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トマス・スタンコ《December Avenue》 [音楽]

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Tomasz Stańko

トマス・スタンコ (Tomasz Stańko, 1942-) の《December Avenue》は2016年6月にレコーディングされたアルバムである。収録地は南フランスのStudios La Buissonne, Pernes les-Fontaineとある。でも、それがどこであっても、いつであっても、スタンコの音は同じだ。冷たいひとしずくの音が流れて、すっと全ての風景を変えてゆく。いつでもそこでは12月の静かな木枯らしが響いている。

スタンコ・クァルテットは、前アルバム《Wisława》(2013) と較べると、ベーシストがルーベン・ロジャース (Reuben Rogers) に変わったが、ピアニストのダヴィ・ヴィレージェス (David Virelles)、ドラムスのジェラルド・クリーヴァー (Gerald Cleaver) は同じ。
スタンコのアプローチは、どんな曲を吹いているときでも、ひとつのモニュメントをいろいろな角度から見た解析結果のようで、光を透過させたネガフィルムに浮かび上がる物体のようでもあり、しかしなぜか懐かしいにおいを感じさせる。常に同じようでいて、でもどこなのか判別のつかない夢のなかの景色に似ていて、いつも違う場所なのかもしれない。
賑わいもなく色彩の乏しい町の、その街路をたどって歩いてみると、懐かしさの亡骸だけがとり残されている。そして、もつれて前に出て行かない足。しがみつく根は、冷え切った明け方の毛布だったりする。

アルバムはスローな〈Cloud〉から始まる。終わったような終わらないような装い。何曲か続くそうした静謐の連なりは5曲目の〈Burning Hot〉で打ち破られる。繰り返すベースのリフの上にアヴァンギャルドなピアノが重なる。ヴィレージェスのピアノが、ときとしてややフリーに駆けずり回るときがスリリングで彼の本領のように思える。

7曲目の〈Ballad for Bruno Schulz〉はポーランドの不遇な作家、ブルーノ・シュルツ (1892-1942) に捧げられた曲。その悲哀ともとれるトランペットの後の8曲目〈Sound Space〉では、ベースとピアノの音数の少ない対話のように思えて、突然ピアノがセシル・テイラー化する。

そして9曲目はタイトル曲〈December Avenue〉。トランペットの上行するテーマが印象的だ。全体の雰囲気はメインストリームなジャズといってよい。
10曲目の〈The Street of Crocodiles〉は、アルコ・ベースとブラシのスネアの上に展開されるトランペット、そしてピアノの内省的なつぶやき。トランペットもピアノも点描的で、ヴィレージェスはまた異なった一面を見せる。
11曲目の〈Yankiels Lid〉はベースの効果的な刻みから始まる、ミディアムの軽快な曲。マッコイ・タイナーを一瞬連想させるようなピアノだが、長くは続かない。そしてここでも長めのベースソロ。
もともとスタンコの音楽的ルーツは、アヴァンギャルドなスタンスのプレイであり、しかしそれは破壊的でも強迫的でもなかったために、ごく中庸でスタンダード風であるという、いわば誤解を受けながらそのまま年齢を重ねてしまったような面があって、そうしたプロフィールはチャールス・ロイドに似る。さりげなさの中に隠した棘はいまだに鋭い。

ピアノのヴィレージェスとベースのロジャースの使い方が上手いのも特徴としてあげられる。キューバ生まれのヴィレージェスには多彩なテクニックがあり、何でも弾けそうな予感がする。多分にフリー寄りであり、自身のアルバム《Continuum》ではフリー・ドラマーの重鎮、アンドリュー・シリルを起用している。

スタンコのフレージングは、一音一音の粒立ちがつぶれるようにつながってしまうときがあるが、それが彼特有の音を形成しているともいえるし、そのダークな音色はあいかわらず健在だ。エキセントリックではなく、といって枯れているわけでもなく、サウンドに滋味が滲み出てきているような感じがするのは年齢を重ねたためなのだろうか。
若い頃のもっとストレートで行き場のないような音と較べると、齢をとるのも悪くないと思えるのである。


Tomasz Stańko/December Avenue (ECM)
December Avenue




Tomasz Stańko/Wisława (ECM)
Wislawa




Tomasz Stańko New York Quartet/December Avenue trailer
https://www.youtube.com/watch?v=rB7GF8KWG4E

Tomasz Stańko Quartet:
live at Jazzklubb Fasching Stockholm, 2016.4.7.
(1曲目:December Avenue)
https://www.youtube.com/watch?v=eFsC-SHjDcU
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ヘンゲルブロックのロッティを聴く [音楽]

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Thomas Hengelbrock

トーマス・ヘンゲルブロック (Thomas Hengelbrock, 1958-) に興味を持ったのは、実はマーラーなのだが、彼の立ち上げたバルタザール=ノイマンの独ハルモニア・ムンディ盤が2016年末にまとめられてリリースされたので、まずそれを聴いている。

バルタザール=ノイマン・コーラス&アンサンブルはヘンゲルブロックのいわば手兵で、主に古楽へのアプローチをするために創立されたもので、まずコーラスが1991年に、そしてアンサンブルは1995年に結成された。このハルモニア・ムンディ・エディションはその創立25周年と20周年記念のリリースとのことである。

バルタザール=ノイマンというネーミングが最初はわからなくて、ノイマンといって連想するのはマイクロフォンだからゲオルク・ノイマンGmbHのスポンサードなのだろうか、などとバカなことを連想していたのだが、その由来はバルタザール・ノイマンというバロックからロココの頃の建築家の名前なのだそうで、音楽なのになぜ建築? という疑問が残るのだが、詳しいことはよくわからない。
ヨハン・バルタザール・ノイマン (Johann Balthasar Neumann, 1687?-1753) は非常に多くの教会や城館などを作ったが、その最も有名な建築物はヴュルツブルクのレジデンツ (Würzburger Residenz) であるという。

バルタザール=ノイマン・アンサンブルができて、コーラスとアンサンブルの両方が揃ってからの第1弾の作品がロッティのレクイエムであった。
アントニオ・ロッティ (Antonio Lotti, 1667-1740) はヴェネツィアの作曲家で、ヨハン・セバスティアン・バッハ (1685-1750) より少し前の人である。ヴェネツィア出身ということから見れば、アントニオ・ヴィヴァルディ (1678-1741) と同じで、当時は音楽の中心地はまだイタリアであったから、まさにバロック最盛期の頃の作曲家のひとりである。
弟子にドメニコ・アルベルティ (Domenico Alberti) やヤン・ディスマス・ゼレンカ (Jan Dismas Zelenka) がいるが、アルベルティはアルベルティ・バスという音楽用語由来の人である (アルベルティ・バスとは、ピアノの初歩の練習曲によく出てくる、左手のドソミソドソミソみたいな奏法のこと)。またボヘミアのバッハと呼ばれるゼレンカのことはヴァーツラフ・ルクス/コレギウム1704の記事ですでに書いたが (→2012年12月23日2013年01月02日ブログ)、目立つ録音がカメラータ・ベルンしかなかった頃と較べると、最近はずいぶん知られるようになったと思う。

さて、このハルモニア・ムンディ・エディションに入っているロッティの作品は、レクイエム、ミゼレーレ、クレドの収録されている盤と、叡智のミサ (Missa Sapientiae) である。サピエンティアエはバッハのマニフィカト243aと一緒に入っている。
レクイエムというとどうしてもモーツァルトとかフォーレ、さらにはブラームスなどを連想してしまうが、ちょっと構えてしまうようなそうしたレクイエムとは趣が異なる。
たとえばゼレンカだったら、やや素朴というかローカルなシンプルさを感じてしまうが、ロッティの場合はシンプルではあるが、それはルネサンス期から受け渡されたような正統的なシンプルさであり、ヴェネチア的な明るさも持っている。レクイエムの場合は明るさという形容が不適当であるかもしれないので、透明感といったほうがよいのかもしれない。
バロックが歪んだ真珠だとするのならば、バッハなどによって歪まされる前のクリアな質感を持っている。曲の表情は単一であり、ときとして明るく、そして愁いに満ち、というように様変わりするバッハのような複雑性は無いし、曲が流れて行くなかでの変化も少ない。それゆえにそのピュアなラインが心に沁みる。

