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煙の生きる道 ― TBSドラマ《カルテット》最終回から思ったこと [雑記]

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左から:家森諭高 (高橋一生)、世吹すずめ (満島ひかり)、
    早乙女真紀 (松たか子)、別府司 (松田龍平)

風の強い春の日、お葬式に行ってきた。そのあたりは以前、よく通った時期もあった場所なのだが、行ってみたら見知らぬ大きなスーパーができていたり、さらに開発が続いていて、久しぶりの街並みは様変わりしていた。斎場は坂の途中にあり、風景が奇妙に歪んで見えた。

葬儀の仕度を待つ間に、行方のわからない親戚の人の話になった。こうした集まりのとき、誰に聞いても、今、どこに住んでいるのかわからないということが毎回のように囁かれる。それは困ったことですね、と安直に同意しながらも、本当にそれは困ったことなのかというぼんやりとした疑義が通り過ぎる。
所在が不明になるということは、つい、うっかりではなくて、その多くが意図して所在を不明にさせているのだから、極端な不都合が無いのだったら、とりあえず不在ということで仕方がないのではないだろうか。もしずっと不在のままなのならば、それは不在という名前の永久欠番となり不在であるというかたちの無言の記録となる。でも不在を知る人がすべて死に絶えれば不在であるという記録も消失する。

ドラマ《カルテット》の最終回を観ながら、いろいろと考えることがあった。そしてそれはドラマのストーリーとは関係なくどんどんズレて増殖していったのだが、この回のテーマのひとつとして 「所在の不明になった人を探す」 というエピソードがある。
戸籍を買ったという真紀の犯罪はセンセーショナルな醜聞となり、カルテットの他のメンバーの過去までもが暴き出されてしまう。みんなに迷惑をかけてはいけないと思い、真紀は姿を隠す。
そしてカルテットをやっていた頃の時代を回想して言う。

 もう私がヴァイオリンを弾いても
 前みたいに聴いてもらえないと思うんです。
 週刊誌で見た犯人が弾くモーツァルト、
 疑惑の人が弾くベートーヴェン、
 それじゃ楽しんでもらえないですよね。
 私が弾く音楽は、これから全部灰色になると思うんです。
 もう、あの中には戻っちゃいけないな、なんて。
 それぐらいね、眩しい時間だったんです。

しかし3人は週刊誌に載った写真から真紀がいると思われる場所を割り出し、真紀を野外演奏という手口でおびき出す。この再会は感動の場面なのだが、それにそうしたカタルシスがなければドラマは進行しないから当然なのだけれど、でも、探し出せない所在不明者はゴマンといるし、探して欲しくないから音信を断ったのだと呟く確信犯がほとんどなのだと思う。

私には、かつて行方不明だった友人がいた。何かのきっかけで見つけ出されたのだが、ある日再び行方不明となってそのままである。なぜ姿を隠したのか詮索しても仕方がないし、もうずっと行方不明のままで終わるのかもしれない。

もちろん真紀は、そうした不在の人になるつもりはなかったのかもしれないが、カルテットに戻ることはみんなに迷惑をかけるから、戻らないつもりでいたのだ。3人に見つけられた真紀は、わざと憎まれ口のようなことを言う。

 真紀  演奏イマイチだったなぁ。
     こんな下手なカルテット、見たことない。
 すずめ じゃあ、あなたが弾いてみたら?

そして真紀とすずめは抱き合う。その後ろから家森が抱きつく。もしこうしたハッピーエンドが人生なのならば、人生は真底素晴らしい。この再会の場面を見てうるうるしながら、同時にそれとまるで違うこと、つまりハッピーエンドと正反対の可能性を考えてしまう私は、Gの帽子の人に似ているのかもしれないと思うのだ。

真紀がカルテットに戻って練習を再開した4人に匿名の手紙が届く。それは彼らの演奏を否定するようなネガティヴな手紙だった。この手紙がこの回のもうひとつのテーマである。

 はじめまして。わたしは去年の冬、カルテット・ドーナツホールの演奏
 を聴いた者です。
 率直に申し上げ、ひどいステージだと思いました。
 バランスが取れてない、ボウイングが合ってない、選曲に一貫性がない。
 というよりひと言で言って、みなさんには奏者としての才能がないと思
 いました。
 世の中に優れた音楽が生まれる過程で出来た余計なもの。みなさんの音
 楽は、煙突から出た煙のようなものです。価値もない、意味もない、必
 要ない、記憶にも残らない。
 私は不思議に思いました。この人たち、煙のくせに、何のためにやって
 いるんだろう。早く辞めてしまえばいいのに。私は五年前に奏者を辞め
 ました。自分が煙であることに、いち早く気付いたからです。自分のし
 てることのおろかさに気づき、すっぱりと辞めました。正しい選択でし
 た。
 本日またお店をたずねたのは、みなさんに直接お聞きしたかったからで
 す。どうして辞めないんですか。煙の分際で。続けることにいったい何
 の意味があるんだろう。この疑問は、この一年間、ずっと私の頭から離
 れません。
 教えてください。価値はあると思いますか? 意味はあると思いますか?
 将来があると思いますか? なぜ続けるんですか? 
 なぜ辞めないんですか?
 なぜ?
 教えてください。お願いします。

そんなふうに書かれても4人はめげずに、真紀のこの瞬間のネームヴァリューを逆手にとって、大賀ホールでコンサートを開く。好奇心を持った観客でチケットは完売するが、普通のクラシック・コンサートであったことで、1曲目のシューベルト《死と乙女》が終わった時点でそうした観客はぞろぞろと帰ってゆく。だが音楽を聴こうと思った観客は残る。
真紀が大きなホールでのコンサートを提案したとき、別府と家森は最初、それに消極的だったが、すずめはコンサートをすることに賛成したのだった。そして、すずめの言った通りになった。

 別府  でも、たとえそれで人が集まったとしても。
 家森  その人たちは、音楽を聴きに来る人たちじゃないし。
 すずめ 届く人には届くんじゃないですか?
     その中で誰かに届けばいいんじゃないですか?
     ひとりでも、ふたりでも。

客席にいたGのマークの帽子をかぶった人が捉えられ、たぶんネガティヴな手紙を出した人のように暗示される。

大賀ホールでのコンサートには、着飾った有朱 (ありす/吉岡里帆) もやって来た。裕福そうなパートナーを見つけたと思わせるようなその様子に皆、驚く。だが4人のなかに驚きはあっても羨望はない。なぜなら有朱は、鏡の国からやって来た〈死の乙女〉だから。異様な輝きはあるが、みだらで腐敗している。

ラストシーンは、4人で遠征して演奏をしに行くところ。道がわからず遅刻しそうだ。別府の言葉によれば初めての遠征とのこと。だが、肉の日のキャンペーンよりはマシなのかもしれないけれど、おそらく、昔の言葉で言えば 「ドサまわり」 の、相変わらずのパッとしない演奏会のような雰囲気が漂っている。それでも4人の表情は明るい。

私の親戚に、ミュージシャンになるんだと言って、ずっとロックをやり続けていた人がいる。だが、音楽のどのジャンルでも、プロになる道は狭く険しい。ましてそれで 「メシを食う」 のはさらにむずかしい。
その人がプロのミュージシャンになれたのか、売れなかったけれど今でもミュージシャンになる思いを捨てていないのか、それともとりあえず音楽教師になって教えたりしているのか、もしくはすでに音楽への夢を捨ててしまったのか、それはわからない。それが最初に書いた 「葬儀の席で話題になる行方のわからない親戚の人」 だからである。

