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メトネル《ヴァイオリン・ソナタ第1番》— ボリソ=グレブスキー/デルジャヴィナ [音楽]

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Nikita Boriso-Glebsky

エカテリーナ・デルジャヴィナの2018年時点での最も新しいCDは、墺Profil盤のメトネルのヴァイオリン・ソナタ集である。正確にいえば《Nikolai Medtner Complete Works for Violin and Piano》というタイトルで、3曲のソナタと〈舞曲を伴う2つのカンツォーナ〉(Zwei Canzonen mit Tänzen) op.43、〈3つの夜想曲〉(Drei Nachtgesänge) op.16 が収録されている。
ヴァイオリンはニキータ・ボリソ=グレブスキー (Nikita Boriso-Glebsky, 1985-) で、レコーディングが行われたのは2017年3月27日から30日、ドイツ放送室内楽ザール (Deutschlandfunk Kammermusiksaal) であり、マルPは Deutschlandradio と表記されている。

デルジャヴィナはメトネル弾きと言われているにもかかわらず、そのメトネルの録音はあまりなく、しかも廃盤になっていたりして入手しにくい。メジューエワのような恵まれた環境とは対極である。
今回のメトネルもピアノ・ソナタではなくヴァイオリン・ソナタであり、デルジャヴィナのピアニズムを聴こうとするためにはやや不満が残るが、でもメトネルであることで善しとしよう。

ニコライ・メトネル (Nikolai Karlovich Medtner, 1880-1951) の書いた曲はそのほとんどがピアノのための作品であるが、3曲あるヴァイオリン・ソナタは傑作である。そのことはずっと前に簡単に書いた。まだブログの文章としての体裁が整っていない頃で甚だ雑な記述でしかないが (→2012年01月29日ブログ)。
そのときにも書いたことだがメトネルのヴァイオリン・ソナタで私が長く愛聴していたのはNAXOS盤のロロンス・カヤレイ&ポール・スチュワートによる演奏である。NAXOSのデータに拠れば2006年12月18~20日と2007年6月18~19日に、カナダ、モンレアル (モントリオール) で録音されたもの。
ロロンス・カヤレイ (Laurence Kayaleh, 1975-) のCDはあまりリリースされていないし、このNAXOS盤のメトネル以外を聴いたことがなかったが、このメトネルは名盤と言ってよい。

対するデルジャヴィナの演奏はヴァイオリンにボリソ=グレブスキーを選んでいる。ボリソ=グレブスキーもCDとしてリリースされている演奏はごく少ないが、リストを見ていたらヴュータンのヴァイオリン協奏曲集があるのに気がついた。ヴュータンの協奏曲は7曲あるが、パトリック・ダヴァン/リエージュ・フィルというオケをベースとして、1曲毎に異なるソリストでレコーディングされた協奏曲全集がある。墺Fuga Libera盤《Henri Vieuxtemps Complete Violin Concertos》で、このアルバムのこともすでに書いた (→2012年08月11日ブログ)。
このアルバムの中でボリソ=グレブスキーは第3番を弾いているのだが、繰り返し聴いていたのにもかかわらず、アルバムの趣旨が若手ヴァイオリニストを競わせるようなコンセプトであったため、曲を追ってはいたけれど各々の演奏者までは覚えていなかった。私の偏愛する作曲家であるメトネルとヴュータンのどちらも弾いているボリソ=グレブスキーに俄然興味を持ってしまう。

アンリ・ヴュータン (Henri François Joseph Vieuxtemps, 1820-1881) はベルギー人であるが、全盛期の頃、サンクトペテルブルクに長く住んでいて当時の帝政ロシアと縁がある。逆にメトネルはロシア人でありながら、革命後、国を出てイギリスに没した。世代的にはヴュータンが亡くなったときメトネルはまだ1歳であり、重なる部分はなく、またヴュータンはヴァイオリン、メトネルはピアノのスペシャリストであって楽器的にも重ならないが、2人とも故郷喪失者としての一生であったことでは共通している (ヴュータンについては→2012年03月22日ブログにもその協奏曲のアウトラインを書いている)。だが晩年のふたりは対照的であり、ヴュータンの悲嘆は色濃い。

さて、メトネルに戻って、今回のボリソ=グレブスキー&デルジャヴィナとNAXOSのカヤレイ&スチュワートをソナタ第1番で聴き較べてみた。聴き較べてみたのだけれど、実はそんなに違わない。もちろん異なる演奏者なのだから細かい違いはあるのだが全体の流れはそんなに差異がない。それは個性がないからではなくて、つまりメトネルはその楽譜に忠実に演奏しようとすると、このように弾くしかないというようなことなのではないかという印象がある。言い方をかえれば楽譜が厳格に完成されていて、そんなに自由度は存在しないといってもいい。

メトネルのヴァイオリン・ソナタの書法はピアノの伴奏でヴァイオリンがソロを奏でるというようなヴァイオリン主導の形式ではない。ヴァイオリンとピアノはかなり対等で、互いに呼応しながら展開してゆく。それはメトネルがピアニストであったことにもよるのだろう。
第1楽章 Canzona のヴァイオリンとピアノのからまるような憂鬱の流れにすぐに引き込まれる。
Canterellando; con fluidezza. それは長い満たされない誘惑。希望と諦めがくるくると変わるようなメトネルの官能であり、約束の地への不毛な誘いに過ぎない。変奏されて曲がりくねって Tempo I に戻って来てもそれはさっきの階梯ではない。
Danzaと標題のある第2楽章 Allegro scherzando は穏やかで明るい楽想で、ヴァイオリンが弾くとそれをピアノが模倣して引き継ぐというかたちになる。ところが途中の Presto (Doppio movimento) から急速調に変わり、目まぐるしく動き回るヴァイオリンとそれを追うピアノ、でもそれが強い感情表現になることが決してない。延々と続く旋律線、第2楽章ではオクターヴのダブルストップが多用される。

古典的なソナタでは第1楽章と第3楽章が速く、第2楽章がゆっくりという速度が設定されることが多いが、この曲では第1楽章は第2楽章に至る長い憂鬱な前奏のような感じもする。そうした意味でフランクのヴァイオリン・ソナタの構造を思い起こさせる。ヴァイオリンとピアノが対等に近いということにおいてもフランクと共通するニュアンスがある。フランクの場合はもっとも憂鬱な第1楽章が変転していって、やがて陽のあたる終楽章に至るのだが、メトネルの場合は明るくても暗くてもそれは常に微妙な色合いで、どこまでが真実の響きなのかがわからない。たぶん陽のあたる坂道は存在しない。

第3楽章は Ditirambo と名付けられていて、しかも Festivamente という決め打ち (festivamente は humorously とか joviallyの意)、そして4分音符で66~72という指定がある。つまり指定されている速度は第2楽章が最も速く (4分音符80)、第1楽章と第3楽章は遅い。第3楽章は穏やかで印象的なリズムを伴って始まるが、延々と連なる旋律線は同じで、しかも自在に転調してゆく。そのつなぎ目が巧妙でわからない。ditirambo というタイトルもわからなくて、滅多に手にしないイタリア語辞書で探してしまった。酒祝歌、バッカス神に捧げた合唱風抒情歌とのことである。

