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トミー・エマニュエル ―《Live at Sheldon Concert Hall》 [音楽]

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Tommy Emmanuel

前ブログでジャズマスターのことを書いてから、憑きものに魅入られたように、しばらくギターの曲ばかり聴いていた。私の聴き方は断片的で、しかもジャンルがめちゃくちゃだから、ところどころにピンポイントでギター・ヒーローが存在する。
ブルースギターといえばロバート・ジョンソン、そしてジャズの始祖といえばチャーリー・クリスチャンの名前があげられるが、確かにルーツではあるのかもしれないが、2人とも若くして亡くなっているのであまりに曲数が少なすぎるし、あくまで歴史上のギタリストという位置になってしまっている。それよりソリッドボディのエレクトリック・ギターの始まりは誰なのだろうか。そのあたりが判然としない。

リック・ニールセンがカッコイイと思っていた時期があって、《In Color》(邦題:蒼ざめたハイウェイ) を繰り返し聴いていた。もっともチープ・トリックがメジャーになったきっかけはそれより後の武道館ライヴであるが、私が聴いていたのはコクトー・ツインズを後追いで聴いていた頃と同時期だから、何でそんな後になってから突然注目してしまったのか、というのが謎である。何か触発されることがあったのかもしれないが、たぶんその頃、たまたま聴くものが無かったということなのかもしれない。
チェック柄大好きでいつもキャップ、ヘンなかたちのギターだったりして、エキセントリックにおどけて見せているようなのがリック・ニールセンのキャラであるが、それでいて実はちゃんと弾いていて、しかもとても上手いというそのギャップに惹かれたのである。そしてやや時代錯誤的なアイドル・ポップみたいな路線に懐かしさのようなものも感じていた。

しかし決定的なギター・ヒーローはトミー・エマニュエルである。ジャンル的にはカントリー系でそのルーツはチェット・アトキンスあたりなのだろうが、ギターを打楽器的に使うあたりに、ピアソラが楽器を叩くのと同じような衝撃を感じたのがその最初である。

トミー・エマニュエルはオーストラリア人であるが、オーストラリアというのは地理的にやや不利なのだろうか。オリビア・ニュートン=ジョンだっていたんだし、今の世界に地理的な差は無いように感じるが、でもアメリカやヨーロッパに較べるとオーストラリアはなんとなく辺境だ。それにタル・ウィルケンフェルドの場合もそうだが、オリジナルなオーストラリア盤だと価格が高いし入手しにくい。流通的に考えるとむずかしいのだろう。
そんなこともあるし、ギター1本でインストゥルメンタルが主体というスタイルのため、トミー・エマニュエルの知名度は、特に日本ではそんなに高くないような気がする。

メディアとして入手しにくいのにYouTubeにあるライヴ動画は多いというのが何とも不思議なのだが、最近の演奏もいいのだけれど、やや昔の収録年だが最も油の乗っているように感じられるのが《Live at Sheldon Concert Hall》での演奏である。
演奏時間は2時間に近く、ラフでワイルドでギターは消耗品と割り切っているような感じもするが、そのリズムとスピード感は比類ない領域にある。常に音楽に対する喜びを聴くことができるのも彼の特質で、能天気でスポーツのような装いに騙されて、聴き出すと、つい全部聴いてしまうのが難点である。

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Cheap Trick/In Color (Sbme Special Mkts.)
In Color




Tommy Emmanuel/Live at Sheldon Concert Hall
(Mel Bay Publications, Inc.)
Live at Sheldon Concert Hall [DVD] [Import]




Cheap Trick/Surrender Midnight Special
https://www.youtube.com/watch?v=LqB9lhHqmsE

Tommy Emmanuel/Live at Sheldon Concert Hall (全)
https://www.youtube.com/watch?v=2K_-nYymYdM
あえてトミーらしいリズム感からちょっとズレるが
ハーモニクスを多用したミッシェルもいい (1:19:06~)
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ジャズマスターの蠱惑 ― Rei そして大村憲司 [音楽]

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Rei

『ギターマガジン』2017年4月号の特集は 「恋する歌謡曲。」 というタイトル。だがその内容は雑誌の性格上、全盛期の歌謡曲のバックで演奏したギタリストについてである。スタジオ・ミュージシャンあるいはツアーのサポート・メンバーとしてのギタリストの人たち。
キャンディーズとかピンク・レディは歌謡曲なのであって、J-popではない。もちろん、J-popとして、ひとくくりにすることもできるが、その頃の演歌をも含めた楽曲は、歌謡曲と形容したほうがしっくりする (しかし、それにしても各記事のトップにあるこれだけ似ていない歌手のイラストというのも最近は珍しい。わざと昭和の雰囲気を出そうとしたのだろうか)。

雑誌の最後のほうのページに、広告を兼ねたようなエピフォンの記事が掲載されていた。ギターを試奏しているのはReiという、24歳のギタリスト&シンガーソングライターである。早速、動画サイトで検索してみた。ライヴの動画とPVとがあったが、PVはあまりにシンプルで様式的で、かえって彼女の本質が見えにくいように思われる。対してライヴは尖鋭だ。
ピンクのジャズマスターを弾きながら歌う。歌は、ちょっとどぉ? という感じのときもあるが、ギターの鳴らし方はラフに見せていて、相当に上手い。
それにジャズマスターは特殊だ。ストラトやテレキャスなら正統派だが、ジャズマスターはスタンダードから 「外した感」 があって、少しスノッブで、ややワイルドで、かなりダークな感じを持ってしまう。もともとはそんなタイプのギターではなかったはずなのだけれど、ガレージパンクからニューウェイヴ、オルタナといったミュージシャンが好んで使ったりするうちに、そういうイメージになってしまった。Reiは他にブルーのリッケンバッカーも使うが、やはりピンクのジャズマスターのほうがキャラが立ってみえる。

それではエピフォンの広告記事に連動している動画はどうかというと、それはエピフォンのマスタービルト・センチュリー・コレクションという、比較的廉価なエレアコのプロモーションであるが、アコースティクな楽器のためか、ブルース一色である。タイプの異なる楽器を試奏して、その音の特徴とか弾いた印象をコメントしているのだが、明快で堂々としている。楽器によって弾く時間やコメントに長短があるのは好き嫌いが現れているのだろう。
でも、ほんの数フレーズなのに、すごく渋かったり、あるいはロバジョンまで弾いてみたり、プロモーションとしてはなかなかよくできている。
大きめのボディの楽器に対して、女の子にはサイズが大きめなんだけど、そのちょっと大きめなのを女の子がガシガシ弾くのがカッコイイみたいなコメントをしていて、思わずそんな言葉にだまされて買ってしまうひとだっているような気がする。

