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宮下奈都『羊と鋼の森』を読む [本]

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今さらなのだが、2016年の本屋大賞を受賞して話題となった宮下奈都『羊と鋼の森』が文庫になったので読んでみた。

ストーリーはごくシンプルである。主人公である外村 [とむら] は北海道の高校2年生。学校の体育館のピアノの調律に来た板鳥と出会う。それまで調律という仕事があることさえ知らなかった外村は、板鳥の作業に心を動かされ、弟子にしてくださいという。そして紹介された調律学校で2年間学び、板鳥の勤務する楽器店 (江藤楽器) に就職する。
店の先輩調律師は板鳥、柳、秋野の3人。板鳥は別格のカリスマ調律師、柳は外村の面倒を見てくれるやさしい先輩、秋野は斜に構えたやや棘のある先輩。そんな環境の中で外村は調律師としての経験を積んでゆく。

見習いとして柳に同行した初めての調律は、一卵性双生児の高校生姉妹の家のピアノで、姉 (和音/かずね) と妹 (由仁/ゆに) は見分けがつかないほど似ているが、弾くピアノから感じられる表情の違いに驚く。和音は暗く、由仁は明るい。柳は当然のように由仁を推すが、外村は和音の暗さに惹かれる。
しばらくしてから偶然、由仁に道で会った外村は、音の出ないキーがあるので見て欲しいと依頼される。それは簡単に直ったのだが、ついでに音の具合も見て欲しいといわれて直そうとしたのに、かえってバランスを崩してしまう。まだ自分には力がないのだ、と外村はふさぎ込む。

僕にはまだ何かが足りない。どうしたら調律が上手くなれるのか、と外村は悩む。店のピアノで調律の練習をしたり、音楽の素養がないとコンプレックスを感じ、僕はまだ音楽を何も知らないから、と毎晩ピアノ曲を聴き続ける。柳は、「外村は木の名前や花の名前や鳥の名前を知っている」 という。それは何かの役にたつ、という。だが外村は 「木は木でしかない」 と答える。
一方、秋野は 「調律なんてお客の技倆に合わせてほどほどにやればいいんだ。あまり精度を上げるとかえってお客は弾きこなせない」 という。
外村はいろいろなお客に出会う。良い客もいれば、外村の調律を信用してくれない客もいる。

1年が過ぎ、外村は板鳥からコンサートホールのピアノの調律を見せられる。ホールのピアノの調律は家庭のピアノとは別物なのだ、ということを外村は悟る。だが板鳥は外村に 「あきらめないことです」 といって励ます。

外村は柳のバンドのライヴに行く。柳はパンクバンドのドラマーをやっているのだ。調律師のときとは全然違う様子の柳。だが柳の彼女である濱野は、以前、柳は精神的に病んでいてここまで来るのは大変だったのだと述懐する。
秋野は以前、プロのピアニストを志望していた。だが何度も悪夢を見て、そこから脱出するのに4年かかったのだという。そしてピアニストの夢を捨て調律師になることにした。あきらめるとはそういうことだ、と秋野はいう。

ふたごの妹、由仁が突然ピアノが弾けなくなる。つられて姉の和音もピアノを弾くことを拒否してしまう (巻末の解説では、由仁がそうなったのは、スポーツでいうyipsのようなものなのではないか、とのこと)。
しかししばらく時が経って、和音は由仁が弾けなくなった分も引き受けて、自分はプロのピアニストになると宣言する。そう決心してからの和音のピアノは音が変わる。いままでと違うピアノだと誰もが認める。
由仁は 「私は調律師になって和音のピアノを調律する」 という。しかし外村は心の中で、和音のピアノを調律するのは僕だ、と思う。

外村の調律の仕事もだんだんとお客がつくようになってくる。家庭のピアノをきちんと調律できるようになりたい、と外村は秋野にいう。そうした、いわば 「小さなしあわせ」 のようなものが音楽には大切なのではないか、と外村は思うのだ。だが秋野から 「あの子 (和音のこと) はそのうちにコンサートで弾くようになる。それでいいの?」 と言われる。秋野はすべてを見抜いているのだ。

ラストシーンは柳と濱野の結婚披露パーティー。そこでピアノを演奏することになる。ピアニストは和音、そして外村はその調律を依頼される。最初はとても良い音が出ていた。だが会場の準備が始まり、人や什器などが持ち込まれるとピアノの音がだんだん伸びなくなる。会場に合わせて調律しなければいけないのだ、と外村は気づき、あわてて調整をし直す。
パーティー本番のピアノを聴いて、外村は秋野に褒められる。「初めてほめてもらいました」 と外村はいう。そして 「コンサートチューナーを目指さない。そう思っていたのは、誤りだった」 と思う。
会食の中で秋野は 「外村くんみたいな人が、たどり着くのかもしれないなあ」 と呟く (p.264/文庫版・以下同)。皆がそれに同意する。

     *

この小説は職能小説である。ピアノを調律する職人の話だ。だが職人といってもガテン系ではない。なぜならピアノは機械ではない。ピアノは楽器なのだ。
話の中には商取引もIT関連も無い。恋愛も、強い憎悪や不快も無い。今っぽい風景が何も無い。最近の小説に必ず存在するそうしたファクターはことごとく周到に排除されている。
また最近流行りの言葉である 「自分探し」 でもない。自己は最初から確立している。仕事に興味を持ち、どうしたら良い仕事ができるかということ、いやいややっている仕事ではないこと、そして仕事をすることとは、人間としてどう生きるかということなのである。それはいわば 「真 (まこと) の仕事」 である。清潔さ、潔癖さ、そして静謐さが全てを支配している。

羊はピアノの弦を叩くハンマーの先の羊毛を圧縮したフェルトをあらわし、鋼はピアノの弦、そしてそれを支える強固な枠をあらわす。森は、そうした素材で作り上げられるピアノの音をあらわすが、同時にそれは外村の育った北海道の森であり、真の音と音楽を求めて彷徨う森であり、そして社会であり世界である。
登場人物は、板鳥宗一郎と双子の佐倉和音、佐倉由仁の3人を除いて、すべて苗字だけで語られる。主人公の外村でさえ、下の名前が明示されない。外村の弟は、単に弟と書かれる。

これらの登場人物の苗字は、外村、板鳥、柳、秋野、そして営業の諸橋、バーのピアニストである上条など、すべて文字の中に 「木」 が入っている。双子の苗字である 「佐倉」 は、実は 「桜」 の言い換えである。木はそれぞれが人であり、木が集まれば森になる。だから森が社会であり世界なのだ。
それ以外の人たち、濱野、江藤社長、事務員の北川、担任の窪田は、全て水や草、つまり自然をあらわす苗字が使用されている。引きこもりの青年の苗字である南という文字の上部分の 「十」 は草の象形である。

そうした禁欲さは音楽に関しても同様に履行される。小説のなかに出てくる曲名は3曲しかない、ショパンのエチュード、子犬のワルツ、結婚行進曲である。エチュードも何番のエチュードかは明かされない。つまり具体的な音楽 (曲目) の情報はほとんど無いのである。無いというより、わざと排除されているのだ。

柳は外村に教えるのに、よく比喩を使う。外村は柳の比喩はわかりにくいと思う。ところが後半で、外村の印象的な比喩が語られる。

 「天の川で、かささぎが橋になってくれるっていう話がありますよね。
 ピアノとピアニストをつなぐカササギを、一羽ずつ方々から集めてくる
 のが僕たちの仕事なのかなと思います」 (p.211)

そして、

 カササギは最後の一羽まで揃わなきゃいけない。一羽でも足りないと、
 一羽分よりもっと大きな隔たりが空く。カササギが足りなかったら、最
 後は大きな溝を跨ぐのか、跳び越えるのか。(p.211)

事務員の北川は 「外村くんってほんとロマンチストよね」 と言って揶揄する。
それは 「木は木でしかない」 と言っていたはずの森の住人であった外村の、自覚しないままの逆襲でもあるのだ。外村の比喩でいう鳥とはメシアン的な鳥とは違う意味の鳥である。あるいは田村隆一が提示した哲学性の中での鳥かもしれない。メシアンの鳥は、その声の模倣であると同時に比喩でもあるが、この小説の中の鳥は、森とその森の従属物としての鳥である。それは自然に対する根源的畏怖であり、あるいは信頼である。

     *

昔の楽器店は、つまり私の子どもの頃は、小さな町にある小さな楽器店はこのような雰囲気だった気がする。マスプロ化した今の楽器店にはない品性のようなもの、音楽的な気品、それは気取っているのとは違う、何か音楽をすること (演奏すること、聴くこと) の喜びのようなもの、そして音楽を大切にしたい矜恃のようなものであったことを思い出す。
それはもはや手垢のついてしまった 「昭和の香り」 などといったノスタルジックな表現とは別種のものだ。きっと今でも、世俗にまみれていないこうした町が日本のどこかに存在していることを私は夢見る。


余聞:先日、ウチにピアノの調律が来たのでこの小説のことを話題にしてみたら、大変興味深い話を聞いた。だが絶対口外してはいけないということなので、それにごくローカルな話でもあるので、残念ながら書くことができない。


宮下奈都/羊と鋼の森 (文藝春秋)
羊と鋼の森 (文春文庫)

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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』を読む [本]

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ここのところ忙しくて、というより単にいろいろな雑事その他もろもろが山積しているので単に気ぜわしいだけなのかもしれないのだが、本もろくに読んでいないし、それより以前に全然書店に行っていないことに気がついた。
それでなんとか時間を作ってこの前、本を買い出しに行った。買い出しという死語がすごいね。J・G・バラードの短編全集が完結してしまって、すでにその書評まで読んでしまった後なのに今さらなのだけれどとりあえず揃えておこうと思って、それと新潮社のナボコフの出ている分 (ロシア語からの翻訳というのが特徴。そして最後に増補版ロリータもあり) と、ハヤカワのSF銀背の新刊2冊 (クリストファー・プリーストとケン・リュウのアンソロジー) と、須賀敦子の詩集と萩尾望都のエッセイと文庫になった『羊と鋼の森』と、そして川上未映子の新刊と雑誌を数冊。雑誌は私のなかでは本としてカウントしてないんですけど、でもなにはともあれ重い。
川上未映子の新刊は書店にサイン本が山積みでした。なんか芸能人してるなあ。

