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小西康陽『わたくしのビートルズ』を読みながら [音楽]

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さて、小西康陽の『わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019』を読んでいて、実は最後の日記の部分をまだ読み終わっていないのだけれど、簡単に感想を書いてみよう。

小西康陽は作詞・作曲・編曲家であり、ミュージシャンでありプロデューサーであり、こうした文筆家でもあり、そのバンド 「ピチカート・ファイヴ」 は有名なのか、それとも知る人ぞ知るなのか、つまりオーディナリーなのかカルトなのか、世間的な評価はどの程度なのだろう。
でも、あんなところにもこんなところにも名前のある才人である。たぶん一番有名なのは、本人も書いているが〈慎吾ママのおはロック〉だろう。この曲の作詞・作曲・プロデュースが小西康陽である。
ただ、この本を読んでいると、DJに対するマニアックでものすごく深い入れ込みように驚く。DJという作業そのものに私は無知なのだが、音楽をその場の空気に合わせて次々とつないてゆくのはテクニックというよりもインスピレーションとセンスで、単純に曲を垂れ流しでかけてゆくのとは違うのだということがわかる。

小西のもうひとつのこだわりは最近になって嗜好が復活し、再び見始めたという映画で、その2013年から始まる映画メモによれば、年間500本以上、最も多いのは2014年に726本を観ていて、そのほとんどが日本の古い映画であり、しかもいわゆる名画座のスクリーンでしか観ないのだそうである。自宅でDVD等を鑑賞するのではないのだ。
私は異常に映画を観ない人間なので、小西康陽のタイトルリストは暗号のようにしか読めないのだが、おそらくその沈潜度に対する世間的評価はカルトなのだろうと思われる。

いわゆる渋谷系といわれる音楽に対して私は最も遠い位置にいたし、ピチカートに対してもところどころのポイントでしか知らないし、CDもユーズドで何枚か聴いただけだ。これではいけないと思ったので最近再発された1stの《couples》はCDもLPも持っている (だけではダメなんだけれど。だんだんと遡って買いますのでお許しを)。たまたま《couples》だったのに過ぎない。だから以下は、不失者ならぬ不案内者による感想であることをあらかじめおことわりしておくのである。

DJにおける小西康陽のこだわりは7インチアナログ盤である。アナログ盤でしかかけない、というポリシーがあるようで、いわゆる45回転のドーナツ盤である。しかも、どうも国内盤がいいらしい。ドーナツ盤という言葉を久しぶりに聞いたような気がして、でもドーナツから連想してしまうのはオサムグッズだったりして、でもオサムグッズそのものが懐旧的過ぎるがそんなことはどうでもよくて、ドーナツ盤の利点はただひとつ、穴が大きいのでターンテーブルに載せやすいというのがある。
レコードの扱いにうるさい人は、LPの中心の穴をスピンドルにぐにゅぐにゅと探ってストンと落としたりするやり方を 「ヒゲ付けちゃダメ」 と嫌うが、ドーナツ盤ならその心配もない (言い訳だけど)。
ジュークボックスというレコード再生機に使われていたのもドーナツ盤で、といってもリアルにジュークボックスという機械を私は2、3度しか見たことがないが、あの機械的な構造の不思議さと美しさがポピュラー音楽の原点のひとつにあるのかもしれないとも思う。

私にとって小西康陽が身近になったのは、ほとんどの評論家とかファンがけなすローリング・ストーンズの《サタニック・マジェスティーズ》を褒めていたこととか、この本の中のビートルズのマイベストの中に〈悲しみをぶっとばせ〉と〈ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア〉が入っていることとか、そういう些細な点で、この人信頼できると思ってしまったりするものなのだ (もっとも私が最初に〈悲しみをぶっとばせ〉を聴いたのは《ビーチ・ボーイズ・パーティ》で、他にも〈バーバラ・アン〉とか、あのアルバムは名盤です。持ってないけど)。
「真夜中のターンテーブル」 というエッセイには、自分がかけようとするシングルのリストが延々と続いているのだが、ザ・ビートルズ 「ペイパーバック・ライター」 のあとにピチカート・ファイヴ 「夜をぶっとばせ」 が続いていて、このへんのオシャレさがいいなぁと思ってしまう (p.174)。(念のためですが 「夜をぶっとばせ」 というのはストーンズのLet’s Spend The Night Togetherの邦題です。その邦題だけを借りたピチカートの曲です)。

