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メトネル《ヴァイオリン・ソナタ第1番》— ボリソ=グレブスキー/デルジャヴィナ [音楽]

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Nikita Boriso-Glebsky

エカテリーナ・デルジャヴィナの2018年時点での最も新しいCDは、墺Profil盤のメトネルのヴァイオリン・ソナタ集である。正確にいえば《Nikolai Medtner Complete Works for Violin and Piano》というタイトルで、3曲のソナタと〈舞曲を伴う2つのカンツォーナ〉(Zwei Canzonen mit Tänzen) op.43、〈3つの夜想曲〉(Drei Nachtgesänge) op.16 が収録されている。
ヴァイオリンはニキータ・ボリソ=グレブスキー (Nikita Boriso-Glebsky, 1985-) で、レコーディングが行われたのは2017年3月27日から30日、ドイツ放送室内楽ザール (Deutschlandfunk Kammermusiksaal) であり、マルPは Deutschlandradio と表記されている。

デルジャヴィナはメトネル弾きと言われているにもかかわらず、そのメトネルの録音はあまりなく、しかも廃盤になっていたりして入手しにくい。メジューエワのような恵まれた環境とは対極である。
今回のメトネルもピアノ・ソナタではなくヴァイオリン・ソナタであり、デルジャヴィナのピアニズムを聴こうとするためにはやや不満が残るが、でもメトネルであることで善しとしよう。

ニコライ・メトネル (Nikolai Karlovich Medtner, 1880-1951) の書いた曲はそのほとんどがピアノのための作品であるが、3曲あるヴァイオリン・ソナタは傑作である。そのことはずっと前に簡単に書いた。まだブログの文章としての体裁が整っていない頃で甚だ雑な記述でしかないが (→2012年01月29日ブログ)。
そのときにも書いたことだがメトネルのヴァイオリン・ソナタで私が長く愛聴していたのはNAXOS盤のロロンス・カヤレイ&ポール・スチュワートによる演奏である。NAXOSのデータに拠れば2006年12月18~20日と2007年6月18~19日に、カナダ、モンレアル (モントリオール) で録音されたもの。
ロロンス・カヤレイ (Laurence Kayaleh, 1975-) のCDはあまりリリースされていないし、このNAXOS盤のメトネル以外を聴いたことがなかったが、このメトネルは名盤と言ってよい。

対するデルジャヴィナの演奏はヴァイオリンにボリソ=グレブスキーを選んでいる。ボリソ=グレブスキーもCDとしてリリースされている演奏はごく少ないが、リストを見ていたらヴュータンのヴァイオリン協奏曲集があるのに気がついた。ヴュータンの協奏曲は7曲あるが、パトリック・ダヴァン/リエージュ・フィルというオケをベースとして、1曲毎に異なるソリストでレコーディングされた協奏曲全集がある。墺Fuga Libera盤《Henri Vieuxtemps Complete Violin Concertos》で、このアルバムのこともすでに書いた (→2012年08月11日ブログ)。
このアルバムの中でボリソ=グレブスキーは第3番を弾いているのだが、繰り返し聴いていたのにもかかわらず、アルバムの趣旨が若手ヴァイオリニストを競わせるようなコンセプトであったため、曲を追ってはいたけれど各々の演奏者までは覚えていなかった。私の偏愛する作曲家であるメトネルとヴュータンのどちらも弾いているボリソ=グレブスキーに俄然興味を持ってしまう。

アンリ・ヴュータン (Henri François Joseph Vieuxtemps, 1820-1881) はベルギー人であるが、全盛期の頃、サンクトペテルブルクに長く住んでいて当時の帝政ロシアと縁がある。逆にメトネルはロシア人でありながら、革命後、国を出てイギリスに没した。世代的にはヴュータンが亡くなったときメトネルはまだ1歳であり、重なる部分はなく、またヴュータンはヴァイオリン、メトネルはピアノのスペシャリストであって楽器的にも重ならないが、2人とも故郷喪失者としての一生であったことでは共通している (ヴュータンについては→2012年03月22日ブログにもその協奏曲のアウトラインを書いている)。だが晩年のふたりは対照的であり、ヴュータンの悲嘆は色濃い。

さて、メトネルに戻って、今回のボリソ=グレブスキー&デルジャヴィナとNAXOSのカヤレイ&スチュワートをソナタ第1番で聴き較べてみた。聴き較べてみたのだけれど、実はそんなに違わない。もちろん異なる演奏者なのだから細かい違いはあるのだが全体の流れはそんなに差異がない。それは個性がないからではなくて、つまりメトネルはその楽譜に忠実に演奏しようとすると、このように弾くしかないというようなことなのではないかという印象がある。言い方をかえれば楽譜が厳格に完成されていて、そんなに自由度は存在しないといってもいい。