4人が再会して、また練習を始めようとするとき、家森の言ったことが、音楽に関するスタンスを如実に現している。

 家森  好きなことを趣味にするか、夢にするのか、
     趣味にできたら幸せだけど、夢にしたら泥沼だよ。
     ちょうど今、そのときが来たんだと思います。
     夢が終わるタイミング、音楽を趣味にするタイミングが、
     向こうから来たんです。
 別府  僕は、この1年ムダじゃなかったなって思います。
     夢は必ずかなうわけじゃないし、
     あきらめなければかなうわけでもないし、
     だけど、夢を見て損することはなかったなって。
     ひとつもなかったんじゃないかな、って思います。
 すずめ 休みの日にみんなで集まって、
     道で演奏するのもいいんじゃないですか?
     誰が聴いてても聴いてなくても、
     あたしたちが楽しめれば。

だが、ラストシーンの4人はそのタイミングでどちらかに道を決めたわけではない。あいかわらず趣味にするのか夢にするのか、状態は宙ぶらりんのままである。その不安定な明るさが余韻となって残る。

弦楽四重奏は4本の弦楽器で演奏される最もピュアな音楽なのではないかと私は思う。管楽器も打楽器も入らず、純粋に弦だけの音楽。基本の4声。オーケストラのように大迫力でもなく、ピアノのようにきらびやかではない。どちらかというと地味だ。照明の比喩でいうならば、色彩と明暗の溢れかえる刺激的でダイナミックな光でなく、地明かりだけの静止した光のようである。

日本の弦楽四重奏の歴史のなかで、その黎明期に巌本真理 (1926-1979) がいる。巌本は日本人とアメリカ人のハーフで、巌本メリー・エステルという名前であったが、第2次大戦のさなか、アメリカ/英語への憎悪を避けるため巌本真理と改名した。
巌本は小野アンナの弟子であり、遡ればヨーゼフ・ヨアヒム→レオポルド・アウアー→小野アンナという系譜が存在する。さらに遡ればヨアヒムはメンデルスゾーンの教えを受けた人である (小野アンナはロシア人であるが、日本人と結婚したので小野姓となった)。
戦後、巌本はソロ活動とともに1966年に巌本真理弦楽四重奏団を結成し、後年は弦楽四重奏団をその演奏活動の主力として定期演奏会を続けた。今でこそ弦楽四重奏の認知度は上がってきたが、当時は地味で、客が入りにくかった時代のはずである。
普通に考えれば、ソロで活動することのほうが名前も売れるし収入だって多くなるはずである。でも彼女はそうしなかった。その頑なさの伝説が、私のなかの弦楽四重奏へのシンパシィを上げるもとになっている理由のひとつかもしれない。だが残念なことに巌本クァルテットの音源は少なく、ほとんどが廃盤だったりするのでその活動の全容はよくわからない。

家森が言っていたように、音楽を趣味にするか仕事にするか、それは天国にするか地獄にするかの違いのようでもあり、でも限りなく魅惑的な選択肢でもあるように思える。もちろん私は当事者ではなく傍観者でしかないが、ミュージシャン願望をあきらめきれなかった私の親戚の人に限らず、その選択肢の分かれ道で苦吟していた人を私はたくさん知っている。どちらに行くべきなのか、それは私にはわからない。たぶん誰にもわからないはずだ。
もっといえば音楽に限らず芸術はすべてそうだ。いや、芸術以外でも同様にそうかもしれない。でも私は、そうした苦悩の道や分岐点を避けてきた。それはごく平凡な道ではあったけれど、メインストリートではなく歩きにくい裏道であった。だから私はGの帽子の人みたいでもあるし、有朱のようでもあると思う。もっと正確に言うのならば、私は単なる煙である。死んでしまえば何も残らないし、誰の記憶にも残らない。ひとえに風の前の塵に同じ。葬儀という身近な出来事から引き出されたのはそういう乾いた悲痛な認識である。

《カルテット》で設定されている真紀のキャラクターとして、声の小さい人という特徴がある。えっ? と聞き返さないと聞こえないような小さな声、自分がソロをとるとダメになってしまうと思っているような自信のなさ。それは彼女の弱さのように見えて、そこに暗いけれど強い信念のようなものを私は感じる。


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モルダウの暗き流れに、あるいはしっかりしたリス ― TBSドラマ《カルテット》第9話 [雑記]

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《カルテット》第9話はいよいよラス前です。
実はこの前、野球放送が延びて第8話を見逃してしまい、あとからネットで観ました。ところが途中から別の音楽がかぶさっているひどい動画もあって見直したりしていて、あぁ疲れた。

ドラマの番宣では 「誰が嘘をついているのか」 みたいなキャッチがやたらに使われているけれど、これって 「嘘」 という言葉とはちょっと違うと思うんですよね。「嘘」 という言葉から連想される言葉にその言葉以上の何かが加えられてしまっていて、すごく違和感がある。確かに嘘をついているといえば嘘をついているんだけど、それが罪悪であるということが強調され過ぎていて……。う~ん、うまく言えない。まぁでもTVとか芸能誌とかスポーツ新聞とかそういうものなんだから仕方がないか。

それでドラマとしては第8話からの 「来週へつづく」 がうまくつながっていて、今回もまた、そう来たかというのの連続です。ひっぱりかたがうまいなあ。真紀 (松たか子) が突然真紀でなくなって無名性の仮面をかぶったような不気味な印象を与えるようにしてしまうという手法。
ストーリー自体に興味がある場合は動画でも観ていただくとして、以下は観ていることを前提とした感想です。

ドラマに引き込まれることの重要なひとつが軽井沢の別荘という設定で、この建物と部屋の魅力というのがすごくあると思うんです。つまりドラマを離れて、こういうところで暮らせたらいいなぁというリアリティに満ちている。それでいて、でもそれはドラマだから実際にはあり得ないということも薄々分かってしまう構造になっている。
世間から隔絶された環境というのは推理小説では常套ですし (グリーン家とか)、その秘められた空間は独特の魅力を持っているようで、憧れの対象となり得るのです。
「ノクターン」 もそうです。そういう、ある意味こぉゆぅ理想的なお店があったらいいなぁという雰囲気を持っている。でも真紀が、ノクターンでずっと演奏できるのならいいな、それって願望としては低い? みたいなことを言うシーンがありましたけど、そう、実際はそんなことしてたらちょっとそれは音楽じゃないっていう面もあります。
以前、そういう店で、つまり生ピアノをBGMとしているお店に入ったことがあるんですが、舞台なんかないからピアノを弾いていたって大半の客は音楽なんか聴いていない。がやがやしていて、まさにBGMでしかないです。女性ピアニストだったけど、一生懸命弾いているように装っている影に、なんとなくやさぐれているような風情もある。でも音楽ってモーツァルトの頃からBGMとして発達してきた部分もあるのでそれは仕方がない面もあるんだけれど、でもそうしたポジションに安住してしまったら音楽のこころざしとしては低いわけです。

