づけられているのがまさにレ・ナシオンであって、しかしこれらは以前に書かれたトリオ・ソナタが元になっているとのことである。1erがトリオ・ソナタ《少女》(La pucelle, ca,1692)、2eが《幻影》(La visionnaire, ca.1693)、4eが《アストレ》(L’Astrée, ca.1693) に対応する (1er ordreがwikiではLa Françaiseと表記されているが、アルヒーフのパンフレットでもIMSLPの楽譜タイトルでもLa FrançoiseとなっているのでLa Françoiseとする)。

構成はどの組曲もほぼ同様で、最初に比較的長めのソナタが置かれ、その後に舞曲が Allemande, Courante, Sarabande といった伝統的な順序で配列される。ただ、クーラントの後にはスゴンド・クーラントがあり、組曲終結部はGigueで終わったりMenuetだったり、定型的ではない。2eのL’Espagnoleの場合、終曲はPassacailleだ。しかし1erでは7曲目にChaconne en Passacailleがあり、その後、Gavotteがあり、Menuetで終わる。
それよりも認識を新たにしたのは、パッサカイユ (つまりパッサカリア) が、たとえばバッハの《パッサカリアとフーガ》を聴いて知っているようなパッサカリアかと思うと、全くそうしたパッサカリア的曲構造を備えてはいないことである。それは定型的な舞曲の曲名とその出現順である Allemande → Courante → Sarabande の流れを聴いても、バッハのようにそれぞれの舞曲がその舞曲特有の基本パターンを備えていて、それを展開させるという技法とはやや異なるのではないか、という印象を受けたのである。
話がわかりにくいかもしれないので、パッサカリアを例にとると、バッハの場合、パッサカリアは低音にテーマの繰り返しがあって (オスティナート)、その執拗なルフランの上に異なる幾つもの変奏が乗って行く構造であるというようなイメージがある。しかし、クープランのパッサカリアは、これパッサカリアなの? というように、どこがパッサカリアなのかがわからない。それはバッハのパッサカリアのような特徴的なクリシェが出現しないからなのである。
しかしそれは間違いであることがわかってきた。つまりバッハのパッサカリアはバッハの提示したパッサカリアであって、それは一般的に示されるパッサカリアではないのだ。パッサカリアはシャコンヌ (チャッコーナ) と対比して考えられる変奏曲の形式に過ぎず、パターンそのものの定義はもっと緩いものであるように思われる、というのがとりあえずの私の理解である。

ja.wikiのアルマンドには次のような解説がある。

 16世紀のフランスでは 「地面に足をつけた中庸の遅さ」 (トワノ・アル
 ボ 「オルケゾグラフィOrchésographie」 1589年) の2拍子のダンスで、
 組になった男女が列を作って進みながら踊るダンスであった。パヴァー
 ヌに似ているが、それよりは若干速いとされる。この時代のアルマンド
 のダンスは、アルマンド本体、retourと呼ばれる同じリズムの部分、そ
 れに続き拍が3分割されるクーラントと呼ばれる部分で構成されていた。
 イタリアに移入されたこのダンスも、同じようにアルマンド本体と3拍
 子のコレンテ、またはサルタレロなどが組になっていた。

コレンテはクーラントのイタリア語読みであり、この解説によるとアルマンドとクーラントはセットとして考えられていたように思われる。fr.wikiには 「Dans la suite de danses baroque, l'allemande occupe en général la première place avant la courante;」 とあり、en.wikiのアルマンドの項にも 「paired with a subsequent courante」 と記述がある。

少し前にヴィヴァルディを聴いていて、通俗的だと今まで思っていた音の中に何か異なる意味があるようなことに突然気がついた。イタリア・バロックもフランス・バロックも、延々と同じパターンの繰り返しのように聞こえて変化がない、と私は思っていたのだが、その微妙な変化しかないことこそがラテンのバロックなのだ。ドイツは、特にバッハは、その論理性で楽曲を明快に構成し変化させ築き上げる。だからアルマンドとクーラントも区別がつくように切り分けられている。だが、たとえばクープランはそうではないのだ。単純な符割りのように思えてそこに複雑なリズム感覚が存在している。アウフタクトのようにして始まりながらいつの間にかそれが解消され、どこからかまた変わってゆくような眩暈のリズム。でもそれは意図して作り上げた錯誤のリズムではない。拍動は必ずしも一定しないこと、つまり縦線の存在が弱いのだ。だからそれが2拍子であっても3拍子であっても、その差異を寄せ付けない何かがあるような気がする。緩いのだけれどだらしなく緩いのではなく、バッハ以降の厳密な感覚とは異なるゆるやかな縛りをそこに聞くのだ。


