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Keepnews Collection について [音楽]

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(L to R) Orrin Keepnews, Scott LaFaro, Bill Evans, Paul Motian,
at the Village Vanguard, 1961

リヴァーサイド盤の《Portrait in Jazz》はビル・エヴァンスとスコット・ラファロの最初の邂逅を記録したアルバムとして有名である。何度も再発されている人気アルバムであるが、最近リリースされているCDでは別テイクが増えているので、Keepnews Collectionというシリーズで出ている1枚を聴いてみた。
24bitリマスタリングとあり、〈Come Rain or Come Shine〉(降っても晴れても) は本テイクの5と別テイクの6、〈Autumn Leaves〉(枯葉) は本テイク (テイク数不明) とモノラルの別テイク9、そして〈Blue in Green〉は本テイク3と別テイク1と2が収録されている。別テイク4曲が後ろにまとめられているのは好感が持てる。

オリン・キープニュース (Orrin Keepnews, 1923-2015) はリヴァーサイド・レコードの共同創立者であり、当時のジャズ・レコーディングに貢献した敏腕プロデューサーであるが、このアルバムの録音は1959年12月28日、プロデューサーはキープニュース、Recorded by Jack HIggins at Reeves Sound Studios, New York Cityとある。そしてリイシューのプロデュースもキープニュースである。

最初の曲は〈Come Rain or Come Shine〉だが、音を聴いた瞬間に違いのあるのがわかる。それは24bitリマスターだからなのか、キープニュースがあらためてプロデュースしたリマスターだからなのか、それともそういう先入観があるので、これはきっと良い音に違いないと思い込まされてしまっている私のカンチガイなのかわからないが、私のプアなオーディオセットで何気なく聴いたのでさえも 「えっ?」 と思わず振り返ってしまうようなニュアンスがある。
音に奥行きがあるのだ。ただ左右に拡がっているだけのステレオ感ではなく、ピアノ、ベース、ドラムのあるスタジオの空間が見えるようで、私の感覚でいうと、それは弓形に拡がっていて、やや上から見下ろす位置に楽器が存在している。今から約60年前の12月も押し詰まった日のニューヨーク。その空気が伝わってくる。ピアノの鍵盤が見えるようだ。

このアルバムで最も有名なのは2曲目の〈Autumn Leaves〉だが、エヴァンスのタッチがキツ過ぎるように感じられるし、左手のコードの瞬間的なおさえ方のパワーが強いので、昔の安物のレコードプレーヤーだと音が割れてしまったりすることがあって、そういう演奏・録音なのだと思っていた。それで《Portrait in Jazz》は、どちらかといえばあまり聴かないアルバムだったのである。
でもそれは間違っていた。このKeepnews Collection盤では音はもちろん割れないし、エヴァンスの和音は太くてしかも柔らかくてそれでいて芯がある。テーマに入るまでの4小節がいままでエキセントリックな印象だったのに、それもない。

それでこのリマスタリングと表示されているシリーズはよいのかもしれないと思って、アート・ペッパーを聴いてみた。コンテンポラリー盤の《Art Pepper Meets the Rhythm Section》(1957)、当時のマイルスのリズム・セクションをバックにしたアート・ペッパーの中で最も有名なアルバムである。レーベルは違うけれど、プレスティッジやリヴァーサイドの、一連の黒地に白抜き文字の、OJCという品番の付いているジャケットである。
24bitリマスタリングで、マスタリングは《Portrait in Jazz》と同じジョー・タランティーノ。もしかして目の覚めるようなペッパーが聴けるかもしれない、と思ったのだが……。
少しクリアな感じはするし、アルトの音も澄んでいてとてもよいのだが、でも画期的といえるほどではない。まぁ普通。それにこのアルバムのオリジナルのプロデューサーは当然、コンテンポラリー・レコードのレスター・ケーニッヒである。

しかし冒頭の〈You’d Be So Nice to Come Home to〉はやはり名演である。ものすごく速いフレーズのところがパーカーとは (もちろんスティットとも) 全然違っていて、たとえば前奏8小節に続いてテーマ、テーマが0’54”頃に終わってアドリブの1コーラス目、1’21”あたりからの一瞬のめくるめくフレーズ、この空気感は何なのだ、と思わせる。
もっと急速調な〈Straight Life〉のフレージングも爽快感があり気持ちがよいが、音の連なりそのものはややありきたりだ。しかしこの頃、ペッパーは薬漬けだったはずなのだ。

では、オリジナルでキープニュースがプロディーサーだったアルバムの24bitリマスタリングだとどうなのか。それに適合するサンプルが、ビル・エヴァンスの1962年のアルバム《Moon Beams》である。ジャケット体裁はペッパーの《…Meets the Rhythm Section》と同じで、CDケースオモテ面左のワク部分が透明になっていて、オレンジ帯でOriginal Jazz Classics REMASTERSと表記されている。
1曲目の〈Re: Person I Knew〉は私がひそかに愛着を感じている佳曲で、ピアノの内省的なイントロからブラッシングのドラムとベースとが忍び入って来るところが暗い情熱を秘めているようで美しい。チャック・イスラエルはラファロと較べると人気が無いが、こうした翳りのある曲におけるピアノへの寄り添いかたは素晴らしい。このアルバム全体の淡い官能のような色合いがそのジャケットデザインに見事に反映されているともいえる。

でも録音に関しては、結論から言ってしまうと、このアルバムもクリアな感じはするけれど、まぁ普通。でもペッパー盤よりはやや奥行きがある。4曲目の〈Stairway to the Stars〉にはたぶんマスターテープに起因するピアノの音にふるえが来る箇所 (3’07”あたりから) があって惜しい。
リイシューのプロデューサーはニック・フィリップスである。

つまり、まだ結論を出すのには早過ぎるのだけれど、24bitが良いのではなくて、キープニュース・コレクションが良いのではないか、ということに思い至る。たぶん、オリジナルもリイシューも両方キープニュースが手がけているからキープニュース・コレクションなのだ。
キープニュース・コレクションはCDケースオモテ面左のワク部分が白地に黒字でKEEPNEWS COLLECTIONとなっていて、オレンジ帯の 「単なる24bit」 とは違うのではないか、と推理するわけであるが、でもまだ検証してみないと何ともいえない。
なぜなら《Portrait in Jazz》の音源だけが、ものすごく良い状態だったという理由だってあるのかもしれない。ということで、いつ続きが書けるのか未定という状態でこの追求は続くのである。

それで全然関係ない話に変わるのだが、アート・ペッパーのようにというのは無理としても、最近サックスなど管楽器を習おうとする人は多くて、音楽教室でもいままでのようにピアノやギターだけでなく、サックス教室を設けるところが多くなってきている。特にアルト・サックスは楽器が小さめだし、人気があるのだが、その教室の講師は圧倒的に女性なのだ (というような印象がある)。サックスにもクラシック系とジャズ系があって、それぞれに適合する楽器もやや異なるが (たとえばヤマハのサイトには82Zはジャズ向き、875EXはクラシック向きという解説がある)、特にクラシック系のサックスだと、まず先生は女性だと思ってよい。ヴァイオリンだってほとんど女性の講師ばかりだし、もちろん女性講師が悪いといっているのではないが、男性はいったいどうしてしまったのだろうか。やはり手取り足取りの初心者には女性の先生のほうが向いているという音楽教室の勝手な思い込みがあるのだろうか。その勝手な思い込みは結構あたっているような気もするが、それにしても謎である。


Bill Evans/Portrait in Jazz (Riverside/Keepnews Collection)
http://tower.jp/item/2377928/
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Bill Evans Trio/Re: Person I Knew
https://www.youtube.com/watch?v=xiRRfKoNl50
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1997年のPEARL ― 田村直美 [音楽]

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田村直美の音楽活動の端緒はPEARLというバンドである。PEARLというバンド名はもちろんジャニス・ジョプリンのアルバム《PEARL》からであることは確かである。だが私はこの初期のPEARLは全く知らない。後から遡って聴いてみたが、あまりピンと来なかった。