SAJという記号が、すずめ (満島ひかり) と家森 (高橋一生) との会話のなかで展開されて、それが呼応して真紀と別府 (松田龍平) との応答につながっていく前提になるというのもすごい。SAJかぁ、DAIGOかっ、つーの。
有朱ちゃん (吉岡理帆) は今回もちょっとやり過ぎな楊貴妃とか形容される暴君設定になっているので、ファンの人は観ないほうがいいです。それより坂本美雨の役が、これもまた意外性の勝利というか、そう来たか、でしたね (坂本美雨は坂本龍一の娘です。いちおー、念のため)。

でも有朱の行動っていうのはドラマのなかでの単なる 「いろどり」 のように見えて、実はシビアな一種のアンチテーゼのようでもあり、その雑さ加減、もっといえば乱暴さとか暴力性、攻撃性が周囲の人たちに微妙なストレスとなってずっと残っていくような意味合いをもって設定されてるように思います。
それは世代の違いもあるし、メイン4人への異世代間闘争というか、より言えばヒエラルキー攻撃/挑戦でもあるわけで、それがいまの内向の時代の反映ともなっています。この前、真紀のヴァイオリンを持ち出そうとした有朱と、自分の楽器をすずめに預ける真紀の行動の対比というのも、悪意や憎悪に対する信頼とか愛情のメタファーです。

4人は最後の演奏でアヴェ・マリアを弾き、そしてすずめのチェロから始まるモルダウを弾きます。こういうお店での演奏だから、そんなにむずかしい楽曲を選ぶはずはなくて、いわゆるライト・クラシック限定になるのだろうと想像できますが、スメタナはまさに通俗ですけれど、こういうとき、スメタナとかドヴォルザークとかがまさにハマります。
こうした哀しみというのは、単純だけれど強く心に響くなにかを持っていて、人口に膾炙した有名曲というのは常にそうした俗な部分を併せ持っているはずです。そういう曲を持ってくるのはズルイんですけど、ズルさがなければドラマなんか書けない、のでしょう。

さて最終回がどうなるのか、これは逆に相当なドンデン返しみたいなのがないと期待外れになってしまうから作家にとってはむずかしいかもしれませんね。でも推理小説と同じで作家は倒叙法で考えているんだからそうでもないか。

穂村弘が、「あるいは」 の入ったタイトルはカッコイイと書いていたんです。「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」 とか。おぉx、そうかぁ。それで早速やってみました。前と後の関係性が支離滅裂のように思えるかもしれないですが、それで正解です。
でも全く関係ないように思えるリスの逸話は、《北の国から》のキタキツネと同じ効果をもたらしています。

     *

《03月16日追記》
回想場面に出て来た真紀の母は山本みずえ (坂本美雨) という演歌歌手、そして真紀の本名は山本あきこ [漢字不明] とのことでしたが、来杉有朱役の吉岡里帆が映画《明烏》に出演したときの役名が 「山本明子」 なのだ、とtwitterにありました。つまり真紀と有朱の相似的暗合が存在するわけです。


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長門芳郎『パイドパイパー・デイズ』など [雑記]

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Lisa Batiashvili

ここのところ落ち着いてブログを書いたり読みに行ったりする時間がなくて失礼してます。

仕事の合間合間に、いままで読めなかった本のなかから長門芳郎『パイドパイパー・デイズ』を読んでみました。長門芳郎——シュガー・ベイブやティン・パン・アレ-などのマネージャー、そして南青山にあったというレコード店パイドパイパー・ハウスの店長、さらに海外ミュージシャンのコンサート等のプロデュースを多数してきたというすごい人です。

書名はそのレコード店からとられているのですが、伝説の店として名前だけは知っているけれど、残念なことに私はそのパイドパイパー・ハウスという店に行ったことがありません。
あの近くだとたとえば嶋田洋書とかヴィヴィアン・ウエストウッド青山店は知っているのに。もっとも嶋田洋書も一昨年に閉店してしまいましたけれど。

最初の音楽の出会いとしてラヴィン・スプーンフルというのがちょっと特異です。世の中がビートルズやストーンズだった頃にラヴィン・スプーンフル! とのこと。その後の音楽的変遷もすさまじいものがあって、でも私はラヴィン・スプーンフルといっても〈サマー・イン・ザ・シティ〉しか知らないし、ほとんどわからないようなジャンルなので、う~んこれはすごいらしいぞ、ということしか言えません (いや、らしいじゃなくて文字通りすごいんですが)。
パイドパイパー・ハウスの終焉はアナログレコードがCDに変わっていく頃と同期していて、つまりそれは音楽のメディアがそのように変化していったという単純なことだけではなく、もっと象徴的な意味があるのではないかと思います。

本の後半、3分の1くらいは音楽雑誌に掲載されていたパイドパイパー・ハウスの広告が年代順に並んでいて、手書きだったり、素朴なクーリエのタイプライターで打たれた文字で作られている、いかにも古い雑誌の香りのするチープだけれど力のこもった内容に、音楽はこの頃のほうがずっといきいきしていたんじゃないかと感じます。

    *

バティアシュヴィリはデビューであるEMI盤を聴いてみました。ブラームスの第1番とバッハの無伴奏1番、そしてシューベルトのロンド D.895です。もう少し聴いてみないとまだ書けない感じで、この録音のとき彼女は20歳。無伴奏は1番だけですが、イブラギモヴァとはまた異なった演奏で (どちらかといえば対極的なのかな)、しかし冒頭に持ってきたブラームスがとても良いです。ものすごく美音とか、ものすごく美人とかいうわけじゃないのですが、非凡ななにかを持っています。
シューベルトの最後のほうなど、ちょっと荒い感じもあるのですがそのパッションの表出さが何か違っていて、でも何が違うのかがよくわからないのです。

    *

レイ・ブラッドベリの『華氏451度』の伊藤典夫訳を読んでみました。これは相当面白かったです。いままでの訳と今回の新訳とを較べてみるといいんですが、そんな時間が無くてそのままになっています。それより原文と対照しろよ、というツッコミはナシです (そうそう、1953年のバランタイン初版本というのを見てしまいました。もちろんそんなもの買えません。そもそもバランタインで出すことになったのは 「こんなの売れねぇょ」 ということだったらしいんですが、それが今ではブラッドベリの代表作に)。
でも、久しぶりに読んでみると、ああこういう話だったのか、と忘れていたところが多くて、しかも今の時代をまさに現しているようで、エピソードのなかには、たとえば最低なレヴェルの大統領選挙が行われていたりして、それ以外にもギミックみたいなのが笑っちゃうほど満載で、まさに今の時代にぴったりな内容です。ブラッドベリって非常にシニカルです。
それで、フランソワ・トリュフォーの撮った《華氏451》という映画がありますが、映画自体はトリュフォーとしても満足のいく出来ではなかったようですけれど、映画では隣家の少女クラリスと妻リンダ (小説ではミルドレッド) をジュリー・クリスティが2役で演じているんですが、それは《ピーターパン》を演じるとき、父親ダーリング氏とフック船長を同じ役者が演じるのと同じなのだ、と突然気がついてしまいました。違うかな?

