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リベラ・メ ― フォーレ《レクイエム》を聴く [音楽]

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Gabriel Fauré

アンドレ・クリュイタンスのフォーレの《レクイエム》は、Venias盤の The Collection の話題のときにすでに触れたが (→2015年10月14日ブログ、→2015年10月18日ブログ)、クリュイタンスのフォーレは、レコードを買い始めた頃、つまりごく若い頃に私が買い求めたLPのなかの1枚で、その時代を思い出すととても懐かしい。単純に音楽だけでなく、それを聴いていた身の回りの情景とか友達などのことまでもが思い浮かぶ。
その頃の私にとってLPはとても高価だったから、所有枚数も少なく繰り返し聴くしかなかったのだが、同じように繰り返し聴いたのがフランクのヴァイオリン・ソナタで、でもフォーレとフランクという選択は偶然だったのか、それとも好きだったから選んだのか、今となっては判然としないけれど、渋い子どもだ、とも思う。

クリュイタンスのレクイエムには2種類あるが、有名な1962年パリ音楽院管弦楽団との演奏が白眉であって、1950年のモノラル録音のほうは古風で鄙びた音がするが印象としては弱い。
ヘレヴェッヘにも2種類の同曲の録音があるが、期待して聴いてみたら、予想に反してキツい感じがして一度しか聴いていない。クリュイタンス盤の刷り込みがあまりに強過ぎるのかもしれないとは思うのだが。

CDになってからも何回もリリースされていてリマスターもされているし、エソテリック盤も持っているのだが、でも音ではなくて内容なのだと思う。もっと極端にいえばディートリヒ・フィッシャー=ディースカウによる〈リベラ・メ〉の歌唱がその頂点にある。

全音のオイレンブルク版のスコアには、この曲の成立までの経緯が解説されていて参考になる。
最初は全部で5曲しかなく、7楽章に増やし、また各部を書き足していって最終稿ができあがったという。フォーレは管弦楽曲を書くことがあまり得意ではなかったとのことだが、レクイエムは他人の助けを得ずに書いたため 「結果は風変わりなものとなっている」 とある。
それは 「フル・オーケストラで鳴る部分は1小節もない」 というところにもあらわれていて、この曲にはオルガンが加わっているが、フォーレはもともと、オルガン伴奏だけのレクイエムで良いと思っていたような節がある。弦楽の音はオルガンで弾かれている音を単に分散しているだけに過ぎないような個所が多いからだ。
そして基本的にヴァイオリンが無い。ヴァイオリン・パートが加わっても、おざなりである。管楽器の使い方も同様にごく控えめだ。それでいてヴィオラとチェロにはそれぞれディヴィジの部分がある。そのため弦楽の重心は低く、それによってしっとりとした質感が生まれているようにも見える。
ヴァイオリンが無いのはブラームスのドイツ・レクイエムの最初でも、バッハのカンタータ18番でも見られるが特殊な効果を生み出す。

また、普通のレクイエムの書式なら用いられるべき歌詞を使っていないということも書かれている。ディエス・イレもラクリモサもないのは、フォーレが 「歌詞の劇的な扱いが必要とされる場合、それを除外した」 のだという。つまり 「容赦ない審判の日」 を外したというのだ。

〈リベラ・メ〉はチェロとコントラバスによる単純なピチカートの繰り返しパターンから始まる。オルガンもピチカートと同じ音にプラスして和音を弾くが、それはところどころに加わるヴィオラと同じ音だ。ヴィオラはほとんどが全音符でしかないのに、その暗くて強い音の重なり。ヴァイオリンは無い。そのシンプルな構成の上に乗るバリトン、フィッシャー=ディースカウの声は凜として深い。
最初のソロが終わって35小節4拍目からピアニシモでヴィオラが4分音符で5つの上行する音を刻み、37小節からコーラスとなるが、ソプラノとヴィオラの音はユニゾンで、ディヴィジになっているもう一方のヴィオラは3度上という、シンプルというよりは簡単過ぎるようなオーケストレーション。
さらに53小節からのPiù mosso、コーラスはDies illaと歌う。4分の6となり、決然としたホルンの、ずっと同じパターンと同じ音を吹き続けるだけのリズムのところどころにトロンボーンが重なる。劇的なものを除外したといわれるこの曲のなかで、最も劇的な暗い意思があらわれる。
ここからヴァイオリンが加わるが旋律線はヴィオラと同じで、弦の重なりの増強に過ぎない。コーラスが一区切りする69小節の最後で、ホルンの4つの4分音符に続いて、70小節目から83小節まで、4分休符+4分音符×5のパターンの執拗な繰り返しがさらに暗い輝きを増す。コーラスは次第に棒読みのようになり、やや曖昧な感じに収束していくところが上手い。
84小節から2分の2拍子、最初のリズムに戻り、そして92小節からコーラスがLibera meをユニゾンで歌う。このユニゾンのシンプルさと訴求力の高さは一種のおそろしさのような、と同時に諦念のような感情を同時にあらわしているように聞こえる。
コーラスが静まると124小節からバリトン・ソロが前をなぞるようにLibera meを歌い、131小節からピアニシモでコーラスが加わり、全体は溶暗のなかに消えてゆく。そのソロの1小節前、123小節から終わりまでずっと、ディヴィジになった一方のヴィオラがd音を持続させているのだ。

単純そうに見えて、ひとつひとつが揺るがせにできない音の連なりであることが次第にわかってくる。でもそれは単に構造的にわかろうとしているだけで、曲の本質は聴いてみたときの直感による。
最初に、そんなに考えもしないでレコード棚からフォーレを選び取った若い頃の私と、遙かな時間を経た今の私とは、年齢だけ重ねているけれど思っているほど進歩はなく、きっと同じに違いない。なぜならフォーレに対する想いと心の奪われかたは変わらないからである。若い頃の私は今の私を知らないが、そのときフォーレを選び取ったことは、未来の私に告げる予言のようなものだと無意識のなかで感じていたのかもしれない。


André Cluytens/Fauré: Requiem (ワーナーミュージック・ジャパン)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00JBJWEM8/
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Fauré: Requiem (libera me)
André Cluytens/Dietrich Fischer-Dieskau
https://www.youtube.com/watch?v=JZN-THpFMfc

André Cluytens/Fauré: Requiem (全曲)
https://www.youtube.com/watch?v=tmrQHRnT4Mw

Laurence Equilbey/Fauré: Requiem (動きのあるYouTube・全曲)
https://www.youtube.com/watch?v=PnQl18sVyig
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星に願いを — ビル・エヴァンス [音楽]

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ビル・エヴァンスの1962年のアルバム《Interplay》はクインテットによる軽快な印象の佳盤である。軽快という形容は第1曲目の〈You and the Night and the Music〉(あなたと夜と音楽と) によるものだ。

