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里中高志『栗本薫と中島梓』を読む [本]

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豹頭の戦士グインかぁ……そういうの、あったなあ。なつかしい香りがする。本の帯には 「没後10年/グイン・サーガ誕生40年/記念出版」 とある。
栗本薫/中島梓 (1953-2009) は早川書房の文庫における長篇ヒロイック・ファンタジィ『グイン・サーガ』で知られるが、2つのペンネームを使い分け、栗本薫では主に小説を、それ以外の評論等では中島梓名義で膨大な著作を残した。
これは彼女の評伝であり、里中高志は関係者に綿密に取材し、その一生をシンパシィをもって描いている (以下、栗本/中島の名称は中島梓で統一することとする)。

この本の中で最も衝撃 (でもないが) を受けたのは中島梓の発言だという次の個所である。

 「最初、文壇は自分たちのフィールドの人間として、私に好意的だった
 と思います。しかし、栗本薫の名で作家として仕事を始めると、はっき
 りしているのは確実に無視されること。取り上げられるのは匿名批評に
 よるからかい、嘲笑だけ。著書が約百冊という栗本薫のキャリアも、文
 壇から見れば無いようなもの。新人賞以来鳴かず飛ばずの新人評論家と
 しか扱われない」 (p.304)

そういうことってあるのかもしれない、と思う。そもそもSFとかヒロイック・ファンタジィというジャンルは、アメリカのパルプマガジンの生み出したもので、それらは大量に生産され、消費され、忘れ去られてゆくという経緯を辿るのだ。すぐれた作品もあったのかもしれないが、俗悪で性的でステロタイプな作品がその何層倍もあった。日本の大衆小説は通俗小説とも呼ばれ、パルプマガジンと同様に消費されてしまうものであり、文壇という権威があるのだとすれば、そこからは一段低いものとして認識されているのかもしれない。海外における 「ペーパーバック・ライター」 という形容は一種の差別用語であり、それは当初から文庫本として出版された『グイン・サーガ』に通じる。日本における文庫本は、すなわちペーパーバックだからである。
中島梓の慨嘆は、内容こそ少し違うけれど、かつて筒井康隆が言っていたことに通じる。

でもそれは仕方のないことではないかと思う。すべてをひとつのヒエラルキーの中に統合しようとするから無理が起こる。エンターテインメントとはそういうもので、それは文学だけに限らない。ヒエラルキーに厳密に階層分けされ、順位をつけられるものではない。そうしたジャンル分けは次第に崩れつつあるが、でも依然として存在している部分もあるのかもしれない。たとえば団鬼六とか、山田風太郎とか、そうした人たちは 「自分のことを文壇は正当に評価しない」 などとは、たぶん言わなかったのではないかと思う。そのように 「ふっ切れる」 かどうかが問題なのだ。
文芸作品に高級/低級とか、上品/下品などという区分けは存在しないと私は思う。それは幻想に過ぎない。かつて海外小説に 「教養小説」 という分類があったが (今でもあるのだろうか)、その 「教養」 という言葉はもはやギャグでしかない。

いきなり一般論のようになってしまったが、話を中島梓に戻すと、幼い頃からの文才とそれにまつわる逸話、そして評論家・作家としてのデビューから旺盛な執筆活動のことは今までにも聞いた話である。幾らでも淀みなく書けること、そのフィールドの広さなど、才能があふれるばかりという形容はもはや神話の領域なのだ。
だが演劇や音楽にまで手を広げたことを私はあまり知らなかったが、そこでそれまでの破竹の進撃 (?) から少し翳りが生じたようにも感じる。
またプライヴェートにおける不倫を越えての結婚、そして今まで全く知らなかったことだが、障がいを持った弟がいたこと、そこから生じたコンプレックスがあったことなどについては、いままで謎だった部分がつながったような気もする。

中島梓のかかわった演劇を観たことはないし、音楽活動についても、複数のバンドによるフェスティヴァルのような場に出演していたのを一度だけ聴いたような記憶があるが、内容は全く覚えていないので、もしかすると単にステージに出て来て挨拶をしただけだったのかもしれない。
つまり演劇や音楽活動についてはこの本に書かれていることから伝聞推定するしかないのだが、特に演劇についてはかなり混沌とした印象を受ける。時代がそうした混沌を受け入れていた頃だったから成立していたものだったようにも思える。