メトネルのヴァイオリン・ソナタは第3番が最も有名だが、あまりにも長大過ぎるし、3曲どれもが個性的でメトネル的である。
今回、ボリソ=グレブスキー&デルジャヴィナとカヤレイ&スチュワートを比較して何度も聴いてしまったが、ピアノの音のクリアさではカヤレイ&スチュワートのほうが好ましく思える。ただそれはあくまで好みであって、やや深めなルームを感じるデルジャヴィナのほうがロシア的なのかもしれない。
第1番はmedtner.org.ukによれば1909年から10年に作曲され、Édition Russe de Musique で1911年に出版されたとある。ロシア革命は1917年であり、Four Fairy Tales, op.34, op.35 あたりがその前夜である1916年から17年の作曲とされている。

今回、いろいろと動画を探しているうちに、カヤレイの動画を見つけたのだが、やや (かなり) 意外な印象を受けてしまった。あぁそうなのか、という感じである。まさに正統派で、身体がほとんど不動で、そこから繰り出される音は非常に安定して見える。
ポール・スチュワート (Paul Stewart, 1960−) は同名の人が多く紛らわしいが、Université de Montréal の教授である。メトネルのソナタ全集を録音中であり、現在、Grand Pianoレーベルから第2集までがリリースされている。私がメトネルに目ざめたのは英hyperion盤のアムランの全集によってであるが、デルジャヴィナにもまとまったメトネルのリリースを望みたい。


Nikita Boriso-Glebsky, Ekaterina Derzhavina/
Medtner Complete Works for Violin and Piano (Profil)
Piano Works




Laurence Kayaleh, Paul Stewart/
Medtner: Violin Sonatas Nos.1 and 2 (NAXOS)
Violin Sonatas 1 & 2/2 Canzonas With Dance




Medtner: Sonata for Violin and Piano No.1, op.21
Oleg Kagan, violin; Sviatoslav Richter, piano
Filmed in Moscow, December Nights Festival, 27 December 1981
https://www.youtube.com/watch?v=c69RkfsdguE

Medtner: Sonata for Violin and Piano No.1, Op.21
Laurence Kayaleh, violin; Paul Stewert, piano
https://www.youtube.com/watch?v=sn-5hPujUQQ
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赤毛のアントニオ ― ヴィヴァルディ《Concerto for Strings》 [音楽]

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Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741

ヴィヴァルディはロックだ。
とある場所があって、週末になるといつもクラシックのBGMの流れているのだけれど、鳴っているのは、ごく古いチープなスピーカーで、それはまるでAMラジオのような非力なプレイバックでしかない。名も知れぬルネッサンス音楽だったり、気乗りのしない陰鬱なドビュッシーとか、滅多にここちよい曲がかからないことが多いという、BGMとしては最低な選曲センスなのだが、今日、ヴィヴァルディがかかっていた。

ヴィヴァルディなんて《四季》以外、なんだかよくわからない。皆、同じような曲なので、でも曲名がわからなくてもヴィヴァルディであることはわかる。もしかするとそれは特異なことなのかもしれない。
googleでヴィヴァルディを検索するとブラウザーばかり出てくる。PC系の、そのネーミングセンスのなさにがっかりする。でも何度か検索しているうちにブラウザーは出なくなってくる。
結局、今日聴いた曲がなにかはわからなかった。でもそれでもいいのだ。ヴィヴァルディはヴィヴァルディでしかないのだから。
アントニオ・ヴィヴァルディ (Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741) とヨハン・セバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685-1750)。ヴィヴァルディのほうが7年早く生まれているがほぼ同時代人である。

ヴィヴァルディはバロックだけれど対位法ではない。わかりやすいセンチメンタルとワンパターン。彼はヴァイオリニストだったから、曲は弦のための曲ばかりだ。その頃の鍵盤楽器は通奏低音用で、つまりヴィヴァルディにとってメインにするには力不足の単なる伴奏楽器だったのだろう。というよりヴィヴァルディにとって、音楽は弦が作り上げるものなのだという信念があったのに違いない。

ヴィヴァルディはヴェネツィアで生まれた。身体があまり頑健でなかったのに、早書きで無数の曲を書き、音楽を商売として旅行をし、たぶんそのような身体の酷使がもとで死んだ。その墓は無いし、死後ずっとその作品は忘れられていた。有名なヴァイオリンを持った肖像画は、それがヴィヴァルディかどうかの確証が無い。基本的にヴィヴァルディは謎である。でもイ・ムジチの《四季》によりヴィヴァルディは蘇った。人物そのものは不明だが音楽だけは残った。ヴィヴァルディは赤毛だった。

イル・ジャルディーノ・アルモニコのヴィヴァルディは、パッショネイトで、強いアタックと揺れる身体で、通俗なセンチメンタルを押し売りしてくる。心が弱いとき、人は簡単に押しつけがましさに翻弄される。翻弄されるのだけれど、でも翻弄もたまにはいいのかもしれない。
リズムは常に、せっぱつまって、前のめりに、せつなさと悲しみを振り切るように、あるときは明るく、そして多くは暗く、その先には何もないのかもしれない。知的よりも快楽が勝つような、弦が絶対的な優位を保つ音楽。なぜならそれはイタリアの音楽だから。

ヴィヴァルディはロックだ。
反抗として生まれたはずなのにだんだんと形骸化して骨抜きにされてしまって、体制に迎合し順応しているようなポップスの1ジャンルとしてのロックよりも、ハイソでラグジュアリーなシーンでのムードミュージックになり下がってしまっているようなジャズよりも、ずっと精神性が強い。そもそもバロックは抽象的で何も語らない。何も語れない。それは語法が具体的であることを嫌うからだ。それに加えて、対位法とか和声とか、あまりそういう理論でなく、とにかく突っ切ってしまう曲想のヴィヴァルディは、どこにもよりどころがない。権威がない。ヴィヴァルディの音楽は商売人の街ヴェネツィアから生まれてきて、そしてきっとそこに還ってゆく。深い水、流れる音、深い溜息。音楽は何も語らない。音楽は何にも依存しない。音楽には何の意味合いもない。人生に意味がないのと同じように。


Il Giardino Armonico/Musica Barocca (Warner Classics)
MUSICA BAROCCA




Il Giardino Armonico/Vivaldi: Concerto for Strings g-moll RV152
https://www.youtube.com/watch?v=F6hhsKWpDrw

Concerto Köln/Vivaldi: Concerto for Strings g-moll RV156
https://www.youtube.com/watch?v=aZHal-tXzl4

Il Giardino Armonico/Vivaldi: Concerto for Fout Violins h-moll RV580
https://www.youtube.com/watch?v=86Aqf2GTmCs

* 2曲のConcerto for Strings は Concerti e sinfonie per orchestra di archi (RV109−168) として分類されている。RV580は Altri concerti per più strumenti, orchestra di archi e basso continuo (RV554−580) の中の1曲であり、L’estro armonico (調和の霊感) op.3の10である。バッハがBWV1065としてチェンバロ4台のコンチェルトに編曲した。
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クラシック音楽館・N響定期のピリス [音楽]

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Pires and Blomstedt (facebookより)