それと冒頭の文章に出てくる南青山の嶋田洋書のこと。私には新しくなった移転先の店しか知らなくて、旧店舗は行ったことがあるのかどうか覚えていないが、そして新しい店でもほとんど本は買わなかったけれどあの佇まいが好きな店だった。原宿から表参道をあちこち寄り道して、最後に辿り着くみたいな憧れの店だったのに、でも良い店は必ず無くなってしまう。

どこを読んでも面白くてためになる本なんだけれど、気がついたところだけ書き抜いてみる。

 子供の頃に住んでいた渋谷区恵比寿・豊沢町のすぐ隣り、港区白金三光
 町では月に三度、九の付く日ごとに縁日があって、たくさんの夜店が並
 んだ。(p.53)

 食事のときに料理の写真を撮るのは行儀のよくないことだと知っている
 が、一枚だけ撮らずにはいられなくなってシャッターを押した。(p.55)

月に3回も縁日があるなんて極楽のような日々なのでは、と思う。「行儀のよくないこと」 という表現は私の亡くなった祖母も言っていたが、久しぶりに聞いた言葉で、そうだよなぁと心に沁みる。
私が東京都知事になったら東京の住所・町名を旧名に戻したいという言葉にも、さらっとした毒がある。確か小林信彦も同じようなことを書いていたが、なぜ行政は地名を無味乾燥な東西南北一二三みたいな名称に変換してしまうのだろうか。知性の無さがなせるワザなのだ。

 霞町、蛎殻町に笄町、田村町に箪笥町、鳥居坂町、一ツ木町、人形町に
 小伝馬町。あーあ、東京の地名は美しい。(p.245)

モニカ・ゼタールンドとスティーヴ・キューンのこと、Nice Girls Don’t Stay for Breakfastのジュリー・ロンドン、そしてチェルシー・ガールのニコのこと。うんうんと頷きながら読んでしまう (p.91, p.100, p.103)。

北野武映画の音楽に関する提言。

 それなら誰か北野監督に進言してくれないだろうか。あなたの映画は、
 音楽家に海外の巨匠を起用してもよいのではないだろうか。もっと重厚
 なスコアを書く人。少なくとも、オーケストラをデジタル音源で代用し
 ない音楽家。素晴らしい映画には、それなりの格調が必要だ。ひとが命
 を奪い合う映画なら、なおさらのことだ。(p.133)

かまやつひろしがまだ元気な頃、雑誌のインタヴュー記事から。かまやつさんは車にこだわりがあって、それもイギリス車が好きだったという。

 「昔ね、トゥイギーが持っていたっていうミニクーパーに乗っていたこと
 があるんです」
 「……鮮やかなグリーンのミニクーパーでした。内側はシートも中も真っ
 白でね。木が貼ってあるんです」 (p.155)

でもロンドンで撮影があって、そのとき、「撮影用のギターは当然ヴォックスの赤いティアドロップ」 がいいと言ったら、ロンドンにはレプリカしかない。「世界中の良い楽器はすべてニッポンのオタクが買い占めてしまった」 のだそう (p.151)。きっと日本のバブルがイギリスにまで影響してしまったのだろう。

山本リンダの〈きりきり舞い〉という曲について。作詞は阿久悠だが、小西康陽は阿久悠が嫌いらしい。それでこんなことが書いてある。

 ああ、近田春夫はこの曲を下敷きに 「ジョニーはご機嫌ななめ」 を作っ
 たのか、と気づくなら、よりいとおしく思えてくる歌だが、たった一行
 「祭が近いだけでも」 というラインの、祭、という言葉のせいで、ぼくは
 この歌をカヴァーするのをためらうだろう。(p.212)

祭という一言で山本リンダが一瞬、北島三郎になってしまうのだ。何と鋭い。
一方でゲンズブールの〈Je t’ame moi non plus〉を「この曲をただのヒップホップ/R&Bと理解することができた」 とも言っている (p.236)。う~ん。
そうした辛辣さは日記の中にもあって、たとえば、

