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浦沢直樹の《漫勉》— 清水玲子 [コミック]

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NHK-2の浦沢直樹《漫勉》のシーズン4の1回目〈清水玲子〉を観る。
まず浦沢直樹が道を歩いているシーンがあって、清水玲子の仕事場兼自宅に入っていくのだが、その仕事場がすごい。「これだけきれいな仕事場は、今までで初めてじゃないかしら」 というのに笑ってしまう。私はすでにこの整理整頓されたモデルルームみたいな清水の部屋の写真を見たことがあるので、あ、これこれ、としか思わなかったが、初めて見たら衝撃に違いない。一般的にいって出版にかかわる業種は作家も編集も、どこもぐちゃぐちゃというのがお決まりの情景なのだから。
清水玲子の透明感とか繊細さとか緊張感といったものがすべてこの仕事場の姿に反映しているのだというのが実感できる。決してあわてて片付けましたとか、このときだけきれいにしました、みたいなのと全然違う純度の高さが感じ取れる。

作業の邪魔にならないように仕事部屋に定点カメラを設置して撮影した映像をもとにして、清水と浦沢が語るというパターン。8人いるというアシスタントの部屋が一瞬だけ映るが、ほとんどは清水の作画映像だけである。
メガネをかけてマスクをして、ペン入れのときには白手袋をして、髪の毛が視界に落ちてこないようにガードして、机の上は作業するのに必要なものだけ。この風景と清水の表情から私が最初に想像してしまったのは外科手術をするドクターSであって、最も良い環境で最大限に優れたものを仕上げようとする姿勢が感じ取れる。

ライトテーブルでネームからエンピツでトレースし、でもそれが気に入らないと、ウラ側に描き直して、またオモテにひっくりかえして、そのウラ側のラインをオモテ側から再びトレースして最終的なラインを決める。ここまではエンピツ。太い線はエンピツで、細い線は0.3mmのシャーペンを使うのだそう。そしてそれにペンを入れるのだ。
清水のネームは、その段階ですでに細かいところまでかなり描き込まれているのにもかかわらず、そこからの下描きを経て、ペン入れまでの工程が繰り返し緻密に続く。つまり同じ絵を何度も描くのだ。だがその時間は、ナレーションの通りだとすれば、その内容の細かさに比して短時間である。それだけ手慣れた作業だということだろう (作業の実際はNHKのサイトに、放映されたのと同じ動画があるので、下記リンクから参照することができる)。

ペン入れは芸術的で、しかも確信的だ。美しい曲線が次々に迷いなく描かれてゆく。描きやすい角度を求めて、原稿用紙をくるくると回して描く。でも描き込み過ぎないようにしているという。浦沢も、上手い人は、つい描き込み過ぎてしまうものだが、清水の絵はその前で踏みとどまっていて軽いと評する。清水は、内容が重いのに絵も重いと、重くなり過ぎるからと応える。最小限の線で踏みとどまれるかどうかが重要なのだ。これはマンガに限らず、普通の絵画にもいえて、どんどん描き込み過ぎてしまうとかえってよくないことは往々にしてある。どこで踏みとどまるか、どこで終わりにするか、なのだ。
それはつまり必要最小限の線なのであり、清水は 「風通しのよさ」 という表現をしていた。

そして細かい修正。どうしても気に入らない線を描き直す。だが、はっきりいってシロート目にはそんなに違わない。でも作家にとってはとんでもなく違う線なのだ。それは作家本人にしかわからないこだわりなのである。仕事だと割り切るのならばそれはどちらでもいいことなのだが、芸術とするのならばそれは最も重要なこだわりである。マンガは大衆的で打算的なマスプロダクトなジャンルでありながら、アートとしてのこだわりがなければならない。それは矛盾しているタスクなのだ。もっともそこまでのこだわりはごく一握りの人たちによって維持されているようにも思える。

清水が影響されたとして口にしたのはもちろん萩尾望都であるが、大友克洋の絵にも影響されたと語る。特に『秘密』などのヴァイオレンス描写には、大友の描き方は恰好のお手本である。
ただ、初期の、まだ売れていない頃の苦労話みたいなのはほとんど無い。歌舞伎を撮ったビデオを静止画像にして、その静止時間が解けないうちにデッサンするというプラクティスをしていたというエピソードも、絵が上手くなりたいという積極的な願望であることのほうが強い。貧しくて食べ物がなかったみたいな泣き言はないのだ。でも清水に、きっとそこまでの状態はなかったのだろうと思ってしまう。

絵が上手くなりたい、という気持ちは清水も浦沢も同じで、共感し合っていた。ネットの書き込みを見ると、こんなに上手い人がより上手くなりたいと思ってるんじゃ、私にはとても無理、みたいな感想が書いてあって、でもだからそれを乗り越えるくらい努力しないと一流にはなれないんだろうなぁとあらためて納得する。

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清水玲子/秘密 season 04 (白泉社)
秘密 season 0 4 (花とゆめCOMICSスペシャル)




NHK・番組関連グッズ
http://www2.nhk.or.jp/goods/pc/cgi/list_p.cgi?p=3310

NHK・浦沢直樹の漫勉 シーズン4〈清水玲子〉
http://www.nhk.or.jp/manben/shimizu/
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山岸凉子展に行く [コミック]

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山岸凉子/アラベスク

ときどき降る雨の中、根津の弥生美術館で開催されている山岸凉子展に行く。雨なのだけれど12月にしては異常に暑い日。今年の天候はどこかおかしい。

山岸凉子といえば、もっとも有名な作品は『日出処の天子』であって、ざっくりと書いてしまえば聖徳太子 (厩戸王子) が美少年の超能力者であって、しかもLGBTであるという24年組の基本形であるBL系のマンガである。と書いたら、ざっくり過ぎるゎ! と、きっとお叱りを受けるだろうけれど。
それともうひとつ、怖い系の短編があって、ハーピーとかメデュウサといったいわゆる魔物の話もあるのだが、そうしたなかで、やはり精神的な部分での怖さを描いた 「天人唐草」 が最も有名だろう (「天人唐草」 についてはすでに橋本治の記事で簡単に書いた→2016年09月10日ブログ)。

ポスターなどのパブリッシングにおいても厩戸イチオシであって、この黒バックの扉絵は完璧である (『LaLa』1980年5月号扉)。
だが、展示作品を見ていての私の感想としてあえて言ってしまえば、山岸にとって最も重要な作品は『アラベスク』だと思う。というより今まで『アラベスク』を過小評価していたというのが本音のところだ。

『アラベスク』はバレエ・マンガで、しかしそれを描いた当時、バレエ・マンガの流行があってそれがもう過ぎてしまっていた頃で、編集者からは 「何をいまさらバレエ?」 と言われたりしたのだという。しかし山岸は 「トゥシューズに画鋲を入れて意地悪をする」 ようなレヴェルのバレエ・マンガではないバレエ・マンガを描きたいという意欲を見せて連載を始めたのだとのことである。当初、短期連載だったはずが、読者からの人気によって長期の作品となった。
たとえば二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』はある程度のクォリティを持った初めての音楽マンガと言ってよいと思う。しかし、のだめは21世紀になってからの作品であって、つまりそこに達するまでには長い時間がかかっているのである。
しかし『アラベスク』が連載を始めたのは1971年であって、1971年というときにこうした作品を描き始めたというのは今から振り返れば驚くべき先進性である。ちなみに24年組では、萩尾望都の1971年作品というと 「小夜の縫うゆかた」 であり、大島弓子はやっと1972年に 「雨の音がきこえる」 である。竹宮惠子の1971年は 「空がすき!」 であって、商業的には最も早く成功しているが、多分に既存のマンガの傾向を残しているように思える (でも個人的には、タグ・パリジャンが竹宮作品の中で一番好きなのだけれど)。