6月10日、日曜の夜、《クラシック音楽館》のピリスを観た。
曲目はベートーヴェンのコンチェルト4番。これだけ観るつもりだったのに結局番組の最後まで観てしまった。

今回の最後のピリスといわれる一連のコンサートの中で、N響定期に組まれたコンチェルト。指揮はブロムシュテットである。曲目はPコン第4番と交響曲第4番。4番つながりであるが、この2曲はop.58とop.60であり、同時期に作曲された作品である。その間にはさまっているop.59は3曲のラズモフスキーであり、さらにいえばop.57はAppassionata、op.61はヴァイオリン・コンチェルト、これらはすべて1805年から1806年にかけて書かれた。まさにベートーヴェンのとんでもなく充実していた時期の作品群である。

4月20日に録画されたものだが、NHKホールに緊張感が満ちているのがわかる。曲間のざわめきや咳も極小であり、「やればできるじゃん」 と思ってしまった。NHKホールは良い。このようにコンパクトにまとまったサイズのオーケストラも好きだ。大き過ぎるオケは散漫なだけ、というのは保守反動な個人的好みでしかないのだけれど。それと私はサントリーホールが嫌いなので、なぜならステージの奥に客席があるからで、人の動きが鬱陶しくて仕方がない。もっとも美しく響く箱のなかから音が出てくるようなNHKホールのステージの形状にうっとりする。

録画で私が注視していたのはピリスの左手である。少し前のブログに書いたスーパーピアノレッスンのピリスのテキストで、調律師の大里和人はピリスの音の出し方について書いている。
「一音一音のすべてを鍵盤の深さの底 (または底から1mmくらい上) で音を出し、音色を作り、そこの個所を音の出るタイミングとしている」 と指摘し、また 「鍵盤に指が触れてから底に行くまでのスピードのコントロールが的確で飛躍した音程や速いパッセージの場合、腕、体がすごい速さで移動し、指が鍵盤の底の音の出るタイミングに到達するべく準備を終わっている」 と観察する (p.143)。
重要なのは 「鍵盤の底の音の出るタイミング」 という形容である。ピリスは重要な音を弾くとき、決め打ちのように確実にその鍵盤をヒットする。指の角度も自在であるが、この角度からのほうが美しい音が出るという意識的な角度をとっていることが多い。特に左手をリズムの中で確実に動かそうとする強い意志を感じた。そういうふうに今まで見ていなかったので、あらためて注意していると、なぜピリスはここでこういうふうに指を持って行くのか、というアクションの理由が納得できるのである。
尚、大里和人のピリスとの最初の出会いは最悪で、この人とは二度とやるものかと思ったのだという。ところがあるきっかけで、それは強い信頼関係に変わったとのことで、世の中なにがどうなるかはわからない。

第4番はピアノのソロから始まる。5小節だがその最初のリズムはいわゆる運命動機である。延々とオケが鳴ってからおもむろにピアノが入って来るというコンチェルトの常套からすると、えっ? と思わせるのがこの曲の新機軸だったのだろう。4番は5番に較べると地味で特徴がないように思えていたが、ピリスが弾くと全然今まで聞こえていなかったものが聞こえてくる。メカニックにも思える無窮動のような細かな音の流れの中に鈍く光る美学が浮かび上がる。決してモーツァルトのように明るくクリアになることはない。
第2楽章は第1楽章のスクエアさからすると一転して緩いが、第1楽章の複雑にブレながら連続する音とは対照的に気まぐれでいて端正である。アタッカで第3楽章に入ると鈍かった光が次第に色彩感を帯びるように変化してゆく。精緻な金属で組み上げられたような音にはひとつも無駄な音が存在しない。

アンコールはベートーヴェン最後のピアノ曲であるバガテルop.126の第5曲 Quasi allegretto であった。ベートーヴェンにおける最盛期と最晩年の対比は、そのままピリスとブロムシュテットの昔と今の対比でもある。話が前後してしまうが、番組の最後に同じ2人による1992年のモーツァルトの録画を持ってきたNHKのプログラム・ビルディングの周到さに痺れる。お涙頂戴過ぎると非難しておくことにする。

ブロムシュテットの交響曲第4番も素晴らしかったが長くなってしまうので書かない。ブロムシュテットは至宝である。

インタールードのように挟まれたピリスのレッスンの様子は、ひとつの和音を何度も生徒に弾かせるシーンに、いかに鍵盤を使うかというピリスのこだわりを感じた。ピリスの作り出す音は 「打鍵する」 という言葉から感じられるようなパーカッシヴな音ではないのだ。
後進に教えなければいけないということは義務なのだ、というピリスの言葉が強く胸にささる。sourceとcreativityという言葉にも納得してしまう。最近はホールにあるピアノがよく鳴るようになったという言い方は皮肉であって、つまり鳴り過ぎてしまうという否定的なニュアンスを秘めている。
音はbodyで出すもので、そして人によって身体は違うので、自分の音を出す方法を模索しなければならないのだという。だからピリスは決して方法を強要しない。それはスーパーピアノレッスンのときから一貫している。
コンクールや音楽ビジネスに対する弊害について説き、誰が上手いとかヘタだとかいうのとは無縁に音楽をすることの重要性について語る。自分のほうが他人より優れていると思ったら、そのとき成長は止まってしまうともいう。

そして最後に放送された1992年のモーツァルトのコンチェルト。ピリスもブロムシュテットも若いが、作り出される音は現在の2人につながる不変の音楽性を持っている。第17番K453はバルバラ・ブロイヤーというモーツァルトの弟子のために書かれた曲である。第9番K271のジュノームに似て、ピリスに最もふさわしいモーツァルトである。
私はピリスのもっと若い頃のエラートのコンチェルトを偏愛していて、それはグシュルバウアー/グルベンキアンの明るい音であり、レコードもCDもあるのだが、このライヴが録られた時期もこれはこれで良いなと思ってしまった。つまりK453でいえばアバドとのDGの1993年の録音である。いままでどちらかというと毛嫌いしていたDG期の、暗いと感じていた音が、そうではないと思えるようになってきたのだろうか。


放送ではK453は第2楽章からだったので、当日の第1楽章からの動画と、ピリスではないがコヴァセヴィチのバガテルをリンクしておく (コヴァセヴィチって誰? と思ってしまったのはナイショである)。


Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.17&21
(Deutsche Grammophon)
Piano Concertos 17 & 21




Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.9&17
(ワーナーミュージック・ジャパン)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番《ジュノム》&第17番




Stephen Kovacevich/Beethoven: Bagatelle No 5 in G major, Op 126
https://www.youtube.com/watch?v=7ye7evxEeHs

Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.17, NHK Symphony
https://www.youtube.com/watch?v=K5OAcc9AIto
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Lieder ohne Worte — デルジャヴィナのスタンチンスキーを聴く [音楽]

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Ekaterina Derzhavina (2016)

エカテリーナ・デルジャヴィナの弾くスタンチンスキーを聴く。
墺Profil盤の《Stanchinsky Piano Works》は2017年のリリースだが、レコーディングは2004年、2005年と表記されている。
アレクセイ・スタンチンスキー (1888-1914) はマイナーな作曲家なので録音はしたものの出しにくかったのだろうか、そのへんの事情はよくわからない。

スタンチンスキーについては過去に書いたことがあるが (→2014年11月04日ブログ)、作品数が少なく、作品自体もそのほとんどが難曲であり、屈折した曲想であるため録音もあまり存在しない。メトネル系という括りの中で、よりマイナーなのがスタンチンスキー、アレクサンドロフであると思われる。
前回の記事は露メロディア盤のアレクサンドル・マルクスによるピアノであり、しかもグリンカとスタンチンスキーの相乗りという構成であった。