まだ全部を聴いていないし、雑な聴き方しかしていなかった報いなのだが、BGMのようにして聴いていたら、いつの間にかミサ・サピエンティアエが終わり、次のバッハのマニフィカトに入ってしまっていて、それを知らずに、なかなか陰翳が感じられていいなぁと思っていたらバッハだったというオチに気づいて、ひとりで笑ってしまった。
つまりバッハと比較するのは無理過ぎるが、でもヴィヴァルディと較べてみるのならば、随分表情が違っていて、その澄んだ和声が心地よい。ヴィヴァルディがオレンジ色とすれば、ロッティは褪めたブルー。でも寂寥の色ではなく、なにものをも示さないブルーだ。

ロッティはヴェネツィアにあるサン・マルコ寺院に一生を捧げた人である。それは1683年、当時のサン・マルコ寺院楽長ジョヴァンニ・レグレンツィに音楽を学んだことに始まる。ロッティはやがてサン・マルコのオルガニスト助手となり、だんだんと地位を上げて1704年、37歳で第1オルガニストとなった。しかしサン・マルコ寺院の終身楽長に就任したのは1736年、69歳のときであった。
ロッティは1740年に亡くなるが、その墓のあった教会は後年、ナポレオンによりとり壊されてしまい、墓は不明となってしまう。翌1741年に亡くなったヴィヴァルディも共同墓地に入れられたため墓がない。これらヴェネツィアの作曲家たちの音楽が今も確実に残っていることが、せめてもの救いである。


Balthasar-Neumann -Chor & -Ensemble
Thomas Hengelbrock
deutsche harmonia mundi edition (harmonia mundi)
EDITION




Thomas Hengelbrock, Balthasar-Neumann -Chor and -Ensemble/
Lotti: Requiem aeternam
https://www.youtube.com/watch?v=_7Vuv60YPgM
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8年前のPerfume [音楽]

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この前、《関ジャム》でPerfumeを観てしまったので、衝動的に最近のアルバムを聴いてみた。最近といっても1年前の発売なのであるが、《Cosmic Explorer》である。去年の『装苑』にこの衣裳の表紙があったことを憶えていたこともある。ホントは映像のほうが良いのだろうけれど、とりあえず音だけでも、と思って。

というのはPerfumeは初期の頃に聴いていたのだけれど、あっという間にものすごい人気になってしまったので、まぁいいか、と思ってしばらく遠ざかっていたのである。

Perfumeの音はあい変わらずといえばあい変わらず。でも音のクォリティがさらに上がっているような気がする。ただ逆にいえば、あぁこういう音ね、という既視感ならぬ既聴感的な音もあって、人間ってすぐに慣れてしまうものなんだとも思う。
今、やっとのことで立花隆の武満徹本を読み出したところなのだが、当時、ミュージック・コンクレートという手法があって、まだテープレコーダーっきり無い頃だから、創った音、採集した音をひとつひとつ磁気テープに録音して、それらをつなぎ合わせて曲を作っていたのだそうである。音の断片の入ったそういうテープを壁に貼り付けて、そういうひらひらした吹き流しのようなテープがおそらく何百本とあって (いや、もっとかも)、それらの中から使いたい音を取捨選択するという気の遠くなるような作業をしていたのだ。もちろんサンプリング機器などまだ無いし、そもそもマルチトラック・レコーダーさえ存在しない頃である。
デジタル音の最先端である中田ヤスタカのサウンドを聴きながら考えていたのはそんなことだった。

Perfumeは最初にベスト盤を聴いて、それから《トライアングル》が出た頃で、見事にハマッてしまった。でもそれはもうすでに8年も前のことなのだ。
中田ヤスタカは基本的にヴォーカルも楽器のひとつとして捉えている。だから変調させても良いし、クチパクでも構わないのだ。そのいさぎよさがスゴい。

8年前にPerfumeについて書いていたことがあったのを思い出して、ひっぱり出してみた。
自分の過去の文章をあらためて読んでみると、今の私とちょっと感覚の違う部分があるかもしれなくて、あえて再録してみる。

たとえばライヴでもクチパクがあることについて、8年前の私はこう書いている。
「ジャック・ドゥミのシェルブールの雨傘は全編が歌詞になっているミュージカル映画だが、歌っているのはカトリーヌ・ドヌーヴでなく、ダニエル・リカーリという人だ。北京オリンピックの開会式で、パフォーマーと歌手が違うことが問題になったけど、そのうちパフォーマーと歌手が異なってもいいときが来るかもしれない。Perfumeのライヴを見ていて、そう考えた」
北京オリンピックという言葉が時代を感じさせるが、そしてまだオモテだってそういうことは起きていないが、でもそうなってもおかしくない。むしろCGとか、アニメ/声優という関係性のなかで職能の分離がもっと発展していく可能性もある。

〈edge〉についてはこんなふうだ。
「《トライアングル》付属のDVDでもっとも刺激的なダンスは〈edge〉である。このフリはつまりあえて英語で書いてしまうと、deaf & blindなのだと思う。マルソーの壁があるのはシャレだろうけれど」

〈edge〉の歌詞は当時、話題になった。

 誰だっていつかは死んでしまうでしょ
 だったらその前にわたしの
 一番硬くてとがった部分を
 ぶつけて see new world
 say yeh!

「see new world」 が 「死・ぬ・わ」 の語呂合わせというのがそれだが、今、読むと 「わたしの一番硬くてとがった部分をぶつけて」 という個所が鋭くささる。それに 「いつか死ぬ前に自分で死ぬ」 のだ。でも、そんなに深い意味はない。なぜなら音はサウンドでしかないからだ。母音 「い」 「う」 「あ」 の連鎖でしかない。

ただ、このアルバムとDVDの中心となっている曲は、Perfumeなのにあえて踊らないという〈I still love U〉である。これは今聴いても色褪せていない。

「DVDのトップにも入っていますが、このアルバムのメイン曲は I still love U です。youじゃなくUっていうのがプリンスっぽい。

 キミをどんなに想い続けても
 あたしにできることなんかなくて
 夕焼けみたいに沈む気持ちを
 胸にしまいこむ

「夕焼けみたいに沈む気持ち」 っていうのが妙に和風で、森高のディスカバー・ジャパン的な味があります。でもDVDの画像を見ると、これってマニエリスムですね。ズバリ言っちゃえば、キモチワルイかどうかのギリギリのところでやってる。

キモチ悪さは、サビの 「I still love U 抜け出せない」 のところにもあって、つまり4小節目と12小節目の最後が、短調にもかかわらずトニックマイナーじゃなくトニックで終止。これがキモチ悪くてキモチイイ!んです。繰り返し聴きのリピートに耐えます。

 震えた気がして電話を見て
 気のせいだとがっかりしたりもして
 次はいつになるとあえるかな
 思い続ける

「がっかりしたりして」 じゃなく 「がっかりしたりもして」、「あえるかなと思い続ける」 じゃなく 「あえるかな/思い続ける」、この違いが胸に痛いです」

と8年前の私は書く。
歌詞を聴かないはずの私が、細かいことに気がついているのはそれだけ聴き返していたのに違いない。
EQで音を補正するのは過去のことで、音をいじることは常に音を劣化させる方向へとシフトしている。むかしのAMラジオの同調がズレていくように、汚していくことが終着点で、フェイズもノイズも、すべてはダメージデニムと同じだ。

