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擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (2) [ファッション]

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Alexander McQueen 2016AW (Sarah Burton)

擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (1) のつづきです。


《制服という記号》

すべての衣服は制服であることという視点も面白いし、特に今の時点では、この本の書かれた当時より卑近な話題として解釈できる。
「〈わたし〉の自己同一的な存在は」 「意味の共同的な制度に自らを同調させること」 であり、「〈わたし〉がある属性を手に入れること」 「〈わたし〉の生成にとって決定的な役割」 をするのが衣服であるという (p.122~123)。
それは 「可視性のコード化」 (p.125) であり、「生存を制度化する (制服としての) 衣服」 (p.126) なのだというのである。

制服が個性を消してしまって均一の記号として作用するという負の面に対して、むしろ制服という記号のなかに個性を隠すという方法論も存在する。それが高校生の制服であり、それを拡大解釈したアイドル・グループの衣裳であり、そしてコスプレである。このラインはひとつながりであり、デザイン性の多少による違いに過ぎない。
鷲田はこうした可視性のコード化によって 「個々人の差異を消すという口実」 は 「もっとのっぴきならない事態を隠しているのではないか?」 と指摘する (p.127)。ではそれは何か。

衣服が常に両義性を持つものとするのならば、制服という強制力がもっと負の作用を強く持つ場合もあるはずである。つまり、その人がどういう職種であるかを同定させるためだけの記号としての制服であり、それは企業が従業員を従属させるために着せる、その多くはファッション性を持たない劣悪なデザインと縫製の制服である。個性をわざと喪失させ、醜悪な記号として押し込めることによって、人を奴隷的に扱えるような意図のもとに、それは作用する。
制服の究極の形態は軍服であり、軍服というコードが何を示すのかは明快である。本来、自分の自由度を表出するはずのモードが全く反対のものとして (つまり一種の拘束として) 作用するというのも皮肉な両義性である。こうした強制力をあらかじめ持っている制服のしめつけは、拘束というより暴力に近い。負の面に対する視点があまり見られないのは、やはりこの論の書かれた時代性だろう。つまり当時は、現代より物事に対してずっと楽観的であったのに違いない。

 わたしたちは他者たちからひとつのタイプとして承認されるかぎりでし
 か〈わたし〉となりえず、その意味で共同性のなかにすっぽり包みこま
 れることになる。(p.135)

衣服は、それ自体が社会的な意味作用を持ち、可視的なイメージを提出しているのだとすれば、その統一的なイメージとかスタイルというものは社会のなかの共同性として認識されるということだが (p.135)、つまり逆に言えばそうした記号化というかたちでしか承認され得ないという負の部分もあると思われるし、そしてそれは日々増長しつつある。


《匿名化》

さて、制服という匿名性を持つ現象を考えたとき、最も極端な状態はマスク (仮面) である。それは隠蔽性の極端なかたちであり、〈わたし〉の存在を匿名化する (p.138)。顔を隠すということは〈わたし〉を匿名化することであり、といって、顔を隠すことによって自分が完全に隠せるというものでもないと思うのだが、ともかく識別力は落ちるわけである。
それはさらに例としてあげられている 「秘部を隠せば何でもできる」 という常識からの逸脱の言葉となり、そして逆説的には 「顔さえ隠せば何でもできる」 というマスクの効用にまで達するのだ (p.139)。

つまり秘部ということについて言えば、具体的な 「だれかの秘部」 だからエロティックなのであり、性器それ自体とか、顔の写っていないヌード写真はエロティックではない、と鷲田は述べるのである (p.140)。
さらに 「秘部さえ隠せば何でもできる」 と 「顔さえ隠せば何でもできる」 という特殊論を一般論に拡大解釈すれば、「何にでもなれるという過剰な可能性」 と 「何にもなれないという空虚な不可能性」 は表裏のようでありながら、簡単に転化するものだというのがその論理である (p.140)。

通常のファッションは、そこまで追いこむことはなく、もっと軽薄で、衣服をとりかえることによる可視性の転位によるささやかなエクスタシーに過ぎない、と鷲田はいうが、その根源には、ここで引用されているロラン・バルトの 「モードは、人間の意識にとってもっとも重大な主題 (《私は誰か?》) と 「遊んで」いるのだ」 というヘヴィな意味あいを持っているのだ (p.141) といわれるとそうかもしれないと思う。

「過剰なまじめさと過剰な軽薄さの共存がモードのレトリックの基盤」 (p.143) というバルトの言葉は気休めであって、そうした重い認識は一度報されてしまうと人の記憶からは容易に薄れないはずである。


《フェティシズム》

フェティシズムに関して鷲田は、脚や髪や生殖器は 「あやしい部位」 であり、それはどういうことかというと、「〈わたし〉が少なすぎる部位」 だと述べる (p.154)。しかしその前に鷲田は、マスクに関連する個所で、具体的な秘部でなければそれはエロティックではないと書いているので (p.140)、「〈わたし〉が少なすぎる部位」 とは、それと呼応するものではないかと考えられる。
つまり〈わたし〉という個別性が薄いからこそ、それは架空のものに近くなり、フェティシズム (=物体としての執着/信仰) が生まれるのだといってもよいのではないか。
ファッションにおける 「身体の一部分を覆い隠すという衣服の構成法」 (p.158) もフェティシズムを逆用した行為であるとするのである。


《モードの〈ずれ〉》

モードとは自然からの逸脱であり、一貫した転位であり、そして〈ずれ〉によって成り立っていると鷲田はいう (p.159)。そしてモードには衣服だけでなく化粧もその中に含まれ、つまりそれらが 「わたしたちの可視的な存在をデザインする」 のだという (p.160)。
〈ずれ〉とはつまり、人は自分という存在をありのままに認めようとしないで、自分を自分の理想とするかたちに変えようとする人為的操作があることを示し、服装やメイクによって、いわば仮面を装着する行為を言っているのだ。それは自分を装飾し、実際より良く見せようとする欲望であるが、それが過剰になれば自分は消失してゆく。それは 「危うい行為である」 と鷲田は言う (p.165)。

 衣服の取り替えによる可視性の変換を、そして、それのみをてこにして
 〈わたし〉の変換を企てるというのは、可視性のレヴェルで一定の共同
 的なコードにしたがって紡ぎだされる意味の蔽いでもって、〈わたし〉
 の存在を一度すっぽり包み込むことを意味する。そうすると、わたしは
 たしかに別なわたしになりうるにしても、そのような〈わたし〉の変換
 そのものは、〈わたし〉が他の〈わたし〉とともに象られている意味の
 共通の枠組を、いわばなぞるかたちにしか可能とならないであろう。
 (p.165)