さて『羊と鋼の森』はすぐに読んでしまったのですが、今回の話題は新刊の川上未映子、表題作の 「ウィステリアと三人の女たち」 です。
主人公 (わたし) は主婦で、結婚して9年経つ。結婚してから3年後に今住んでいる家を買って、それから子どもができないということに対して真剣になり始めるのだが妊娠しない。夫とそのことについて話し合うが、2人はすでにすれ違い始めている夫婦であり、夫は不妊治療などという言葉に対して嫌悪感を示す。
さて彼女は、向かいの大きな家が壊されていくのを毎日見ていて、そこには老女が住んでいたような記憶があるが詳しいことはわからない。藤の木が切り倒されたことから、毎年その藤の花びらを老女が掃き集めていたのを思い出す。
家の取り壊しは途中で止まってしまい、工事の人間もやって来ないある日、その壊されかけた家を見ている女を見つける。女は黒いワンピースを着ていて腕が長い。女はわたしに話しかけてくる。女は空き家に入るのが好きなのだという。人のいなくなった家でも部屋でも、夜、そのなかでただじっとしているのだという。だがこの家は、気がついたときにはすでに取り壊しが始まっていて間に合わなかったのだという。
週末、夫が接待ゴルフに出かけていった日の深夜、わたしは半分取り壊された家に入ってみる。光の入り込まない真っ暗な部屋があり、そこでわたしはその家に住んでいたと思われる老女の若い頃のことを思い浮かべる。若い頃、彼女はその広い自分の家で、偶然出会ったイギリス人の女性と一緒に英語塾を始めた。彼女の母親はおらず、父親に育てられ、そして彼女は結婚することはなかった。英語塾は繁盛し、生き生きとした毎日を送る。だが彼女はある日、イギリス人の女性に恋していることに気づく。しかしそのことを打ち明けることができない。やがてイギリス人の女性は、母親の身体の具合が悪くなり、介護をするため母国に帰って行く (以下、結末部分のあらすじは省略)。

というような記述が続くのだが、それは壊されかけた家の真っ暗な部屋の中でのわたしの幻想なのである。この幻想に入って行くところがうまい。するっと自然に舞台がかわる。幻想の中の二人 (若い頃の老女とイギリス人女性) は塾が始まるまでの時間、一緒に昼食をとり音楽を聴く。繰り返し聴くのがベートーヴェンの第32番のピアノソナタ。その第2楽章を二人は何度も聴く。そして彼女の愛読書はヴァージニア・ウルフだ。

 彼女が夢中になったのはヴァージニア・ウルフだ。辞書を片時も離さず
 難解なウルフの文章の息遣いと、それらが編み上げる、一度としておな
 じ影を落とさない美しい模様を苦労して、何年もかけて読み込んでいっ
 た。(p.151)

藤の木と32番ソナタとヴァージニア・ウルフ、これがいわば3つのキーワードとして作用している。32番のソナタはベートーヴェンが最後に書いたソナタで、この頃、ベートーヴェンの耳は完全に聞こえていない。そして最後ということだけでなく、後期ソナタの中でこの32番は特殊だ (たぶん時代的に考えればモノラルのバックハウスあたりがふさわしいのだろうが、下記にはわざとアムランをリンクしておく)。
ウルフは、精神的に不安定な部分を持っていて、そして同性愛的性向も持っていた。それが彼女の性格に反映されているだけでなく、そもそも川上の文体そのものがウルフへのオマージュでありトリビュートに他ならない。ウルフの名前が出る前に、もうそれがわかってしまう。時間的な錯綜が垣間見えるのだが、それはすぐに訂正されていて、それをしなくてもいいのにとも思うのだが、ともかく意識の流れのようでいてそうでもなく冷静さを保っている兼ね合いのバランスに、川上未映子ならではのテクニックが感じられる。完全に無調の音楽のようになって壊れていくことがないのも、死のにおいが感じられるのもウルフに似ている (ヴァージニア・ウルフに関しては→2016年12月03日ブログを参照)。

ネタモトがウルフであるのは、川上のインスタグラムの1月25日にウルフの写真が載っていることからも明らかであり、2月8日の Memories of the lost garden というのは、なんとなくその壊されかけた大きな家を連想させる写真のように思えてしまう。背景が煉瓦塀のようなのだが見間違いかもしれない。

藤の花というと私は亀戸天神を思い出す。この季節に、親戚の伯母が亡くなってその法事に亀戸のお寺に行ったことがあった。それまであまり親しい交流のなかった親戚だったのだが、それがかえって新鮮だったのかもしれない。その帰りに、なぜか亀戸天神に行こうということになった。細かいことをいえばお寺の後に神社ってどうなの、という人もいるのだろうが、なぜか誰もそれを言い出さなかった。だが、その年の気候は暑かったのか、すでに藤の花はなかった。ほとんどその頃のことなど覚えていないのに、そこだけにピントがあったように鮮明な記憶があるのはなぜなのだろうか。それが正確な記憶なのかそれともあとから補塡され修飾された記憶なのかわからない。藤の花びらが散るさまは、桜の花びらよりも冥い。


川上未映子/ウィステリアと三人の女たち (新潮社)
ウィステリアと三人の女たち




川上未映子公式ブログ
http://www.mieko.jp
川上未映子インスタグラム
https://www.instagram.com/kawakami_mieko/

Marc-André Hamelin/Beethoven: Piano Sonata No. 32
in C minor, Op. 111 (live)
https://www.youtube.com/watch?v=cozrfeCQ5mA
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裏返しのオメラス — アーシュラ・K・ル=グィン [本]

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Ursula K. Le Guin (朝日新聞DIGITALより)

『空飛び猫』(Catwings, 1988) というタイトルがあることからもわかるように、アーシュラ・K・ル=グィンはきっと猫が好きだったんだろうなあと思う。私のこれまでのブログ記事のなかのル=グィンの写真も、猫と一緒なのがあることからもそれはわかるだろうと思う。
この猫好きの作家について、朝日新聞2月18日付読書欄で小谷真理の記事を読んで、あらためてこの作家の指し示すものの深さを知るのである。

ル=グィンはそのエッセイのなかで自分のことを 「わたしは男です」 と自己紹介し、「この世は結局男を評価する基準しかないから、みんな男として評価されるし、女はその基準では二流の男なのよ、どんなすごい女でもね」 と書いているという。
それはアリス・ブラッドリーがジェイムズ・ティプトリー・Jr.という男性名のペンネームを用いたのと同じ意味あいであり、古くはジョージ・エリオットもジョルジュ・サンドも同じである。ジョージ・エリオットの頃などはそもそもフェミニズム以前であり、女が小説を書くことなどとんでもないという世間状況だったのに違いない (ティプトリーについては→2012年10月13日ブログを参照)。
ル=グィンが『闇の左手』(The Left Hand of Darkness, 1969) で両性具有の人類という設定をしたのも、性的な差別・偏見に対するアンチテーゼであり、そして闇と光という対比は『影との戦い』(A Wizard of Earthsea, 1968) から始まるゲド戦記シリーズのテーマに通底しているが、それは男と女という対比とは考えを異にしていると私は思う。

さて、小谷の紹介するル=グィンのいくつかの作品のなかで重要なのが 「オメラスから歩み去る人々」 (The Ones Who Walk Away from Omelas, 1973) である。ごく短く短編というより掌編であるが、その描くイメージは明確である。
オメラスという理想郷があり、そこでは全ての人々が平和に楽しく暮らしている。しかしその都市にある地下室にひとりの子どもが幽閉されている。子どもは裸で、貧しい食事しか与えられておらず、部屋は糞尿だらけで何の希望もない。子どもは外に出ることができない。なぜならその子どもがそうして幽閉されていることが、オメラスという都市を支えているからなのだ。子どもを地下室から出して自由な環境に解き放そうとしたら、オメラスは崩壊する。
どうしてオメラスがそういうシステムになっているのかをル=グィンは書かない。だがオメラスに住む人々は大人になる頃にその事実を知らされる。多くの人々は、ああそういうものなのかと考え、でもオメラスという理想郷に戻ってゆく。だがごくまれに、そうしたオメラスから歩み去る人々がいる。オメラスの外は厳しい自然があるかもしれないし、いままでのような生活を望むことは無理なのかもしれない。

この作品はマイケル・サンデルによって引用された。サンデルの提起もまた明快であり、「一人を殺せば五人が助かる状況があったとしたら、あなたはその一人を殺すべきか?」 というものである。これは提起である。サンデルの提起はもっと拡大解釈すれば、たとえばバリー・コリンズの『審判』などにも通じる思考である。そしてル=グィンの示しているものは寓話である (当初、ル=グィンの表現は思想的乃至は政治的過ぎるという批判もあったようだ)。

オメラスという単語は、en.wikiによれば車のミラーに映った 「Salem, Oregon」 という文字だったという。鏡像となった 「Salem, O」 を後ろから読めば Omelas となるからだ。今、それを読んで、う~んそうなのか、とちょっと納得できないでいた。
私は Omelas は Salome のアナグラムだと思っていたのである。サロメはもちろん、あのヨハネの首を求めたサロメであり、ティツィアーノ、クラナッハ (父) などを経てオスカー・ワイルド/オーブリー・ビアズリーに至るサロメのことである。以下、マルコ福音書 (ja.wiki) から引用すると、