さて、歌謡曲特集だが、ギタリストのひとりとして大村憲司のページがあった。大村憲司は、まず赤い鳥に参加、その後幾つかのバンドを経て、YMOが売り出し中の頃のサポート・メンバーとして知られる。YMOの3人に矢野顕子、大村憲司、それに松武秀樹の6人で、海外で精力的なツアーをした。ギターは当初、渡辺香津美であったが、途中で大村に変わっている。
だが私のなによりも偏愛する大村は、大貫妙子作品におけるギターワークにある。特に《A Slice of LIfe》(1989) は最もほの暗い表情の大貫を感じさせる美しいアルバムである。ロック系の曲を大村、クラシカルな曲をジャン・ムジーが担当。大村の創りだした音は、やや深いリヴァーブのなかに佇むグループ・サウンズの頃のような懐かしい音色を持ったギター。
〈もういちどトゥイスト〉はまさに古風なステップを連想させるツイストで、それは〈果てなき旅情〉や〈ブリーカー・ストリートの青春〉と並んで郷愁を誘う情景に満ちている。具体性にもう一歩届かない分だけ、過去は観念的な神話のようにいつまでも遠いままだ (この頃の大貫妙子のことはすでに書いた →2014年08月19日ブログ)。

いつだったか、YouTubeで偶然見つけた動画がある。それはインストゥルメンタルなギターが日本で大ブームの頃、つまり60年代のヴェンチャーズなどの楽曲によるいわゆるエレキ・ブームを回想する1997年09月02日のコンサートで、タイトルは 「僕らはエレキにしびれてる」 とのことである。萩原健太が司会をしている。その最後に大村憲司が演奏をしているが、使われているギターはジャズマスターであった。ヴェンチャーズの〈Surf Rider〉とシャドウズの〈Spring is Nearly Here〉の2曲、〈サーフライダー〉はサーフィン・チューンのなかの1曲で、コピーはテクニカルなアーミングを含めて完璧であり、何よりその選曲がマニアックである。サーフィンといえば普通なら〈Piprline〉か〈Wipe Out〉なのに (〈Spring is Nearly Here〉ではストラトに持ち替えている)。
〈サーフライダー〉はアルバム《Surfing》(1963) の収録曲で、この頃だとギターはたぶんモズライトではなくまだフェンダーのはずで、ヴェンチャーズは後年、ガレージ系が流行したときその系譜のなかで再評価されたが、そのブーミーな音は当時のエフェクト・レヴェルからすれば非常に際立っていた (wikiによればモズライトの使用はアルバム《In Space》(1964) からとあるが《Surfing》から使用していたとする情報もあり、正確な時期は不明である。尚、実は〈サーフライダー〉は《Surfing》より前のアルバム《Mashed Potatoes and Gravy》(1962) に〈Spudnik〉として収録されていた曲のタイトルを変更したもので、だから本来はマッシュポテト [というダンスのステップがあったとのこと] の曲である。スパドニックとは当時のソ連の人工衛星スプートニクのこと。またリリース年についてはwikiを参照したが、オフィシャルサイトはwikiと異なっている)。

山下達郎は、ヴェンチャーズが日本のエレキ・ブームというくくりの中でだけのレジェンドとして過小評価されるのを危惧していて、また初期に日本で出されたCDの音の出力レヴェルが低いと言い、もっとVUが振り切れるくらい高くて良いのだ、と自らプロデュースしてリリースさせた経緯がある。
アナログ・テープに記録された太い音がデジタルで痩せてしまうのが許せないということだろうが、何より当時、ごく短い期間であったにせよ、歌を伴わないインストゥルメンタルが日本で大流行したという現象は特異である。

『ギターマガジン』の記事によれば、大村憲司はやや狷介な性格であったようにみうけられるが、それは音楽に対する理想が高かったことにもあるのだろう。そしてギターは何よりも音色である。大村憲司の音は、そこに単なる音楽以上のなにかを包含している。
しかし残念ながら大村は 「僕らはエレキにしびれてる」 コンサートの翌年、病没してしまう。享年49歳であった。

ジャズマスターを弾くギタリストといえばもう一人、マイ・ブラディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズがいる。シューゲイザーのカリスマであるマイブラだが、そのアルバム《Loveless》のジャケットはジャズマスターだと思えるし、ああした音を出すために有効なヘヴィーさをもジャズマスターは兼ね備えているように思える。轟音のなかに静寂がある。これはメタファーではない。(マイブラとかコクトーズのことを書くと、なぜかアクセス数が高い。ありがとうございます。マイ・ブラディ・ヴァレンタインはたとえばここ →2013年04月19日ブログ。コクトー・ツインズ→2013年08月08日ブログ。でもたいしたことは書いてないです)

以前、仕事でお世話になった先輩で、昔、ヴェンチャーズなどを聴いて (弾いたりもして) いた人がいた。その人がジャズマスターを買ったという話を聞いた。モズライトでなくジャズマスター。う~ん、わかってますね。


ギターマガジン2017年4月号 (リットーミュージック)
Guitar magazine (ギター・マガジン) 2017年 4月号 (CD付)  [雑誌]




Rei/ORB (Space Shower Music)
ORB




大貫妙子/A Slice of Life (midi)
スライス・オブ・ライフ(紙ジャケット仕様)




My Bloody Valentine/Loveless (CREAI)
LOVELESS




Rei meets Epiphone Masterbilt Century Collection
(下にスクロールすると動画あり)
http://www.digimart.net/magazine/article/2017031302445.html

Rei/black banana (live)
https://www.youtube.com/watch?v=rcWNjx70F5U

Rei Official: Space Shower News
https://www.youtube.com/watch?v=x6Kc15lh4nM

大村憲司/Surf Rider~Spring is Nearly Here
live 1997.09.02
https://www.youtube.com/watch?v=yh5N7BxSyi4

MyBloody Valentine/To Here Knows When
live Fuji Rock Festvial 2008
https://www.youtube.com/watch?v=3DEnwUAzPG4
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レトロスペクティヴなライヒ —〈violin phase〉 [音楽]

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Steve Reich

ノンサッチの《Steve Reich Phases, A Nonesuch Retrospective》を聴いている。
スティーヴ・ライヒの70歳記念に出されたCDセットということだが、今、ライヒはすでに80歳だから10年前のものだ。ノンサッチで録音された作品の集成なのは当然だとして、私の好きな〈violin phase〉が入っていなかった。タイトルは Steve Reich Phases なのに (よく調べてから買いましょう)。

というようなどうでもいいことはさておき、ライヒの〈プロヴァーヴ〉が効果的な小道具として使われているリチャード・パワーズの《オルフェオ》について私はしつこくも繰り返し書いているが、〈プロヴァーヴ〉を聴く個所はこの小説の最も美しく求心的なエピソードであり、それは砕けて落ちる青春の残滓である。そこに自らのつたない類似の記憶を重ね合わせるような行為も、あながち見当外れではないだろう。
《オルフェオ》の主人公エルズは、すでに教授職を退役した作曲家であったが、先日新聞でポール・オースターの『冬の日誌』の発売広告を見たとき漠然と思ったのは、すでに冬の時代が到来しているということなのだ。〈プロヴァーヴ〉が青春の喧噪の象徴とするのならば、ドビュッシーの〈12のエチュード〉は静謐と失意の死に限りなく近い。それは作曲家が書いた時期が年齢的にそうだったからなのではなく、曲があらかじめ持っているプロフィールを、今という時代が明確に示すからである。