共同的なコードとはすなわち定型的なパターンの中に自分をまぎれ込ませることを意味し、そうした記号的なモードにおいて自分は消失し、属性だけが残る、その例が、制服で身を包むことであるとするのだ (p.166)。
それは制服という限定された記号だけに限らず、あらゆる衣服は制服としての特徴を持つ、と鷲田は言う (p.166)。
つまり制服という記号の中に自分をまぎれ込ませようという消極的な行為と、個性的な外見への過剰なこだわりによる積極的なモードへの固執は結果として同質の問題を含んでいるとするのだ。

なぜ可視的な存在をデザインする (可視性を変換しようと企てる) のかは、つまり自らの可視的存在についての不安があるからであり、自分のフィジカルな 「見た目」 に対しては、「こんなはずではない」 とする否定的な思い込みとコンプレックスがあり、そしてその自分の 「見た目」 は、自分から見た場合 「鏡像」 (=虚像) に過ぎず、自分が見えないものに対する不安が、その 「可視性の変換」 という行為を起こさせるというように考えていいのだろう。
メルロ=ポンティの次の引用は鏡の功罪 (どちらかというと罪) について語っているように思える。

 私が〈見るもの - 見えるもの〉であるが故に、つまり、そこには〈感
 覚的なものの再帰性〉があるが故に、鏡が現れるのであり、鏡はその再
 帰性を翻訳し、それを倍加するのだ。この鏡によっていわば私の外面が
 完成されるわけであって、私がもっているどんなに密かなものも、すべ
 てこの〈面影〉、この〈平板で閉ざされた存在者〉のうちへ入りこんで
 しまうのである。(p.174)

鏡に映る像は実体のようでありながらそうではなく、メルロ=ポンティはそれを幻影とまで表現しているが、つまりその虚像を実体として思い込もうとする行為は、その行為自体を表すと同時に、人間の認識の方法が脆弱であることのメタファーであるのかもしれない。
鷲田は次のように書いている。

 わたしたちの可視的存在は根源的に脆弱なものなのであって、その脆弱
 さが〈わたし〉が内的密度を手に入れることを不可能にする。〈わたし〉
 のこのような空虚を補塡するために、わたしたちは衣服という別の可感
 的で物質的な存在を呼びもとめる。(p.175)

しかしモードとは不完全で可変的なもの (現象?) であるために、「衣服はたえず変換しなければならない」 という。その変換がつまりトレンドなのである。

さらに鷲田はパンク・ファッションの様相についてさらっと触れ、ファッションはその現象面としてナルシスティックであり、可視性の様式化であるという (p.183)。もし、様式化というのならば、最初のほうで提起された 「SMファッションのステロタイプさ加減」 も、様式化という形容の中で正当性を獲得することになるのかもしれない。
モードは 「ある意味を加味しながら別の意味を失効させるという仕方で、たえまなく転位してゆく。累積するのではなく循環する」 (p.188) ので、それがファッション・デザインのステロタイプ (=限界点) であるともいえる。ファッションはメリーゴーラウンドのように回帰するが、しかし乗客は毎回異なる。あるいはまた、最高回転数を超えないように使い続けなければならない繊細なエンジンでもあるのだ。
それでいて、トレンドには法則性はないので、今シーズンのものは来シーズンにはダサくなってしまう (p.202)、という。

「わたしが〈わたし〉を追いかけるナルシスティックな回路」 (p.209) とは、ありのままの自分となりたい自分のことであり、それは自分を納得させるためにつくられた幻想の回路なのかもしれない。
さらに 「〈わたし〉の生成と崩壊が繰りかえされるきわめてエロチックな場面」 (p.209) というが、「この両義性がもっともあからさまに出現するのが制服なのであって」 (p.209) と繰り返し書かれているのを読んだとき私が連想したのは、その後の 「なんちゃって制服」 を経て、AKB的な制服/コスプレに到達する伝播と発展である。

        *

あとがきに、モードは残酷なものであると同時に、思いやりのあるものでもある、と鷲田は書く。それは人間の〈もろさ〉につけ込んだり、あるいはヴェールで覆ったりという相反する対応をみせるからであり、これもまた両義性と言えるのかもしれない。
ただ、この本の書かれたのが、もう30年も前の、ましてバブル期という特殊な時代であったことから来る古風な印象は否めない。なるべく普遍的な視点で終始しようとしても、時代からの影響はあるものなので、そうした 「旬」 の気配が必ずつきまとうのもモードという現象の宿命である。
また雑誌への連載であったという経緯があるためか、論理構造に 「行ったり来たり」 とか 「堂々めぐり」 (まさに 「死と再生の循環運動」 (p.098) である) があるように思えたので、一度解体して再構築しようとしたが途中で放棄した。すごく簡単にいえば 「可視性」 と 「制服」 という単語に全てが集約されてしまうように思う。「可視性」 とは、自分から見ることと、他人から見られることの差異を明白にするための論理基準であり、「制服」 とは個性を主張するか、マジョリティに埋没するかの選択肢における触媒である。どちらにもある種の憂鬱と抑圧が存在する。

しかしファッションとは、本来もっと軽く楽しくなくてはならないはずだ。ファッションという言葉の持つ軽さ (むしろ軽薄さ) と、モードという言葉の持つ暗い重さとでもいうべきニュアンスの違いを、直感的に私は感じとる。
あるいはファッションとは、それらの現象を、単発的に点としてあらわしているのに対し、モードは思想を継続的な流れとしてとらえているようにも思える。といってもこれはあくまで私の印象に過ぎないので、本来の言葉の真実の意味は、もっと別のところにあるのかもしれない。

しかしこの『モードの迷宮』後、時代は変わった。日本は不況となり、そうした動きは世界に蔓延し、気がつくと日本は物づくりの基礎を失った。クリエイティヴであることより、安価であることが重要な価値観となった。
それまではトレンドをファッションメーカーが主導していたのに、必ずしもそうではないトレンド (ニュートラとか渋カジとか) が起こるようになり、やがてデザイン性の無いもの (否定的な意味でなく質実であるということだけを特徴としたユニクロのようなブランド)、あるいはごく微視的なデザインの差異によるファッション・ブランドの並立や、ファスト・ファッションとして括られる使い捨て的なブランドが隆盛になった。
ハイブランドのオートクチュールやプレタポルテのファッションショーと、リーズナブルな、たとえばTGCのショーとは同じように見えて同じではない。しかしレストランにも高級なのと大衆的なものが存在するように、常に勢いがあり需要があるのは大衆的で大量生産のブランドである。