デルジャヴィナのアルバムは全曲スタンチンスキーだが、マルクス盤にも収録されている《Zwölf Skizzen》(12のスケッチ) op.1から始まっている。曲は皆短く、一番長い Largamente でも2’40”であり、1分に満たない曲もある。ひとつひとつは技巧的であり、どちらのアルバムにも収録されているということからも 「スタンチンスキーといえばこの曲」 的な意図があるのかもしれない。といっても、曲が短いのはヴェーベルン的に凝縮されて短くなっていったのではなく、詩的な音の連なりとしての風景のような書法であり、まさにスケッチという言葉通りのラフなイメージを想起させる。

収録されているソナタは《Erste Sonate (F)》、つまりソナタ第1番である。3楽章であり、《12のスケッチ》などと較べれば各楽章も比較的長い。スタンチンスキーのソナタは3曲あり、番号の付いていないes-mollのソナタ、第1番 F-dur、そして第2番 G-durである。調性は存在していて、ラフマニノフやメトネルにも見られるようなロマン派の残滓を引き摺ったアナクロで退嬰的なロシアである。屈折しているが難解ではない。そしてこの第1番は古典派のソナタと比較すれば十分にトリッキーだが、でもスタンチンスキーの中ではそんなにトリッキーではない。やや古風とも思えるが、それはその当時において最先端であればあるほど風化するのも早いという意味においての 「古風」 という印象である。各楽章は順にAllegro、Adagio、Prestoというごく普通な速度表示がされているが、第2楽章の、脈絡もなく 「とり散らかって」 しまっているような書法に彼らしい表情が見られる。対して終楽章は、軽くて明るいPrestoで、快調に小気味よく、ずっと流れていくようでありながら、ちょっとだけリズムにも和声にもイレギュラーに引っかかる個所があるが、デルジャヴィナの解釈は秀逸である。最後はまさに古典曲のようにあっさりと終わる。

だがアルバム最後に置かれた《Lieder ohne Worte》でスタンチンスキーの憂いが戻ってくる。Lieder ohne Worte は Songs without Words、つまり無言歌であるが、作曲は1904年から1905年、つまり彼が16~17歳の頃なので習作と考えたらよいのだろうか、曲自体も他の複雑系な曲に較べると妙に易しく、この通俗ギリギリにまで落ちてくるウェットな楽想に、意外に彼の心情が反映されているのかもしれない。
そしてこの曲をアルバムの最後に持ってきたところにデルジャヴィナの作曲者への想いを感じる。


Ekaterina Derzhavina/Stanchinsky Piano Works (Profil)
Stanchinsky: Piano Works




Alexander Malkus/Two Geniuses of Russian Piano Music (Melodiya)
Glinka/Stanchinsky




Ekaterina Derzhavina/Stanchinsky: Lieder ohne Worte - 1. Largo
https://www.youtube.com/watch?v=WLquKJKRsx0

参考:Lieder ohne Worte 全曲
https://www.youtube.com/watch?v=f-NxlRQWv4I

C. M. Schröder 200周年のデルジャヴィナ (2016)
https://www.youtube.com/watch?v=Te2os-PwKAo
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マルティヌー《2台のピアノのための協奏曲》— 児玉麻里&児玉桃 [音楽]

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Bohuslav Martinů

児玉麻里&児玉桃のチャイコフスキーに続くアルバム第2弾は、マルティヌーの《2台のピアノのための協奏曲》である。正確にはマルティヌーの《2つのヴァイオリンのための協奏曲》H.329と《2台のピアノのための協奏曲》H.292という、それぞれ同じ楽器2台の曲を2つ並べたというのがミソである。
チャイコフスキーという比較的口当たりの良いところから攻めてきたと思ったのだが、その次がマルティヌーというのに意外性がある。

ボフスラフ・マルティヌー (Bohuslav Martinů, 1890-1959) はチェコの作曲家であるが、ヴィラ=ロボスの次に多作といわれ、ハルプライヒ番号は384に達するが、bisや枝番があるので、作品数は大体400曲くらいと考えてよい。
といってもマルティヌーなんて実はほとんど知らないといっていい。作曲数とそのジャンルの広さだけ見たら、まさに大作曲家の雰囲気なのであるが、不明を恥じる他ない。
マルティヌーは当時のナチスの迫害から逃れるために1941年にアメリカに逃れた。H.292は1943年、アメリカ滞在時の作曲である。マルティヌーの交響曲第1番から第5番はアメリカで作曲されたものであり、彼の創作意欲が最も高かった時期であると考えてよい。
第二次世界大戦後、マルティヌーは祖国に戻ろうとしたがチェコ (チェコスロバキア) は共産党政権となったため、彼は帰国を断念し、ヨーロッパのあちこちに移り住む。亡くなったのはスイスの地であった。

マルティヌーの足跡から私は、同じように戦争を避けてアメリカに渡ったバルトークをどうしても連想してしまう。バルトークもハンガリーの国情の悪化を避けてアメリカに渡ったが、アメリカはバルトークに対して冷淡であり、彼は貧窮のままに1945年に亡くなってしまう。しかしセルゲイ・クーセヴィツキーからの委嘱である《管弦楽のための協奏曲》など、晩年には奇跡的な名曲が多い。その《管弦楽のための協奏曲》が作曲されたのもマルティヌーの《2台のピアノのための協奏曲》と同じ1943年である。そしてマルティヌーもクーセヴィツキーの紹介により職を得ている。

さて、《2台のピアノのための協奏曲》であるが、ピアノが2台同時に鳴るのはどうなのかという興味と不安とがあるのだが、第1楽章 Allegro non troppo は延々とピアノがたたみかけてきて、そのパワーに圧倒される。だが決してうるさくはない。2台あるのだから、片方がオブリガートになったり、2台で異なる表情を見せてもよさそうなのだが、そんな気配はなく、厚みのある音で正統的に押し切ってくる。トーナリティは保持されながらも音そのものが斬新であるところなどもバルトークの方法論に似ている。
第1楽章はアプローチによっては、かなりパッショネイトな傾向にもなるはずだが、児玉姉妹はそういう方向には振れて行かない。
第2楽章 Adagio は、冒頭のピアノに続く木管群の作りかたが妙に具体性を帯びていて、やや奇妙なテイストに、かすかなグロテスクさのようなものが感じられて (それはバルトークのようにあからさまではないが)、第1楽章と全く乖離した印象を受ける。再びピアノが主導権をとると、音は正統的な近代風の流れに変わってゆく。土俗的あるいは民族的な音はほとんど感じられない。この第2楽章のはじめのほうのオーケストレーションだけ、曲全体から見るとやや異質だが一番美しい。
第3楽章 Allegro は終楽章らしく中庸で、そんなに新奇な感じはないが、細かい音の重なりかたに複雑な絡みがあるのがわかる。ピアノがソロになるところでもテクニックを駆使したようなソロにはならず、だが急速調でオケが入って来るところにスリルがある。最後はごく典型的な古典音楽のフィナーレのようにして終わる。

