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ポートランドの魔女 ― アーシュラ・K・ル=グィン [本]

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Ursula K. Le Guin (ursulakleguin.comのPublicity Photosより)

今朝の朝日新聞の書評欄のコラム 「文庫 この新刊!」 では池澤春菜がジョイス・キャロル・オーツの『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』(河出文庫) をトップで取り上げていた。池澤のチョイスは同じようなSF嗜好のためか、いつも私の好みにぴったり合っているので楽しみにしているのだが、オーツだってハードカヴァーより文庫のほうが買いやすいし、それだけ需要があるということだろうからちょっとうれしい (オーツの同書については→2014年09月24日ブログ、池澤春菜については→2016年07月27日ブログですでに書いた)。

しかしSFということでいうのならばル=グィンが亡くなったことは、88歳という年齢なのでいつかは来ることだったけれど、とても悲しい。アーシュラ・K・ル=グィンはSFというジャンルを超えて、20世紀において最も信頼できる作家のひとりであった。

アーシュラ・K・ル=グィン (Ursula K. Le Guin, 1929-2018) の一番よく知られている作品は何だろうか。おそらく『闇の左手』(1969) か、いわゆる《ゲド戦記シリーズ》(1968-2001) だろう (最初の3冊だけのときにはアースシー・トリロジーと呼ばれていた)。もうひとつあげるのならば、私は『所有せざる人々』(The Dispossessed, 1974) を選ぶ。

追悼記事は多数あってとても読み切れないが、ル=グィン自身のウェブサイトにリンクされている The New York Times の1月23日付 Gerald Jonas の記事を読んでみた。
ゲド戦記の舞台であるアースシーにおける魔法は言語に基づいていて、ゲドをはじめとする魔法使いたちは 「真 (まこと) の名前」 を知ることによって、そのパワーを発揮することができるという設定になっている。ゲドの場合もゲドは 「真の名前」 であって、通名は 「ハイタカ」 である。「真の名前」 を知られると相手にコントロールされることになるから 「真の名前」 を明かすのは勇気が必要である。アースシーという世界におけるこの法則が、名前という寓意で示しながら実際はそれ以上のメタファーになっていることは言うまでもない。
この法則、というか 「しばり」 をル=グィンは自分の作品に出てくるキャラクターに対しても真剣に適応したのだという (discipline seriously)。「私は (そのキャラクターの) 正しい名前を見つけなければならない。それでないとストーリーに乗ることができない」、つまり 「名前が間違っているとストーリーを書くことができない」 のだそうだ。
ゲド戦記において、ハイタカに対立する者がなぜヒスイという名前なのかとか、クレムカムレクという謎のような名前とか、それらはそれぞれに考え抜かれて命名されていたのだということがあらためて確認できる。

『所有せざる人々』は二重惑星のひとつが資本主義であり、もうひとつが一種の社会主義であるという設定から、政治小説として読むことも可能だが、それは書かれたのが1974年というベトナム戦争末期という時期とも関係しているように思える。しかしル=グィンの場合、フランシス・コッポラの《地獄の黙示録》のようにリアルな表情を見せることはない。
彼女の作品に存在するのは、光と影、男性と女性、名前のあるものと無名のもののように二項対立であり、資本主義と共産主義というのも同様である。
そして『所有せざる人々』の場合、資本主義社会は繁栄しているが腐敗していて、共産主義社会は、共産主義というよりユートピアを指向していながらそこに到達できないゆえの貧困があり、ル=グィンはそれが良いことであるとも悪いことであるとも断定しない。それは読者に与えられた課題であるのだ。
ニューヨーク・タイムズの記事には 「ロシアのアナーキスト、ピョートル・クロポトキンのアイデアをベースとした」 というような表現があり、いわゆるアナーキズムであるが、『天のろくろ』などには老荘思想への傾倒もあり、それはル=グィンが作品の登場人物に好んで白人でなく有色人種を選ぶのと並んで、彼女の強い意志と確信がうかがわれる。
この作品が書かれた当時、ドイツはまだ東西に分断されていたし、いまでも朝鮮は南北に別れたままだ。ル=グィンはそうした事象をストレートには描かないし直接的な政治的発言もしなかったが、2009年にgoogleの本のデジタル化プロジェクトに反対してAuthors Guildを脱退したことからもわかるように、その信念は一貫していて揺るぐことがない。

ル=グィンはアメリカの北西部ポートランドにずっと住んでいた。ひとつの区切られた空間というものが幾つもの幻想に作用する。その地が住みやすかったのか住みにくかったのかということとは別に、ある空間や時間を所有すること、それは所有しないことよりも物質的には豊かであるが、ひとりの人間の歴史の中で、住む場所はとても重要なのではないかと考える。私はアメリカの北東端に住んでいたマルグリット・ユルスナールのことを同時に思い出していたのだ。

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Le Guin at home with her cat, Lorenzo (1996) (nytimes.comより)