Reinhard Goebel/Musica Antiqua Köln
Le Parnasse français (Archiv)
Various: Le Parnasse Francais




Les Ombres/François Couperin: Les Nations (ambronay)
F.クープラン: 諸国の人びと - 3声の合奏のソナタと組曲(全曲) (Francois Couperin : Les Nations / Les Ombres - Margaux Blanchard, Sylvain Sartre) (2CD) [輸入盤]




Les Ombres/François Couperin: Les Nations,
premier ordre ”La françoise”
Chaconne en Passacaille
https://www.youtube.com/watch?v=ELMFYdZuvM8

Reinhard Goebel, Musica Antiqua Köln/
François Couperin: Les Nations (1er et 2e 全曲)
Chaconne en Passacaille は15’55”~
https://www.youtube.com/watch?v=seM902c432Y
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小西康陽『わたくしのビートルズ』を読みながら [音楽]

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さて、小西康陽の『わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019』を読んでいて、実は最後の日記の部分をまだ読み終わっていないのだけれど、簡単に感想を書いてみよう。

小西康陽は作詞・作曲・編曲家であり、ミュージシャンでありプロデューサーであり、こうした文筆家でもあり、そのバンド 「ピチカート・ファイヴ」 は有名なのか、それとも知る人ぞ知るなのか、つまりオーディナリーなのかカルトなのか、世間的な評価はどの程度なのだろう。
でも、あんなところにもこんなところにも名前のある才人である。たぶん一番有名なのは、本人も書いているが〈慎吾ママのおはロック〉だろう。この曲の作詞・作曲・プロデュースが小西康陽である。
ただ、この本を読んでいると、DJに対するマニアックでものすごく深い入れ込みように驚く。DJという作業そのものに私は無知なのだが、音楽をその場の空気に合わせて次々とつないてゆくのはテクニックというよりもインスピレーションとセンスで、単純に曲を垂れ流しでかけてゆくのとは違うのだということがわかる。

小西のもうひとつのこだわりは最近になって嗜好が復活し、再び見始めたという映画で、その2013年から始まる映画メモによれば、年間500本以上、最も多いのは2014年に726本を観ていて、そのほとんどが日本の古い映画であり、しかもいわゆる名画座のスクリーンでしか観ないのだそうである。自宅でDVD等を鑑賞するのではないのだ。
私は異常に映画を観ない人間なので、小西康陽のタイトルリストは暗号のようにしか読めないのだが、おそらくその沈潜度に対する世間的評価はカルトなのだろうと思われる。

いわゆる渋谷系といわれる音楽に対して私は最も遠い位置にいたし、ピチカートに対してもところどころのポイントでしか知らないし、CDもユーズドで何枚か聴いただけだ。これではいけないと思ったので最近再発された1stの《couples》はCDもLPも持っている (だけではダメなんだけれど。だんだんと遡って買いますのでお許しを)。たまたま《couples》だったのに過ぎない。だから以下は、不失者ならぬ不案内者による感想であることをあらかじめおことわりしておくのである。

DJにおける小西康陽のこだわりは7インチアナログ盤である。アナログ盤でしかかけない、というポリシーがあるようで、いわゆる45回転のドーナツ盤である。しかも、どうも国内盤がいいらしい。ドーナツ盤という言葉を久しぶりに聞いたような気がして、でもドーナツから連想してしまうのはオサムグッズだったりして、でもオサムグッズそのものが懐旧的過ぎるがそんなことはどうでもよくて、ドーナツ盤の利点はただひとつ、穴が大きいのでターンテーブルに載せやすいというのがある。
レコードの扱いにうるさい人は、LPの中心の穴をスピンドルにぐにゅぐにゅと探ってストンと落としたりするやり方を 「ヒゲ付けちゃダメ」 と嫌うが、ドーナツ盤ならその心配もない (言い訳だけど)。
ジュークボックスというレコード再生機に使われていたのもドーナツ盤で、といってもリアルにジュークボックスという機械を私は2、3度しか見たことがないが、あの機械的な構造の不思議さと美しさがポピュラー音楽の原点のひとつにあるのかもしれないとも思う。