    *

ゾルタン・セーケイのことについても、何か書くことがあったんですが忘れてしまいました。忘れてしまうというのは、きっとたいしたことじゃないんです。


長門芳郎/パイドパイパー・デイズ (リットーミュージック)
PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989




Elisabeth Batiashvili/Works for Violin and Piano (EMI)
ヴァイオリン・リサイタル




Lisa Batiashvili/Shostakovich: Violin Concert No.1 a-moll op.99
Tokyo 2009
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6164632
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もう心は雪のように白くはない — TBSドラマ《カルテット》 [雑記]

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TBSのドラマ《カルテット》をたまたま見始めたら面白くて最後まで観てしまいました。
今回は第2回目とのこと。松たか子主演だが、松たか子 (巻 真紀)、満島ひかり (世吹 すずめ)、高橋一生 (家森 諭高)、松田龍平 (別府 司) という4人による文字通りのクァルテットで、丁々発止のストーリーということになっているようです。
偶然集まった4人が弦楽四重奏を弾くというので、もしかして《のだめ》みたいな音楽ドラマかと思っていたがそうではありませんでした。

この回の通奏低音となっているのはSPEEDの〈White Love〉だ。最初のほうのシーンで別府と結衣 (菊地亜希子) がカラオケで歌っている曲が〈White Love〉で、ボックスに遅れて入ってきた別府が内線電話で 「フライドポテト、メガ盛りで」 という。この大量のフライドポテトも伏線となっているのがニクい。
それぞれに片思いで恋が錯綜というのはTVドラマの王道だが、ややミステリーっぽいテイストとコメディとが加わっていて、これはなかなかイケるかもしれないと思う。光量不足のような暗い画面が多いのもいい。
詳しいあらすじ等は、番組サイト (下記) をご覧ください。

ところどころに入って来る一種のアフォリズムが面白くて、たとえば 「連絡しますというのは、連絡しないでね、っていう意味」 とか笑ってしまう。
「質問に質問で返すときは正解なんですよ」 というのもそう。

結衣は 「結婚するかもしれない」 と別府に言う。「(その相手と) どんな話をするんですか?」 と訊く別府に 「どこのタイヤが、どういいとか」 という返事。そんな男と結婚なんかするのやめちゃえよ、と別府は思う。
でも別府がホントに好きなのは真紀で、何回も偶然に出会う機会があった。でもそのチャンスを生かせないうちに真紀は他の男と結婚してしまう。
それはいいのだが、その偶然の機会というのがコネタになっていて、別府が最初に真紀の姿を見たとき、彼は銀色の宇宙人のコスプレをしていた。2回目に、よしそば行ったらバイオリンケース持った人がにくそば食べてて。3回目はヤマダ電機のマッサージ機に座っていて。でもいずれも声をかけられないでいるうち、4回目は結婚式場でバイトをしていたら、そこで真紀が式を挙げるところを見たことを告白して、ぼくと結婚してくださいと続けるのだ。
なぜなら真紀の夫は不在になっていて、でもその母である巻鏡子 (もたいまさこ) は息子が真紀に殺されたと思っているのだ。

その別府の告白に対する真紀の台詞がいい。ちょっとしたレトリックが古典的演劇ふう。

 悲しいより悲しいことってわかりますか?
 悲しいより悲しいのはぬか喜びです。
 おかしいなって思ってたんですよ。
 カルテットが偶然揃うなんて。
 でもこの4人、いいメンバーだなぁ。
 落ち込んでたから、神様が届けてくれたんだなって。
 うそだったんだ。

そして否定しようとする別府に、真紀はさらに畳みかける。

 別府さん、夫がいないっていうけど、
 いなくなるのって、いないってことがずっと続くことです。
 いなくなる前より、ずっとそばにいるんです。
 今なら落ちるって思ったんですか?
 いない人よりもぼくを。
 捨てられた女なめんな!

しんとした怒りの表現がまさに舞台のよう。言葉の使い方も、ドラマっぽい説明口調になるのを省いていて、少し飛躍があるのだけれど、こうしたときの人間のしゃべりかたはこんなもの、というのがよくわかる。

そして、別府は結衣がつまらない男と結婚するのが耐えられず、結衣にも結婚しようという。
それに対して結衣は 「お腹空かない?」 と話を逸らしてインスタントラーメンを作り、明け方のベランダで2人で食べる。
結衣は別府に言う。

 まぁ、私もずるいし、別府君もずるい。
 でも寒い朝、ベランダでサッポロ一番食べたらおいしかった。
 それがワタシとキミのクライマックスでいいんじゃない?

この割り切り方 (割り切らせかた) ってオトコマエでカッコイイ。結衣の部屋から帰ってくる朝の道。別府の足下をネコが通り過ぎる。レンズの割れたメガネ。
そして結衣の結婚式で、急造の弦楽四重奏団が演奏するのだが、新郎新婦が退出するとき、ひとりでソロをとった別府は、アヴェマリアを弾く。やがてそれが途中からWhite Loveに変わっていくのだ。SPEED、ツボだなあ。

真紀がすずめの片思いを見破っているのだと告げる台詞も、「またこれか」 ふうなのが来る。

 はっきりしない人って、
 はっきりしないはっきりした理由があるし、
 人を好きな気持ちって
 勝手にこぼれちゃうものじゃない。

エンディングに、「またこれか」 ふうな椎名林檎も来ます。ラストシーンに重なるメロディがハマり過ぎていて、要するにこういう退廃なのか?
脚本は坂本祐二。こういった台詞回しはぎりぎりのところなんだけれど、今のところ、ぎりぎりで成功してるように思う。4人の楽器の扱い方はイマイチですけど音楽ドラマじゃないから仕方がないのでしょう。(これと較べると玉木宏はすごかったなぁ。指揮のシーンのとき、う~ん、という個所がちょっとあったけれど全体的にはTVドラマのクォリティを凌駕していました)。

松たか子は、ずっと昔のドラマ《ラブジェネレーション》とか《じんべえ》くらいしか見てないけれど、久しぶりに面白いなぁと思ったドラマです。でも次の回を見るかどうかは、どうかな?
そうそう。《ラブジェネレーション》っていうのは2人の棲み家が独特のセットになっていて、そのことだけ覚えている。ドラマの内容は忘れてしまいました。CDは武部聡志のプロデュースしたアルバムだけ持っています。
それと、SPEEDではなく島袋寛子のソロになってからの動画を意味もなくリンクしておきます。


火曜ドラマ カルテット (TBS)
直近の放送分のみ、無料でオンデマンド配信されています
http://www.tbs.co.jp/quartet2017/

hiro/As Time Goes By
https://www.youtube.com/watch?v=u5kcssH6KcM
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読まなかった本・聴かなかったCD・その他 [雑記]

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China Tom Miéville

あけましておめでとうございます。
年末年始はいつも多忙につき失礼しております。やっと今、しばらく時間ができましたのでこれを書いております。ということで、今年もよろしくお願い致します。

さて。
本やCDは、私の場合、別にブログネタにするために買うわけではなくて、それについて書こうと思っても、読んでなかったり、聴いてなかったり、そのうちそれらは埋もれてしまったりということが往々にしてあります。特に本なんて、その全部を読むわけではないので、どんどん屍となって堆積していきます。
また、一応読んだり聴いたりしたんだけどイマイチ、という場合もあります。つまり最終的にブログネタとなるのはごく一握りです。