その他の曲については、
「〈NIGHT FLIGHT〉ってタイトルはサン=テグジュペリからのパクリです。そしてこのリズム・パターン、っていうかシークェンス・パターンはYMOの〈テクノポリス〉です。インダストリアル・ミュージック的な音が笑わせる (ホメ言葉です)。
あと最後の曲〈願い〉の出だしのメロディー部分は、鈴木あみの〈OUR DAYS〉ですね。これらのことってパクリっていえばそうなんだけど、たぶんワザとやってますよね~」

ああ、確かに。鈴木あみの後期はクォリティが低下していて音痴だったりするのにもかかわらず、そのレイドバックしたルーズさがなぜか心地よい。それはあまりにひねくれた見方かもしれないのだが。
でも最後のシメの言葉がもっと笑わせる。
「最後に、このPerfumeの3人のキャラ分担とノリって私はマジックナイト・レイアースだと思うんだけど」

その頃、CLAMPを読んでいたということもあるけれど、3人という単位はどうしてもそういうパターンになってしまうというのが、無難な解釈なんだろうと思う。でもレイアース、いいなぁ。そういうこと、最近の私は全然考えなくなってしまったし。

8年前のPerfume、あと2年経つと10年目の毬絵。あ、なんでもないです。
ところで《Cosmic Explorer》というのは……以下次号。


Perfume/TOKYO GIRL (Universal Music)
TOKYO GIRL(初回限定盤)(DVD付)




Perfume/COSMIC EXPLORER (Universal Music)
COSMIC EXPLORER(初回限定盤A)(2CD+Blu-ray)




Perfume/TOKYO GIRL
https://www.youtube.com/watch?v=vxl4gsvgEQY

Perfume/I Still Love U
https://www.youtube.com/watch?v=CZa4fyhQXBc

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《ドナウエッシンゲン音楽祭2015》を聴く [音楽]

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Mark Andre

ドナウエッシンゲン音楽祭 (Donaueschinger Musiktage) はドイツで開催されている現代音楽のイヴェントである。歴史的には1921年に始まった室内音楽祭が、第2次大戦後も何度か名称を変えながら継続されてきて、もうすぐ100年になろうとする伝統のある音楽祭である。
開催地のドナウエッシンゲンはシュヴァルツヴァルト (黒い森) にある人口2万人ほどの町である。シュヴァルツヴァルトという想像力を刺激する魅惑的な固有名詞から連想するのはメルセデスのシュトゥットガルトとかF1のホッケンハイムなど、自動車にゆかりのある地名であるが、ドナウエッシンゲンもダルムシュタットと並んで音楽の分野では有名な町である。
ナチスの強権により当初の理念と異なるプログラムを組まざるを得なかった時期もあり、その結果として戦後しばらくの間、評価を失ったが再び復活して現在に至っているとのことだ。

このドナウエッシンゲンの記録が、独NEOS盤でリリースされているのがずっと気になっていたが、その年によって枚数が異なっていたり、それにドナウエッシンゲンの基本的なポリシーは初演の曲ということになっていて、それを聴くのは一種の賭けである。いいかもしれないし、そうでないかもしれない。
以前の盤のなかにはブーレーズが振った年もあるのだが、とりあえず現時点で一番新しい2015年盤を聴いてみた。

収録されているのは6曲。作曲家は、ゲオルク・フリードリヒ・ハース、ヨハネス・ボリス・ボロウスキ、シュテファン・プリンス、マーク・アンドレ、フランチェスコ・フィリデイ、ヨアフ・パソフスキ。ん~、全然知らないや。

ざっと聴いてみたなかではマーク・アンドレの《„über“ for clarinet, orchestra and live electronics》が印象に残った。
冒頭、全然音が出て来ない。ヴォリュームを上げてみると、ノイズのようなごく小さな音が入っているのだが、音量がだんだん大きくなってきても各音は断片的で、連続した音の連なりにはなかなか達しない。ソロ楽器となっているクラリネットもなかなか本来のクラリネットの音を発さない。次第に音数が多くなってくると、パーカッシヴな音が支配的となる。そうした流れに覆いかぶさるようにして、クラリネットが音を引き摺りながらだんだんと正体を現してくる。
9’00”を過ぎてから、やや違うアプローチになり、クラリネットとオーケストラの音が増してくる。しかしオケの音は不穏だ。持続音と細かく変化するパルス的な音の錯綜。タイトルにライヴ・エレクトロニクスとあるが、そうした電気的な処理の音と生音との境目が曖昧になるように意図されている。
18’00”前後からもやもやした音が螺旋のように続き、それが終わるとクラリネットの早くて断続的なパッセージ。いつもバックグラウンドのどこかでセミが鳴いていたり鈴が鳴っているようなイメージ。22’50”あたりからの一定のリズムに乗ったクラリネットの、相変わらず断続的ないななきが繰り返される。
リズムが収まると、長く引き伸ばされた音が交錯し、27’50”頃から長いサステインを打ち倒そうとする打撃音が何度も炸裂する。
29’45”を過ぎてそれが収まると、ささやきと風、そしてその風の道をくぐもったクラリネットが通り過ぎる。強風は静まり、嵐の後の風のような、曇った音。バウンドするクラリネット。クラリネットは内省的でいつもヴェールがかかっている。それがときどき薄くなって、実像が垣間見える。
34’30”を過ぎてから音は沈黙し、ごく微細に。ほとんど停まってしまったような音楽。36’40”より後はかすかに音の残滓があるだけで、やがて音楽そのものの死となる。

現代音楽といってもその音の作り方に、ともするとステロタイプな印象を感じるときがある。それはごく私的で感覚的なもので、どこがどうだから、という理論的なものはない。アンドレのこの曲から感じられる潔癖さと鋭敏さは、そうした親密さや既視感からやや離れているが、それでいて孤絶感のような暗い表情とも違う。いまは曇り日なのだが、これから晴れるのか、それとも雨になるのかわからないような、繋留された場所・時間の不安定なここちよさのようなもの。スフォルツァンドは計算されていて、決して暴力的にならない。ほとんど音の無い部分に、なにかの音がある。

マーク・アンドレ (Mark André, 1964) はヘルムート・ラッヘンマンの弟子であり、フランス人だがドイツで作曲活動をしていて、名前のAndréのアクサンテギュがとれている。タイトルには《...als...》とか《üg》《hij》、そしてこの《über》など、略号のような短いものが多い。また、音価や音高に対する指示が厳密なのが特徴だとのことだ。
たとえば《Contrapunctus für Klavier》(1998/1999) という、やや古い作品が楽譜付きでYouTubeにあったのだが、煩雑に変わる拍子、強弱記号、3:♪といった指定など、難解過ぎる書法である。

アンドレ以外の曲では、フランチェスコ・フィリデイの《Killing Bach》が聴きやすい。キリング・バッハというタイトルは刺激的だが、一種のコラージュの積み重ねであって、ときどき懐かしい音が湧き出すように現れるのが過去の滅びた風景を幻視するようである。
ゲオルク・ハースの《Oktett für Posaunen》は脱力したように下降するトロンボーンがキモチワルくてインパクトがあるので、ぬるぬるした感触が好きな人にはたまらない曲かもしれない。

尚、アーチー・シェップに《Life at the Donaueschingen Music Festival》というジャズのアルバムがあるが、1967年のドナウエッシンゲンでのライヴ (SWF-Jazz-Session) とある。フリー・ジャズが音楽祭の一環としてセッティングされたのだろう。演奏日の1967年10月21日はジョン・コルトレーンの死後約3カ月であり、アルバムのタイトル曲〈ワン・フォー・ザ・トレーン〉(といってもこれ1曲だけなのだが) は、コルトレーンへのレクイエムという意味合いが込められている。


Donaueschinger Musiktage 2015 (NEOS)
Various: Donaueschinger Musikt




Mark Andre: „über“ for clarinet, orchestra and live electronics
https://www.youtube.com/watch?v=71So38QKPGI&t=2048s