メトネルのヴァイオリン・ソナタの書法はピアノの伴奏でヴァイオリンがソロを奏でるというようなヴァイオリン主導の形式ではない。ヴァイオリンとピアノはかなり対等で、互いに呼応しながら展開してゆく。それはメトネルがピアニストであったことにもよるのだろう。
第1楽章 Canzona のヴァイオリンとピアノのからまるような憂鬱の流れにすぐに引き込まれる。
Canterellando; con fluidezza. それは長い満たされない誘惑。希望と諦めがくるくると変わるようなメトネルの官能であり、約束の地への不毛な誘いに過ぎない。変奏されて曲がりくねって Tempo I に戻って来てもそれはさっきの階梯ではない。
Danzaと標題のある第2楽章 Allegro scherzando は穏やかで明るい楽想で、ヴァイオリンが弾くとそれをピアノが模倣して引き継ぐというかたちになる。ところが途中の Presto (Doppio movimento) から急速調に変わり、目まぐるしく動き回るヴァイオリンとそれを追うピアノ、でもそれが強い感情表現になることが決してない。延々と続く旋律線、第2楽章ではオクターヴのダブルストップが多用される。

古典的なソナタでは第1楽章と第3楽章が速く、第2楽章がゆっくりという速度が設定されることが多いが、この曲では第1楽章は第2楽章に至る長い憂鬱な前奏のような感じもする。そうした意味でフランクのヴァイオリン・ソナタの構造を思い起こさせる。ヴァイオリンとピアノが対等に近いということにおいてもフランクと共通するニュアンスがある。フランクの場合はもっとも憂鬱な第1楽章が変転していって、やがて陽のあたる終楽章に至るのだが、メトネルの場合は明るくても暗くてもそれは常に微妙な色合いで、どこまでが真実の響きなのかがわからない。たぶん陽のあたる坂道は存在しない。

第3楽章は Ditirambo と名付けられていて、しかも Festivamente という決め打ち (festivamente は humorously とか joviallyの意)、そして4分音符で66~72という指定がある。つまり指定されている速度は第2楽章が最も速く (4分音符80)、第1楽章と第3楽章は遅い。第3楽章は穏やかで印象的なリズムを伴って始まるが、延々と連なる旋律線は同じで、しかも自在に転調してゆく。そのつなぎ目が巧妙でわからない。ditirambo というタイトルもわからなくて、滅多に手にしないイタリア語辞書で探してしまった。酒祝歌、バッカス神に捧げた合唱風抒情歌とのことである。

メトネルのヴァイオリン・ソナタは第3番が最も有名だが、あまりにも長大過ぎるし、3曲どれもが個性的でメトネル的である。
今回、ボリソ=グレブスキー&デルジャヴィナとカヤレイ&スチュワートを比較して何度も聴いてしまったが、ピアノの音のクリアさではカヤレイ&スチュワートのほうが好ましく思える。ただそれはあくまで好みであって、やや深めなルームを感じるデルジャヴィナのほうがロシア的なのかもしれない。
第1番はmedtner.org.ukによれば1909年から10年に作曲され、Édition Russe de Musique で1911年に出版されたとある。ロシア革命は1917年であり、Four Fairy Tales, op.34, op.35 あたりがその前夜である1916年から17年の作曲とされている。

今回、いろいろと動画を探しているうちに、カヤレイの動画を見つけたのだが、やや (かなり) 意外な印象を受けてしまった。あぁそうなのか、という感じである。まさに正統派で、身体がほとんど不動で、そこから繰り出される音は非常に安定して見える。
ポール・スチュワート (Paul Stewart, 1960−) は同名の人が多く紛らわしいが、Université de Montréal の教授である。メトネルのソナタ全集を録音中であり、現在、Grand Pianoレーベルから第2集までがリリースされている。私がメトネルに目ざめたのは英hyperion盤のアムランの全集によってであるが、デルジャヴィナにもまとまったメトネルのリリースを望みたい。


Nikita Boriso-Glebsky, Ekaterina Derzhavina/
Medtner Complete Works for Violin and Piano (Profil)
Piano Works




Laurence Kayaleh, Paul Stewart/
Medtner: Violin Sonatas Nos.1 and 2 (NAXOS)
Violin Sonatas 1 & 2/2 Canzonas With Dance




Medtner: Sonata for Violin and Piano No.1, op.21
Oleg Kagan, violin; Sviatoslav Richter, piano
Filmed in Moscow, December Nights Festival, 27 December 1981
https://www.youtube.com/watch?v=c69RkfsdguE

Medtner: Sonata for Violin and Piano No.1, Op.21
Laurence Kayaleh, violin; Paul Stewert, piano
https://www.youtube.com/watch?v=sn-5hPujUQQ
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赤毛のアントニオ ― ヴィヴァルディ《Concerto for Strings》 [音楽]

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Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741

ヴィヴァルディはロックだ。
とある場所があって、週末になるといつもクラシックのBGMの流れているのだけれど、鳴っているのは、ごく古いチープなスピーカーで、それはまるでAMラジオのような非力なプレイバックでしかない。名も知れぬルネッサンス音楽だったり、気乗りのしない陰鬱なドビュッシーとか、滅多にここちよい曲がかからないことが多いという、BGMとしては最低な選曲センスなのだが、今日、ヴィヴァルディがかかっていた。

ヴィヴァルディなんて《四季》以外、なんだかよくわからない。皆、同じような曲なので、でも曲名がわからなくてもヴィヴァルディであることはわかる。もしかするとそれは特異なことなのかもしれない。
googleでヴィヴァルディを検索するとブラウザーばかり出てくる。PC系の、そのネーミングセンスのなさにがっかりする。でも何度か検索しているうちにブラウザーは出なくなってくる。
結局、今日聴いた曲がなにかはわからなかった。でもそれでもいいのだ。ヴィヴァルディはヴィヴァルディでしかないのだから。
アントニオ・ヴィヴァルディ (Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741) とヨハン・セバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685-1750)。ヴィヴァルディのほうが7年早く生まれているがほぼ同時代人である。