私にとってのPEARLは1997年に結成されたPEARLで、これはそれまでのPEARLの継続ではなく、田村直美のワンマンバンドである。北島健二 (g.)、トニー・フランクリン (b.)、カーマイン・アピス (ds.) という構成によるアルバム《PEARL》を何がきっかけで見つけたのか、もはや記憶にない。
当時は安室奈美恵やglobeなどが最も流行していた頃で、つまり音楽産業が活況だった時代である。

アルバム《PEARL》の初回盤は透明なグリーンのプラケースで、デザインはメンバーとは関係のない子どもの写真である。このアルバムをほとんどエンドレスのようにして聴いていたときがあったことを突然思い出した。あまりに聴き過ぎるので念のため、もう1枚をフルイチで見つけて買っておいた。

田村直美は最初のPEARLが終わった後、ソロ活動となり、CLAMPのアニメ《魔法騎士レイアース》[マジックナイト・レイアース] のテーマ曲〈ゆずれない願い〉がヒットしたことでアニメ歌手のように言われたりもするが、それは違うのではないかと思う。レイアースはCCさくらに先行するCLAMPらしい作品で、設定としてはやや古いが、典型的なCLAMPらしい幻想が懐かしい。

アルバム《PEARL》は強くゆるぎない声、ロック・スピリットを併せ持ち、そして強力なバックの演奏により過去のPEARLで実現できなかった田村の理想的なサウンドを作り上げることができた作品のように思える。遡ってソロ・アルバムや初期PEARLも聴いてみたが、田村直美のベストはこの《PEARL》であると思っていい。

どうしてこんなメンバーを集めることができたのかわからないが、アニメ等での成功による発言力があったことは確かだろう。
北島健二は難波弘之のSENSE OF WONDERにゲスト出演したときに聴いたことがあるが、ジェフ・ベックの〈Cause We’ve Ended as Lovers〉のカヴァーがいまだに忘れられない (こっそりと書いてしまえば、ジェフ・ベックより上手かったと思う)。
トニー・フランクリンはブリティッシュ・ロックのベーシストで、ザ・ファームを経てブルー・マーダーという経歴を持つが、田村以外の日本人作品への参加も多い。
カーマイン・アピスはヴァニラ・ファッジのドラマーである。ヴァニラ・ファッジは〈You Keep Me Hangin’ On〉の入っている1stアルバム《Vanilla Fudge》が有名だが、私にとってのヴァニラ・ファッジの最高傑作は《Renaissance》(1968) で、このアルバムにもハマッていた時期がある。私の持っているのはドイツ盤のCDだが、その頃、アメリカ盤はなぜか手に入らなかった。一種のコンセプト・アルバムであるが、1曲目の〈The Sky Cried, When I Was a Boy〉で暗い妖気のようなものに引き込まれてしまい、それは最後のトラックのドノヴァンの曲〈Season of the Witch〉まで途切れない。

田村直美の声はそれ自身が快感であって、例によって私は歌詞はあまり聴いていない。ロックはそれでもいいのだ、と思うことにしている。


PEARL (ポリドール)
PEARL




PEARL/虚ろなリアル (live)
https://www.youtube.com/watch?v=GQHKpxpg2kg
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メトネルを聴く ― エカテリーナ・デルジャヴィナ《8 Stimmungsbilder》 [音楽]

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Ekaterina Derzhavina

今日は朝から雪だ。東京としては、かなり大雪になっている。これから出かけなければならないと思うと憂鬱だ。

YouTubeでメトネルのピアノ曲をなんとなく検索していたら、ドミトリー・ラフマニノフというちょっと名前負けしてしまいそうなピアニストに行き当たった。あのラフマニノフと関係があるのだろうか? たぶん無いのだろうけれど、手が大きくてダイナミックで、まさにラフマニノフを弾くのにはふわさしい。

でもそれよりエカテリーナ・デルジャヴィナ (Ekaterina Derzhavina) のメトネルである。デルジャヴィナは1967年ロシアのモスクワ生まれのピアニストであるが、ラ・フォル・ジュルネで来日したこともあるらしい。ハイドンのピアノ・ソナタで有名だが、私はまだ未聴である。
ゴルトベルクの演奏もあって、これも評判になったらしいが現在廃盤らしく入手しにくい。グールドと比較していたネットの記事もあったが、グールドのゴルトベルクは確かに孤高で画期的ではあるけれど、グールドだけがピアニストではないと私は思う。何事もそうだが、カリスマをつくりあげてしまうと冷静な判断がしにくくなる。

メトネル (Nokolai Karlovich Medtner, 1880-1951) はロシアの作曲家であるが、ピアノ曲がその作品の大半であり、ピアノ以外では室内楽曲が少しあるだけである。ロシア人であるがもともとはドイツ系であり、ロシア革命後 (正確に言えば十月革命後)、ロシアを出てパリに住んだが彼の作風はその頃のフランス楽壇の先進的な音楽とは合わず、やがてロンドンへと行きその地で没した。
メトネルの作風はやや時代遅れのロマン派的な傾向であり、つまりラフマニノフ的であり、たとえばプロコフィエフのような音楽を嫌っていたという。作品から醸し出される印象は暗く、やや晦渋で屈折した抒情であり、常に多声で鳴っているような構造をしていて、求められるテクニックは高度である。

メトネルは私の偏愛する作曲家のひとりであるが、そのためにかえってあまり書くことができない。メトネルの演奏ではイリーナ・メジューエワがよく知られているが、それに対してデルジャヴィナがどうなのかは、私の中ではまだよくわからない。
デルジャヴィナの最近の録音には夭折の作曲家スタンチンスキーがあり、その選曲が私好みである。

YouTubeにメトネルの《8 Stimmungsbilder》(8つの情景画) を弾いたデルジャヴィナの動画があった。英訳されたタイトルだと Mood Picutures であるが、 邦題の 「情景画」 というのは、言葉としてそういうのもあるのかもしれないが、やや違和感がある。ラフマニノフには《Études-tableaux》(音の絵) という曲があるが、それと同じようなタイトルの付け方のような気がする。

《8 Stimmungsbilder》は作品番号1で、書き始められたのは1895年であるが、書き継がれ、書き終わったのが何年かははっきり特定できなかった。1903年に楽譜が出版されている。
8曲で構成されているが、調性的には2曲ずつのセットになっているようで、1曲目:Prologue: Andante cantabil が E、2曲目のAllegro con impeto が gis であるが、3曲目:Maestoso freddoと4曲目:Andantino con motoは es と Ges になっていて、1~2曲目のセットとは半音/一音とごく近い。5~6曲目 Andante & Allegro con humore は5度上がった b と Des、そして7曲目:Allegro con ira と8曲目の Allegro con grazia - quasi valse のみこの法則性から外れて、どちらもfisとなっている。

6曲目 (デルジャヴィナのリンク動画で14’20”あたりから) の L’istesso tempo と表記のある18小節目 (14’48”) からとつぜんリズムが変わって懐旧的なメロディが紡ぎ出される。これは古いタンゴのリズムなのだそうだが、ドヴォルザーク的な俗謡のようで、でも陰翳は曖昧で寂しい。この6曲目から終曲の8曲目までがこの作品のピークである。
作品番号1の楽曲がこのように完成されたものであることからもわかるように、メトネルには習作曲とかわかりやすい曲というのが存在しない。すべては緻密で凝縮された暗い輝きのなかにある。

(メトネルについては→2012年01月29日ブログ、スタンチンスキーについては→2014年11月04日ブログに少しだけ書いたが、まだ全然消化不良である)


Ekaterina Derzhavina/Haydn: The Piano Sonatas (Profil)
ハイドン : ピアノソナタ全集 (Joseph Haydn : The piano sonatas (Die Klaviersonaten) / Ekaterina Derzhavina) (9CD Box) [輸入盤]




Ekaterina Derzhavina/
Medtner: 8 Stimmungsbilder (8 Mood Pictures, 8つの情景画) op.1
live 2015.10.11 モスクワ音楽院小ホール
https://www.youtube.com/watch?v=LwEzcKDqoeM
1曲目楽譜画面
https://www.youtube.com/watch?v=SMbooLjwLmE
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ブラームスはお好き? その2 — 交響曲第1番 [音楽]

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Seiji Ozawa (1992)