Mark Andre: Contrapunctus für Klavier
https://www.youtube.com/watch?v=MjE6uTVrUNU
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トミー・エマニュエル ―《Live at Sheldon Concert Hall》 [音楽]

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Tommy Emmanuel

前ブログでジャズマスターのことを書いてから、憑きものに魅入られたように、しばらくギターの曲ばかり聴いていた。私の聴き方は断片的で、しかもジャンルがめちゃくちゃだから、ところどころにピンポイントでギター・ヒーローが存在する。
ブルースギターといえばロバート・ジョンソン、そしてジャズの始祖といえばチャーリー・クリスチャンの名前があげられるが、確かにルーツではあるのかもしれないが、2人とも若くして亡くなっているのであまりに曲数が少なすぎるし、あくまで歴史上のギタリストという位置になってしまっている。それよりソリッドボディのエレクトリック・ギターの始まりは誰なのだろうか。そのあたりが判然としない。

リック・ニールセンがカッコイイと思っていた時期があって、《In Color》(邦題:蒼ざめたハイウェイ) を繰り返し聴いていた。もっともチープ・トリックがメジャーになったきっかけはそれより後の武道館ライヴであるが、私が聴いていたのはコクトー・ツインズを後追いで聴いていた頃と同時期だから、何でそんな後になってから突然注目してしまったのか、というのが謎である。何か触発されることがあったのかもしれないが、たぶんその頃、たまたま聴くものが無かったということなのかもしれない。
チェック柄大好きでいつもキャップ、ヘンなかたちのギターだったりして、エキセントリックにおどけて見せているようなのがリック・ニールセンのキャラであるが、それでいて実はちゃんと弾いていて、しかもとても上手いというそのギャップに惹かれたのである。そしてやや時代錯誤的なアイドル・ポップみたいな路線に懐かしさのようなものも感じていた。

しかし決定的なギター・ヒーローはトミー・エマニュエルである。ジャンル的にはカントリー系でそのルーツはチェット・アトキンスあたりなのだろうが、ギターを打楽器的に使うあたりに、ピアソラが楽器を叩くのと同じような衝撃を感じたのがその最初である。

トミー・エマニュエルはオーストラリア人であるが、オーストラリアというのは地理的にやや不利なのだろうか。オリビア・ニュートン=ジョンだっていたんだし、今の世界に地理的な差は無いように感じるが、でもアメリカやヨーロッパに較べるとオーストラリアはなんとなく辺境だ。それにタル・ウィルケンフェルドの場合もそうだが、オリジナルなオーストラリア盤だと価格が高いし入手しにくい。流通的に考えるとむずかしいのだろう。
そんなこともあるし、ギター1本でインストゥルメンタルが主体というスタイルのため、トミー・エマニュエルの知名度は、特に日本ではそんなに高くないような気がする。

メディアとして入手しにくいのにYouTubeにあるライヴ動画は多いというのが何とも不思議なのだが、最近の演奏もいいのだけれど、やや昔の収録年だが最も油の乗っているように感じられるのが《Live at Sheldon Concert Hall》での演奏である。
演奏時間は2時間に近く、ラフでワイルドでギターは消耗品と割り切っているような感じもするが、そのリズムとスピード感は比類ない領域にある。常に音楽に対する喜びを聴くことができるのも彼の特質で、能天気でスポーツのような装いに騙されて、聴き出すと、つい全部聴いてしまうのが難点である。

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Cheap Trick/In Color (Sbme Special Mkts.)
In Color




Tommy Emmanuel/Live at Sheldon Concert Hall
(Mel Bay Publications, Inc.)
Live at Sheldon Concert Hall [DVD] [Import]




Cheap Trick/Surrender Midnight Special
https://www.youtube.com/watch?v=LqB9lhHqmsE

Tommy Emmanuel/Live at Sheldon Concert Hall (全)
https://www.youtube.com/watch?v=2K_-nYymYdM
あえてトミーらしいリズム感からちょっとズレるが
ハーモニクスを多用したミッシェルもいい (1:19:06~)
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ジャズマスターの蠱惑 ― Rei そして大村憲司 [音楽]

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Rei

『ギターマガジン』2017年4月号の特集は 「恋する歌謡曲。」 というタイトル。だがその内容は雑誌の性格上、全盛期の歌謡曲のバックで演奏したギタリストについてである。スタジオ・ミュージシャンあるいはツアーのサポート・メンバーとしてのギタリストの人たち。
キャンディーズとかピンク・レディは歌謡曲なのであって、J-popではない。もちろん、J-popとして、ひとくくりにすることもできるが、その頃の演歌をも含めた楽曲は、歌謡曲と形容したほうがしっくりする (しかし、それにしても各記事のトップにあるこれだけ似ていない歌手のイラストというのも最近は珍しい。わざと昭和の雰囲気を出そうとしたのだろうか)。

雑誌の最後のほうのページに、広告を兼ねたようなエピフォンの記事が掲載されていた。ギターを試奏しているのはReiという、24歳のギタリスト&シンガーソングライターである。早速、動画サイトで検索してみた。ライヴの動画とPVとがあったが、PVはあまりにシンプルで様式的で、かえって彼女の本質が見えにくいように思われる。対してライヴは尖鋭だ。
ピンクのジャズマスターを弾きながら歌う。歌は、ちょっとどぉ? という感じのときもあるが、ギターの鳴らし方はラフに見せていて、相当に上手い。
それにジャズマスターは特殊だ。ストラトやテレキャスなら正統派だが、ジャズマスターはスタンダードから 「外した感」 があって、少しスノッブで、ややワイルドで、かなりダークな感じを持ってしまう。もともとはそんなタイプのギターではなかったはずなのだけれど、ガレージパンクからニューウェイヴ、オルタナといったミュージシャンが好んで使ったりするうちに、そういうイメージになってしまった。Reiは他にブルーのリッケンバッカーも使うが、やはりピンクのジャズマスターのほうがキャラが立ってみえる。

それではエピフォンの広告記事に連動している動画はどうかというと、それはエピフォンのマスタービルト・センチュリー・コレクションという、比較的廉価なエレアコのプロモーションであるが、アコースティクな楽器のためか、ブルース一色である。タイプの異なる楽器を試奏して、その音の特徴とか弾いた印象をコメントしているのだが、明快で堂々としている。楽器によって弾く時間やコメントに長短があるのは好き嫌いが現れているのだろう。
でも、ほんの数フレーズなのに、すごく渋かったり、あるいはロバジョンまで弾いてみたり、プロモーションとしてはなかなかよくできている。
大きめのボディの楽器に対して、女の子にはサイズが大きめなんだけど、そのちょっと大きめなのを女の子がガシガシ弾くのがカッコイイみたいなコメントをしていて、思わずそんな言葉にだまされて買ってしまうひとだっているような気がする。

さて、歌謡曲特集だが、ギタリストのひとりとして大村憲司のページがあった。大村憲司は、まず赤い鳥に参加、その後幾つかのバンドを経て、YMOが売り出し中の頃のサポート・メンバーとして知られる。YMOの3人に矢野顕子、大村憲司、それに松武秀樹の6人で、海外で精力的なツアーをした。ギターは当初、渡辺香津美であったが、途中で大村に変わっている。
だが私のなによりも偏愛する大村は、大貫妙子作品におけるギターワークにある。特に《A Slice of LIfe》(1989) は最もほの暗い表情の大貫を感じさせる美しいアルバムである。ロック系の曲を大村、クラシカルな曲をジャン・ムジーが担当。大村の創りだした音は、やや深いリヴァーブのなかに佇むグループ・サウンズの頃のような懐かしい音色を持ったギター。
〈もういちどトゥイスト〉はまさに古風なステップを連想させるツイストで、それは〈果てなき旅情〉や〈ブリーカー・ストリートの青春〉と並んで郷愁を誘う情景に満ちている。具体性にもう一歩届かない分だけ、過去は観念的な神話のようにいつまでも遠いままだ (この頃の大貫妙子のことはすでに書いた →2014年08月19日ブログ)。