 斯てイエスの名顯れたれば、ヘロデ王ききて言ふ『バプテスマのヨハネ、
 死人の中より甦へりたり。この故に此等の能力その中に働くなり』或人
 は『エリヤなり』といひ、或人は『預言者、いにしへの預言者のごとき
 者なり』といふ。ヘロデ聞きて言ふ『わが首斬りしヨハネ、かれ甦へり
 たるなり』ヘロデ先にその娶りたる己が兄弟ピリポの妻ヘロデヤの爲に、
 みづから人を遣し、ヨハネを捕へて獄に繋げり。ヨハネ、ヘロデに『そ
 の兄弟の妻を納るるは宣しからず』と言へるに因る。ヘロデヤ、ヨハネ
 を怨みて殺さんと思へど能はず。それはヘロデ、ヨハネの義にして聖な
 る人たるを知りて、之を畏れ、之を護り、且つその教をききて、大に惱
 みつつも、なほ喜びて聽きたる故なり。然るに機よき日來れり。ヘロデ
 己が誕生日に、大臣・將校・ガリラヤの貴人たちを招きて饗宴せしに、
 かのヘロデヤの娘いり來りて、舞をまひ、ヘロデと其の席に列れる者と
 を喜ばしむ。王、少女に言ふ『何にても欲しく思ふものを求めよ、我あ
 たへん』また誓ひて言ふ『なんぢ求めば、我が國の半までも與へん』娘
 いでて母にいふ『何を求むべきか』母にいふ『バプテスマのヨハネの首
 を』娘ただちに急ぎて王の許に入りきたり、求めて言ふ『ねがはくは、
 バプテスマのヨハネの首を盆に載せて速かに賜はれ』王いたく憂ひたれ
 ど、その誓と席に在る者とに對して拒むことを好まず、直ちに衞兵を遣
 し、之にヨハネの首を持ち來ることを命ず。衞兵ゆきて獄にて、ヨハネ
 を首斬り、その首を盆にのせ、持ち來りて少女に與ふ、少女これを母に
 與ふ。ヨハネの弟子たち聞きて來り、その屍體を取りて墓に納めたり。
 (マルコ傳福音書6:14-29)

口語訳も併記すると、

 ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校
 やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘ
 ロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜
 ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あ
 なたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあ
 げよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願
 いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答
 えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐ
 に、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうござい
 ます」。王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たち
 の手前、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで、王はすぐに
 衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行
 き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女
 はそれを母にわたした。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体
 を引き取りにきて、墓に納めた。

サロメの場合は、簡単に言ってしまえばたったひとりの少女のわがままで、でも王は、何でもかなえると言った手前、しかたがないから首をはねてしまったという結果なのであるが、これをうがった考え方で見れば、ではひとりのわがままなら 「とんでもないこと」 と言ってしまえるが、オメラスをそれになぞらえば、大多数の意向が死を望むのなのならひとりの死くらいは許されるという論理ともとれる。これは詭弁なのだろうか。それはアリストテレスにでも聞いてみなければわからない。

尚、同じように 「首を欲しがる女」 ということで見れば、クラナッハにはユディトを描いた作品があるが、バルトークが《青髯公の城》において、青髯のことをまだ何も知らない妻に同じ名前のユディト (Judith) を設定したのは、そのバラージュの台本のもとがメーテルリンクだとはいえ、不思議な感じというか、意図したようにも思えるのである。

(聖書文語訳はwikisource.orgを使用したが、旧漢字はそのままに、句読点は岩波文庫版訳に揃えた)


アーシュラ・K・ル・グィン/風の十二方位 (早川書房)
風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

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バリュー通り36番地 ―『ナディア・ブーランジェ』を読む [本]

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Nadia Boulanger (1966)

本のカヴァーには 「名演奏家を育てた“マドモアゼル”」 というキャッチが書かれている。ジェローム・スピケの描くナディア・ブーランジェの伝記『ナディア・ブーランジェ』は、もはや伝説の音楽教育家といってよいブーランジェの生涯を平明に淡々と綴っている。マドモアゼルという呼称からもわかるように、彼女は92歳まで生きたが、生涯独身であった。

ナディア・ブーランジェ (Juliette Nadia Boulanger, 1887-1979) はコンセルヴァトワールの教授であったフランス人エルネスト・ブーランジェ (Ernest Heri Alexandre Boulanger, 1815-1900) とロシア貴族の娘ライサ・ミケツキー (Raissa Mychetsky, 1858-1935) の次女として生まれた。さらに遡ればエルネストの父フレデリック・ブーランジェ (Frédéric Boulange, 1777-?) はチェリスト、母マリー=ジュリー・ハリンガー (Marie Julie Halligner, 1786-1850) はメゾソプラノの歌手という音楽家の家系である。
ナディアの父母の年齢差は43歳もあり、ナディアは父エルネストが72歳のときの子どもである。四人姉妹ではあるが、長女は1年、四女は半年で亡くなり、またナディアの妹である三女のリリも24歳で亡くなっている。強い生命力がナディアひとりに集中したのだといえよう。

私がブーランジェを知ったのは、アストル・ピアソラの進むべき道を示した人という有名な話からであるが、彼女の生徒のリストを見ると、もうとんでもないのである。果たしてこれは本当のことなのか、そんな時間が一人の人間の一生という限られた時間のなかで可能なのか、と誰もが思ってしまう。しかもそれだけではなく、彼女は多くのクラスで音楽を教え、演奏会もこなし、音楽というジャンル以外の知人・友人も多岐にわたる。逆にいえば彼女は音楽教育という魔物の虜囚であり、人生の全てはそのためにだけ費やされたのである。
これは例えば 「寺山修司は3人いたんだよ」 というギャグと同じであって、ありえないほど濃密な活動をした人間というのは、稀にではあるが存在するのだ。

スピケは父エルネストの友人としてシャルル・グノー、ジュール・マスネ、カミーユ・サン=サーンスといった音楽関係以外に、SF小説の創始者であるジュール・ヴェルヌの名前もあげている。
エルネストはナディアが12歳のときに亡くなるが、彼女は13歳でガブリエル・フォーレの作曲クラスを受講し、すでに頭角をあらわしていた。そして有名なピアニスト、オルガニストであるラウール・プーニョ (Stéphane Raoul Pugno, 1852-1914) と出会い、寵愛を受ける。プーニョの友人にはウジェーヌ・イザイ、ジャック・ティボーなどとともに、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの名前も見える。
プーニョとブーランジェは後年、ダンヌンツィオの《死都》(La Città morta, 1898) の音楽を共同で作曲するが、それは結局発表されなかった。ダンヌンツィオとブーランジェの交流についてスピケは 「彼を取り巻くきな臭い噂」 に彼女は臆することもなかったというようなニュアンスで書いている (p.42)。
(尚、ダンヌンツィオの薔薇小説三部作 (Romanzi della Rosa) は 「快楽」 「罪なき者」 「死の勝利」 (Il Piacere (1889), L’innocente (1892), Il trionfo della morte (1894)) からなるが、「罪なき者」 はルキノ・ヴィスコンティの映画《イノセント》の原作である。またダンヌンツィオは三島由紀夫に影響を与えたことでも知られる。)

話がやや前後するが、ブーランジェは作曲コンテストの応募等の際に、サン=サーンスやドビュッシーから一種の迫害を受ける。彼らは表向きにはルールの話を持ち出しているが、実は作曲界に進出しようとしているブーランジェに対する女性差別であることがわかる。
彼女はそうした迫害にもめげず、数々の 「女性で初めて」 を達成してゆく。

ナディアの妹であるリリ・ブーランジェはナディアの薫陶もあり、すぐに才能を発揮して、ナディアのとれなかった作曲賞をも勝ち取り早熟の天才と呼ばれたが、生まれつき虚弱な体質であり、若くして亡くなってしまう。
ナディアはリリの作曲能力を見て、自分は作曲することを辞めて教育に徹すると考えたことになっているが、実はそれはナディア自身の創作であるとのことで、思われているより彼女はしたたかである。

そしてブーランジェは芸術のよき理解者であるエドモン・ド・ポリニャック公爵夫人と知り合う。彼女は芸術を擁護した偉大なパトロンであり、彼女の自邸をサロンとし、自費で芸術活動に対する数々の援助をしただけでなく、社会福祉にまで費用を出していた。
ブーランジェを通してポリニャック公爵夫人の恩恵にあずかったのがストラヴィンスキーであった。ブーランジェはストラヴィンスキーの才能を支持し、金銭的な援助をとりつけたのである。

ブーランジェの視点は新しい音楽だけでなく古い音楽にも向いていた。バッハのカンタータや、シュッツ、カリッシュミ、そしてモンテヴェルディといった古い音楽の発掘、紹介にも努めた。
やがて彼女はイギリスやアメリカにも進出し、ロンドン・ロイヤルフィル、ボストン響、ニューヨーク・フィルなどを振り、大成功を収める。
最も得意としていたのは恩師であるフォーレのレクイエムで、彼女はその曲を60回以上指揮しているという。フォーレへの理解と、深い信仰を持っていたブーランジェの解釈は今聴いても決して古びてはいない。

しかしやがて戦争が起き、彼女はアメリカに逃れる。戦後、フランスに戻ると、疎遠になってしまったポリニャック公爵夫人は亡くなっていて、そして知悉のサン=テグジュペリもポール・ヴァレリーもすでにこの世にはいなかった。

戦後、音楽はいわゆるセリーの擡頭があり、ブーランジェの音楽的方向性は旧弊なものへとなってゆく。彼女は新進の作曲家ピエール・ブーレーズに関心を持ったが、しかしドメーヌ・ミュジカル的な新しい音楽に対してはたぶん否定的だったのに違いない。彼女はベルクの《ルル》を例にとって、「私の好みとは一致しない」 と述べたのだという。
そしていまや有名作曲家となったストラヴィンスキーの恩知らずな行動にブーランジェは落胆する (かつて世話になった人への委嘱曲だったのにもかかわらずストラヴィンスキーは 「今、オレの作曲料の相場はもっと高いんだ」 と言って拒否したのである)。だがそうしたストラヴィンスキーさえ、もはや時代遅れになりつつあったのだ。パリにおけるセリー派のコンサートで自作を初演した彼はそれが不評に終わったことから、パリでは二度と指揮をしないと憤慨する。
それ以後、ブーランジェとストラヴィンスキーの仲は疎遠となるが、しかしブーランジェはコンサートにおいてはストラヴィンスキーの作品をとりあげていた。人としての性格はともかく、作品そのものの価値をないがしろにしないという姿勢がうかがわれる。