アーシュラ・K. ル・グウィン/ゲド戦記 (岩波書店)
ゲド戦記 全6冊セット (ソフトカバー版)




アーシュラ・K・ル・グィン/闇の左手 (早川書房)
闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))




アーシュラ・K・ル・グィン/所有せざる人々 (早川書房)
所有せざる人々 (ハヤカワ文庫SF)

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メトネルを聴く ― エカテリーナ・デルジャヴィナ《8 Stimmungsbilder》 [音楽]

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Ekaterina Derzhavina

今日は朝から雪だ。東京としては、かなり大雪になっている。これから出かけなければならないと思うと憂鬱だ。

YouTubeでメトネルのピアノ曲をなんとなく検索していたら、ドミトリー・ラフマニノフというちょっと名前負けしてしまいそうなピアニストに行き当たった。あのラフマニノフと関係があるのだろうか? たぶん無いのだろうけれど、手が大きくてダイナミックで、まさにラフマニノフを弾くのにはふわさしい。

でもそれよりエカテリーナ・デルジャヴィナ (Ekaterina Derzhavina) のメトネルである。デルジャヴィナは1967年ロシアのモスクワ生まれのピアニストであるが、ラ・フォル・ジュルネで来日したこともあるらしい。ハイドンのピアノ・ソナタで有名だが、私はまだ未聴である。
ゴルトベルクの演奏もあって、これも評判になったらしいが現在廃盤らしく入手しにくい。グールドと比較していたネットの記事もあったが、グールドのゴルトベルクは確かに孤高で画期的ではあるけれど、グールドだけがピアニストではないと私は思う。何事もそうだが、カリスマをつくりあげてしまうと冷静な判断がしにくくなる。

メトネル (Nokolai Karlovich Medtner, 1880-1951) はロシアの作曲家であるが、ピアノ曲がその作品の大半であり、ピアノ以外では室内楽曲が少しあるだけである。ロシア人であるがもともとはドイツ系であり、ロシア革命後 (正確に言えば十月革命後)、ロシアを出てパリに住んだが彼の作風はその頃のフランス楽壇の先進的な音楽とは合わず、やがてロンドンへと行きその地で没した。
メトネルの作風はやや時代遅れのロマン派的な傾向であり、つまりラフマニノフ的であり、たとえばプロコフィエフのような音楽を嫌っていたという。作品から醸し出される印象は暗く、やや晦渋で屈折した抒情であり、常に多声で鳴っているような構造をしていて、求められるテクニックは高度である。

メトネルは私の偏愛する作曲家のひとりであるが、そのためにかえってあまり書くことができない。メトネルの演奏ではイリーナ・メジューエワがよく知られているが、それに対してデルジャヴィナがどうなのかは、私の中ではまだよくわからない。
デルジャヴィナの最近の録音には夭折の作曲家スタンチンスキーがあり、その選曲が私好みである。

YouTubeにメトネルの《8 Stimmungsbilder》(8つの情景画) を弾いたデルジャヴィナの動画があった。英訳されたタイトルだと Mood Picutures であるが、 邦題の 「情景画」 というのは、言葉としてそういうのもあるのかもしれないが、やや違和感がある。ラフマニノフには《Études-tableaux》(音の絵) という曲があるが、それと同じようなタイトルの付け方のような気がする。

《8 Stimmungsbilder》は作品番号1で、書き始められたのは1895年であるが、書き継がれ、書き終わったのが何年かははっきり特定できなかった。1903年に楽譜が出版されている。
8曲で構成されているが、調性的には2曲ずつのセットになっているようで、1曲目:Prologue: Andante cantabil が E、2曲目のAllegro con impeto が gis であるが、3曲目:Maestoso freddoと4曲目:Andantino con motoは es と Ges になっていて、1~2曲目のセットとは半音/一音とごく近い。5~6曲目 Andante & Allegro con humore は5度上がった b と Des、そして7曲目:Allegro con ira と8曲目の Allegro con grazia - quasi valse のみこの法則性から外れて、どちらもfisとなっている。

6曲目 (デルジャヴィナのリンク動画で14’20”あたりから) の L’istesso tempo と表記のある18小節目 (14’48”) からとつぜんリズムが変わって懐旧的なメロディが紡ぎ出される。これは古いタンゴのリズムなのだそうだが、ドヴォルザーク的な俗謡のようで、でも陰翳は曖昧で寂しい。この6曲目から終曲の8曲目までがこの作品のピークである。
作品番号1の楽曲がこのように完成されたものであることからもわかるように、メトネルには習作曲とかわかりやすい曲というのが存在しない。すべては緻密で凝縮された暗い輝きのなかにある。

(メトネルについては→2012年01月29日ブログ、スタンチンスキーについては→2014年11月04日ブログに少しだけ書いたが、まだ全然消化不良である)


Ekaterina Derzhavina/Haydn: The Piano Sonatas (Profil)
ハイドン : ピアノソナタ全集 (Joseph Haydn : The piano sonatas (Die Klaviersonaten) / Ekaterina Derzhavina) (9CD Box) [輸入盤]