いつだったか、YouTubeで偶然見つけた動画がある。それはインストゥルメンタルなギターが日本で大ブームの頃、つまり60年代のヴェンチャーズなどの楽曲によるいわゆるエレキ・ブームを回想する1997年09月02日のコンサートで、タイトルは 「僕らはエレキにしびれてる」 とのことである。萩原健太が司会をしている。その最後に大村憲司が演奏をしているが、使われているギターはジャズマスターであった。ヴェンチャーズの〈Surf Rider〉とシャドウズの〈Spring is Nearly Here〉の2曲、〈サーフライダー〉はサーフィン・チューンのなかの1曲で、コピーはテクニカルなアーミングを含めて完璧であり、何よりその選曲がマニアックである。サーフィンといえば普通なら〈Piprline〉か〈Wipe Out〉なのに (〈Spring is Nearly Here〉ではストラトに持ち替えている)。
〈サーフライダー〉はアルバム《Surfing》(1963) の収録曲で、この頃だとギターはたぶんモズライトではなくまだフェンダーのはずで、ヴェンチャーズは後年、ガレージ系が流行したときその系譜のなかで再評価されたが、そのブーミーな音は当時のエフェクト・レヴェルからすれば非常に際立っていた (wikiによればモズライトの使用はアルバム《In Space》(1964) からとあるが《Surfing》から使用していたとする情報もあり、正確な時期は不明である。尚、実は〈サーフライダー〉は《Surfing》より前のアルバム《Mashed Potatoes and Gravy》(1962) に〈Spudnik〉として収録されていた曲のタイトルを変更したもので、だから本来はマッシュポテト [というダンスのステップがあったとのこと] の曲である。スパドニックとは当時のソ連の人工衛星スプートニクのこと。またリリース年についてはwikiを参照したが、オフィシャルサイトはwikiと異なっている)。

山下達郎は、ヴェンチャーズが日本のエレキ・ブームというくくりの中でだけのレジェンドとして過小評価されるのを危惧していて、また初期に日本で出されたCDの音の出力レヴェルが低いと言い、もっとVUが振り切れるくらい高くて良いのだ、と自らプロデュースしてリリースさせた経緯がある。
アナログ・テープに記録された太い音がデジタルで痩せてしまうのが許せないということだろうが、何より当時、ごく短い期間であったにせよ、歌を伴わないインストゥルメンタルが日本で大流行したという現象は特異である。

『ギターマガジン』の記事によれば、大村憲司はやや狷介な性格であったようにみうけられるが、それは音楽に対する理想が高かったことにもあるのだろう。そしてギターは何よりも音色である。大村憲司の音は、そこに単なる音楽以上のなにかを包含している。
しかし残念ながら大村は 「僕らはエレキにしびれてる」 コンサートの翌年、病没してしまう。享年49歳であった。

ジャズマスターを弾くギタリストといえばもう一人、マイ・ブラディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズがいる。シューゲイザーのカリスマであるマイブラだが、そのアルバム《Loveless》のジャケットはジャズマスターだと思えるし、ああした音を出すために有効なヘヴィーさをもジャズマスターは兼ね備えているように思える。轟音のなかに静寂がある。これはメタファーではない。(マイブラとかコクトーズのことを書くと、なぜかアクセス数が高い。ありがとうございます。マイ・ブラディ・ヴァレンタインはたとえばここ →2013年04月19日ブログ。コクトー・ツインズ→2013年08月08日ブログ。でもたいしたことは書いてないです)

以前、仕事でお世話になった先輩で、昔、ヴェンチャーズなどを聴いて (弾いたりもして) いた人がいた。その人がジャズマスターを買ったという話を聞いた。モズライトでなくジャズマスター。う~ん、わかってますね。


ギターマガジン2017年4月号 (リットーミュージック)
Guitar magazine (ギター・マガジン) 2017年 4月号 (CD付)  [雑誌]




Rei/ORB (Space Shower Music)
ORB




大貫妙子/A Slice of Life (midi)
スライス・オブ・ライフ(紙ジャケット仕様)




My Bloody Valentine/Loveless (CREAI)
LOVELESS




Rei meets Epiphone Masterbilt Century Collection
(下にスクロールすると動画あり)
http://www.digimart.net/magazine/article/2017031302445.html

Rei/black banana (live)
https://www.youtube.com/watch?v=rcWNjx70F5U

Rei Official: Space Shower News
https://www.youtube.com/watch?v=x6Kc15lh4nM

大村憲司/Surf Rider~Spring is Nearly Here
live 1997.09.02
https://www.youtube.com/watch?v=yh5N7BxSyi4

MyBloody Valentine/To Here Knows When
live Fuji Rock Festvial 2008
https://www.youtube.com/watch?v=3DEnwUAzPG4
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レトロスペクティヴなライヒ —〈violin phase〉 [音楽]

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Steve Reich

ノンサッチの《Steve Reich Phases, A Nonesuch Retrospective》を聴いている。
スティーヴ・ライヒの70歳記念に出されたCDセットということだが、今、ライヒはすでに80歳だから10年前のものだ。ノンサッチで録音された作品の集成なのは当然だとして、私の好きな〈violin phase〉が入っていなかった。タイトルは Steve Reich Phases なのに (よく調べてから買いましょう)。

というようなどうでもいいことはさておき、ライヒの〈プロヴァーヴ〉が効果的な小道具として使われているリチャード・パワーズの《オルフェオ》について私はしつこくも繰り返し書いているが、〈プロヴァーヴ〉を聴く個所はこの小説の最も美しく求心的なエピソードであり、それは砕けて落ちる青春の残滓である。そこに自らのつたない類似の記憶を重ね合わせるような行為も、あながち見当外れではないだろう。
《オルフェオ》の主人公エルズは、すでに教授職を退役した作曲家であったが、先日新聞でポール・オースターの『冬の日誌』の発売広告を見たとき漠然と思ったのは、すでに冬の時代が到来しているということなのだ。〈プロヴァーヴ〉が青春の喧噪の象徴とするのならば、ドビュッシーの〈12のエチュード〉は静謐と失意の死に限りなく近い。それは作曲家が書いた時期が年齢的にそうだったからなのではなく、曲があらかじめ持っているプロフィールを、今という時代が明確に示すからである。

〈violin phase〉の動画を探していたら、偶然、その楽譜のpdfを見つけてしまったが、こういうのは著作権的にちょっと、と思うので見るだけにとどめておく。サブタイトルとして、for violin and pre-recorded tape or four violins とある。つまりひとりでも演奏できるということである。作曲したとき (1967年) にはもちろんハードディスク・レコーディングなんて存在しないから、磁気テープによるテープレコーダーを使用することが前提となっている。
4人で演奏している動画もあったのだが、ひとりからふたり、ふたりから3人と増えていくときの入り方が映像で見るとわかりやすい。曲はミニマル・ミュージックの手法の執拗な繰り返しのパターンで、わかりやすく言えば輪唱をしているような感じなのだが、それが少しずつズレていって、また少しずつパターンが変わりながら重なることによって、一種のモアレ (干渉縞) のような状態になり、その重なりかたによって誰も弾いていないはずの音が聞こえてくるような構造になっている。つまりそれが phase である。

基調となっている10個の音の繰り返しは、楽譜を見ると6個目の音から始まっているアウフタクトで、でもこれがそのうちにズレてゆく。ただリズムは一定で、永遠の無限ループを刻む。モートン・フェルドマンでもそうだったが、実際に書かれている音とリスナーが聴く音のイメージとは異なることが多くて、むしろその錯覚のようなものを起こすように/利用するように書かれているというのがその真相だ。それは偶然の産物である部分もあるかもしれないが、多くは意図して書かれる。だから何? というふうに疑問を提示することは可能だが、その回答は 「何でもないんだから」 なのである。すべてが説明できるのならばそれは音楽ではない。