この前のブラームスのスコアに関する記事 (→2017年12月09日ブログ) では、その解説の面白さに引き込まれながら、中途半端に終わってしまったので、あらためて書いてみたい。

第1番を完成するまでのブラームスは、ベートーヴェンの後継として恥ずかしくないものを、というような重圧があったのかもしれないが、オーケストラの編成を拡張せず、ほぼベートーヴェンの5番と同じであることなど、ベートーヴェン的な正統的古典派を狙い、一見その作風の延長線上にあるように見せながら、この解説を読むと、全く異なるメカニックともいえる構造を備えていて、その完成度の高さに驚くのである。
「さまざまな動機の多層な組み合わせ」 (p.9) による構造が全てを支配していて、非常に理知的であるが、仕掛けが深いといってもよいだろう。

野本由紀夫の解説の構成表によれば、第1楽章 Un poco sostenuto - Allegro - Meno allegro, c-moll, 8分の6拍子 (第6小節のみ8分の9拍子) は序奏部 (小節数:1~)、呈示部 (38~)、展開部 (189~)、再現部 (339~)、そしてコーダ (449~511) となっているが、序奏部は後から付け加えられたものであり、呈示部以降を凝縮していて、「この曲の全体をとおして使われる 「原素材」 が提示される重要な部分」 (p.9) であるという。
冒頭の第1vl.の半音上行する動機 「c - cis - d」 そして [es - f] 「g - as - a - b」 と (第2vl., vcも同じ動き)、管楽器、vaによるその反行形 [c -] 「b - a - as - g」 および [c -] 「g - fis - f - es」 が何度も頻出し、さらにかたちを変えて出現するのだという。つまり数音のクロマティックな音列だけが基本にあり、それが様々に変容しているというのがその種明かしなのだ。

 古典的な交響曲なら変ホ長調Es: で始まりそうなところ、この楽章の展
 開部は異例なことに、ロ長調H: で始まる。(p.11)

この部分は、第3楽章のところで解説がされているのだが、つまりメディアント関係にあるのだというのがその答えなのだ。
12音を時計の文字盤のように円形に配置すると長3度のインターヴァルはキー:c ならc - e - gis (=as) となり (コードネームでいえばC augの構成音)、4つおきのポジションで三角形を形成する。古典的な交響曲ならc-mollに対してEs-durというのは平行調であるが、es (=dis) のメディアントは g と h であり、だから展開部がロ長調となってもよいわけだ。しかも前記構成表によれば、呈示部121小節から Es、157小節から es と転調しており、前もって Es、es を経ての H なのである。

ただブラームスの異質というか一筋縄でいかないところは、このメディアント関係を楽章毎の変化に適用していることで、各楽章の調性は、順に c-moll → E-dur → As-dur → C-dur というサイクルになっている。そしてもっと細かい部分でもメディアントの関係性が使われているのだという。
こうした思考方法が古典派であるベートーヴェンとは違う部分だ。しかし、リストやワーグナーが増三和音それ自体を使っていたのに対し、ブラームスにはそこまでのフレキシビリティはなかったようである。

第2楽章 Andante sostenuto, E-dur, 4分の3拍子 に対しても的確と思える解析がある。ブラームスの曖昧さみたいなものはすべて計算づくであると考えれば説明がつく。

 この楽章は、楽段構造がぼかされており、明確なフレーズ末尾がないま
 ま次々と旋律が紡ぎ出されていく。(p.13)

そしてその曖昧さへの分析は次のようである。

 区切りが不明瞭な理由は、和声付けが半音階的な上、明確な終止を回避
 しているからである。結果的に、一種の 「無限旋律」 を生み出していよ
 う。その点では、やはりワーグナーとの同時代性を感じさせる。(p.13)

第3楽章 Un poco allegretto e grazioso, As-dur, 4分の2拍子 は冒頭のクラリネットのソロにからくりがあるという。1小節~5小節までと6小節~10小節までの旋律を上下に並べると、まさしく鏡像になっているのだ。正確な音名だと、かえってわかりにくいような気がするので、固定ドのドレミファで書くと、最初の5小節は 「ミーレド╱レドシド╱レドシド╱シラシー」 だが、次の5小節は 「ドーレミ╱レミファミ╱レミファミ╱ファソファー」 (レはdesでなくd) となっている (スコア上ではBクラだが、これは実音)。

 つまり、かなり人工的に作られたメロディなのである。それなのにまっ
 たく作り物だと感じさせないあたりが、ブラームス・マジックといえよ
 う。この、主題の後半を前半の反行形で秩序づけるやり方は、のちのシ
 ェーンベルクやウェーベルン (1883-1945) の十二音技法を予感させ
 る。(p.14)

この第3楽章の説明の中に前述のメディアントの説明があるが、こうした長3度の円環はシューベルトの影響であると野本は書く。

第4楽章 Adagio - Più andante - Allegro non troppo, ma con brio - Più allegro, c-moll - C-dur, 4分の4拍子 で、この楽章のみトロンボーンが使われているのはベートーヴェンの5番と同じであり、それもまたベートーヴェンを意識した音作りだったのだという。

 第4楽章冒頭は、高音部に 「c - g - fis - g - es - d」 (刺繍音型)、低音部
 に 「c - b - as - g」 (4度下降モチーフ) という作りである。(p.17)

これらは後に声部を入れ替えられて、高音に4度モチーフ、低音に刺繍音型が出現するというが、簡単なパターンを繰り返し使用しながら、ヴァリエーションで変形させて行くというのがブラームス得意の手法といってよいだろう。

 こうして同じモチーフからの分割と派生によって全く見かけの異なるメ
 ロディを展開していくやり方は、高度な 「発展的変奏」 と呼ぶにふさわ
 しい。(p.18)

と野本は書く。
刺繍音型のモチーフは、コーダ (391小節以降) では縮小された c - h - c の連続となり、弦パートで繰り返される。さらにそのリズムは403小節から木管部に移って繰り返しとなり、そして最終の447小節から、再び弦パートで繰り返される。あまりにも単純な、c と h という2音しかないパターンがこの部分の最も重要な支配者なのだ。
最後に野本は再度、ブラームスのテクニックについて述べている。

 ブラームスの技量がすごいのは、このように半ば人工的かつ意識的に緻
 密に作りこんでいるにもかかわらず、旋律線が美しく、聴いていてすこ
 ぶる自然な音楽の流れに感じられる点にあろう。(p.18)

まさにその通りで、こうした恣意性、人工性は言われなければわからない。シェーンベルクやヴェーベルンの音は人工的作風ゆえに奇矯であり、そうした人工的な美学もまた12音や無調的な作品特有の特徴であるが、そこに至るまでの道の途中にブラームスがいて、しかも結果としてそのブラームスは古びず、さらに年輪を重ねている。ある意味、ブラームスの方法論は折衷主義であったが、それは彼の中だけに (葛藤として?) 存在していて作品の表面には出て来なかった。それがブラームスの天才性なのだと思う。


(以下のリンクは2017年12月09日記事と同じものである)
Saito Kinen Orchestra Seiji Ozawa 1992 (NHKエンタープライズ)
小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ 1992 [DVD]




Seiji Ozawa, Saito Kinen Orchestra/
Brahms: Symphony No.1 in C minor Op.68 
(live 1992.9.5/長野県松本文化会館)
https://www.youtube.com/watch?v=7M7Q7BXh_is
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《裏窓》— 浅川マキを聴く [音楽]

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開かない窓は絶望のメタファーである。まだカメラを初めて持ったばかりで何を撮るのも面白かった頃、でも見知らぬ人にいきなりレンズを向けるわけにもいかず、誰もいない風景を撮っていたことがあった。風景というよりも何かひとつのかたちあるものが、一種のオブジェのような、言葉を発さない私専有のモデルでありそのひとつが窓であった。
たとえば煌びやかなショーウィンドウや毎日開け閉てする窓なら快活で生きている感じがするし、そしてヒッチコックの窓も活用されているライヴな窓であるが、もう決して開けられることのない、中の様子もわからない曇り硝子の窓は光を喪った瞳であり、幽閉された王女の幻想さえ思い浮かばない単なる虚ろな形象である。