鷲田の 「すべての衣服は制服である」 という規定と、制服というタームは、かたちが少し変わっているが、ある意味予言的な言葉である。鷲田は制服の正の部分しか指摘しなかったが、それはAKBなどのアイドルグループの衣裳やコスプレの衣裳として具現化している。〈制服〉的なものは典型的な表象であって、普通の衣服とそうした衣裳との間にはグラデーションがあり、そうしたテイストのアイデアは数限りない。技術的な進歩があるにせよ、ごく廉価なファスト・ファッションに多く採用されるようになったスパンコールやラメ、フリルやレースなどの素材の使用もその一端である。
しかし、すでに私が指摘したように、制服には負の部分があることを忘れてはならない。それはまさに、悪辣な拘束と隠蔽と変形であり、そうした一見、理解しにくい不当な統制によって人の精神を損壊する行為に加担するのである。
そうした現象は、鷲田がこの本を書いた時代よりずっと顕著に悪質さを増加させていると思われる。そうしたことと比較すると、この鷲田の制服論はずいぶん穏やかなのである。

もうひとつ、私が不満なのは、「可視性」 ということへのこだわりは、あくまでファッション/モードを消費する側からのこだわりであり、精神分析的な 「わたしたちのこころ」 の問題としての分析のように思えてしまうからである。
モードについて、たとえばクリエイターたちはどう考えているのか。そして彼らが考えていることに対して、消費者はどのように反応しているのか、それともそうしたシステムはすでに衰退の時代にあるのか、そうしたアプローチに乏しい。それはあくまでこの本が、ファッションに関する現象への論考であって、ファッションそのものの論ではないからである。
クリエイターの意図は必ずしも市場に正当に、想定していたように反映されるわけではない。その意外性もファッションのひとつの特徴であると言えよう。

ファッション・デザインを変化させるエレメントは数多く存在するが、その変数は一定の区間を往復するしかできないものであり、ファッションの歴史のアーカイヴから一部引用する (p.189) という手法が一般的であり、したがってそのラティチュードは思っていたよりも狭いのである。
しかしファッションとは強制的な消費を起こさせるための仕掛けであるから、今シーズンが昨シーズンより必ず斬新で優れているという説得性を創り出して、昨シーズンのデザインはダサいと消費者に思い込ませ、新たな購買意欲を喚起させなければならない。つまり 「さまざまな 「共感覚」 [シネステジー] を新たなかたちで蠢かせることによって」 (p.207) 次のトレンドが正しいと信じ込ませる必要がある。それは一種の幻想の創作である。簡単に、脈絡もなく、それまでの美学が反古にされてしまうという点でファッションは芸術とは異なるのである。そこに特権的な例外はない。それは引用されているボードリヤールの言うように 「あらゆる記号が相対的関係におかれるという地獄」 (p.202) なのである。

ではファッションとはそのすべてが消費の海の藻屑となり淘汰されてしまう消耗品なのだろうか。そうでないものは確実に存在し、目先が変わってもその基部は動かない。決してラビリンスではなく、整然としていてパースペクティヴを持っている。その原動力となるものはファッションに対する信念あるいは思想である。それが真のクリエイティヴなものであるのならば、消費されながらも厳然として残っていくものである。


鷲田清一/モードの迷宮 (筑摩書房)
モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (1) [ファッション]

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拘束と隠蔽と変形。大きく3つに分けられたそれぞれの章タイトルに入っているこれらの言葉から連想されるのは、SMとかフェティシスムに通じるイメージである。
鷲田清一の『モードの迷宮』が単行本として上梓されたのは1989年というバブル景気の時代で、その時代はそうしたスキャンダラスなテリトリーに属する言葉を 「ファッション」 のように用いるのが、一種のトレンドだったのかもしれない。だとすれば、その分、少し割り引いて考える必要があるが、SMのファッションに関して記述されている個所で、最もウケたのはSMプレイに関する次の部分である。

 一定の規範的秩序のなかで自らを編成してきた〈わたし〉は、野性的な
 ものの無規範性、つまり動物性との境界にふたたび連れ戻される。四つ
 ん這いにさせられ、「雌犬」、「ブタ」 とののしられる。(ここで侮蔑語と
 して人間と野獣の中間にいる動物、つまり家畜やペットの名が選ばれ、
 だれも 「北極グマ」 とか 「キリン」 とは呼ばない ―― E・リーチ 「言語
 の人類学的側面」 参照。) (p.075)

確かにそうだ。でももっとよく考えれば、それらはイヌとかブタなどのごくありふれた、人間の生活に密着した種類の動物に限られ、たとえば 「ドロボウネコ」 とか 「エロウサギ」 くらいまでなら使うのかもしれないが、ハムスターとかハリネズミになるとちょっと微妙である。

なぜSMの話題が出て来たのかというと、

 実際、魅惑的なモードというものはいつもどこかにSMファッションの
 統辞法を導入している。(p.076)

からなのだが、しかしSMのファッションというものは永遠のステロタイプであり、ファッションというタームが流行という意味を包含するものならば、そのパターンは固定されていて保守的であり、つまり一種のトラッドで流動性はない。
ファッションとは限られた範囲のなかから適宜取捨選択するものに過ぎないとはいうのだけれど、たぶんそれは一般的ファッションについての方法論に過ぎないのであって、SMファッション自体には、たとえばヘヴィメタルと同じように様式美だけが存在するように思う。ただこれは現代からの視点であって、1989年にはもっと異なるアクティヴな様相があったのかもしれない。


《コードを欠くモード、あるいは美徳の不幸》

SMというイメージから敷衍して拘束というキーワードの下に語られるのは、「お決まり」 な流れなのかもしれないが、まず19世紀ヴィクトリア朝におけるコルセットである。コルセットは貞淑、気品、礼節といった美徳を形成するための衣服 (というより器具、むしろガジェット) として流行し発達したはずだったのに、それは次第に別の効果を示すようになる。「肉感性を隠伏させてしまうはずのアイテムが、逆に肉感性を顕在化させてしまう」 (p.059) のだ。