ヴィヴァルディはバロックだけれど対位法ではない。わかりやすいセンチメンタルとワンパターン。彼はヴァイオリニストだったから、曲は弦のための曲ばかりだ。その頃の鍵盤楽器は通奏低音用で、つまりヴィヴァルディにとってメインにするには力不足の単なる伴奏楽器だったのだろう。というよりヴィヴァルディにとって、音楽は弦が作り上げるものなのだという信念があったのに違いない。

ヴィヴァルディはヴェネツィアで生まれた。身体があまり頑健でなかったのに、早書きで無数の曲を書き、音楽を商売として旅行をし、たぶんそのような身体の酷使がもとで死んだ。その墓は無いし、死後ずっとその作品は忘れられていた。有名なヴァイオリンを持った肖像画は、それがヴィヴァルディかどうかの確証が無い。基本的にヴィヴァルディは謎である。でもイ・ムジチの《四季》によりヴィヴァルディは蘇った。人物そのものは不明だが音楽だけは残った。ヴィヴァルディは赤毛だった。

イル・ジャルディーノ・アルモニコのヴィヴァルディは、パッショネイトで、強いアタックと揺れる身体で、通俗なセンチメンタルを押し売りしてくる。心が弱いとき、人は簡単に押しつけがましさに翻弄される。翻弄されるのだけれど、でも翻弄もたまにはいいのかもしれない。
リズムは常に、せっぱつまって、前のめりに、せつなさと悲しみを振り切るように、あるときは明るく、そして多くは暗く、その先には何もないのかもしれない。知的よりも快楽が勝つような、弦が絶対的な優位を保つ音楽。なぜならそれはイタリアの音楽だから。

ヴィヴァルディはロックだ。
反抗として生まれたはずなのにだんだんと形骸化して骨抜きにされてしまって、体制に迎合し順応しているようなポップスの1ジャンルとしてのロックよりも、ハイソでラグジュアリーなシーンでのムードミュージックになり下がってしまっているようなジャズよりも、ずっと精神性が強い。そもそもバロックは抽象的で何も語らない。何も語れない。それは語法が具体的であることを嫌うからだ。それに加えて、対位法とか和声とか、あまりそういう理論でなく、とにかく突っ切ってしまう曲想のヴィヴァルディは、どこにもよりどころがない。権威がない。ヴィヴァルディの音楽は商売人の街ヴェネツィアから生まれてきて、そしてきっとそこに還ってゆく。深い水、流れる音、深い溜息。音楽は何も語らない。音楽は何にも依存しない。音楽には何の意味合いもない。人生に意味がないのと同じように。


Il Giardino Armonico/Musica Barocca (Warner Classics)
MUSICA BAROCCA




Il Giardino Armonico/Vivaldi: Concerto for Strings g-moll RV152
https://www.youtube.com/watch?v=F6hhsKWpDrw

Concerto Köln/Vivaldi: Concerto for Strings g-moll RV156
https://www.youtube.com/watch?v=aZHal-tXzl4

Il Giardino Armonico/Vivaldi: Concerto for Fout Violins h-moll RV580
https://www.youtube.com/watch?v=86Aqf2GTmCs

* 2曲のConcerto for Strings は Concerti e sinfonie per orchestra di archi (RV109−168) として分類されている。RV580は Altri concerti per più strumenti, orchestra di archi e basso continuo (RV554−580) の中の1曲であり、L’estro armonico (調和の霊感) op.3の10である。バッハがBWV1065としてチェンバロ4台のコンチェルトに編曲した。
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素敵なボーイフレンド — 結城昌治『夜の終る時』 [本]

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戦後ミステリのベストという惹句に引かれて結城昌治『夜の終る時』を読む。
結城昌治 (1927−1996) はミステリをはじめとして、広いジャンルの著作があるが、『夜の終る時』(1963) で日本推理作家協会賞を、そして『軍旗はためく下に』(1970) で直木賞を受賞している。

『夜の終る時』は日本における警察小説の嚆矢とのことだが、ちくま文庫版の編者・日下三蔵と作者自身との解説によれば、もともとアメリカに悪徳警官ものというジャンルがあって、それを意識して書かれた作品であること。そしてそのユニークさは、それまでの日本のミステリ系小説において警官とは正義の味方であったところに、そうではないキャラクターの警官や刑事を出現させたことなのである。
「もっとも腐敗しやすいのが権力」 であると結城は書いているが、その権力構造の典型的なかたちのひとつに警察組織があり、その中で必ず起きている腐敗を描いたとき、最もいきいきとするのは、近年のTVドラマ《相棒》で実証済みである。つまり『夜の終る時』は《相棒》の祖先のような作品である。
しかも解説によれば、西村京太郎の十津川警部ものより10年も前の作品であるとのことだ。