というわけで反省の意味をこめて、昨年読み損なった本とか聴いてないCDとか、意味も無くリストにしてみました。
たとえば本にしたって、一度機会を逃してしまうと、そのうち読むかもしれないけど、たぶん読まないかなぁ、ということが多いようです。それと私は図書館を利用するという選択肢がないので、読もうとする本はすべて買ってしまうのですが、よいことなのか悪いことなのか。読まないんだったらムダですよね。でも確実に読まないというわけでもなくて、買って10年経ってから突然読んだりするんです、これが。

まず本から。
必ずしも昨年発売された本とは限りません。読む時間が無かったため読まなかったので、これから読むかもしれません。また、ここに挙げるほどではない本は除外しました。雑誌や文庫は基本的に除外しました。ブログに話題としてとりあげた本も除外しました。

〔音楽系など〕
クリストファー・ヤング『デヴィッド・シルヴィアン』(Pヴァイン)
リュック・フェラーリ『センチメンタル・テールズ』(アルテスパブリッシング)
ヴィヴィアン・ウエストウッド&イアン・ケリー
 『ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝』(DU BOOKS)
   伝記物ばっかりじゃん!
ロレンス・ダレル『アヴィニョン五重奏V クインクス』(河出書房新社)
   最後のVだけ買い損なっていたので。でも読み始めるのには決心が。
立花隆『武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋)
小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』(音楽之友社)
   武満もの。立花隆、厚過ぎ!
マリア・スサーナ・アッシ&サイモン・コリアー
 『ピアソラ その生涯と音楽』(アルファベータ)
長門芳郎『パイドパイパー・デイズ』(リットーミュージック)
フランソワ・ポルシル『ベル・エポックの音楽家たち』(水声社)

〔SFなど〕
ジョン・スコルジー『ロックイン』(早川書房)
ケン・リュウ『蒲公英王朝記巻ノ一』(早川書房)
ケン・リュウ『蒲公英王朝記巻ノ二』(早川書房)
グレッグ・イーガン『エターナル・フレイム』(早川書房)
ピーター・トライアス『ユナイテッド・ステーツ・オブ・ジャパン』(早川書房)
チャイナ・ミエヴィル『爆発の三つの欠片』(早川書房)
   新☆ハヤカワ・SF・シリーズは5001から全部買っています。
   ミエヴィルが5030だからちょうど30冊。
   でもほとんど読んでないよ。
『定本 夢野久作全集 1』(国書刊行会)
   一応、資料として。

〔画集など〕
須賀敦子『須賀敦子の手紙』(つるとはな)
   雑誌に載せたのをまとめて単行本化したもの。
   やや古風な雰囲気で美しい。これって画集ですよね?
荒木経惟『センチメンタルな旅』(河出書房新社)
   伝説の写真集復刻。
指原莉乃/細井幸次郎『スキャンダル中毒』(講談社)
深田恭子/ND CHOW『AKUA』(集英社)
深田恭子/ND CHOW『This is Me』(集英社)
   こうした写真集は買ったけど、中を見てないです。
江口寿史『KING OF POP 全イラストレーション集』(玄光社)
   いままでの画集は捨てちゃって、と言われてもね。
江口寿史『KING OF POP side B』(青土社)
   たぶん、こっちのほうがメイン画集より面白い。

〔その他〕
《小栗康平コレクション1~5》(駒草出版)
   これはDVDなんですが、一応、書店で売ってるので。
   当然、「6 FOUJITA」 も出ますよね?→駒草出版さん

なんか、これっていう本がないなあ。
まぁ、だから読んでないんですけどね。
逆に読んだけどブログには書いてない本も当然あります。

次にCDなどのリストも作ったのですが、CDでブログの話題にしてないものはほとんどがセット物で、資料みたいなものです。質・量ともに貧弱で、何も買ってないに等しくて、音楽ブログとしては失格ですね。ということでパス。(と思ったけど簡単に書いておきます。DGのブーレーズのconductsシリーズ4種、チェリビダッケのワーナー盤4種、マイルスのワーナー盤集成 Last Word、ビル・エヴァンスのOriginal Albumsシリーズ3種、Sex Pistols Live ’76、ルー・リードのRCA&Aristaコレクションetc.。それとビクトル・エリセとSW/フォースの覚醒、カエターノ・ヴェローゾのDVDなどなど)。
今年はもっとCDを買わないと。あ、買うだけじゃなくて聴かないと。


チャイナ・ミエヴィル/爆発の三つの欠片 (早川書房)
爆発の三つの欠片(かけら) (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

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Let It Rock — 雑誌や本のことなど [雑記]

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Sex Pistols

今日はとりとめのない雑記です。

雨降りだからSFでも勉強しようと思って、最近出た牧眞司の『JUST IN SF』をパラパラと読んでみました。帯にはSF書評2013-2015とあり、各見開き2ページの書評になっていて、簡単なあらすじがあり、どんな本かがわかるのでなかなか便利です。
独自のジャンル分け、著者紹介もあって、それと書評の末尾 (つまり見開きの左下) にある 「次に読む本」 というのが面白かったりします。2冊あるうちの1冊は、その著者の別の作品だったりするのですが、もう1冊の選択の仕方にうなづかされたりする。たとえばロラン・ジュヌフォールの『オマル』だとジャック・ヴァンス『大いなる惑星』とラリイ・ニーヴン『リングワールド』がチョイスされていて、これだけで 「ああ、それ系か」 とわかる仕組み。
このジュヌフォールはハヤカワの新☆ハヤカワSFシリーズ ―― いわゆる銀背なのですが、最新刊はグレッグ・イーガンの『エターナル・フレイム』でシリーズNo.は5028。ということはもう28冊も出てしまったということですが、ほとんどまだ読んでない。最初の頃、ちょっと読みにくいというか読む気のあまり起こらないのが幾つかあって、そのへんで挫折してしまいました。本は増えるけれど既読書は増えず。むべなるかな (言葉の使い方としてちょっと違うぞ)。

表紙の小泉里子がいつもとちょっと違った表情だったので、つい『CLASSY.』を買ってしまう。いつもの顔よりちょっとクリアで、キリッとしてます。こういうふうに撮れるところがプロ・カメラマンの腕なんだろうなぁ。なんとなく誌面がいまだにバブルの影のあるような内容なのはいいとして、でも想定している読者層より実際の読者層は高めのように感じます。
Gジャンとライダースという、とりあえず何でもいいや 「ハオリモノ」 特集! ということなんでしょうが、ライダースというのはもともとは男性用のゴッツイ服だったはず。でもトレンチコートでも迷彩柄でも、皆、取り込んで変質させてしまうのがファッションという大食漢のたくましき性格です。
ライダースも、だから厚手の牛革でなく、羊革になり、そして山羊革になり、と服のパターンだけ残してソフトに形骸化してゆく。次は鹿革かな?