それは纏足とかハイヒールでも同様であって、このような身体に対する物理的な変形とか毀損というかたちでの拘束が、身体の本来の動きを制限し、変容させることによって別の意味を持つようになるという。
そうなると歩行は単なる歩行でなく、妖艶であったり、コケティッシュで挑発的であったりするという視点でとらえるようになることを、鷲田は 「一個の個性的・感情的・性的な表現」 であるというメルロ=ポンティの言葉を引用して指摘する (p.051)。

シンデレラの靴は、靴が一定の目的のためにハイヒールという形態をとるに至るルーツであるが、グリム版のシンデレラでは、シンデレラの姉が無理矢理に小さい靴を履こうとして、母親に渡された包丁で自分の足指を切ってしまう描写があるのだという。しかし靴から血があふれて、イカサマをしたことが王子にバレてしまうのであるが (p.045)、これを鷲田は 「モデルを身体に合わせるのではなく、身体をモデルに合わせてゆくという、ファッションの原則」 (p.046) であるという。
それはこの 「拘束の逆説」 という章の最初で、すでに規定されている。

 わたしたちは衣服を身体に合わせるというより、むしろ自分の肉体をモ
 デルチェンジして、モードという鋳型に合わせようとしているのではな
 いだろうか。
 イニシアティヴをもっているのはモードである。そして、これが衣服と
 身体に規則を与える。(p.023)

昔の軍隊で、軍服や軍靴に身体を合わせろと言われたという理不尽さや、トレーニング・ジムのCMで、太った身体が一定のパターン化された〈鍛え上げられた身体〉に変わる使用前╱使用後の対比画像などは (エステティック・サロンの肥満╱痩身の対比でも同じことだが) 目標となる完成形が一定の規則を持つモードなのである。

 わたしたちはモデルに従って、自分の衣服、自分の身体を見る。モデル
 に則って衣服を取り換え、身体を変形する。モードの主導権。標準的な
 サイズ、規範的な状態が、わたしたちを金縛りにする。しかも、当の標
 準や規範は目まぐるしく変化する。そしてわたしたちは、そのつど見え
 ない規則を遵守し、ときにはそれから逸脱するほどに、装飾をこらし、
 衣服で身体を拘束し、ひいては自分自身の身体をも変形しつづける。そ
 してそれでもなお、わたしたちは自分の衣服に、自分の身体に、いつも
 不安を抱きつづけるしかないのだ。(p.025)

では、目まぐるしく変化するモードの標準や規範は誰が操作して決定しているのだろうか。その答えは無い。
ただ、そのようにして不安を抱き続けるということは 「ファッションに関心があるか、ないか、ということとは何の関係もな」 くて、むしろファッションに関心がない、無感覚であると言っている人ほど、その時点での流行服を身につけていることが多く、したがって 「様式にこだわるという語の本来の意味で、彼らこそもっともファッショナブル」 (p.025) なのだとする、一見逆説的な提示にヒントがあるように思える。

言語表現においてはひとつの言葉が多様な意味を持つ場合と、多様な言葉がひとつの意味しか持たない場合とがある (前者の例として 「雨降りだ」 と言ってもそれが 「傘を持ってきてよ」 「君の勘はよく当たるね」 「きょうの試合は中止だ」 「外出するのが億劫だ」 といった幾つもの意味を持っていたりすること。後者の例として 「寒い」 「あした会える?」 「旅に出たいの」 といった多様な言葉の真の意味はたったひとつである、と鷲田は解説する。(p.030))。衣服においてもそれは同様に成立するが、しかしファッションの構造 (アイテムの組み合わせ) は言語のようにシステマティックではない。

 衣服を構成する各アイテム間の配置関係には、言語に見られるような、
 一義的に規定された顕示的な意味と言外の意味との構造的分割が見うけ
 られないということだ。厳密なコードによってシステマティックに規定
 された意味を欠くがゆえに、衣服の意味はそれだけ多義的なものとなる。
 すべての意味が暗示 [ほのめかし] であると同時に、表面に露出している
 ことになる。(p.031)


《可視性の変換》

ここで鷲田の提示するのが可視的、可視化という概念である。これは全編にわたって使用されている重要な言葉である。

 身体は〈わたし〉という見えないものに浸透されてはじめて、〈わたし
 の身体〉として可視化する。ところが逆に、この〈わたし〉という見え
 ないものは、衣服や身体、さらにはそのヴァリアントとしての言語とい
 った、可感的な物質の布置のなかで、〈意味〉を通して紡ぎだされるも
 のでもある。要するに、衣服=身体は、意味を湧出させる装置でありな
 がら同時に意味を吹き込まれるもの、つまりは意味の生成そのものなの
 だ。(p.027)

単純に物理的な身体を覆うものとしての衣服という考え方だけでは人間の衣服に対する (特にモードとしての衣服に対する) 認識の思考は説明できないと鷲田は指摘する。
ファッションというものは他人に見せる、あるいは他人から見られるということを大前提としていて、しかしそのように視覚にたよることが重要であるのにもかかわらず、ひとつの矛盾が存在する。それは人は自分の姿 (実像) を見られないということなのだ。

 わたしたちは、自分の可視的な存在を想像のなかでしか手に入れられな
 い。身体の目に見えるわずかな部分を、鏡に映った像を、パッチワーク
 のように自分の想像力の糸で縫い合わすしかない。(p.088)

鏡像のなかの自分は虚像であり、実際の自分とは違う。写真や動画に撮られた自分も2次元の複製に過ぎず、真の自分の姿ではない。人が自分の姿を見ることはできないのだ。そしてたとえば写真に撮られた自分の像に満足するひとはいない (p.088) ことからも、人が自分で考えている自分の実像と実際の像には 「ずれ」 があるとするのである。

拘束という言葉と並列して語られる隠蔽については、まず、A・リュリーの刺激的な引用がある。

 衣服というのは、言葉でいえば 「私には秘密があります」 というせりふ
 にあたる。(p.093)

想像力は隠れているものを見たいというのよりは、隠されているものをこそ見たいというのが、そのめざすものだというのだ。それを可視性という言葉にからめて表現するのなら次のようになる。

