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ビートニク詩人たちと雪 — バリー・マイルズ『ザップル・レコード興亡記』 [本]

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Charles Olson

バリー・マイルズ『ザップル・レコード興亡記』のことは幾つか前の記事に少し書いたが (→2017年05月11日ブログ)、アップルのなかで、そのアヴァンギャルドな部分を担当させようとしたレーベルのザップルにかかわり、しかしあえなく潰えてしまったそのムーヴメントについて彼は冷静に語っていて、最初は、素っ気なさのようなものを感じてしまい、その世界に入り込みにくかったのだが、次第にその意味するところがわかってきた。
当時はいわゆるサイケデリックな時代であり、いまから見るとメチャクチャで低次元なレヴェルだと思えることもある。だが、独特の熱っぽさのような情動は、さまざまにかたちを変えて伝わって来て、それは再現不能なかけがえのない時代だったのかもしれないと思わせる。

ヘルス・エンジェルスやヒッピー・コミューンなどの無軌道な行状の描写は、当時のヒッピーやサイケデリック文化の最も腐敗した部分であり、そうした無軌道さを容認したアップルがいかにビジネスとしてはシロウトで無計画でだらしがなかったということを知る。
マイルズがニューヨークに行き、人と会おうとしてもなかなか会えなかったり、資金がどういうふうに動いていて、そうすることがどういう必然性があるのかもよくわからないし、訪ねたオフィスの惨状や、無知で攻撃的で話の通じない女の描写など (p.118)、きっとその時代はそうした時代だったのだ。

興味深いのはマイルズがスポークンワードと書いているいわゆる詩の朗読のアルバムを出そうとする情熱に満ちていたことで、それは彼の嗜好を反映している部分であり、ザップルのプロジェクトのひとつとして確立しようとしていた気持ちがよくわかる。
マイルズはピーター・アッシャーとポール・マッカートニーに、テープ編集のテクニックとして 「片刃のカミソリと金属編集ブロックを使ったテープの継ぎ合わせ方」 を見せてもらったり (テープ・スプライシングのこと)、アビイ・ロードのコントロールルームでミキシング作業をするジョージ・マーティンを注意深く観察することでミキシングの実際を学ぼうとする (p.113)。意欲は感心するのだが、つまりその程度の学習でこれから自分のかかわろうとするスポークンワードのアルバムに応用してしまおうとするのだから、まだその時代が、いかに創生期であり、何のシステム化もされていなかったかということが理解できるのだ。

1969年1月29日、マイルズはニューヨークに行く。ニューヨークは雪。ファッグスというバンドのドラマー、ケン・ウィーヴァーのスポークンワード・アルバムを作りたいと思うマイルズ。
ファッグスはミュージシャンというよりも詩人が集まって音楽をやろうとしたバンドで、メンバーのひとり、トゥリ・カッファーバーグはすでに《No Deposit, No Return》(1966) という自身のスポークンワード・アルバムをリリースしていたのだという。印刷物の断片をつないで詩のかたちにする 「ファウンド・ポエム」 という技法なのだというが (p.116)。それは文字のコラージュであり、ジョン・ケージなどの方法論とも通じる。

アメリカで、マイルズが次々にビートニク詩人たちと会い、その朗読を録音する過程の回想は詩的で静謐であり、サイケデリックな世情とは遠い。マイルズはチャールズ・オルソン、アレン・ギンズバーグ、チャールズ・ブコウスキー、リチャード・ブローティガンといった詩人たちと次々に会い、アルバムを作るべく奔走する。

チャールズ・オルソンを録音するため、マイルズはナグラのテープレコーダーをレンタルする。やっと借りることができたのにもかかわらず、レンタル料は週200ドルもする。チャールズ・オルソンはいわゆるブラックマウンテン派と呼ばれる詩人で、マイルズはオルソンに会うためにグロスターに行く。そのときも雪。彼はフォート・スクエアの鉄道長屋というところに住んでいた。詩人たちは湯水のように金を浪費するアップルとは対極で、皆、貧しい。しかし貧しいが高潔である (p.123)。
オルソンは1970年に59歳で亡くなるが、その風貌は年齢よりもっとずっと老けている。オルソンには『マクシマス詩篇』という大部の詩集があるが、そのなかからも詩は読まれ録音された。