ただ、作品構造としてユニークなのは、長めの第一部と短い第二部とが全く違う手法で書かれていることで、第一部はオーソドクスな推理小説風、そして第二部が倒叙法による犯人の独白を主体としていることである。
第一部のはじめのほうは、ひとりの刑事が行方不明になってしまっていることから、ずっと不安な感じを持続させているのだが、はっきりいって少し重厚、というよりも単に動きののろい展開のようにも感じてしまう。でも文章に破綻がなく緻密な感じで読ませる。何人もの登場人物の登場のさせかたと扱いかたが上手い。そして事件が明確になることで俄然動きが起こり、ストーリーは意外な方向に向かって行く。

単純に第一部の書き方そのままで押し切ってもよかったのに、結城は第二部の手法をとりたかったのだろう。それがある意味、文学的であり、ややウェットでダークな印象を残す。話者の急な切替にもかかかわらず、それが自然につながって読めてしまうところに著者の筆力がある。

いわゆるミステリものについて、あまり内容を書いてしまうのはルールに反するので書かないが、それよりも面白かったのは、この1963年当時の風俗が読み取れるからであった。
その時代にはどのようなものあったか、とか、どういうものが流行していたのか、というようなことに目が行ってしまう。

もちろんその頃には携帯電話はないし、ポケベルさえない時代だから、刑事が警察に定期的に電話を入れるという方法きり連絡手段がない。その定時連絡が無いのはおかしい、ということから物語が始まっているのだ。それはこの時代だからこそできた設定なのである。

固有名詞にも時代が感じられる。刑事の乗る電車は国電だし、NETテレビとかいう名称が出てくるし、「ズベ公」 とか 「ぐれん隊」 のような、ほぼ死語なのではないかという言葉が使われている。死語ということでいえば、「ボーイ・フレンド」 という言葉も出てくるのだが、これも最近はまず使わない名詞なのではないだろうか。だからかえって新鮮である。
刑事にこの靴下はなぜあるのか、と問われて答える女の言葉にそれがある。

 「ボーイ・フレンドのよ。昨日の晩ここに泊まって、置いていったんだ
 わ」 (p.99/ページ数はちくま文庫版・以下同)

「ボーリング場」 の描写もあるのだが、たぶん当時は最先端の娯楽のひとつだったのではないだろうか。wikiによれば、ボウリングが爆発的に流行したのは1970年頃とあるが、それよりもかなり前だからである。
また、高級そうなバーの入り口のドアの描写に 「紫色をした一枚ガラスのドア」 (p.23) というのがあって、色ガラスのドアというのがその手の店の典型的なステイタスであったことがわかる。

有名な俳優が恐喝されて何度も金を脅し取っていたという話では、10万円、10万円、5万円、5万円と合計で30万円も取られたというのであるが、わざわざ脅しに来て渡した金が5万円なんて大変良心的な恐喝だ。当時の貨幣価値が今とは随分違うことがわかる。

この時代の日本の推理小説系の作品を見ると、たとえば松本清張『砂の器』が1961年、ハードボイルドの大藪春彦『蘇える金狼』が1964年というようにプリミティヴだがヴァイタリティのあった頃である。そして中井英夫の『虚無への供物』も1964年とある。どの作品にも時代的な古さは存在するのだろうが、それよりも物語性の強さが魅力を持続させているだろうと思う。


結城昌治 夜の終る時/熱い死角 (筑摩書房)
夜の終る時/熱い死角 (ちくま文庫)

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クラシック音楽館・N響定期のピリス [音楽]

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Pires and Blomstedt (facebookより)

6月10日、日曜の夜、《クラシック音楽館》のピリスを観た。
曲目はベートーヴェンのコンチェルト4番。これだけ観るつもりだったのに結局番組の最後まで観てしまった。

今回の最後のピリスといわれる一連のコンサートの中で、N響定期に組まれたコンチェルト。指揮はブロムシュテットである。曲目はPコン第4番と交響曲第4番。4番つながりであるが、この2曲はop.58とop.60であり、同時期に作曲された作品である。その間にはさまっているop.59は3曲のラズモフスキーであり、さらにいえばop.57はAppassionata、op.61はヴァイオリン・コンチェルト、これらはすべて1805年から1806年にかけて書かれた。まさにベートーヴェンのとんでもなく充実していた時期の作品群である。

4月20日に録画されたものだが、NHKホールに緊張感が満ちているのがわかる。曲間のざわめきや咳も極小であり、「やればできるじゃん」 と思ってしまった。NHKホールは良い。このようにコンパクトにまとまったサイズのオーケストラも好きだ。大き過ぎるオケは散漫なだけ、というのは保守反動な個人的好みでしかないのだけれど。それと私はサントリーホールが嫌いなので、なぜならステージの奥に客席があるからで、人の動きが鬱陶しくて仕方がない。もっとも美しく響く箱のなかから音が出てくるようなNHKホールのステージの形状にうっとりする。