 だから 「わたしには秘密があります」 ということが重要なのであって、
 「秘密」 そのものが重要なのではない。秘匿されているものではなくて、
 「何か」 が秘匿されているという事態が、可視性の表面にざわめきをひ
 き起こすのだ。(p.094)

モードのポイントはつねに環流し、循環するものであって、一定の幅の範囲内で、その丈、長さ、幅、大きさといったファクターを往復するが、それは死と再生の循環運動でもあるのだという (p.098)。
また、過去の差異の在庫目録から一部を引用するのがファッション・デザインの正統な手法であるとも言う (p.189)。

〈拘束〉という言葉は、一定の道徳的規準によって定められた規範への従属をうながし、規制するものであるのに対し、〈隠蔽〉とは規範から逸脱するものを秘匿し隔離することを表す。それらは 「肉的・野性的」 と表現されているが、つまりもっと具体的には性的で淫靡な状態、原初的で衝動的な状態になることを回避するために〈拘束〉や〈隠蔽〉の手法が用いられるということである (p.100)。
しかしヴィクトリア朝における、コルセットで拘束し、幾層にも重ねられた長いスカートと下着で隠蔽するという美徳への偏執的手法が、かえって性的なフェティシズムを増長させるもとになったことはいうまでもない。

なぜそのようにしてまで偏執的に隠蔽しなければならないのだろうか。身体には 「これ以上見せてはいけない」 部位と 「見せてもよい」 部位とが存在するというが、ではその境界線はどこなのだろうか、とする問いがある (p.099)。
〈わたし〉の可視性を変容させるものがモードの視点であり、そして〈わたし〉の可視性は演出可能であるとするのならば、隠蔽するという手法は身体を隠蔽という視点からでなく可視性の変換という視点から見られねばならない、とする (p.104)。
隠蔽と対立する概念である露出に対してもそれは言えて、つまりあるものを見せたり隠したりすることによって、別のあるものを見せたり隠したりしてしまう転位とか擬装という行為 (一種の 「めくらまし」 だろうか) が問題だというのだ (p.105)。

こうしたテクニックは鷲田が規定する性的な何かを対象とした隠蔽の手法に限らず、ファッションの手法としてよく行われることである。つまり、色彩や形状によって錯覚を誘い、撹乱して、弱点のある部位から目を逸らさせるための工夫である。

擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (2) へつづく。


鷲田清一/モードの迷宮 (筑摩書房)
モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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川上未映子『おめかしの引力』を読む [ファッション]

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川上未映子 (撮影・荒木経惟)

川上未映子の『おめかしの引力』が面白くてさらさらと読んでしまった。新聞に連載していたファッションのエッセイをまとめたものだが、「おめかし」 という表現がファッションに対するこだわりを反映している。多分に自己満足なのかもしれないが、でも 「私はコレ」 という芯が通っているので一般的なファッション本とは違い、だから 「おしゃれ」 じゃなくて 「おめかし」 なのだとのこと。最近の芥川賞作家って羽田圭介とかもそうだし、もはやタレント? なんだろうか。

服が好きで好きで次々に買うんだけれど、でもいざとなると着ていく服が無かったりして、しかしそれが止められないという、まさに 「断捨離」 とか 「こんまり」 とかとは正反対の世界である。私も断捨離とは無縁だからとても共感。とゆーか断捨離って、言葉自体が宗教っぽくってなんだかちょっとなぁ~と思ってるし。初めて聞いたとき作務衣の親戚かと思った。
それとご本人のお言葉によれば 「やっぱ大阪人ですよねー」 と言われても納得してしまう卑下なのか自慢なのかよくわからないファッション感覚が伝わってくる。地方性のせいにするのってズルイって感じもするけれど、大阪はたこやき・お笑い・ヒョウ柄とか言われてるのは本当なんですね。

ハイブランドを買うときに、あまりにも高い品の場合、「一生着るんだから一回につきこれくらい、と思えば安いんやないの」 と1日あたりの単価を出して無理矢理自分を納得させることとか (だからって毎日着るわけじゃないのに)、お姉さんとファストファッション店に行ったとき、お姉さんは大満足なんだけどご本人は爆死したみたいで (若くないとこういう服はムリとのことです)、素直に大阪ノリに乗り切れなかったり、そうした経過に大笑いしてしまう。
ハイヒール・命なのでマノロを買ったら絶望に近いほど感動して、この靴なら全力疾走もできるんだけど、妊娠して仕方なくレペット履いたら全然似合わなくて、ぺたんこ靴のほうが、きっと履きこなしのハードルは高いんだ、とか。

一番共感したのはタートルネックが圧迫感があって鬱陶しくてダメという個所。私も同じ感覚なので、以前はそんなことなかったんだけれど、ある日、その圧迫感がキモチ悪いということに気がつき、以来、タートルネックのセーターなんて絶対に着ません。あぁつまらないとこに共感してるし。

本の真ん中へんにお気に入り服の写真が挿入されているが、それらがほとんどハイブランドであるので私には無縁なのはいいとして、ファッション写真として写された2枚の写真がある。
1枚はKENZOのスカートと古着のブラウスを着た資生堂用の写真。撮影は荒木経惟。もう1枚はヴィヴィアン・ウエストウッドのワンピースを着た篠山紀信撮影の写真展用のもの。
小さい写真なんだけれど、プロのカメラマンが撮るとどうなるかということだけではなくて、荒木と篠山の写真のとらえかた/個性の違いがくっきりとわかって、この部分に一番感動しました。あ、それじゃ本の感想にならないか。荒木の作品はいつもと少し異質な川上未映子的な表情が出ていて、それは風景でさえも特殊な色に変えてしまう彼の存在がそうさせる強いなにかなのだと思う (トップ画像参照)。
川上未映子はちょっと上野樹里に似ていて、でもこう書くとどちらもそれぞれ嫌がるんだろうけど、つまりどちらも女優顔っていうことです (これもフォローになってない?)。

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川上未映子 (撮影・篠山紀信/本に掲載されているのとは異なるが同じ展覧会の作品)


川上未映子/おめかしの引力 (朝日新聞出版)
おめかしの引力




トップランナー/川上未映子
http://www.pideo.net/video/pandora/e46733b3d276a6d4/
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生のものとヴァーチャルなもの — ニコラ・ジェスキエールのルイ・ヴィトン [ファッション]