『アラベスク』を一種のスポコン・マンガと捉えることも可能ではあるけれど、でも『巨人の星』(1966-1971) とは全然違うし『おれは鉄兵』(1973-1980) とも違う。「芸事」 ということから分類すれば『ガラスの仮面』(1976-) があるが、『ガラスの仮面』のストーリー設定はやはり伝統的なスポコンであるし、時間が相対論的に延々と伸びていくところは水島新司の『ドカベン』(1972-1981) と同じである。
つまり『巨人の星』や『ガラスの仮面』は基本が根性論であるが、『アラベスク』はそうではない。また、ちばてつやにはたとえば『テレビ天使』(1968) があるが、『テレビ天使』も『おれは鉄兵』もその根底にあるのは根性論とは無縁なバガボンド的思想である。その最も典型的な作品が 「螢三七子」 (1972) である。

そうした比較のなかにおける視点においての『アラベスク』はほとんど孤高の作品であり、最近は判型の大きめなコミックスで出し直されていることでもあるし、山岸のバレエに対する造詣から来る冷たい集中力と熱気のようなものを改めて読んでみたいと思った。もちろん『舞姫 テレプシコーラ』もそれに付随するが、このところ読んでいなかった最近作にも俄然興味が湧いてきたところだ。
「アラベスク」『花とゆめ』1975年12号扉絵は私の最も気に入ったモノクロの作品で、山岸本人も言っているようにビアズリーの影響を感じる。それでいて髪の毛の描写はビアズリーを超える。ミュシャでなくビアズリーだった、とのことだがミュシャふうな輪郭線の作品もあった。
私が最初にまじめに読んだ山岸作品はたしか『妖精王』だったが、そのクイーン・マブの雑誌表紙絵 (『プチフラワー』78年7月号表紙) も展示されていた。大人っぽくて、完全に少女マンガという枠組からは逸脱している。

展覧会の解説によれば、山岸もごく初期の頃は丸っこい顔の少女を描いていて、それはその時代に仕方なく迎合していたのだが、この絵では私は描けないと思い、ごつごつととがった鼻や顎の絵に移行したがそれはものすごい不評の嵐だったとのことである。でも山岸は自分が良いとすることは曲げなかった、という点でアヴァンギャルドでありそれが現在までの彼女をかたちづくっているのだといえる。

色彩的にもごく渋い色合いの絵が多いが、それは映画でいうところのアグファカラーに通じる部分がある。また和風な色彩に対する感覚も巧みであり、原画は4色分解で割り切られてしまうきらきらした色よりももっと微妙な肌合いを持っている。
展示会の途中で、展示替えがあったそうだが、これらの作品は色褪せてしまうので、できるだけ展示しないのが望ましい。でもそれでは見たい者にとっては困るのだけれど。

弥生美術館は大きく立派な公営の美術館と較べればごく小さくて質素であるが、その美に対する姿勢にうたれる。そうした情熱こそが芸術の理解には常に必要とされるように思う。


弥生美術館/竹久夢二美術館
山岸凉子展 「光 -てらす-」
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yayoi/exhibition/now.html

山岸凉子画集 光 (河出書房新社)
山岸凉子画集:光

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夏の終わりの嬰ハ短調 ― 橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を読む・2 [コミック]

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大島弓子/綿の国星

2016年09月10日ブログのつづきである。

これは仮定の話だが、大島弓子が『綿の国星』を描いた後、それだけで終わりにしてしまったのなら、かなりカッコよかったと思うのだが、続きを描き、さらに猫シリーズを延々と続けてしまったのは、やはりそれだけの需要があったからなのだろう。現実とはそんなものである。

それでともかく、本篇の『綿の国星』(1978) の話。
須和野時夫は、「今なら何をやっても少年Aで済む」 と思っている大学受験に失敗した少年である (もはや少年でもないか……)。時夫は子猫をひろうが、その猫 (チビ猫) は自分がいつか人間になることを信じているので、少女の姿として描かれる。つまりマンガの視点はネコの目から見たネコを主体とする世界なのだ。
しかし、チビ猫が明日を信じているということと、だからといって人間として描かれるということは、よく考えれば直接的な関連性はない。それを成立させているのが大島の魔法である。

まず、須和野時夫というネーミングは 「須臾 (しゅゆ) の時を」 の意味ではないかと私は思う。人間より寿命の短い猫と過ごす限られた時のことをそれは表している。それでこの須和野という姓に似た本須和という姓が使われているマンガにCLAMPの『ちょびっツ』(2000-2002) がある。『ちょびっツ』は人間と機械との恋というSFの永遠のテーマのひとつをなぞっている作品だが、その主人公に本須和秀樹という名前をつけたのは、CLAMPが大島弓子のこの作品を意識していたのではないかと思う。
こうした恋の形態はいわゆる〈人でなしの恋〉であって、〈人でなしの恋〉というのは人間と人間以外の恋を指す。語源は江戸川乱歩の同名の小説 「人でなしの恋」 (1926) であるが、この乱歩作品はつまりピグマリオン・コンプレックス (人形愛) である。たとえば《ブレードランナー》(1982) も人間とアンドロイド (レプリカント) の恋ということにおいて同様である。

少年Aと子猫 (つまりどちらもまだ子ども) という主人公の設定に対して、大人と子どもの関係性を明確にするためだろうか、橋本は次のように書く。

 大人は、子供を人間とは思っていません。子供は子供だと思っているの
 です。でも、子供は自分を人間だと思っています。そして自分を “子供”
 だとも思っているのです。(後p.223)

最後のフレーズ 「そして自分を “子供” だとも思っているのです」 という部分を除いて、この 「子供」 という個所を 「猫」 と置きかえれば、チビ猫の心情が浮かび上がる。つまり猫という言葉はメタファーであり、弱い者、子ども、女をあらわしている。
チビ猫として描かれている少女は (ではなくて、少女として描かれているチビ猫は) 少女期の大島であり、しかしそれは個としての少女でなく普遍的な少女となる。チビ猫に対して近づけない猫アレルギーの時夫の母は、同時にチビ猫の仮想母であり、それは普遍的な母として還元される。
そしてここで一般論的少女の性への目覚めと不安・恐怖について橋本は次のように分析する。

 子供の内部には一つのものがありました。得体の知れない、恐ろしく思
 える何かがありました。
 子供は知ります ―― そのことは、口にしてはならないものだと。それ
 はひきずり込むような何かです。身を滅ぼさせる予感のする何かです。
 そしてそれが “性” なのです。(後p.223)

自分の内部にあるものを知った少女は、少女でありながら 「おとな子ども」 になってしまったのであって、そうなってしまったら、知らなかった頃の子どもに戻ることはできない。そして 「性」 とはsexという言葉に包含される全ての意味あいとしての 「性」 である。

さてここで、いつか自分は人間になると思っているチビ猫に対して 「否」 を言う猫・ラフィエルが出現する。ラフィエルは 「猫は人間にはなれない」 と言い、「猫は猫たるすばらしさを おしえてやるよ」 とチビ猫を諭す。(後p.230)
ピノキオが人形から人間に変わったように、いつか猫から人間に変わると思っていたチビ猫にとって、ラフィエルの言葉は願望が不可能であることを認めざるをえない冷徹な最後通牒である。

 あまりにも
 ハンディがありすぎるじゃない
 なんでそんなこと おしえるのよ!!
 なんでそんなこと おしえるのよ!!