録画で私が注視していたのはピリスの左手である。少し前のブログに書いたスーパーピアノレッスンのピリスのテキストで、調律師の大里和人はピリスの音の出し方について書いている。
「一音一音のすべてを鍵盤の深さの底 (または底から1mmくらい上) で音を出し、音色を作り、そこの個所を音の出るタイミングとしている」 と指摘し、また 「鍵盤に指が触れてから底に行くまでのスピードのコントロールが的確で飛躍した音程や速いパッセージの場合、腕、体がすごい速さで移動し、指が鍵盤の底の音の出るタイミングに到達するべく準備を終わっている」 と観察する (p.143)。
重要なのは 「鍵盤の底の音の出るタイミング」 という形容である。ピリスは重要な音を弾くとき、決め打ちのように確実にその鍵盤をヒットする。指の角度も自在であるが、この角度からのほうが美しい音が出るという意識的な角度をとっていることが多い。特に左手をリズムの中で確実に動かそうとする強い意志を感じた。そういうふうに今まで見ていなかったので、あらためて注意していると、なぜピリスはここでこういうふうに指を持って行くのか、というアクションの理由が納得できるのである。
尚、大里和人のピリスとの最初の出会いは最悪で、この人とは二度とやるものかと思ったのだという。ところがあるきっかけで、それは強い信頼関係に変わったとのことで、世の中なにがどうなるかはわからない。

第4番はピアノのソロから始まる。5小節だがその最初のリズムはいわゆる運命動機である。延々とオケが鳴ってからおもむろにピアノが入って来るというコンチェルトの常套からすると、えっ? と思わせるのがこの曲の新機軸だったのだろう。4番は5番に較べると地味で特徴がないように思えていたが、ピリスが弾くと全然今まで聞こえていなかったものが聞こえてくる。メカニックにも思える無窮動のような細かな音の流れの中に鈍く光る美学が浮かび上がる。決してモーツァルトのように明るくクリアになることはない。
第2楽章は第1楽章のスクエアさからすると一転して緩いが、第1楽章の複雑にブレながら連続する音とは対照的に気まぐれでいて端正である。アタッカで第3楽章に入ると鈍かった光が次第に色彩感を帯びるように変化してゆく。精緻な金属で組み上げられたような音にはひとつも無駄な音が存在しない。

アンコールはベートーヴェン最後のピアノ曲であるバガテルop.126の第5曲 Quasi allegretto であった。ベートーヴェンにおける最盛期と最晩年の対比は、そのままピリスとブロムシュテットの昔と今の対比でもある。話が前後してしまうが、番組の最後に同じ2人による1992年のモーツァルトの録画を持ってきたNHKのプログラム・ビルディングの周到さに痺れる。お涙頂戴過ぎると非難しておくことにする。

ブロムシュテットの交響曲第4番も素晴らしかったが長くなってしまうので書かない。ブロムシュテットは至宝である。

インタールードのように挟まれたピリスのレッスンの様子は、ひとつの和音を何度も生徒に弾かせるシーンに、いかに鍵盤を使うかというピリスのこだわりを感じた。ピリスの作り出す音は 「打鍵する」 という言葉から感じられるようなパーカッシヴな音ではないのだ。
後進に教えなければいけないということは義務なのだ、というピリスの言葉が強く胸にささる。sourceとcreativityという言葉にも納得してしまう。最近はホールにあるピアノがよく鳴るようになったという言い方は皮肉であって、つまり鳴り過ぎてしまうという否定的なニュアンスを秘めている。
音はbodyで出すもので、そして人によって身体は違うので、自分の音を出す方法を模索しなければならないのだという。だからピリスは決して方法を強要しない。それはスーパーピアノレッスンのときから一貫している。
コンクールや音楽ビジネスに対する弊害について説き、誰が上手いとかヘタだとかいうのとは無縁に音楽をすることの重要性について語る。自分のほうが他人より優れていると思ったら、そのとき成長は止まってしまうともいう。

そして最後に放送された1992年のモーツァルトのコンチェルト。ピリスもブロムシュテットも若いが、作り出される音は現在の2人につながる不変の音楽性を持っている。第17番K453はバルバラ・ブロイヤーというモーツァルトの弟子のために書かれた曲である。第9番K271のジュノームに似て、ピリスに最もふさわしいモーツァルトである。
私はピリスのもっと若い頃のエラートのコンチェルトを偏愛していて、それはグシュルバウアー/グルベンキアンの明るい音であり、レコードもCDもあるのだが、このライヴが録られた時期もこれはこれで良いなと思ってしまった。つまりK453でいえばアバドとのDGの1993年の録音である。いままでどちらかというと毛嫌いしていたDG期の、暗いと感じていた音が、そうではないと思えるようになってきたのだろうか。


放送ではK453は第2楽章からだったので、当日の第1楽章からの動画と、ピリスではないがコヴァセヴィチのバガテルをリンクしておく (コヴァセヴィチって誰? と思ってしまったのはナイショである)。


Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.17&21
(Deutsche Grammophon)
Piano Concertos 17 & 21




Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.9&17
(ワーナーミュージック・ジャパン)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番《ジュノム》&第17番




Stephen Kovacevich/Beethoven: Bagatelle No 5 in G major, Op 126
https://www.youtube.com/watch?v=7ye7evxEeHs

Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.17, NHK Symphony
https://www.youtube.com/watch?v=K5OAcc9AIto
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パンクとキャンプ ― 最近の本や雑誌の話題など [本]

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(switch-store.net より)