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『VOGUE JAPAN』が200号だったので買ってみた。
雑誌には定期的に買ってしまう雑誌と滅多に買わない雑誌があって、『VOGUE』はたまにしか買わないほうに入ってしまう。だってさ、内容が無いよう~、というようなギャグはさておいて、マジメに見ても見事なまでに何もない。何もないというのはもちろん皮肉な比喩で、とりあえず私の生活には関係ないという意味である。この関係なささ加減は『CG』(カーグラフィック) といい勝負である。
でも何もないけれどすごくゴージャスで、高級ブランドの、どれだけ金をかけているのかわからないような広告ページが並んでいて、つまり逆説的に言えば何もないように見える究極のものがもっとも至高のファッションなのだと思う。

表紙モデルはイーディ・キャンベル (Edie Campbell) で、中に彼女のショットを集めた特集ページもあって、そこには 「ロックな空気感」 とか、ありきたりな形容がされているけど、若い頃のパティ・スミスっぽい印象もある。

だが裏表紙のルイ・ヴィトンの広告に目がいって買ってしまったのかもしれない。Lightning SERIES 4と銘打たれている今シーズンのヴィジュアルは、FFXIIIのライトニングことエクレール・ファロン (Éclair Farron) をモデルに起用しているのだ。この異様な美しさをプロデュースしているのがヴィトンのデザイナー、ニコラ・ジェスキエールである。

ルイ・ヴィトンは1854年創業の有名なカバン・メーカーであるが、アパレルを始めたのは比較的近年であり、「ヴィトンって服も作ってるんだ」 というような見方が一般的であった。1997年から開始されたアパレルをデザインしたのはマーク・ジェイコブス (Marc Jacobs, 1963-) で、彼はすでに1986年から自身のブランドを立ち上げ、さらに96年からはbisブランドであるマーク・ジェイコブス・ルックを展開し始めていたなかで、さらにヴィトンのディレクターとなったのである。
ルイ・ヴィトン自体がLVMHとなりグローバル化するなかで、ジェイコブスも確実に地歩を固めていったが、2013年にジェイコブスはヴィトンを辞めることになり、その後任のデザイナーとなったのがジェスキエールなのである。

ニコラ・ジェスキエール (Nicolas Ghesquière, 1971-) は19歳でジャン=ポール・ゴルチエのニット (maille) デザインのアシスタントを得て、それを足掛かりにティエリー・ミュグレーなどを経て、1995年頃からバレンシアガのライセンス製品のデザインをするようになっていた。
バレンシアガは1918年からのスペインを出自とする老舗であり一時は隆盛を極めたが、1968年にクチュールから撤退し、そして1972年に創業者のクリストバル・バレンシアガが亡くなると、ブランド名を貸すことによって成り立っているだけの過去のメゾンのようになってしまっていた。
しかし1997年、ジェスキエールがディレクターに就任すると (その時、彼は26歳)、名門バレンシアガは再生した。それはジェスキエールのアヴァンギャルドで、かつ伝統的なデザインにも通暁する彼の才能によるものであった部分が大きい。
バレンシアガってすっごく昔のブランドだと思っていたのに、最近のアレは何なの? というような唐突な印象を当時受けたことを憶えている。

一番新しいファッションショーの動画がサイトにアップされているが、そのメカニックなステージ造形と、レザーを多用したファッションとが融合しているのか、それとも拮抗しているのかわからないままにジェスキエールの術中にはまっていくような気がする。
彼はそのインスピレーションをSFから、フィリップ・K・ディックやジョージ・ルーカスから受けたと言う。また1970年代のアメリカのTVドラマ L’Âge de cristal (Logan’s Run) のタイトルもあげられている。
幾つにも仕切られた矩形の客席の間のランウェイを無表情なモデルが歩き回る。そのウォークに合わせてディスプレイを光の流れが通り抜けて行く。こうした最近のショーはなぜこうも同じ種類の生っぽいデジタル音楽なのかという不満が残るにせよ。
ライトニングの着ていたレザージャケットはヴィトンのモノグラムと斜めによぎる縞を皮革の上に載せているようで、美しいフォルムとアヴァンギャルドなその遊びがコスプレのような異質な雰囲気を醸し出している。もちろんこのデザインのままで販売されることになっているようだ。

ヴィトンのモノグラムは、かつて日本の伝統的な紋様にインスパイアされて成立したデザインであったが、今、日本のコスプレ文化が逆輸入のようにしてファッションの牙城である一流ブランドのデザインにフィードバックしていくという不思議さが面白い。
イーディ・キャンベルの特集の最後のページで、彼女もライトニングと同じようにこのレザージャケットとバルーンスカートを着ているが、丹念につくられたヴァーチャルのイメージにはさすがにかなわない。

伝統のなかに破調なものを率先してとりいれる手法は以前のシャネルにも見られたが、ジェスキエールの場合は、そうしたテクニック的な改竄でなくもっと根本的な思想の変容のように感じられる。
こうしたカウンターカルチャーからの本歌取りがパリのメゾンの疲弊から来るものなのか、それとも新しいデザイン意識だと捉えるべきなのかはもう少し時間が経ってみないとわからない。でもショーの最後に出て来たジェスキエールは、その佇まいと動きがスポーティに軽やかで、ここに未来があるようにも思える。

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Nicolas Ghesquière


VOGUE JAPAN 2016年4月号 (コンデナスト・ジャパン)
http://7net.omni7.jp/detail/1202240948
[Kindle版]
VOGUE JAPAN (ヴォーグジャパン) 2016年 04月号 [雑誌]




ルイ・ヴィトン16SSショー
http://jp.louisvuitton.com/jpn-jp/stories/womens-spring-summer-16-show
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サラバンドというアンニュイ — UNTITLEDの安室奈美恵 [ファッション]

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今TVで流されているUNTITLEDのCMが目を惹く。安室奈美恵が 「イイ女」 感満載で、白いブラウスと黒のミニキュロットに、黒いジャケットを羽織るというアクション。
ネットには15秒と30秒ヴァージョンの他に60秒のヴァージョンもあって、これらはVeil編と表示されているが、長いヴァージョンになるほど絡みつく布の印象が強く残る。