アレン・ギンズバーグはニューヨーク州オルバニーから80マイル西にあるチェリー・ヴァレー、イースト・ヒルに住んでいた。深い雪。そこは 「詩の農場」 としてアレンが手に入れた場所だったという。電気は通じていない。農場には幾人もの詩人たちが訪れる。ギンズバーグはジャック・ケルアックのアルコール中毒を矯正しようとして農場に誘うが、彼は母と一緒にいることを選び農場に来ようとはせず、その年に死ぬ。
マイルズによれば、ギンズバーグの部屋は 「時が止まったような古風な室内」 であり、古いハルモニウムがあり、アレンが作曲に使っているのだ、とマイルズは書く (p.144)。

チャールズ・ブコウスキーはハリウッドに住んでいた。西海岸に飛んだマイルズは、ニューヨークと較べてここは同じ国とは思えないという。しかしハリウッドといってもブコウスキーの住む地域は華やかさとはほど遠くて、古びた車、山になったゴミ、そうしたみすぼらしい雰囲気の街並みであった。
ブコウスキーは人から見られながら録音されることを嫌い、録音機器の操作を教わって、自分ひとりでやるという。マイルズはそれに納得し、機器を貸して引き上げる。しばらくしてから再び彼の家を訪れると録音は完成していた (p.157)。

サンフランシスコでは当時まだレコード産業が成熟していなかったため、グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインはロスアンジェルスにレコーディングに行っていた、とマイルズは書く。
しかし詩の朗読を録音するにはそんなに過剰な設備は必要ない。それでリチャード・プローティガンの録音はサンフランシスコで行うことになった。ブローティガンとその友人・知人たちによってスポークンワード・アルバムは作られていった。
しかしブローティガンとブローティガンの彼女ヴァレリー、そしてマイルズは三角関係に陥る。そのことをマイルズは他人事のように冷静に綴る。ブローティガンは彼の友人のカメラマンに自分のアルバムの写真を撮らせるが、高額な撮影料をマイルズに要求してきた。それは腹いせだ、とマイルズは言う。そしてそのカメラマンによって撮影された写真――ブローティガンとヴァレリーのそれぞれのポートレイトのことをマイルズは、あまり良い写真ではないと書くが、そんなことはないような気がする。なによりもビート・ジェネレーションの時代を彷彿とさせる表情や佇まいがその写真の命である。ブローティガンは古風な服を着ることが好きだったとのことだが、今見るとそれは二重のノスタルジアのなかに沈んでいる。

こうした詩人たちとの交流の記述は、淡々としていて、それでいて慈愛に満ちていて、でもなぜか音楽が聞こえてこない。特に東海岸の幾つもの雪のシーン、そして詩人たちの語る言葉の数々。それは言葉と、言葉の織りなすイマジネーションから成立していて、詩は詞ではないから、音楽とは少し違う。いくらギンズバーグがポール・マッカートニーと共演しても、ハルモニウムを弾いても、言葉そのものを語るとき、朗読するとき、それは音楽とは異なるものなのだ。そうしたものを含めて、それをもレコードとして残そうとしたザップル的なアヴァンギャルド指向は、しかし一瞬のひらめきでしかなかった。マイルズがアメリカにいる頃、腐敗は進行し、やがてアップルは崩壊する。
ブローティガンの録音など、かろうじてレコードとして発売された作品もあるが、マイルズの詩人たちへの思いはほとんどが無に帰した。