しかしそれに対してチビ猫は 「それでも生きてみよう」 と思ったのだ、と橋本は書く。それは 「生きてみよう」 とする意志であって、今まで自分の中にあったのは 「生きている」 ことを認識する意識だけだった。しかし 「生きてみよう」 と言ったことは、明日を見ようとする意志 (が芽生えたの) だ、というのである。それは自分自身を信じることにもつながり、そしてそれが『綿の国星』のテーマなのだという。(後p.231)

この 「人間に変わることを信じている猫」 という現象がメタファーなだけでなく、人間←→猫という対比そのものがメタファーであるという構造にもなっているのだと私は思う。
自分ががんばって獲得しようと思ってもかなわぬこと ―― だからといってそれを軽々しくあきらめてしまっていいのか、と言っているのがチビ猫の意志なのだ。それは見た目の弱々しさとは全く異なる強固な意志である。

     *

『バナナブレッドのプディング』は謎のような作品である。それは『綿の国星』に先行して描かれた。
橋本が指摘するように、主人公・三浦衣良 (みうら・いら) は読者の感情移入を拒否している状態で登場する。衣良は自分が食べられてしまうかもしれないという恐怖を持っていて、それを友人の御茶屋さえ子に言い、共感を得ようとする。

 衣良がこわがるのは、“10時すぎまでおきていると 美しいお面をかむっ
 た 男か女かわからないひとが 大きなカマスを用意して待っていて 
 子どもをつめて ひき肉機にそのままいれてたべてしまうという話” を、
 いまだに彼女が信じているからなのです。(後p.243)

そんな状態の衣良を彼女の両親は 「精神鑑定させよう」 とひそかに話し合い、しかしそれを衣良は聞いてしまう。そうした両親に対する不信をも、衣良はさえ子に言う。

衣良の怖がっている得体の知れないものは、衣良の内部にいるものなのだ。それは衣良に襲いかかり凌辱する男であり、そして衣良は男に襲いかかられるのを待っている女でもある。男が私を脅かすのではんく、男の心をそそり、煽り立てて狂わせるものが私という女なのかもしれない、と衣良は思う。だからそれは恐怖でありながら、同時に拒みきれない、甘美な何かなのかもしれない、とも衣良は思うのだ、と橋本は書く。(後p.243)

これはまさに少女期の、性的なものへの恐怖と願望のあらわれである。そうしたナイーヴなことを、大島はこうしたエキセントリックな衣良というキャラクターに仮託して叙述する。それは極端であるかもしれないがわかりやすい。
そして衣良が結婚相手として求めているのは、「世界にうしろめたさを感じている男色家の男性」 である。それはつまり性的なものへの恐怖と忌避である (男色家なら自分に手を出してくることはないという安心感)。そしてその理想の相手を、さえ子の兄、御茶屋峠 (おちゃや・とうげ) であると思い定める。だが峠は、衣良に合わせてそのフリをしていただけで実は男色家ではない。

世間にうしろめたさを感じているのは、実は男色家でなく衣良なのだが、衣良は自分の意識が虚ろであることを認めようとはしない (後p.246)。自分の存在が世間にとって必要だと思い込みたいために、衣良は 「うしろめたい男色家」 を助けてやろうとすることを自分の存在意義だとするのだ。それは性的行為から自分を遠ざけようとする正当な理由にもなると考えたのだろう。というよりもっと一般的な、恋愛感情によって自分が傷つけられることから逃げようとする意識といってもよい。
しかし、衣良の助けを必要とするような、そんな男色家は存在しないし、もっといえば衣良を必要としている人間はいない。そういう衣良は孤独であり、被害妄想であり自閉症的であると橋本は見る (後p.251)。

その他の登場人物の関係性は、よくあるTVドラマのようだ。御茶屋さえ子はサッカー部の少年、奥上大地 (おおかみ・だいち) に恋するが、奥上は 「世間にうしろめたさを感じていない男色家の少年」 である。そして御茶屋峠に恋している。さえ子は兄の峠に変装して、奥上の愛をかなえてやろうとするが、やがて奥上を追うことをあきらめる。
奥上は男色家の新潟教授の愛人であったが、教授は奥上が峠に恋していることを知り、奥上に対してサディスティックな行為に及ぶ。
衣良は御茶屋峠が男色家を装っていただけなのを知り、峠と別れて新潟教授に嫁ぐが、教授を誤って刺し、再び峠のもとに戻る。

衣良は王道的なTVドラマならばエキセントリックな端役のはずだ。その衣良がこの作品においてなぜ最も重要な主人公であるのか、というのがこの『バナナブレッドのプディング』の特殊で斬新な色合いに他ならない。
それは橋本が指摘するように、世界 (世間) が王道TVドラマの設定も含めて、男性主導の原理によって動かされていることへのアンチテーゼとして作用しているのだ。

 社会とは、男の都合に合わせてできているもので、女や女の子は、その
 都合に合わせれば都合よくやっていける仕組になっているものなのです。
 (後p.262)

と橋本は書く。つまり端的に言えば 「女は男と結婚すれば幸せになれる」 という原理であり、それが男の都合であり、世間的な正しさであり (もっと言えば正義であり)、それを体言化しているのがやさしい男としての御茶屋峠である。しかし衣良はその社会的都合に合致していない。

 衣良の不幸は、男の都合の枠の外にある問題です。御茶屋峠に理解はで
 きません。(後p.263)

夢の中の人喰い鬼に食べられてしまった衣良は自らが人喰い鬼となってしまい (吸血鬼に血を吸われた者が自ら吸血鬼になってしまうのと同じパターン)、そして理想の 「うしろめたい男色家」 とはほど遠い存在だった新潟教授を見限り、御茶屋峠のもとに戻るのだ。伊良は 「その社会の都合によって深く傷ついている」 (後p.265) のであり、それを癒やすのには峠を必要としたのだった。そんな衣良に峠は暖かいミルクを差し出して飲むようにいう。そして 「ぼくは きみが だい好きだ」 という。

 衣良は初めて自分に許します、「生きてみよう」 という意志を持つこと
 を。
 その意志を持った衣良は、人喰い鬼に食べられてしまった衣良です。衣
 良は言います ―― “でも わたしは鬼だから いつこの人をやいばにか
 けるか わからない それがこわいのです でも峠さんが それでもか
 まわぬというので ここにおります”。(後p.267)

そうした衣良のことを 「人喰い鬼に食べられてしまうことによって、初めて衣良は “普通の少女” になれました」 (後p.267) と橋本はいう。(「「生きてみよう」 という意志」 という言い方はチビ猫に対してのものと同じだ。)
「人喰い鬼に食べられてしまう」 という形容が、単に性的なものに対する克服であるということであるのと同時に、そもそも人喰い鬼とは何かというメタファー自体が何かということを考えさせる構造になっている。

さて、この『バナナブレッドのプディング』は、どのようにして『綿の国星』と関連しているのか。

 『綿の国星』のチビ猫は、生まれ変わった衣良なのです。だからチビ猫
 は、生まれながらにしてすべてを知っている無垢の少女なのです。(後
 p.268)

しかし、それでありながら同時にチビ猫はすべてを知らない。なぜなら、

 “知る” 迄に至ったすべての時間、“知る” 迄に感じたすべての苦しみすべ
 ての喜びを、すべて捨て去ってしまったのです。(後p.268)

と橋本はいう。
すべてを知っていながら、すべてを知らない存在であることがチビ猫としてリセットされた衣良なのかもしれない。そしてその無垢の心が『綿の国星』の冒頭に続くのだ。

 春は長雨
 どうして こんなにふるのか さっぱりわからない
 どうして急に だれも いなくなったのか さっぱり分からない
 (後p.218)

チビ猫は捨て猫で、須和野時夫に拾われ物語が始まる。
それを彷彿とさせるのが CLAMP『ちょびっツ』の冒頭である。その時代、パソコンは人間のかたち (多くが美少女) をしていて、ゴミ捨て場に捨てられていたパソコン 「ちぃ」 を本須和秀樹が拾ってくるのだ。
ちぃはすべての記憶を失っている。しかし秀樹は、ちぃに恋するようになる。次第にちぃの謎が明らかになってくるが、ちぃは起動する毎に初期化されてしまうのだ。だからそれまでの、秀樹のこととの記憶はすべてリセットされてしまう。しかし、ちぃが自分のことを忘れてしまっているのだとしても秀樹はちぃのことを愛する、というのが『ちょびっツ』のラストなのだが、すべてを知っていながら、すべてを知らない存在であるということにおいて、テーマは共通である。
ちぃの耳 (ヘッドフォン) はネコ耳の変形のようにも見える。