ジョン・ケージの作品のように、偶然性による音をその重要なファクターとしている作曲方法もあるが、ライヒのこの作品はかなり周到に意図された音を出そうとしていて、その志向が心地よい。音が単純な繰り返しであればあるほど、それはかえって抽象の装いを持つ。

最近知ったのだが、かつてのソヴィエト連邦の指揮者ムラヴィンスキーは、時の偏執的為政者の難癖に屈しなかったのだという。あのショスタコーヴィチでさえ、その作品が退廃的だと脅されたのに。パワーズも書いていたように 「プラトンから平壌まで、音楽を規制しようとする動きは尽きることがない」 のだ。なぜならそれは言葉の概念を超えて抽象的だからである。


Steve Reich Phases, A Nonesuch Retrospective (Nonesuch)
Phases: A Nonesuch Retrospective




Steve Reich: Violin Phase
https://www.youtube.com/watch?v=LimnkPiP9QA
or
https://www.youtube.com/watch?v=i36Qhn7NhoA
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失われたとき、見出されたとき ― 児玉桃《Point and Line》 [音楽]

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Momo Kodama (http://www.concertclassic.com/より)

ECMからリリースされた児玉桃の《Point and Line》を聴く。
ウゴルスキのメシアンについて書いたときに、この児玉桃のメシアンについても少しだけ触れたけれど (→2017年02月12日ブログ)、それは児玉のECMからの1stアルバム《La vallée des cloches》に収録されているメシアンの〈ニワムシクイ〉についてであり、ラヴェル、武満、そしてメシアンという3者からの選曲のなかの1曲であることは過去に書いた (→2014年02月22日ブログ)。

さて、ECMからの2ndアルバムである《Point and Line》はドビュッシーと細川俊夫という組み合わせである。ところがあまり予備知識もなく、いきなり聴いてみたらちょっと驚く。
収録曲はドビュッシーの《Douze Études pour piano》と細川の《Étude I~VI for piano》で、つまりどちらもエチュードと名付けれた作品なのだが、この2人の作品がほぼ交互に入っている。ドビュッシーは12曲、細川は6曲なので、ところどころドビュッシーが続く。
それだけでなく、それぞれの並べ方も番号順ではないのだ。1曲目がドビュッシーの11番、2曲目が細川の2番、3曲目がドビュッシーの3番、4曲目が細川の3番といった状態である。
18曲のエチュードがシャッフルされて配置されていると思えばよい。

なぜそのようにしたのか、ということは解説等で述べられているので、そういうコンセプトでアルバムを作るのも面白いとは思うのだけれど、あえて私の好みを言うのならば聴きにくくてしかたがない。なぜなら私はCDは一種のアーカイヴとしてとらえているからである。ドビュッシーの12曲のエチュードを聴くのなら、それを全部聴くこともあるけれど、第6曲目だけ聴きたいこともある。そのとき、6曲目がtrack6にあるのが便利なのである。
もちろんCDプレーヤーで曲順をプログラミングし直して聴くとか、自分で新たに曲順を変えてCD-Rを作ってしまうということも可能だけれど、それは本末転倒である。逆にこのようにシャッフルして聴くという聴き方だってあるが、でもそれはあくまでリスナーの好みなのであって、シャッフルを強要されるのとは異なる。

このアルバムは、たぶん、この曲順で聴いてもらいたいという意志のもとに作られているのだ。
ひとつの仮説として、ドビュッシーの第1番を最初に持ってくるのを嫌ったのではないかと私は思う。このドビュッシーのエチュードは、エチュードといってもショパンのエチュードと同じく、非常に高いテクニックを必要としていて、実際には練習曲ではなくて、あくまでコンサート用の曲目であることはショパンのエチュードと同じである。というよりショパンのエチュードへのリスペクトと考えたほうがよい。
だが残念なことにショパンのエチュードのような華がない。それはドビュッシーだからしかたがないといえばしかたがないし、その、華という安易な言葉でくくれるような範囲の外にドビュッシーはあるのだから、と思えばよいのだが、第1番は〈Pour les «cinq doigts» ―d’après Monsieur Czerny〉(五本の指のために―チェルニー氏による) というタイトルで、ドレミファソファミレドレミファソファミレといういかにも練習曲風の音で始まり、そこにとんでもない音が重なり、やがて崩れていくという過程を通してチェルニーの練習曲をおちょくっているのだ。面白いといえば面白いし、相当高度なテクニックも必要とされるのだけれど、最初にこのドレミファソファミレが聞こえてくるのはイヤな感じもする。それはシューマンのダヴィッド同盟に似た笑えないギャグみたいにとれなくもない。
それでこの第1番を、なかのほうに閉じ込めてしまおうというのが真意なのではないか、と私は勝手に推理するのである。なによりも、第11曲を最初に持ってきたかった、というのもアリである。

しかし曲を、しかも2人の、年代も異なった作曲家の作品をシャッフルして配置するとどうなるかといえば、それぞれの曲が屹立しているという聴き方をされたいと演奏家とプロディーサーは思っているのかもしれないが、むしろ全体が靄のなかに存在しているようで、ベクトルの方向がよくわからないし、私にはその説得性や必然性があまり感じられないのだ。

ちなみにこのドビュッシーのエチュードには内田光子の演奏があり、その動画もYouTubeで見ることができるが、内田と児玉の個性の違いがくっきりと明らかになって大変興味深い。
児玉桃には、どんな難曲を弾いているときでも 「どうだすごいだろう」 感がない。たとえばラヴェルの〈道化師の朝の歌〉もさらりといつのまにか過ぎてしまうような印象を受ける。児玉にとってそうした曲を楽譜の通りになぞれるのは当たり前なので、課題はその先にあるからだ。

たとえばジャズのアルバムにおいては、最初にリリースされたときの曲順に人はその印象を左右されるものである。1曲目がこれ、その次に2曲目がこれ、という記憶が何度も聴くことによって刷り込まれているからで、最近のCDでやたらにオルタネイト・テイクや未発表の曲が増やされていると、違和感ありまくりのことがよくある。
チック・コリアの《Now He Sings, Now He Sobs》というアルバムは私の聴くほとんど唯一のチック・コリアなのだが、再発のCDには〈Matrix〉から始まる盤があって、気持ち悪くてあらためて買い直したりしたものである。〈Steps―What Was〉から始まらないとナウ・ヒー・シングスではない。
でも、次に何が出てくるかわからないというベストヒット盤的な聴き方だってあるのだから、曲順にこだわるのは固陋に過ぎるのかもしれないという迷いもあるのだ。

そういうポピュラー・ミュージックのアルバムのプログラム・ビルディングに似た意識が、この《Point and Line》にはあるのではないかと思う。つまりECMはあくまでジャズから始まったレーベルであり、だからアルバム全体をひとつのイメージとしてとらえているという考え方も成り立つ。そのほうが児玉の個性は引き立つから。
だがそれは逆にいえば、一種のインスタレーション・ミュージック的なムードをも連想させるし、もっといえば単なるBGMに堕してしまう危険性もあるような気もする。曲をバラバラに拡散させることはオブジェとしては面白いが求心性は弱まるし、この場合、ピアニストのプロフィールは明確になるが、コンポーザーに対するインプレッションは飛散する。