古い大学構内の裏庭に面した窓は、その正面に家具を押しつけられてもう開けられる可能性が無くなり、沈黙したままで存在していて、ときに外壁の煉瓦には蔦が絡んでいたりして、しかしそれは決して美しいものではなく、寂れて廃れゆきつつある銹びた風景でしかない。

森山大道の写真と文章から受ける印象は、増感されたざらざらの肌合いであり、すべての風景は変質して時代を遡る。それを見ていたら突然、浅川マキの《裏窓》(1973) を思い出したのである。数年前、CDが再発されたのだが、そのモノクロームのジャケット写真は田村仁で、ひとつの時代を象徴するように増感されていて、無骨な麤皮のような手触りを連想させる。

アルバム《裏窓》の白眉はタイトル曲の〈裏窓〉である。

 裏窓からは 夕陽が見える
 洗濯干し場の梯子が見える
 裏窓からは
 より添っている ふたりが見える

 裏窓からは 川が見える
 暗いはしけの音が聞こえる
 裏窓からは
 ときどきひとの 別れが見える

 裏窓からは あたしが見える
 三年前はまだ若かった
 裏窓からは
 しあわせそうな ふたりが見える

 だけど夜風がバタン
 扉を閉じるよバタン
 また開くよバタン
 もうまぼろしは 消えていた

 裏窓からは 川が見える
 あかりを消せば未練も消える
 裏窓からは
 別れたあとの 女が見える

この裏窓から見える風景は貧しいけれど決して死に絶えている風景ではない。しかし主人公である女は現実の風景とともに過去の風景を見ていて、それは冷静な視点でありながら最後には悲哀となって消えてゆく。
川の描写は《泥の河》のようでもあり、洗濯干し場を撮った荒木経惟の作品があったような気がする。それは沈黙した記憶のなかにある、過去の庶民が知っていた風景である。

作詩は寺山修司だが、非常に技巧的な構造をしている (浅川マキの場合、作詞ではなく作詩と表記するとのことでその慣例に従う)。
「夕陽が見える」 「梯子が見える」 というように 「見える」 という視覚を繰り返しながら、第2連の2行目のみ 「はしけの音が聞こえる」 と聴覚を入れているが、これは最後の第5連の2行目に呼応していて、「未練も消える」 への伏線である。しかも 「きこえる」 が 「きえる」 と 「こ」 がひとつ無くなっただけなのに、動きは能動的なものから受動的なものへと変化する。消えてしまうことは、サビである第4連の4行目、「もうまぼろしは消えていた」 だけで終わらず、第5連の2行目で 「消せば」 「消える」 と追い打ちをかけている。
第1連4行目の 「より添っているふたり」 も、第3連4行目の 「しあわせそうなふたり」 も明るいイメージなのに、第2連4行目では 「ひとの別れがみえる」 という暗いイメージが対比されるが、それは第2連2行目の 「暗いはしけの音」 ですでに予感されている。そしてその暗い予感は最終行の 「別れたあとの女」 で現実化する。

音楽的にはギターによるシンプルなイントロと、曲を動かしてゆく重いリズムが印象的だ。イントロの一部はグラント・グリーンの〈Idle Moments〉のイントロのフレーズが引用されているとのことで、確かにうまく取り入れられているが、初めて知った。
サビが終わってからの市原宏祐のバス・クラリネットによる間奏があまりにも暗くて心に沁みわたる。悲しく美しい。

4曲目の〈セント・ジェームズ病院〉は神田共立講堂におけるライヴを収録しているが、南里文雄のトランペットがフィーチャーされている。ニューオーリンズ的な輝かしいソロは、しかし南里の最後のレコーディングとなったのだという。

最後の曲、〈ケンタウロスの子守唄〉は筒井康隆・作詩/山下洋輔・作曲による《21世紀のこどもの歌》というオムニバス・アルバムの収録曲のカヴァー。詩の内容は筒井らしさをあらわすSF的な設定であるが、「白いお馬」、「赤いお馬」、そして最後に 「青い星」 の 「青いお馬」 という言葉から、どこか遠くの星にいる人間が、遙か遠くの青い星 (=地球?) への望郷の念を歌っているようにも思える。しかし 「青い馬」 とはヨハネ黙示録の 「蒼ざめた馬」 であり、それは死の象徴に他ならない。B・ロープシンやアガサ・クリスティ、五木寛之にもある 「蒼ざめた馬」 のタイトルの出典はすべてヨハネ黙示録である。
筒井の場合、馬という言葉から連想してしまうのはベルトルト・ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(1939) のパロディである『馬の首風雲録』(1967) であるが、2連の惑星という設定からはル=グィンの『所有せざる人々』(1974) も連想させる。といってもSFにはよくある設定であり、ル=グィンが筒井を剽窃したわけではない (それはおそらく不可能である)。

森山大道は1984年に 「時代のシステムがかわり、在りし日の風景がほとんど風化してしまった」 と書いている。さらに時の過ぎた今、昭和のシステムは朽ちていこうとしているのだ。変化した風景の元の風景がどうだったのかは誰も記憶していない。すぐに忘れてしまう、それが記憶の真実である。


浅川マキ/裏窓 (EMIミュージックジャパン)
裏窓(紙ジャケット仕様)




浅川マキ/裏窓
https://www.youtube.com/watch?v=KYz-1mZjhRE&t=13s
03:58 | 裏窓 (Rear Window)
11:59 | セント・ジェームス病院 (St. James Hospital)
41:09 | ケンタウロスの子守唄 (Centaur’s Lullaby)
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アリストクセノスの理論 ― ヤニス・クセナキス『音楽と建築』その2 [音楽]

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Iannis Xenakis

微分音とテトラコルド (→2017年11月28日ブログ) のつづきである。

古代音楽の構造について述べている個所は難解でよくわからない、というよりクセナキスのなかで既知であると考えられていることのレヴェルが高過ぎるため、わからないというのが実情なのだと思う。私もほとんど何だかわからないのだが、とりあえずそのままなぞってみることにする。

クセナキスの引用するアリストクセノスは古代ギリシャの哲学者でありアリストテレスの弟子である。音楽理論に詳しい人であったらしいがその著作はほとんど失われている。
クセナキスは、アリストクセノスの理論は階層構造であるとして、第1層~第4層というふうに分けて説明しているが、まずその層という概念が不明である。
第1層として、全音とその分割とあり、全音とは 「協和音程5度と4度の差」 であると定義する。この全音をセグメント (=コンマ) で12という単位とすれば、半音はその半分なのでセグメント6、さらに3分の1をクロマティック・ディエシス (セグメント4)、4分の1をエンハルモニック・ディエシス (セグメント3) とする。いわゆる微分音である。

そして第2層:テトラコルドとして、「テトラコルドは第1協和音程4度 (dia tessaron) で定められる」 としているが、テトラコルドは2全音+1半音なので、2×12+1×6=30で、セグメントは30ということになる。
さらにディエシスというのがよくわからない。ディエシス (diesis) は一般的にはシャープ (嬰記号) のことを指すが、クセナキスの場合、一種の構造単位のような使われ方をしている。しかしweblioでは、「ピタゴラスの理論で4度と2個の全音 (tonus) との間の差、現代の音響学では、短4度と3度の差の音程」 とある。

さて、そのテトラコルドの説明は次のようである。

 両端の音は協和音程4度の差があるが、他の2音はその内側で移動可能な
 ので、3種類のテトラコルドができる (これらは5度・オクターヴなど、
 他の協和音程とは関係がない)。(p.030)

3種類のテトラコルドとは、4つの音があるとして、その間隔は一般的なオクターヴの12音で考えるのならば、全-全-半、全-半-全、半-全-全があるので、そういう意味ではないかと思う。しかしそれをエンハルモニック、またはクロマティックを含めて考えるのである。
クセナキスの分類をやや整理して書きあらわすと次のようである。

 1. エンハルモニック:下から上へ2つのエンハルモニック・ディエシスを
   含む。
    3+3+22=30 (テトラコルドはセグメント30であるので)

 2a. 軟クローマ (malako chroma):2つのクロマティック・ディエシス
   を含む。
    4+4+22=30
 2b. 3/2 (hemiolon) クローマまたは1.5倍 (sesquialteron) クローマ:
   2個の1.5倍ディエシスを含む。
    4.5+4.5+21=30
 2c. 1全音 (toniaion) クローマ:半音2個と3/2音。
    6+6+18=30