1961年のヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ・レコーディングの後、突然、スコット・ラファロを失い、エヴァンスはしばらく活動を休止する。翌1962年、チャック・イスラエルをベーシストに迎えたピアノ・トリオで《Moon Beams》《How My Heart Sings!》をリリースするが、ハービー・マンを加えた《Nirvana》やジム・ホールとのデュオ《Undercurrent》、そしてフレディ・ハバードとジム・ホールに、リズム・セクションもパーシー・ヒース、フィリー・ジョー・ジョーンズというクインテットによるこのアルバム《Interplay》と、しばらく模索の時期が続く。
ただ、エヴァンスの本領はピアノトリオにあるので、ピアノトリオ以外のアルバムは、模索というよりは気分転換的な意味合いが強い。

《Interplay》は1961年初頭にレコーディングされたキャノンボール・アダレイ名義のアルバム《Know What I Mean?》(1962) と並んで、エヴァンスの音楽の明るい部分を捉えている。それはやはり管楽器という強いキャラクターが加入していることが大きい。

〈あなたと夜と音楽と〉[→a] におけるエヴァンスのソロは、フィレディ・ハバードの音に引っ張られるようにシャープでくっきりとしていて、爽やかな演奏である。普段ならピアノだけでテーマ部分を表現しなければならないのに、このアルバムでのテーマはトランペットとギターがからまり、全体的に華やかだ。
1959年にレコーディングされたMilestoneレーべルのアルバム《On Green Dolphin Street》(1975) にも〈あなたと夜と音楽と〉が収録されているが、ピアノトリオなので音数も少なく、それにやや無骨である。
では《Interplay》の〈あなたと夜と音楽と〉がなぜ軽快で洒落ているかというと、フレディ・ハバードとジム・ホールの演奏はもちろんだけれど、最も重要なのはパーシー・ヒースのベースである。単純に規則的に刻んでいる4ビートなのだが、その正確無比さとセンスの良さが楽曲全体を支配している。ラファロや、この後のレギュラーなピアノトリオの一員となるエディ・ゴメスのように音数の多い難しい弾き方をしなくても、十分に存在感を出すことのできるベースである。

そして〈あなたと夜と音楽と〉の次の曲、スローな〈When You Wish Upon a Star〉(星に願いを) の緩やかでしっとりとした肌合いで、見事にエヴァンス節が意識される [→b]。
〈星に願いを〉はネッド・ワシントン/リー・ハーラインによるディズニーのアニメ《ピノキオ》(1940) の主題歌であるが、このアルバムでのクインテットの演奏は、その有名なテーマをほとんど表に出さないようにわざと画策しているかのようだ。メロディは複数の楽器に分割され、コード進行だけが暗示的にほのかにテーマをかたちづくる。曲の終わり頃になって、やっと本来のメロディが出てくるが、ひねくれているといえばその通りだし、シャレていると言われても、ああなるほど、と答えるしかない。

比較対象としてたとえばキース・ジャレットを聴いてみると、ちょっと変わったアプローチから入るけれど、やがてわかりやすくテーマの提示がある。これがジャズの通常の展開である [→c]。
マイルス・デイヴィスが〈枯葉〉で、テーマをストレートに吹かないという手法を繰り返し使っていたことがあったが、しかしマイルスの場合、そうはいってもそのコード・プログレッションの流れを追うことは比較的容易であり、それは〈枯葉〉のほうが〈星に願いを〉より有名曲だから、ということかと考えると単純にそうとも言い切れない [→d]。エヴァンスの場合、どんなに音を崩していってもテーマの気配が残っていればそれでよいのだとする考えがあるようだが、それはやや高踏的な思い切りでもある。

今、聴いている《Interplay》は《Bill Evans 5 Original Albums》というリヴァーサイドの廉価盤セットのなかの1枚である。最近はオリジナルの収録曲以外に別テイクをプラスして発売されることが多いが、この廉価盤セットは、本来のオリジナルの仕様ということにこだわっているようだ。アルバム1枚で30分~40分くらいの短めな収録時間は、アナログレコードというメディアからくる制約なのだが、そのシンプルさが潔癖ともいえる美しさに転化しているのかもしれないと思ってしまうのである。


Bill Evans 5 Original Albums (Riverside)
Classic Album Selection




[a]
Bill Evans/You and the Night and the Music
https://www.youtube.com/watch?v=bxKo7kp5a6Y
[b]
Bill Evans/When Your Wish Upon a Star
https://www.youtube.com/watch?v=8kuKTHzI1jo
[c]
Keith Jarrett/When Your Wish Upon a Star
https://www.youtube.com/watch?v=gyntl24zkZs
[d]
Miles Davis/Autumn Leaves (live 1964)
https://www.youtube.com/watch?v=cuhFQAzgnFQ
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サンレコ10月号を読みながら、やがてちわきまゆみに [音楽]

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『Sound & Recording Magazine』10月号の表紙は中田ヤスタカ。でも、ポストEDMとか言われてもなぁ。EDM自体よく知らないし、EDMってジャンルとして広過ぎるような気がするし。
中田ヤスタカは、中田ヤスタカ個人としてのアルバムを出すみたいです。「今の日本だと、ボーカリストじゃない人の名義で作品が出ていたら、“?”って思う人が大半だと思うんです」 って言っているけど、そうなのか? その言葉だけで判断しちゃうと、ますます偏狭になっていくJ-popっていう感じがしますね。

そんなわけでパラパラ見ていても、つい、古いほうの話題に興味が行ってしまう。土岐麻子のベスト盤の紹介がありますが、プロデューサーであるトオミヨウとの会話が面白い。スタジオのなかにローズがあるのはいいとして、その上に乗っているRE-201っていうのがすごい。これ、テープエコーですが、やっぱりデジタルとは違うんだろうなぁ。エンドレステープという発想の、いかにもアナログライクなテープエコーっていうシステムを考えたこと自体がすごいと思います。
結局、こうしたアナログによるディレイとかプレートリヴァーブとかって、つまりスチームパンクですよね? (違うか)。

機器ついでにいうと、レヴューのなかではSE-02というローランドとスタジオ・エレクトロニクスのダブルネームになっているモノシンセに食指が動く。機器の上半分のデザインがスタジオ・エレクトロニクス、下半分のシークェンサー・ボタンみたいな部分のデザインがローランドで笑います。大きさもコンパクトだし本来のスタジオ・エレクトロニクスほどじゃないけど、遊べるよね。ローランド・ブランドっていうところに安心感があります。