Listening to Richard Brautigan (Gonzo)
Listening to Richard Brautigan




アレン・ギンズバーグ/ビート・ジェネレーション (TV番組の抄録)
https://www.youtube.com/watch?v=XtTbYfCzpYE

Allen Ginsberg and Paul McCartney
playing〈A Ballad of American Skeletons〉
https://www.youtube.com/watch?v=Yr5Y4XQO7xQ

words:
https://genius.com/Allen-ginsberg-ballad-of-the-skeletons-annotated

Charles Bukowski: Friendly Advice to a Lot of Young Men
https://www.youtube.com/watch?v=oovDpLHCrSw
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スコット・ロスのスカルラッティを聴く [音楽]

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Scott Ross

1685年に生まれた作曲家にはヨハン・セバスティアン・バッハ、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、そしてドメニコ・スカルラッティがいる。歴史の中でこのように突出した人物が生まれる確率は万遍なくあることではなくて、ある時点に偏在して出現することが多いような気がする。1685年もそうした年なのかもしれない。

ドメニコ・スカルラッティ (Domenico scarlatti, 1685-1757) はアレッサンドロ・スカルラッティの息子であり、つまり作曲家二世である。あまり知られていないピエトロ・フィリポ・スカルラッティも作曲家でドメニコの兄である。
ドメニコの作品は《マリア・マグダレーナ・バルバラ王女のための555曲の練習曲》が有名である。内容的には単一楽章の数分で弾く練習曲の体裁なのだが、普通、ソナタという名称で呼ばれる。
長大な曲集であるため校訂者が複数にいて、人によって作品番号が違うが、最も使われているラルフ・カークパトリックの校訂版も一般的に手に入るのは選集に過ぎない。
カークパトリックは私が最初に買ったArchiv盤のバッハのレコードの演奏者で、でも最近までスカルラッティの研究者であることは知らなかった。彼の整理したスカルラッティの作品番号の記号はカークパトリック番号Kkであり、現在この番号で表示されることが多い (カークパトリック番号はKでもよいとされるが、通常、Kはモーツァルトのケッフェル番号なので、エラート盤ではKkの表示となっている)。

そのスカルラッティのソナタを全曲弾こうと企画し完成させたのがスコット・ロスである。
スコット・ロス (Scott Stonebreaker Ross, 1951-1989) はアメリカのチェンバロ奏者であるが、主にフランスとカナダで暮らした。スカルラッティのアルバムもRadio Franceで録音され、仏エラート盤でリリースされている。
スコット・ロスのチェンバロは、ひとことで言って明快な音であり、それは彼の資質によるものか、それともスカルラッティの作品がそもそもそうした音楽なのか、たぶんその両方なのだと思う。
スコット・ロスに対してチェンバロのグレン・グールドというような形容もあるようだが、グールドのような屈折した感情はないしトリッキーな印象もない。というよりスカルラッティはそれほどの複雑な感情を必要としていない曲なのである。たとえばバッハなどと較べると歯切れ良くストレート過ぎるのかもしれない。でもそれはもともと音楽の中心地として存在していたイタリアの栄華の音なのである。それは通俗であるとか音楽的に底が浅いとかいう意味ではなく、そうした曖昧な色味を必要としていなかったからなのだろう。長調の曲が主体であるが、ときどき混じる短調も、しんと澄み切った夕方の哀しみである。
調性的にも、バッハの平均律は例外として、スカルラッティの場合は 「普段使い」 のしやすい調性が選択されていることがほとんどである。それはこの時代のころ他の作曲家の場合も同様であり、調性はまだその調性固有の特徴を持っていた。

チェンバロという楽器の特性もあって、その鍵盤は現代のピアノのように反応速度が良くないから、たとえばアルゲリッチの弾く、まるでプレストのような速度のKk141のアレグロも、スコット・ロスの場合は、ごく普通に感じられる一曲に過ぎない。
音楽はスピードではないのである。速く指が回ればすごくてエライというものでもない (といって、アルゲリッチのスカルラッティが悪いということではないが)。もちろん指が速く動作することは必要だが、そもそも速度記号にしても、当時感じていたアレグロの標準的な速度と現代のアレグロはきっと違うはずだと思う。極端にいえば当時と現代では、1ランクくらい速度の感じ方に違いがあるのではないだろうか。