だがそのような、空間に消えてしまったものについては追認のしようがない。とすれば検証できるのは、文字となって残されているものである。
彼女が速書きだったことは有名であり、言葉があとからあとからあふれて来るのでそれをただ書き記しているだけとか、指定された文章量に合わせて、訂正することもなく書き、原稿用紙の最後のマス目にぴたりとおさまるとか (まだ手書きの時代なのだ)、まさにそれは神話である。
だが、名前を失念してしまったが、アメリカのSF作家で、朝、オフィスに出勤し、タイプライターに向かって仕事開始、規則的なタイピングの音が途切れなく続き、止まることなく書き続け、9時/5時で小説を書いていた人とか、神話とは意外にあまねく存在するものでもある。

といって別に私は中島梓について否定的に語っているわけではない。そのストーリーテリングの巧さや、わくわくするような、まさにセンスオブワンダーなシチュエーションにハマッて読み続けていた頃があった。
彼女が子どもの頃から大量の読書をしていたということには共感できるし、その読む本を幾らでも買い与えられていた裕福な家庭であったということに対しては羨望があるばかりである。

中島梓が群像新人賞 (評論部門) をとった『文学の輪郭』は1977年だが、その前年、1976年の群像新人賞 (小説部門) は村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、そして1979年の群像新人賞 (小説部門) は村上春樹の『風の歌を聴け』であり、この一連の流れは、時代を象徴しているのではないか、ということである。(p.175)
そして『文学の輪郭』の翌年である1978年に中島梓は『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞をとるのであるが、『ぼくらの時代』は、主人公の名前も含め、庄司薫を連想させると私は思うのである。つまりそのテイストは 「この時代の一連の流れ」 ではなく、やや古風である。表面的にライトな擬装がなされているだけである。
だが今となっては、どの時代も同様のセピア色に変わってしまっているので、その時代性の微妙な色分けを峻別する手がかりは無い。

もうひとつ、中島梓の作品の特徴として、ホモセクシュアルな世界への執着・耽溺があげられる。俗に 「やおい」 などと呼ばれ、最近ではBLとか、種々の称呼があるが、厳密に考えればホモセクシュアル (≒ゲイ) と 「やおい」 は異なるものであり、男性の同性愛を描くことによって、女性の性的葛藤あるいは欲望から逃れているような、免罪符的働きをしているのが 「やおい」 のようにも思う。
萩尾望都、竹宮惠子といった24年組を中心とした少女マンガ家によって一気にそれがメジャー化した時期があったが、萩尾と竹宮でもそのアプローチには違いがあるし、単なるトレンドとしてのエピゴーネン的なフォロワーもいたのではないかと思える。

また、その表象としてコミック誌『JUNE』(1978年創刊。創刊当時はJUNだったが、たぶん大手アパレルからのクレームがあってJUNEになったのではないか) があげられる。雑誌全体がいわゆるBL的であり、出版社はサン出版である。創刊号に掲載された 「薔薇十字館」 という短編小説はジュスティーヌ・セリエ・作、あかぎはるな・訳、竹宮惠子・イラストとあるが、ジュスティーヌ・セリエというのはボリス・ヴィアン的フェイクであって、中島梓のペンネームであるとのこと (p.205)。つまり中島梓と竹宮惠子のタッグによって、この雑誌は先導されてゆく。

少年愛・同性愛的な要素への興味を中島梓が持ったのは森茉莉の『枯葉の寝床』であったという。だがその当時、それは文庫には入っておらず、彼女にとって幻の本であって、入手するまでに3年かかったのだということである (p.97)。その出会いのことは『森茉莉全集』第2巻の月報に収録されている、とある。

そしてBL物の小説として、まずあげられるのが『真夜中の天使』である。これは何度も書き直されたりして、幾つものヴァリエーションがあるということを初めて知ったのだが、基本的に今西良という美少年が主人公になっている小説で、そのストーリーは暗い。
それと、これはあくまで私の感覚なのであるが、今西良というネーミングが’すでに古い。でも逆にいうと、その、ややくすんだ色彩こそが中島梓の世界なのかもしれないとも思うのだ。