私にとって小西康陽が身近になったのは、ほとんどの評論家とかファンがけなすローリング・ストーンズの《サタニック・マジェスティーズ》を褒めていたこととか、この本の中のビートルズのマイベストの中に〈悲しみをぶっとばせ〉と〈ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア〉が入っていることとか、そういう些細な点で、この人信頼できると思ってしまったりするものなのだ (もっとも私が最初に〈悲しみをぶっとばせ〉を聴いたのは《ビーチ・ボーイズ・パーティ》で、他にも〈バーバラ・アン〉とか、あのアルバムは名盤です。持ってないけど)。
「真夜中のターンテーブル」 というエッセイには、自分がかけようとするシングルのリストが延々と続いているのだが、ザ・ビートルズ 「ペイパーバック・ライター」 のあとにピチカート・ファイヴ 「夜をぶっとばせ」 が続いていて、このへんのオシャレさがいいなぁと思ってしまう (p.174)。(念のためですが 「夜をぶっとばせ」 というのはストーンズのLet’s Spend The Night Togetherの邦題です。その邦題だけを借りたピチカートの曲です)。

それと冒頭の文章に出てくる南青山の嶋田洋書のこと。私には新しくなった移転先の店しか知らなくて、旧店舗は行ったことがあるのかどうか覚えていないが、そして新しい店でもほとんど本は買わなかったけれどあの佇まいが好きな店だった。原宿から表参道をあちこち寄り道して、最後に辿り着くみたいな憧れの店だったのに、でも良い店は必ず無くなってしまう。

どこを読んでも面白くてためになる本なんだけれど、気がついたところだけ書き抜いてみる。

 子供の頃に住んでいた渋谷区恵比寿・豊沢町のすぐ隣り、港区白金三光
 町では月に三度、九の付く日ごとに縁日があって、たくさんの夜店が並
 んだ。(p.53)

 食事のときに料理の写真を撮るのは行儀のよくないことだと知っている
 が、一枚だけ撮らずにはいられなくなってシャッターを押した。(p.55)

月に3回も縁日があるなんて極楽のような日々なのでは、と思う。「行儀のよくないこと」 という表現は私の亡くなった祖母も言っていたが、久しぶりに聞いた言葉で、そうだよなぁと心に沁みる。
私が東京都知事になったら東京の住所・町名を旧名に戻したいという言葉にも、さらっとした毒がある。確か小林信彦も同じようなことを書いていたが、なぜ行政は地名を無味乾燥な東西南北一二三みたいな名称に変換してしまうのだろうか。知性の無さがなせるワザなのだ。

 霞町、蛎殻町に笄町、田村町に箪笥町、鳥居坂町、一ツ木町、人形町に
 小伝馬町。あーあ、東京の地名は美しい。(p.245)

モニカ・ゼタールンドとスティーヴ・キューンのこと、Nice Girls Don’t Stay for Breakfastのジュリー・ロンドン、そしてチェルシー・ガールのニコのこと。うんうんと頷きながら読んでしまう (p.91, p.100, p.103)。

北野武映画の音楽に関する提言。

 それなら誰か北野監督に進言してくれないだろうか。あなたの映画は、
 音楽家に海外の巨匠を起用してもよいのではないだろうか。もっと重厚
 なスコアを書く人。少なくとも、オーケストラをデジタル音源で代用し
 ない音楽家。素晴らしい映画には、それなりの格調が必要だ。ひとが命
 を奪い合う映画なら、なおさらのことだ。(p.133)

かまやつひろしがまだ元気な頃、雑誌のインタヴュー記事から。かまやつさんは車にこだわりがあって、それもイギリス車が好きだったという。

 「昔ね、トゥイギーが持っていたっていうミニクーパーに乗っていたこと
 があるんです」
 「……鮮やかなグリーンのミニクーパーでした。内側はシートも中も真っ
 白でね。木が貼ってあるんです」 (p.155)

でもロンドンで撮影があって、そのとき、「撮影用のギターは当然ヴォックスの赤いティアドロップ」 がいいと言ったら、ロンドンにはレプリカしかない。「世界中の良い楽器はすべてニッポンのオタクが買い占めてしまった」 のだそう (p.151)。きっと日本のバブルがイギリスにまで影響してしまったのだろう。