でもレザーというのは使えそうで意外に使えない。だって寒くなったら今は廉価なダウンジャケットがあるし、それにレザーってそんなに防寒には向いてません。といって夏に使えるわけではもちろんないです。
パンクバンドのライヴに行くときは夏でも革ジャンですよ、とか美容室のロック好きなアシスタントが言ってましたけど、本来はそういうものだったんですよね。Schott とかそういうの。
ちなみに『CLASSY.』という雑誌名はクラッシー・ドットなので、モーニング娘・マルと同工異曲。だからどうした?といわれても、どうでもないです。

それで先週末、ぼんぼちぼちぼちさんのオフ会に参加させていただいたんですが、そのことはもっときちんとした記事を書かれているかたがいるので、おまかせすることにします。
その日、ちょっと早めに着いてしまったので、高円寺の街を探訪してみました。この前、ぼんぼちさんから高円寺は古着屋が多いよ、という話もうかがっていましたし。
古着屋多いですね~。しかも土曜日とはいえ、タイムサービスの呼び込みをしている古着屋まであってびっくり。ただ、その店がどういうジャンルなのかとか、そういうのがよくわかりません。私の知っている範囲の古着屋は、いわゆるリサイクルショップの一環で、しかもデッドストックみたいな、実は純粋には古着じゃないもの (新古品という) を扱っているような店がほとんどです。高円寺はそういうんじゃない、もっと骨っぽい古着屋さんがあるみたいに感じます。そういう意味で高円寺は探訪のしがいがあって、まだ伸びしろがある。
ずっと南のほうに向かう道を歩いて行ったら、古書店がありました。創業昭和6年と看板に掲げていて店のなかが不思議に白っぽいので入ってみました。そしたら本にすべてグラシンがかけてあるんです。本を大切に扱っているというマニフェストなんでしょうけど、全体的にやや高め。でもたとえば齋藤磯雄著作集とかあって、ふーん、とちょっと驚き。齋藤磯雄はヴィリエ・ド・リラダンの訳者として有名。他にも見たことのない興味をひく本がいろいろありました。でも買わなかったけど。今度、またゆっくりと時間のあるとき行ってみたいと思います。

ギターマガジンの先月号はビザールギターの特集で、表紙はナショナルの赤いギターというありがちな選択ですが、インパクトはとてもあります。
ビザール (bizarre) とは風変わりな、とか奇妙な、という意味で、ビザールギターというのは要するにヘンなかたちをしたギターのことなのですが、エレクトリックギターの場合、マイクで弦振動を拾って音を出しているのでボディシェイプにはあまり制約がないんです。それでヘンなボディ形状でもOKということになる。プリンスもヘンなかたちの特注ギターを使っていましたが、見ただけで 「ああ変態!」 とわかるようなデザインです。いかにもプリンスらしい。これが高見沢俊彦だと、彼の場合、ほとんどがESPというギター製作会社製ですが、もうあまりにもバカバカしいかたちで弾きにくさはmaxだろうし、ギターというよりは工芸品化していて、かたちとしても変態ではなくてウケ狙いですね。
でもいわゆるビザールギターの場合は、そういうんじゃなくて、もっとチープというか、昔、弱小のギター会社がデザインもあまり考えずに作ったような廉価ギターがその根源にあります。わざと作ったわけじゃなくて、つい作っちゃったんだけれど結果としてあまり普通じゃないデザインだったというのがその実態です。
ですから日本国内の昔のギター、テスコとかグヤトーンといったメーカーに人気があります。前回ブログにも書いたことと関連してますが、日本の1960年代の経済成長の頃の例のひとつ、というか 「あだ花」 なのかも。音はチープでも、極端にいえば弾きにくくてもいいので、つまりやっぱりウケ狙いとも言えます。
このビザールギター特集みたいなのはときどき忘れた頃に出現するので、つまり車雑誌だったら困ったときのポルシェというセオリーがありますが、それに似てます。
ですからたとえばギブソンのモダーンみたいなのは、今回の特集では扱われていません。つまり変形ギターではあるけれどビザールじゃない、ということになります。ましてやフライングVなんて、ごくフツーのシェイプということになってしまってます。

ナディア・ブーランジェ、ヴィヴィアン・ウエストウッド、デヴィッド・シルヴィアンといった人たちの伝記ものの本が出ていて、買ってはみたものの読んでいません。ヴィヴィアン・ウエストウッドはDU BOOKSという出版元ですがこれはディスクユニオンのことです。ヴィヴィアンといえばマルコム・マクラーレンで、つまりセックス・ピストルズという関係性があるので音楽系というふうに考えることもできるけれど、であってもちょっとトリッキー。ディスクユニオンは、つまりアナログなレコードとか紙製の本とか、そっちを大事にするというポリシーのようにも思えます。
と、こういうふうに書いてしまうととりあえず済んだとカンチガイして、もう読まなかったりして。(読めよ!)


牧眞司/JUST IN SF (本の雑誌社)
JUST IN SF




CLASSY. 2016年10月号 (光文社)
CLASSY.(クラッシィ) 2016年 10 月号 [雑誌]




Guitar Magazine 2016年9月号 (リットーミュージック)
Guitar magazine (ギター・マガジン) 2016年 9月号  [雑誌]

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重版出来!観ました [雑記]

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ちょっとうわさのTVドラマ《重版出来!》を観ました。
黒木華・主演のコミック誌編集部のドラマで、もう第5話になっているし途中からでよくわからないんじゃないかと思ったんですが、これが面白い。
このテンポと内容とキャスト、いいですね~。もう絶賛してしまいます。

今日の話の核は、黒沢心 (黒木華) の上司である五百旗頭敬 (オダギリジョー) がいい人過ぎるのはなぜ?と心が聞いたところ、五百旗頭は社長の真似してるだけと言う。社長の久慈勝 (高田純次) が質素な生活をしているのは 「運をためる」 ためであって、しょーもないところで運を使ってしまうと肝心なときに運がやってこないという昔からよくある話。
九蓮宝燈が出たら家が火事になってしまったので、それ以後、賭け事はやめましたとか、あまりにコミックスの王道過ぎます。

五百旗頭 (いおきべ) なんてマニアックな姓を使うのは、たとえばCLAMPだったら四月一日 (わたぬき) とか、よくある手だし、それと高田純次が絶対にどこかでギャグかますんじゃないかとかハラハラワクワクするんだけど、シリアスな役柄らしくてそれはナシ。でもギャンブル嫌いな社長の姓が 「クジ」 というのはシャレなんだろうなぁ。宝くじが小道具で出てくるんだけど。

その社長の過去の回想シーンとして宮澤賢治詩集との出会いというのが出て来て、つまり若い頃、荒れていた久慈が文学に開眼したのが宮澤賢治の 「雨ニモマケズ」 だったという話。それで自分でも賢治詩集を出したという話なのだけれど、逆算すると著作権の問題とかいろいろ引っかかるところはあって、でもファンタジィと思うことにすればいいんだし、それと 「雨ニモマケズ」 というのがあまりにもベタなんだけど、それもサラッとしていてなかなかいい。
そもそも今、宮澤賢治なんてもはやあまり知られていないのかもしれないし、そういうごくシンプルなわかりやすいところから攻めるのがむしろいいんじゃないかとも思います。