1975年にTBSTVで《悪魔のようなあいつ》というTVドラマがあり、その主演は沢田研二、役名が 「可門良」 だったので、そこからの発想ではないか、といわれると納得できる (p.145)。私はそのドラマを知らないが、当時の、たぶん絶頂期だった沢田研二からインスパイアされたイメージをそのまま使ってしまうミーハー度においては、中島梓と森茉莉は似ている (森茉莉は『ドッキリチャンネル』という著作にも見られるように、非常に偏向したミーハーでもあった)。そして暗いというよりも退嬰的な設定において両者は似ているが、つまり森茉莉からの影響を自分なりに変奏して作品に呼応させたということなのだろう。

私はこの本の著者である里中高志のように熱心な中島梓の読者ではないし、熱心に読んでいた時期もあったがそれは過去のことで、だからニュアンスはつい過去形になってしまう。
過去形になってしまった原因には2つあって、ひとつは《キャバレー》という映画であった。これは1983年に上梓された原作を角川春樹が監督した作品であり、中島梓の責任は薄いのだが、繰り返し出てくる〈Left Alone〉のメロディがあまりにも多過ぎて陳腐で、これはきっとジャズを聴き始めたばかりの人のセンスだ、と思ってしまったことにある。音楽とはほどほどに使うのが良いのであって、鼻についたらおしまいである。
リュック・ベッソンの映画《レオン》(1994) はそのエンディングにスティングの歌〈Shape of My Heart〉が流れるが、あらかじめエンディグ・ソングとして想定されたものであるとはいえ、その印象は鮮烈である。ずっと押さえていて最後に出すからこそ効果的なのだ。映画音楽にはここぞというポジションがあるべきだ。

もうひとつは彼女の代表作である『グイン・サーガ』で、読み始めたとき、その面白さは群を抜くものであった。次がすぐに読みたくなる渇望度は池田理代子の『ベルサイユのばら』に似る。
だが『グイン・サーガ』が何十巻か経ったところで、それがどこだったか、どんなシーンだったのかも忘れてしまったのだが、「ちょっとこれはどうなの?」 という個所があって、そこで私の読書は止まってしまった。中島梓は出版時、ストーリーの中での矛盾に対する、いわゆるファクトチェックには応じていたが、「文体とかには一切触れさせてもらえませんでした」 (p.265) というスタッフの発言があるが、私が引っかかったのはおそらくその文体についてであったと思う。

でもだからといって中島梓の独創性がそがれるわけではない。その時の夢、その時の幻想にだけ輝き、やがて褪せてゆく小説があってもよいと思うのである。それはかえってその時代、その状況を伴って思い出される性質の記憶であるからだ。
たとえば (以前の記事にも書いたが) 寺山修司の演劇がそうである。その戯曲を読んでも、劇評にあたっても、残された映像を観たとしても、それでは補いきれないものが多過ぎる。そして寺山修司が存在しないと寺山の演劇は存在しない。まるで主人を欠いた宏壮な邸のように。
その時代にシンクロしていないと輝かないものがある。それが 「流行」 というものである。たとえば小室哲哉の一連の音楽がある。アーカイヴから解凍しても元の新鮮さは戻らない。たとえば東京キッドブラザースもそうなのかもしれない (私はほとんど知らないが)。

永遠に残るものがよいとは限らない。なぜなら人間自体が永遠に残るものではないからだ。残るものは美化されるが、やがて風化し、そして朽ち果てる。それよりももっと軽いスパンのものが 「流行」 であり、だから流行は刹那的であり、流行作家も刹那的だ。主人となるものは時代であり、人間はそれに引っ張られているだけの従属物であり端役に過ぎない。


里中高志/栗本薫と中島梓 (早川書房)
栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人

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末尾ルコ(アルベール)

栗本薫も中島梓も、ほんの少し読んだ経験があるという程度です。
でもすごくメジャーな存在でした。
『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングへ出演してたことも覚えています。

> 文壇から見れば無いようなもの。

かつてはそういう雰囲気が濃厚だったでしょうね。
そもそも「純文学」「大衆文学」というカテゴライズが意味不明なのですが、権威が必要な人たちにとっては絶対に譲れない線があったのでしょうね。
アカデミー賞でもずっとSFやホラーが作品賞を獲らなくて、最近やっとSF『シェイプ・オブ・ウオーター』が獲ったので、町山智浩が感涙してました(笑)。
SFやホラーは、メリエスやムルナウなど映画草創期から中心的ジャンルだったのですが、「権威」の壁は大きかったようです。
まあ確かに芥川賞系と直木賞系では多く文体や構成事態にかなりの違いはありますが、でも「純文学」という呼び方は少々恥ずかしい感はあります。
さすがに最近はあまり使われてないような気も。