〈violin phase〉の動画を探していたら、偶然、その楽譜のpdfを見つけてしまったが、こういうのは著作権的にちょっと、と思うので見るだけにとどめておく。サブタイトルとして、for violin and pre-recorded tape or four violins とある。つまりひとりでも演奏できるということである。作曲したとき (1967年) にはもちろんハードディスク・レコーディングなんて存在しないから、磁気テープによるテープレコーダーを使用することが前提となっている。
4人で演奏している動画もあったのだが、ひとりからふたり、ふたりから3人と増えていくときの入り方が映像で見るとわかりやすい。曲はミニマル・ミュージックの手法の執拗な繰り返しのパターンで、わかりやすく言えば輪唱をしているような感じなのだが、それが少しずつズレていって、また少しずつパターンが変わりながら重なることによって、一種のモアレ (干渉縞) のような状態になり、その重なりかたによって誰も弾いていないはずの音が聞こえてくるような構造になっている。つまりそれが phase である。

基調となっている10個の音の繰り返しは、楽譜を見ると6個目の音から始まっているアウフタクトで、でもこれがそのうちにズレてゆく。ただリズムは一定で、永遠の無限ループを刻む。モートン・フェルドマンでもそうだったが、実際に書かれている音とリスナーが聴く音のイメージとは異なることが多くて、むしろその錯覚のようなものを起こすように/利用するように書かれているというのがその真相だ。それは偶然の産物である部分もあるかもしれないが、多くは意図して書かれる。だから何? というふうに疑問を提示することは可能だが、その回答は 「何でもないんだから」 なのである。すべてが説明できるのならばそれは音楽ではない。

ジョン・ケージの作品のように、偶然性による音をその重要なファクターとしている作曲方法もあるが、ライヒのこの作品はかなり周到に意図された音を出そうとしていて、その志向が心地よい。音が単純な繰り返しであればあるほど、それはかえって抽象の装いを持つ。

最近知ったのだが、かつてのソヴィエト連邦の指揮者ムラヴィンスキーは、時の偏執的為政者の難癖に屈しなかったのだという。あのショスタコーヴィチでさえ、その作品が退廃的だと脅されたのに。パワーズも書いていたように 「プラトンから平壌まで、音楽を規制しようとする動きは尽きることがない」 のだ。なぜならそれは言葉の概念を超えて抽象的だからである。


Steve Reich Phases, A Nonesuch Retrospective (Nonesuch)
Phases: A Nonesuch Retrospective




Steve Reich: Violin Phase
https://www.youtube.com/watch?v=LimnkPiP9QA
or
https://www.youtube.com/watch?v=i36Qhn7NhoA
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失われたとき、見出されたとき ― 児玉桃《Point and Line》 [音楽]

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Momo Kodama (http://www.concertclassic.com/より)

ECMからリリースされた児玉桃の《Point and Line》を聴く。
ウゴルスキのメシアンについて書いたときに、この児玉桃のメシアンについても少しだけ触れたけれど (→2017年02月12日ブログ)、それは児玉のECMからの1stアルバム《La vallée des cloches》に収録されているメシアンの〈ニワムシクイ〉についてであり、ラヴェル、武満、そしてメシアンという3者からの選曲のなかの1曲であることは過去に書いた (→2014年02月22日ブログ)。

さて、ECMからの2ndアルバムである《Point and Line》はドビュッシーと細川俊夫という組み合わせである。ところがあまり予備知識もなく、いきなり聴いてみたらちょっと驚く。
収録曲はドビュッシーの《Douze Études pour piano》と細川の《Étude I~VI for piano》で、つまりどちらもエチュードと名付けれた作品なのだが、この2人の作品がほぼ交互に入っている。ドビュッシーは12曲、細川は6曲なので、ところどころドビュッシーが続く。
それだけでなく、それぞれの並べ方も番号順ではないのだ。1曲目がドビュッシーの11番、2曲目が細川の2番、3曲目がドビュッシーの3番、4曲目が細川の3番といった状態である。
18曲のエチュードがシャッフルされて配置されていると思えばよい。

なぜそのようにしたのか、ということは解説等で述べられているので、そういうコンセプトでアルバムを作るのも面白いとは思うのだけれど、あえて私の好みを言うのならば聴きにくくてしかたがない。なぜなら私はCDは一種のアーカイヴとしてとらえているからである。ドビュッシーの12曲のエチュードを聴くのなら、それを全部聴くこともあるけれど、第6曲目だけ聴きたいこともある。そのとき、6曲目がtrack6にあるのが便利なのである。
もちろんCDプレーヤーで曲順をプログラミングし直して聴くとか、自分で新たに曲順を変えてCD-Rを作ってしまうということも可能だけれど、それは本末転倒である。逆にこのようにシャッフルして聴くという聴き方だってあるが、でもそれはあくまでリスナーの好みなのであって、シャッフルを強要されるのとは異なる。

このアルバムは、たぶん、この曲順で聴いてもらいたいという意志のもとに作られているのだ。
ひとつの仮説として、ドビュッシーの第1番を最初に持ってくるのを嫌ったのではないかと私は思う。このドビュッシーのエチュードは、エチュードといってもショパンのエチュードと同じく、非常に高いテクニックを必要としていて、実際には練習曲ではなくて、あくまでコンサート用の曲目であることはショパンのエチュードと同じである。というよりショパンのエチュードへのリスペクトと考えたほうがよい。
だが残念なことにショパンのエチュードのような華がない。それはドビュッシーだからしかたがないといえばしかたがないし、その、華という安易な言葉でくくれるような範囲の外にドビュッシーはあるのだから、と思えばよいのだが、第1番は〈Pour les «cinq doigts» ―d’après Monsieur Czerny〉(五本の指のために―チェルニー氏による) というタイトルで、ドレミファソファミレドレミファソファミレといういかにも練習曲風の音で始まり、そこにとんでもない音が重なり、やがて崩れていくという過程を通してチェルニーの練習曲をおちょくっているのだ。面白いといえば面白いし、相当高度なテクニックも必要とされるのだけれど、最初にこのドレミファソファミレが聞こえてくるのはイヤな感じもする。それはシューマンのダヴィッド同盟に似た笑えないギャグみたいにとれなくもない。
それでこの第1番を、なかのほうに閉じ込めてしまおうというのが真意なのではないか、と私は勝手に推理するのである。なによりも、第11曲を最初に持ってきたかった、というのもアリである。

しかし曲を、しかも2人の、年代も異なった作曲家の作品をシャッフルして配置するとどうなるかといえば、それぞれの曲が屹立しているという聴き方をされたいと演奏家とプロディーサーは思っているのかもしれないが、むしろ全体が靄のなかに存在しているようで、ベクトルの方向がよくわからないし、私にはその説得性や必然性があまり感じられないのだ。

ちなみにこのドビュッシーのエチュードには内田光子の演奏があり、その動画もYouTubeで見ることができるが、内田と児玉の個性の違いがくっきりと明らかになって大変興味深い。
児玉桃には、どんな難曲を弾いているときでも 「どうだすごいだろう」 感がない。たとえばラヴェルの〈道化師の朝の歌〉もさらりといつのまにか過ぎてしまうような印象を受ける。児玉にとってそうした曲を楽譜の通りになぞれるのは当たり前なので、課題はその先にあるからだ。