山本リンダの〈きりきり舞い〉という曲について。作詞は阿久悠だが、小西康陽は阿久悠が嫌いらしい。それでこんなことが書いてある。

 ああ、近田春夫はこの曲を下敷きに 「ジョニーはご機嫌ななめ」 を作っ
 たのか、と気づくなら、よりいとおしく思えてくる歌だが、たった一行
 「祭が近いだけでも」 というラインの、祭、という言葉のせいで、ぼくは
 この歌をカヴァーするのをためらうだろう。(p.212)

祭という一言で山本リンダが一瞬、北島三郎になってしまうのだ。何と鋭い。
一方でゲンズブールの〈Je t’ame moi non plus〉を「この曲をただのヒップホップ/R&Bと理解することができた」 とも言っている (p.236)。う~ん。
そうした辛辣さは日記の中にもあって、たとえば、

 ザ・バンド 「南十字星」 や大瀧詠一 「GO! GO! NIAGARA」 を聴いた時
 のガッカリ感は一生忘れられない。 (p.328)

と書いたりする。はっぴいえんどを高く評価しながら、だからといって全てを絶賛というような一面性は存在しないのだ。
もうひとつ。日記の中に、

 フランソワーズ・アルディ 「私の詩集」 を聴いている。いつかこういう
 アルバムを作りたい、と思った直後に、もうこんなアルバムを作れるチ
 ャンスは無いだろう、と考えてしまう。(p.327)

アルディのこのアルバムのことは、以前に私も書いたことがあるが (→2015年03月16日ブログ)、さりげないこうした記述に、小西康陽に感じるシンパシィというか、むしろ尊敬の念は深まるばかりなのだ。

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わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019 (朝日新聞出版)
わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019




Françoise Hardy/La question (Virgin France)
La Question (Fra)




ピチカート・ファイヴ/東京の夜は七時(live)
https://www.youtube.com/watch?v=-wUeLbJy0zw

The Beach Boys/You’ve Got To Hide Your Love Away
https://www.youtube.com/watch?v=enmX8ToQRYg

Françoise Hardy/La question
https://www.youtube.com/watch?v=suHf_o5RQ-Q
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虹の彼方に [音楽]

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Livingston Taylor

小西康陽の『わたくしのビートルズ』という本を読み始めたのだが、ハードカヴァーの堅牢な本で、読んでも読んでも終わらない。なぜなら幾つものレイアウトで組まれていて、一番小さなフォントのページは4段組だったりするからだ。この、読んでも読んでも終わらないというのは私にとっては悦楽で、なかなか読み切れない本というのに魅力を感じる。書籍でも雑誌でもスカスカの中身だと買いたくなかったりする。文字がびっちり入っているほうがお得感もあると思う。これって貧乏性? でも『大菩薩峠』は読んでいないし、『グイン・サーガ』も30巻か40巻くらいまでは読んだのだが、ちょっとここどうなの? というラフな感じを受けた個所があってそこでやめてしまった。読書なんてそんなものなんだと思う。

でも『わたくしのビートルズ』はいわばエッセイ集だから、どこから読んでもいいし、好きなところだけ読めばよいので気が楽。といいながら最初からページ順に読んでいて、合間合間に読んでいるのでなかなか消化できないのだが、なんとか半分は過ぎた。1日かければ読めるかと思っていたのだが全然無理だった。
小西康陽のことは以前、市川紗椰のCDの記事で書いたことがあるが (→2015年07月13日ブログ)、その後、ピチカートを熱心に聴いたとか、そんなことはない。そんなことはないなんて書いたらとても失礼だが、渋谷系って私にはとてもオシャレ過ぎて近寄りがたいイメージがある。

この本については、読み終わったらまたあらためて書こうと思っているのだが、リヴィングストン・テイラーのことが紹介されていて、でも今読み返そうとしたらどこに書いてあったのかわからなくなってしまったのだが、そしてそのあたりの音楽は私にとってはよくわからないジャンルなのだけれど、でもリヴィングストン・テイラーもケイト・テイラーもCDを買った覚えはある。リヴィングストンのアルバムはたまたま《Unsolicited Material》だったりする。