Ekaterina Derzhavina/
Medtner: 8 Stimmungsbilder (8 Mood Pictures, 8つの情景画) op.1
live 2015.10.11 モスクワ音楽院小ホール
https://www.youtube.com/watch?v=LwEzcKDqoeM
1曲目楽譜画面
https://www.youtube.com/watch?v=SMbooLjwLmE
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ブラームスはお好き? その2 — 交響曲第1番 [音楽]

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Seiji Ozawa (1992)

この前のブラームスのスコアに関する記事 (→2017年12月09日ブログ) では、その解説の面白さに引き込まれながら、中途半端に終わってしまったので、あらためて書いてみたい。

第1番を完成するまでのブラームスは、ベートーヴェンの後継として恥ずかしくないものを、というような重圧があったのかもしれないが、オーケストラの編成を拡張せず、ほぼベートーヴェンの5番と同じであることなど、ベートーヴェン的な正統的古典派を狙い、一見その作風の延長線上にあるように見せながら、この解説を読むと、全く異なるメカニックともいえる構造を備えていて、その完成度の高さに驚くのである。
「さまざまな動機の多層な組み合わせ」 (p.9) による構造が全てを支配していて、非常に理知的であるが、仕掛けが深いといってもよいだろう。

野本由紀夫の解説の構成表によれば、第1楽章 Un poco sostenuto - Allegro - Meno allegro, c-moll, 8分の6拍子 (第6小節のみ8分の9拍子) は序奏部 (小節数:1~)、呈示部 (38~)、展開部 (189~)、再現部 (339~)、そしてコーダ (449~511) となっているが、序奏部は後から付け加えられたものであり、呈示部以降を凝縮していて、「この曲の全体をとおして使われる 「原素材」 が提示される重要な部分」 (p.9) であるという。
冒頭の第1vl.の半音上行する動機 「c - cis - d」 そして [es - f] 「g - as - a - b」 と (第2vl., vcも同じ動き)、管楽器、vaによるその反行形 [c -] 「b - a - as - g」 および [c -] 「g - fis - f - es」 が何度も頻出し、さらにかたちを変えて出現するのだという。つまり数音のクロマティックな音列だけが基本にあり、それが様々に変容しているというのがその種明かしなのだ。

 古典的な交響曲なら変ホ長調Es: で始まりそうなところ、この楽章の展
 開部は異例なことに、ロ長調H: で始まる。(p.11)

この部分は、第3楽章のところで解説がされているのだが、つまりメディアント関係にあるのだというのがその答えなのだ。
12音を時計の文字盤のように円形に配置すると長3度のインターヴァルはキー:c ならc - e - gis (=as) となり (コードネームでいえばC augの構成音)、4つおきのポジションで三角形を形成する。古典的な交響曲ならc-mollに対してEs-durというのは平行調であるが、es (=dis) のメディアントは g と h であり、だから展開部がロ長調となってもよいわけだ。しかも前記構成表によれば、呈示部121小節から Es、157小節から es と転調しており、前もって Es、es を経ての H なのである。

ただブラームスの異質というか一筋縄でいかないところは、このメディアント関係を楽章毎の変化に適用していることで、各楽章の調性は、順に c-moll → E-dur → As-dur → C-dur というサイクルになっている。そしてもっと細かい部分でもメディアントの関係性が使われているのだという。
こうした思考方法が古典派であるベートーヴェンとは違う部分だ。しかし、リストやワーグナーが増三和音それ自体を使っていたのに対し、ブラームスにはそこまでのフレキシビリティはなかったようである。

第2楽章 Andante sostenuto, E-dur, 4分の3拍子 に対しても的確と思える解析がある。ブラームスの曖昧さみたいなものはすべて計算づくであると考えれば説明がつく。

 この楽章は、楽段構造がぼかされており、明確なフレーズ末尾がないま
 ま次々と旋律が紡ぎ出されていく。(p.13)

そしてその曖昧さへの分析は次のようである。

 区切りが不明瞭な理由は、和声付けが半音階的な上、明確な終止を回避
 しているからである。結果的に、一種の 「無限旋律」 を生み出していよ
 う。その点では、やはりワーグナーとの同時代性を感じさせる。(p.13)

第3楽章 Un poco allegretto e grazioso, As-dur, 4分の2拍子 は冒頭のクラリネットのソロにからくりがあるという。1小節~5小節までと6小節~10小節までの旋律を上下に並べると、まさしく鏡像になっているのだ。正確な音名だと、かえってわかりにくいような気がするので、固定ドのドレミファで書くと、最初の5小節は 「ミーレド╱レドシド╱レドシド╱シラシー」 だが、次の5小節は 「ドーレミ╱レミファミ╱レミファミ╱ファソファー」 (レはdesでなくd) となっている (スコア上ではBクラだが、これは実音)。