宮澤賢治って、私のブログによくコメントいただいているブロガーさんのところにも書いたんですが、まぁ、自分ではエラそうなこと言っていたけれど、ご本人は結構アヴァンギャルドで、生活的には破綻している部分があった作家です。
でも、私の知っているある人が、「宮澤賢治なんて、まともな生活ができていない人で、あんなヤツは文学者の風上にも置けない」 みたいなことをマジで言っていて、それは違うでしょ、と思ったわけです。
そもそも文学者なんて昔は生活破綻者であって、ロクなもんじゃなかったわけですよ。規則正しく9時5時に仕事して、週末は健康的にテニスして、心優しきナイスな作家先生なんていうのは、最近の人畜無害な人こそ社会的な規範みたいなイメージに則ってできあがったイミテーションな虚像なのであって、昔の文士なんてレッド・ツェッペリンよりももっとメチャクチャで、宮澤賢治なんてとってもマトモなほうです。
私の祖母は、もう亡くなってしまったけれど、昔ながらの価値観を持った人で、私が小学生の頃、「この子は本ばかり読んで勉強しないで困る」 と言っていたものです。つまり本というのは小説みたいなものを指すのですが、小説を読むことは退廃で悪徳であって勉強ではないんです。本を読むということは毒を摂取すること、不埒なことであって、マトモな娯楽ではないということ。
でも時代は巡って、今はそもそも本を読む行為そのものが少なくなってきていますけれど。
ホントはさぁ。そうやって不純な本を読まなきゃ、漢字の使いかたとか文章表現って養われない。漢検なんか幾らベンキョウしても、いざというときその文字が使えなければ意味がないです。

まぁ、そんなことはどーでもいいんですが、ドラマの話に戻ると、この、よくも集めたなというアクの強い演技陣のなかで黒木華、なかなかがんばってます。
久慈が更生するきっかけとなった素浪人みたいな火野正平、カッコ良すぎるゎ。おまえは座頭市か!とか思ったりして。あと、高田純次が 「紙の本は出し続けます」 と言うところもカッコイイ!
ドラマとしては、のだめ以来のかなり面白い作りだと思います。あまり深刻なのより、こういうドラマって楽しく見れるよなぁと、もう季節を過ぎてしまったサクラの絵柄のビール飲みながら思ったことでした。


松田奈緒子/重版出来! (小学館)
重版出来! 1 (ビッグコミックス)




↓5月17日まで無料視聴できます。
http://www.tbs.co.jp/muryou-douga/juhan-shuttai/005.html
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type Rのこと [雑記]

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最近の車のデザインはコワイ顔が多い。なんでそんなに威嚇しなくちゃいけないのか、というような鋭い鷹の目みたいな印象を受けてしまうのだ。そんななかでスズキのハスラーは走っているのを見るだけでホッとする。CMがアラレちゃんだし、鳥山明デザインと言ってもいいような雰囲気とカラーリングでやさしい顔をしていて、威嚇するより楽しいほうがいいよね、と思うのだ。最近の車のなかでずば抜けて良いデザインだと思う。

と前フリをしながら本題は全然違うのだけれど、シビックの話である。
シビックは日本ではすでに消滅している車だが、海外では現役で、噂の type R が限定販売となったが、750台の限定数に対して1万以上の応募があったらしい。結果として商談権利の抽選ということになったのだという。たぶん転売目的でプレミアが付くみたいなことになるんだろうなぁ。悲しいけど。

外見は、案の定やっぱりイマイチっぽくて (あくまで私の主観だけれど)、でもそのイマイチ感はNSXでもS2000でもホンダ車共通にあるデザインセンスといっていいのかもしれなくて、ただ2.0L VTECターボというのが微妙に心をくすぐる。ターボという語感がいい。なんといってもターボである。

228kW [310PS]/6,500rpm で最大トルク400N・m [40.8kgf・m]/2,500rpm-4,500rpm、6速マニュアルでタイヤは235/35ZR19 91Yとなっている。
メーターは真ん中にアナログのタコメーター、その上にディジタルのスピードメーターで、黒・赤・白という取り合わせが目にはちょっとキツいかも。でも赤はRのテーマカラーだから仕方がない。
イギリス生産の輸入車ということなので、日本車にある180kmのリミッターはない (はず)。それもウリのひとつなのだろう。

YouTubeにホンダのオフィシャルのニュルブルクリンクの映像と、中谷明彦のインプレッション映像があるので観てみた。映像では左ハンドルだが、日本に入ってくるのはもちろん右ハンドルである。Inside Laneの映像は外観がよくわかる撮影で好印象。これは右ハンドルである。

ただ限定車ですでに再生産がなしというのはあまりに残念だし、これほど性能がよくなくてもよいから廉価ヴァージョンを限定でなく出して欲しいものだ。
実車は青山に展示されているようなので、時間があったら行ってみたい。

今年のF1はかなり残念な結果に終わったが、あの頃のホンダが甦ることはむずかしいのだろうか。そうそう、その黄金期の頃に、青山にマンセルの車があって、希望すればコクピットに乗ることができたのだけれど、マンセルは身体が小さいためか、確か身長・体重制限があったことを覚えている。肩幅ギリギリで入るくらいに狭くて、こんな狭いところであの速度で走るというのは普通の人間じゃないよね、としみじみ思ったものだった。


中谷明彦インプレッション (続編にニュルブルクリンクもあり)
https://www.youtube.com/watch?v=UbtCS5--l4I

Hondaオフィシャル
https://www.youtube.com/watch?v=BlSc1ti_DD4

Inside Lane
https://www.youtube.com/watch?v=w_QjHDZ2yYQ

SUZUKI HUSTLER CM
http://www.suzuki.co.jp/car/hustler/cm/index.html
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真実のサンプリング — ピアノのこと [雑記]

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ピアノには消音ピアノという種類があって、某有名メーカー (と一応書いておくことにする) の商品名でいうとサイレントピアノというのだが、普通のアコースティク・ピアノの内部に装置を取り付けてピアノの生音を出さないようにし、その代わりにヘッドフォンで音が聞こえるというしくみである。
ピアノは鍵盤を押すとハンマーという部品が弦を叩いて音が出るのだが、そのハンマーを寸止めにして (音が出ないようにして)、代わりに鍵盤を押したという信号を内蔵の電子音に変えてヘッドフォン端子から出しているのだ。サイレントにするかしないかは簡単に切りかえることができる。

私の家のピアノはこのサイレントピアノなのだが、消音にすると鍵盤のストロークがやや変わるし、出てくる音もちょっとなんかなぁ、という感じなので、もちろん夜だったら利用するけれど、基本的にあまり使いたくはない。
だからヘッドフォンからの音を真剣に聴いたことがなかった。

ところがこの前、なんとなくヘッドフォンからの音を聞いていたら、調律が少し合ってないような気がする。全部のキーではなくて、このへんの音域だけ違和感があるという感じ。
たまたま調律をする時期だったので、調律師さんに電子音は調律できるのかどうか聞いてみた。でも、そんなことできるわけない。音はサンプリングされた音なので最初から決まっている音です、ということ。そりゃそうですよね。
そもそもピアノは平均律なのだから完全に音が合うわけはないとか、そういうムズカシイことではなくて、単純に、ちょっと調律が合ってないなぁということです。

さて、調律が終わってから調律師さんに聞いてみると 「狂ってました」 とのこと。あー、やっぱり。
説明によると、サンプリング音は、グレードの高いグランドピアノなどの音をサンプリングしてそれをサイレント用の音にしているのだそうだが、たぶん1音1音録るらしく、そのときの元の音となるピアノの調律が少しズレていたのではないかとのこと。とは言っても調律の誤差の許容範囲内で、調律なんて高音部を作業してから低音部を作業しているうちにまた高音部はズレてくるものだし、逆に多少ズレているほうがピアノの音が 「わぁあぁ~ん」 と広がった感じになってピアノっぽい、という捉えかたもあるらしい。
つまりこのピアノと同機種のピアノに積まれているサンプリング音は皆同じようにちょっとズレている音だということになる。ウチの機種はもう随分古いので、最近の機種ならサンプリングの方法だって進歩しているし、きっと違う音源が載っているのだと思う。