たとえばジャズのアルバムにおいては、最初にリリースされたときの曲順に人はその印象を左右されるものである。1曲目がこれ、その次に2曲目がこれ、という記憶が何度も聴くことによって刷り込まれているからで、最近のCDでやたらにオルタネイト・テイクや未発表の曲が増やされていると、違和感ありまくりのことがよくある。
チック・コリアの《Now He Sings, Now He Sobs》というアルバムは私の聴くほとんど唯一のチック・コリアなのだが、再発のCDには〈Matrix〉から始まる盤があって、気持ち悪くてあらためて買い直したりしたものである。〈Steps―What Was〉から始まらないとナウ・ヒー・シングスではない。
でも、次に何が出てくるかわからないというベストヒット盤的な聴き方だってあるのだから、曲順にこだわるのは固陋に過ぎるのかもしれないという迷いもあるのだ。

そういうポピュラー・ミュージックのアルバムのプログラム・ビルディングに似た意識が、この《Point and Line》にはあるのではないかと思う。つまりECMはあくまでジャズから始まったレーベルであり、だからアルバム全体をひとつのイメージとしてとらえているという考え方も成り立つ。そのほうが児玉の個性は引き立つから。
だがそれは逆にいえば、一種のインスタレーション・ミュージック的なムードをも連想させるし、もっといえば単なるBGMに堕してしまう危険性もあるような気もする。曲をバラバラに拡散させることはオブジェとしては面白いが求心性は弱まるし、この場合、ピアニストのプロフィールは明確になるが、コンポーザーに対するインプレッションは飛散する。

普通のクラシックCDのようなステロタイプでないもの、というECMの方向性はわかるような気がする。それはかつてのアルヴォ・ペルトであったし、そして境界線上に位置するようなエレニ・カラインドルーでもあったはずだ。だがキース・ジャレットがいくらクラシックを弾いても、それはジャズ・ピアニストとしてのクラシックでしかないという限界をかえって色濃く見せてしまったのもまたECMなのである。
以前は見やすかったecmrecords.comが、最近は妙にデザイン優先で見にくくなったのと、音楽の本質よりもスタイルをあまりに気にし過ぎるのはどこかで通底しているのかもしれない。


Momo Kodama/Point and Line (ECM)
Debussy/Hosokawa: Point & Line




児玉桃/ECM PV: Point and Line
https://www.youtube.com/watch?v=j--4Cn5EzBo

内田光子/Debussy: 12 Études
https://www.youtube.com/watch?v=oK8AuyAjOsY
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アート・リンゼイを巡る人びと ― 別冊ele-king第5号〈アート・リンゼイ〉 [音楽]

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別冊ele-king第5号の〈アート・リンゼイ〉をぱらぱらと読んでみた。
アルバム《Cuidado Madame》はリンゼイの13年ぶりのソロアルバムだということで、そのプロモーション的な意味あいがあるのだろう。でも私はリンゼイについてはほとんど知らない。

cinra.netというサイトにリンゼイのインタヴュー記事があって、それによればリンゼイが初来日したのは1985年、トランペッターの近藤等則に招かれて、ファイブハンドレッドスタチューズというバンド名でツアーをしたのだという。メンバーはジョン・ゾーン、レック (FRICTION)、山木秀夫とのこと (Five Hundred Statues って五百羅漢ですね)。

近藤等則はアヴァンギャルドなジャズ・トランペッターでありながら、他のジャンルの演奏者と積極的にコラボした人である。フュージョンの古語としてのクロスオーヴァーでなく、わざと異種の音楽とのクロスオーヴァーにより刺激的な音を創り出すという考え方を持っていたようである。
たとえば浅川マキ《CAT NAP》(1982) とかエレファントカシマシ《東京の空》(1994) といったアルバムに参加している。

ファイブハンドレッドスタチューズの前年の1984年に、近藤はTOKYO MEETINGというイヴェントを主催したが、そのリストを見ると、ペーター・ブロッツマン、渡辺香津美のようなジャズ系の人とともに、ヘンリー・カイザー、坂本龍一といった、その頃まさに境界的なポジションにいた人たちが集められている。
その後、リンゼイは1985年の坂本のアルバム《Esperanto》に加わったり、繰り返し坂本と共演している。

しかしリンゼイのギターは単なるアヴァンギャルドではなく、その根本的な理念が異なっていることが注目すべき点である。たとえばギタリストだったらヘンリー・カイザーはそのエフェクトを含めて十分に変態だし、デレク・ベイリーはアヴァンギャルドの典型ではあるが、そのギターテクニックそのものは伝統的なジャズを踏襲した手法であり、一種のアカデミズムがそのルーツである。たとえば恒松正敏だったらベーシックはロックであり、ハウリングやカッティングのヴァイオレンスさがパンキッシュではあるが、そこから見えてくるコンセプトがアヴァンギャルドであるだけで、出音は尖鋭ではあるがアヴァンギャルドではない。
しかしリンゼイの11弦ギター (12弦から1本足りない) から出てくる音はノイズであり、それはチューニングをしていないというウソか本当かよくわからないセッティングのためである。

そうしたアヴァンギャルドさのスケールから見た場合、デレク・ベイリーの最もアヴァンギャルドな演奏は、楽器としてのギターの通常の音が出ていないemanem盤のアンソニー・ブラクストンとのデュオ (1974) であると思う。
そしてベイリーの80年代のアルバムにはジョン・ゾーン、ジョージ・ルイスとの《Yankees》(1983/Celluloid) があるが、つまりこの当時、ジョン・ゾーンというのはトレンドとして存在していたような印象がある (私はジョン・ゾーンがよくわからないので、なんともいえないのだが)。

さて、本に戻ると、アート・リンゼイとカエターノ・ヴェローゾの対談が掲載されている。2人のしゃべりかたは非常に親しい人同士の、途中を省略した会話だから、わかりにくいかもしれないがとても心に響く。たとえばリンゼイは、

 ナナー (ヴァスコンセロス) にいったんだよな。ボレロをつくってよと。
 彼は 「いや、ボレロなんてやらないよ」 って。あのときどうして言い張
 ったのかわからないけれど。ボレロはラテンのクリシェだよね。彼はな
 ぜだか、ラテンに対してアンチだったんだよな。(p.130)

ボレロはラテンのクリシェだと言い切ってしまっているので、え、そうなのか? と思うのだけれど面白い。
ナナ・ヴァスコンセロス (Naná Vasconcelos) はエグベルト・ジスモンチとの共演などで知られるパーカッショニストであるが、古いジャズのアルバムではガトー・バルビエリの《Fenix》《El Pampero》(共に1971) にも参加しているベテランであった。
リンゼイとは《Bush Dance》(1987/Antilles) にピーター・シェラーと参加したが、これはヴェローゾの《Estrangeiro》(1989) への布石だったと説明されている (p.135 注06)。

対談の最初のヴェローゾの話題はクロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』(Les mythologiques, 1964-71) の冒頭のことである。その冒頭のovertureに関してのアウグスト・デ・カンポスがヴェローゾに言ったとされる批評に興味を引かれる。

 するとアウグストは 「レヴィ=ストロースは知的な人物だ。彼はしかし、
 興味深いことに、推論を披露している。(p.129)

さらにヴェローゾは重ねて、

 いかに推論をかさねても、人は音楽そのものにはたどり着かないのだと
 彼 [カンポス] はいいたかったのだと思う。(p.130)

ヴェローゾはデ・カンポスの言うように、推論、つまり頭のなかで考えていることよりも現場主義の優位性を説くのだ。
対するリンゼイは音楽のノイズに関して、こう言う。

 話はアウグストがいったことに戻るけど、彼がいうにはノイズは音楽が
 それを求めるということだよね。(p.130)