それはまあいいとして、soundbreakingの世界という記事は、レコーディングに関するドキュメンタリー映像《soundbreaking》というDVDの紹介なんですが、ジョージ・マーティンをはじめとするサウンド・プロディースの歴史の話らしい。そのレヴュアーが岡野ハジメ。
私にとっての岡野ハジメはPinkではなくて (Pinkはよく知らないですけど、今、見ると時代性が色濃く表れているパフォーマンスでやや恥ずかしい)、さりとてラルクでもなくて、なんといってもちわきまゆみのイメージが大きい。

ちわきまゆみというとMean Machineというバンドもあったけれど、あれはお遊びだし、まゆみねえさんとか呼ばれて、もう黄昏れてる感じだし、で、重要なのは東芝EMI時代のアルバムです。1986年から88年にかけての3年間に限る。個人的な好みでは《Gloria》です。
ちわきの言っていることは、たとえば来日したマーク・ボランに会ったとか、年齢と実際の音楽シーンが少しズレてるような気がするんだけど、つまりそれだけ彼女が早熟だったということ。

岡野ハジメはグラムロックなんてもう忘れられてしまった時代にグラムだった。イエモンの菊地英昭とかマルコシアス・バンプとかもグラムの香りがするけど、岡野のグラムっぽいファッションは本当に俗悪なグラムで (ほめ言葉です)、そういうファッションの岡野がバックにいるちわきまゆみの動画を見たことがあるんだけど探せませんでした。

ちわきの衣裳はグラムというよりボンデージというのかコスプレっぽくって、そういうのがカルト的には流行ってたのかもしれないけど、表面的には徒花みたいで、それがカッコイイんです。
〈CiNIMACHiNEBURA〉はアナログの12インチシングルしかないけれど、最もボンデージしてます。〈リトルスージー〉のイントロはボランの〈20th Century Boy〉のパクリですね。
それとFMでヤン冨田とちわきのDJ番組があって、変な曲ばかりかけていて、すっごくさりげなくアヴァンギャルドだった記憶があるのですが、う〜ん、記憶違いなのかもしれない。

尚、《Gloria》のCDにはジャケット違いのデジパックがあります。偶然、ヤフオクで手に入れた。内容は同じだけれど。
ということでサンレコから話題はズレまくりでした。


Sound & Recording Magazine 2017年10月号
(リットーミュージック)
Sound & Recording Magazine (サウンド アンド レコーディング マガジン) 2017年 10月号 [雑誌]




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PINK/Maxell CM: Keep Your View
https://www.youtube.com/watch?v=HzUU-fdj2aE

PINK/Climb, Baby Climb
https://www.youtube.com/watch?v=5lSFCnPZmT8

ちわきまゆみ/リトルスージー
https://www.youtube.com/watch?v=_7odpF5hURM

Roland Boutique SE-02
https://www.youtube.com/watch?v=zYLloIcu7us&feature=youtu.be
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ピリスのクラコヴィアクを聴く [音楽]

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Maria João Pires (1974)

マリア・ジョアン・ピリスの仏エラート盤はテオドール・グシュルバウアーとのモーツァルトの数曲のコンチェルトが最も有名だが、その他にも幾つかの録音があって、ショパンのプレリュードは1975年に録音されている。
そのエラート盤のプレリュード集の最後にオマケのように収録されているのが、1977年に弾かれたロンド・クラコヴィアクである。

グシュルバウアーとのコンチェルトが1972年から74年にかけて、そしてデンオンの東京での録音による最初のモーツァルト・ソナタ全集が1974年であるから、この頃が若きピリスの最も輝いていた時期ともいえる。

モーツァルトのコンチェルトは、グシュルバウアーとの後、76~77年にはアルミン・ジョルダン指揮によるアルバムが続くが、グシュルバウアーに較べるとジョルダンはやや落ちるように私は思う。したがってこのクラコヴィアクも77年録音なのでジョルダンの指揮であるが、曲の面白さに気をとられてしまい、あまりオケのことは気にならない (し、悪くはないと思う)。

ショパンは 「ピアノの詩人」 とよく言われるが、正確にはソロピアノの詩人であって、そのオーケストレーションはあまり評価されてこなかった。2つのコンチェルト、第1番 op.11と第2番 op.21はどちらも1830年だが、実際には第2番のほうが先に作曲されている。
だが評価が高くなかったので、やがてショパンはオーケストラ付きのピアノ曲を書くのを辞めてしまう。

《ロンド・クラコヴィアク》op.14はこれらのコンチェルトに先立つ1828年に作曲された。ショパン18歳のときである。あまり多くないオーケストラ作品のひとつであり、ごく短い序奏とロンドによって成立している小さめの曲で、私の好きな、若き作曲家の初々しさのある曲であると思う。
ショパンは結局、オーケストレーションがあまり得意でなかったというのが一般的な世評であり、近年、別の人の手が入っているとかいろいろと説が出ているが、それは少し身贔屓であって、基本的にはショパンが書いたものなのだと思う。

クラコヴィアクはポーランドの民族舞踏の名称とのことだが、まさに民族的な香りがところどころに感じられること、そしてそのオーケストレーションがまだ若く、ただいま勉強中とでもいいたげなほどに古典的なやや硬い雰囲気で、それを粒揃いの音で綴っていくピリスの弾き方が曲想に合っている。
ただ、そうはいっても独特のショパン・フレーズの萌芽がところどころに湧き出るので、たとえば序奏が終わってロンドに入っていくところはまさにショパンで、それはやはりモーツァルトとは異なる。ところどころ、すっと翳るような素朴な味わいが感傷的で東欧のにおいがする。

現代のリスナーはショパンのこの後の、その変遷と死までの歴史を知っているのでそれを含めて聴こうとするが、ショパンがこの曲を書いていたときは、まだわからないこれからの未知への希望を書き綴っていたはずなのだと思うと、その美しく明るい、世の中をあまり知らないかもしれないでいる音に青春の喜びがこめられているのを感じる。

ピリスの動画を探していたが見つからず、かわりにネルソン・ゲルナーが18世紀オーケストラをバックにエラールで弾いているのを見つけた。ブリュッヘンだから当然だけれど、その木管がエラールにマッチしている。
YouTubeで次に選択されたのは、ピリスがフォルテピアノでコンチェルト第2番を試奏する動画だったのでびっくり。
そしてコンセルトヘボウにおけるコンチェルト第2番の終楽章の動画もあったのでリンクしておくことにする。

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Krakowiak (Allegro moltoからRondeauに繋がる部分)

Maria João Pires,
Armin Jordan/Orchestre National de l’Opera Monte-Carlo
Chopin: 24 Prékydes, Prélude op.45, Krakowiak
(ワーナーミュージック・ジャパン)
ショパン:24の前奏曲集




Maria João Pires/Mozart: The Great concertos for Piano
(Warner Classics UK) [Erato盤]
Mozart: Pno Ctos