で、そのリヴィングストン・テイラーの若き頃でなく、もうかなり最近になってからの〈Over The Rainbow〉を歌う映像があって、これがシブいというか、とても美しい。晩年のレナード・コーエンなどと同じで、いや、コーエンはまだギラギラした何かの残滓を湛えていたがそういうのとは違う美学がリヴィングストン・テイラーにはあって、音楽の楽しさをしみじみと感じる。
〈Over The Rainbow〉は映画《オズの魔法使》(The Wizard of Oz, 1939) の挿入歌で、ハーバーグ/アーレンの作品。ほとんど誰でも知っているスタンダードである。1939年はタイプ41を設計したジャン・ブガッティが亡くなった年だということを脈絡もなく思い出したりする。

原作のライマン・フランク・ボーム (Lyman Frank Baum, 1856-1919) はハヤカワ文庫の佐藤高子訳で読んだが、それまでは 「オズの魔法使い」 の内容を全く知らなくて、怖い内容なのかもしれないと思っていた。訳文もすぐれているが、新井苑子のシンプルな線の挿絵も美しくて愛読していた。

〈Over The Rainbow〉は映画の《オズの魔法使》の中でジュディ・ガーランドの歌った曲だが、小西康陽の本の中にモニカ・ゼタールンドのことが書かれている個所があって、ジュディ・ガーランドもモニカ・ゼタールンドもその悲劇的な最期に関しては共通するものがあって、それを思うと心がしんとする。


わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019 (朝日新聞出版)
わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019




Livingston Taylor/Good Friends (Chesky Records)
Good Friends




Livingston Taylor/Over The Rainbow
https://www.youtube.com/watch?v=i5ZjWkUFnTg

Judy Garland/Over The Rainbow
https://www.youtube.com/watch?v=1HRa4X07jdE
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椎名林檎《三毒史》 [音楽]

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椎名林檎の《三毒史》を聴く。三毒史というタイトルはもちろん三国志のパロディだろうが、そのカバー写真は甲冑を着たペガサスがRDを持っているというメチャクチャさ。中に収められた歌詞のパンフレットは、まるで年代を経たようなシミやヤケが印刷されている。トラックはずっとつながっていて、曲間が無い。

椎名林檎はデビューの頃にはかかさず聴いていたのだが、そのうち人気が出過ぎてしまって、するとワタクシ的には 「まぁいいか」 状態になってしまい、一応買ったり買わなかったり、マジメに聴いたのは久しぶりかもしれない。それはPerfumeも同じことで、あまり人気があるミュージシャンに関しては買わないというのが私の不文律でもあるのだ。だからDMの音楽に関しては、桑田佳祐もドリカムも買わない。だって誰でも知ってるし、いつでも買えるじゃん!

今回の椎名のアルバムのPV〈鶏と蛇と豚〉を見たとき、ん~、まず音がPerfumeだし、つまり声の変調が、そして絵柄は寺山修司だしみたいな、腐敗した風景はグロテスクでありフリークスみたいな絵柄はどうなのかな、でもPV作る人にとってはそういうのが魅力あるんだろうな、とは思うのだけれど。お坊さんのお経みたいなのに対して私は、ズバリ好きじゃない。
最近はカラオケボックスにVT-4を持って行ってPerfume歌うって話も聞くけどホントなのかな。単にローランドの回し者の戯れ言のような気もする (念のためですがホストクラブの人じゃないです)。つまりピッチ変えてフォルマントいじれば面白いのかもしれないけれど、皆、同じ音になってしまうんですよね~、と私は思うのです。そうしたオモチャの音とは根本が違うのかもしれないけど、でも出てくる印象はそんなに変わらない。
般若波羅蜜多と潰れた英語詞の声という傾向から思うのは、つまり声はサウンドであって歌詞を聞かせようとは考えていないのかもしれない。

幸いなことに、結果としてVTみたいな音響は〈鶏と蛇と豚〉と〈長く短い祭〉のみ顕著な特徴で、あとはいつもっぽい林檎節だったわけです。それより今回のは、デュエットというのがコンセプトだったとも言えます。
宮本浩次、櫻井敦司、向井秀徳、トータス松本といった豪華メンバーで、しかもフルバンドの蠱惑みたいなサウンドには痺れる。最後に持ってきたのは齋藤ネコ・コンダクトの〈目抜き通り〉と、そしてヴァーニャ・モネヴァというブルガリアン・コーラス、それにからむアコーディオンが美しい〈あの世の門〉。アコーディオンの背後にひそむルーム感が、なにげなくだけど深い。
サンレコの椎名とエンジニア・井上雨迩のインタヴューによれば、マスタリングしないことというのが今回の録音に用いられたポリシーでありテクニックらしいのだが、その意味がよくわからない。Pro Tools内でのミックスというのが従来のマスタリングとどのように違うのか。でも知ったからってどうなるものでもないのだけれど。私にとってのドキッとする音というのはたとえば〈TOKYO〉の冒頭のピアノだったりする。