ノイズのことは菊地成孔がそのinterviewのなかで呼応するように発言している。

 ピアソラだってタンゴにノイズを持ち込んだひとですよ。ヴァイオリン
 の弦をギュキュキュって鳴らしたり、グリッサンドとか高い位置でのダ
 ブル・ストップとか、弦の凶暴化という意味ではアート・リンゼイに近
 い。(p.092)

リンゼイにはキップ・ハンラハンとの共演アルバムもある。キップ・ハンラハンは後年プロデュース業となってアメリカン・クラーヴェというレーベルを作り、晩年のアストル・ピアソラをリリースした (《Tango: Zero Hour》(1986) など)。

ヴェローゾのボブ・ディランに対する見方にも興味を引かれる。ヴェローゾはアメリカのレイシズムの変遷をアメリカ人のルールという持論にからめて次のように言う。

 彼 [ボブ・ディラン’] はエレクトロニックな音楽に偏見をもっていたけ
 れど、発展していって、有名になったときにはロックだったんだ。その
 経緯は消えるんだ。もう彼はロックだとなったら、過去にどうだったか
 関係ない。それはブラジルでは起きないことだよ。よい意味でも悪い意
 味でも。(p.132)

つまりディランがエレクトリック・ギターを持つまでの葛藤と、最初にディランがアコースティクでない楽器を持ったことに対して批判していた人たちとその現象も、有名になってさえしまえば、すべてすっ飛ばしてしまえる、というようなことである。

リンゼイがジャン=リュック・ゴダールの映画を例にとってその音楽を語っている部分もある。

 それから、映画の世界でいえば、ゴダールがやったようなことを音楽で
 やる難しさとか。他の情報を挿入して、そのものを壊して、だけどその
 作品の魅力を失わないみたいな。モンタージュ的なことだよね。彼の映
 画はとても抽象的でいて、だけど映画のロマンスを保っている。それっ
 て曲づくりではとても難しいと思わない?(p.133)

今福龍太はそのinterviewで、自分のプレゼンテーションの際、いままでのお決まりの方法でなく、ビジュアルや音楽を使う方法を考え出しそれを実践してきたと述べる。そういうとき、リンゼイとともに使ったのがジスモンチであったと言うのだ。

 もっともよく使ったのはエグベルト・ジスモンチですね。彼の音楽には
 ユニバーサリティというか普遍性があります。(略) ジスモンチはギター
 でもピアノでもパーカッションでも、特定の楽器に過度にヴィルトゥオ
 ージティを求めることをしない。にもかかわらず、ピアノにしてもギタ
 ーにしても途方もないテクニックですから誰も真似はできないけれども。
 マニアックにひとつの楽器に沈潜するというよりは、ギターでもピアノ
 でも、音楽、あるいは音そのものがもっている普遍性に到達する。楽器
 の歴史的・文化的な固有性を超え出てゆく自由さといったらいいでしょ
 うか。(p.096)

今福はメキシコやブラジルに住んだことがあり、ブラジルはその土地が広大であるから場所によってまるで異なる国のようにいろいろな表情を見せているとのことだが、そのなかでレペンチスタと呼ばれる民衆的な吟遊詩人の話が心に残る。口伝えに歌で伝えていくそれこそがバラッドであり、そうした歌を聞き取り、小さな冊子にして一番で紐にぶら下げて売られるのがブラジルの民衆文学リテラトゥーラ・ジ・コルデル (紐の文学) であるという。

リンゼイの過激なギターワークと、まったく対照的な柔らかな歌唱との間にはどのような親和性があるのだろうか。しかし不思議にもそれはギャップではなく、融合している。そしてそのおおらかさのようなものがブラジルという土地に依存していることは確かだ。
また、リンゼイがジョン・ケージに対してどのような視点を持っているのか知りたいところだ。ケージとリンゼイの音楽はまるで異なるが、ジスモンチと違った意味で過度なヴィルトゥオージティを求めないということではなんらかの共通点があるのかもしれない。


別冊ele-king第5号〈アート・リンゼイ〉(Pヴァイン)
別冊ele-king アート・リンゼイ――実験と官能の使徒 (ele-king books)




Arto Lindsay live
https://www.youtube.com/watch?v=GkPQPDIO1qA
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あらがえないもの ― ピエール・バルーとSARAVAH [音楽]

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Pierre Barouh et Anouk Aimée
(www.francebleu.frの2016年12月28日付訃報より)

昨年末、ピエール・バルーが亡くなったことをこのSo-netブログのSpeakeasyさんの記事で知った。Speakeasyさんはいつも最も重要なポピュラー音楽の情報をもたらしてくれる。
私にとってのバルーは、つまりサラヴァである。そしてそのサラヴァというレーベル名は、私のなかでブリジット・フォンテーヌとともに記憶されている固有名詞だ。

Speakeasyさんのバルー逝去の記事に紹介されているジャケット写真はバルーのブレイクのきっかけとなったクロード・ルルーシュの映画《男と女》(Un homme et une femme, 1966) のサントラ盤である。
このジャケットが美しい。モノクロのスチルを何枚か組み合わせた上に斜めに入れた帯にタイトル文字だけが鈍い色の赤で un homme et une femme と配置されている。ジャケット左側は黒の縦帯で、左上にパルム・ドール/フェスティヴァル・ドゥ・カンヌとある。
年代を彷彿とさせる端正なデザインにもかかわらず、時代遅れでない。ここにもバルーの美学が現れているのではないか、と私は思う。

だが実は私は《男と女》という映画は観たことがなくて、ダバダバ歌っている映画くらいの認識しかなかった。バルーを尊敬しているにしては、ひどい認識である。
当時、バルーはこの映画の資金にしようと思い、その音楽を売り込もうとしたのだが、ルルーシュはまだ無名だったので、結局バルーが自分で出版することにした。それがサラヴァのはじまりである。この映画がヒットするなんて、バルー以外誰も予想していなかったのだろう。だが映画が大ヒットしてしまったため、音楽の権利を売らなかったことがかえって功を奏すことになった。

とりあえずこのサントラを聴いてみた。
曲数は少なく、さらに同じ曲のインストゥルメンタル・ヴァージョンと歌入りヴァージョンとがあって編曲で増やしているので、実際の曲数は5曲しかない。それですべてをまかなってしまっているのだ。
音楽を書いたのはピエール・バルーとフランシス・レイ。当時の録音はモノラルであるが、あまりのリアルさで聞こえてくることに驚く。

このサントラの中であえて1曲をあげるのならば、少しダークな〈Plus fort que nous〉を選んでしまう。今回のCDでは〈あらがえないもの〉という邦題が付けられている。
歌はピエール・バルーとニコル・クロワジールによるデュエット。ふたりが交互に歌い、最後に2人で歌うという構成。でもこの曲が手強い。歌詞がなんとなくわかるようにみえて、よくわからないというふうな、やや抽象的な言葉で綴られていく。

まず歌い出しはニコル・クロワジール。CDパンフレットでは次のような訳詞になっている (対訳:Lisa TANIと表記されている)。

 互いの経験をもってすれば
 もっと明晰に考えられたはず
 なのにふたりの警戒心はもう限界
 私たちは愛にあらがえない

 Avec notre passé pour guide
 On se devrait d’être lucide
 Mais notre méfiance est à bout
 L’amour est bien plus fort que nous