私は少し脱力感のある大島弓子が好きだ。たとえばそれは 「パスカルの群」 (1978) とか 「毎日が夏休み」 (1989) から感じ取れる。それはちょっとエキセントリックな恋愛観であったり家族観であったりするし、そのしなやかさややわらかさに騙されるけれど、芯にある強靱さを忘れてはならない。

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大島弓子/バナナブレッドのプディング


橋本治/花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出書房)
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出文庫)




橋本治/花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 後篇 (河出書房)
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 後篇 (河出文庫)




大島弓子/綿の国星 (白泉社)
綿の国星 漫画文庫 全4巻 完結セット (白泉社文庫)




大島弓子/バナナブレッドのプディング (白泉社)
バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

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夏の終わりの嬰ハ短調 ― 橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を読む・1 [コミック]

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萩尾望都/小夜の縫うゆかた

橋本治の少女マンガ論『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』は畏敬すべき本だ。それは予言の書であり、1979年発行という随分昔に書かれたものであるのにもかかわらず色褪せていない。これは非常にマニアックな本であるが、あとがきにも書かれているように、当時 「オタク」 という言葉はまだ存在していなかったという。また精神分析学的な視点も、今よりもずっと未発達だった。そうした環境の中で書かれたのだとしたら、それは評論として稀有のものであり、隔絶した孤峰である。
橋本はもうこれで書き切ったと考え、この後、マンガについて書くことからは離れてしまったという。まるで詩作を捨てたランボーのように。

とりあげられているマンガ家とマンガ作品には、すでに過去の人や作品となってしまったものもあるが、そうした中で萩尾望都、山岸凉子、大島弓子はいまだ健在である。

もしかすると、このふざけたタイトル ―― 花咲く乙女たちの……というのが読者になろうとする者の印象を損ねているのかもしれない。その内容はプルーストとは何の関係もないし、そもそも私は花咲く乙女たちという言葉がどこから来ているのかを当初は知らなかった。
橋本の論述が最終的に収斂してゆくのは大島弓子の『綿の国星』である。それは当時、最も衝撃的な作品だったはずで、まさにそこに辿り着くためにこの評論は書かれたのだと言ってもよいかもしれない。そして橋本は 「バナナブレッドのプディング」 が 「綿の国星」 を生み出すための鍵であるという。
また私は、綿の国という連想から、マリオン・ブラウンの《November Cotton Flower》を思い出していた。もちろんそれは語感だけの、ごくファンタジックな印象に過ぎない。「綿の国星」 の基本は 「女である母」 と 「意識を持ってしまった、まだ女ではない少女」 の物語である。より正確に言えば、ピーターパンにおけるウェンディが、いつ、いかにして女としての意識を持ったのか、ということと相似形の物語であると思う。

     *

橋本の萩尾望都に対する分析はナイーヴで美しい。
時代と作家の関係性を彼は次のように規定する。

 かつて “世界” は存在していた。そして世界とは “家庭” である。
 (前篇p.81/以下、前篇は前、後篇は後と略)

これは橋本の立てた一種のテーゼであり、それを元にすべてが展開する。その是非はさておき、その 「世界とは家庭」 とする唐突さと意外性がユニークな視点であることは確かである。
かつて存在していた世界とは、第二次世界大戦後、日本が戦禍から闇雲に立ち上がって経済的な復興を成し遂げようとしていた1945年から1959年までを指しているのだという。
それは、今まで敵国であったアメリカの豊かな生活を夢見て、それに追いつこうとする願望であり、そしてマンガは鉄腕アトム、赤胴鈴之助、月光仮面といった少年マンガの興隆期であった。同時にその時期のアメリカにおいても、もっとも有名なSF小説の代表作 (クラーク、アジモフ、ハインラインetc.の) はほとんどこの頃に書かれてしまったのだともいう。

以前に私が聞いた説は、少年もの、というか少女マンガにおける少年愛もの (今の言葉でいえばBLもの) の少年たちの設定が (たとえばポーの一族のエドガーが) 14歳であるのは、少年が少年としての属性を失い、大人に変わりはじめてしまうギリギリの時期であるからということだったが、それは橋本の設定する1945年から1959年までの14年間という数字と見事に一致する。それこそが14という数字の真の意味なのだろうか。それは偶然でなく暗合であると示唆されているかのようだ (とはいえ、現代の子どもの性徴は早く、たとえば声変わりの時期が14歳というのにはすでに無理があるが)。

そしてマンガ (この場合のマンガとは子ども向けのマンガであり、そもそもその頃に大人向けのストーリーマンガは、ほとんど存在していなかった) は現実を直視する必要は全くなく、なぜなら (その頃の) 子どもは (大人のかたちづくった) 現実を信頼しているからであり、つまり現実を信頼しなくなったとき、彼/彼女はもう既に子どもではないのだ (前p.98) と橋本は指摘するのである。

日本の経済復興のお手本であり目標であったアメリカはやがて衰退をはじめるが、橋本はその始まりを1954年の映画《エデンの東》におけるジェームス・ディーンとし、そして《ウエストサイド物語》がその終焉を象徴するものだとする。なぜなら《ウエストサイド物語》はファンタジィが現実になってしまったものなので、ファンタジィを生きようとしても、もうハッピーエンドの道筋をたどることができない (前p.112) とするのだが、この《ウエストサイド物語》が終わりのしるしという意味が、私には今ひとつ具体的に把握できない。それはこの映画を単なる映画史上の作品のひとつとしてしかとらえられない体験上の限界のせいなのだろう。

初期の萩尾作品はミュージカル仕立てなのだと橋本は語る。月並みな筋立てとハッピーエンド、それはミュージカルの作劇の常套であり、夢としての枠組みであり、その華やぎの終わりが 「ポーの一族」 へとつながっていくのだという (前p.98)。
アメリカの夢が終焉となったように、ミュージカルも終演となったので、「ポーの一族」 の完結後、「この娘うります!」 を例外として、萩尾作品からミュージカル形式は消えてしまったのだということなのだ。そしてポーからトーマ、さらにSF的作品へと萩尾のテーマは変遷する (前p.111)。

14という数字にこだわるのならば、1948年生まれの萩尾が14歳のときは1962年、それは日本がオリンピックを開催できるまでに成長した1964年の少し前、今となっては気恥ずかしいかもしれないほどの、この国が最も高揚していた時期なのだ。まだ日本は貧しかったのかもしれないが希望と意欲だけは確実にあった頃である。そして素朴でさらりとした夏の日常性を描いた 「小夜の縫うゆかた」 の主人公小夜も、また14歳なのである。
それこそが橋本がテーゼとした、かつて存在していた世界を示しているのであろう。

しかしその幸福な夢は崩壊する。そして、まり、のえる、フロル、エドガー、阿修羅王といった、強い 「女性」 性の系譜が以後の萩尾作品の核となる。

[個人的な好みを書けば、初期の描線の少ない萩尾作品は何ものにもかえがたい。私の好きなベスト3は 「小夜の縫うゆかた」 「セーラ・ヒルの聖夜」、そして初期とはやや言えないけれど 「この娘うります!」 である。なかでも 「小夜の縫うゆかた」 の中には、喪われてしまったこの国の季節が今も生きている]

     *

山岸凉子を語るとき、性の問題を避けて通ることはできない。
ところが少年マンガには性がない、と橋本は指摘する。本来、男女間に性的な欲望が存在する場合、少女は被害者になる可能性が高く、少年は加害者になる可能性が高い。その加害者になる可能性を回避するため、少年マンガは性を黙殺することによって成立してきたのだという。
「性」 がないこと、もっと端的にいえば性的欲望が欠落していることが少年マンガの異常性であり、それは “いつか” という信仰で支えられている期待感なのだと橋本はいうのだ (前p.194)。
そして、そうした少年マンガの 「つくられた潔癖性」 あるいはカマトトブリッコな欺瞞に対してのアンチテーゼが山岸の突きつけた刃であって、それは性別の意識を持たざるをえない少女たちの痛烈な顕示でもあるのだ。