晩年になってもブーランジェは、モナコ公国との深い関係や、メニューインからの信頼を受け、彼のイギリスの音楽学校の教育に力をそそぎ精力的に活動した。その行動力はとても80歳を越えた人とは思えない。晩年は視力が衰え、下記にリンクした90歳の頃にはたぶんほとんど見えてはいないはずである。
彼女のメインとする音楽はクラシックであるが、その最も有名なエピソードはアストル・ピアソラに対する助言である。
ピアソラは自分の音楽が受け入れられないのでその出自を隠し、彼女の下で交響曲を書きたいと思っていたが、あまり感心する出来ではなかった。ところがピアソラにタンゴを弾かせたらそのインプロヴィゼーションで右に出る者はいない、とブーランジェに進言した者がいたのだという。

 はじめはピアソラが拒否したので、彼自身がタンゴでどのようなことが
 できるか見せてほしいと熱心に食い下がった。長い時間にわたって彼の
 演奏を聞いたブーランジェは、「これこそあなたの分野です。交響曲な
 どやめて、タンゴにあなたの力を注ぎなさい」 と熱心に告げた。そして
 彼はやがて、タンゴの王となったのである。ピアソラは、ナディア・ブ
 ーランジェを自分の第二の母親だとよく語っていた。(p.96)

しかしガーシュインに対しては逆に、彼の勉強したいという願いを断ったのだという。いまさら正統的な音楽理論を習ったとしても、それはかえって彼の音楽的な美学を疎外することにしかならないからだというのである。

彼女のオーケストラの指揮に対してやんわりと批判をする評論家もいたのだという。しかし彼女はそれについては十分に自分の立場をわきまえていたのに違いない。指揮をすることは自分にとって一種の贅沢でありご褒美であって、自分の使命は音楽教育をすることにある、と彼女は確信していた。

 彼女は、幾度も教師という役割について定義し、根本的には 「過酷な技
 術であり、技術についての深い知識なくして、音楽家は自分の最も重要
 だと思う箇所を表現することは出来ないのです。そこに割って入るのが
 教師です。教師にできることは、絶え間なく集中をし、常にその場にい
 て、忍耐することを学ぶよう要求しながら、生徒が自らの道具を効果的
 に扱うことができるよう成長させることです。しかし、教師は学生が道
 具によって具体的に何をするかに関しては、どんな積極的役割も担うこ
 とはないのです。」 (p.96)

スポーツでも名選手が必ずしも名コーチになれるとは限らない。だから彼女の作品と彼女の教育法は別物なのである。
ブーランジェは指標であり、水先案内人であり、より高みへ到達するための技術的伝達者でしかない。音楽の個性は音楽家自身が作りあげるものであって、ブーランジェはその個性自体に対しては関与しない。その潔さが彼女がもっともすぐれた教育者と呼ばれる所以である。

門下生のリスト (fr.wikiより)
Grażyna Bacewicz, Dalton Baldwin, Daniel Barenboim, Stanley Bate, Olivier Bernard, Idil Biret, Diane Bish, Serge Blanc, Elliott Carter, Walter Chodack, Joel Cohen, Aaron Copland, Marius Constant, Michel Ciry, Vladimir Cosma, Donald Covert, Raffaele D’Alessandro, Francis Dhomont, Miguel Ángel Estrella, Jean Françaix, John Eliot Gardiner, George Gershwin, Egberto Gismonti, Philip Glass, Jay Gottlieb, Paul Guerra, Gerardo Guevara, Hermann Haller, Pierre Henry, Pierick Houdy, Jacques Ibert, Quincy Jones, Maurice Journeau, Wojciech Kilar, Henry-Louis de La Grange, Michel Legrand, Lalo Schifrin, Robert Levin, Dinu Lipatti, Igor Markevitch, Armand Marquiset, Krzysztof Meyer, Edouard Michaël, Émile Naoumoff, Astor Piazzolla, Walter Piston, Robert Russell Bennett, Lamar Stringfield, Erzsébet Szőnyi, Antoni Wit, Nicolas Zourabichvili, Donald Byrd.
これ以外にも
Henryk Szeryng, Ralph Kirkpatrick, Keith Jarrett, Gigi Gryce etc....


ジェローム・スピケ『ナディア・ブーランジェ』(大西穣訳/彩流社)
ナディア・ブーランジェ




ブーランジェの講義風景 (ブーランジェ・90歳)
https://www.youtube.com/watch?v=Pwvr47DZekk

Astor Piazzolla y Milva en “Nuestro tango”, 1985
‘Teatro Ópera, Buenos Aires’ live
https://www.youtube.com/watch?v=gASKJeMhT1U
32’20”~ ミルヴァの Balada para un loco
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ポートランドの魔女 ― アーシュラ・K・ル=グィン [本]

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Ursula K. Le Guin (ursulakleguin.comのPublicity Photosより)

今朝の朝日新聞の書評欄のコラム 「文庫 この新刊!」 では池澤春菜がジョイス・キャロル・オーツの『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』(河出文庫) をトップで取り上げていた。池澤のチョイスは同じようなSF嗜好のためか、いつも私の好みにぴったり合っているので楽しみにしているのだが、オーツだってハードカヴァーより文庫のほうが買いやすいし、それだけ需要があるということだろうからちょっとうれしい (オーツの同書については→2014年09月24日ブログ、池澤春菜については→2016年07月27日ブログですでに書いた)。

しかしSFということでいうのならばル=グィンが亡くなったことは、88歳という年齢なのでいつかは来ることだったけれど、とても悲しい。アーシュラ・K・ル=グィンはSFというジャンルを超えて、20世紀において最も信頼できる作家のひとりであった。

アーシュラ・K・ル=グィン (Ursula K. Le Guin, 1929-2018) の一番よく知られている作品は何だろうか。おそらく『闇の左手』(1969) か、いわゆる《ゲド戦記シリーズ》(1968-2001) だろう (最初の3冊だけのときにはアースシー・トリロジーと呼ばれていた)。もうひとつあげるのならば、私は『所有せざる人々』(The Dispossessed, 1974) を選ぶ。

追悼記事は多数あってとても読み切れないが、ル=グィン自身のウェブサイトにリンクされている The New York Times の1月23日付 Gerald Jonas の記事を読んでみた。
ゲド戦記の舞台であるアースシーにおける魔法は言語に基づいていて、ゲドをはじめとする魔法使いたちは 「真 (まこと) の名前」 を知ることによって、そのパワーを発揮することができるという設定になっている。ゲドの場合もゲドは 「真の名前」 であって、通名は 「ハイタカ」 である。「真の名前」 を知られると相手にコントロールされることになるから 「真の名前」 を明かすのは勇気が必要である。アースシーという世界におけるこの法則が、名前という寓意で示しながら実際はそれ以上のメタファーになっていることは言うまでもない。
この法則、というか 「しばり」 をル=グィンは自分の作品に出てくるキャラクターに対しても真剣に適応したのだという (discipline seriously)。「私は (そのキャラクターの) 正しい名前を見つけなければならない。それでないとストーリーに乗ることができない」、つまり 「名前が間違っているとストーリーを書くことができない」 のだそうだ。
ゲド戦記において、ハイタカに対立する者がなぜヒスイという名前なのかとか、クレムカムレクという謎のような名前とか、それらはそれぞれに考え抜かれて命名されていたのだということがあらためて確認できる。

『所有せざる人々』は二重惑星のひとつが資本主義であり、もうひとつが一種の社会主義であるという設定から、政治小説として読むことも可能だが、それは書かれたのが1974年というベトナム戦争末期という時期とも関係しているように思える。しかしル=グィンの場合、フランシス・コッポラの《地獄の黙示録》のようにリアルな表情を見せることはない。
彼女の作品に存在するのは、光と影、男性と女性、名前のあるものと無名のもののように二項対立であり、資本主義と共産主義というのも同様である。
そして『所有せざる人々』の場合、資本主義社会は繁栄しているが腐敗していて、共産主義社会は、共産主義というよりユートピアを指向していながらそこに到達できないゆえの貧困があり、ル=グィンはそれが良いことであるとも悪いことであるとも断定しない。それは読者に与えられた課題であるのだ。
ニューヨーク・タイムズの記事には 「ロシアのアナーキスト、ピョートル・クロポトキンのアイデアをベースとした」 というような表現があり、いわゆるアナーキズムであるが、『天のろくろ』などには老荘思想への傾倒もあり、それはル=グィンが作品の登場人物に好んで白人でなく有色人種を選ぶのと並んで、彼女の強い意志と確信がうかがわれる。
この作品が書かれた当時、ドイツはまだ東西に分断されていたし、いまでも朝鮮は南北に別れたままだ。ル=グィンはそうした事象をストレートには描かないし直接的な政治的発言もしなかったが、2009年にgoogleの本のデジタル化プロジェクトに反対してAuthors Guildを脱退したことからもわかるように、その信念は一貫していて揺るぐことがない。

ル=グィンはアメリカの北西部ポートランドにずっと住んでいた。ひとつの区切られた空間というものが幾つもの幻想に作用する。その地が住みやすかったのか住みにくかったのかということとは別に、ある空間や時間を所有すること、それは所有しないことよりも物質的には豊かであるが、ひとりの人間の歴史の中で、住む場所はとても重要なのではないかと考える。私はアメリカの北東端に住んでいたマルグリット・ユルスナールのことを同時に思い出していたのだ。

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Le Guin at home with her cat, Lorenzo (1996) (nytimes.comより)


アーシュラ・K. ル・グウィン/ゲド戦記 (岩波書店)
ゲド戦記 全6冊セット (ソフトカバー版)




アーシュラ・K・ル・グィン/闇の左手 (早川書房)
闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))




アーシュラ・K・ル・グィン/所有せざる人々 (早川書房)
所有せざる人々 (ハヤカワ文庫SF)

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稲増龍夫『グループサウンズ文化論』を読む [本]

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前記事のタブレット純の続編として稲増龍夫の『グループサウンズ文化論』を読んでみた。もっとグループサウンズに特化した内容で、『中央公論』に連載された当時を知る人たちとの対談をまとめたものである。