 3a. 軟ディアトニック:半音1個と3エンハルモニック・ディエシスと
   5エンハルモニック・ディエシス。
    6+3×3+3×5=30
 3b. 硬ディアトニック (syntonon):半音・全音・全音。
    6+12+12=30

前述の 「3種類のテトラコルド」 という説明と6種類の各パターンとを考え合わせれば、たとえば 「1」 の場合、3+3+22だけでなく、3+22+3や22+3+3も成立するはずである。だがそのような説明はされていない。

第3層はシステム (system) として、全音+テトラコルドの連結によるconjunctと、全音を挟んだ分離としてのdisjunctがあるとしている。
第4層はトロポス (tropos) で、調、旋法であり、これらの階層は、移動のアルゴリズムによって、類←→類、システム←→システム、旋法←→旋法それぞれに交代するという。そして、このように古代構造の方法論は、中世以後の調性音楽の単純な転調や移調とはかけ離れているとも書いている。

アリストクセノスの理論に対する次のような説明がある。

 アリストクセノスは音楽的経験に忠実であろうとして、音楽経験だけが
 テトラコルド構造や、その組み合わせの結果であるハルモニア全体を規
 定すると主張する。(p.033)

あるいはまた、

 4度音程の (物理的) 絶対値は、ピュタゴラス派は弦の長さを3/4と定義
 していたのに対して、ここでは定義されていない。これこそ知恵のしる
 しだと思う。3/4という比は平均値に過ぎない。(p.033)

そして、

 [アリストクセノスは] 西欧で採用される2000年も前に、平均律の基礎
 を用意した。(p.034)

というのである。
この後に、ビザンチン音楽の構造としての説明があるが、「自然ディアトニック音階」 として、1、9/8、5/4、4/3、3/2、27/16、15/8、2というオクターヴの音を示している。これはつまり純正律的な音構造だと考えてよいのだろう。以後の説明はあまりにも煩雑となるし、検証もできないので転記しない。

ここで一番問題となるのは、平均律の基礎云々という個所である。エンハルモニックというのは半音のさらに半分となる微分音であり、まずこれだけの微妙な差異が聞き分けられるのかという疑問が生じる。それだけの精緻な耳が当時はあったと仮定してもよいが、そうした微妙な差異が聞き取れる耳が、同時に平均律的な音を許容するとするのは矛盾があるのではないか、と思う。

しかしクセナキスは付記として次のようにいう。

 ディアトニックは他の類とはちがって、節度があり、厳格で、高貴だと
 考えられてきた。クロマティックや、ましてエンハルモニック類は、ア
 リストクセノスをはじめとする理論家が指摘しているように、高度に発
 展した音楽文化を前提としていて、ローマ時代の大衆はまだそのような
 文化をもっていなかった。そこで、一方では組み合わせ論的考察、他方
 では実用面から、エンハルモニック独自の特徴は消滅してクロマティッ
 クと硬ディアトニックがそれに代わり、ビザンチン音楽ではさらにクロ
 マティックの1種類も消失した。ルネサンス期に古代の硬ディアトニッ
 クの名残である長音階が諸音階 (旋法) を吸収合併したことも、現象と
 してよく似ている。
 この単純化はふしぎで、状況や理由を研究する価値がある。(p.038)

という表現からは、エンハルモニックというのは音楽理論の理想ではあるが、現実には成立していない幻想だったという推理も成り立つ。平均律がそれまでの複雑な純正律を是正するアバウトだが合理的な方法論だというふうには捉えられていない。「平均律の基礎を用意した」 という言い方は肯定的なニュアンスがあるのにもかかわらず、ルネサンス期には音楽は単純化し衰退したとしているわけで、確かに単純化してしまったのかもしれないが、純正律的な澄んだ和声と、理論上の微分音の戦いというふうにもとれてしまう。
クセナキスはそれをずっと現代にまで持ちこんで、平均律といわゆる12音的な方法論を批判している。

 半音を2の12乗根にする粗雑な平均律の採用もまた別の衰弱だ。協和音
 は3度で豊かにされたが、ドビュッシーが出るまでは、この3度が伝統的
 な4度と (空虚) 5度を追放してしまった。最終的に19世紀の終わりと20
 世紀はじめに、理論とロマン派のなかから現れた無調性が、時間外構造
 の一切を事実上捨ててしまった。それを追認したのが平均律クロマティ
 ックの究極的 「全体秩序」 しか認めないウィーン楽派の抑圧的ドグマだ。
 (p.046)

元来、4度や5度は本来の人間の生理に基づくプリミティヴな響きであるのに対し、3度の響きは人工的な、いわゆる近代的響き (伝統的西欧音楽の基礎) であるとされる。ただ近現代における空虚5度は逆にその響きによる違和感とか唐突さによる人工的和声のなかの 「野生」 とでもいうべき方法論でしかなくて、それを古代やルネサンス期の和声法と並列して考えるのには無理がある。
たとえばアリストレテスの著作における科学的なことについての記述のなかには、今の科学から見るととんでもない認識があるが、それは実験をともなっていない科学だったからで、アリストクセノスの微分音的考え方が実証を伴っていなかった可能性もあるのではないだろうか。

実はこの本を読むことは、最近出版されたクセナキスの『形式化された音楽』への前哨戦という意味あいがあったのだが、もうすでにへとへとで、まだ麓なのにとても頂上まで辿り着けそうもない。というか、古代音楽の解釈で堂々めぐりしているのもなんだかおかしな感じである。


ヤニス・クセナキス/音楽と建築 (河出書房新社)
音楽と建築




Ensemble Linea/Xenakis: Eonta
https://www.youtube.com/watch?v=IzUPAMY2A8k

hr-sinfonieorchester/Xenakis: Terretektorh
https://www.youtube.com/watch?v=37ajOyhcl_c

Machaut: Messe de Notre Dame
https://www.youtube.com/watch?v=5GgkAM8crbU
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とっても低い空 ― 荒井由実〈ベルベット・イースター〉のころ [音楽]

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もう記憶が曖昧となってしまった頃の過去に、ユーミンと車の好きな友人がいて、思いつきで観音崎までドライヴに行ったことがある。車は、白いセリカではなかったと思うが、なにかその手の車で (「その手の車」 って何だ?)、私はまだ免許を持っていなかったから、未知の道が目の前に開けてゆくのを助手席で眺めているのに興味があった。
観音崎に至る道は、妙に白っぽい、がらんとしてざらざらとした空虚さのような印象として残っているが、それは単にその日が風が強くて埃っぽい日だったせいかもしれなくて、観音崎に着いてから灯台まで登ってみたが、そこにも強い風が吹きつけていた。でも歌詞に出てくる肝心の歩道橋に立ってみたかどうかの記憶はない。きっとそこまで考えが働かなかったのかもしれない。

 砂埃りの舞うこんな日だから
 観音崎の歩道橋に立つ
 ドアのへこんだ白いセリカが
 下をくぐってゆかないか

ヴァージニア・ウルフの描く灯台に惹かれるのは、それがいつも地の果ての、海に近接した位置にあり、日常性と隔絶した象徴として映るからにほかならない。大げさに言うのならば、その醸し出す空間は世間からの遊離のメタファーであり、海は死である。灯台からの光は、夜の海の航行にたぶん役だってはいるのだろうが、その 「役立ち感」 は一般人の認識からは稀薄である。でも 「役立ち感」 で比較するならば、私自身の存在ランクはそれよりももっとずっと下だと自嘲するしかない。そして灯台が朽ちるより早く、人生は朽ちてゆく。

かなり幼い頃の断片的な記憶のなかに、城ヶ島に行ったときの微かな過去が残っていて、その日は利休鼠の雨で、うそ寒い感覚はあるのだが、何で行ったのかも誰と行ったのかも定かでない。城ヶ島にも灯台があるが、その近くの草のない地面の記憶だけがあって、そこがすでに磯だったのかそれともそこに至る道の途中だったのかもわからず、灯台に行ったのかどうかも不明だ。私の脳内のメモリーは、つまらない風景だけが記録される仕組みなのかもしれない。