> 筒井康隆が言っていたことに通じる。

その怨恨を見事なエンターテインメントにしたのが『大いなる助走』でしたか。
勢いのある作品でした。
でも「権威」というものは難しいところもありますね。
権威を放置していたら権力と同様に腐敗してしまいますし、権威がなかったら、ジャンルのレベルが低下してしまう事態もありえます。

> 団鬼六とか、山田風太郎とか

この2人はすごくタフであると同時に、ダンディズムを凄く感じます。
そういう人たちって、存在そのものがカッコいいですよね。

> 海外小説に 「教養小説」 という分類

スゴイ分類ですね~。
「教養小説」なんて呼ばれたら、作家もかないませんね。
教養自体は本当は大切なことなのですが、日本の場合その捉えられ方や使われ方で、言葉自体が陳腐化するケースがしょっちゅうです。

> 原稿用紙の最後のマス目にぴたりとおさまるとか (まだ手書きの時代なのだ)、まさにそれは神話である。

手書きで膨大な量を書いた作家たちって凄いですよね。
わたしも原稿用紙書きに憧れるのですが、多く書けるか否か以前に、字が下手という大弱点があるのです。
本当に、アホな小学生の書くような字なんですよ。

> 〈Left Alone〉のメロディがあまりにも多過ぎて陳腐

これ、知ってます(笑)。CMでもしょっちゅう使われてました。
恥ずかしいですよね。
あれで一応ハードボイルドのつもりだという。
ひょっとしたら『タクシードライバー』も意識してたかも・・・などと想像すると戦慄さえ感じます(笑)。


・・・

> 書斎的な部屋があってそれなりの本があった

確かに環境的には恵まれていたのだと思います。
大人になってから気づいたのですが、両親とも書斎にあった本はほとんど読んでなかったようで(笑)。
知った時はちょっとしたカルチャーショックでした。
両親とも教員でしたから、学校に書籍の営業が出入りしていて、書斎などの体裁を整えるために買う場合が多かったようです。

> 小説など読むのは悪徳で不良の、頭の悪い子のすること

そのご認識って、ある意味すごく高級な雰囲気が漂うような気もします。
高知だと、「字ばかりの本を読むなんて、頭よすぎる!」という認識が大勢である、と書くとやや話を盛っておりますが(笑)、でも平均的にはそんな状況に近いです。
本を読んでたら、「暗い」とか言う人たちも多かったですね。
本が売れない昨今、現在はもっと酷い状況かもしれません。

> その当時としてはかなりアヴァンギャルドな手法だそうです。

それはおもしろそうです。
ミッチェルはあまり作品を残してないのですよね。
なのに『風と共に去りぬ』という大作がそこまでのクオリティになっているとは。
でもエミリー・ブロンテも早くに亡くなったこともあり、よく知られているのは『嵐が丘』だけですが、世界文学史上に君臨していますものね。
エミリー・ブロンテは詩も読んだことありますが、なかなか素晴らしいですね。

> ルコさんはフランス語がおわかりになると思いますが

それが会話になりますと、ほとんど時制を駆使できません。
どうにか半過去、複合過去、単純未来は使えますが、その他はだいたいてきとうになってしまいます。
条件法も上手く使えないんです。
このあたりはほぼ独学という方法の弱さだと自覚しています。
でも独学、好きなんです(笑)。

> その屈折している分、翻訳も屈折させなければなりません。

このニュアンスを出すのが至難の業なのでしょうね。
つくづく翻訳って、凄い作業だと思います。
難解な文学作品を言語で深く読み込む自体とてつもないことなのに、それを原文にできるだけ近づけながら日本語にしていくなんて、気が遠くなります。
今、好きなフランス語詩をピックアップして暗記をするという試みをしています。
短くてもそらで言えるようにはなかなかならないです。
もちろんわたしの記憶力の問題でもありますが(笑)。
でも暗記することで、少しでも原詩の核心に近づければと。