また、スコット・ロスを聴いていて思ったのはチェンバロという楽器は雑音を伴う音色であるということだ。先日話題にした武満徹の場合、彼は《ノヴェンバー・ステップス》をはじめとする日本の楽器を採用した曲についての解説で、日本の楽器はストレートな音色でなく、皆、制限されてわざと音の出しにくいように調整された楽器を用いている、と言っている。そして日本の楽器は欧米の楽器と較べるとノイズがあり、たった一音の中に機能的な音色ではない意味性があり、そしてそのノイズ (というよりそれは自然音に近似している) が独特の存在感を表すための役目を担っているというのだが、バロック時代の楽器の音も、武満が指摘しているのとはやや違う意味だが、十分にノイジーなのではないかと感じたのである。
チェンバロはピアノのようにハンマーの打鍵によって音を作るのではなく、ギターと同じように撥弦によって音を出している楽器である。弦がこすられるときに滑らかで無い音が発生する。それは今回、彼のそのかなり特徴的なアーティキュレーションも含めて聴いたからそういう感想を抱いてしまったのか、それともスコット・ロスが限定的にノイジーな演奏者であって、他の演奏者はそうではないのか、微妙なところである。特に左手で和音を作り出すときにその刺激的なざらっとした感触が、トリガー音としてリスナーの耳に達する。

スカルラッティのソナタのアプローチは多彩だ。バッハのように複雑で対位法的な様相を呈することはほとんどない。またバッハほど研究されていないために、奏者によってその演奏に 「揺れ」 が見られる。それはバロック期の装飾音がかなり自由であったということ以上の融通性を持っているように思える。そして、同じような構造のヴァリエーションの中で、しかも無機的な速度記号の表示だけで羅列されたソナタのひとつひとつが輝いているのはなぜなのだろう。


Scott Ross/Scarlatti: The Complete Keyboard Sonatas (Erato)
Scarlatti: The Complete Keyboard Sonatas




Scott Ross/Scarlatti: Sonata Kk209
https://www.youtube.com/watch?v=3vpG1PgFF34

une leçon particulière de musique avec Scott Ross
(Bach: Partita etc.)
https://www.youtube.com/watch?v=vkQp_QIzd7w

Martha Argerich/Scarlatti: Sonata Kk141
https://www.youtube.com/watch?v=wjghYFgt8Zk
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ブロッサム・ディアリーを聴く [音楽]

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blossom dearie/my gentleman friend (1961) ジャケット

ブロッサム・ディアリー (Blossom Dearie, 1924-2009) は、ピアノを弾きながら歌うニューヨーク生まれのジャズ歌手である。一度聴いたら忘れられないコケティッシュとも思える声に特徴があり、wikipediaでは light and girlish voice と表現されているので、そういうイメージでとらえられているのかと思っていたが、あらためて聴いてみると全然ベティ・ブープなどではない。シンプルな中に、しっかりと芯の通ったヴォーカルのように思う。そしてピアノが美しい。ナット・キング・コールもピアノが上手かったが、天は二物を与えることもあるのである。

ディアリーはアメリカで、ウディ・ハーマン・オーケストラ (the Blue Flames) やブルー・レイズ・バンド (the Blue Reys) などのジャズ楽団のコーラス・グループで歌っていたが (カッコ内はグループ名)、1952年にフランスに渡る。そしてパリでクリスチャン・ルグランなどとブルー・スターズというコーラス・グループを結成。このグループはレ・ドゥブル・シスを経てスゥイングル・シンガーズへと連なる系譜にある。ちなみにスゥイングル・シンガーズは8人のジャズ・スキャットのコーラス・グループとして知られ、バッハの曲をアレンジした《Jazz Sébastien Bach》(1963)という大ヒットアルバムなどがある。メンバーのひとり、クリスチャン・ルグランはミシェル・ルグランの姉である。