UNTITLEDというのは、どちらかというとキャリアっぽいファッションのブランドだったはずで、安室奈美恵がブランドイメージそれなりの年齢になってきたとはいえ、まだギャル系のイメージを色濃く残す彼女を起用するということは、新しい購買層を獲得することができるかもしれないが、今までの固定客を逃すかもしれないと、いらぬ心配をしてしまいそうになる。
実際にはそれをも含めた商品展開であって、大アパレルだからそんなにヤワな指向ではないし、むしろ周到な意図が垣間見えるのだけれど、その前のヨンアあたりからやや傾向が変わってきているような感じはする。そうした微妙な変化の継続性が存在しなければブランドは立ちゆかない。

レースを透して、あるいはシルキーな布にくるまれる肢体という映像は、直接的なセクシーイメージよりも、むしろファッションの基点は布なのだというメッセージに思える。それは以前書いたディオール・オムのCMに通じる。ディオールの場合はもっとダイレクトにハサミとかファッションの現場の作業を映し出す手法であるが (→2012年02月15日ブログ)。
跳ね上げ窓のある古い煉瓦造りらしい高層ビルの部屋というロケーションも、すべてが少しアナクロで、UNTITLEDがやはりキャリア・ファッションでもあるのだという含みを残す。

音楽はバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ1番のサラバンド (BWV1002) のサックスによる演奏 (鈴木広志) である。このサックスのがさがさとした質感と和音の重なり加減が、プリミティヴな楽器のような音にも聞こえて、かえってしなやかな布の手触りを連想させる。

サラバンドといわれて思い出すのはイングマール・ベルィマンの同名の映画《Saraband》で、ベルィマン最後の作品であるが、そこで繰り返されるサラバンドは同じバッハでも無伴奏チェロ5番のサラバンド (BWV1011) である。それはストーリーを反映した、やりきれなさと鬱屈の表象でもある。原曲もスコルダトゥーラを指定された暗い音色をあらかじめ持っている。
サラバンドはバロックの頃に用いられていた古い舞曲の種類のひとつだが、BWV1002と1011のどちらのサラバンドも暗くて、けだるくて、重い。たとえばクラヴィーアのパルティータBWV825のサラバンドは例外的に明るいが、油断するとダレる曲でもある。

ファッションは機能性だけではなくて、ときどきの感情の機微を受け止めてくれるフレキシビリティを持っているはずであるが、その容量は、ときに過剰であったり不足であったりして起伏が伴う。機能性だけで考えればあらゆる芸術は無駄であり、ファッションはもっと無駄なジャンルに過ぎない。でも、そうした無駄なもの、そうした不定形の翳りのようなものの必要なときが、きっと人間にはあるのだろうと思う。


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Sarabande BWV1002

UNTITLED CM (Veil編)
http://www.youtube.com/watch?v=ZceQXnRObgM

Arthur Grumiaux/Bach: Partita No.1 BWV 1002 no.5 Sarabande
http://www.youtube.com/watch?v=iFAkjS39wj4

Pierre Fournier/Bach: Cello Suite No.5 BWV1011 no.4 Sarabande
http://www.youtube.com/watch?v=UJKByFsa8Fc

Dior homme CM
http://creativeexchangeagency.com/film/directors/sarah-moon/film/dior-homme-work-in-progress/507344dc-1d0c-4963-aece-76650a0b0910
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そばかすの少女 —《TWIGGY》 [ファッション]

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ファッション・モデルの身体が極端に細く高くなり、一般人の標準的なサイズから逸脱し出したのはいつ頃からなのだろうか。現在のファッションショーは、デザイナーの美学を満たすために (しかしその美学はあまりにも画一的であろうとしている)、ある種の奇矯とも思えるバランスによるスーパーモデルの体型のみが必要とされていて、それは実際の実用に耐える服装とはもはや結びついていない。
モデルはデザイナーにとってのツールに過ぎず、その理想的ツール造形の欲望は日毎に肥大してゆき、果てがない (つまりデザイナーはモデルを人間としてとらえていないから、技術が進歩すれば、より理想に近い体型のアンドロイドやロボットをランウェイのツールとして採用する可能性もあるのではないかと思う)。
廉価なファッションカンパニーがリアル・クローズという名のもとに、等身大のファッションショーを開き始めたのも、その是非はともかく、アートに偏り過ぎたファッション界へのアンチテーゼといえる。

ツイッギー (Twiggy 1949〜) は、その細身の身体、アンドロジナスな外見、大きな目、長いアイラッシュ、ショートヘア (とwikiで形容されている) によって1966年にブレイクしたイギリスのファッション・モデルであり、自身のサイトにも 「最初のスーパー・モデル」 と書かれている。NPG (National Portrait Gallery) は有名人のポートレイトを収集する美術館だが、ここから出版されている《TWIGGY A Life in Photographs》は、複数のカメラマンによって撮られたツイッギーのクロニクルな写真集である。たまたま書店にセールで山積みされていたので1冊買ってきた。

レズリー・ホーンビー Lesley Hornby (本名) がツイッギーと呼ばれるようになったのは、その折れそうに細い身体から発想されたためであるが、身長は168cm (デビュー当時は165cm) であり、現在のスーパーモデルから較べれば全然小さい。というか、今だったらスーパーモデルにはなれない基準以下の身長である。
ただ彼女はバランスのよい身体と、かたちのよい輪郭の顔と、なによりも強い目を持っている。暗いブルーの、少し不機嫌そうな、強い意志を持っている瞳。

グラムロック全盛期の頃のデヴィッド・ボウイのアルバム《Pin Ups》(1973) のジャケットはボウイとツイッギーの2ショットであるが (撮影は Justin de Villeneuve)、アンドロイド的でアンドロジナス的な2人が並ぶと、かえって歴然とした男女差が浮かび上がっていて面白い。
ボウイの先行するアルバム《Aladdin Sane》(1973) の Drive in Saturday の歌詞の中に、Twig the Wonder Kid とあるのが指摘されている。これはツイッギーを示しているのだろう。
そして、これは単に私がそう感じるだけなのかもしれないが、ボウイにしてもツイッギーにしても当時の時代の最先端だったのにもかかわらず、そのファッション性には、わざと時代錯誤的な古さ、あるいは露悪的な 「外し」 感が垣間見える。