普通のクラシックCDのようなステロタイプでないもの、というECMの方向性はわかるような気がする。それはかつてのアルヴォ・ペルトであったし、そして境界線上に位置するようなエレニ・カラインドルーでもあったはずだ。だがキース・ジャレットがいくらクラシックを弾いても、それはジャズ・ピアニストとしてのクラシックでしかないという限界をかえって色濃く見せてしまったのもまたECMなのである。
以前は見やすかったecmrecords.comが、最近は妙にデザイン優先で見にくくなったのと、音楽の本質よりもスタイルをあまりに気にし過ぎるのはどこかで通底しているのかもしれない。


Momo Kodama/Point and Line (ECM)
Debussy/Hosokawa: Point & Line




児玉桃/ECM PV: Point and Line
https://www.youtube.com/watch?v=j--4Cn5EzBo

内田光子/Debussy: 12 Études
https://www.youtube.com/watch?v=oK8AuyAjOsY
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アート・リンゼイを巡る人びと ― 別冊ele-king第5号〈アート・リンゼイ〉 [音楽]

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別冊ele-king第5号の〈アート・リンゼイ〉をぱらぱらと読んでみた。
アルバム《Cuidado Madame》はリンゼイの13年ぶりのソロアルバムだということで、そのプロモーション的な意味あいがあるのだろう。でも私はリンゼイについてはほとんど知らない。

cinra.netというサイトにリンゼイのインタヴュー記事があって、それによればリンゼイが初来日したのは1985年、トランペッターの近藤等則に招かれて、ファイブハンドレッドスタチューズというバンド名でツアーをしたのだという。メンバーはジョン・ゾーン、レック (FRICTION)、山木秀夫とのこと (Five Hundred Statues って五百羅漢ですね)。

近藤等則はアヴァンギャルドなジャズ・トランペッターでありながら、他のジャンルの演奏者と積極的にコラボした人である。フュージョンの古語としてのクロスオーヴァーでなく、わざと異種の音楽とのクロスオーヴァーにより刺激的な音を創り出すという考え方を持っていたようである。
たとえば浅川マキ《CAT NAP》(1982) とかエレファントカシマシ《東京の空》(1994) といったアルバムに参加している。

ファイブハンドレッドスタチューズの前年の1984年に、近藤はTOKYO MEETINGというイヴェントを主催したが、そのリストを見ると、ペーター・ブロッツマン、渡辺香津美のようなジャズ系の人とともに、ヘンリー・カイザー、坂本龍一といった、その頃まさに境界的なポジションにいた人たちが集められている。
その後、リンゼイは1985年の坂本のアルバム《Esperanto》に加わったり、繰り返し坂本と共演している。

しかしリンゼイのギターは単なるアヴァンギャルドではなく、その根本的な理念が異なっていることが注目すべき点である。たとえばギタリストだったらヘンリー・カイザーはそのエフェクトを含めて十分に変態だし、デレク・ベイリーはアヴァンギャルドの典型ではあるが、そのギターテクニックそのものは伝統的なジャズを踏襲した手法であり、一種のアカデミズムがそのルーツである。たとえば恒松正敏だったらベーシックはロックであり、ハウリングやカッティングのヴァイオレンスさがパンキッシュではあるが、そこから見えてくるコンセプトがアヴァンギャルドであるだけで、出音は尖鋭ではあるがアヴァンギャルドではない。
しかしリンゼイの11弦ギター (12弦から1本足りない) から出てくる音はノイズであり、それはチューニングをしていないというウソか本当かよくわからないセッティングのためである。

そうしたアヴァンギャルドさのスケールから見た場合、デレク・ベイリーの最もアヴァンギャルドな演奏は、楽器としてのギターの通常の音が出ていないemanem盤のアンソニー・ブラクストンとのデュオ (1974) であると思う。
そしてベイリーの80年代のアルバムにはジョン・ゾーン、ジョージ・ルイスとの《Yankees》(1983/Celluloid) があるが、つまりこの当時、ジョン・ゾーンというのはトレンドとして存在していたような印象がある (私はジョン・ゾーンがよくわからないので、なんともいえないのだが)。

さて、本に戻ると、アート・リンゼイとカエターノ・ヴェローゾの対談が掲載されている。2人のしゃべりかたは非常に親しい人同士の、途中を省略した会話だから、わかりにくいかもしれないがとても心に響く。たとえばリンゼイは、

 ナナー (ヴァスコンセロス) にいったんだよな。ボレロをつくってよと。
 彼は 「いや、ボレロなんてやらないよ」 って。あのときどうして言い張
 ったのかわからないけれど。ボレロはラテンのクリシェだよね。彼はな
 ぜだか、ラテンに対してアンチだったんだよな。(p.130)

ボレロはラテンのクリシェだと言い切ってしまっているので、え、そうなのか? と思うのだけれど面白い。
ナナ・ヴァスコンセロス (Naná Vasconcelos) はエグベルト・ジスモンチとの共演などで知られるパーカッショニストであるが、古いジャズのアルバムではガトー・バルビエリの《Fenix》《El Pampero》(共に1971) にも参加しているベテランであった。
リンゼイとは《Bush Dance》(1987/Antilles) にピーター・シェラーと参加したが、これはヴェローゾの《Estrangeiro》(1989) への布石だったと説明されている (p.135 注06)。

対談の最初のヴェローゾの話題はクロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』(Les mythologiques, 1964-71) の冒頭のことである。その冒頭のovertureに関してのアウグスト・デ・カンポスがヴェローゾに言ったとされる批評に興味を引かれる。

 するとアウグストは 「レヴィ=ストロースは知的な人物だ。彼はしかし、
 興味深いことに、推論を披露している。(p.129)

さらにヴェローゾは重ねて、

 いかに推論をかさねても、人は音楽そのものにはたどり着かないのだと
 彼 [カンポス] はいいたかったのだと思う。(p.130)

ヴェローゾはデ・カンポスの言うように、推論、つまり頭のなかで考えていることよりも現場主義の優位性を説くのだ。
対するリンゼイは音楽のノイズに関して、こう言う。

 話はアウグストがいったことに戻るけど、彼がいうにはノイズは音楽が
 それを求めるということだよね。(p.130)

ノイズのことは菊地成孔がそのinterviewのなかで呼応するように発言している。

 ピアソラだってタンゴにノイズを持ち込んだひとですよ。ヴァイオリン
 の弦をギュキュキュって鳴らしたり、グリッサンドとか高い位置でのダ
 ブル・ストップとか、弦の凶暴化という意味ではアート・リンゼイに近
 い。(p.092)

リンゼイにはキップ・ハンラハンとの共演アルバムもある。キップ・ハンラハンは後年プロデュース業となってアメリカン・クラーヴェというレーベルを作り、晩年のアストル・ピアソラをリリースした (《Tango: Zero Hour》(1986) など)。

ヴェローゾのボブ・ディランに対する見方にも興味を引かれる。ヴェローゾはアメリカのレイシズムの変遷をアメリカ人のルールという持論にからめて次のように言う。

 彼 [ボブ・ディラン’] はエレクトロニックな音楽に偏見をもっていたけ
 れど、発展していって、有名になったときにはロックだったんだ。その
 経緯は消えるんだ。もう彼はロックだとなったら、過去にどうだったか
 関係ない。それはブラジルでは起きないことだよ。よい意味でも悪い意
 味でも。(p.132)

つまりディランがエレクトリック・ギターを持つまでの葛藤と、最初にディランがアコースティクでない楽器を持ったことに対して批判していた人たちとその現象も、有名になってさえしまえば、すべてすっ飛ばしてしまえる、というようなことである。

リンゼイがジャン=リュック・ゴダールの映画を例にとってその音楽を語っている部分もある。

 それから、映画の世界でいえば、ゴダールがやったようなことを音楽で
 やる難しさとか。他の情報を挿入して、そのものを壊して、だけどその
 作品の魅力を失わないみたいな。モンタージュ的なことだよね。彼の映
 画はとても抽象的でいて、だけど映画のロマンスを保っている。それっ
 て曲づくりではとても難しいと思わない?(p.133)