Nelson Goerner, Frans Brüggen/Orkest van de Achttiende Eeuw
Chopin: Rondo à la krakowiak en fa mayor Op.14
2010.02.26.
https://www.youtube.com/watch?v=KhQRBt7YTiU

Maria João Pires on old fortepiano plays Chopin Piano Concerto no. 2
2011.06.19.
https://www.youtube.com/watch?v=n0E3iqttI_E

Maria João Pires, Emmanuel Krivine/The Chamber Orchestra of Europe
Chopin: Piano Concerto II-3/Allegro vivace
2004.09.25。
https://www.youtube.com/watch?v=8t6_StAyOeg
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カール・シューリヒトとタワーレコード [音楽]

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Carl Schuricht (1910年頃)

シューリヒトはエーリッヒ・クライバーと並んで、私にとって重要な指揮者である。
カール・シューリヒト (Carl Adolph Schuricht, 1880-1967) を最初に聴いたのは仏Adès盤で出ていたブラームスの第3番と第4番で、3番はバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団 (Orchestre du Südwestfunk, Baden-Baden, 1962)、そして4番はバイエルン放送交響楽団 (Orchestre symponique de la radio Bavaroise, 1961) と表記されている (Adès盤はマイナーなレーベルのためかライナーノーツを含めフランス語でしか表記されていない。このAdès盤のシューリヒトのことはすでに書いた→2012年04月14日ブログ)。

この音源は、通販レコードのレーベルであったコンサートホール・ソサエティ盤であるが、2012年に英Scribendum盤で復刻された《The Concert Hall Recordings Carl Schuricht》という10枚組セットには、第4番きり収録されていない。でも他の収録曲も聴きたいし、それにこの時、リマスタリングされていたので買い時だったのだが、価格が当初比較的高めだったので逡巡しているうちに完売してしまった。

ところがタワーレコード限定という素晴らしい悪魔のような企画があって、その中にこのブラームス3番&4番があるのを見つけた。しかもSACDハイブリッドで、さらにウェーバーの序曲が2曲追加収録されている。
国内盤でリマスター、そしてSACDだからAdès盤より音は当然良いのだろうが (Adès盤のリリースは1988~1989年)、価格は国内盤の適正価格になってしまっている。

シューリヒトはマインツ市立歌劇場のコレペティトールから指揮者の道をスタートさせたとのことだが、コレペティトールとはオペラ歌手が練習する際の劇場付きピアニストのことで、スポーツ競技におけるコーチみたいなものだが、オーケストラ譜から適切な音をピアノで弾き出しながら、かつ歌手のトレーニングをするという非常に難度の高い仕事である。
かつての大指揮者はコレペティトール上がりが多いと聞くが、オペラを指揮することは、たぶんステージ上でシンフォニーを指揮することよりも難度が高い。なぜなら気を遣う部分が多いし、イレギュラーなことが起こる可能性も高いはずだからだ。カーレースの比喩でいうのならばF1とラリーの違いのようなもので、歌劇場の指揮者はラリー・ドライヴァーであり、次になにがあるか、常に未知の世界との戦いである。そのスリリングさが、指揮にしたたかさを付け加える。

エーリヒ・クライバー (Erich Kleiber, 1890-1956) はシューリヒトより10年遅い生まれであるが、亡くなったのはシューリヒトより早い。シューリヒトと同様に歌劇場指揮者からスタートしたが、ナチスからの不穏な圧力から逃れるため、一時、アルゼンチンに移住する。ブエノスアイレスのテアトル・コロンの首席指揮者になったが、テアトル・コロンはアストル・ピアソラなど、タンゴのライヴなどで耳にする名前である。
カルロス・クライバー (Carlos Kleiber, 1930-2004) はエーリヒの息子であるが、エーリヒは最初、カルロスが音楽を志すことに反対したという。結果としてエーリヒは親子2代続けて著名な指揮者となったが、そしてカルロスは父親の助言によりそのキャリアの足掛かりを得たともいえるが、親子の確執は当然あったはずであり、音楽に対するアプローチもエーリヒとカルロスでは随分違う。だが歌劇場の叩き上げということに関しては、カルロスも同様であり、カルロスの最もすぐれた演奏はオペラ指揮に多く存在すると思われる。

シューリヒトに戻ると、最近聴いている《The Complete Decca Recordings》はシューリヒトがデッカに録音した演奏の集成であり、1947年から1956年にかけての録音であるが、ほとんどがモノラルにもかかわらずその音の美しさに驚く。収録されているベートーヴェンの交響曲は1番、2番が2つ、5番、ブラームスは2番しかないが、ベートーヴェンの初期交響曲の清新さ、その快活さは比類がない。マーラーなどで混濁してしまった耳が洗われるような、などと書くとマーラーがまるで汚れているようだが、ベートーヴェンはやはりずっとモーツァルト寄りで、苦悩があったとしてもその音は透明で構造も明快である。心に最も響くのは明快な和声とメロディであり、その真摯さが胸をうつ。
シューリヒトの指揮には、粘っこいものがない。いつもさらっとしていて、時に突き放すようでもあり、しかしその音楽の本質を常に理解している。現代の指揮者の指揮法からすれば単純過ぎるのかもしれない。そのシンプルさがシューリヒトの真髄である。

シューリヒトにはパリ音楽院管弦楽団とのEMI盤の有名なベートーヴェン全集があるが、現在Warnerで出ている廉価盤とほぼ同内容でありながら、タワーレコード限定が存在する。これもコンサートホール・ソサエティ盤と同様にタワーレコード・ヴァージョンはSACDであって、しかも新たなマスタリングがされていて、でも価格も7倍くらいする。とりあえず音が聴ければいいか、というのが私のスタンスだが、でもシューリヒトとなると、心が揺れてしまって悩ましい。
古い録音は、ただ音源を集めただけという体裁で、同一のポーズのジャケット写真ばかりという味気ないデザインがよくあるが、タワレコのはオリジナル・ジャケット・デザインで、そういう部分でも魅力があるのだが、タワーレコードのサイトは魅力があり過ぎるので、だからあまり見ないようにしている。

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Carl Schuricht (1957年頃)


Carl Schuricht/The Complete Decca Recordings (Decca)
The Complete Decca Recordings




Carl Schuricht/The Complete EMI Recordings (Warner Classics)
Icon: Complete EMI Recordings




ブラームス:交響曲第3番、第4番 (タワーレコード限定)
http://tower.jp/item/4100966/
ベートーヴェン:交響曲全集 (タワーレコード限定)
http://tower.jp/item/4210878/

Carl Schuricht/Mozart: Symphony No.35 D-dur K.385 - IV. Presto
Radio Sinfonieorchester Stuttgart, Ludwigsburg 1956
https://www.youtube.com/watch?v=qd8VIon8LFM
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バルナバーシュ・ケレメンの弾くバルトーク [音楽]