 ザ・バンド 「南十字星」 や大瀧詠一 「GO! GO! NIAGARA」 を聴いた時
 のガッカリ感は一生忘れられない。 (p.328)

と書いたりする。はっぴいえんどを高く評価しながら、だからといって全てを絶賛というような一面性は存在しないのだ。
もうひとつ。日記の中に、

 フランソワーズ・アルディ 「私の詩集」 を聴いている。いつかこういう
 アルバムを作りたい、と思った直後に、もうこんなアルバムを作れるチ
 ャンスは無いだろう、と考えてしまう。(p.327)

アルディのこのアルバムのことは、以前に私も書いたことがあるが (→2015年03月16日ブログ)、さりげないこうした記述に、小西康陽に感じるシンパシィというか、むしろ尊敬の念は深まるばかりなのだ。

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わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019 (朝日新聞出版)
わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019




Françoise Hardy/La question (Virgin France)
La Question (Fra)




ピチカート・ファイヴ/東京の夜は七時(live)
https://www.youtube.com/watch?v=-wUeLbJy0zw

The Beach Boys/You’ve Got To Hide Your Love Away
https://www.youtube.com/watch?v=enmX8ToQRYg

Françoise Hardy/La question
https://www.youtube.com/watch?v=suHf_o5RQ-Q
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末尾ルコ(アルベール)

「ピチカート・ファイヴ」はどうでしょう、「オシャレ」を自認する人たちの間ではけっこう知られていたような気がします。
割とファッション誌とか、オシャレ系の音楽誌なんかで取り上げらえていた印象が。
もちろんピチカート・ファイヴの音楽や方向性をしっかり把握して好きだった人もいるでしょうが。
まあYMOなんかでもブームの当時に彼らの本当のクオリティを知っていた人たちは少数派だったでしょうから。
少なくとも高知で(笑)ピチカート・ファイヴはオーディナリーではありませんでした。

DJについてですが、わたしもある時期までは渋谷陽一とかピーター・バラカンとか伊藤セイソク(笑)とかいうイメージだったのですが、高知の某音楽バーで知り合った女性(男女として付き合ってはおりません 笑)がやたらとDJ(渋谷陽一ではない方の)の存在意義について絶賛するので、(ああ、今はそんな見方があるのだ)と知りました。
その女性は音楽を中心に実に際立った知識・見識を持っていたのですが、相当ファナックな部分もあり、半年くらいで没交渉となった・・・というのは余談でありますが。

> 単純に曲を垂れ流しでかけてゆくのとは違う

件の女性も言っておりましたよ。
とにかく天才的才能だと。
彼女の中ではあらゆる音楽ジャンルの中で、DJを最も尊敬していました。
さすがにわたしは、それはどうかと感じましたが。

> 年間500本以上

名画座でその数っていうのは凄いですね。
ただ、かつて高知にも名画座があって、その当時は確か500円で貴重なヨーロッパ映画3本立てとかありました。
わたしもしょっちゅう利用しておりましたが、年間500本行ったことはないと思います。
でも名画座で、『ベニスに死す』や『アデルの恋の物語』などを観た体験は忘れられるものではありません。

> 良い店は必ず無くなってしまう。

まるで邪悪に魅入られた世界のようですね(笑)。
でも本当に、オカルト的な見方でなくとも、ある種の邪悪が勝利しつつある世界情勢です。

ちょうど昨日阿久悠のエッセイ集を読んだのですが、とてもおもしろかったけれど、ところどころに判で押したような過去礼賛が出てくるところはどうかと感じました。
昭和と平成どちらがおもしろかったかと問われれば、わたしも断然昭和を取りますが、でも(わたしは)平成の方でより長く生きてきたわけですし、平成の悪い部分の多くは昭和に種子が蒔かれているものも多いので、一概に「過去はよかった」とばかりは言えないと思いまして。

フランソワーズ・アルディは中学くらいの時にカセットで買って、よく聴いていました。
すごく入りやすいですよね。

・・・

『アラビアン・ナイト』とかおっしゃられると、読みたくなるではありませんか(笑)。
『アラビアン・ナイト』については大雑把に知っているだけで、本は持ってないのです。
淀川長治&蓮實重彦&山田紘一の『映画千一夜』なら愛読書ですが(笑)。