 つまり、かなり人工的に作られたメロディなのである。それなのにまっ
 たく作り物だと感じさせないあたりが、ブラームス・マジックといえよ
 う。この、主題の後半を前半の反行形で秩序づけるやり方は、のちのシ
 ェーンベルクやウェーベルン (1883-1945) の十二音技法を予感させ
 る。(p.14)

この第3楽章の説明の中に前述のメディアントの説明があるが、こうした長3度の円環はシューベルトの影響であると野本は書く。

第4楽章 Adagio - Più andante - Allegro non troppo, ma con brio - Più allegro, c-moll - C-dur, 4分の4拍子 で、この楽章のみトロンボーンが使われているのはベートーヴェンの5番と同じであり、それもまたベートーヴェンを意識した音作りだったのだという。

 第4楽章冒頭は、高音部に 「c - g - fis - g - es - d」 (刺繍音型)、低音部
 に 「c - b - as - g」 (4度下降モチーフ) という作りである。(p.17)

これらは後に声部を入れ替えられて、高音に4度モチーフ、低音に刺繍音型が出現するというが、簡単なパターンを繰り返し使用しながら、ヴァリエーションで変形させて行くというのがブラームス得意の手法といってよいだろう。

 こうして同じモチーフからの分割と派生によって全く見かけの異なるメ
 ロディを展開していくやり方は、高度な 「発展的変奏」 と呼ぶにふさわ
 しい。(p.18)

と野本は書く。
刺繍音型のモチーフは、コーダ (391小節以降) では縮小された c - h - c の連続となり、弦パートで繰り返される。さらにそのリズムは403小節から木管部に移って繰り返しとなり、そして最終の447小節から、再び弦パートで繰り返される。あまりにも単純な、c と h という2音しかないパターンがこの部分の最も重要な支配者なのだ。
最後に野本は再度、ブラームスのテクニックについて述べている。

 ブラームスの技量がすごいのは、このように半ば人工的かつ意識的に緻
 密に作りこんでいるにもかかわらず、旋律線が美しく、聴いていてすこ
 ぶる自然な音楽の流れに感じられる点にあろう。(p.18)

まさにその通りで、こうした恣意性、人工性は言われなければわからない。シェーンベルクやヴェーベルンの音は人工的作風ゆえに奇矯であり、そうした人工的な美学もまた12音や無調的な作品特有の特徴であるが、そこに至るまでの道の途中にブラームスがいて、しかも結果としてそのブラームスは古びず、さらに年輪を重ねている。ある意味、ブラームスの方法論は折衷主義であったが、それは彼の中だけに (葛藤として?) 存在していて作品の表面には出て来なかった。それがブラームスの天才性なのだと思う。


(以下のリンクは2017年12月09日記事と同じものである)
Saito Kinen Orchestra Seiji Ozawa 1992 (NHKエンタープライズ)
小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ 1992 [DVD]




Seiji Ozawa, Saito Kinen Orchestra/
Brahms: Symphony No.1 in C minor Op.68 
(live 1992.9.5/長野県松本文化会館)
https://www.youtube.com/watch?v=7M7Q7BXh_is
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森山大道『犬の記憶』を読む [アート]

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Daido Moriyama/Mémoires d’un chien (delpile)

記憶と写真は相反するものである。記憶は固有のデータであり、時とともに変質したり曖昧な姿となったりする、幅を持った時間である。しかし写真はそのときの一点であり、リニアな時間の流れの中を切り取った瞬間でしかない。
でありながら森山大道の写真は、その一瞬の中に何も籠めないと言いながら、幾つもの重層的な時と永遠を含んでいる。まるでプルースト、あるいはランボーのように。

森山大道の『犬の記憶』(1984) は彼の最初のエッセイ集であるが、その写真術を解読するための手がかりとなりそうでいながら、その文章の巧さに騙されているのかもしれないとも思う。それは武満徹の文章から感じとれるものと同じで、相互補完しながら、より強いイメージを生み出す。しかしそのイメージが作品それ自体の解説となっているのかどうかはわからない。森山の写真は具体性を持っていながら抽象で、一瞬を切り取っているはずの一瞬は一瞬ではない。
増感現像は写真を記憶というドメーヌに近づけようとする手段なのだ。

ある時点Aで記憶を回想するという行為は、次の時点Bでは、元の記憶とその記憶を回想していた時点Aの記憶が重なる。そのようにして時点が繰り返し増えてゆけば、記憶も重層化して幾つもの層を作り堆積する。

 垣間見、無限に擦過していくそれら愛しいものすべてを、僕はせめてフ
 ィルムに所有したいと願っているのに、欲しいもののほとんどは、いく
 ら撮っても網の目から抜けこぼれる水のようにつぎつぎと流れ去ってし
 まって、手もとにはいつも頼りなく捉えどころのないイメージの破片の
 みが、残像とも潜像ともつかない幾層もの層をなして僕の心のなかに沈
 み込む。(p.40)