今観ることができる映像のなかで、あえてPerfumeな〈長く短い祭〉を選んでみる。これは2018年のアリーナツアー・林檎博’18のものだと思えるが、弦の厚みなどCDの演奏より豪華である。
腕のアクションを多用するダンスは、先日記事にしたミレーヌ・ファルメールのライヴを連想させるが、つまり世界的にこうしたスタイルが流行なのだろうか。同じ曲の2015年の百鬼夜行ライヴもあるが、パフォーマンスの方向性がまるで違う。3年経つとこうなるのかとも思うし、だからそれを進化とするのか、しかし逆にそうしたトレンド感は必ず古びるのだからとも思うし、その刹那感が良いのだとも思う。常に新しい面を拓き、それまでの結果を捨象することで椎名林檎は生き続ける。つまり〈鶏と蛇と豚〉のフリークスは一種のメタファーなのだ。それは単に私の素朴な印象に過ぎないのだが。

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*動画リンクは貼れないので適宜検索してください。

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柴田淳 ― 蝶 [音楽]

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柴田淳の〈蝶〉は7thアルバム《ゴーストライター》(2009) の5曲目に収録されている曲である。タイトルはゴーストライターだが、別にゴーストライターが書いた曲というわけではなく、全曲柴田淳による作詞作曲である。

歌詞には花と蝶が出てくるが、「花と蝶」 という言葉から連想するのは森進一の〈花と蝶〉(彩木雅夫/川内康範、1968) である。歌詞はいきなり 「花が女か 男が蝶か」 と始まってしまうように、咲いている花と花に寄ってくる蝶を男女関係に喩えているわかりやすい歌詞である。
また、蝶という言葉から思い出すのは木村カエラの〈Butterfly〉(木村カエラ/末光篤、2009) で、これは木村カエラが友人の結婚式用に書いたとされる明るい曲であり、歌詞の最後は 「運命の花を見つけた チョウは青い空を舞う」 となっていて、これも飛んで行く蝶に運命を託した明快な曲である。

一方の花には数多くの曲があると思われるが、私があえて選んでしまうのはSugar Soulの〈悲しみの花に〉(Sugar Soul/朝本浩文・サヨコ、1998) である。〈悲しみの花に〉における花は、

 そう 悲しみもやがて
 涙色の花に かわるの

という花で、「涙色の花」 にかわるのは 「悲しみ」 であって 「私」 ではない。悲しんでいるのは私なんだから同じじゃん! と感じるかもしれないが、曲の最後は、

 あぁ 悲しみはやがて
 涙色の花になるでしょう
 もう なにも言わないで
 こうしていよう あたしがいるよ

と、しめくくられている。この部分を分析すると、涙色の花になった 「悲しみ」 は私が見ている 「悲しみさん」 なのであって、それを冷静に見つめている 「あたし」 が別にいるのである。これはもちろん一種の詭弁なのであるが、「悲しみさん」 を突き放している 「あたし」 の悲しみはより深いのかもしれない。
前のフレーズでは 「涙色の花に かわるの」 と言っているのに、後では 「涙色の花になるでしょう」 と丁寧な表現に変わっているのも諦念のあらわれなのだ。

以上は単なる前フリである。さて、そのような視点で柴田淳の〈蝶〉を読んでいくと、これはもっと屈折していて複雑である。歌詞の冒頭は、

 あなたが私にしたことは
 忘れてあげない なんて言わない

である。メロディとしては 「あなたが私にしたことは 忘れてあげない」 と歌っておいて、その後に 「なんて言わない」 と付け加える。いきなり出現するこの二重否定に、えっ? と心が動く。しかも 「忘れない」 のではなくて 「忘れてあげない」 のだ。
「忘れてあげる」 のではなくて 「忘れてあげない」 のだけれど、それを 「なんて言わない」 のだから、つまり結論は 「忘れてあげる」 ということなのだが、それを 「あなたが私にしたことは忘れてあげるよ」 と言わずに二重否定を使う屈折度がダークである。そして 「あげる」 という表現にプライドと高慢さがただよう。それは負の高慢さだ。
歌詞のつづきはこうである。