稲増龍夫はグループサウンズにシンパシィを感じて、当時のグループサウンズのシングル盤を蒐集し、435枚のパーフェクト・コレクションを達成したのだそうである。435枚というはっきりと明快な数字がなんともすご過ぎる。それまで彼は1万枚のジャズレコードのコレクションを持っていて、その半分を売り払ってグループサウンズに入れ込んだとのことで、ジャズレコードもったいない、というような気もするが、嗜好は人それぞれなので仕方がないことである。

稲増の論理は明快であって、当時、爆発的な人気となったグループサウンズというものが、あっという間に凋落し、日本の音楽史における徒花のような扱いを受けているが、もう少し正当な評価があってしかるべき、ということである。
それに対する反応は対談者によってまちまちで、その視点の違いが非常に楽しめる。

近田春夫は、80年代にジューシィ・フルーツをプロディースし、いわゆるネオGSブームにもかかわったはずだが、B級GSについて、どこに魅力があるかときかれると 「笑えるから」 (p.48) だと答える。それがどういうコンセプトなのかわからないけれど、結果として出てくるものがシュールだったりするのが面白いというのだ。
なぜGSが衰退したのか、という稲増の問いに対して近田は 「やっぱり、職業作曲家を起用したことが原因だと思いますね」 (p.49) という。「だとすると、今の日本のJ-POPは基本的に自作自演が多いから安泰なんですか」 といわれると近田は、

 ところが彼らは、基本的に洋楽が下敷きにないんです。やっぱりポップ
 スとかロックというのは、洋楽的要素を学習したうえでないと面白味は
 引き出せない気がするんです。結局、日本語って英語と違い、高低アク
 セントでメロディーとの関係が少し強いから、ビートやリズムと言葉が
 うまく立体的に絡み合った時に初めて面白くなっていくので、その構造
 を、ある程度ロジカルに体得していないと、いい曲は書けないと思うん
 ですよ。(p.50)

と答えている。笑えるB級GSがいいなどと言っておきながら、そのルーツとなる考え方は意外に正統派だ。

タイガースの歌などを作曲したすぎやまこういちは〈シーサイド・バウンド〉は沖縄音階で作ったと語る (p.64)。沖縄音階というのはいわゆる琉球音階のことを指し、ドミファソシでできていて、基本的にレとラがない。日本の伝統的なヨナ抜き音階はドレミソラで、ファとシが無い、つまりペンタトニックであるので、そういう意味では沖縄の音は特異だ。しかし〈シーサイド・バウンド〉のメロディは海っぽい音ではあるが、沖縄を意識させられてしまうようなことはない。

コシノジュンコはタイガースの衣裳を作った経緯について語っている。王子様のような衣裳は、従来のロック、たとえばローリング・ストーンズのようなワイルドさでなく、しかし女性的でもなくゲイでもなく、中性的なイメージとして想定したものだったという (p.70)。それは沢田研二というタイガースのアイコンに特に顕在する特徴である。
これは四方田犬彦によって、より分析的に指摘されている。

 日本人が強い美学的な分野というのがあって、それはある種のアンドロ
 ギュヌス性というか、両性具有性みたいなもの、それも少年とか少女
 ――つまり大人になっていない、人間の性が分化されていない、そうい
 うもの――を強く出す時に日本の文化は非常に有利という感じがします
 ね。(p.125)

湯川れい子は高校2年生でジャズにはまり込み、『スイングジャーナル』に投稿などしているうちに、もっと書いてみないかと言われたのが文筆業となるきっかけだったらしい (p.93)。
湯川はGSについて、日本の歌謡曲だと思っていたし、日本独自の大衆音楽だったと述べる (p.97)。一方で当時は70年安保を控えて学生運動というものが盛り上がっていたが、そうした学生側からすれば、GSブームというのはミーハーな現象だという感覚があったともいう (p.97)。

佐藤良明はトマス・ピンチョンの『重力の虹』や『ヴァインランド』の翻訳者でもあるが、ビートルズ論『ラバーソウルの弾みかた』(1989) でも知られる。佐藤は、当時まだ旧制中学的な気質が残っていて、川端康成などが読まれているような状態だったが、彼は 「そうじゃないだろう!」 と思っていたのだという。それでアントニオーニの映画《欲望》を観たらロックバンドが演奏していた。佐藤は彼我の落差に目ざめ、そして後になってそれがヤードバーズであったことを知ったのだという。

 ある種のエリート主義というか、当時はまだ学生というものが社会的に
 ある意味を持って存在していたわけですよね。学生はインテリであり、
 労働者や農民の声を聞いて、世の中を革新していく存在なんだという自
 負とうぬぼれがあったわけです。(p.137)

そうした反骨的精神だったはずの欧米のロックがどこでだめになったかというと、それはバングラディシュ・コンサートやWe Are The Worldといった頃からで、ロックが道徳を攪乱する存在から道徳を守る存在に移ってしまったこと、それは社会的免罪符を獲得したことであるが、同時にロックが体制的イデオロギーの擁護者となってしまって現在に至っているのだ、と四方田犬彦は指摘する (p.122)。

きたやまおさむは、GSを擁護して 「あれだけの社会現象であったにもかかわらず、ほとんど評価もされないし、本も書かれない」 という稲増に対して、「やった人間が、語る言葉を持っていないからだよね。GS関係者自身が自分の言葉を持っていないんだよ」 と突き放している (p.162)。

逆に宮沢章夫は、GSが60年代文化のなかで評価されてこなかったのは左翼教条主義があるという稲増の言葉に対し、「あの時代は左翼的じゃないとかっこよくなかった」 し、「一方で反近代主義の時代でもあった」 と答えている (p.172)。
サブカルチャー的なものは売れてはいけないみたいな左翼教条主義から来る考え方は次第に四散し、80年代になるとサブカル寄りから出て来た劇団、夢の遊眠社や第三舞台が商業的に成功したが、野田秀樹や鴻上尚史の戯曲はそれまでの演劇と違っておしゃれで洗練されていて、それはYMO現象に似ていると稲増は言う (p.176)。
岸田戯曲賞で清水邦夫の『僕らが非常の大河をくだるとき』と同時に受賞したのが、つかこうへいの『熱海殺人事件』であって、この 「奇妙な交錯」 は時代の変わり目の象徴的事件であったというのだが、そしてそれが1972年の連合赤軍事件との関連で述べられているが、清水邦夫とつかこうへいの岸田戯曲賞の受賞は1974年であり、話に錯誤があるように思えた。

最も読ませるのは小西康陽との対談である。
小西は、最初に買ったGSのシングルがオックスの《スワンの涙》で、中学1年のとき、ピンク・フロイド、エルトン・ジョン、CSN&Yなどを聴いていたという。そうしたなかでタイガースのLP《ヒューマン・ルネッサンス》は音楽体験の原点であり良いアルバムだと評価している (p.183)。
そうした小西が書く曲について、小西はマイナーキーの曲調がきらいで、演歌やアジアン・テイストになじめなかったし、ヨナ抜き音階へのアレルギーがあったという。それが結果として渋谷系と呼ばれる彼の音楽の方向性を決めたのだという (p.185)。

また稲増が、80年代にヨーロッパでGSがジャパニーズ・ガレージロックとして評価されたということに対し小西は、コレクションを始めると興味は次第に辺境へ (つまり難易度の高いものへ) と移ってゆくが、欧米人にとって日本は辺境であり、世界的にみたらやはりGSはガレージロックの一部ではないかという見解を述べている (p.187)。
稲増はネオGSに関して、チェッカーズはネオGSとは自称していないけれどネオGSなのではないか、という問いに対し、小西は、ネオGSには 「批評」 があるが、チェッカーズにはそれがない、と否定している (p.189)。

GSの話題からは外れるが、2016年のリオのパラリンピック閉会式で〈東京は夜の7時〉が使われたことについての会話が面白い。

 稲増:東京を代表する曲に選ばれるって、すごいじゃないですか。もっ
 とも 「東京砂漠」 (内山田洋とクール・ファイブ) をやるわけにはいかな
 かったとは思うんですけどね。
 小西:「東京砂漠」 だったらアナーキーでしたね。(笑) (p.186)

全体的な印象としては稲増のGSへの入れ込みかたは強く、GS擁護派でありGSエヴァンジェリストとしての稲増に対し、共感したり反対したりするという構図が興味をひく。稲増はGSの興した波はその後も脈々と受け継がれ、それが日本独自の音楽ジャンルとなって、現在のきゃりーぱみゅぱみゅやPerfumeにまで達していると説く。
ただここで問題となるのは、ネオGSという言葉が出てくるのだが、ネオGS自体がどのようなムーヴメントであったかということまでは言及がされていない。ネオGSというジャンルのなかに田島貴男のオリジナル・ラブがあって、それが渋谷系のはじまりなのだとすると、GSと渋谷系という血脈もあるのだということになる。
そのあたりの知識が私には全くないので、そういうものなのか、とは思うが、はなはだ心許ない。本という媒体からは音が出て来ないので、歯がゆい感じがする。

ネオGSのもっとも代表的なバンドとしてザ・ファントムギフトがあるが、たしかに稲増がいうキッチュな部分、ガジェット的な音構造が見えることは確かだ。
動画を検索すると、ダイナマイツのカヴァー〈トンネル天国〉ではギタリストがヤマハのSG-3を使用し、また〈ベラトリーチェの調べ〉ではSG-7を使用しているが、このへんは実にマニアックである。〈トンネル天国〉の冒頭のギターの鳴らしかたはシューゲイザー的な印象を受けるが、マイブラの《Loveless》は1991年であり、それよりも早い。むしろコクトー・ツインズあたりの影響があるのかもしれない。コクトーズのデビュー盤《Garlands》が1982年だからである。

GSブームの頃には新興ギターメーカーが乱立し、今の目からするととんでもない形状のギターが生産されていて、それはビザールギターなどといわれて今でも雑誌などで特集されていたりする。GSは音だけでなく、楽器とかファッションにも影響を与えていたように思える。
この本でも紹介されているジャケット写真などを見ると、メンバー全員が同じ制服を着ているのが見られるが、それは現在のAKBなどに受け継がれてきているのではないだろうか。ただ、当時のGS制服は男性であり、現在のアイドルグループ制服はほとんど女性であるという違いは大きい。同じように同一の服装を採用することもあるジャニーズには、GS制服のテイストは引き継がれていないと私は感じる。つまりGS限りの特異点である。