読んでいたのは河出文庫版だが、1984年に上梓されたときのあとがき、2001年に書かれた文庫版あとがきがあり、それを2019年の今、読んでいるこのことも記憶の重層化と同様の現象である。

「暗い絵」 では大阪の記憶が語られる。昭和21年晩秋、まだ瓦礫の中の大阪駅裏に佇む森山の家族5人。彼はそのとき8歳であった。
そして5日前に大阪に行ってきた話から、時間は遡り、15歳の頃の記憶に入ってゆく。若い頃の 「ひとりでヒリヒリとひりついてばかり」 だった記憶。突然の父親の死。デザイン会社の仕事をしていたこと。仕事で得た金で風俗店に行ったこと。
現実の大阪に戻ると、今、目にしているそこは戦後の廃墟ではなく、夜の喧噪と光の氾濫の中にある。しかし大阪駅裏が見渡せる店で、森山は終戦直後のそのときを思い出す。

 あれからの時間がはたして長かったものか短かったものか、実際の時間
 とそして心の時間と、などと考えているうちに、なぜかそんな記憶が鬱
 陶しく、そしてなんとなく面倒くさかった。風景の変貌が、きっと感傷
 を断ち切ったのであろうか。深夜のすいた店内では 「オー スーパーマ
 ン」 が掛かっていた。(p.105)

この文章の末尾で、唐突に出てくる〈O Superman〉が印象的だ。この曲のリリースは1981年で、たぶんその当時は、新奇な手触りの曲であったことが窺い知れる。逆にいうと森山の作品には通常は音あるいは音楽として想起されるイメージが欠けていて、それはわざと沈黙のなかに被写体があるように配置されているとしか思えない構造性を持っている。

森山の写真に対する強烈なヴァイタリティもまた武満徹を思い出す。これと決めたらその方向に突き進む無鉄砲に近い方法論が似ているが、2人は8歳離れているけれど、ほぼ同時代に頭角を現していて、森山が細江英公の助手となったのが1962年、独立したのが1963年、そして横須賀の写真を撮り続けていたのが1964年であるが、同時期の武満は《砂の女》への映画音楽が1964年、《他人の顔》が1966年である。
そして森山は1966年に寺山修司からの依頼を受けた雑誌『俳句』への連載があり、1967年に日本写真批評家協会新人賞を受賞するが、武満の《ノヴェンバー・ステップス》も1967年である。
もちろんそれぞれの、作品を創造し発表することへの強い意志があることは確かだが、この60年代後半にはそうした強烈な個性の発露が待ち望まれていた背景があったともいえる。

人間の心の中で、記憶はいかにして発掘され再生されるのか、あるいは捏造され風化してゆくのかを私は考えていた。記憶は不思議である。機械的なメモリーのように確実ではないが底が知れない。写真はほんの何十分の1秒から何千分の1秒という瞬間的な時間を切り取る。
森山は次のように書く。

 人間はみな風景をつぎつぎに喪失していく。それは時間への焦燥といい
 かえてもよい。時間とは、無限につづいていくものではなく、むしろそ
 れぞれに迫りくるものだと思う。(p.160)

あるいはまた、

 写真は光の記憶と化石であり、そして写真は記憶の歴史である。(p.188)

つまり人間の記憶はやがて終焉がくる。記憶は伝えることができない。肉体が滅びるとき記憶も飛散する。写真は機械の目で撮られたものであるが、そこに人間の選択と選別が作用する。それは継続して堆積してゆく時間を削ぎ取った薄い破片である。


森山大道/犬の記憶 (河出書房新社)
犬の記憶 (河出文庫)

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ピストルと月と花火 — 年末年始のこと 2017〜2018 [雑記]

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aiko 2017.12.31

ハインリヒ・シェンカー (1868-1935) のベートーヴェンのピアノソナタ校訂版、まず第31番 (出版・1914) を読み始めたんですが、これがなんというか悪口の山盛りで、たとえばハンス・フォン・ビューロー (1830-1894) などボコボコにされています。ビューローとブラームスの関係は以前のブログにも書きましたけど (→2017年12月09日ブログ)、ビューローとヨハネス・ブラームス (1833-1897) はほぼ同年代で、シェンカーは2人よりずっと年下ですが、ビューローがブラームスに対して尊大な態度をとっていたことにむかっ腹を立てていたらしくて、ブラームスがビューローのことを 「所詮は単なる楽長に過ぎない」 と言っていたと暴露しています。
翻訳者である山田三香は当初、ヨナス版という再版を底本にしていたのですが、このヨナス版はシェンカーの悪口部分を省いたものだったそうで、ある意味、そっちのほうが正解なんじゃないかと思います。曲の分析だけやっていればいいのに、この罵詈雑言で全体の評価として減点という感じで、でもその当時の彼にとっては、そうしないと気持ちが収まらなかったのでしょうね~。