もう一人、友人がいて、免許とりたての頃、やはりドライヴにつき合わされた。時間は必ず夜で、車はたしか古いスカGで、くたびれた車内には、たとえば 「私はこれから変わるんだから」 と言いながら結局変われない 「やさぐれ感」 が漂っていて、それはきっと白いセリカでも古いスカGでも同じなのだ。使い込んだその手の車から感じられる疲労感や寂寥感のようなもの。
横浜まで行く道の記憶はあるのだが、横浜に着いてからの記憶がない。季節は冬。途中で50~60年代風のアメリカン・グラフィティなインテリアにしたのだが、すでにすべてが色褪せて時間に埋没してしまっている店に入ったような覚えもあるのだが、でもそれは現実ではなくて、後から捏造された偽の記憶なのかもしれなかった。

それより後、やっと運転免許をとってから、練習と称して深夜に車を乗り回していた時期がある。そのときも私は闇雲に海を目指し、ここに書けないようなスピードで湘南の海の見えるところまで達してから戻ってくるのだったが、別に海が見たいわけでも引きつけられる何かがあったわけでもなくて、そこで道が終わりになっているので区切りが良いから、というのがきっとその理由なのだ。

ユーミンには〈中央フリーウェイ〉や〈カンナ8号線〉をはじめとして、車と道を描いた歌詞があるが、夜にフィットするのは〈埠頭を渡る風〉である。ただ、埠頭という言葉から私が連想するのは、まだあまり活用されていなかった頃の横浜の赤レンガ倉庫に吹きすさぶ冬の風であり、誰もいない午後の静止した情景だったりする。そしてそれはニューグランドの記憶とセットになり、過去の横浜として薄れてゆく。

だが、〈よそゆき顔で〉も〈DESTINY〉も、失敗したヤンキーに取材して書き上げた歌詞のように思えて、ユーミンにはそうした体験はおそらく無いから、彼女自身のストレートな心情が得られるのは、荒井由実時代のごく初期の作品に限られる。それは当時流行していた四畳半フォークと呼ばれていたものに近くストレートで、しかし彼女はそうした貧しさを知らないから、四畳半でなく、広い応接間の片隅のソファに座った孤独のような様相を帯びていて、そしてブルジョアの持つ不安やコンプレックスも現れていて、それはある意味、オノ・ヨーコに似たセンシティヴィティともいえる。曇り空だから外に出たくなかったアンニュイと、〈DESTINY〉の 「やっちまった感」 は通底しない。

初期の作品のひとつ、〈ベルベット・イースター〉は 「いちばん好きな季節」 と歌いながら、その本質は 「空がとってもひくい」 というところにある。〈ハルジョオン・ヒメジョオン〉のようなダウナーな感じが隠されている分だけ、騙されやすい。「昔ママが好きだったブーツ」 というママもブーツも、寓話としてのアイテムでしかなくて、それは 「空が低い」 ことを遮蔽するマスクなのだ。それに 「ママが好きだったブーツ」 は 「安いサンダル」 ほどのリアリティを持ちえないし、そもそも 「好きだったブーツ」 と、それがなぜ過去形なのかを考えれば 「昔」 の意味もわかってくる。
そしてベルベットは決してベロアやフリースではなくベルベットであり、イースターはいまだにハロウィーンほどの世俗性を獲得していない (獲得されても困るけれど)。それゆえに、ごく初期の作品でありながら風化しないのである。

 空がとってもひくい
 天使が降りてきそうなほど
 いちばん好きな季節
 いつもとちがう日曜日なの

〈ハルジョオン・ヒメジョオン〉は最も庶民的な昭和歌謡に近くて、「川向こうの町から 宵闇が来る」 のも 「土手と空のあいだを風が渡った」 のも、八王子あたりの無愛想で色の無い風景に近くて、単語の選び方があまりに無防備でユーミンらしさがない。その無防備さに惹かれる。しかしその無防備さは一瞬のことで、荒井由実が松任谷由実に変わってゆく境目の歌のような気がする。

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荒井由実/ひこうき雲 (EMI Records Japan)
ひこうき雲




ベルベット・イースター
https://www.youtube.com/watch?v=fkuOaugShsk

ベルベット・イースター (Diamond Dust Tour)
https://www.youtube.com/watch?v=3fAUA6HuMUY
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ブラームスはお好き? — 小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ [音楽]

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Seiji Ozawa (1992)

ヨハネス・ブラームスの交響曲の成立過程やその構造などについて、最近、全音スコアの野本由紀夫の解説を読んでいるのだがとても面白い。
バッハ、ベートーヴェン、ブラームスがなぜ、3大Bなどといわれるのかという説明が、まず納得させられる。自分こそベートーヴェンの直系であるとする絶対音楽派のブラームス陣営と標題音楽派のリストやワーグナー陣営との、本家と元祖の突っ張り合いみたいななかで、ブラームス派のハンス・フォン・ビューローが、ブラームスは 「ドイツ3大B」 だと唱えたのがはじまりであるのだけれど、その火種は、ビューローとワーグナーの間での、リストの娘であるコージマの取り合いだったりするのが、意外に生臭くてとても人間的だ。

コージマという女性がそんなに魅力があったのかどうかはともかくとして、野本の解説によれば、音楽史家カール・ダールハウスは 「19世紀後半は交響曲の危機の時代だった」 と規定したのだという。
つまりベートーヴェンの交響曲をその規範とした場合、それだけの品格の交響曲がそれ以後、生まれてこなかったということであり、それになんとか適合したのがブラームスの第1番だったのだ。だがその第1番の成立は、ワーグナーの《ニーベルングの指輪》に対抗して作曲されたというのが動機なのだというのである。
ブラームスの第1番はベートーヴェンの第10番であるというような言い方は、それがベートーヴェンのエピゴーネン的な音楽だとするとらえかたではなく、ベートーヴェンの正嫡としての音楽であるということを示している。第1番がベートーヴェンの第5番と同じc-mollであることは偶然ではないのだ。(作品番号のop.68がベートーヴェン第5番のop.67の次であるというのはどうなのだろうか。これは私が勝手に思いついたことであるが)

ブラームスというのは、すごいということはわかるのだが、もう一つ、抽象的というのとはちょっと違う感じにわかりにくい。その音楽の正体がなかなか見えないような気がする。たとえば、とても味がよいのだが何が入っているのかよくわからない飲み物のようである。
でも、野本の解説では (私はまだ第1番と第4番の解説しか読んでいないし、その全部が理解できるほどの素養はないのだが) その特徴が明快に示されている。第1番第1楽章の解説には、

 ブラームスはメロディアスな単一の主題をもとに作曲していない。ある
 いは《運命交響曲》のように特徴的なリズムに依存しているのでもない。
 主要主題自体がさまざまな動機の多層な組み合わせによる 「主題構成体
 thematische Konstellation」 (ダールハウスの用語) であり、その素材
 を全曲に張り巡らせることで、第一楽章を完成させているのである。
 (第1番/p.9)

とある。つまりインスピレーションによる何か印象的なメロディをもとにして、それを変形させヴァリエーションを重ねて行くというような方法論ではなく、ブラームスはもっと用意周到な計画性で作曲をしているのだという。

 そもそも変奏部自体が呈示部の展開的凝縮であった上に、呈示部も展開
 的手法で書き進められているので、展開部は 「展開」 だけを存在意義と
 しない。すなわち、ブラームスが展開部で採った戦略は、調的拡張と、
 新素材による 「暗喩」 である。(第1番/p.11)

暗喩とは、たとえばバッハのコラールの引用ないしはそれに似た旋律を用いることが、当時のリスナーに暗喩としての効果を与えたという意味なのだという。

ブラームスの作曲の特徴の技巧的あるいは人工的な表情は、第4番第1楽章の動機の解説でより明らかになる。
冒頭のメロディがまるで 「ため息」 のようであると感じた当時の人々は、a動機の部分 (h - g / e - c / a - fis / dis - h) に 「Mir fallt / schon wie- / der gar / nichts ein」 (自分にはまたもや何もメロディが思い浮かばない) という替え歌をあてはめて、そのメロディを揶揄したのだという。
そのメロディに対する野本の解説は、