カウンターカルチャーとしてのGSは、まだ音楽的にも成熟しておらず、結果として経済効果だけで考えられたことにより変質して消滅していったが、その精神性がそれまでの旧弊な日本の芸能に与えた影響は大きかったはずだと稲増はいうのである。
ただ、著作権の問題があるのでむずかしいと思うのだが、あまりにもその元となる音源が乏しい。現実の音を聴かなければわからないので、ブートでない音源が少しでも出されることを期待したい。


稲増龍夫/グループサウンズ文化論 (中央公論新社)
グループサウンズ文化論 - なぜビートルズになれなかったのか (単行本)




ザ・タイガース/僕のマリー
https://www.youtube.com/watch?v=LvMt-ucrOcE

ザ・ファントムギフト/トンネル天国
https://www.youtube.com/watch?v=9XPeDgN5pWo
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タブレット純『音楽の黄金時代 レコードガイド』を読む [本]

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書店でタブレット純の本があったので買ってみる。帯の推薦文が高見沢俊彦で、その本全体から醸し出される妖しげなキモチワルサに騙されてしまった。『タブレット純 音楽の黄金時代 レコードガイド [素晴らしき昭和歌謡]』というタイトルである。
タブレット純はAMラジオのラジオ日本でDJ番組を持っていて、その放送が元となった内容である。

最近、昭和歌謡ということがよく使われて、もうすぐ平成も終わろうとしている今、そのうち、かつての 「懐かしき明治時代」 と呼ばれたような文脈で昭和も語られるようになるのだろう。ひとくちに昭和歌謡といっても幅広く、いわゆる歌謡曲からグループ・サウンズ、フォークソング、そしてニュー・ミュージックまで。
タブレット純自身は、和田弘とマヒナスターズの最後の歌手・田渕純であり、マヒナスターズ的な歌を 「ムード歌謡」 と称しているが、つまり音楽のジャンル分けは、ニュー・ミュージックというジャンル用語に表されるように、ごく恣意的で曖昧である。

この本にひっかかったのは、ぼんぼちぼちぼちさんのブログでザ・タイガースの映画の記事があり、そこから触発されてグループ・サウンズの古い動画を検索していたらハマッてしまったのに影響されている。その前に、中村晃子/ジャガーズという映画からのクリップを観て、これ新鮮だよな、と思ったのだが、結局記事にするだけの知識がないのでそのまま没にしてしまった。
ヴェンチャーズをはじめとするギター・インストゥルメンタルを中心としたいわゆるエレキブームからグループ・サウンズの爆発的ヒットへの流れは、後年、ガレージ・パンクの一種として再評価的なこともされたが、実際のガレージ・パンクとは少し違うし、昭和史のなかでもう少し正当に語られるべき時期になっているのかもしれないと思う。この本もそうした一環なのではないだろうか。

この前、グループ・サウンズの動画を観たときの率直な感想は 「意外に上手い」 であった。たしかに年代も経っているし、今のJ-popのように洗練されてもいないしテクニックもイマイチだが、逆にいえばそんなに産業化されていなくて、ごく初歩的で稚拙なパブリッシングのように見えるのだけれど、そのエネルギーの使い方が新鮮なのである。今のJ-popは確かに高度にはなってきているけれど、経済効果優先であるし、なによりその結果として海外からの音楽が入りにくくなっていて、今の日本は音楽的鎖国状態にある。だが昭和歌謡の全盛期の頃にはまだ、音楽はもっと垣根がゆるくフリーであったように感じられる。

タブレット純は、GSブームがあった頃にリアルタイムで聴いていたわけではなくて、後追いなのだけれど、後追いのほうが冷静に見られるし、資料も充実しているので、かえって正確にそれを知ることができる、と言っているが、なるほどと納得できるし、後追いの多い私の音楽体験の免罪符にも思えて、ちょっとホッとする (それにクラシック音楽の場合はすべて後追いだから、音楽なんて後追いのほうがいいのかもしれない、とまで思ってしまう)。
だが、タブレット純の知識はすごくて、坂崎幸之助がフォークの知識についてオレは負けたと高見沢に言ったそうで、そして高見沢も、グループサウンズでやっぱり負けたのだそうである。最近だと半田健人なども昭和歌謡への造詣が深いが、タブレット純が半田とは少し違ったスタンスなのは、やはりマヒナスターズでの経験という部分があるからではないだろうか。

高見沢俊彦との対談のなかで、グループ・サウンズについて語られていることが興味深い。

 高見沢:逆にブルー・コメッツは上手いと思っていたけれど、髪型に拒
 否反応があったくらいで。あまりにもアイビー過ぎるというか……あれ
 って007のジェームズ・ボンドを意識していたらしいね。(p.026)

髪型云々はよくわかるが、それが007の影響というのは言われてみないとわからない。ツアーのとき、彼らはボンドふうにアタッシュケースなどを持って武装していたのだそうで、いまだと失笑モノだがそこが昭和の時代たる所以である。
ネットにある動画をあらためて観てみると、やはりブルー・コメッツは圧倒的にテクニックがあって今でも通用するように思えるが、「少し年齢は上だけど、今グループ・サウンズが流行っているからやってみました」 的な雰囲気があることは否めない。
それはマヒナスターズはもともとハワイアンであったのに、流行におもねり、結局そのルーツとなるハワイアン・バンドが衰退してしまったのだ、とタブレット純が指摘しているのと同様である。時節の流行に影響され過ぎるのは考えものである。

 純:歌謡曲やムード歌謡だと、感情を込めるところがわかるんですね。
 だけどGSの曲は、どこに感情を込めていいか、よくわからない。
 (p.028)

そのように新しいスタイルの曲が入ってくることが、今までの作曲家の先生vs生徒という旧弊な師弟関係の続いていた歌謡曲業界を変えていったプロセスのひとつであったのだという。

高見沢はTHE ALFEEがブレイクするまでの試行錯誤について語っているが、〈メリーアン〉が《我が青春のマリアンヌ》(1955) というドイツ映画のイメージをふくらませたものなのだということは初めて知ったし (といっても肝心の映画さえ知らないが)、またCSN&Yから出発したガロに対する2人のそれぞれの評価など、歌謡曲のテリトリーに次第に呑み込まれてしまった悲劇が感じられて読ませる。
グループ・サウンズの最盛期はほんの2年間くらいだとタブレット純は規定しているが、そうしてあっという間に終わってしまったけれど、日本の音楽業界には多大な功績を残したと高見沢は評価している。

タブレット純をDJ番組に抜擢したプロデューサーであるミウミウとの対談も面白い。どんどんマニアックにいこうとするタブレット純に対してミウミウは番組を成立させるための誘導をかける。

 ミウミウ:マニアックなファンの中には、筒美京平特集で郷ひろみの
 「よろしく哀愁」 はかけないでくれって人がいるわけです。でもやっぱり
 筒美京平だったら 「よろしく哀愁」 はかかるだろうって期待している人
 はいっぱいいるんですよ、その何倍も。そういうことなんだよね。メジ
 ャーな曲と知られざる曲、そのバランスが大切。(p.106)

ミウミウは、知らない曲を連続してかけ過ぎるのはよくない、ベタでもところどころに有名曲を入れると、知られざる曲がより引き立つのだと説くのである。

本の大半は、昭和歌謡を年代別、テーマ別、作家別にまとめてあり、ところどころ重複している情報もあるが、ごく簡単だけれど的確にその曲を解説していて、増田明美のマラソン解説に似て、とても納得できたりする。だが大半は知らない曲ばかりなので、それがちょっと歯がゆい。
それと昔の歌謡曲のEP盤のジャケットはスミ+色の2色刷だったりして、いかにも昔風な素朴さが目をひく。
森田公一とトップギャランのヒット曲〈青春時代〉の歌詞の冒頭 「卒業までの半年で」 という部分は当初、「酔いどれ坂の七曲がり」 だったのだそうで、ディレクターと音楽出版の人が作詞者の阿久悠と大げんかして、結果として今の歌詞になったのだとのこと。もともとは、いわゆるバンカラなイメージで作詞された曲らしいのである。タブレット純も 「フォーク」 として分類している。「酔いどれ坂の七曲がり」 じゃ、ちょっと……ねぇ。

タブレット純の、なるべくやらないことのひとつとして 「なるべく、ウィキペディアは使わないようにしたい」 というのがあって、何事も安易な手段・方法に流されないのが大切であることをあらためて思った。


タブレット純/音楽の黄金時代 レコードガイド (シンコーミュージック)
タブレット純 音楽の黄金時代 レコードガイド [素晴らしき昭和歌謡]




田渕純/花の首飾り
https://www.youtube.com/watch?v=_SMAbV1JlUU

そんな事よりタブレット純 第1回
https://www.youtube.com/watch?v=z9jrWn2tzAs
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gentillesseとtristes ― 今福龍太『レヴィ=ストロース 夜と音楽』を読みながら [本]

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Claude Lévi-Strauss

今日、たれ流しのBGMが延々と聞こえてくる環境にいて疲れてしまった。聞こえてくるBGMというのは、曲目もよく覚えていないのだが、J-popの有名曲をピアノに編曲したインストゥルメンタルで、しかも4~5曲がループして繰り返し繰り返し流れてくるのである。ダイレクトにその場所で聞いていたのではなく隣の部屋から流れてくるのを洩れ聞いていただけなのだが、まるで呪術的な強制力で迫ってきて、私にとっては一種の音の拷問に他ならなかった。
でも、そういうBGMを欲している人は当然いるわけで、だからその場所でBGMとして使われていたのだろうけれど、サーヴィスとして音楽を流している善意の行為が必ずしも善意とはならないところにBGMのむずかしさがあると思われる。

私はそういうふうにして消費される音楽が好きでは無いし、飲食店ならともかく (といっても場にそぐわない音楽ほど心を萎えさせるものはないのだが)、たとえばBGMの流れている書店は敬遠してしまうほどで、つまり音楽が好きだからといって常時音楽が流れている環境が好きというわけではないのである。

