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立花隆『武満徹・音楽創造への旅』を読む・1 [音楽]

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(左から) 武満徹、小澤征爾、横山勝也、鶴田錦史 Toronto, 1967

立花隆『武満徹・音楽創造への旅』をやっと読み終わった。集中して読めればいいのだが、時間がとれなくて手の空いたときに読んでいたのでなかなか進まない。ギッシリ2段組で800ページ近くあるのだから仕方がないのだが、長さはあまり感じられなかった。内容的にもギッシリである。

武満徹の生前、立花がインタヴューして雑誌に掲載した内容が元になっているので、重複している個所もあるし、やや混然としている部分もある。だが、つまり 「聞き書き」 のようなものであるのにもかかわらず、立花隆流のルポルタージュになっていて、日本の経済成長期における現代音楽の動向がどうだったのかが体感できるような構成になっている。編集して整然ときれいにまとめてしまったら、この時代性を映し出しているようなパワフルな部分も薄まってしまったのかもしれないと思うと、雑誌掲載時のかたちを残したままで良かったのであろう。

ただ、本が出てからすでに1年以上が経過しているし、他の文献を参照しようとすると、この本も含めて武満徹について書かれたものはあまりにも多いので、その情報量の多さに茫然としてしまう。武満徹は音楽だけでなく、自身の多くの著作もあり、それが音楽作品と関連し合っていることもあって、すべてをひもとくのは不可能なのではないかと思う。誰もが大きな象のごく一面しか見られないという状況なのだ。
音楽作品も、もっともメインの現代音楽作品以外に、多数の映画音楽などが存在し、それは彼がまだ作曲家として売れていない頃、生活費を稼ぐ目的で作られたものを含め多岐にわたるが、それでいてどこにも武満色が感じられる。
まともに武満論を書けるような力量は私には無いので、ミーハー的な感覚をもって、ごく簡単な感想を書いてみようと思う。

一番笑ったのは、黒澤明と映画の仕事をしたときの回想の部分である。武満と黒澤は音楽的な意見が合わずにぶつかったこともあるらしいのだが、黒澤は意外に小心で、武満にズバリと不満を言わないことがあったのだそうである。そして武満が語るのには、

 朝ホテルの部屋のドアの下から、ズズズッと紙が入ってくるの。それに
 『ぼくはきみの音楽が大きらいです。黒澤明』なんて書いてあるわけ。
 (p.89)

武満はアカデミックな場で音楽を学んだことはないが、その周辺に集まっていた人びとが、何でそんなに、と思えるほど優れた個性を持っていて、そうした環境は彼の才能が人を呼び寄せるパワーとなって働いたのではないかと思わせる。
一柳慧との出会いはあまりにも偶然過ぎる。武満の下宿の前の道をチェロをかかえて通る父親と息子がいて、その息子が一柳慧だった。武満は一柳に声をかけ、そこで交友が始まった。そのとき武満19歳、一柳は16歳だったという。武満は一柳からメシアンの楽譜を借りる。メシアンなどまだ誰も知らなかった頃である。
一柳は高校卒業後に渡米して当時のジュリアード音楽院に入る。アメリカでジョン・ケージの影響を受け、日本に戻って来て、そうしたアヴァンギャルドな音楽を紹介し、また自分でも作曲した。天才的ピアニストとも言われた。小野洋子と最初に結婚したのが一柳である。

武満徹を語る場合、最も重要な作品はやはり《ノヴェンバー・ステップス》であり、立花の記述もそこへ収斂していくような構成が見て取れる。
だがそこに至るまでの数々の試行錯誤のなかで、ミュージック・コンクレートについて武満が述懐している部分が大変興味深い。ミュージック・コンクレートとは1948年にフランスのピエール・シェフェール (Pierre Henri Marie Schaeffer, 1910-1995) が創始したジャンルと言われているが、今の言葉ですごく簡単に表現するのならサンプリング音のコラージュである。だが当時、サンプリング機器などはもちろん無く、テープレコーダーにより録音した音をそのまま、あるいは変調させてストックし、さらにそれらのテープをスプライシングして完成させる作品である。シェフェールの盟友として、後にリュク・フェラーリなどの名前もある (私の偏愛する作曲家のひとりであるフェラーリについては少しだけ、すでに書いた→2012年02月03日ブログ)。