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Kelemen Quartet (www.kelemenquartet.huより)

フンガロトンのBartók New Series (いわゆる新全集) は、ダークグリーンの旧全集に較べると格段の進歩があり、それはコチシュに負うところが多く、かえすがえすもコチシュの逝去が残念でならないというようなことはすでに書いた。
もうすぐ彼のオムニバス的な追悼盤が出るようだが、販売元の宣伝文では、バルトークの演奏に対するコチシュのアプローチを 「狂気と兇暴性を見せる凄みにみちてい」 ると書いていて、なんとも刺激的だ。

ただ、この新全集の全容がぼんやりと掴みにくくて、仕様がSACDだったりただのCDだったりするのは仕方が無いとして、そのパッケージには全集としての番号 (つまり本でいえば第何巻か) が振られているのだが、それが明記されている情報がどこにもなくて、いまだに買い逃している盤があったりする。緻密にサーチすればいいのだろうが、そもそも売る気があるのならもっとわかりやすく表記するべきだと思うのだ。

それでこの前、気づいて買ったのがヴァイオリン・ソナタの1番と2番、そして無伴奏の収録されているNo.15なのだが、バルトークのソナタには多くの録音があり、私はいままでテツラフのソナタを偏愛していたのだけれど、このケレメンとコチシュのを聴いてしまうとそれが簡単に揺らぐ。たぶんテクニックとか音楽の構築性とかそういうことではなくて、もっと精神的ななにかなのだと思う。それもコチシュがケレメンに及ぼしている影響があるのだろう。

でも、今回はそのソナタ盤ではなくて、つまりケレメンのヴァイオリンのバルトークに対する 「味」 みたいなのを知るのには、ヴァイオリン協奏曲第2番と2つのラプソディの入っているNo.9が適切なのだと思う。注目すべきなのはもちろんそのラプソディである。
バルナバーシュ・ケレメン (Barnabás Kelemen, 1978-) はこの新全集においてコチシュの信頼を一手に受けているが、その音はコチシュのバルトークに対する視点と非常に似通った面がある。
協奏曲とかソナタのような比較的スクエアな、言葉をかえていえば伝統的で主にドイツ音楽的な作品に比肩させようと考えるのならば、どうしてもその語法にすり寄らなければならないので、その書法もそのような制限を受けているように思える。民族的な特有の音をあらかじめ所有しているという枷をはめようとする中央ヨーロッパ語族からの偏見は、バルトークであっても武満徹であっても同様であった。だがラプソディのような作品の場合は、比較的自由に曲想を構成することができるので、そこにマジャールの、そしてロマ的な熱い思いが濃厚に入って来る。

もっとも、いたずらにマジャールとか民族的なテイストを強調すればそれは俗な音に傾きやすく、それがダメなのではないがバルトークはたぶんそうした音を目指してはいなかったはずである。バルトークがその究極としてリスペクトしていたのはバッハとベートーヴェンであるのは明白であり (つまり私にとっての3Bとはバッハ、ベートーヴェン、バルトークであり)、もっといえば一番スクエアな形式による作品群はそれらへの挑戦であった。
だがそうした曲、たとえばヴァイオリン・ソナタを聴いていても、このケレメンとコチシュのアプローチはすごい。けっして俗に堕しないが、スクエアな書法から外れるように見せかけてぎりぎりでとどまっているような方法論が見えて、それでいて音の一粒一粒が生きている。
それがラプソディの場合だと、もっと全開になってしまうので、でもそれがマジャールの、憧憬を呼ぶべき音なのだ。最も強く感じるのは――それはラプソディにあってもソナタにあっても言えるのだが、リズムの揺れでありその昂揚感である。下世話にもなりかねないアーティキュレーションであり、先の宣伝文の 「狂気と兇暴性」 とはよく言ったとあらためて感じるのだが、しかしバルトークの音は乱暴に強引に爆音で弾いたら決して得られなくなってしまう音である。その作曲者のパッショネイトな影が音の背後に存在する。

このディスクにはそれぞれの曲の異稿も収録されていて、ラプソディ第1番のフリッシュの第2稿、第2番のフリッシュ第1稿、そして協奏曲第2番の第3楽章第1稿とある。

ケレメンは2009年からクァルテットを結成して弦楽四重奏の演奏もしているようだが、wikiによれば (と書こうとしたらja.wikiにはケレメンの項目すらなかったのだが) ケレメンは、イェネー・フバイ→エデ・ザトゥレツキー→エステル・ペレーニ→ケレメンと続く系譜のなかにあり、ケレメン・クァルテットのサイトによればクァルテットの活動も続いているようだ。コンサート・スケジュールを見るとバルトークやベートーヴェンのラズモフスキーなどの曲目があり、そのクァルテットでの演奏も是非ホールで聴いてみたいものである。


Barnabás Kelemen, Zoltán Kocsis/
Bartók: Violin Concerto, Rhapsodies for Violin & Orchestra
(Hungaroton)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00L4XN5UE/
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Barnabás Kelemen, Zoltán Kocsis/
Bartók: Sonatas for Violin & Piano Nos1,2; Sonata for Solo Violin
(Hungaroton)
バルトーク : ヴァイオリン・ソナタ集 (Bela Bartok : Sonatas for Violin & Piano Nos 1, 2 , Sonata for Solo Violin / Barnabas Kelemen (violin), Zoltan Kocsis (piano)) [SACD Hybrid] [輸入盤]




Kelemen & Katalin Kokas play Bartók
https://www.youtube.com/watch?v=XG7r8WJqJI8

Kelemen Quartet/Bartók: String Quartet No.5-V movement
live 2011
https://www.youtube.com/watch?v=PdmxrfQA32M
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ヴァーツラフ・ノイマン ― ドヴォルザーク《交響曲第8番》 [音楽]

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Václav Neumann

『のだめカンタービレ』でドヴォルザークの第5番を千秋が振る話が出てきて 「何をマニアックな」 というような言い方がされていたことを覚えているのだが、それまでの少女マンガにおけるいかにも有名曲という選択肢から外れた選曲で、マンガのなかで扱われる音楽のステップがひとつ上がったような感じがした。