それでこの年末年始は、いつもなら絶対に見ることのできなかった紅白歌合戦など見てしまい、う~ん、10年ぶりくらいかなぁ、もっとも最初からではなくて何曲か過ぎてから見たのですが、知らない歌手がいっぱい出ていて、なかなか面白かったです。
こわいもの知らずに書いてみると、私の好みとしては竹原ピストルとエレファントカシマシがよかったです。基本的に私はパンクなので (まぢ?)。

竹原ピストルが《Love music》に出演したときの動画を見ると、なんかタメの多い歌いかたをしていて、ちょっとなぁ、と思ったのですが、紅白ではリズムがスッキリしていて緊張感もあって、本人も言っていたように良く歌えてました。「オレの言うことを聞け」 と言っておいて 「俺を含め、誰の言うことも聞くな」 っていうのは矛盾していてカッコイイんですが、その後に 「花を咲かせたらいいさ」 と続く歌詞が妙に陳腐で、わざとそうしているのかどうなのか微妙です。
エレカシは、一番いいコンディションをここに持ってきたという感じでベストでしたね。宮本浩次にあまりしゃべらせなかったのもよかったし。〈今宵の月のように〉は宮本と佐久間正英の編曲だったことを知りました。
それと審査員の一番良い席に吉岡里帆が座っていて、高橋一生との2ショットもあってというのがさすがのNHKです。まぁでも、紅白なんて、たまに見るからいいのかなぁ。

さてそれが終わって、CDTVにチャンネルを変えたら、いきなりのaikoがパンクっぽい仕上がりでよかったです。aikoのぐにゃぐにゃしたメロディラインが嫌いっていう人も多いんですが、聴いていると、つまりブルーノートっぽいっていうのか、いや、どの音にでもかけるので微分音的といったほうがいい部分があります。本来のaikoの歌唱力はすごく高いので、音が変なふうに聞こえるところは音痴じゃなくて、わざとそう歌っている (つまり音が外れているんじゃなくて外している) のだと確信しました。CDTVは昔からユルい感じがよかったんですが、見続ける気力がもうないです。

1月2日には府中の大國魂神社に初詣に行きました。以前は府中本町のこのあたりの道をよく通っていて、その頃は駅前のビル、イトーヨーカドーだったのにいまじゃボウリング場になってるし。府中本町駅から行くと参道の横から入るかたちになります。
実は大國魂神社に初詣で行ったのは初めてです。めちゃくちゃ長い列でこりゃダメと思ったのですが、意外に列が速く進むので、思ったほどではなかったです。おみくじは何を引いてもすごく悪いことが書いてあって、これ、大吉なのに凶じゃね? という内容。たぶん大國魂神社の芸風です。
参道の両脇はテキヤ系の屋台がたくさん並んでいて、でもよく見ると同じ看板の繰り返しがあったりして、やきそばを小さなパックに山盛りにしてフタがしまらないふうにするのがここの屋台の芸風? なら、もっと大きいパックにすればよさそうなものだけどそれじゃつまらないから、ということでしょう。キツネのお面だけのお面屋というのがユニークでした。ダルマ屋はどの店にも値札がないので怖いです。買わないけど。

竹原ピストルの紅白動画は昨日はあったんだけど今日になったら削除されていました。残念。それでYouTubeを探しているときブルーハーツの初期の動画を見つけたので、関係ないけどリンクしておきます。


竹原ピストル/よー、そこの若いの PV
https://www.youtube.com/watch?v=G9YgNxMB9Uo

エレファントカシマシ/今宵の月のように
Viva La Rock 2014 (2014.05.04)
https://www.youtube.com/watch?v=aQ_3uR2kjSY

aiko/花火
CDTV年越しライブ2017~2018 (2017.12.31).
https://www.youtube.com/watch?v=8-fKnIm9uZ8

aiko/予告
ミュージックステーションスーパーライブ (2017.12.22)
https://www.youtube.com/watch?v=lj9PWgySRLM

ザ・ブルーハーツ/リンダリンダ
夜のヒットスタジオ (1987.12.30)
https://www.youtube.com/watch?v=GcvYz1xK7WI
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《裏窓》— 浅川マキを聴く [音楽]

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開かない窓は絶望のメタファーである。まだカメラを初めて持ったばかりで何を撮るのも面白かった頃、でも見知らぬ人にいきなりレンズを向けるわけにもいかず、誰もいない風景を撮っていたことがあった。風景というよりも何かひとつのかたちあるものが、一種のオブジェのような、言葉を発さない私専有のモデルでありそのひとつが窓であった。
たとえば煌びやかなショーウィンドウや毎日開け閉てする窓なら快活で生きている感じがするし、そしてヒッチコックの窓も活用されているライヴな窓であるが、もう決して開けられることのない、中の様子もわからない曇り硝子の窓は光を喪った瞳であり、幽閉された王女の幻想さえ思い浮かばない単なる虚ろな形象である。

古い大学構内の裏庭に面した窓は、その正面に家具を押しつけられてもう開けられる可能性が無くなり、沈黙したままで存在していて、ときに外壁の煉瓦には蔦が絡んでいたりして、しかしそれは決して美しいものではなく、寂れて廃れゆきつつある銹びた風景でしかない。