たとえば 「ハーピー (女面鳥獣)」 において、少女に異臭があることを設定したことは、それが性的な存在としての少女を描き出そうとした物語であり、その異臭に気づく少年もまた、性的な意識を持っているということになるのだと橋本は書く (前p.222)。
そして性的なものに対する抑圧と矛盾、男性中心的社会に対する一種の告発として、そして人間の精神の脆弱さを描き出した最も典型的な作品が 「天人唐草」 である。
一連の精神疾患的なこの時期の作品の中で一番有名であるが、その 「響子は発狂した」 という淡々とした結論は、たとえばルイ・マルの《鬼火》(1963) における主人公の自殺と現象面的には同じである。つまり外に攻撃的な様相をとるか、内に閉塞していくかの違いに過ぎない。
ただ、山岸の作るストーリーは 「アラベスク」 などにもすでに見られるようなフェミニズム的思考をとらえたマニフェストであり、それが冷静に、かつ明確に描かれているのが特徴である。

精神疾患的アプローチは萩尾望都にもあって、多重人格 (DID) を扱った 「アロイス」 からシャム双生児的 「半神」 に至るのは、精神のdoubleが肉体的doubleへと変化したととらえることもできる。
対して大島弓子の、たとえば 「パスカルの群」 は、表面的にはトランスヴェスタイトでありながら、多分にGID的であり、精神的深刻さを軽さに置きかえることに長けている。男装とか女装といった普通に考えたらバレるだろうという設定がバレないのは一種の様式美への信頼であり、名探偵コナン的クリシェ (つまりコナン君が毛利小五郎のかわりにしゃべっていることが誰にもバレないこと) でもあって、それはあらかじめ決められている演劇的な約束事にも近い。
それは幻想というより信仰なのかもしれない。江口寿史の 「ストップ!! ひばりくん!」 の中で、つばめがひばりの身代わりをするのも同様のパターンである。
そもそも単純な変装の幻想は、江戸川乱歩のジュヴナイルの常套手段でもあったのだ。それは橋本の指摘していた戦後の興隆期の中に括られる現象でもあるのだろう。
(→2016年09月16日ブログへつづく)


橋本治/花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出書房)
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出文庫)




橋本治/花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 後篇 (河出書房)
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 後篇 (河出文庫)




萩尾望都/半神 自選短編作品集 萩尾望都Perfect Selection 9
(フラワーコミックススペシャル) (小学館)
半神 自選短編作品集 萩尾望都Perfect Selection 9 (フラワーコミックススペシャル)




萩尾望都/ルルとミミ (小学館)
ルルとミミ (小学館文庫 はA 44)




山岸凉子/天人唐草 (山岸凉子スペシャルセレクション 5) (潮出版社)
天人唐草 (山岸凉子スペシャルセレクション 5)

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清水玲子『秘密 Perfect Profile』を読む [コミック]

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清水玲子の『秘密 Perfect Profile』を読んでいる。公開の映画に合わせた企画ものなのだが、seson 0の4巻と並んで平積みされていた。

中に清水玲子/萩尾望都対談がある。清水玲子は中学生のとき、最初に読んだ萩尾作品が『トーマの心臓』だったのだという。エーリクがケルンのお母さんに会いに行くときに、列車内で車掌と会話を交わすシーンがあって、乗り越しになっているから料金を支払いなさいとかいうのだが、そんなのはストーリーと直接関係はなくて、でもそれを丹念に描くというのがすごいという。
そこを読んでいたら、エーリクが授業中に年寄りの先生にリルケをバカにしたり、ベートーヴェンをバカにしたりして、先生がカンカンに怒るシーンを突然思い出してしまい、そうした関係のないシーンが印象的に残っているのはやはり作家の力なのだと思ってしまった。
萩尾はヘルマン・ヘッセからの影響があるというが、それは単純にドイツの風景描写だけではなくて、そのテーマにまでかかわっているように感じる。

清水が、身近な日常の出来事を描くようなものは苦手だったので、SF的な作品にシフトしていったというのは、萩尾が同じようにSF的な作品にシフトしていったことと似ている。
2人の話題は萩尾の『11人いる!』になるが、フロルという設定がル=グィンの『闇の左手』からの影響であること、性的に未分化で、ある時期にオスメスどちらになるかが決まるというのは爬虫類などではよくあることらしくて、それが人間のかたちをした生物にあったっていいかも、というのがル=グィンの発想であり、性が最初からどちらかに決定されているのでなくて 「ニュートラルな感じ」 であることが面白いと清水はいう。

清水は面白かった映画としてギレルモ・デル・トロの《バンズ・ラビリンス》を挙げ、萩尾はティム・バートンの《アリス・イン・ワンダーランド》を選ぶ。どちらもダークな部分が似ているという。

この対談のなかで一番面白かったのは、清水玲子のネームの描き方である。清水はネーム段階からきちんと人物の表情を描くのだそうで、そうでないと感情移入できないというのだ。萩尾は、ネームのときは顔など描かず単なる 「てるてる坊主」 なのだというが、でもネームはあくまでネームであり、心のなかですでに構想はできているのだそうで、それは作家による方法論の違いということだ。

その清水のネームの一部が収録されているのだが、これはすごい。表情を描くというどころか、コマ割りまでほぼ完全に決定されていて、顔の向きとか手の位置とかまで描いてしまうのだが、それがそのまま完成作品になってしまっている。ネームと仕上がりが並列されているが、ほとんど同じである。つまりネームを描いている時点で、ほぼ全体像は完了しているのだ。
このパーフェクトプロファイル、映画のプロモーション用のムックみたいではあるのだけれど、このネームを見るだけでも価値があると思う。
清水の描くデヴィシルっぽい表情と較べて生田斗真ってどうよ? って感じもするのだが、まあ実写は実写で別物なので、どなたかの映画評をお待ちしてます。

萩尾は、清水の部屋がきれいであることを褒めていたが、清水は部屋がきれいでないと作品ができないと答えていて、そのあたりもその人の性格が作品にあらわれているのかもしれないと思ってしまう。
ちなみに私の部屋はぐちゃぐちゃです (どうでもいいけど)。


清水玲子/秘密 パーフェクトプロファイル (白泉社)
秘密 パーフェクトプロファイル (花とゆめCOMICSスペシャル)




清水玲子/秘密 新装版 1巻 (白泉社)
新装版 秘密 THE TOP SECRET 1 (花とゆめCOMICS)




大友啓史×清水玲子が語る 「秘密」
http://natalie.mu/comic/pp/himitsu_movie04
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LaLa40周年記念原画展に行く [コミック]

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池袋西武百貨店で開催されている《LaLa40周年記念原画展》に行く。
実はあまり乗り気ではなかった。というのは白泉社のサイトに 「大島弓子先生の作品は複製原画を展示しています」 「竹宮惠子先生の (以下同様)」 というような表示がされていたからで、以前見たときはそんなことは書いてなかったような記憶がある。たぶんオトナの事情なんだろうけど、そもそも 「複製原画」 って 「複製」 は 「原画」 じゃないし、こういうのを形容矛盾という。

とはいえ、ちょっと前に大和和紀展があったのを見逃したので失敗したなあと思っていたから、とりあえず行かないと、という義務感みたいなのもあったのだ。そしてある程度少女マンガを知っていて、比較的満遍なく少女マンガの昔と今を感じたいのだったら、この展示は素晴らしい。
LaLaがこのレヴェルでなければならないのか、それとも少女マンガ全体がこのレヴェルなのかよくわからないのだが、特にこの展示における近年の作品のクォリティの高さはすごいと思う。