併録されている《2つのヴァイオリンのための協奏曲》H.329 (1950) と《ヴォオラと管弦楽のためのラプソディ・コンチェルト》H.337 (1952) は、平易でわかりやすいのだが、戦後、マルティヌーの作風が変わったことを証明している。わかりやすいのだけれどあまりスリルがない。ただ、特にヴィオラの曲はその音色に独特の美学を感じる。

YouTubeで曲のサンプルを探してみたが、もちろん児玉姉妹の演奏があるわけはなく、Rai 5のラベック姉妹のライヴ演奏を見つけた。ラベック姉妹という名前は久しぶりに聞いたのだが、過去の記憶ではなんとなくイロモノのような印象があったのだけれど、この演奏を聴いて大変失礼であったと思うばかりである。
児玉姉妹とはアプローチが異なり、ややパッショネイト、そしてやや古い感じはするが、大変にテクニックもあり音楽性も高い。

児玉麻里&児玉桃のチャイコスフキー・アルバムの時のPVと、二人それぞれの演奏をリンクしておく。児玉桃のPVは以前のECMのアルバムの記事にもリンクしておいたものだが、児玉麻里のスタインウェイのPVと較べると、二人の個性がやや異なっていることがわかる。

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(Gi-Co-Ma 岐阜現代美術館サイトより)


Martinů/Double Concertos
Mari & Momo Kodama, Sarah & Deborah Nemtanu (PENTATONE)
Martinu: Double Concertos




Katia and Marielle Labeque/
Martinu: Concerto for two Pianos and Orchestra
Sir Antonio Pappano/Orchestra dell’Accademia Santa Cecilia
https://www.youtube.com/watch?v=Z31DdnANKdk

01:03 First movement: Allegro non troppo
07:02 Second movement: Adagio
17:01 Third movement: Allegro
23:12 Applause

Aglika Genova, Liuben Dimitrov/
Martinů: Concerto for two Pianos and Orchestra (ピアノ譜付き)
Eiji Oue/Hannover Radio Philharmonic Orchestra
https://www.youtube.com/watch?v=br4cZoWE514

00:00 First movement: Allegro non troppo
06:16 Second movement: Adagio
16:18 Third movement: Allegro

Mari Kodama & Momo Kodama/Tchaikovsky Ballet Suites for Piano Duo
https://www.youtube.com/watch?v=bPZ7z_nb580

Mari Kodama/Beethoven: Klaviersonate Nr20 G-dur op49, 1. Satz
Live From The Factory Floor:
https://www.youtube.com/watch?v=YIWjcWa9Hsk

Momo Kodama/Point and Line. Debussy and Hosokawa
https://www.youtube.com/watch?v=j--4Cn5EzBo
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ゲイリー・ピーコック/マリリン・クリスペル《Azure》を聴く [音楽]

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マリリン・クリスペル (Marilyn Crispell, 1947-) はフィラデルフィア生まれのジャズ・ピアニストである。ニューイングランド音楽院ではクラシックを学んでいたが、ジャズに目ざめたのはジョン・コルトレーンを聴いたことがきっかけであるといわれる。
私がクリスペルに注目したのはアンソニー・ブラクストンの英Leo盤のクァルテットでの演奏である。アヴァンギャルドなジャズでありながら、このクァルテットには親密な暖かさのようなものが漂っていた (そのことはすでに書いた→2013年08月06日ブログ)。

ゲイリー・ピーコック (Gary Peacock, 1935-) はキース・ジャレット、ジャック・ディジョネットとのグループ〈スタンダーズ〉で有名だが、ジャズ・ベースの重鎮である。

そのクリスペルとピーコックのデュオによる作品、独ECM盤の《Azure》を聴く。2013年のリリースだが、レコーディングは2011年1~2月のニューヨークである。モノクロの黒っぽいジャケットであるが、中のパンフレットの裏面は真っ赤である。

アルバムの全体のトーンは静謐で、アヴァンギャルドなアプローチの曲もあるが、一貫して理知的だ。指を動かすことの練習曲のような〈Patterns〉から始まるが決して難解ではなく、ピアノの音がクリアで、休符とのバランスが絶妙である。頂上までなかなか上がりきらないもどかしさをわざと楽しんでいるかのような、それでいて内省的なテイストを感じることで、いままでのクリスペルとやや異なる印象を受ける。それはベースとのデュオというフォーマットにあるのかもしれない。
私の感じたアルバムのピークはtr5から7までの3曲、〈Waltz After David M〉〈Lullaby〉〈The Lea〉である。〈Waltz After David M〉はペダルを多用したイントロに続いてテーマが始まるが、うっすらとしたひなたとひかげの間を、微妙に使い分けて彷徨うクリスペルの音に、しっとりと寄り添うようなベースが深い奥行きを醸し出す。ベースソロがあり、それに続くクリスペルの音はクリアでありながら調性の谷間を漂っているかのようだ。シェードをあげてもそのまた向こうにシェードが続く、淡く色づけされた風景が続く。
〈Lullaby〉も暗い光の中に何か見えそうな気がして、でもことごとく裏切られてしまうような禁欲的なピアノが続く。後半、ピアノの長い和音の上を堅実そうに歩くベース、そしてピアノとベースのアブストラクトな6音ずつのユニゾンの繰り返しが印象的だ。
〈The Lea〉もベースソロから始まるが、ピアノが入って来ると突然、空気は叙情的に変わってゆく。アルバムの中で最も感傷的なテーマをクリスペルが弾いて簡単に終わる。

アルバムには〈Blue〉という曲もあって、でも最後にアルバムタイトルである〈Azure〉という曲もある。blue も azure も青だがニュアンスが少し違う。藍は藍より出でて藍より青し、みたいな成句を思わず連想してしまう。
azure は言語によって azur だったり azul だったりするが、その語源はトルキスタンで産出されるラピスラズリ (lapis lazuli) の色からである。

     *

ECMのサイトに、アルバムタイトル曲〈Azure〉があったので下記にリンクした。
その他にも、サンプルとしての動画を探していたが、その時、Vision Festival 20というイヴェントでの動画を見つけた。Vision FestivalはArt for Artという団体で主催されているフリー・ジャズのフェスティヴァルで、2018年が第23回となっている。
したがって、クリスペルが出演したVision Festival 20は、2015年ということになる。ブラクストン・クァルテットでもドラムを担当していたジェリー・ヘミングウェイとのデュオであるが、後半のヘミングウェイの木琴類でのインプロヴィゼーションが刺激的である。

Vision Festival 20の動画にはイングリッド・ラブロックの動画などもあって、日本と違ってアメリカではまだアヴァンギャルド・ジャズも健在なように思える。女性奏者はアルトよりテナーを持っているほうがインパクトがあってカッコいい (もっともラブロックは身体が大きいほうなので普通に見えてしまうのだけれど)。Reiも言っていたが、小さい女性が大きい楽器 (Reiの場合だとギター) を弾いているほうが、弾きこなしている感があってカッコいいのだ。いつだったか、御茶ノ水駅で、おそらくチューバのケースをかついでいる女子高生がいて、ステキ過ぎると思ってしまったのである。


Gary Peacock, Marilyn Crispell/Azure (ECM)
Azure




Gary Peacock, Marilyn Crispell/Azure
http://player.ecmrecords.com/peacock-crispell---azure/media