この訳詞に関してネットを探していたら、別の訳詞を複数に見つけた。そこではタイトルは 「愛は私たちより強く」 となっている。これは歌詞の L’amour est bien plus fort que nous を訳したものであるが、しかしタイトルは Plus fort que nous だけで L’amour est bien は無いから、邦題を 「あらがえないもの」 としたのだろう。
TANI訳は、各連の最終行に繰り返し出てくる 「L’amour est bien plus fort que nous」 をそれぞれに微妙に変えて訳していて、全体の言い回しも錬れていて、なかなかワザがある。

だが1個所よくわからないところがあって、それは4連目。バルーが2回目に歌う部分である。

 沼地で自由を謳歌するか
 檻の中で幸せに暮らすか
 僕らにはお構いなしに決めつける
 愛とは僕らにはあらがえないもの

 Vivre libre en un marécage
 Ou vivre heureux dans une cage
 Qu’importe il fait son choix sans nous
 L’amour est bien plus fort que nous

この沼地の部分について検索してみたら、「浅倉ノニーの〈歌物語〉2」 というブログに解説があった。

 marécage「泥地、湿地」が本義だが、「いかがわしい社会」といった
 意味でも用いられる。

とのことである。ネットのLarousseを見てみるとLittéraireな用法として、

 Bas-fond où l'on risque les compromissions et l'abaissement
 moral : Les marécages de la politique.

とある。bas-fondは浅瀬とか沼地のことだが、les bas-fonds de la sociétéという言い方があって、社会のどん底、さらに転じて最下層民のことを指すのだそうだ。compromission は、compromettre 巻き添えにする、の名詞形で 「かかわりあいになること、悪い意味での妥協」 とある。abaissementは低下である。
浅倉ノニー訳では当該個所は 「汚い世の中で自由に生きるか」 と意訳になっているけれど、とてもわかりやすい。他にもわかりにくい個所の注釈があり大変勉強になった。浅倉訳は素晴らしい。

ともかく、《男と女》という、ともすると軟弱に思われかねない映画の中の歌詞がこういう内容だなんて、さすがバルーというべきなのか、それとももっと敷衍して、さすがフランスというべきなのか、バルーの死をあらためて残念に思うばかりである。


Claude Lelouch/Un homme et une femme
sound track (日本コロムビア)
男と女 オリジナル・サウンドトラック 2016リマスター・エディション




Nicole Croisille & Pierre Barouh/Plus fort que nous
https://www.youtube.com/watch?v=1Od5IzOzGTQ
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Glamorous Sky — 中島美嘉 [音楽]

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少し前の話題になってしまいますが、02月05日の《関ジャム》は 「あなたの知らない音楽大学の世界」 というタイトルで、高嶋ちさ子さん他クラシック系のゲスト、その中には新垣隆先生もいたのですが先生の発言はあまり無くて残念。新垣先生より高嶋さんのほうが桐朋で先輩というのにも驚きました。
まぁそれはいいんですけど、番組最後の演奏では、中島美嘉の〈雪の華〉を渋谷すばる君が歌って、高嶋のオブリガートがからまる、おぉ、せつなくはかない雪の情景という感じでとてもよかったのです。すばる君は何か持ってるよなぁ。関ジャニはみんな楽器もうまいし、もっと評価されていいと思うのです。

その歌を聴いているうちに、あ、そうだ、以前は中島美嘉を随分聴いていた時期があったというのを思い出してしまって、しかもあの頃は流行だったのかアナログ・ディスクが出ていて、ジャケットの見た目で、よくアナログ盤を買っていました。こういうのも一種のジャケ買いなのかもね。
その頃は他にMISIAとかbirdとか、そんなのも聴いていて、今考えると何でそんなの聴いていたんだろうという感じもある……。若気の至りなのでしょうか。違うな。

MISIAとかbirdは消散してしまったけれど、中島美嘉だけは私の中でなんとなくまだ残っていて、つまりそれは〈Glamorous Sky〉があったからなんだろうと思う。〈Glamorous Sky〉は映画《NANA》の主題歌であり、中島は映画に主演して、そのキャラとして歌っていて、当時かなりヒットした曲とのこと。そうした 「なりきり」 パターンは蓮井朱夏とかRUIとか雨音薫なんかも同じで、音楽にそうしたコンセプトを持ち込むのは、その元を辿ればデヴィッド・ボウイのジギー・スターダストとかなんだろうと思う。

でも《NANA》の映画をDVDで観て、さらに矢沢あいの原作マンガも読んでみたんだけれど、《NANA》は私の感覚からすると、これだ! っていうポジションから微妙にズレているような気がしてノリきれなかったのです。大ヒット映画だったのかもしれないけれど、消費し尽くされてしまっているような気がするし、たとえて言えば、ドアが微かに開いていてそこからすきま風が吹きこんできているような感覚があって落ち着かない。もしNANAファンだった人がいたとしたら申し訳ないです。これはあくまで私の感覚なので。

あらためてキャストを見てみると、今では売れている俳優さんがまだ若い頃だったのか結構多彩で、キャスティングとしてはすごかったのかもしれないとも思います。でもその後、続編を宮﨑あおいが蹴ってしまったのも、役を選んで云々というよりは、そのすきま風のようなものに原因があったのではないかという気がしている。

中島美嘉はこの歌の中だけでナナであって、他の歌ではナナじゃない。それは彼女がいつも極端に髪型やファッションをかえていくのと同じ意味あいがあって、いつもその歌を歌としてだけでなく、ドラマとして歌っているのだと思う。
そして、そのうまいんだか、うまくないんだかよくわからない歌唱は、逆に誰にも真似できない中島美嘉なので、下にリンクした〈Glamorous Sky〉のライヴは音が不安定なんだけれど、ヴィジュアルが美しいので選んだのである。

それで話は突然、現在進行中のドラマ《カルテット》に跳ぶのだけれど、第5話では、カルテットとしてとてもやりがいのありそうな仕事が舞い込むのだが、それは見事なまでに幻想で、4人は現実のメチャクチャな下品さに翻弄される。4人とも変なコスプレをさせられ、きちんとした音を出すより見た目のカッコが大事、練習することよりオエライさんの接待をすることのほうが大事、あげくの果てに、一緒に演奏するはずだったピアニストがリハーサルできないとのことで、本番は音を出さずに弾くフリだけすることを強要される。
不満そうな4人が帰った後、プロデューサー浅木 (浅野和之) は 「こころざしのある3流は、4流だ」 と言い放つのだ。これはカリカチュアのように見えて、でも実は芸能ビジネスの本質をとらえている。もっと敷衍すればオシゴトなんてそのほとんどはこんなもの、というような現実に思い当たる。嫌なほどリアリティがある話だと思いながら観ていた。

でもカルテットの編成が、偶然かもしれないにせよ、1stヴァイオリンとチェロという外声が女性奏者であるということが、すでに、キャッチーな見た目を意識しているのと同じことになっているのかもしれなくて、それは浅木が心にもなくベタ褒めして彼ら4人に仕事を振ってきたのと、質的にはそんなに変わらないのだ。女性奏者の多いオーケストラがファンとの懇親会をすると人気があるというのも同じこと。つまり音楽でないところの音楽を狙っているというのもビジネスだし、だから誰もが美人ヴァイオリニストだったり美人ピアニストだったりする。