ドヴォルザーク (Antonín Leopold Dvořák, 1841-1904) は《新世界より》があまりにも有名過ぎるし、下校時刻の定番の音楽みたいなイメージがあるのだが、弦楽四重奏曲《アメリカ》などとともに、その胸に沁みいるセンチメンタルなメロディが色褪せないのはなぜなのだろうか。
ドヴォルザークの交響曲は、特に《新世界より》には山ほどの種類のCDがあるが、前半の番号の曲を聴きたいとなると、全集盤に頼らざるを得ないことが多い。私はずっとヴァーツラフ・ノイマンの1981~87年の録音によるコンプリート盤 (日本コロムビア盤) を愛聴していたが、それを聴いて識ったのが第1番で、これもまた私の好きな若書きの習作であり、未熟だけれど清新な初期作品として偏愛するに足る曲である。楽譜は紛失したことになっていて、ドヴォルザークの死後、ずっと経ってから発見され演奏されるようになった。標題の 「ズロニツェの鐘」 は彼が子どもの頃に暮らした町の鐘のことを指す。

しかし交響曲はやはり後期のほうが作品としての完成度は高い。高いけれども十分にセンチメンタルであり、通俗であり、でもストレートでありながら深い曲想を持っている。
そのなかで第8番は、疲れたときに最も心を癒やしてくれる曲のように思えて、ひとり感傷の褥に沈むのである。

第8番はG-durであるが、第1楽章はいきなり短調で始まるし、そして第3楽章 Allegretto grazioso も同様に短調である。それはg-mollの3/8拍子の悲しみのワルツである。

ヴァーツラフ・ノイマン (Václav Neumann, 1920-1995) には、1968~73年にかけてスプラフォンに入れた録音もあり、この古いほうの録音のほうが良いとする意見も多いようだ。1968~73年録音はノイマン48歳から53歳、1981~87年録音だと61歳から67歳ということになる。人間は多分に、最初に聴いてしまった演奏を最高とする傾向があり、それは初めて刷り込まれてしまった音源がどうしても一番強く記憶に刻まれるからではないか、と思われる。それは過去の自分の経験からも類推できるのである。

それでともかく、古いほうの録音も手に入れてみた。捷スプラフォンのコンプリート盤《Dvořák/Symphonic Works》である。どちらのほうがよいかという意見はネットなどをざっと見ても百家争鳴、かまびすしきかな、という状態だが、はっきりいってそんなに違いは無い。同じ指揮者でオケも同じ、ただ録音された時期が違うだけなのだから、そんなものだろう。雑な感想なのかもしれないが、そんなに違ったら逆に困るのではないか。その十数年の間に音楽に対する姿勢に大転換がない限り、そんなに変わるはずはない。
当時の政治情勢によってその緊張感に違いがあるというような意見も、もっともなようにみえてそうでもない。それよりも具体的な録音時の状況とか機材とか、もちろん指揮者やオケの精神的・肉体的状態のほうがファクターとしては大きいのだと思う。
むしろ本来、聴き較べするのなら違う指揮者、たとえばケルテスとかと較べてみるのが妥当なのだろうけれど。

ただ、聴いて最初に思うのは、1回目の録音は大変良い音に録れているのだが、かすかに紗がかかっているような感じがする。録音時期が古いこともあるが、それよりこれがチェコ盤であることが影響している可能性はある。日本盤だったら少し違うのかもしれない、と思うのである。デジタルはアナログと違い国内盤でも海外盤でも音質は関係ない、とする説もあるが、それは違うと思う。

2回目の録音は音質的に優れているだけでなく、聴きやすい。ディナミークも豊かで各楽器の表情付けもうまい。それは2回目であること、指揮者として経験値が高まり、こなれていることなどが考えられるが、それだけでなく、よりリスナーにわかりやすいように、というふうに音を作っているように思える。逆にいうと通俗的な色合いは高い。

第8番の第3楽章を聴いてみると、まず1回目のほうがテンポはやや遅く、そして2回目はやや速めであるだけでなく、音に表情がある。1stヴァイオリンも、11小節目からの主題にはプラルトリラーがあるが、それがくっきりときれいに弾かれている。同様に39小節目からのヴァイオリン、ヴィオラのスタカートも肌理が細かく、きれいに粒が揃っている。対して1回目の録音ではややざらっとした感触がある。そして2回目の43小節目からの抑揚のつけかたは、やり過ぎとも思えるくらいに波のようにうねる。
でも、では2回目のほうが良いかというと微妙だ。私は2回目のほうを先に聴いているので、その刷り込みがあるのだという前提でいえば、最初はやはり2回目のほうが良いように思えたのだが、繰り返し1回目の録音を聴くうちに、このかすかな紗のようなものは録音のせいではなく、うっすらとした寂寥なのだと感じられるようになってきた。
つまり全体的な音作りは、2回目のほうがややコマーシャルである。1回目のほうが朴訥であり、きらめきがないのだが、その鈍色のゆったりとした流れに陶然となる。

174小節あたりからリタルダンドしてAndanteになり180小節目でダルセーニョしてin tempoに戻る個所で聴かれるほんの少しのパウゼ、ここに1回目の寂寥の表情が見える。2回目のは単なるダルセーニョでしかない。

でも、これらは細かいことであって、最初に述べたように、そんなに違いはない。どちらも素晴らしいドヴォルザークである。
そんなことより、たとえば80小節目からの1stヴァイオリン→オーボエ→フルート→オーボエ→クラリネット→チェロ&コントラバスと渡ってゆく音の流れに、効果的にちりばめられるピチカートに、ドヴォルザークの心を聴くのである。彼はどんな曲に対しても妙な小細工をしないし、音楽はいつも真っ直ぐで誠実で、それでいて悲しい。でもそれは乾いた悲しみである。

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ドヴォルザーク:交響曲第8番第3楽章冒頭


ヴァーツラフ・ノイマン/ドヴォルザーク交響曲全集 (日本コロムビア)
ドヴォルザーク:交響曲全集




Václav Neumann/Dvořák: Symphonic Works (Supraphon)
Symphonic Works




Václav Neumann/Dvořák: Symphony No.9 (1993.12.11 live)
https://www.youtube.com/watch?v=HMMM4ClQyv0

Václav Neumann/Dvořák: Symphony No.8 (1972)
https://www.youtube.com/watch?v=BUKqpH7N2EQ
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シモーネ・ヤングを聴く ― ブルックナー《Studiensinfonie》 [音楽]

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Simone Young conducts the BBC Symphony Orchestra
performing Bartók’s Concerto for Orchestra, 2017.03.11.
(theartsdesk.comより)

シモーネ・ヤングのブルックナーは初稿へのこだわりで有名だが、初めて聴いたのが第4番で、ほどなくして全集盤が出てしまった。しかし分売だとSACDで全集は普通のCDフォーマットになっている。こだわるのならSACDだが、価格なら圧倒的にCDなので、ともかく聴けるほうを選んでしまった。

第1番の前の、最も最初の交響曲 f-moll が収録されている。
習作交響曲 (Studiensinfonie)、あるいは第00番などとも呼ばれる。まさに習作としての作品なのだが、これを書いたとき、ブルックナーは39歳、なかなか交響曲にとりかからなかったのはブラームスに似ている。
ブルックナーが交響曲としての番号を冠することにした第1番を書いたのは42歳で、ブラームスが第1番を一応完成させたのは43歳であった。