しかしディアリーはコーラスで歌うことから離れてアメリカに戻り、ソロのヴォーカル・アルバムとして最初に出されたのが《Blossom Dearie》(1957) である。パリの香りはこのソロの1stアルバムにも生かされており、〈It Might as Well Be Spring〉などもフランス語で歌われている。
正確には《Blossom Dearie》の前にプレスティッジ、エマーシーなどから出されたアルバムがあるが、ソロ・ヴォーカルということで考えればこのヴァーヴからのアルバムがディアリーのキャリアの第1弾と考えてよいのではないだろうか。

《Blossom Dearie》(1957) から《My Gentleman Friend》(1961) までの初期アルバム6枚をCD3枚に収めてあるReal Gone JAZZレーベルの廉価盤《Six Classic Albums》で聴いた。ピアノ・トリオにギターを加えたクァルテットというのがほとんどのフォームであり、どれもが同じパターンといえばその通りなのだが、スタンダードでメインストリームなジャズ・アルバムとして聴ける良質な音で綴られている。ところどころに入るフランス語詞も違和感がない (5枚目の《Soubrette Sings Broadway Hit Songs》(1960) のみラッセル・ガルシアによるオーケストレーションとなっているが、トゥッティで鳴るようなオケではない)。

私は長い間、アルバム2枚目の《Give Him the Ooh La La》(1958) のアナログ盤でしかディアリーを知らなかったが、1曲目の、ランニング・ベースだけで始まりそれに歌の乗る〈Just One of Those Things〉は今聴いてもスリリングだ。フランク・シナトラとは全く異なるスピードなのが心地よい。このアルバムの〈Just One of Those Things〉〈Like Someone in Love〉そして〈Between the Devil and the Deep Blue Sea〉と続く導入部は秀逸である。(でも〈Between the Devil and the Deep Blue Sea〉の邦題が 「絶体絶命」 だと初めて知ったのだが、直截すぎて……)

ざっと聴いて心惹かれるのは1枚目のアルバムのロレンツ・ハートとリチャード・ロジャースの〈Ev’rything I’ve Got〉のここちよい韻の連鎖だったりして、でもソロ第1作としての気負いもあまり感じられないのに、1曲1曲がとても練られているのはさすがである。インストゥルメンタルの〈More Than You Know〉のしっとりしたギターとピアノのインタープレイも心に沁みる。ギタリストはハーブ・エリス、マンデル・ロウ、ケニー・バレルと変わっているがいずれも名演である。
アルバム5枚目のオスカー・ハマースタインII&リチャード・ロジャースの〈The Gentleman Is a Dope〉の暗くスゥイングするヴォーカルとオーケストレーションも美しい。ガルシアは木管の使い方が洒落ている。(選択したのが2曲ともたまたまリチャード・ロジャースだったが、その作品は書かれた映画やミュージカルそのものが知られなくなっても曲だけが残る典型である。ロジャースについては→2016年03月21日ブログに簡単に書いた)
そしてディアリーの歌はほとんどがごく短い曲なのに、その空間にジャズのエッセンスが満ちている。YouTubeには若い頃から21世紀になってのライヴまで幾つもの動画があるが、年齢を重ねてからの姿も凜としていて、その基本は柔らかなBe Bopの形見である。


Blossom Dearie/Six Classic Albums (Real Gone JAZZ)
6 CLASSIC ALBUMS




Blossom Dearie/I Wish You Love
live french TV 1965
https://www.youtube.com/watch?v=4hGjzuXchGg

Blossom Dearie/Just One of Those Things
https://www.youtube.com/watch?v=x4PzlqMTaNs

追加リンクしました。
Blossom Dearie/Try Your Wings
https://www.youtube.com/watch?v=9an3X-qlo5Y
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立花隆『武満徹・音楽創造への旅』を読む・1 [音楽]

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(左から) 武満徹、小澤征爾、横山勝也、鶴田錦史 Toronto, 1967