ただ、そうした音楽の本質と離れたドタバタの中に音楽的な片鱗がときどき垣間見えたような気がする。最低な仕事の後、その欲求不満を晴らそうと4人は野外でゲリラ演奏をするのだが、逆境や鬱屈したときにこそ音楽は輝くのだ。音楽で大金を稼ぐことと音楽の喜びとは必ずしも同一ではないし、豊穣なオーケストラが鳴るときよりも、稚拙なピアノの一音が心に響くものを持っているときはある。音楽は細部に宿る、と思う。そして本当に弾いているわけではないけれど、この前の満島ひかりのチェロの弾き方はかなりがんばっていた。

NHKの《SONGS》で宇多田ヒカルは、自分の立場はアメリカから見ても日本から見てもアウトサイダーであり、疎外感である、というようなことを言っていた。井上陽水が宇多田を形容する 「せつなさ」 のようなものはそこから発する感情であり、帰属できる故郷を持たない者は常にエトランジェなのであり、そしてそれはナボコフの持っていた蒼白の孤独に似る。


中島美嘉/TEARS (SMAR)
TEARS(ALL SINGLES BEST)(初回生産限定盤)(DVD付)




中島美嘉/DEARS (SMAR)
DEARS(ALL SINGLES BEST)(初回生産限定盤)(DVD付)




中島美嘉 2013 Glamorous Sky (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=eETzXDPnOd4


当ブログが数日前に100万PVを超えました。人気ブログと比較すれば微々たる数字ですが、このブログの内容からすれば健闘しているほうではないかと自画自賛してみてます。今後もよろしくお願い致します。

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ニワムシクイを聴く ― メシアン〈La fauvette des jardins〉 [音楽]

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Anatol Ugorski

一昨日からずっと、ウゴルスキの弾いたメシアンを聴いていた。
私は今までメシアンのピアノ曲は、ワーナー・クラシックス (エラート) の《Messiaen Edition》を基本としていた。このエラート盤のピアノはイヴィンヌ・ロリオである。もう1セット、メシアンがあって、それはブリリアント・クラシックスの《Messiaen Edition》である。そのピアノはビーター・ヒルである。DGの《Messiaen Complete Edition》は持っていない。発売時に、メシアンはもういいか、とパスしてしまったのである (買いたいと思ったときにはCDは無し)。

だが、各作曲家に関して 「とりあえず曲だけ揃っていればいい」 と思っていた私のそれまでの規準を打ち破ったのが児玉桃の〈ニワムシクイ〉(La fauvette des jardins) だった (ニワムシクイの収録されているECM盤《La vallée des cloches》のことはすでに書いた→2014年02月22日ブログ。尚、古いCDには 「庭のほおじろ」 とする表記もあり)。

昨日は、ずっと遅くなった新年会があって、公園に向かう道はいつの間にか多くの店に覆われ、住宅街にまでその触手を伸長していて、そのひとつの触手の先端にあたるところにあるいままで知らなかった店だった。道は祭日のためか、大変賑わっていて行き交う人と明るい照明、あってもなくてもよいのだけれど食指を誘われてしまう商品の数々で、まさにお祭りのようだった。
料理と会話はとりとめもなく流れてゆくが、スコセッシの映画《沈黙》を奥さんと一緒に観に行ったという人に対して、映画はひとりで観に行くものだと主張する人がいて面白かった。でも、このなかで、すでに2人は《沈黙》を観ているのだということのほうが、ずっと映画館に行ったことのない私にとっては印象に残った。

アナトール・ウゴルスキの《鳥のカタログ》(Catalogue d’oiseaux) は、かつてDG盤で出ていたのだが今は廉価盤パッケージに変わってしまっていて、調べたら、タワーレコード盤が出ているのに気がついた。これのほうが安いしオリジナルデザインだし、というのが購入の動機である。その最後に〈ニワムシクイ〉も入っている。
しかしウゴルスキの鳥は、ロリオのように立ち昇る音響ではなく吹きすさぶ音群であって、ときに暴力的に躍動する。刺激的だがちょっと疲れる。その打鍵はbarbaroなバルトークを連想したりする。

その後、ぼったくりバーのようなカラオケ店に行って、でもどこも街は人の波で、そこで私はふと気づいた。あ、これは 「星野君のヒント」 なのだと。「なぜ小鳥はなくか」、その解答はすでに出ている。〈この信仰のない時代の夜もすっかり冬のものだ。酔客ばかりのアスファルトの路をわれわれは騒ぎながら歩き、吉祥寺駅で別れた。〉せめてFunkyに行ったほうがよかったのかもしれない。

もう一度、立ち返って児玉桃の〈ニワムシクイ〉を聴いてみる。メシアンは確認するまでもなく沈黙のなかにある。しかしその沈黙の出生には、リチャード・パワーズが書いたように捕虜収容所で書かれた作品もあるのだ。それは妙に胸騒ぎのするようなピンクノイズを連想させる。信仰のない時代には不似合いなのかもしれない。
だからウゴルスキのような疾風怒濤も存在するべきだし、同時にその沈黙を純化させたようなクリアな児玉桃も存在するのだ。かつてロリオが弾いたそれはメシアンが示した規範であり、時代はそこから限りなく流れてきてしまっている。そういう意味からすると、メシアンはすでに過去の人なのだ。だが彼が書いた祈禱書は永遠に存在する。
児玉桃の回想するオルガンを弾くメシアン。オルガニストには世俗と隔離された秘教的なイメージがあるのかもしれない。たとえばセザール・フランクとか。
ぼったくりバーで飲んだ安ワインにアタマをやられたようになりながら、その情けないアタマで考えたことはだいたいそんなことだった。


Anatol Ugorski/Messiaen: Catalogue d’oiseaux
(Tower Records Universal Vintage Collection +plus)
http://tower.jp/item/4292757/
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Anatol Ugorski/Messiaen: Catalogue d’oiseaux〈Le chocard des Alpes〉
https://www.youtube.com/watch?v=hcq-gnwkNUQ

Momo Kodama/ECM recordsのPV
https://www.youtube.com/watch?v=j--4Cn5EzBo
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in other words, Fly Me to the Moon — 宇多田ヒカル《Bohemian Summer 2000》 [音楽]

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竹宮惠子の『少年の名はジルベール』という本は、『風と木の詩』を描くまでの苦難の道のりのように見えて、その本質はもちろんもっと他のところにある。こんなヘヴィーな内容だとは思わなかったので、面白かったけれど誰にも勧めない。

竹宮の最も暗い部分は風木ではなくて、『Passé Composé』に描かれたニーノ・ソルティである。私が最もシンパシィを感じるのは、華やかなエドナンの影のような息子ニーノなのだ。
それゆえに私の偏愛する竹宮作品はまさに偏っている。好きなのはたぶん、少年マンガの風合いを色濃く残している『空がすき!』(というより冬の暗さを感じさせる〈NOEL!〉) と、SF系の詩情を湛えた小品〈ジルベスターの星から〉、そして昔からの典型的なSF的構成を持った『私を月まで連れてって』である。
この作品のヒロイン、ニナ・フレキシブルはロリータの変形であり、その名前・ニナはニーノの女性形だと私は思っている。少女のなかに少年の永遠は封印される。
竹宮惠子の暗い情念をはっきりと見てしまった今、むしろエンターテインメントな作品を選び、その伝統的マンガの方法論としての物語性に没入して行くほうがホッとするし、私は以前から無意識にそのような選択をしてきた。それで正解なのだったと思う。