以下はあくまで私の好みで書いてるだけなのでご了解のほど。

最もきわだって目を引いたのは清水玲子である。彼女の描くブラウン系の透明感のある瞳は、それだけで清水玲子だと容易に識別できる特徴を備えている。
だが、この細密さと色彩と造形の特異さはオーソドクスでありながらアヴァンギャルドだ。結局、マンガの扉絵はどんどんイラストレーションに、つまり一般的な絵画に近づいている。でもマンガの扉絵とイラストレーションは明らかに違うはずだ。それはその絵の背後にストーリーが存在するか否かの違いであり、もしストーリーがイラストレーションにも存在するのだとしても、それが果たして抽象的でなくて具体的にありうるのかどうか、によるのだと思う。わかりやすい例としてあげるのならば、江口寿史のマンガ家の頃の絵とイラストレーターになってからの絵は明らかに異なる。それは単純な巧拙というような比較ではなくて、イラストレーションとは具体的なストーリーを必要としないものであり、それゆえにそれだけで自立するのがイラストレーションなのだ。
また、もうひとつの区分けとして、それはマンガなのか絵本なのか、というような描きかたの違いもある。どちらもストーリーを内包している点は同様だが、どこまでがマンガで、どこからが絵本かという線引きはない。
清水玲子の絵は、このマンガなのかイラストレーションなのかという境界や、さらにはマンガなのか絵本なのかという境界のあわいをときとして意識させる。それは真っ直ぐにこちらを見た正面からの顔のとき、顕著に感じられる。私はそうした手法に、唐突だが、内田善美の方法論を感じる。

たとえば清水玲子のWILD CATSの扉は、人と獣のバックに輪郭をきわだたせた草と花が描かれているが、この細密さは印刷時においては完全に飛んでしまっている。
なぜならカラー印刷は網点の掛け合わせでその色とかたちをいわば錯覚によって見せているのに過ぎず、それは一種の最も原始的なデジタル処理であって、そのスクリーン線数に洩れてしまった細密な線は、再現されるか再現されないかのどちらかなのである。再現されなければその分のデータは無いのと同様であり、アバウトなものに過ぎない。つまり網点で処理されたブリューゲルの版画が一様に眠いのは、かっきりとした線を曖昧な点々のつながりで近似値的に処理しているのに過ぎないからである。極端にいえばブリューゲルのほとんどの版画集はブリューゲルではない。
また印刷インクのラチチュードは、カラーインクに較べて狭いから、それは必ず狭い範囲での劣化した状態でしか再現できないということになる。それは印刷という大量頒布物の弱点である。しかしそうしたシステムを利用してマンガ雑誌は成立しているのだから、矛盾はずっと解消されない。

成田美名子の作品はその全てが常に奥行きがあり、立体感と深みのある色彩は素晴らしい。でも印刷ではその全てが吹き飛んでしまっている。またALEXANDRITEの金網越しの風景の描きかたは、もはや異常である。まず金網があり、その向こう側に風景が存在するのである。風景の前面に金網を描いたのではない。
かつて成田美名子を発見したとき、遡って『みき&ユーティ』から読んでいた頃の、最も明るい、透明な感情の、少女マンガの美しい部分だけを集めたようなその作品の完璧さを感じていたことを私はあらためて思い出す。それはノスタルジックな感傷に過ぎないのかもしれないが、それでもよい。

他にも葉鳥ビスコのセピアのフィルターを通したような深みのある描写とか、呉由姫の 「金色のコルダ」 のグリーンのマフラーの質感と顔との対比とか、あきづき空太のLaLa表紙の、ランプだけが明るく、振り向いた顔のやや暗い表情と、そこに降りかかる雪の雰囲気とか、印刷物と原画は、あたりまえだけれど、ものすごく違う。
青池保子の夜の飛行機の暗くて強い質感の表現もすご過ぎる。

絵の印刷物への再現性について、私が繰り返し挙げる例としてマグリットとドガがあるが、マグリットは比較的原画に近く再現されるが、ドガを再現することはほとんど不可能である。この不可能なほうに分類される絵を描く者は不幸だ。だが逆にいえば 「どーせ再現できないだろうザマーミロ」 的な部分もあるのではないかと思われる。

少女マンガファンなら必見の展覧会である。もう期日がほとんどないけど。
尚、もうすぐ公開の生田斗真/岡田将生主演の映画《秘密》の原作は清水玲子である。


LaLa40周年記念原画展
http://www.hakusensha.co.jp/LaLa40th/genga/
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萩尾望都SF原画展に行く [コミック]

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吉祥寺で開催されている萩尾望都SF原画展に行く。
武蔵野市立吉祥寺美術館と名前はいかめしいが、FFビルの7Fといったほうが通りがよい。
この展覧会のことはRyo1216さんのブログ記事で知りました。Ryo1216さん、ありがとうございます。

萩尾望都のことは、以前、NHK-2の《漫勉》をブログ記事にしたが (→2016年03月05日ブログ)、いままで原画を見たことはたぶん無かったと思う。今回の展示はSFを題材とした作品に限った展示ではあったが、《漫勉》の記憶がまだあるなかで、とても刺激的な内容であった。

作品の中で最も古いものは 「あそび玉」 (1971) である。ごく初期の描線は、最小の線で最大の効果を出すという手法のように感じられて、この時代の絵に私はとても執着していたのだが、今回、年代を追って見ていくと、萩尾の絵にはそのように発展して変容していった必然性があり、後期の絵を 「怖すぎる」 として退けていたのは偏見だったことがあらためてわかる。

「11人いる!」 (1975) は、いかにもSFっぽいSF作品として一番最初に認識できるものであるが、その口絵等のカラー原稿はとても懐かしく、かつ古びていない。
「11人いる!」 の両性体という概念はル=グィンの『闇の左手』からのイメージであるが、タダとフロルは 「トーマの心臓」 のユリスモールとエーリクであり、悲しい終わり方をした 「トーマ」 のストーリーを挽回しようとして、この 「11人いる!」 に2人を再びキャスティングしたのでは、というふうにとっていたし、それは間違いではなかったと思う。
特に続編の 「東の地平西の永遠」 (1976-1977) は、見知らぬ宇宙の土地に郷愁を感じさせることにおいて、スター・ウォーズ的なdéjà-vuと同様なにおいがする。ソフトな筆致のカラー原稿が美しい。

今回、河出書房新社から出版された画集『萩尾望都SFアートワークス』は、そのカヴァーがスター・レッドと阿修羅王になっているが、特に阿修羅王のキャラクター (「百億の昼と千億の夜」 1977-1978) は、光瀬龍の原作 (1967) をよりわかりやすく具現化しただけでなく、ジェンダー的にはフロルの発展系であり、こうした強い女性を描くことによって (女性だけでなく男性でもそうだが)、その後の萩尾作品を方向づけた設定と言えるのではないだろうか。
私はこの時期だと、マイナーだけれど 「A-A’」 が好きだったりする。

今回の原画展では、《漫勉》でも十分に窺い知れていたことだが、萩尾の絵の描き方の徹底したアナログ的なこだわりの手法をよく知ることができた。
おそろしく細い線がある。それは0.1mmなんてものではなくて、もう一桁下の、どうやったらそのようにインクが乗せられるの? というほどの細線である。宇宙の星々の描写でも、細かい星をホワイトで打っているのだが、そのものすごく小さい点は半端ではない。それはもちろん一般的な点描や線描でも同様である。こうした細かさは、コミック雑誌の厚手のぼさっとした紙上には再現しきれていない/再現することは不可能なのではないかと思われる。
そこまで細く描いても、印刷上の限界ですべては飛んでしまうか、つぶれてしまうかなのだ。でも萩尾はそのように描くことをやめない。それは自分に納得できないからだろうと推察できる。

もしデジタルで、ペンタブレットで細い線を描いたならば、それはどんなに高解像度であっても、四角形の連鎖、ぎざぎざの連続に過ぎない。ピラネージの版画の画集が、スクリーンで分解することによりモヤッとしてしまうのと同じで、画家のあらかじめの意図が全く死んでしまうように、そうしたデジタルのシステムは萩尾にとって意味が無いのである。それはどこまでいっても近似値だからである。