Marilyn Crispell & Gerry Hemingway
Vision Festival 20, Judson Memorial Church; New York, NY: July 8, 2015
https://www.youtube.com/watch?v=cU6fnDPFPwQ

Ingrid Laubrock Sextet
Vision Festival 20, July 11, 2015
https://www.youtube.com/watch?v=UyXNymrlXVw

Arts for Art HP
https://www.artsforart.org
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爽やかさと空虚さ ― 大塚愛《LOVE PiECE》を聴く [音楽]

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大塚愛 (realsound.jpより)

せっかくの土曜日だというのにくだらない用事があって、時間を浪費してしまった。さらにちょっとしたイヴェントに行ってみたのだが期待はずれだった。やっと解き放たれた初夏の宵闇、季節は一番爽やかなときなのかもしれない。
近くにあるコミック主体の古書店。中に中古CD売場もあり、あまり目的もなくそうした棚を見るというのは滅多にない空虚な時間だ。空虚さこそ愛おしい。日々のなかで、意味づけされた時間が多過ぎる。

大塚愛の《LOVE PiECE》があったので買ってみる。2007年の4thアルバム。この、全部にリミッターがかかっているような楽曲は快適なのか眠気を誘うように作られているのか、それとも鈍磨した感覚にこそ優しい音なのかもしれない。〈Mackerel’s canned food〉がポップでいい。同じようなノリの〈PEACH〉が続くのは、その後、突然のように出てくる〈クムリウタ〉の冒頭の音数の少なさとデッドさの落差につなぐための伏線なのだ。

大塚愛はたまに買ってみるという程度の、雑で不真面目なファンでしかない私なのだが、でも私にとっての大塚愛は〈金魚花火〉だ。そのやや意味不明な固有名詞のタイトルだけでなく、そのダウンなイメージは中島みゆきやCoccoのように激烈でダークではなく、もっとずっと淡くてうっすらとした不安感でしかない。なにごともないのかもしれない。なにごともないのかもしれないゆえに、そうしたうっすらとした心にだけフィットする。

〈金魚花火〉にはPVがあって (ショートフィルムと名づけられている)、上長瀞駅のロケーションが鉄道マニアにも人気があったりする。そんなに大きなことは起こらない。だがいつもなにか知らない喪失感が漂う。大塚愛の短調の曲はいつもそうだ。

昨年のReal Soundのコラムに彼女の影響を受けた曲というのがあって、日本の曲ではKANの〈愛は勝つ〉と美空ひばりの〈真っ赤な太陽〉が選ばれていたが、好きな洋楽の選曲が目を惹く。The Cardigansの〈Carnival〉、Kylie Minogueの〈Can’t Get You Out of My Head〉、Boys Town Gangの〈君の瞳に恋してる Can’t Take My Eyes Off You〉(オリジナルのフランキー・ヴァリではなく)、The Monkeesの〈Daydream Believer〉。このセンスがいかにも大塚愛らしくていい。
先にあげた〈Mackerel’s canned food〉にはそうしたポップスからの音の影響があるように思えてしまう。

リストを見ていたら渋谷のタワーレコードでカイリ・ミノーグの白いジャケットのレコードを買ったことがあるのを思い出したのだが、たぶん12inchシングルなのだけれど、それが何だったのか忘れてしまった。

近くに謎の古書店があって、もう10回くらい行っているのだがいつもclosedしていて入れたことがない。でも店をやめてしまっているわけではない。開いているときもあるらしいのだが、そのときには時間がなくて入れないのだ。まるで筒井康隆の不条理小説のようで、このままずっと入れなかったらそれはそれで面白いのかもしれない。


大塚愛/LOVE PiECE (avex entertainment)
LOVE PiECE(DVD付)




大塚愛/金魚花火 (live)
https://www.youtube.com/watch?v=B3f7c-m_YRA

大塚愛/恋愛写真 (live)
https://www.youtube.com/watch?v=Dccv85TarHs
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サルヴァドールの夏、impermanenceについて — ピリスのスーパーピアノレッスン [音楽]

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Pires and Argerich (dwutygodnik.com: Chopin i jego Europa 2012記事より)

スーパーピアノレッスンはNHK教育TVで2005年から2010年頃まで放送されたピアノレッスンの番組である。スーパーという名前の通り、有名ピアニストが講師となり、比較的レヴェルの高い生徒に教える様子を映像化していたのだが、単純にピアノを学ぶ番組というよりは、有名ピアニストのテクニックの実際を知るということに比重が置かれていたのかもしれない。この番組を見て、ふんふんなるほど、と即座に参考にできる視聴者 (ピアニスト志望者) はそんなにいなかったのではないかと思う。

最も評判になったのはジャン=マルク・ルイサダのショパンのレッスンであり、この番組によってルイサダの日本での知名度が著しく上がったのは確かである。
2005年から2006年にかけて、講師のピアニストはアントルモン、ルイサダ、トラーゼ、ベロフ、ダルベルトと変わって続いたが、再放送するようになったので、一度終わったように思えた。だがその後復活して、2008年に放送されたのがマリア・ジョアン・ピリスによるレッスンであった。

ピリスのレッスンはそれまでの方式――スタジオにピアノを2台並べて、生徒に弾かせそれに対して講師が指導するというかたちではなく、ややルーズで、毛色の変わったレッスンであった。
その放送があったときからすでに10年、当時のテキストをあらためて読み直してみると、いろいろと面白いことが書いてある。つまり当時は、そんなにまじめに読んでいなかったということに他ならない。

レッスンが収録されたのはブラジルのサルヴァドールにあるピリス所有の施設である。サルヴァドールは海に面した都市であり、収録をしたのは12月の1週間だということだが、ブラジルの12月は夏であり、海に近いため湿度も高く、また外気とは隔絶した環境のスタジオとも異なるため、かなり悪条件であったという。放送の記憶として、なんとなく気怠いような雰囲気が漂っていたのを覚えているが、それはブラジルの暑熱がこちらにも伝わって来たからにほかならない。
だがそうした環境でレッスン、というよりピリスの言葉にしたがえばワークショップをすることに意味があるのだと彼女自身考えていたのである。そしてそういう環境での収録だったらやりましょう、というピリスの申し出に対して、それをすべて了解して実行してしまった当時のNHKはちょっとすごい。
それはある意味、ピリスのわがままであり、だがそれは真摯な音楽探究のための主張としてのわがままなのだ。

解説文で伊能よし子は、若い演奏家に対するピリスの視点を書き取っている。

 「最近の若い演奏家はコンクールで優勝して名が出ると、周囲がちやほや
 するから自分は特別なんだという気持ちになってしまう。演奏は単なる
 ビジネスになって商業主義に振り回され、早い時期に自信を失って音楽
 から離れてしまう」 (テキストp.8)

そしてピリス自身も若い頃、そのようにちやほやされスター扱いされたのだが、

 そうされればそうされるほど、彼女の心は重くなっていった。自分を特
 別だと考える、そのおごりが演奏に表れてしまうからだ。(p.8)

というのである。
ピリスの考え方は求道的であり禁欲的なのかもしれない。ある時期から彼女は、あまりメイクもせず、ドレッシーな服でなく天然素材のごく地味な服をステージ衣装とし、気張らない精神で音楽に対峙しようと思うようになったのである。