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この写真集に載せられている1966年〜1967年頃の、ティーンエイジのツイッギーの新鮮さと、その存在感は比類ない。私が一番好きなのは、Melvin Sokolsky の撮った1967年の船上でのカットで、モスグリーンの服と同色のニットキャップ、そして白のハイソックスのツイッギーはやや俯瞰から撮られていて、足元の金属の床板の連続模様が妙にリアル、逆光の船の舳先に誰か人物が立っている。
そしてソコルスキーの撮った裏表紙にも使われている正面からの顔だけのポートレイト。しなやかなブロンドの髪、肌に同化したリップ、影の濃い右顔の中からまっすぐにこちらを射る瞳 (トップ画像)。この写真に限らず、近くから撮るとツイッギーの顔はそばかすだらけなのだが、それがかえって個性となっているような気がする。つまり人工的でメカニックなツールでしかないモデルたちとは違っている。

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メリー・ホプキンをITVの番組で見つけポール・マッカートニーに紹介したのはツイッギーだったが、そのツイッギーを撮ったリンダ・マッカートニーのショットは、ちょっとリラックスした彼女の別の面があらわれている。たぶんカメラマンによって、人の表情は変わるものなのだ。

ツイッギーが年齢を重ね髪を長くしてからは、比較的普通の女性のルックスになってしまったように見えるが、10代の頃のアンドロジナスの輝きが廃れることはない。


TWIGGY A Life in Photographs (NPG)
Twiggy: A Life in Photographs




David Bowie/Pin Ups (Virgin Records US)
Pin Ups [ENHANCED CD]

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It’s only a game — アレキサンダー・マックイーンのこと [ファッション]

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今年の秋冬が出てくる時期になって、Alexander McQueenのサイトにも画像が載っている。bisブランドであるMcQのショーは2月20日で、すでにネット上にリポートがあるが、シックな色づかいで 「使える」 風なデザインである。
そして本家マックイーンはまだプリコレクションという画像しかないが、色は黒が主体で、黒とボルドーの組み合わせをメインとし、そしてコルセット状のベルトがアクセントになっている。

アレキサンダー・マックイーンの名前は昨年のウィリアム王子の結婚式でキャサリン妃が着たドレスということでより有名になった。でもこのデザインをしたのはサラ・バートンである。

アレキサンダー・マックイーンは2010年に突然のように亡くなった。不幸な死である。その作品はいつも刺激的であり、ファッションショーのためだけの作品というような言い方もされたが、デザインとテクニックが両立している稀有な例だったと思う。同様に刺激的だったのがディオールのジョン・ガリアーノだったが、彼も同様にシーンから遠ざかってしまっている。

サラ・バートンはマックイーンの片腕であり、マックイーン亡き後、見事にブランドを引き継いだ。引き継いで昨年あたりまでのコレクションは、それなりにマックイーンのテイストが残っていたが、今年のコレクションはもう完全にサラ・バートンである。それは仕方のないことかもしれない。

It’s only a gameは2005SSのタイトルである。それは不思議の国のアリス。最も高級なコスプレ。人生もまた単なるゲームに過ぎないのだろうか。

ブランド名は創始者亡き後も引き継がれていくことはある。たとえばシャネルとかディオールがそうである。アレキサンダー・マックイーンもそのようにして残っていく名前なのだろうか。私はアレキサンダー・マックイーンは彼ひとりだけのブランドだったのだと思う。彼の死とともにブランドも死んだのだ。だからそのうち、アレキサンダー・マックイーンというブランド名は無くなってサラ・バートンになるかもしれない。それでもいいのではないだろうか。

明日はアレキサンダー・マックイーンのお葬式から2年目の日だ。


http://www.alexandermcqueen.com/
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ディオール・オムのサラ・ムーン [ファッション]

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ネットをぼんやりと周遊していたらディオール・オムの動画というのを見つけた。そのことについて書いてあったブログからのリンクである。すでに去年のことで今更な話題なのだが、サラ・ムーンの撮った動画ということである。

サラ・ムーンというのは一時期のcacharelの写真を撮っていたことで有名なファッション・カメラマンである。極端に増感したざらざらのエクタクロームで、まるで絵画のような撮り方をした画像だった。その後もその作風は基本的には同じように思える。

被写体としてほとんど女性を撮るばかりだった彼女の作風からするとディオール・オムというのはちょっと変わっていて新鮮である。しかも、これを言ったら失礼だが、全然今も現役であってますます健在といったふうである。スチルであってもムービーであっても彼女自身の持っているコンセプトは変わらないなぁ、と改めて感じる。music by MODE-Fとクレジットされている音楽もなかなかキマッているし、作品名がWork in Progressとなっているのも、まるでジェイムズ・ジョイスみたいだ (ジョイスのFinnegans Wakeは、作品発表時にはWork in Progressという仮タイトルになっていた)。

ディオールはジョン・ガリアーノの解任事件以来、その後が混沌としているような気もするが、そして個人的にはガリアーノには何とか復活して欲しいとも思うけれど、そんな中でのサラ・ムーンいいんじゃない、と少しほっとした気持ちになる。


Dior homme/A Film by Sarah Moon
https://www.youtube.com/watch?v=m2yoTSplkxA
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ファッションCMの虚像 [ファッション]

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昨日、昼のTVを見ていたら、中野裕道 (hiromichi nakano) のお宅訪問みたいな番組があって、思わず興味津々で見てしまった。異素材を組み合わせたような三層構造の家で、それは外見だけでなく内部もそうで、凝ったつくりの階段や調度の中に、古いヴォーグやミッキーマウスグッズやジュモーが置かれていたりして、彼の作品の源泉を垣間見たような気がした。ファッションとは結果として出てくるものがすべてで、読書における 「行間を読む」 ようなことはできないが、その行間が見えてしまうのも面白いと思う。

でも最近はファッションにかけるお金なんて無い、という風潮になってきていて、ファストファッション隆盛の時代である。それもひとつの考え方なのだろうが、それが全てではないと私は思う。すべてが同じ価値観、クォリティになってしまったら、何も面白味は無いし文化はやがて死に絶える。

それと最近のTVCMなどを見ていると、ファストファッションは勢いがあるのだろうか、とてもよいモデルを使ったきれいな映像で、ともするとそのファッションの実力以上の商品のように見えてしまうことが多い。それが広告なのだと言われてしまえばその通りなのだが、なんとなく納得できない気持ちになってしまうことは事実である。誰もが黒木メイサみたいなボディなわけではない。

海外ファストファッションもH&MのCFはソフィア・コッポラの撮った映像で、使われている音楽はブライアン・フェリーである。こうなるともう単なるイメージ映像と思ってしまったほうがいいのかもしれない。


Marni at H&M
http://www.youtube.com/watch?v=9wK-CgE8mdI
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