ハヤカワの文庫のカヴァー絵も、その時代があらわれていて懐かしい。トマス・バーネット・スワンの『薔薇の荘園』のカヴァーの原画を見ても、おそろしく細かく描き込まれているが、実際の印刷物には反映されていない。と思って家の書架を探したが、どこにいってしまったのか出てこなかった。
今回の展示は、SFというジャンルに限られているのに、知らない作品も多く、萩尾がいかに多くの作品を描き続けていたのかがよくわかった。SF系以外の原画も是非、見てみたいと痛切に感じている。


萩尾望都 SFアートワークス (河出書房新社)
萩尾望都 SFアートワークス

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すきとおった銀の髪の頃に ― 《漫勉》の萩尾望都 [コミック]

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萩尾望都 (NHK《漫勉》より)

NHK-2の浦沢直樹《漫勉》のシーズン2の1回目〈萩尾望都〉を観る。
仕事部屋に定点カメラを何台か設置し、4日間にわたってその製作過程を撮影し、そのビデオをもとに浦沢と語るという企画で、こうしたメディアへの露出がほとんどない萩尾が、どのようにして作品を作り上げているのか、また漫画に対してどのような視点を持っているかについて知ることができ、非常に深い印象を残した番組だった。こんなに真剣に観たTV番組は滅多にない。

猫が7匹いるという萩尾の自宅兼仕事部屋は、「ロココ風の部屋に住んでいるのかと思った」 と浦沢が揶揄して言ったのかもしれないような部屋ではなく、資料やその他のものに埋もれた仕事部屋であって、つまり全ての美は作品にのみ集中しているという事実を指し示す。

20歳でプロになってから、ずっと描き続けてきたその技法は、たぶんほとんど変わることはない。紙と鉛筆とペンと、そしてスクリーントーン。デッサンの教科書のように基本の線が引かれ、その上に鉛筆の下書き、そしてスミ入れをして作品ができ上がっていく過程は、精緻で、それでいて大胆な処理がされることもある。

撮影時に描いている漫画は現在連載中の『王妃マルゴ』であり、彼女にとって初めての歴史物だという。マルゴとはマルグリット・ドゥ・ヴァロワ (Marguerite de Valois, 1553-1615) のことであり、フランス王アンリ2世とカトリーヌ・ドゥ・メディシスの娘のことであり、ユグノー戦争 (1562-1598) やサン・バルテルミの虐殺 (1572) といったフランス史に残る時代の人である。
「今のアラブにおける宗教対立の様子は、ユグノー戦争の頃を連想する」 と橋本治が書いていたのをちょうど読んだばかりで、そうしたことが歴史の再帰性でありダイナミズムでもあると、ちょっと思う。

萩尾と浦沢の対話は、同業者でもあるし、浦沢の的確で抑制のある話題の持っていき方が快く、聞いていてわくわくするものであった。2人が共通して挙げる漫画のパイオニアは、まず手塚治虫である。この世代に手塚の影響が無い人はまずいないだろう。浦沢の場合、『PLUTO』を描いているのだから当然だが、その手塚の原作、鉄腕アトムの〈地上最大のロボット〉を幼い浦沢が読んだときのショックがこちらにも伝わってきた。
だが、浦沢に 「最も真似した人は」 と問われて萩尾が横山光輝と答えたのは意外で面白かった。また、ちばてつやの手の使い方 (アゴの下に手の甲を持っていくポーズ) について『紫電改のタカ』を例に、そのすごさを語っていた。浦沢が『あしたのジョー』にもありますよね、と言って表示された画像に、あぁなるほど、ととても納得。こうした仕草は単なる動作ではなくて、むしろその人物の心情を映し出すパターンとして作用するのだということがわかる。

浦沢は、萩尾の過去の原稿を見ながら、繊細なフリルの造形や、柄に白ヌキがあるとき、ホワイトで上から塗るのではなく、あらかじめその部分を抜いておき、柄部分を点描してあることをあげて感心していた。見た目は些細な違いかもしれないが、仕上がりは決定的に異なる。それもまた萩尾のこだわりのひとつだろう。
ペンの持ち方も浦沢と比較すると、浦沢は普通の持ち方、だが萩尾はペン軸でなく、指がペン先自体にかかっている。力点をすこしでもペン先に近づけたいという意図なのだろうか。

また、漫画は突然の画面転換とか、その展開の技法が、映画であるよりも演劇的である、という指摘をして、それを2人が確認し合っているのも刺激的だった。
10代の頃から漫画家をめざしていたにもかかわらず、親はそれを認めてくれず、なにか変なことをしているとしか認識していなくて、じゃ認めてくれたのはいつ頃? という質問に対して《ゲゲゲの女房》で、萩尾の母は初めて娘の漫画家という職業を認知したのだという。《ゲゲゲの女房》ってすぐ最近のドラマじゃないですか、と浦沢も呆れていた。

萩尾は 「問題のある人間を描きたい」 という。強い意志と、そしてストレスを抱えた人間こそが描くに耐えるキャラクターだということなのだろう。そうした志向は絵の描線が強く変わってきた頃、NHKのサイトの記事によれば『メッシュ』の頃からだということだ。浦沢はそれを 「ずいぶん絵がハードになりましたもんね」 と表現している。
『メッシュ』はともかく、『残酷な神が支配する』になると、あまりにもストーリーが暗くてしんどくなり、私は萩尾をあまり読まなくなってしまった。でもそれは彼女が本当に描きたい対象であったのであり、こちらの貧弱な読書能力がそのパワーに負けてしまったと今は思うしかない。
強い意志ということでいえば、少年誌に連載された光瀬龍・原作の『百億の昼と千億の夜』の阿修羅王にその典型を見ることができる。原作のイメージをこのようにコミック化した技倆と、阿修羅王のキャラ設定は 「11人いる!」 のフロル的両性具有の発展系であり、素晴らしいというしかない。当時の読者からあまり評価を得られなかったのは、内容があまりに難しすぎたからではないだろうか。それは光瀬の原作そのものがむずかしかったからである。

『ポーの一族』を最初に読んだのは新書判のコミックスでだったが、コミックスは各話の順序が年代順 (発表順) になっておらず、コンパイルされていた。この仕掛けの錯綜感がポーの魅力であったとも言えるが、最近のコミックスでは発表順に修正されているとのことだ。

番組の最後に 「自分が感動したものを伝えたい」 「(描くことを) やめろといわれてもやめられるものじゃない」 というような表明があったが、描くということが単純に好きであるという萩尾の仕事ぶりに至上の職人の技を感じる。


放送日:
NHK Eテレ 2016年03月3日 (木) 午後11時〜
再放送:
NHK Eテレ 2016年03月7日 (月) 午前01時10分〜【06日 (日) 深夜】

萩尾望都/王妃マルゴ・1 (集英社)
http://www.s-manga.net/book/978-4-08-782483-4.html

王妃マルゴ volume 1 (愛蔵版コミックス)




漫勉/萩尾望都
https://www.youtube.com/watch?v=6cdSmp4M04g
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みんながしあわせになれるマンガ —《グーグーだって猫である》のこと [コミック]

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なんとなく犬童一心の《グーグーだって猫である》をDVDで見始めてしまった。映画は2008年の作品で、最初に観たときは何となくわからない印象があって、でも吉祥寺のそこここが出て来て、それだけが心に残っているような記憶だけがあった。
今、もう一度み返してみると、わからなかったことがなんだったのかがわからないほどよくわかる。それは年齢のせいなのかもしれないし、それに映画に映し出されている吉祥寺の風景も随分変わったことに驚く。その頃あった伊勢丹はもうない。8年前なだけなのにこの懐かしさは何なのだろうか。ノスタルジアか、それともセンチメンタリズム?