脈絡もなく最近の本や雑誌の話題など。

『SWITCH』6月号の川久保玲インタヴューを興味深く読んだ。「PUNK」 であり 「CAMP」 であること。「「PUNK」 という表現は反骨を意味し、しなやかな*精神を表現するものです。でも今はその意味は忘れられ、表面的な言葉になってしまった」 と川久保はいう。「私はアーティストではないです。ビジネスをやっていますから」 と言い、「先に行かないといけない」 とも言う。相変わらずの過激な言葉にねじ伏せられる。(* 雑誌本文には 「しなかやな」 とあるが、たぶん誤植)
これだけ高名なデザイナーとなってもパンクな精神を忘れないことにおいて、その精神性の強靱さにうたれる。パンクな精神については、かつてヴィヴィアン・ウエストウッドも同様なことを言っていた。今回川久保が追求したテーマは白であるが、話しながら彼女は、ギャルソンの昔の店は白い内装だったということを思い出したという。「原点はまさにキッチンのようなイメージでした」
だがギャルソンの黒のイメージはいまだに強く、白はむずかしい色でもあるという。

 「PUNK」 は状況を伝え、「CAMP」 は内面のものを伝えるもの。両者は
 似て非なるもの。白が果たして世にかっこいいと見なされるかですね。
 実際は着にくい色だと思う。黒からまだ人は出られない。(p.030)

ちなみに、wikiの 「camp」 の項を見ると説明がいろいろ別れているのに気づく。ja.やen.では、キャンプはフランス語の代名動詞 「se camper」 から派生した語であるというが、fr.にはそういう説明はない。なぜcampという俗語ができたのかという説明ではja.に記述されているサミュエル・R・ディレイニーの 「野営地における売春婦の物真似」 という説明に笑ってしまうが的確な指摘のような気もする。
スーザン・ソンタグの 「何がキャンプで何がキャンプでないか」 という切り分けより、fr.にキャンプの例としてあげられているアリエル・ドンバール、ミレーヌ・ファルメールといった名前に納得してしまう。
「反抗の精神、そして少年のいたずらな心、不完全なものへの憧れ」 こそが 「少年のように」 というブランドネームを選び取った理由を示しているのだ。

インタヴュー、というより対談なのだが、樹木希林と是枝裕和の記事も映画が成立するまでの経過がよく分かって、まだ観ていない映画なのにその話術に (話術だよね?) 引き込まれてしまう。樹木希林は撮影時に入れ歯を外したのだそうで、顔が変わることも厭わず、監督に提案してそうしたとのこと。「良家のおばあさんなら駄目だけど、あんな家に住んでいるおばあさんだから、入れ歯を抜いてやらしてって」
試行錯誤しながらも全ては計算された上での演技であるのだ。そういうおばあさんであることが、すべての演技に反映してゆく。
カンヌを獲っても現宰相は無視している、などと言われているが、万引きは犯罪だし、つまりジャン・ジュネなんかと同じで、反社会的なそんなものを評価するわけにはいかないという姿勢でしかない。政治に美学は不要だからである。コムデギャルソンも《万引き家族》も反骨の精神ということでは同じ。だからコムデギャルソンがオリンピックのユニフォームに採用されることは無いのだ。

『夜想』は特集号として中川多理の写真集を出している。これはすごいです。是非買いましょう。ムックといっても一種の雑誌なのに、表面に紗がかけてある。
山尾悠子とのコラボレーションのことは以前の記事にしたが、今回も 「とりあげた作品」 としてマンディアルグ、ガルシア=マルケス、カフカ、夢野久作、そしてもちろん山尾悠子など。
その山尾悠子の久しぶりの作品『飛ぶ孔雀』は現在読んでいるところです。ガジェットとしてのペリット。
夢野久作全集は現在第4巻。「ドグラマグラ」 の巻。月報 (月報じゃないけど) に 「江戸川乱歩様恵存 夢野久作」 と書き込みのある出版記念会の写真掲載あり。小栗虫太郎とか喜多実とか。もちろん乱歩先生もいらっしゃいます。恵存とか硯北とか、いまでは死語か?

ちくま文庫の森茉莉『父と私 恋愛のようなもの』は例によって初出を含めたアンソロジーの第4弾。初出だから何、っていうほどのものはもはや無いが、堀口すみれ子の解説あり。facebookに青柳いずみこと堀口すみれ子の並んでいる写真があって、なんかカッコイイなぁと思ってしまう。いや、名前が。

『CG』7月号を読むと、ありえないけれど一応ロードスポーツということになっているマクラーレン・セナ。ディーノと同じで、名前を入れるのならセナなのだろうか。ノンハイブリッド最後の1台とも。


SWITCH 2018年6月号 (スイッチパブリッシング)
SWITCH Vol.36 No.6 特集:川久保玲 白の衝撃 Comme des Garçons Homme Plus




山尾悠子/飛ぶ孔雀 (文藝春秋)
飛ぶ孔雀




森茉莉/父と私 恋愛のようなもの (筑摩書房)
父と私 恋愛のようなもの (ちくま文庫)




夜想#中川多理 (ステュディオパラボリカ)
夜想#中川多理: 物語の中の少女

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Lieder ohne Worte — デルジャヴィナのスタンチンスキーを聴く [音楽]

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Ekaterina Derzhavina (2016)