> 橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』のことは

いいですね(笑)。
近々本屋で橋本治、何冊か買ってみます。
わたしけっこう作家などでも、(何となく虫が好かない)程度の理由で読みもせずに敬遠している人も少なからずいますが、こういう態度はあらためるべきだと反省しております。

> 雰囲気とか香気、感触は重要です。

ですよね。
日本のベタッとした感じや、「本格派」を謳いながらもトンデモな展開になる作品なども好きなのですが、英米のものとはまるで違います。
まあ社会的雰囲気やメンタリティなどから違うのですから当然なのですが、特に日本人のハードボイルドと謳われているものも、(何か違うな)という感じが多いです。おもしろいものもありますけれど。
そう言えばフランスも英米的なミステリ小説ってあまりないような。
でもSFはフランスでも人気だったですかね。
『猿の惑星』の原作はフランスでしたし。
フランスのミステリでおもしろいものはかなりあると思いますが、英米のような構築的な作品はあまり記憶にありません。

> かまやつひろしがゴロワーズを歌詞に使ったのは

あの曲、わたしは昨年知ったのですが(ピーター・バラカンの番組で)、いいですよね。
かまやつひろしと言えば、「我が良き友よ」とかくらいしか知らなかったので驚きました。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-07-21 13:31) 

ぼんぼちぼちぼち

TBSドラマ「悪魔のようなあいつ」、仰るとおり主演のジュリーの役名は可門良でやした。
藤竜也さんとの関係が、ホモセクシャルを彷彿とさせるイメージで作られてやした。
ちなみに、プロデューサーは久世さん、脚本はゴジでやした。
by ぼんぼちぼちぼち (2019-07-23 19:19) 

NO14Ruggerman

中島梓がとうに他界されていたことをここで知ったほどの
文壇音痴ですが、東京キッドブラザースに思わず反応し
コメントさせていただきますw
つい先日<純アリス>さんの訃報がマスコミを賑わせましたが
純アリスさんとかつて交流のあったソネブロ人気ブロガー
(故)cafelamamaさんをついつい想い出し忍んでおりました。
中島梓さんといい純アリスさんといいそしてcafelamamaさんと
いい、儚いものです。

by NO14Ruggerman (2019-07-24 01:28) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

本人も言っているようですが、
オーソドクスな小説家というよりは一種のカルトであって、
ファンはいるけれど少し偏っているというのが
標準的な見方ではないかと思います。

純文学の純は純粋という意味なのでしょうが、
そもそも文学に純粋なものなんてあるわけがありません。
その点においても純文学という呼称、
さらに純文学作家なんていう人がいたらかなり恥ずかしいです。
でも恥ずかしいと思う人は純文学は目指さないでしょう。

権威というと抽象的ですが、政治とか行政という言葉で
それを置き換えてみると明快です。
ずっと滞留していれば政治は腐敗しますし、
でも何も締め付けがなければ無政府状態となります。

ああ、ダンディズム!
確かにそうです。タフというのもよい形容ですね。
権威について何らかの不満があるということは
権威について未練があるということで、
アウトローであるのを自認するのならば
最初からそれを考えなければよいと思うのですが、
やはり勲章が欲しいという欲望は誰にもあるのかもしれません。

教養小説とはBildungsromanの訳で、
ドイツの発祥で、訳語としてはやや強引で曖昧ですけれど、
wikiを見ると自己形成小説というような訳もあるようですが、
その基となるのは単なるジャンルのひとつです。
でも何となく胡散臭いイメージがあると思います。
どこかの宗教団体の出版物などにも当てはまるかもしれません。
『ライ麦畑でつかまえて』の冒頭でホールデンが
「俺が語ろうとするのはデイヴィッド・カッパーフィールド
みたいな面白くない話じゃなくてさ」 というくだりがありますが、
つまりそういう面白くない話の総称が教養小説です、たぶん。(笑)
本来のシリアスな言葉が陳腐化するのはよくあるので、
これももちろんそうした陳腐化の一環です。

手書きで多くの文字を書いたために書痙になったとか、
昔はそういうこともあったみたいですね。
今だとタイピングをし過ぎて腱鞘炎になるとか。
肉体を酷使するのはどういうジャンルでも大変です。