森山大道の写真と文章から受ける印象は、増感されたざらざらの肌合いであり、すべての風景は変質して時代を遡る。それを見ていたら突然、浅川マキの《裏窓》(1973) を思い出したのである。数年前、CDが再発されたのだが、そのモノクロームのジャケット写真は田村仁で、ひとつの時代を象徴するように増感されていて、無骨な麤皮のような手触りを連想させる。

アルバム《裏窓》の白眉はタイトル曲の〈裏窓〉である。

 裏窓からは 夕陽が見える
 洗濯干し場の梯子が見える
 裏窓からは
 より添っている ふたりが見える

 裏窓からは 川が見える
 暗いはしけの音が聞こえる
 裏窓からは
 ときどきひとの 別れが見える

 裏窓からは あたしが見える
 三年前はまだ若かった
 裏窓からは
 しあわせそうな ふたりが見える

 だけど夜風がバタン
 扉を閉じるよバタン
 また開くよバタン
 もうまぼろしは 消えていた

 裏窓からは 川が見える
 あかりを消せば未練も消える
 裏窓からは
 別れたあとの 女が見える

この裏窓から見える風景は貧しいけれど決して死に絶えている風景ではない。しかし主人公である女は現実の風景とともに過去の風景を見ていて、それは冷静な視点でありながら最後には悲哀となって消えてゆく。
川の描写は《泥の河》のようでもあり、洗濯干し場を撮った荒木経惟の作品があったような気がする。それは沈黙した記憶のなかにある、過去の庶民が知っていた風景である。

作詩は寺山修司だが、非常に技巧的な構造をしている (浅川マキの場合、作詞ではなく作詩と表記するとのことでその慣例に従う)。
「夕陽が見える」 「梯子が見える」 というように 「見える」 という視覚を繰り返しながら、第2連の2行目のみ 「はしけの音が聞こえる」 と聴覚を入れているが、これは最後の第5連の2行目に呼応していて、「未練も消える」 への伏線である。しかも 「きこえる」 が 「きえる」 と 「こ」 がひとつ無くなっただけなのに、動きは能動的なものから受動的なものへと変化する。消えてしまうことは、サビである第4連の4行目、「もうまぼろしは消えていた」 だけで終わらず、第5連の2行目で 「消せば」 「消える」 と追い打ちをかけている。
第1連4行目の 「より添っているふたり」 も、第3連4行目の 「しあわせそうなふたり」 も明るいイメージなのに、第2連4行目では 「ひとの別れがみえる」 という暗いイメージが対比されるが、それは第2連2行目の 「暗いはしけの音」 ですでに予感されている。そしてその暗い予感は最終行の 「別れたあとの女」 で現実化する。

音楽的にはギターによるシンプルなイントロと、曲を動かしてゆく重いリズムが印象的だ。イントロの一部はグラント・グリーンの〈Idle Moments〉のイントロのフレーズが引用されているとのことで、確かにうまく取り入れられているが、初めて知った。
サビが終わってからの市原宏祐のバス・クラリネットによる間奏があまりにも暗くて心に沁みわたる。悲しく美しい。

4曲目の〈セント・ジェームズ病院〉は神田共立講堂におけるライヴを収録しているが、南里文雄のトランペットがフィーチャーされている。ニューオーリンズ的な輝かしいソロは、しかし南里の最後のレコーディングとなったのだという。

最後の曲、〈ケンタウロスの子守唄〉は筒井康隆・作詩/山下洋輔・作曲による《21世紀のこどもの歌》というオムニバス・アルバムの収録曲のカヴァー。詩の内容は筒井らしさをあらわすSF的な設定であるが、「白いお馬」、「赤いお馬」、そして最後に 「青い星」 の 「青いお馬」 という言葉から、どこか遠くの星にいる人間が、遙か遠くの青い星 (=地球?) への望郷の念を歌っているようにも思える。しかし 「青い馬」 とはヨハネ黙示録の 「蒼ざめた馬」 であり、それは死の象徴に他ならない。B・ロープシンやアガサ・クリスティ、五木寛之にもある 「蒼ざめた馬」 のタイトルの出典はすべてヨハネ黙示録である。
筒井の場合、馬という言葉から連想してしまうのはベルトルト・ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(1939) のパロディである『馬の首風雲録』(1967) であるが、2連の惑星という設定からはル=グィンの『所有せざる人々』(1974) も連想させる。といってもSFにはよくある設定であり、ル=グィンが筒井を剽窃したわけではない (それはおそらく不可能である)。

森山大道は1984年に 「時代のシステムがかわり、在りし日の風景がほとんど風化してしまった」 と書いている。さらに時の過ぎた今、昭和のシステムは朽ちていこうとしているのだ。変化した風景の元の風景がどうだったのかは誰も記憶していない。すぐに忘れてしまう、それが記憶の真実である。