「私を月まで連れてって」 というタイトルは、ジャズのスタンダード・ナンバー〈Fly Me to the Moon〉からとられている。でも、普通は 「月に連れていって」 という言い方が多いので、「月まで~」 という限定的な言い回しに、竹宮の意志を見るような気がする。
ちなみに原田知世主演によるホイチョイ・プロダクションの映画《私をスキーに連れてって》というタイトルは、この曲の邦題タイトルのパロディであると思う。「月→スキー」 という変換がオヤジギャグらしくて心地よい。

バート・ハワードの書いた〈Fly Me to the Moon〉はフランク・シナトラが歌ったことで大ヒットとなりスタンダードになる素地となったといわれているが、曲の雰囲気がそれらしく感じられるのは、シナトラのようなリズムを外している歌いかたでなく、たとえばドリス・デイのようなムーディでリッチなゆったりとしたサウンドのもとでの歌のほうである。

そして、ここのところ私は宇多田ヒカルの動画をよくYouTubeなどで観たりしていたりしたのだが、そうだ! 宇多田にも〈Fly Me to the Moon〉があった、と突然気がついた。それに〈Fly Me to the Moon〉は、アナログディスクを買い逃したのが残念だったということでも覚えている。

先日のTV《マツコの知らない世界》に出演した小室哲哉が、宇多田ヒカルが出現してきたときの衝撃を語っていたが、1stアルバム《First Love》の翌年、初めてのライヴ映像である《Bohemian Summer 2000》も同様に衝撃的であった。この最初のアルバムとDVDそれぞれのインパクトがあまりに強かったために、もっとも心が弱くなったとき、私は結局そこに戻って行く。私がこのライヴで一番好きなのは〈Movin’ on without You〉だ。このドライヴ感とせちなさ、チープさを装ったプリンスのようなシンセ音。リフレインの 「せつなくなるは/ずじゃ/なかった/のに どうして」 という歌詞の切り方がカッコイイ。

ライヴで宇多田は〈Fly Me to the Moon〉も歌っているが、当然、ジャズ・ルーティンのような歌い方ではない。日本の過去の歌手、尾崎豊や山口百恵のカヴァーにおける解釈や、自己曲の、スタジオ録音とは異なる崩し方とそのテンションの高さに、あらためてその音楽の密度の濃さを実感する。


宇多田ヒカル/Bohemian Summer 2000 (EMIミュージック・ジャパン)
宇多田ヒカル BOHEMIAN SUMMER 2000 [DVD]




竹宮惠子/少年の名はジルベール (小学館)
少年の名はジルベール




宇多田ヒカル/Movin’ on without you
Bohemian summer 2000
https://www.youtube.com/watch?v=dK4ORcX4KE8

宇多田ヒカル/Addicted to You
https://www.youtube.com/watch?v=fnSZD_YPfSM

宇多田ヒカル/Fly Me to the Moon
https://www.youtube.com/watch?v=JyMEoWiY7Sk

Doris Day/Fly Me to the Moon
https://www.youtube.com/watch?v=M_CRJNKvWsk
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〈Epitaph〉を聴く [音楽]

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Jakko Jakszyk

前ブログの記事でザ・ピーナッツの〈Epitaph〉のカヴァーを聴いているうちに、その本家キング・クリムゾンのエピタフってどんなだったけ? という思いからYouTubeを探してみたら、21st Century Schizoid Bandの演奏に行き当たった。
21st Century Schizoid Band はフリップのいないクリムゾンで、wikiによれば活動は2002年から2004年となっている。バンド名はもちろんクリムゾンの1st《In the Court of the Crimson King》のメイン・チューン〈21st Century Schizoid Man〉からとられている。

21st Century Schizoid Bandは《LIve in Japan》という新宿厚生年金ホールで収録されたアルバムが出ているが、そのとき私は会場にいたので、映像を見ると当時のことが甦ってきて懐かしい。でもプログレというのは私にはよくわからなくて、チケットが余っているからというお誘いで、半分イヤイヤみたいな感じで行ったのを覚えている。
YouTubeの解説部分には Il video del concerto è stato registrato il 6 novembre del 2002 al “Shinjuku Kouseinenkin Hall”, Tokyo, Giappone, ed è eseguito dalla “21st Century Schizoid Band”, formatasi nel 2002 dagli alunni dei King Crimson.と書かれている。(ん? なぜかイタリア語)

ステージングなどは全然凝っていなくて、こんなんでいいのか? 状態だったのだが、この映像を見てもステージングだけでなく肝心の音もスカスカな感じは否めない。オールド・クリムゾニストたちの中で、このひと誰? 的なジャッコ・ジャクスジクがひとりでがんばっているという印象があった。でもその後、彼はエイドリアン・ブリューの後釜のポジションになってしまったのだから、がんばっていたのは当然だとも言える。

逆に私はプログレをほとんど知らないので、マニアックなこだわりがない。エイドリアン・ブリューは昔からのクリムゾン・ファンには評判が悪かったらしいが、なぜフリップがブリューをチョイスしたのかはよくわかるし、それはその時代に何がトレンドだったかというのと密接な関係がある (たとえばトーキング・ヘッズとか。デヴィッド・シルヴィアンとコラボしたのもそう)。フリップはすごく流行に敏感なのだ。でもそれをダイレクトに取り入れることはしない。
ブリューはクリムゾンにいたときと、ピーター・ゲイブリエルのときと、私は2回ライヴに行っただけだが、いずれもそのギターは圧倒的であった。特に、ああいうふうに弾きながら同時に歌えるというのは信じられないというプレイ場面があった。
下にリンクした〈Elephant Talk〉は随分過去のものだが、その一種の下品さが素晴らしい。フリップのギターも秀逸である。そして近年の同曲はもっとアヴァンギャルドであったはずだ。

だから最近YouTubeにupされているDGM Liveは、今のフリップの動向を伝えているが、やはり昔より今の演奏のほうが音楽はより濃密であって私は好きだ。
たとえば私は《Red》の〈Starless〉を探していたのだが、オリジナルの〈Starless〉も歴史的には優れているし、その憂愁の色合いは今は存在しないのだけれど、音色的なパワーが弱くて、古い感じがしてしまう。でもDGMの音は今の音で、クリアだし、聴かせるなにかを持っている。
2015年、パリのライヴ〈The LIght of Day〉はまさにプログレッシヴなものを持っていながら、同時に内省的で、その叙情性こそ21世紀のSchizoid Manのたたずまいなのだと思うのである。


King Crimson/Discipline (WHDエンタテインメント)
ディシプリン




21st Century Schizoid Man/Epitaph
live in Tokyo, 2002.11.06.
https://www.youtube.com/watch?v=tVLHU8Yio24

King Crimson/Elephant Talk
on air, 1981.12.04.
https://www.youtube.com/watch?v=GTQrlDzqUCA

King Crimson/Starless
DMG live
https://www.youtube.com/watch?v=FhKJgqxNDD8

KIng Crimson/The Light of Day
https://www.youtube.com/watch?v=24wD_Tcapxg
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