ピリスのこのテキストの楽譜には他の講師のような書き込み (色文字で印刷された注意書き) がない。ピリスは楽譜には書き込みを一切しないというのだ。それは作曲者に対するリスペクトという面もあるのだろうが、なにより 「自分が練習したことにさえ縛られないために」 (p.11) 楽譜には書き込みをするべきではないというのである。
楽譜に何かの書き込みをするということは、その書き込みに縛られることにもなり、それに従っていつも同じように弾くことはルーティンワークとなることに通じる。そのように演奏が固定化してしまうことはよくないとピリスはいうのだ。
たとえば、同じような繰り返しがあるときに、それぞれを少しずつ変化させて弾くのはよいが、でも、「いつも1回目をレガートで2回目をスタッカートで」 というように固定化して決めつけてはいけないというのである。それは本番のときに、演奏しながら決めるべきことであって、前もって決めておくのはつまり自由でなくなるから、というのだ。「演奏はあくまで一回限りのものであり」、状況に応じてそのときそのときで変化するべきものなのだとピリスは考えているのであろう。
そして作曲家が書いた楽譜をそのまま忠実に再現するのだけでなく、「楽譜に書かれた作曲家の意図を汲み取りながら、それを演奏家の中で消化し聞き手に伝える」 ことが音楽を演奏することなのだという。

同様にしてピリスはこのスーパーピアノレッスンで模範演奏を弾かなかった。ピリスは、教師と生徒は上下関係ではないと主張する。教師が模範演奏をするのは、生徒に 「このように弾け」 と強要しているのに他ならないからだ。「生徒は生徒の感じるように弾くべきだ。その道を、教える者があらかじめ限定させてしまってはならない」 とピリスは考える。
だから放送でピリスは、同じ曲でなく、同じ作曲家の同ジャンルの違う曲を参考として演奏したのである。たとえばスカルラッティのKk.455とKk.466を教材として用いたが、ピリスが模範演奏したのはKk.208のソナタであった。

ピリスの音楽観を最も端的にあらわしているのが impermanence (非永続性) に関する生徒との対話である。
ピリスは、音楽家は永続性、安定感を得ようとするが、安定感とは音楽を破壊するものである、という。人の生涯で確かなものは 「死」 ただ一つであって、その他はすべて非永続的で不安定である。だから非永続的であるということを受け入れることによって人間は自由になれるのだという。
安定感という表現は、楽譜に書き込むことによって生じてしまうルーティンワークを戒める考え方と同じだ。

なぜステージで演奏するのか、ということとその恐怖に対するピリスの述懐はこうである。

 ステージで演奏するときも 「恐れ」 を感じます。ベストを尽くせないこ
 とに対する 「恐れ」 です。私たちはみな、「聴き手にまったく受け入れら
 れないのではないか」 という恐怖をステージで味わうことを認めなけれ
 ばなりません。それにもかかわらず、批判されようと受け入れられまい
 と、演奏家にはステージで弾きたいという要求があります。自分の家で、
 自分ひとりのために弾いていたりしたくはないのです。そのためには、
 その恐怖を克服しなければなりません。(p.41)

音楽は人間が生きていくために必ずしも必要なものではない。音楽を聴かなくても人間の命がおびやかされることはない。ではなぜ音楽なのか。なぜ音楽を奏で、あるいは音楽を聴こうとするのか。ピリスはテキストの冒頭のマニフェストで、「芸術的感性が世界を変え得る力を持っていると信じることは、希望的観測なのかもしれません。しかし、この信念こそ、すべての根幹となる考え方なのです」 という。
NIFCでリリースされたピリスの2010年/2014年の録音を聴きながら、今これを書いているが、ピリスはそのワルシャワでのライヴで、ショパンのノクターン集の最後にcis-mollの遺作を弾いている。速度を抑え、暗い表情に満ちていながら、それは感情に押し流されない、むしろ端正なノクターンである。その演奏に、ピリスの到達した場所が明確に示されているように感じる。


Maria João Pires/Chopin: Piano Concerto, Nocturnes (NIFC)
http://tower.jp/item/4015227/
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Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.23
Blomstedt, Berliner Philharmoniker
https://www.youtube.com/watch?v=HOyJHrVMFtg

Maria João Pires/Schubert: Impromptu D.935 n.1
https://www.youtube.com/watch?v=v7In59W-9bc

Maria João Pires/Chopin: Nocturne No.20
in C sharp minor, Op. posth.
https://www.youtube.com/watch?v=NGtF5OcSy7w
(上記CDとは別の音源です)
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ユジャ・ワンを聴く [音楽]

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Yuja Wang

ユジャ・ワン (Yuja Wang, 1987-) はピアニストとしての本来の評価よりも、そのテクニックについて、あるいはその衣装についての話題になることのほうが多い。悪口を言う人は、テクニックというよりもアレは曲芸であって、まるで上海雑技団のようだとか、あるいはクラシックなのに露出度過多でセクシー系とか。

彼女はゲイリー・グラフマンに師事したが、グラフマンの他の教え子にはラン・ランもいて、同じ中国系なので余計に上海雑技団な印象になってしまうのかもしれない。
だがそうしたネットスズメたちはほとんどが嫉妬しているか、あるいは物をよく知らないかのどちらかであって、タッチが浅いときがあるとか、音楽性が無いとか、大体言うことがステロタイプである。
セクシー系についてはカティア・ブニアティシヴィリをはじめとしてそれを一種のウリにしている人は多いが、それはどういう分野においても存在するものだし、それを逆手にとるというのも手法である。むしろデコルテを露出するのはドレッシーな女性の装いとしては普通であり、ワンの場合は脚を露出するというのがそうしたクラシック的ドレスの普遍性と異なるので、まるでポップス系のようだなどと叩かれるのである。
そうしたワンの衣装の選択方法から私が連想するのは椎名林檎であり、それは何を着たっていいじゃん! という確信と自分の音楽に対する自信から来ている。「ワンの衣装をもう少しおとなしくさせたいのだけれど、ピアノがうま過ぎるので誰も注意できない」 という揶揄はある程度当たっていないこともない。
もっとも、ネットを見ていると、彼女の衣装がセクシーだといって批判しているのは男性が多く (ドグマティズムかな)、擁護しているのは女性が多い。そのへんがブニアティシヴィリとやや違うところだ。

実はアリーナ・イブラギモヴァの動画を探しているとき、偶然、ユジャ・ワンとジョシュア・ベルのデュエットに行き当たったのである。それはクロイツェル・ソナタで、ベートーヴェンのなかでも特にクロイツェルだからピアノがどんどん出て行っても構わないので、ワンにはぴったりという感じもするけれど、室内楽、つまりピアノ伴奏としてのワンの協調性の深さに音楽の純粋な喜びを見出すのである【→ (1)】。
ベルはもっと若い時の、何となくクールなヴァイオリンの貴公子といったイメージがあってそういう印象に引き摺られていたのだが、今のほうが演奏も柔軟になっていて心地よい。
ワンの伴奏ピアニストとしての優秀さはリン・ハレルとの、ちょっと渋いブラームスのソナタでも同様に発揮されている【→ (2)】。