そんなこと指摘したのは私が初めてらしくて、「耳が良いからわかるんですね」 と言われたのだけれど、このくらい誰にでもわかるはずで、ただ、そんなことあるわけないという先入観があるから気づかないし、気づいても、あまり誰も何も言わないのかもしれない。結論としてサンプリングされている音なんて結構アバウトなんだということです。アバウトなのがナマ楽器テイストということでもあるし。

最初から電子ピアノとして製作されている機種の場合は、PCM音源みたいなのなら、こうしたことは起こらないはずだ。そもそもサイレントピアノは、本来のピアノのハンマーアクションをそのまま転用しているので、音が出ないとはいいつつも、ガシガシと結構うるさい。思い切りフォルテシモで弾くと、ハンマーが寸止めの範囲を越えて振れるため、少し弦が鳴ってしまったりする。家の外にまで音が漏れないだけで、室内ではその近くで安眠はできないだろう。
だから音を出したくないということだけで考えれば、純粋な電子ピアノのほうが有利。ただサイレントピアノの鍵盤のタッチは、やや変わるとはいえアコースティク・ピアノそのものだから、それが唯一の、しかし最も重要な利点である。クラヴィナントカはどんなに高級品でもアコースティク・ピアノにはなれない。

調律されたばかりの生ピアノの音と比較したら、違和感はさらに増加してました。生音とサイレント音とを切り替えて聞くと (どのように表現したらいいのかむずかしいのだが) 各音の間隔が違うような感じがする。けれどそれは瞬間的なもので、すぐに慣れる。
まぁそんな細かいこと言っても楽器の音なんてすぐに狂ってくるものだし、だからといってピアノは自分で調律できないので、自分で調律できる楽器に較べると、やや不利なのかもしれない。

調律師さんは、他の楽器のことにも詳しくて、調律終了後、最近の業界事情などの話でメチャメチャ面白くて異常に盛り上がったが、書くと差し障りがありそうなこともあるので書きません。
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本がそれ自身で語り始めようとするとき — 寺山修司とバルトーク [雑記]

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(left to right) Josef Szigeti, Béla Bartók and Benny Goodman
recording Bartok’s “Contrasts” in 1940.

新聞に《レミング》の新聞広告が載っていた。《レミング》は寺山修司の戯曲で、生誕80年という惹句とともに演劇を中心とした幾つかのイヴェントがリストアップされている。2013年の公演の配役を替えた再演であるがパブリシティは踏襲されていて、ポスターに使用されている画はブリューゲルのバベルの塔で、ブリューゲルにはもっと普通の明るい雰囲気のバベルの塔もあるが、これは負のイメージを持っているほうのバベルの塔だ。たぶん狸の棲んでいるバベルの塔である。

つい最近、生物学系の本を読んでいたら 「レミングの暴走はディズニーのヤラセだよ」 ということを遅まきながら知って、レミングという言葉から連想するイメージを修正しなければならなくなった。寺山がこの本を書いた頃、彼はレミングに対してどんな認識を持っていたのだろうか。

バルトークの3つの舞台音楽は彼の作品のなかで特殊な位置を占めている。オペラ《青髯公の城》、バレエ《かかし王子》、パントマイム《中国の不思議な役人》はそれぞれ異なるジャンルのための音楽であり、具体的な舞台での上演という目的のために作られながら、内容はやや抽象的でありながら蠱惑的であり、それはバルトークの最もダークで性的なイメージを垣間見せる。《中国の不思議な役人》(Der wunderbare Mandarin/A csodálatos mandarin) の内容が非常識で不謹慎であるという評価にさらされたのは有名な話だ。
寺山に《中国の不思議な役人》と《青ひげ公の城》という同名の戯曲があるのは、その不道徳さと背徳感が寺山の嗜好と想像力を刺激したからに他ならない。

たまたまCDが見当たらなかったのでYouTubeにあった小澤征爾の《中国の不思議な役人》を聴いてみた。冒頭のオーケストラが静まってクラリネットのたゆたうようなソロが始まり (楽譜[13])、それに導かれてオーケストラがトゥッティでリズムを刻み始める部分 (楽譜[16]) が私はとても好きで、ストラヴィンスキーっぽい感じもするが、でもこのリズムはすぐに静まる。この美しさは比類がない。

寺山修司の演劇については以前にも書いたことがあるが (→2013年04月23日ブログ)、彼の戯曲/台本はひとつのプランであるという見方を私はしてきた。そうした方法論はかつて安部公房も試みたことがあるし、それは演劇においては明確に認識できるが、彼の他の作品の方法論の全てが実はそうなのではないかという気がする。したがって寺山修司作品の、ある程度まとまった納得のいく全集はいまだに存在していないと私は思うし、おそらく今後もそれが出されることはないだろう。なぜなら本とかディスクという媒体だけでその作品を格納するのはむずかしく、そこに現出するのはある一面からの虚像であって寺山修司の全体像ではないからだ。
むしろ自らの実像を現さないために彼はそのような方法論を採ったのではないかと思われる。

たとえプランであっても、もう戯作者本人はこの世にいないのだから、それをテクストとして演劇を成立するしかないのだろう。ピアソラはいないがピアソラの音楽は残ったように、次善の策であるかもしれないが、寺山の戯曲もシェークスピアのようにして残らざるをえないのかもしれない。どのようにアレンジメントされてもその本質が変わらない核のようなものをそれは備えているからである。それはどのようにしても寺山修司の影を持つフレキシビリティがありながら、どのようにしても寺山修司そのものではない。

《レミング》のサブタイトル 「~世界の涯まで連れてって~」 という言葉も、安部公房が唐突に提示した 「世界の果」 (「ガイドブック」) という言葉からの引用なのではないかと、ふと考えてみた。


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Seiji Ozawa/Bartók: Concerto for Orchestra, The Miraculous Mandarin
(ユニバーサルミュージッククラシック)
バルトーク:管弦楽のための協奏曲、バレエ「中国の不思議な役人」




PARCO STAGE/レミング
http://www.parco-play.com/web/play/lemming2015/

Seiji Ozawa/Bartók: Der wunderbare Mandarin
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21685709

注1) バベルの塔の狸とは安部公房『壁』(1951) に収録されている 「バベルの塔の狸」 からの連想である。「ガイドブック」 は1971年の安部公房の戯曲。『安部公房全集』第23巻 (1999) に収録されている。
注2) バルトークの Contrasts (1938) はクラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための作品。これにチェロを加えればメシアンの Quatuor pour la fin du temps (1940) と同じ編成になる。偶然とはいえ、どちらもクラリネットの音色がその重要なファクターとなっている。Quatuor pour la fin du temps (時の終わりのための四重奏曲) の成立の経緯についてはリチャード・パワーズ『オルフェオ』のブログですでに書いた (→2015年10月09日ブログ)。
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