 一見、ただメロディが 「ため息」 のように下行 ([右斜め下]) 上行 ([右斜め上]) を繰り返し
 ているだけのような印象を与える。しかし表層的な音を抽象化してみる
 と前半は下行する3度音列、後半は上行する3度音列からなっていること
 がわかる。なんと、主要主題が確保されるまでの18小節間に、オクター
 ヴ内にある12音のうち、じつに11音までが使われているのである (cis
 音のみが欠如)。(第4番/p.5)

下行する3度とは前述した (h - g / e - c / a - fis / dis - h) であり、これは (e = e / g - h / d = d / f - a / c = c) と続く ( = はオクターヴ跳躍の個所を便宜的に表記した)。
18小節の間にcis以外の11音が使用されているという指摘にびっくりして、一音一音チェックしてしまった。たしかにその通りで11音が使われている。それをただちにシェーンベルクに結びつけることには無理があるが、古くさい伝統的な外見を装っていながら実はそうではないというところにブラームスの特徴がある。

さらにこの2音ずつの音列を、その直後の音を加えて3音のペアとし、順次隣同士を各1音ずつ重複させるようにした和音に注目する。
 (h - g / e - c / a - fis / dis - h)
        ↓
 (h - g - e / e - c - a / a - fis - dis - h)
という意味である (最後のセットは4音)。これはe-mollにおける〈I〉〈IV〉〈V7〉である。

 この3度音列は3音ずつ、順に I (主和音)、IV (下属和音)、V7 (属七和音)
 を形成し、典型的な古典派和声法に合致する。その先は、バス音のcも加
 えて考えれば、VI、III (平行和音)、VII、IV (下属和音) と続くが、驚くべ
 きことに、古典派やロマン派では頻出する II やドッペルドミナント (属和
 音に対する属和音) が全く登場しない。あとでも再三触れるが、全体とし
 てIVの性格が強いことが、この交響曲の大きな特徴であろう。(第4番/p.5)

サンプルとしてブラームスの動画を探していたら、小澤征爾に行き当たった。1992年のサイトウ・キネン・オーケストラの演奏だが、NHKの古い放送録画である。この当時のサイトウ・キネン・オーケストラはすごい。ヴァイオリンのトップは潮田益子と思われるが、オーボエも宮本文昭の全盛期で、なにより小澤がはつらつとしている。音楽の理想の形態の見本がここにある。


Saito Kinen Orchestra Seiji Ozawa 1992 (NHKエンタープライズ)
小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ 1992 [DVD]




Seiji Ozawa, Saito Kinen Orchestra/
Brahms: Symphony No.1 in C minor Op.68 
(live 1992.9.5/長野県松本文化会館)
https://www.youtube.com/watch?v=7M7Q7BXh_is

Carlos Kleiber/Brahms: Symphony No.4 (1st mov./first part)
https://www.youtube.com/watch?v=yCaaPaQx5zg
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キース・ジャレット ―《サンベア・コンサート》を聴く [音楽]

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Keith Jarrett, 1978 (rollingstone.comより)

キース・ジャレットの演奏にはソロ・ピアノというジャンルがあって、プロモーションをそのまま受け売りするのなら完全な即興演奏ということなのだが、最も有名なアルバムは《Solo Concerts: Bremen Lausanne》(1973)、そして《The Köln Concert》(1975) であろう。
延々と30分も40分も途切れなく弾き続けるというスタイルで、これらは非常に評判となった。前者はLPで3枚のセットであった。

その勢いのまま、1976年に日本でのソロ・ライヴを録音してリリースされたのが《サンベア・コンサート》である。これは初出のLPでは10枚組、それをCDにしたのが6枚組という構成になっている。10枚組という枚数は、その当時、キース・ジャレットがいかにソロピアノというスタイルで売れたかという証左である (特に日本で)。

私は最初のブレーメン/ローザンヌ、そしてケルンは聴いた覚えがあるが、サンベアも少しは聴いたのかもしれないけれど、その全部は聴いていないのではないかと思う。つまりその程度の記憶しかないわけで、それは量的に多いということがまずプレッシャーとしてあるし、しかもそういうフォーマットが流行っている頃のハイテンションで聴くのならともかく、この21世紀になってから 「かつて、こういうソロピアノという形態の演奏がありました」 という歴史的事実としてそれを聴くというのはちょっとどうかな、という気持ちになっていた。

まず、完全な即興演奏というのは存在しない、と私は思う。それはかつてチャーリー・パーカーのインプロヴァイズに関しても書いたことがあるはずだが、パーカーには多くのストック・フレーズがあり、そのストックを瞬時にその場に合わせてピックアップして再現させることが即興であって、そのストック・フレーズが多ければ多いほど即興で演奏しているように見えるが、でもそうではないこと。とはいっても、その瞬時の対応力というのは誰にでもできるものではないので、それがパーカーのパーカーたる所以なのである。
もちろん、後から考えて、なぜここでこんな神がかったフレーズが出て来たのだろう、ということはあるのかもしれない。しかしそれでもそのフレーズは今までの経験値から自分の意識下の感覚が選び取って出現させたものであるはずであり、そこに神は介在していないのである。

それはキース・ジャレットにも同様に言える。何もないところに、天から何かが下りてきて音楽を紡ぐ、みたいなことがよく言われるが、それは美しい詩であり宗教的でもあるけれど、真実ではない。
キースの場合はフレーズではなく、一種の循環的な手クセのパターンが数限りなくあって、そのヴァリエーションをその場の雰囲気により選び取ることによって、だんだんと音楽が推移してゆく、というふうにとらえてよいのだと思う。

キースのこの当時のソロピアノの上手いところは、ひとつの循環的パターンから次のパターンに移っていく経過の作り方にあるといってよい。自然に徐々に変わっていく場合もあるし、無調風な音を介在させながら変わってゆく場合もある。

《サンベア・コンサート》を今までそれほど聴きたいと思わなかったのは、やはり枚数が多くて、すでにソロは食傷気味であるし、悪い表現をするなら 「どれも皆同じ」 とも思えるからだ。今回、タワーレコードからSACD盤でリリースされたので、これを機会に聴いてみようかと考えた。ちなみにECMの限られた何枚かがすでにSACDとなっているが、私の個人的感想をいえば、ECMの場合、普通のCDフォーマットで十分なのではないかと思う。それがその時代の音なのだ。

まだ最初の1枚しか聴いていないのだが、disk 1: 京都1976年11月5日を聴いてみる。音が意外にアヴァンギャルドで、変わったアプローチで入って行く。その部分がなかなか良い。キース・ジャレットの場合、ここからどういうふうに音が変わっていって、こういうリズムになって、というような形容はあまり意味がないように思える。全体の流れで、それが自分の聴いている気持ちにフィットするかどうかが問題なのだ。
彼のソロピアノには毀誉褒貶あり、神がかりなのを押し売りし過ぎるプロモーションや、クラシック演奏会を上回るような禁忌に対しての不満もあるようだが、私はコンサート自体にはあまり行きたいと思わないので関係ない。それにたぶん、現在のキースとこの70年代のキースの音楽性は異なるだろう。
そういう視点でいうと、この京都はかなり良い。全然長いとは思えないから繰り返し聴きにも耐えられるし、構成も大体良いが、最後の終わりかたがやや尻切れトンボかな、という感じはする。

サンプルとしてYouTubeを探したが、サンベアの音はほとんどなくて、東京のアンコールばかりで、他の演奏は削除されているのばかりだった。
この東京のアンコールのトラックは私の好みでいうとあまり良くない。パターンにステロタイプなにおいがするし、少しセンチメンタル過ぎる。しかしその分を差し引いても、この1976年がどういう時代だったかというのはこの短めのトラックからも、なんとなくわかるような気がする。
その翌年の1977年は最初の《スター・ウォーズ》であるエピソード4が公開された年である。もう昨夜になってしまったが、TVでエピソード5《帝国の逆襲》が放映されていたので、そのことに気がついた。とりあえず日本も、今よりはまともで元気だった時代のはずである。


Keith Jarrett/Sun Bear Concerts (tower records/ECM)
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http://tower.jp/item/4602141/