 あなたもあなたの存在も
 忘れてあげるから

ここで初めてシンプルに、ストレートに 「忘れてあげるから」 と歌う。これは 「忘れてあげない なんて言わない」 の言い換えなのであるが、もちろん二重否定と肯定は同じ意味あいではあるけれど、だからといってニュアンスは同じなのではない。そこに含意が存在するから二重否定なのである。
そしてここにはまた別の屈折がある。「あなたもあなたの存在も」 とあるが、これを額面通りにとらえるならば 「あなた」 と 「あなたの存在」 は別のものなのである。「あなたを忘れてあげる」 だけでなく 「あなたという存在そのものも忘れてあげる」 というダメ押しなのである。
さらに続く歌詞は、

 あなたが望むままに 今

つまり 「あなた」 という彼に対して、「あなたは私のことを忘れたがっているのが望みのようだから、私もあなたのことなんか忘れるよ」 とまとめて納得しているのである。恩着せがましいように見えて、実は 「あなた」 はそんなに 「私」 のことを重く思っているわけではないのだけれど、でもそれを 「私」 は認めたくないので、「あなた」 に罪を被せているとも言える。

この最初の5行がこの曲の暗さと屈折度を決定づけている。それが柴田淳であり、それは極端にいえば 「声を聴いただけで悲しい」 彼女の声質の特徴をあらわしている。

さて、歌詞は続いて次のように展開する。

 摘み取られるのが花だと知っているの 痛いくらい
 忘れ去られた花が どんなに哀しいか

以下は、一種の恨み節であり、内容としては演歌に近いような印象も受けてしまう。ただ、Sugar Soulの 「悲しみの涙色の花」 と同様に、すべては 「花」 に仮託されて、「私」 が哀しいとは一言もいわないのがやはりプライドなのである。

 どこかで笑ってるあなたに
 踏み潰されもせず

 忘れ去られた花のように

は、せめて踏み潰されたのならまだしも、それさえ無く忘れ去られてただ咲いているだけの花という虚無のことである。そして、

 もがくほど絡み付く糸を
 説く術を身につけた蝶は

と、花の比喩は蝶の比喩にすげ替わる。
歌詞の最後は最初の歌詞のルフランであるが3~4行目が変化する。

 あなたが私にしたことは
 許してあげない なんて言わない

 忘れた花には止まらない
 舞い上がる蝶になる

 あなたが望むままに 今

忘れ去られた花はすでに死の花なのであるから、そんな花にとまる蝶はいない。しかし、その死の花は 「私」 の過去の姿であり、それを客観的に見つめている 「私」 がいるのである。ではこの後、「私」 に希望があるのかというとそれはほとんど見えない。そうしたダークな風景のままで歌は終わる。花や蝶は、前述した歌の歌詞のように具体的ではなく抽象的だ。花が女で男が蝶だったらわかりやすくていいのに、というような地点がずっと過ぎ去った時代からこの歌は始まっているので、明視性が乏しいのである。
思わず 「時代」 と書いてしまったが、時はそのようにリニアに経過してゆくものであり決して遡行することはない。それゆえに哀しみはそこここにうち捨てられていくものなのである。

柴田淳に惹かれたきっかけは、荒井由実の〈ひこうき雲〉あるいは〈卒業写真〉のカヴァーの古い映像であった。彼女のカヴァーには定評があるが、なによりもその声がすべての曲想を変えてしまう。それは化学反応であり、ときとして虚無という毒を生成する。


柴田淳/ブライニクル (ビクターエンタテインメント)
ブライニクル (初回生産限定盤)




柴田淳/蝶
https://www.youtube.com/watch?v=v5lzx8mpuE4

柴田淳/Love Letter
https://www.youtube.com/watch?v=jdfNX5TsNfs

柴田淳/それでも来た道
https://www.youtube.com/watch?v=EJCsPXFGW7E

柴田淳+大江千里/卒業写真
https://www.youtube.com/watch?v=kFA3J8lNH18
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