夜の帰り道の途中に葬儀店があって、その前を通りかかると、宣伝のつもりなのか煌々と点いた葬儀プランの案内のショーウィンドゥから悲しく儚げな音楽が終始流れているのであるが、こんなふうなチープな音楽とともに生前の写真を飾られるような通夜だけは自分の場合にはなんとしても阻止したいと心底思うのである。もし音楽をかけるのならブルーハーツに限る、と遺言に書いておこう。

今福龍太の『レヴィ=ストロース 夜と音楽』(2011) はレヴィ=ストロースが亡くなった直後、彼へのレクイエムのようにして書かれた文章を集成したもので、彼がどんな音楽が好きだったとかいうような内容ではなく、音楽そのものを論じたものでもない。でもそれゆえに、レヴィ=ストロースの文章構造がそこはかとなく音楽的構造を備えていることを暗示している。ここで 「それゆえに」 という言葉の使いかたはおかしいのかもしれないが、それゆえにあえてそれを使うのである。なぜなら今夜はブルーハーツ的気分だからである。

クロード・レヴィ=ストロース (Claude Lévi-Strauss, 1908-2009) は、サティのバレエ音楽《パラード》(Parade) が1917年に初演されたとき、その会場に座っていたのだという。彼はまだ9歳であった。それだけでなく、1923年のストラヴィンスキー/バレエ・リュスによる《結婚》(Le Noces) の初演にも、1928年のラヴェルのバレエ音楽《ボレロ》(Boléro) 初演のときにも、彼はその場にいたのだという。といってレヴィ=ストロースが特別にバレエ音楽に興味を持っていたわけではなく、フランスのその時代における最も先進の音楽がバレエ音楽だったのだろう。

今福の紹介のなかにあるズニドール (zunidor) という呪術的玩具とか、リオ・デ・ジャネイロのあたりにかつて実在した南極フランス (France Antarctique) という名のフランスの植民地とか、まるで知らないことばかりでとても興味をひく。
しかし最も強く印象に残ったことのひとつは、なぜ『悲しき熱帯』(Tristes tropiques, 1955) から醸し出されるものが感傷的なのかということの答えであって、それは西欧人の 「民俗学という学問の根にある植民地主義と進歩への幻想」 だとする指摘である。

レヴィ=ストロースはブラジルの地でフィールドワークをしながらも、そうした行為が昔からそこに住む人たちにとって悪い影響を与えてしまうことを 「負い目」 として捉えていたのだという。そっとしておけばよいのに、その生活をかき乱してしまったことへの負い目である。
それはポルトガル語特有のメランコリックな形容、サウダージというキーワードを使った章のなかで語られている。レヴィ=ストロースの体験した熱帯がどうして tristes であったかということの解説にもなっているように思える。

 伝統文化の消滅に力を貸しながら、一方で知的ノスタルジーとともにそ
 れを戦利品として展示・消費する西欧文化=学問の近代的な 「しつけ
 [ディシプリン]」 にたいし、レヴィ=ストロースほど自責の念にかられ、
 またそれにたいして倫理的な潔癖さを貫いた人類学者も二〇世紀におい
 てはいなかった。(p.46)

レヴィ=ストロースの視点は植民地主義的な上から目線ではなく、かつてジャン・ド・レリーがトゥピ族の姿を記録したのと同じような公正な視点であった。彼の自責の念は、だからといってセンチメンタリズムに堕するのではなく、むしろ消費文化とは対極のオプチミスティックなものである。そして、かつてトゥピ族の女性たちが壺の中に描いた絵や模様を 「かわいいもの」 =ジャンティエス (gentillesse) と形容しているのだが、しかしgentillesseには全く裏側の揶揄した意味もあって、それを感じながらもレヴィ=ストロースは、あえてそう言ったのだろうか。そのあたりは謎である。

『悲しき熱帯』の献辞として息子に与えられたルクレティウスからの引用、「お前と同じように、これまでそうした世代は滅びてきたし、これからも滅びるだろう」 がジェネレーションの交代と生命の連鎖への希望だとするのならば、それは個としてではなくマスとしての人類が存続していくということであり、それは森達也が生物学者たちから聞き出した 「細胞の意志」 の考えかたに近く、さらにはドーキンス的概念をも思わず連想させてしまう (森達也の『私達はどこから来て、どこへ行くのか』を参照→2015年11月18日ブログ)。
そして冒頭で今福は、そうしたレヴィ=ストロース的思考はすでに孤絶してしまったというふうにもとれる書き方をしている。

 そしてそのことは、レヴィ=ストロースの思想の世代的継承にかかわる
 問題を、特異な地点へと誘導することになった。近代の思潮が、ひとつ
 の蓄積から次なる蓄積へ、あるいはひとつの流行から次なる流行へ漸進
 的進化の想像力に裏打ちされながら更新されてゆく流れのなかに、ある
 ときからレヴィ=ストロース的知性は場所を持たなくなったように見え
 るからだ。孤独に屹立し、近代思想の歴史から逸れてゆく、無時間の哲
 学。(p.23)

アーレントの記事にも書いたように、分かりやすさが21世紀のトレンドだとするのならばレヴィ=ストロースはすでに時代遅れである。仮想敵を作り、敵味方という二者択一で判断する単純な思考方法が蔓延する時代は、まさに tristes と形容すべき時代なのだろう。


今福龍太/レヴィ=ストロース 夜と音楽 (みすず書房)
レヴィ=ストロース 夜と音楽




クロード・レヴィ=ストロース/悲しき熱帯 I (中央公論新社)
悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)




クロード・レヴィ=ストロース/悲しき熱帯 II (中央公論新社)
悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

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分かりやすさの罠 — ハンナ・アーレントについて [本]

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Hannah Arendt
(http://rozenbergquarterly.comより)

本の解説やあとがきを先に読んでしまうのは、問題集を解く前に解答を見てしまうのに似ていて、よくないことなのだとは思っているのだが、NHKのEテレに《100分de名著》という番組があって、このテキストがなかなかよく書かれているのに気づいた。放送はもう終わってしまっているのだが、ハンナ・アーレントの回のを買ってきた。解説をしているのは仲正昌樹である。
というのは、ついこの前、『全体主義の起原』が改訂再刊されたのだが、いきなり読むのより少しは参考になるだろうという魂胆である。解答を先にこっそり見てしまうような後ろめたさが全くないわけではない。

ハンナ・アーレント (Hannah Arendt, 1906−1975) はドイツ系ユダヤ人で、3つの大学で学び、22歳で博士号をとったが、ナチスが擡頭する頃から政治的意識に目ざめ、反体制活動をしたことで逮捕されたり、強制収容所に入れられたりする。アーレントはドイツから逃れフランスへ、そして最終的にアメリカへと亡命する。
第二次大戦後、ドイツのナチズムとソ連のスターリニズムを全体主義とし、そうした考え方がなぜ形成されたのかを冷静に分析したのがアーレントの『全体主義の起原』(1951) である。

なぜユダヤ人がナチスによって迫害されたのかを考えるとき、ユダヤ人とは何だったのかという解説のなかで、シェークスピアの 「ベニスの商人」 の例がわかりやすい。ユダヤ人が経済的才覚を持っているのは 「金貸し業」 を請け負っていたためであり、金貸し業というのは 「汚れ仕事」 であって、キリスト教徒が従事することはできなかったのだが、結果として彼らが金融を動かすことで裕福になってしまったことが妬ましいという論理なのである。

 『ベニスの商人』はユダヤ人を利用しながら、都合が悪くなると悪魔呼
 ばわりするヨーロッパ社会の身勝手さを表した作品だと指摘する人もい
 ます。(p.18)

次にナポレオン戦争 (1776−1815) あたりから、国家が絶対君主制から 「国民国家」 (nation state) へと移行してゆくに従って、人々の間に 「国民」 意識が広まっていった。nationは 「国民」 と訳されるが、日本語のニュアンスとしては 「民族」 に近く、つまり国家を同質的なものにしようとすると、血を同じくする同族意識で団結してかたまることになり、その血以外の異分子を排除するメカニズムを持つことになる。その異分子として認識されたのがユダヤ人だというのである。
アーレントからの引用はこうである。

 国民国家という政治体 [ボディ・ポリティック] が他のすべての政治体
 と異なるところはまさに、その国家の構成員になる資格として国民的出
 自が、また、その住民全体の在り方としての同質性が、決定的に重視さ
 れることにあったからである。(p.21)

古代ローマが異民族に対して寛容であったのに対して、近代の国民国家は、単一の同質的な 「国民」 をベースとする共同体でありさらにアフリカを植民地として統治することが、人種という選別意識を助長させ、差別を顕在化させる契機となった、とアーレントは考える。
その 「民族」 という概念が、血族という考えとなりナショナリズムの萌芽となった。自分たちは選ばれた民族であるという意識が、身内と他者という選民意識となり、ドイツの場合、その他者がユダヤ人であったのである。

またアーレントは、第一次大戦後に、国境が移動したことによる難民の発生を無国籍者の発生と規定し、難民には人権がない、それはいままで民主主義の根本にあった人権思想が幻想に過ぎなかったのだと指摘する。それが21世紀の昨今に、より顕在化していることは確かだ。

 法による支配を追求してきた国民国家の限界が、国家の 「外」 に現れた
 のが無国籍者の問題であり、それが国家の 「内」 側に現れて、統治形態
 を変質させていくのが全体主義化だということもできると思います。
 (p.58)

と仲正は書く。

全体主義がなぜ擡頭したのか、の理由として、ドイツでは第一次大戦の敗戦による領土の縮小、経済的逼迫、さらに世界恐慌などによって 「不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる 「世界観」。それを与えてくれたのがナチスであり、ソ連ではボルシェヴィズムで」 あったという (p.67)」。
こうした社会情勢の雰囲気が全体主義に陥りやすいきっかけとなるのだ。

 しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に
 不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした
 状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とか
 してほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考え
 ることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、わかりやすいイ
 デオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながって
 いったとアーレントは考察しています。(p.65)

アーレント自身の表現は、もっと簡潔にしてストレートである。

 ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義の運動
 の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えてい
 た大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもない
 と諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである (p.65)。