浅川マキ/裏窓 (EMIミュージックジャパン)
裏窓(紙ジャケット仕様)




浅川マキ/裏窓
https://www.youtube.com/watch?v=KYz-1mZjhRE&t=13s
03:58 | 裏窓 (Rear Window)
11:59 | セント・ジェームス病院 (St. James Hospital)
41:09 | ケンタウロスの子守唄 (Centaur’s Lullaby)
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やり残しのメモ [雑記]

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Caetano Veloso

2017年の終わりにはいろいろとトラブルがあって、やり残してしまったことが年を越してしまった。ブログに書こうと思ってメモをとっていても、時間がなくて読めなかったり聴けなかったり調べられなかったりで没にしてしまう数々のこと。でもこれから書くかもしれない幾つかのこと。すべては神のみぞ知る、ってビーチ・ボーイズですね。メモをそのまま書いておこう。2017年の忘れ形見として。こうして書いてしまうと気が済んで、もうこれで終わりにしてしまうのかもしれないが。

ウラジーミル・ナボコフの『アーダ』はとりあえず買っておいたけれどまだ読んでないうちに、すでに書評が出てしまって、自分の読む速度の遅さにがっかりする。若島正はロリータ、青白い炎、アーダを英語著作の3大傑作と位置づけている。ナボコフのフィネガンであるともいう。でもロシア語の『マーシェンカ/キング、クイーン・ジャック』も気になるところ。アーダはピーター・トライアスみたいな一種のSFでもある。SFそのものをも揶揄しているとはいうのだけれど。内田善美のリデルのウラジーミルに対しては、当然ナボコフを連想しなければならない。

ハインリヒ・シェンカーのベートーヴェンの校訂版は高価なので手が出なかったのだが、この前、丸善のポイントカードが廃止になってそれを精算したらすごいポイント数。で憑かれたようにシェンカーの全4冊のうち2冊を買ってしまった。これから読みます。読めないかもしれないけど。内田光子はシェンカーをほとんど読んでいるそうで、推薦文のなかで 「偉大な音楽は謎である」 と書いている。
シェンカーの重要性についてはマリア・ペライアも言及している。ロマン・ロラン全集のベートーヴェンの部分だけは以前から買ってあります。尚、マイケル・シェンカーではありません。

川上未映子編集の『早稲田文学』増刊・女性号は早々に売り切れてしまっていましたが、この前、増刷されたのでやっと購入。最初のほうに岸本佐知子訳のルシア・ベルリンがあって、ふふふと呟いてしまう。川上訳の一葉 「おおつごもり」 の収録あり。

そうそう、高山宏訳のアリスを購入。佐々木マキのイラスト、ポストカード3枚付き。私が規範とするのは岩崎民平訳だったが、今は百花繚乱。

冨永愛というメモがあるが、何を書こうと思ったのか忘れてしまった。爽健美茶のCMが衝撃だった頃。

電影少女というメモは、たぶんテレ東のTVドラマがはじまるからという意味で書いたのだと思うが、結局観ていない。ところで『I’’s』のコミックカバーの第1巻は何種類もあるのです。確か7種類くらい。増刷毎に少しずつ絵が違う。

アンナ・フェドロヴァ。ネットの動画にはあるのだけれど、CDはラフマニノフとかそんなに種類が無い。スカルラッティを探しているうちに見つけたバッハが面白いと思う。

新高恵子。天井桟敷の伝説の主演女優。彼女の伝記のようなものを、先日、自由価格本のなかに発見したので購入。ノックのムックを発見したのと同じ書店で。

タカーチのベートーヴェンSQについて。結局まだ聴いていないCDになってしまっています。ただ、タカーチは音だけ聴いているとよいのだが、演奏している動画を観るとあまりよくない。なぜなのか不明。

デヴィッド・ジンマン/トーンハレのボックスはマーラーがダブッてしまったが、しかもマーラー、そんなに感心しなかったのだけれど、これも一種の記念盤なのだろうということで。

阿部静子のテル・ケルについての解説本、メモにはベルナール・ラマルシュ=ヴァデルとロベール・ブレッソンの名前があるが今となってはなぜそれを書いたのか不明。フィリップ・ソレルスってほとんど知らないし。

フェルナンド・ソラナスの《Vuelvo al Sur》に関するメモ。ピアソラのmilan盤のサントラは昨年再発されたらしいがバンドネオンと枯れたゴジェネチェのシンプルさが美しい。Surはカエターノ・ヴェローゾも歌っています。


ウラジーミル・ナボコフ/アーダ (上) (早川書房)
アーダ〔新訳版〕 上




ウラジーミル・ナボコフ/アーダ (下) (早川書房)
アーダ〔新訳版〕 下




Caetano Veloso: Vuelvo al Sur (En vivo)
https://www.youtube.com/watch?v=UE4FL3fH2HQ

Caetano Veloso & João Gilberto/Garota de Ipanema
https://www.youtube.com/watch?v=h__ldWPnpXc
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