《キャバレー》だけでなく〈Left Alone〉は
超有名曲ですからよく使われます。
その曲の成立についての伝説も含めて使いやすいのでしょうが、
サックス奏者の主人公=〈Left Alone〉って
あまりに安直過ぎて、製作者がバカなのか、
それともその程度の観客を想定していたのか、
よくわかりません。

あぁ、書斎の体裁だけれど一種の装飾としての本棚ですか。
アメリカには装飾用の百科事典があって、
それは外装だけで中身は印刷がなく真っ白なのだそうですが、
多少安いのではないかと思います。

「小説読むのは悪徳」 というのは別に高級ではなくて、
私の祖母が昔気質だったからだと思います。
祖父も職人的体質でしたので抽象的な概念はほとんど無いのです。
現代思潮社のキャッチフレーズに
「花には香り 本には毒を」 というのがありますが、
まさに本は考えようによっては毒薬なのです。

鴻巣先生はマーガレット・ミッチェルの手法を
アヴァンギャルドだと言っていますが、
作品を多産したわけではないですし、
私は単にそういうふうにしか書けなかったのではないか
というふうに想像します。
本来のスクエアな書き方でなく、感情のおもむくままに書いたら
それが結果としてトリッキーだったということです。
つまり無意識のアヴァンギャルドです。
ブロンテ姉妹もまた、それぞれに文才はありましたが、
自分なりの方法論が最初からあってそれにしたがって書いた
というふうに見ることもできると思います。

言語にはそれぞれ特徴があり、
その言語ではあたりまえの概念が他の言語には存在しないとか、
発音云々よりもそうした基本的概念の違いが重要ですし、
それが翻訳にも影響を及ぼすことになります。
そのまま暗記するというのは重要な学習法ですが、
今は暗誦とか、そもそも音読とかがないがしろにされています。
子どもの頃に百人一首を記憶させられたことがありましたが、
そういうのは今ではあまりやらないのかもしれません。

欧米のエンターテインメントな小説は基本的にウィットがあり、
洒落た感じがあるというのが前提だと思います。
SFの始祖は、私はジュール・ヴェルヌだと考えているので、
センスオブワンダーという点でヴェルヌにはわくわくします。
ミステリって極端にいえば謎解きなんてどうでもいいのです。
その雰囲気が必須なのであって謎は二番手です。
欧米と日本の差はカクテルと日本酒の差であって、
それはお好みでということになります。
その日によってどんなお酒を飲みたいのかは変わってよいのです。

〈我が良き友よ〉は吉田拓郎の作ですからね。
かまやつさんはどのようなジャンルの曲に対しても
器用に合わせることができましたが、
彼本来のセンスからすると〈我が良き友よ〉は……
私はかなり違和感がありました。
かまやつさん、こんなのもあり? という感じです。
by lequiche (2019-07-24 12:35) 

lequiche

>> ぼんぼちぼちぼち様

おおっ、さすがです。
私は全く知らないので、データで知るだけですが、
かなり力の入っているドラマなんだとわかりました。
当時の沢田研二の歌をYouTubeなどで聴くと
声に独特の色気がありますね。
これは新たな発見でした。
ジャニーズ系のアイドルとは違いますし、
そして単純にホモセクシャルな感じでもなくて、
不思議な雰囲気があると思います。
by lequiche (2019-07-24 12:36) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

キッドブラザースはその当時、すごい人気があったように見えて
でもその本質はアンダーグラウンドだったのではないか、
というふうに私には感じられます。
カルトでありマニアックであったという点で、
キッドには中島梓と同様なテイストがあります。
それはもともと東由多加が天井桟敷から別れた人であり、
その方向性の違いには
たとえば68/71と自由劇場と同様な関係性があるように思います。
ですから言葉は悪いですが、キッドブラザースには
一種の 「あだ花」 的色合いがあります。
でも逆にその刹那性が良いのかもしれません。

ああ、cafelamamaさんも亡くなってしまったんですね。
純アリスをネットで探すと岡崎友紀とのTVドラマのことばかりで、
キッドのことは、検索してもプアな情報きりないのです。
その時代で消費し尽くされてしまったのでしょうか。
演劇一般にいえるのですが、まともなアーカイヴが存在しません。
舞台芸術というのはそうした点が辛いですし、後進性を感じます。

純アリスさんのご冥福をお祈り申し上げます。
by lequiche (2019-07-24 12:36) 

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