テクニック的な話題でいつも取り上げられてしまうリムスキー=コルサコフの Bumblebee は確かにこれみよがしな曲なのかもしれないが【→ (3)】、逆にそういう技術だけの曲というのも当然存在するわけで、それは一種の 「音楽の冗談 (Ein Musikalischer Spaß)」 なのであるが、冗談のわからないスズメもいるのである。
それよりもっとエキセントリックでキモチワルい寸前まで行ってしまうのがトルコ行進曲であって【→ (4)】、それはマルカンドレ・アムランの弾くゴドフスキーと同じで、どんどんディフォルメされグロテスクな様相をまとってゆく。というよりシンプルであったはずのモーツァルトが次第に溶解して変質していくのかもしれなくて、特にワンの指の強靱さがよくわかる。

ワンのピアノは速いだけ、という評価も当たっていなくて、それはラフマニノフの《Vocalise》で知ることができる【→ (5)】。それはラン・ランが遅い曲を弾いたときの強い印象に似ていて、人間の先入観とか思い込みが、真実を覆い隠すのに強いパワーを発揮することは確かである。


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Yuja Wang/Sonata & Etudes (Deutsche Grammophon)
Sonatas & Etudes




(1)
Joshua Bell and Yuja Wang/Beethoven: Kreutzer Sonata
(3rd movement)
https://www.youtube.com/watch?v=8ktkmhJ8Fm8

参考:全曲version
https://www.youtube.com/watch?v=8NOF_ueaxJ4

(2)
Lynn Harrell and Yuja Wang/
Brahms: Sonata for Cello & Piano No 2 in F major
https://www.youtube.com/watch?v=kkMoehauE9I

(3)
Yuja Wang/Nikolai Rimsky-Korsakov (György Cziffra):
Flight of the Bumblebee
https://www.youtube.com/watch?v=fdKEUmFUMFg

参考:普通の 「熊ん蜂の飛行」 (Peter Jablonski)
https://www.youtube.com/watch?v=BUkNy9tQnxY

(4)
Yuja Wang plays Turkish March
https://www.youtube.com/watch?v=vWFcbuOav3g

(5)
Yuja Wang/Rachmaninoff: Vocalise
https://www.youtube.com/watch?v=1yTyYpWqsZU

参考:セクシー系がお好きな人のために
Yuja Wang/ Tchaikovsky: Piano Concerto No.1
https://www.youtube.com/watch?v=fjQyoD3kGwA
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ピリスのスカルラッティとモーツァルト [音楽]

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Maria João Pires (bomdia.eu/より)

この連休は珍しく時間が空いてしまって、ぼんやりとYouTubeでスカルラッティを探していたらピリスの弾くスカルラッティに行き当たった。YouTubeを利用するのは原則的に曲を検索するときの目安にする程度とは思っているのだが、やはり動画だとどのように弾いているのかとか、CDよりもずっと情報量は多いから、どうしても見入ってしまう。それにこの時期になってヒマになるより、もう少し前に時間があればピリスに行けたのにとも思うのだが後の祭りであり、青葉になってから花見に行くような間抜けな感じでしかない。

ピリスのスカルラッティはKk.208 (L.238) のA-durのソナタである【→ (1)】。ソナタといってもスカルラッティ特有の名称であり、それはごく短い。208はKk.213 (L.108) に似てゆったりとしたアンダンテだが、d-mollの213に較べるとごく明るい。
中山康子校訂による音楽之友社版ソナタ集の解説によれば、多様性のある中期の特徴が見られるとある。「伴奏つきの独奏楽器のような右手の動きは絶えず自由な装飾的な旋律を奏し叙情的で豊かな感情を表出する」 とのこと。単純な旋律のように見せかけて次々に少しだけ意外な方向に曲がって行くスカルラッティの特徴がよく出ている曲である。
第5小節4拍目から第6小節にかけてのe-cis-ais-h-dis/e-cis-gis-a-disという繰り返しの奇妙な感じがこころよい。1回目で上がった ais-h が2回目では gis-a に戻るのだが dis は戻らず、その後を支配する。第17小節から第18小節1拍目までの g-cis-e-g という繰り返し (1回目のみ最初の音が ais) はバスが cis/h/a と下がって行くスカルラッティらしい音使いで、こんな単純に見える音なのにスカルラッティは魔術師だ、といつも思ってしまうのだ。なぜそんなにスカルラッティにシンパシィを感じてしまうのかといえば、私が最初に聴き込んでいたバッハがカークパトリックだったからにほかならない。最初の刷り込みというのはおそろしいものなのである (ピリスの演奏は第24小節3拍目がIMSLPおよび音友の楽譜と違うがスカルラッティではよくあること)。

YouTubeはそのままにしておくと、勝手に次の曲がかかってしまう。次に出て来たのはモーツァルトのコンチェルト23番のアダージョだった【→ (2)】。いきなりアダージョが出て来てしまうのがさすがのYouTubeである (褒めていない)。ピリスのモーツァルトのピアノソナタはDENON盤とDG盤があって、DENONは明るくDGは暗い。それは彼女の生活や健康とも関連してきているのだろうが、そして私はDENON盤の明るさがずっと好きだったのだが、このコンチェルトはDG盤の時期に近く、そしてこの時期のこうしたアダージョを聴くと、この暗さがよけいに胸に迫ってくる。
たとえばバッハだと、そんな暗さはない【→ (3)】。このバッハはかなり近年のものであり、その音から感じられる諦念のようなものがピリスの人生に重なるのである。諦念という言葉には語弊があるかもしれない。つまり過ぎて来た時を慈しむ気持ちだ。

その後に出て来たYouTubeの自動演奏はK271だった【→ (4)】。私の最も偏愛するモーツァルトであるジュノム。これは初めて見つけた動画だったので、もちろん全部聴いてしまった。
オーケストラはエラート盤のグシュルバウアー/グルベキアンのコンビではなく、もう少し後年のガーディナー/ウィーン・フィルであるが、ジュノムはまさにピリスのためにあるような曲である。この曲はモーツァルトの中でも非常に完成度が高くて、これでもかというほどに明快で高貴なメロディの積み重ねであり、しかも難易度も高い曲だと思えるが、聴く毎に発見があり、モーツァルトの深さをあらためて知るのだ。第3楽章でオケが無くなってひとりにされてから (24’09”あたり) 縦線の無いカデンツァを経てTempo Iに戻っていく爽快感といったらない。モーツァルト自身もこの曲をよく弾いていたらしいが、やたらにソロの部分があるし、見栄えのするコンチェルトである。
(ピリスのエラート盤のジュノムのことは、このブログの初期にすでに書いた→2012年02月04日ブログ)

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Scarlatti: Sonata K.208

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Mozart: Concerto nº9 (第3楽章カデンツァ)


Maria João Pires/Mozart: Deux concertos pour piano, nº9 et nº17
(ワーナーミュージック・ジャパン)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番《ジュノム》&第17番




(1)
Maria João Pires/Scarlatti: Sonata K.208
https://www.youtube.com/watch?v=8JwVCBFAVwA

(2)
Maria João Pires/Mozart: Concerto nº23 - Adagio
https://www.youtube.com/watch?v=srfbdxAYIZ4

(3)
Maria João Pires/Bach: Concerto f-moll BWV 1056 - Largo
https://www.youtube.com/watch?v=yGHxlLFn2Fs

(4)
Maria João Pires/Mozart: Concerto nº9 «Jeunehomme»
https://www.youtube.com/watch?v=oic6uIFWwwM&t=356s
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