エカテリーナ・デルジャヴィナの弾くスタンチンスキーを聴く。
墺Profil盤の《Stanchinsky Piano Works》は2017年のリリースだが、レコーディングは2004年、2005年と表記されている。
アレクセイ・スタンチンスキー (1888-1914) はマイナーな作曲家なので録音はしたものの出しにくかったのだろうか、そのへんの事情はよくわからない。

スタンチンスキーについては過去に書いたことがあるが (→2014年11月04日ブログ)、作品数が少なく、作品自体もそのほとんどが難曲であり、屈折した曲想であるため録音もあまり存在しない。メトネル系という括りの中で、よりマイナーなのがスタンチンスキー、アレクサンドロフであると思われる。
前回の記事は露メロディア盤のアレクサンドル・マルクスによるピアノであり、しかもグリンカとスタンチンスキーの相乗りという構成であった。

デルジャヴィナのアルバムは全曲スタンチンスキーだが、マルクス盤にも収録されている《Zwölf Skizzen》(12のスケッチ) op.1から始まっている。曲は皆短く、一番長い Largamente でも2’40”であり、1分に満たない曲もある。ひとつひとつは技巧的であり、どちらのアルバムにも収録されているということからも 「スタンチンスキーといえばこの曲」 的な意図があるのかもしれない。といっても、曲が短いのはヴェーベルン的に凝縮されて短くなっていったのではなく、詩的な音の連なりとしての風景のような書法であり、まさにスケッチという言葉通りのラフなイメージを想起させる。

収録されているソナタは《Erste Sonate (F)》、つまりソナタ第1番である。3楽章であり、《12のスケッチ》などと較べれば各楽章も比較的長い。スタンチンスキーのソナタは3曲あり、番号の付いていないes-mollのソナタ、第1番 F-dur、そして第2番 G-durである。調性は存在していて、ラフマニノフやメトネルにも見られるようなロマン派の残滓を引き摺ったアナクロで退嬰的なロシアである。屈折しているが難解ではない。そしてこの第1番は古典派のソナタと比較すれば十分にトリッキーだが、でもスタンチンスキーの中ではそんなにトリッキーではない。やや古風とも思えるが、それはその当時において最先端であればあるほど風化するのも早いという意味においての 「古風」 という印象である。各楽章は順にAllegro、Adagio、Prestoというごく普通な速度表示がされているが、第2楽章の、脈絡もなく 「とり散らかって」 しまっているような書法に彼らしい表情が見られる。対して終楽章は、軽くて明るいPrestoで、快調に小気味よく、ずっと流れていくようでありながら、ちょっとだけリズムにも和声にもイレギュラーに引っかかる個所があるが、デルジャヴィナの解釈は秀逸である。最後はまさに古典曲のようにあっさりと終わる。

だがアルバム最後に置かれた《Lieder ohne Worte》でスタンチンスキーの憂いが戻ってくる。Lieder ohne Worte は Songs without Words、つまり無言歌であるが、作曲は1904年から1905年、つまり彼が16~17歳の頃なので習作と考えたらよいのだろうか、曲自体も他の複雑系な曲に較べると妙に易しく、この通俗ギリギリにまで落ちてくるウェットな楽想に、意外に彼の心情が反映されているのかもしれない。
そしてこの曲をアルバムの最後に持ってきたところにデルジャヴィナの作曲者への想いを感じる。


Ekaterina Derzhavina/Stanchinsky Piano Works (Profil)
Stanchinsky: Piano Works




Alexander Malkus/Two Geniuses of Russian Piano Music (Melodiya)
Glinka/Stanchinsky




Ekaterina Derzhavina/Stanchinsky: Lieder ohne Worte - 1. Largo
https://www.youtube.com/watch?v=WLquKJKRsx0

参考:Lieder ohne Worte 全曲
https://www.youtube.com/watch?v=f-NxlRQWv4I

C. M. Schröder 200周年のデルジャヴィナ (2016)
https://www.youtube.com/watch?v=Te2os-PwKAo
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マルティヌー《2台のピアノのための協奏曲》— 児玉麻里&児玉桃 [音楽]

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Bohuslav Martinů

児玉麻里&児玉桃のチャイコフスキーに続くアルバム第2弾は、マルティヌーの《2台のピアノのための協奏曲》である。正確にはマルティヌーの《2つのヴァイオリンのための協奏曲》H.329と《2台のピアノのための協奏曲》H.292という、それぞれ同じ楽器2台の曲を2つ並べたというのがミソである。
チャイコフスキーという比較的口当たりの良いところから攻めてきたと思ったのだが、その次がマルティヌーというのに意外性がある。

ボフスラフ・マルティヌー (Bohuslav Martinů, 1890-1959) はチェコの作曲家であるが、ヴィラ=ロボスの次に多作といわれ、ハルプライヒ番号は384に達するが、bisや枝番があるので、作品数は大体400曲くらいと考えてよい。
といってもマルティヌーなんて実はほとんど知らないといっていい。作曲数とそのジャンルの広さだけ見たら、まさに大作曲家の雰囲気なのであるが、不明を恥じる他ない。
マルティヌーは当時のナチスの迫害から逃れるために1941年にアメリカに逃れた。H.292は1943年、アメリカ滞在時の作曲である。マルティヌーの交響曲第1番から第5番はアメリカで作曲されたものであり、彼の創作意欲が最も高かった時期であると考えてよい。
第二次世界大戦後、マルティヌーは祖国に戻ろうとしたがチェコ (チェコスロバキア) は共産党政権となったため、彼は帰国を断念し、ヨーロッパのあちこちに移り住む。亡くなったのはスイスの地であった。