習作といえばたしかに習作で、音のつくりかたがブルックナーのがっちりとした感じがしなくて、とてもナイーヴでロマン派である。
でも、初期の頃の作品というのは少し言葉足らずであったり、技巧的に未成熟なものがあったとしても私はとても好きだ。たとえばショパンのピアノソナタ第1番とか、バルトークのコシュート、ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番など、それより以降の作品に較べれば完成度は低いのかもしれないが、その瑞々しさを聴くのもひとつの方法だと思う。

ブルックナーの交響曲は、弟子たちが後で改訂して、しかもそれは改訂というより改竄だったりしたことが多くて、それらをクリアするために、本来ブルックナーが書いた楽譜に戻すような作業が行われた。シモーネ・ヤングのブルックナーへの取り組みは、さらに遡ってなるべくブルックナーが最初に書いた音楽を再現して演奏しようとする試みである。なぜならブルックナーは書き換えれば書き換えるほど前より悪くなってしまうから、という定説があるほどだからだ。
ただ、このf-mollの交響曲の場合は、それ自体が習作であることにより、そうした改訂の嵐にはさらされないで来たはずである。

ざっと聴いてみると、すでに語り尽くされているように、主題が弱いとか、ブルックナー的構築性が無いとか、さらにはメンデルスゾーンのパクリだとか、そうした声に納得できる面もあるけれど、決してそんなに悪くない。
また、シモーネ・ヤングを悪く言う人は特に、ブルックナー的な構造の表現が弱いとか、ブルックナー的ゲネラル・パウゼが見られなくて音が流れてしまっている、みたいな評価をしているようだが、このf-mollには、そもそもそうしたブルックナー的特徴が顕著に見られないので、逆にいえば、すごく安心してロマン派的感傷に浸れる。さらにいうなら、流れてしまって何が悪いのだろうか。音楽は流れるものなのに。
といって、そんなに極端にセンチメンタルな様子は見られないし、弦も管もバランス良く鳴っているし、優等生的な音のつらなりであって、突然破綻するような部分は存在しない。だから習作なのであろうが、でもブルックナーは最終的にこの曲を破棄しなかった。だから若書き (ではないのだけれど) 的な意味で自分の歴史のなかに位置づけたのだろうと考えられる。

特に第2楽章、第3楽章のやわらかでコワモテでない表情が美しい。
第2楽章 Andante molto は中間部のほのかに悲しい繰り返しが胸を打つ。その後も、明るさが戻ったと思うと、でも雲はところどころに停滞していて去らなくて、木管と弦が競い合い、そして第3楽章へ。
第3楽章 Scherzo: Schnell はc-mollとなって、いかにも短調らしい比較的オーソドクスな構成が続く。後半は一転、愛らしい弦が姿を見せるがすぐに冒頭の再現となって、最後のあたりで金管がちょっとギラッと光るのもワザがある。

ということでこれから番号順に聴いていくことになるはずだ。


Simone Young/Bruckner: Sämtliche Sinfonien (OEHMS classics)
ブルックナー:交響曲全集




YouTubeにブルックナーがないのでマーラー
Simone Young & Philharmoniker Hamburg
Gustav Mahler: Symphony No. 2 „Resurrection“
https://www.youtube.com/watch?v=lz6EdSVaTv8
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夏至と冬至のあいだ — ラルフ・タウナー《Solstice》 [音楽]

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Ralph Towner

夏至を過ぎて、これから日は短くなるばかり。でも夏の暑さはこれから。
そんなときにラルフ・タウナーの《Solstice》を聴く。アルバム・タイトルはSolsticeだが、収録されている曲のひとつは〈Winter Solstice〉、つまり冬至だ。1974年の12月にオスロでレコーディングされ、1975年にリリースされたECM盤である。

私は1枚だけラルフ・タウナーのLPを持っていて、それがこの《Solstice》だったのだが、魔が差したのか (というのは言葉遣いが違うかもしれない)、再発盤のCDを買ってみた。通販サイトの表示には紙ジャケットという表示があるが、ごく薄い2つ折りのパッケージで、デジパックよりも薄く、でもデジパックのように縦より横幅のほうが長くて正方形ではないという中途半端なかたちだ。普通のプラケースのほうが扱いやすいので、このnew packageというのはちょっとがっかり。
《Solstice》は暗い地色のジャケットの中央の小さめのワクの中に水色と青で木が描かれているイラストがある印象的なデザインで、その周囲の地色は暗い紫であったはずなのに、このパッケージではどう見てもただの黒。こうした改変はたぶん廉価にするための方策だろうが、デザインにこだわっていたはずのECMらしくない。

ところで私は、ラルフ・タウナー (Ralph Towner, 1940−) をほとんど聴いていないのだ。LPの《Solstice》を聴いたときもあまりピンと来なくて、そのままになっていた。だからどんな傾向の音だったのかもほとんど忘れている。例のECMっぽい音、といえば全てが包含されてしまうのだけれど、そういう音だったという記憶だけがあった。

矛盾するかもしれないが、私はECMの創る音は好きなのだけれどフュージョンとかニューエイジ・ミュージックと呼ばれる音楽があまり好きではない。フュージョンはその音楽そのものに深みが感じられないので、そしてニューエイジ・ミュージックはそういうジャンルの区分けそのものが嫌いだ。というか、ワールド・ミュージックという称呼と同じで、またJポップをニューミュージックとしたのとも似ていて、業界の十把一絡げな方便に過ぎないからであり、ニューエイジ・ミュージックなどというものは存在しない。

さて、あらためて《Solstice》を聴いてみると、ほとんど過去の記憶の残滓通りだったことがわかる。ラルフ・タウナーはギタリストであるが、ピアノも弾く。聴いてみて一番印象に残ったのは〈Drifting Petals〉であって、しかしそれはギターでなくピアノ演奏の曲である。
一方で、たとえば〈Piscean Dance〉などは音数が妙に少ないのだけれど、いかにも当時のフュージョン系のリズムとノリであり、今聴くと時代性を感じさせてしまう (つまり古い)。

でも〈Drifting Petals〉や〈Nimbus〉の前半のソロ部分のような演奏を聴いてすぐに思い浮かべたのは、エグベルト・ジスモンチである。ジスモンチもタウナーと同様にギターとピアノを弾くし、その音の傾向も一聴したときは似ているように思えてしまう。