今福龍太はそのinterviewで、自分のプレゼンテーションの際、いままでのお決まりの方法でなく、ビジュアルや音楽を使う方法を考え出しそれを実践してきたと述べる。そういうとき、リンゼイとともに使ったのがジスモンチであったと言うのだ。

 もっともよく使ったのはエグベルト・ジスモンチですね。彼の音楽には
 ユニバーサリティというか普遍性があります。(略) ジスモンチはギター
 でもピアノでもパーカッションでも、特定の楽器に過度にヴィルトゥオ
 ージティを求めることをしない。にもかかわらず、ピアノにしてもギタ
 ーにしても途方もないテクニックですから誰も真似はできないけれども。
 マニアックにひとつの楽器に沈潜するというよりは、ギターでもピアノ
 でも、音楽、あるいは音そのものがもっている普遍性に到達する。楽器
 の歴史的・文化的な固有性を超え出てゆく自由さといったらいいでしょ
 うか。(p.096)

今福はメキシコやブラジルに住んだことがあり、ブラジルはその土地が広大であるから場所によってまるで異なる国のようにいろいろな表情を見せているとのことだが、そのなかでレペンチスタと呼ばれる民衆的な吟遊詩人の話が心に残る。口伝えに歌で伝えていくそれこそがバラッドであり、そうした歌を聞き取り、小さな冊子にして一番で紐にぶら下げて売られるのがブラジルの民衆文学リテラトゥーラ・ジ・コルデル (紐の文学) であるという。

リンゼイの過激なギターワークと、まったく対照的な柔らかな歌唱との間にはどのような親和性があるのだろうか。しかし不思議にもそれはギャップではなく、融合している。そしてそのおおらかさのようなものがブラジルという土地に依存していることは確かだ。
また、リンゼイがジョン・ケージに対してどのような視点を持っているのか知りたいところだ。ケージとリンゼイの音楽はまるで異なるが、ジスモンチと違った意味で過度なヴィルトゥオージティを求めないということではなんらかの共通点があるのかもしれない。


別冊ele-king第5号〈アート・リンゼイ〉(Pヴァイン)
別冊ele-king アート・リンゼイ――実験と官能の使徒 (ele-king books)




Arto Lindsay live
https://www.youtube.com/watch?v=GkPQPDIO1qA
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あらがえないもの ― ピエール・バルーとSARAVAH [音楽]

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Pierre Barouh et Anouk Aimée
(www.francebleu.frの2016年12月28日付訃報より)

昨年末、ピエール・バルーが亡くなったことをこのSo-netブログのSpeakeasyさんの記事で知った。Speakeasyさんはいつも最も重要なポピュラー音楽の情報をもたらしてくれる。
私にとってのバルーは、つまりサラヴァである。そしてそのサラヴァというレーベル名は、私のなかでブリジット・フォンテーヌとともに記憶されている固有名詞だ。

Speakeasyさんのバルー逝去の記事に紹介されているジャケット写真はバルーのブレイクのきっかけとなったクロード・ルルーシュの映画《男と女》(Un homme et une femme, 1966) のサントラ盤である。
このジャケットが美しい。モノクロのスチルを何枚か組み合わせた上に斜めに入れた帯にタイトル文字だけが鈍い色の赤で un homme et une femme と配置されている。ジャケット左側は黒の縦帯で、左上にパルム・ドール/フェスティヴァル・ドゥ・カンヌとある。
年代を彷彿とさせる端正なデザインにもかかわらず、時代遅れでない。ここにもバルーの美学が現れているのではないか、と私は思う。

だが実は私は《男と女》という映画は観たことがなくて、ダバダバ歌っている映画くらいの認識しかなかった。バルーを尊敬しているにしては、ひどい認識である。
当時、バルーはこの映画の資金にしようと思い、その音楽を売り込もうとしたのだが、ルルーシュはまだ無名だったので、結局バルーが自分で出版することにした。それがサラヴァのはじまりである。この映画がヒットするなんて、バルー以外誰も予想していなかったのだろう。だが映画が大ヒットしてしまったため、音楽の権利を売らなかったことがかえって功を奏すことになった。

とりあえずこのサントラを聴いてみた。
曲数は少なく、さらに同じ曲のインストゥルメンタル・ヴァージョンと歌入りヴァージョンとがあって編曲で増やしているので、実際の曲数は5曲しかない。それですべてをまかなってしまっているのだ。
音楽を書いたのはピエール・バルーとフランシス・レイ。当時の録音はモノラルであるが、あまりのリアルさで聞こえてくることに驚く。

このサントラの中であえて1曲をあげるのならば、少しダークな〈Plus fort que nous〉を選んでしまう。今回のCDでは〈あらがえないもの〉という邦題が付けられている。
歌はピエール・バルーとニコル・クロワジールによるデュエット。ふたりが交互に歌い、最後に2人で歌うという構成。でもこの曲が手強い。歌詞がなんとなくわかるようにみえて、よくわからないというふうな、やや抽象的な言葉で綴られていく。

まず歌い出しはニコル・クロワジール。CDパンフレットでは次のような訳詞になっている (対訳:Lisa TANIと表記されている)。

 互いの経験をもってすれば
 もっと明晰に考えられたはず
 なのにふたりの警戒心はもう限界
 私たちは愛にあらがえない

 Avec notre passé pour guide
 On se devrait d’être lucide
 Mais notre méfiance est à bout
 L’amour est bien plus fort que nous

この訳詞に関してネットを探していたら、別の訳詞を複数に見つけた。そこではタイトルは 「愛は私たちより強く」 となっている。これは歌詞の L’amour est bien plus fort que nous を訳したものであるが、しかしタイトルは Plus fort que nous だけで L’amour est bien は無いから、邦題を 「あらがえないもの」 としたのだろう。
TANI訳は、各連の最終行に繰り返し出てくる 「L’amour est bien plus fort que nous」 をそれぞれに微妙に変えて訳していて、全体の言い回しも錬れていて、なかなかワザがある。

だが1個所よくわからないところがあって、それは4連目。バルーが2回目に歌う部分である。

 沼地で自由を謳歌するか
 檻の中で幸せに暮らすか
 僕らにはお構いなしに決めつける
 愛とは僕らにはあらがえないもの

 Vivre libre en un marécage
 Ou vivre heureux dans une cage
 Qu’importe il fait son choix sans nous
 L’amour est bien plus fort que nous

この沼地の部分について検索してみたら、「浅倉ノニーの〈歌物語〉2」 というブログに解説があった。

 marécage「泥地、湿地」が本義だが、「いかがわしい社会」といった
 意味でも用いられる。

とのことである。ネットのLarousseを見てみるとLittéraireな用法として、

 Bas-fond où l'on risque les compromissions et l'abaissement
 moral : Les marécages de la politique.

とある。bas-fondは浅瀬とか沼地のことだが、les bas-fonds de la sociétéという言い方があって、社会のどん底、さらに転じて最下層民のことを指すのだそうだ。compromission は、compromettre 巻き添えにする、の名詞形で 「かかわりあいになること、悪い意味での妥協」 とある。abaissementは低下である。
浅倉ノニー訳では当該個所は 「汚い世の中で自由に生きるか」 と意訳になっているけれど、とてもわかりやすい。他にもわかりにくい個所の注釈があり大変勉強になった。浅倉訳は素晴らしい。

ともかく、《男と女》という、ともすると軟弱に思われかねない映画の中の歌詞がこういう内容だなんて、さすがバルーというべきなのか、それとももっと敷衍して、さすがフランスというべきなのか、バルーの死をあらためて残念に思うばかりである。


Claude Lelouch/Un homme et une femme
sound track (日本コロムビア)
男と女 オリジナル・サウンドトラック 2016リマスター・エディション




Nicole Croisille & Pierre Barouh/Plus fort que nous
https://www.youtube.com/watch?v=1Od5IzOzGTQ
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