マルティヌーの足跡から私は、同じように戦争を避けてアメリカに渡ったバルトークをどうしても連想してしまう。バルトークもハンガリーの国情の悪化を避けてアメリカに渡ったが、アメリカはバルトークに対して冷淡であり、彼は貧窮のままに1945年に亡くなってしまう。しかしセルゲイ・クーセヴィツキーからの委嘱である《管弦楽のための協奏曲》など、晩年には奇跡的な名曲が多い。その《管弦楽のための協奏曲》が作曲されたのもマルティヌーの《2台のピアノのための協奏曲》と同じ1943年である。そしてマルティヌーもクーセヴィツキーの紹介により職を得ている。

さて、《2台のピアノのための協奏曲》であるが、ピアノが2台同時に鳴るのはどうなのかという興味と不安とがあるのだが、第1楽章 Allegro non troppo は延々とピアノがたたみかけてきて、そのパワーに圧倒される。だが決してうるさくはない。2台あるのだから、片方がオブリガートになったり、2台で異なる表情を見せてもよさそうなのだが、そんな気配はなく、厚みのある音で正統的に押し切ってくる。トーナリティは保持されながらも音そのものが斬新であるところなどもバルトークの方法論に似ている。
第1楽章はアプローチによっては、かなりパッショネイトな傾向にもなるはずだが、児玉姉妹はそういう方向には振れて行かない。
第2楽章 Adagio は、冒頭のピアノに続く木管群の作りかたが妙に具体性を帯びていて、やや奇妙なテイストに、かすかなグロテスクさのようなものが感じられて (それはバルトークのようにあからさまではないが)、第1楽章と全く乖離した印象を受ける。再びピアノが主導権をとると、音は正統的な近代風の流れに変わってゆく。土俗的あるいは民族的な音はほとんど感じられない。この第2楽章のはじめのほうのオーケストレーションだけ、曲全体から見るとやや異質だが一番美しい。
第3楽章 Allegro は終楽章らしく中庸で、そんなに新奇な感じはないが、細かい音の重なりかたに複雑な絡みがあるのがわかる。ピアノがソロになるところでもテクニックを駆使したようなソロにはならず、だが急速調でオケが入って来るところにスリルがある。最後はごく典型的な古典音楽のフィナーレのようにして終わる。

併録されている《2つのヴァイオリンのための協奏曲》H.329 (1950) と《ヴォオラと管弦楽のためのラプソディ・コンチェルト》H.337 (1952) は、平易でわかりやすいのだが、戦後、マルティヌーの作風が変わったことを証明している。わかりやすいのだけれどあまりスリルがない。ただ、特にヴィオラの曲はその音色に独特の美学を感じる。

YouTubeで曲のサンプルを探してみたが、もちろん児玉姉妹の演奏があるわけはなく、Rai 5のラベック姉妹のライヴ演奏を見つけた。ラベック姉妹という名前は久しぶりに聞いたのだが、過去の記憶ではなんとなくイロモノのような印象があったのだけれど、この演奏を聴いて大変失礼であったと思うばかりである。
児玉姉妹とはアプローチが異なり、ややパッショネイト、そしてやや古い感じはするが、大変にテクニックもあり音楽性も高い。

児玉麻里&児玉桃のチャイコスフキー・アルバムの時のPVと、二人それぞれの演奏をリンクしておく。児玉桃のPVは以前のECMのアルバムの記事にもリンクしておいたものだが、児玉麻里のスタインウェイのPVと較べると、二人の個性がやや異なっていることがわかる。

KodamaMari&Momo_180602.jpg
(Gi-Co-Ma 岐阜現代美術館サイトより)


Martinů/Double Concertos
Mari & Momo Kodama, Sarah & Deborah Nemtanu (PENTATONE)
Martinu: Double Concertos




Katia and Marielle Labeque/
Martinu: Concerto for two Pianos and Orchestra
Sir Antonio Pappano/Orchestra dell’Accademia Santa Cecilia
https://www.youtube.com/watch?v=Z31DdnANKdk

01:03 First movement: Allegro non troppo
07:02 Second movement: Adagio
17:01 Third movement: Allegro
23:12 Applause

Aglika Genova, Liuben Dimitrov/
Martinů: Concerto for two Pianos and Orchestra (ピアノ譜付き)
Eiji Oue/Hannover Radio Philharmonic Orchestra
https://www.youtube.com/watch?v=br4cZoWE514

00:00 First movement: Allegro non troppo
06:16 Second movement: Adagio
16:18 Third movement: Allegro

Mari Kodama & Momo Kodama/Tchaikovsky Ballet Suites for Piano Duo
https://www.youtube.com/watch?v=bPZ7z_nb580

Mari Kodama/Beethoven: Klaviersonate Nr20 G-dur op49, 1. Satz
Live From The Factory Floor:
https://www.youtube.com/watch?v=YIWjcWa9Hsk

Momo Kodama/Point and Line. Debussy and Hosokawa
https://www.youtube.com/watch?v=j--4Cn5EzBo
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