>読者に与えられた自由であり権利

なるほどです!
そうして考えてみれば、「本」という存在、他の芸術形式とは大きく異なっておりますね。
「途中まで読んでもよし」「途中だけ読んでもよし」「いつどこで読んでもよし」という。
他のどの芸術でも、作品全体を鑑賞させるのが基本となっていると思いますが、本はひときわ自由度の高い鑑賞が可能ですね。

> この時代の映画はとても成熟していたように感じます。

してますよね~。
『オズの魔法使い』も特撮ものではありますが、どこからどこまでも「人間」が感じられます。
だからこそファンタジーの中に本物の人間の哀しみや美しさが感じられるのでしょうね。
日本の現状は、米国はもとより他のほとんどの国と比べても、アメコミ映画がヒットしないことで知られています。
今年の『アベンジャーズ エンドゲーム』も、全世界で歴史的大ヒットを記録しておりますが、日本ではさほどでもありません。
ただ、その状況においても、着実に「マーベル世代」という人たちが育ってきています。
それはそれでいいのですが、アメコミ映画のように最新鋭のCGなどを駆使して製作された作品が基準となってしまった若い人たちの感覚というのはどうなのだろうと、そんな危惧はあります。
そして、「ハリウッド映画が当たらない=邦画が充実している」であればいいのですが、まるでそんな状況ではないという問題も大きいです。               RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-06-07 20:11) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

やはりオシャレなんですね。
YMOの比喩は、よくわかります。
私はそうした世の中の動きに全く疎いですし、
むしろ流行のものから遠ざかろうとする傾向がありますから、
普通なら常識なことをほとんど知らなかったりします。

DJといってもあまりに漠然としていて、
その中に実際にはいろいろな種類のDJがありますね。
現代はあらゆる分野において細分化が進んでいますから、
大雑把な概念でとらえると全く違うというようなことが
よく起こるようです。

DJにとっての方法論のひとつとして煽動があるのではないか
と思います。
音楽を連結してひとつのサウンドとして生成するとき、
個々の曲に存在しているのとはやや異なった情動というか、
大げさにいえばそこにある種の思想が存在するので、
考え方として面白いです。
音楽というものの抽象性をうまくとらえていて、
曲を多く知っているということは最低条件なのですが
そこから構築するものは知識でなく瞬間的な感性なのですね。

映画というものに対しても私には知識がないので、
そもそも名画座というジャンルでくくられる映画館が
まだ存在するのだということに対しても驚きでしたが、
やはり映画館という空間で観る映画と
DVDやTVで観る映画は異なるのだとあらためて感じました。
そして映画館でも飲食店でもその他の諸々の店でも
良いものに限って無くなってしまうのは、
決して偶然ではなくてなにかの負のパワーが存在するような
嫌な気持ちにとらわれてしまいます。

阿久悠に関しても名前は知っていますけれど、
ではどんな作詞を、と言われると詰まってしまいます。
いわゆる詩と音楽における作詞とは
同じようで実は異なっているように思います。
昔はそれは同じものだったのでしょうが、
現代では音楽に乗せるための詞というものは
独特の感性を持って書かれなければならないように思います。
その微妙さは私には未知の部分です。

フレンチポップスに限らず、昔はイギリスとアメリカも
同じ英語でありながら異なったテイストを持っていましたし、
イタリアなどのポップスも入ってきましたし、
今よりもずっとグローバルだったような気がします。
現代の日本の音楽鎖国状態というのも
つまり細分化の流れの一環なのでしょうか。

アラビアン・ナイトとか源氏物語とか
別に全部を知らなくてもよいと思うのです。
ただおおまかな全体像は知らないより知っていたほうがよい、
とは言えますが、そうした常識的なもの、
たとえばトリストラム・シャンディとか白鯨とか、
もはや古典というものは全て死に絶えつつあります。
これもまた細分化のなせるわざなのかもしれません。
共通語が無くなりつつあります。

マーベル・コミック! そうなんですか。
SFは好きですが、今、マーベルで検索してみたところ、
ひとつも知りませんでした。
知っているのはタイトル程度でコミックも映画も全く知りません。
映画に関しては私はほとんど無知といっていいです。
by lequiche (2019-06-08 22:42) 

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