主人公の小島麻子 (小泉今日子) はもちろん大島弓子がモデルである。たぶん、最初に観たとき、印象に違和感を憶えたのが小泉今日子だったのかもしれない。ん~、これでいいのかな? というような。
それが今回観てみたら見事に氷解した。あぁそういうこと! というほど強く、小泉今日子の演じる麻子にシンパシィを感じてしまう。麻子はあまりしゃべらない。でもマンガだったら麻子のモノローグが文字となって読めていたのかもしれない。そのしゃべらないのだけれど彼女の心のなかにある言葉が伝わってくる。だからそれはつまり、それだけ齢をとったということなんだって。

映画は麻子の飼い猫サバの死から始まる。サバが死んだことによる喪失感と、新しく見つけた猫のグーグー。麻子のアシスタントであるナオミ (上野樹里) と加奈子、美智子、咲江 (森三中) が皆、麻子を神のように尊敬していることが描かれてゆく。

サバはチビ猫から続く大島の、自分が人間だと思っている猫の継続であり、そのサバが死んだことはその手法の時代が終わったことを意味している。だからグーグーは普通の猫なのだ。

回想のなかでナオミは『月刊ASUKA』で〈四月怪談〉を読み感動してからマンガ家をめざし、麻子のアシスタントをすることに喜びを感じている (実際の掲載誌はASUKAではないのだけれど。だから撮影に使われているのはわざわざ作られた小島麻子名義になっている雑誌)。でも終盤、自分は麻子にはなれないと言ってニューヨークに旅立って行く。
そして麻子の幼い頃の回想には、学校前の文房具店でマンガを描くための文房具を購入し、店主から 「麻子ちゃんはどんなマンガを描きたいの?」 と聞かれて、少し逡巡したあとに 「みんながしあわせになるマンガ」 と答える、まだ少女の麻子がいる。

猫が人間よりもはやく齢をとっていくことのアナロジーとして、ウェルナー症候群を描いた〈八月に生まれる子供〉(1994) が劇中マンガとして登場する。八月という単語から連想するのはリンゼイ・アンダースンのリリアン・ギッシュ&ベティ・デイヴィスによる《八月の鯨》(1987) だ。もしかすると、つまり大島が最後のリリアン・ギッシュを知っていたのならば、老いという共通項から8月という言葉が選択されたのではないだろうか。

もうひとつ、わかりにくかったこととして、なぜところどころにポール (マーティ・フリードマン) の英語の語りのシーンがあるのかと思っていたのだが、メスの白猫を抱いていたポールが死神であり、その白猫を追いかけていたのがグーグーであるということとの関連性がよくわからなかった私の感覚が鈍かっただけなのに気がついた。つまりグーグーは沢村 (加瀬亮) の競争相手なのだ。だからタイトルが、グーグー 「だって」 猫である、なのだ。去勢手術を終えた後の、エリザベスをしたグーグーのふてくされた正面からのカットに思わず吹いてしまう。
それと夜の井の頭公園の昔からある食堂で麻子がサバ (大後寿々花) と出会うシーンも、前に観たのと違って納得できるシーンに感じられた。最も黄泉に近い状況にあるとき、その出会いがある。寒さのなかで、かすかにお湯の沸騰する音が聞こえて、石油ストーブの暖かさが伝わってくるような幻想シーンである。

吉祥寺の街中を駆け回るシーンも、《地下鉄のザジ》のパロディが一瞬入っていることがわかった (もっともザジのドタバタも、いわゆるスラプスティックの常套的パロディに過ぎないのだが)。物静かな小林亜星も 「犬童監督、やるもんだね」 と思わせる。
さくらの季節の井の頭公園やいせやの賑わいは、賑わいと同時に死の影を垣間見せ、麻子のアンニュイに見える表情はけっして憂鬱でなく、みんながしあわせになれるはずの強靱さを編み込もうとする気持ちを持続させようとする決意の静けさなのだ。
ゆるやかに流れる細野晴臣のテーマ曲に、同じようにやわらかな森高千里との《今年の夏はモア・ベター》を私は思い出す。それは夢のように見えて、夢ではないのだ。

大島弓子の作品には幾つかのターニングポイントがあって、といってもそれはあくまで私にとってのポイントなのだが、やはり最初はよくわからなかった作品がよくあって、けれどそれがいったんわかってしまうと、圧倒的な存在感となって記憶に残される。たとえば〈いちご物語〉の冒頭などは一種の言葉のリズムの魔術であって、おそろしく美しい。〈ジョカへ…〉〈さようなら女達〉も同様である。その思考のルーティンがわかれば理解はやさしい。
〈夏のおわりのト短調〉はチビ猫とそれ以後のネコシリーズが開始される前夜として、この作品が描かれていたということにおいて、いまでも強く印象となって残っている作品である。もし、しあわせというものがあるのなら、それはごく小さな淡いものでしかなくて、ごく脆くて移ろいやすい。麻子は自分のしあわせを作品のなかに描くことによって、自分のしあわせを消費させてしまっている。
みんなはしあわせだけれど、自分はそんなにしあわせじゃない、という真理は麻子のつぶやきにもあらわれている。そして人生とは少しのしあわせと大量の不幸にまみれているものだ。

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大島弓子/グーグーだって猫である (角川書店)
グーグーだって猫である コミック 全6巻完結セット




犬童一心/グーグーだって猫である・予告編
https://www.youtube.com/watch?v=iRlBIQrLtTc
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吉祥寺の江口寿史あるいは白いワニの思い出 [コミック]

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ucカードのご利用明細書の裏側が江口寿史のイラストだったのでびっくりしてしまった。そしたら江口先生自身がツイッターで、

 クレジットカードの明細書ハガキにおれのイラストがあってビックリ!
 というリプライが全国からたくさん来てるが、そうか、この絵は吉祥寺
 限定だったから初めて見た人も多いんだね。2014年の夏に描いたもの
 ですよ。すでにもうなつかしい。

と解説していた。
イラストは白いシャツにデニムのショートパンツ、バスケットシューズで振り向いている黒髪の少女。グリーンのリュックを背負っている。立っている場所は、サンロード途中から西に折れた東急百貨店正面に向かって抜ける道 (元町通り) の途中、コピスの入り口よりやや東寄り。緑色の2本の柱がコピス吉祥寺の入り口 (コピスは昔、伊勢丹吉祥寺店だったビル)。すごくリアリティがあってちょっといい。
ucの明細書では下半身がトリミングされていて、周辺部もカットされているから、本来のイラストのほうが街の雰囲気はよく出ている。

ぱっと見ただけですぐに江口寿史とわかる特徴的な描線。画面中央からこちらに向かって突き出されている左手。吉祥寺限定なのかぁ。ちょっとズルい (なにが?)。舗道の模様は途中までで大胆に省略され、白地になっていて、人物を引き立たせると同時に夏の日差しを感じさせる。

江口寿史の絵は、いつも乾いていて、現実のにおいから隔絶していて、そしていつも少しエッチだ。イラストレーターになってしまってから、それが唯一のしかし強力な武器となってしまっている。昔みたいなコミックスを描くことはもうないんだろうなぁと思うとそれが残念だけれど、でもしかたがない。
昔の絵を懐かしんでも戻ることがないのは、萩尾望都の初期の絵を懐かしむのと同じことだ。.jpgと同じで不可逆性なのだ。

江口寿史も、そして桂正和も、吉祥寺あたりの風景がよく出てくるのは同じだ。桂正和にはもう失われた過去の武蔵境駅が出て来たりする。大島弓子の《グーグーだって猫である》も彼女の住んでいた吉祥寺での自伝的な話なのだが、映像化されたその風景が見知ったものであるのにもかかわらず、なんとなく現実感が薄かったのはなぜなのだろう。小泉今日子じゃイメージがきれいすぎるからなのかもしれない。宮沢りえのはまだ観ていないけれど。

今、江口寿史展が開催されているらしいが、今年は行けなかったので行くとしたら来年ですね。画集のキャッチには 「今まで出た画集は全部捨てちゃって」 と書いてあるけど、捨てるわけないじゃん!

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プジョー208GTiプロモーション

芸術新潮2016年1月号 (新潮社)
芸術新潮 2016年 01 月号 [雑誌]




江口寿史展 KING OF POP
http://www.kawasaki-museum.jp/exhibition/king-of-pop-2/
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