シェフェールの作品が最初に公開演奏されたランピール座の客席にいたのが、1951~52年に給費留学生としてフランスにいた黛敏郎で、黛は日本に帰ってきてからミュージック・コンクレートの作品を作る。そうした時代の風潮に武満も影響を受けるが、そのサンプリング音の作り方がものすごく原始的なのである。たとえばある自然音を録音したら、その音の入っている分の磁気テープを切断して壁に貼り付けていくのである。何百本何千本ものテープが、七夕の飾りのようなひらひら状態で分類され、あの音はどれ、と探して、持ってきてつなぎ合わせるのである。
テープレコーダーもまだ大型の時代で (といっても実際にどんなものなのか知らないが)、NHKのような専門的な場所にしか存在していなかった頃である。
おそらくモノラルか、あったとしても2chで、それらのデッキを複数に使ってピンポン録音するのだが、当然のことながらどんどんノイズは増してしまうので、限界を感じて武満はそれをやめてしまう。

今、バリー・マイルズの『ザップル・レコード興亡記』という本を読んでいるのだが、アップルの一種のウラメニューとしてザップルというのがあったのだそうで、バリー・マイルズはそのザップルを取り仕切っていた人である。
ポール・マッカートニーのアヴァンギャルド・ミュージックへの傾斜について、以前にもそのような内容の本が出ていたが、見逃してしまった。一般的なイメージとは裏腹に、ジョン・レノンは比較的コンサヴァティヴな音楽志向があり、ポールのほうがアヴァンギャルドであることが知られるようになったが、そのザップル・レコードに至る経緯の中で、Revoxを導入する話やポールがBrenellのテープレコーダーを使っていることなどが出てくる。
そしてカットアップという言葉で語られていることは、つまりテープを切り貼りしてランダムにつなぎ合わせたりすることによって音を作り出すアヴァンギャルドな手法であり、それはポールが〈エリナー・リグビー〉を書いた頃という記述で判るように1966年頃の話である。
武満がミュージック・コンクレートに出会った頃からすでに15年が経過していて、テープレコーダーも小型化されてきたのであろう。そしてアヴァンギャルドなクラシック音楽レヴェルで取り扱われていたテープ音楽が、ポップスにまで広がって来た証左であるとも言える。ザップルが始まった頃、ポールはルチアーノ・ベリオを好んでいたと書いてあるが (ザップル p.26)、武満とベリオは1961年に親交を結んでいた。ベリオはその時ちょうど、日本に滞在していたのである (p.736)。

そして武満がバーンスタイン/ニューヨーク・フィルから依頼され作曲した《ノヴェンバー・ステップス》が初演されたのが1967年11月9日。それは西洋オーケストラに日本の琵琶と尺八をソロ楽器として導入した曲で、大成功を収める。バーンスタインと武満の糸を繋いだのは若き小澤征爾であった。
その同じ年、1967年6月1日にリリースされたビートルズのアルバムが《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》である。1960年代後半は、まさにアヴァンギャルドの時代だった。

(つづく→2017年08月18日ブログ)

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武満徹&カールハインツ・シュトックハウゼン


立花隆/武満徹・音楽創造への旅 (文藝春秋)
武満徹・音楽創造への旅




バリー・マイルズ/ザップル・レコード興亡記 (河出書房新社)
ザップル・レコード興亡記: 伝説のビートルズ・レーベルの真実




小澤征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
武満徹:弦楽のためのレクイエム
live 1990.11.06. 東京文化会館
https://www.youtube.com/watch?v=lpBiLQV0lM0
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