アルゼンチンに逃亡していたナチスSSであるアイヒマンの裁判を傍聴した記録『エルサレムのアイヒマン』(1963) で、アーレントは批判を浴び、多くの友人を失ったという。しかし彼女が自分の主張を変えることは、もちろんなかった。
諸悪の根源であり、大悪人であると見られていたアイヒマンを、アーレントは 「どこにでもいそうな市民」 であると形容し、極悪非道ぶりを暴いてくれると思っていた読者を空振りさせてしまったからである。アイヒマンが 「どこにでもいそうな市民」 なのだとしたら、翻れば誰もが条件さえ整えば 「アイヒマンのような人間になる可能性がある」 ということだ (p.98)。
それは現代の日本における犯罪報道やスキャンダルな報道が、犯人がいかに自分たちと違うかということに執心しているのと変わらない、と仲正は説く。

『全体主義の起原』に続くアーレントの著作『人間の条件』(1958) について、松岡正剛の〈千夜千冊〉を読んでみた (0341夜)。
そこでアーレントが指摘している世界危機は次のようであり、いずれも20世紀の特質だという。

 (1) 戦争と革命による危機。それにともなう独裁とファシズムの危機。
 (2) 大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうとい
   う危機。
 (3) 消費することだけが文化になっていく危機。何もかも捨てようとす
   る 「保存の意志を失った人間生活」 の危機。
 (4) 世界とは何かということを深く理解しようとしない危機。いいかえ
   れば、世界そのものから疎外されているという世界疎外の危機。
 (5) 人間として何かを作り出し、何かを考え出す基本がわからなくなっ
   ているという危機。

これは21世紀の今にも共通して、より痛切に成り立つ危機である。たとえば(3)は、安易で放蕩的な消費と、不健全な 「断捨離」 なるものを指していることに他ならない。
アーレントが提唱するのは、最も素朴に言えば、自ら物をつくり出し、仕事し、思考する、ということであると思う。
松岡は、こうしたアーレントの説明を古っぽいという。でありながらも 「アーレントを読むと何かのラディカルなリズムが胸を衝いてくるのを禁じえない」 と書く。それは松岡の数日前の1652夜、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』において展開されている昨今の情勢への辛辣な意見と通底しているように思える。

「ユルゲン・ハーバーマスは、「人民は複数でしか (in the plural) あらわれることができない」 と言い、そういう複数の人民を従えた政治家が単一人民の代表者であるかのような相貌をとるのは危険な徴候だと見なした」 とする部分における複数というワードは、アーレントの 「複数性」 という概念に通じるものがある。
そして本来、エリート主義との対比で用いられてきたポピュリズムが今では 「「大衆迎合主義」 「衆愚政治」 「人気取り政治」 の、ときには 「大衆操作マキャベリズム」 の代名詞にすらなってきた」 と松岡はいう。それは全世界的傾向なのだ。現在の日本の憂うべきポピュリズムへの指摘——ポピュリストは大騒ぎすることが好きとかレファレンダムが好きなどということは、直接〈千夜千冊〉をお読みいただきたい。
とりあえず私は、古っぽいかもしれないアーレントにまず立ち返ることが必要だと痛切に感じている。仲正はテキストの最後にこう書いている。

 アーレントのメッセージは、いかなる状況においても 「複数性」 に耐え、
 「分かりやすさ」 の罠にはまってはならない——ということであり、私た
 ちにできるのは、この 「分かりにくい」 メッセージを反芻しつづけるこ
 とだと思います。(p.109)


ハンナ・アーレント/全体主義の起原 1 (みすず書房)
全体主義の起原 1――反ユダヤ主義 【新版】




100分de名著 ハンナ・アーレント『全体主義の起原』2017年9月 (NHK出版)
ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 2017年9月 (100分 de 名著)

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松山晋也『ピエール・バルーとサラヴァの時代』を読む・2 [本]

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Pierre Barouh (http://www.purepeople.comより)

松山晋也『ピエール・バルーとサラヴァの時代』を読む・1 (→2017年10月01日ブログ) のつづきである。

サラヴァの寛容で何をも受け入れる精神は、それだけでみれば理想的な形態であったが、経済的なアバウトさから生じるリスクも伴う。脆弱なシステムにつけ込む悪人は必ずいるもので、サラヴァは倒産の危機に直面する。
本の後半はそうしたサラヴァとバルーを救った日本人たちについての記述である。

松山晋也はキー・パーソンとして立川直樹と牧村憲一をあげているが、それまでのサラヴァからリリースされた音楽に魅せられた多くのミュージシャンがその救済にかかわったことはもちろんである。そしてバルーの3人目の妻となった潮田敦子によってサラヴァはその命運を長らえた。
そうした裏側の事情は私のような一般リスナーにはわかるべくもないが、例えばフォンテーヌの《フレンチ・コラソン》(French Corazon, 1988) が突然、日本のレーベルであるmidiからリリースされたりすれば、何となく台所事情は感じ取れるものである。

日本人ミュージシャンたちがサラヴァの再建に協力しようとしたのは、ひとえにそれまでのサラヴァの音楽的遺産へのリスペクトがあったからである。フォンテーヌ、アレスキ、イジュランといった人たちだけでなく、ジュリー・ダッサン、ダヴィッド・マクニール、ルイス・フューレイ、ジャン=ロジェ・コシモンといった人たちがどのようにサラヴァと関わってきたかを知ると、バルーの大きな包容力にあらためて驚かされる。
特にコシモンを世に出したことをバルーは誇りに思っているという。コシモンはレオ・フェレの共作者であったが、自分のアルバムを出そうとはせず、バルーに背中を押されて初めてのアルバムを作ったのは彼が52歳のときだった。コシモンは緊張して、なかなか録音がうまくいかなかったが、バルーが 「リズムもテンポも考えずに歌っていいよ」 とサジェスチョンした後、突然録音ははかどったのだという (p.138)。その後、コシモンは呪縛が解けたように6枚のアルバムを作ったのである。コシモンにはカトリーヌ・ソヴァージュへの提供曲もあるが、キャリアの長い、最も正統的なシャンソンの系譜に連なる人である。トータルな目で見ればこれはサラヴァとしては異質のようにも思えるが、異質であって異質ではない。

サラヴァの音楽に強く影響された高橋幸宏は、最初のソロ・アルバムのタイトルをサラヴァとすること、ジャケット写真はパリで撮ること、というのをあらかじめ決めていた。そして、できあがったのが《サラヴァ!》(1978) というアルバムだったのだという (p.168)。

興味をひくエピソードのひとつに、牧村憲一の指摘する資生堂のTVCMがある。1973年のCM 「アイエア・ビューティケイク」 の音楽として使用されている〈窓いっぱいの夏〉という曲は廣瀬量平の作品だが〈ラジオのように〉の雰囲気があるとのことなのである。YouTubeで聴いてみると、パーカッションや木管のからみの技法は、まさにその通りで、逆にいえば4年経つと最先端のものが大衆的レヴェルに下りてくる現象なのであり、それはファッションにおけるコピーの伝播の様子と相似形であるように思える (と書くと歯切れが悪いが、ズバリと言えば、最先端のオリジナルは時差を経て劣化コピーされるのだということである)。

バルーがかかわったテアトロ・アレフという演劇グループの、タイトルでもあり曲名でもある〈ラスト・チャンス・キャバレー〉、牧村が何度もサラヴァに呼ばれているように感じ、そして最後に重要な役割を果たすことになったのも一種のdestinyであり、まさにそれはラスト・チャンスだったのである。
そのあたりの細かい推移は本書の記述に譲るとして、テアトロ・アレフにおけるバルーの演じた役は、砂漠に不時着したフランス人パイロットだったこと (p.198/サン=テグジュペリを連想させる)、そして主宰者のひとり、アニタ・バレッホのバルー評として 「彼はスパイラル (螺旋)」 だという言葉が心に残る (p.200)。螺旋は終わりがなく、永遠に動いているから、というのである。

イヴ・モンタンとの話も印象深い。モンタンは〈ラスト・チャンス・キャバレー〉を録音したいと願っていたのに、その予定の3日前の亡くなってしまったこと、しかし半年後に実はモンタンは (無断なのだが) 録音をしていたのだとわかったこと、それを聴くバルーの心情を想像するだけで音楽のかけがえのなさを知る (p.204)。
それは他のアルバム紹介のなかで、カルロス・プエブラの〈アスタ・シエンプレ〉(Hasta Siempre) をバルーがカヴァーしているエピソードを読んだときも同じで (アスタ・シエンプレが何度も私の前を通り過ぎることで、この曲がどれほど重要な曲なのか私にもやっとわかってきたのだが)、歌い継がれる曲とは、どんなものにも屈しないという音楽の強さを持っていることをあらためて確認する。すぐれた曲は、かたちがなく抽象的かもしれないが、滅びることがない。

     *

もうシュンを過ぎてしまったかもしれない河野悦子より校正チェック。p.135のアルバム《Alibis》写真のキャプションはキャロル・ローレ、1978と表記されているが、本文中ではキャロル・ロール、リリースも1979年とある。どちらかに統一して欲しいものだ。


松山晋也/ピエール・バルーとサラヴァの時代 (青土社)
ピエール・バルーとサラヴァの時代




Brigitte Fontaine/comme à la radio (コアポート)
ラジオのように




Jean-Roger Caussimon/Nous Deux
https://www.youtube.com/watch?v=-ct87KEbdqg

Pierre Barouh/Au Kabaret de la dernière chance
https://www.youtube.com/watch?v=zdLTEbPlpME

Yves Montand/Le Cabaret de la dernière chance
https://www.youtube.com/watch?v=6mk-LhEgqwY

Yves Montand/Le Cabaret de la dernière chance (full)
https://www.youtube.com/watch?v=CBAC-kEPsZU

Brigitte Fontaine/Comme à la radio (1969)
https://www.youtube.com/watch?v=Tn_Nk_rAAaA

廣瀬量平/窓いっぱいの夏 (資生堂 「アクエア・ビューティーケイク」 CM曲 1973)
https://www.youtube.com/watch?v=O01_Gql9s-4
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