Keith Jarrett/Sun Bear Concert, Tokyo 1976 encore
https://www.youtube.com/watch?v=0JqiPJeTWB4
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微分音とテトラコルド ― ヤニス・クセナキス『音楽と建築』 [音楽]

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Iannis Xenakis, Olivier Messiaen (1977)

ヤニス・クセナキス (Iannis Xenakis, 1922?-2001) はルーマニア生まれのギリシャ人 (でも国籍はフランス) の作曲家であり建築家であるが、その確率論による音楽というのがどういうものなのかはよくわからないし、この本を読んでも全くわからない。
『音楽と建築』は以前に出された翻訳の改訂再版とのことであるが、その書評はクセナキスの略歴や作品の羅列に終始し、内容そのものについて語っている評はざっと見た範囲では見当たらなかった。私も全くわからないのだが、何となく面白い個所もあるので、前半部を闇雲に読んでみたが (正確にいうのなら 「読んでみようとしたが」)、結果として 「全然わかりませんでした」 と書くしかない。でもシロートなんだから 「全然わかりませんでした」 と素直に書いても許されるだろう、と最初に結論を書いておく。

〔確率論と作曲〕(1956) というのが最初のセクションである。
クセナキスはセリーが嫌いで、旋律線はポリフォニーの技法だとする。そしてそれが心理的境界線をつくって12音音楽の拡張を妨げているのだという。しかしクセナキスの用いる確率論においては、線でなく魂としてとらえることで作曲する、というのである (p.009)。これはその後のページに掲載されている〈ピソプラクタ〉(Pithoprakta, 1955-1956) を想定したうえでの言葉である。
彼は音の構成要素として 「持続時間」 「高さ (ピッチ)」 「速度」 をあげるが、これらの定義を数式により記述されている部分は全部飛ばし読みすることにして、確率論によって制御可能になったのは、音粒子や連続音の巨大集合の連続的変化であるという個所に注目する。

 平均値と偏差が集合の特徴を決定し、異なる方向に展開できる。そのな
 かでよく知られているのは、秩序から無秩序へ、またはその逆だ。ここ
 にエントロピーの概念が導入されるが、物理学と芸術を混合しないよう
 な慎重さが求められる。エントロピーの哲学的・目的論的解釈は、物理
 学の特定のマクロやミクロ領域では有効かもしれないが、確率音楽全体
 を動かす原理とみなすのは非常識だろう。(P.018)

クセナキスがこれを書いたのは1956年だが、その時点で、安易に 「エントロピー」 というような言葉を使うことをすでに戒めている。
そして〔三つのたとえ〕(1958) では、

 音楽こそどんな芸術にも増して、抽象的頭脳と感性的実践とが、人間的
 限界内で折り合う場所なのだ。(p.021)

ともいう。
三つのたとえのひとつめ、[空間のたとえ] のなかでクセナキスがこの時点で魅力的だといっているのはグリッサンドだ。

 音楽では、いちばん目立つ直線は、音の高さの一定の連続変化であるグ
 リッサンドだ。グリッサンドによって音の面や立体を構成するのは、魅
 力的で未来のある探求だ。(p.022)

しかしクセナキスがどのようにグリッサンドを認識しているかというと、

 グリッサンドにはさまざまな形態があるが、最も単純な均等に連続変化
 する音をとる。滑奏音は感覚的にも物理的にも速度という物理的概念と
 おなじとみなせる。それならば1次元ベクトル表示ができる。ベクトル
 のスカラーは両端の音程差と持続時間を2辺とする直角三角形の斜辺に
 なる。(p.011)

ということなのだ。これくらいの単純なことなら中学生数学だからわかるが、マクスウェル=ボルツマン分布とかになってくると、もうわからない。

[数のたとえ] においてクセナキスは、

 音列音楽では音は希薄にならざるを得ないし、小規模の合奏が偏重され
 る。(p.022)

これは、その前段の 「点描的な独自な形態」 というような形容と考え合わせれば、例えばヴェーベルンのような音楽に対する皮肉なのだと想像できる。そしてさらに攻撃は続く。

 じっさいには、音列的作品を聞いて書き取ることは、まずできない。非
 可逆性には心理的・生理的限界がある。形態 (ゲシュタルト) 理論やそ
 の公準によって、数学の曲芸的計算のつじつま合わせは無用のものとな
 った。しかも、何世紀も前から美術・音楽などの芸術分野では、数にと
 りつかれて、幾何学的・数的組み合わせの豊富さから作品価値を説明し
 ようとした試みは、無効だったことがわかっている。補助線・神聖三角
 形・黄金分割・異様に肥大したポリフォニーなどがその例だ。(p.022)

補助線・神聖三角形・黄金分割ときて、その後に 「肥大したポリフォニー」 と並列させたところで笑ってしまう。これは自作〈ピソプラクタ〉の正当性への導入だからだ。
三つのたとえの3つめは [気体のたとえ] であって、気体のキーワードはピチカートである。点が多くなることによって量的変化をもたらすというのは、本来質量を持たないはずの点が集合すれば質量を持つものに変化するという意味なのではないだろうか。

 ここでは思考は古典的ポリフォニーの枠組と細部へのこだわりから解法
 される。扱うのは形態と肌理 (テクスチャー) だ。(p.023)

テクスチャーという言葉が突然出てくるのが興味をひく。それはその次の、今まで出現してこなかった、理詰めと相反する結論めいた部分である。

 だが、作品の価値を保証するのは、最終的には直感と主観的選択しかな
 い。科学的基準による指標は存在しない。永遠の問題には解決はなかっ
 たし、これからもないだろう。(p.024)

この突然の叙情性のようなもの (揶揄して言っているのではない) が実はクセナキスの心情であり、数値的なものだけで処理できない部分への直感や主観こそが芸術の最も重要な一面なのだということである。
でありながら、クセナキスはそこで終わらない。
〔メタミュージックに向かって〕(1967) で彼は、情報論やサイバネティクスの信奉者をテクノクラート派と称し、対する感性信奉者とでも呼ぶべき者を直観主義者と呼ぶ。
テクノクラート派は通信技術ならともかくバッハの単純なメロディさえ説明できないし、対する直観主義者を、たとえば音楽を図形楽譜を見たときの視覚デザインの美しさで判断する図形派なのだと決めつける。図形記号を呪物化しているし、偶然性の音楽とはつまり即興に過ぎないというのだ。また、音楽に芝居をつけたり、ハプニングなどというイヴェントに逃避してみたりするとし、それは音楽への信頼が薄いし、音楽自体の否定であるとする (p.025)。このあたりのハプニングなどという言葉には、書かれた1967年という時代の風景が反映されている音楽観のように思える。

だがここで、クセナキスは [古代構造] として、古い音楽の解析と解説に入って行く。

 グレゴリオ聖歌は元来古代音楽構造に基づいている。9世紀以来西ヨー
 ロッパ音楽は急速に発展し、単旋聖歌を単純化・画一化して、現場から
 理論が失われた。(p.029)

あるいは、

 古代音楽は、すくなくとも紀元後数世紀まではオクターヴの音階や 「旋
 法」 などでは全然なく、「テトラコルド tetracord」 と 「システム」 に基
 づいていたと断言できる。(p.029)

というのだが、さらに

 中世以後の音楽の調性構造に視点が曇らされて、根本的な事実を見逃し
 ている。(p.030)

ともいう。テトラコルドという言葉から私は、小泉文夫を思い出してしまうのだが、クセナキスが語るのはもっとずっと昔のアリストクセノスの理論なのである。

アリストクセノスの理論 (→2017年12月27日ブログ) につづく。


ヤニス・クセナキス/音楽と建築 (河出書房新社)
音楽と建築




Aki Takahashi/Xenakis: Works for Piano (mode records)
Xenakis: Works for Piano




http://tower.jp/item/105126/

Yuji Takahashi/Xenakis & Messaen (日本コロムビア)
クセナキス&メシアン




Arturo Tamayo, Luxembourg Philharmonic Orchestra/
Xenakis: Pithoprakta
https://www.youtube.com/watch?v=nvH2KYYJg-o

Mari Kawamura/Xenakis: Evryali
https://www.youtube.com/watch?v=fn5F9m4Qf3w
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