ラルフ・タウナーはECMでのソロ名義とは別に、オレゴンというグループでの演奏を継続していて、オレゴンは、まさにオレゴンをルーツとしたローカルなバンドで、マルチリード・プレイヤーのポール・マッキャンドレスとともに、40年以上の息の長い演奏活動歴がある。
このオレゴンの演奏とか、オーソドクスなジャズチューンの曲を聴いてみると、タウナーはやはりアメリカの基本的なジャズがそのベースにあることがよくわかる (たとえばNardisなど)。ジスモンチには、当然だがラテンのテイストがあるが、タウナーにはそれがなく、2人の傾向の違いがよくわかってくる。
《Solstice》はタウナーの音楽活動のなかで比較的初期の作品であるが、ECMの特徴的なリード・プレイヤーであるヤン・ガルバレクが加わっていることで、よりECM的になっているとは言えるだろう。

そういうふうに見てからもう一度、アルバム最初の曲〈Oceanus〉に戻ってみると、アルバム全体のイメージが、かなりガルバレクの個性に引っ張られていることがわかってくるが、同時に、ヨン・クリステンセンのドラミングの美しさがあらためて感じられる。ガルバレクの傑作《Witchi-Tai-To》(1974) における演奏と同様の、細かくクリアなリズムに陶然とする。


Ralph Towner/Solstice (ECM)
SOLSTICE




Ralph Towner: Nardis (solo)
https://www.youtube.com/watch?v=7b3ioveZK9k

Ralph Towner: Witchi-Tai-To (12弦solo)
https://www.youtube.com/watch?v=r_13j5GoNDU

Oregon/Witchi-Tai-To (piano) Viersen Festival 2009
https://www.youtube.com/watch?v=4k7R-kwGImU
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Xperia CMの矢野沙織 [音楽]

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Saori Yano

XperiaのCMが矢野沙織になっていた (→A)。ソニーモバイルのサイトを見ると3人のパターンがあるようだが、Xperiaはこのところずっと、このカッコイイ系をメインにしているみたいだ。コスプレ・ヴァイオリニストAyasaもそうだったが、ハイレゾをイチオシにするために、今回のはちょっとメタリックな感じを狙ってみた意図が透けて見える。
クラシックだってジャズだってカッコも大切なのだ。カッコだけじゃダメだけど。

矢野沙織のことは以前に書いたが (→2014年07月21日ブログ)、《Sakura Stamp》の後のアルバム《Parker’s Mood》そして《Groovin’ High》は、よくできているんだけれど感覚的にちょっと……という印象があって、少し遠ざかってしまっていた。
でも、矢野沙織以降、急にジャズとかフュージョン系の女性サックス奏者が輩出してきたことは確かである。

小学校時代にブラスバンドでサックスをやることになったのが矢野の楽器との出会いだったというが、昔は、つまり私が子どもの頃は、伝統的な吹奏楽においてサックスはマイナーで、あまり人気の無い楽器だった。でも最近はブラバンといっても、単なるマーチングバンドではなくなってきているので変化があるのかもしれない。
ともかくジャズやフュージョンにおいてはサックスは花形楽器であるし、最近の音楽教室では管楽器を教えてくれるところも多くなり、そしてサックスの場合、特にクラシック系のサックスだと講師の先生がたは圧倒的に女性である。
ボディが金属製ではあるけれど、サックスはクラリネットなどと同じ木管楽器なので、親しみやすい楽器なのかもしれない。

ということで〈I Got Rhythm〉を聴いてみる。2005年、ニューヨーク、SMOKEでのライヴはリチャード・ワイアンズ、ジョン・ウェッバー、ジミー・コブのトリオをバックにしている (→B)。ジミー・コブは《Kind of Blue》の頃のマイルス・バンドにいた人で、いまやドラマーの重鎮である。矢野沙織はこのとき18歳。それが今は30歳になってしまったのだから、時の流れはあっという間である。

〈I Got Rhythm〉はジョージ・ガーシュウィン作曲のスタンダード・ナンバーであるが、試しに聴き較べてみると、まずチャーリー・パーカーのはYouTubeにはあまり良い演奏がなかった。なぜか鈍重な感じがする。それでこうしたビ・パップ系として最も比較しやすいのはソニー・スティットである。
スティットはパーカー直系のサックスであるが、この余裕となめらかさ、アーティキュレーションはすごい (→C)。スティットはほんのわずかだけ、マイルス・バンドにいたことがあるが、飲んだくれで解雇されてしまったという。そうなのか。ちょっと見た目と違うけど、まぁジャケット写真には見た目のよいのを使うのがお約束なので何とも言えない。

〈I Got Rhythm〉という曲を遡ってゆくと、たとえばベニー・グッドマンがある。昔のスウィングの時代は、どうしても曲芸的なテイストがジャズには求められていたが、単純に楽しく音楽の喜びに満ちているのがグッドマンの特質である。ライオネル・ハンプトンが素晴らしい (→D)。

さて、矢野がジャズにのめりこむきっかけとなったのがパーカーの〈Donna Lee〉である (実際にはマイルスの作曲であるともいわれる)。この曲は《Sakura Stamp》の冒頭に収められているが、パーカーを良くコピーしていて、しかもパーカーよりやや速い。サックスとトランペットの2管で、トランペットはニコラス・ペイトンである (→E)。元となるパーカーはこれである (→F)。
しかしパーカーはそんなに簡単に超えられる存在ではないので、たとえば油井正一と悠雅彦の対談番組でも同曲をかけているのがあるが (→G)、これはトランペットの無い、パーカーだけで吹いているテーマとインプロヴィゼーションである。

特に〈I Got Rhythm〉などを聴くと、ベニー・グッドマン、ソニー・スティット、矢野沙織と、時代によってその音楽性が変わってゆくのが如実にわかる。上手いとか下手とかではなく、好き嫌いでもなく、音楽とは歴史に寄り添うものなのだという感慨がある。つまりガーシュウィンは単なる素材であり、それをどのように変奏するのかがジャズなのだ。


矢野沙織 BEST ~ジャズ回帰~ (Columbia Music Entertainment)
矢野沙織 BEST~ジャズ回帰~(DVD付)




A: Xperia CM
http://www.sonymobile.co.jp/adgallery/

B: Saori Yano/I Got Rhythm
https://www.youtube.com/watch?v=k5JFtt9rf9I

C: Sonny Stitt/I Got Rhythm
https://www.youtube.com/watch?v=TFq-JQyoy54

D: Benny Goodman/I Got Rhythm
https://www.youtube.com/watch?v=NTKOgTk2gGE

E: Saori Yano/Donna Lee
https://www.youtube.com/watch?v=sDsDhh3evtc

F: Charlie Parker/Donna Lee
https://www.youtube.com/watch?v=02apSoxB7B4

G: Charlie Parker/Donna Lee (油井正一&悠雅彦)
https://www.youtube.com/watch?v=ErWbBWlWD3s