立花隆『武満徹・音楽創造への旅』をやっと読み終わった。集中して読めればいいのだが、時間がとれなくて手の空いたときに読んでいたのでなかなか進まない。ギッシリ2段組で800ページ近くあるのだから仕方がないのだが、長さはあまり感じられなかった。内容的にもギッシリである。

武満徹の生前、立花がインタヴューして雑誌に掲載した内容が元になっているので、重複している個所もあるし、やや混然としている部分もある。だが、つまり 「聞き書き」 のようなものであるのにもかかわらず、立花隆流のルポルタージュになっていて、日本の経済成長期における現代音楽の動向がどうだったのかが体感できるような構成になっている。編集して整然ときれいにまとめてしまったら、この時代性を映し出しているようなパワフルな部分も薄まってしまったのかもしれないと思うと、雑誌掲載時のかたちを残したままで良かったのであろう。

ただ、本が出てからすでに1年以上が経過しているし、他の文献を参照しようとすると、この本も含めて武満徹について書かれたものはあまりにも多いので、その情報量の多さに茫然としてしまう。武満徹は音楽だけでなく、自身の多くの著作もあり、それが音楽作品と関連し合っていることもあって、すべてをひもとくのは不可能なのではないかと思う。誰もが大きな象のごく一面しか見られないという状況なのだ。
音楽作品も、もっともメインの現代音楽作品以外に、多数の映画音楽などが存在し、それは彼がまだ作曲家として売れていない頃、生活費を稼ぐ目的で作られたものを含め多岐にわたるが、それでいてどこにも武満色が感じられる。
まともに武満論を書けるような力量は私には無いので、ミーハー的な感覚をもって、ごく簡単な感想を書いてみようと思う。

一番笑ったのは、黒澤明と映画の仕事をしたときの回想の部分である。武満と黒澤は音楽的な意見が合わずにぶつかったこともあるらしいのだが、黒澤は意外に小心で、武満にズバリと不満を言わないことがあったのだそうである。そして武満が語るのには、

 朝ホテルの部屋のドアの下から、ズズズッと紙が入ってくるの。それに
 『ぼくはきみの音楽が大きらいです。黒澤明』なんて書いてあるわけ。
 (p.89)

武満はアカデミックな場で音楽を学んだことはないが、その周辺に集まっていた人びとが、何でそんなに、と思えるほど優れた個性を持っていて、そうした環境は彼の才能が人を呼び寄せるパワーとなって働いたのではないかと思わせる。
一柳慧との出会いはあまりにも偶然過ぎる。武満の下宿の前の道をチェロをかかえて通る父親と息子がいて、その息子が一柳慧だった。武満は一柳に声をかけ、そこで交友が始まった。そのとき武満19歳、一柳は16歳だったという。武満は一柳からメシアンの楽譜を借りる。メシアンなどまだ誰も知らなかった頃である。
一柳は高校卒業後に渡米して当時のジュリアード音楽院に入る。アメリカでジョン・ケージの影響を受け、日本に戻って来て、そうしたアヴァンギャルドな音楽を紹介し、また自分でも作曲した。天才的ピアニストとも言われた。小野洋子と最初に結婚したのが一柳である。

武満徹を語る場合、最も重要な作品はやはり《ノヴェンバー・ステップス》であり、立花の記述もそこへ収斂していくような構成が見て取れる。
だがそこに至るまでの数々の試行錯誤のなかで、ミュージック・コンクレートについて武満が述懐している部分が大変興味深い。ミュージック・コンクレートとは1948年にフランスのピエール・シェフェール (Pierre Henri Marie Schaeffer, 1910-1995) が創始したジャンルと言われているが、今の言葉ですごく簡単に表現するのならサンプリング音のコラージュである。だが当時、サンプリング機器などはもちろん無く、テープレコーダーにより録音した音をそのまま、あるいは変調させてストックし、さらにそれらのテープをスプライシングして完成させる作品である。シェフェールの盟友として、後にリュク・フェラーリなどの名前もある (私の偏愛する作曲家のひとりであるフェラーリについては少しだけ、すでに書いた→2012年02月03日ブログ)。

シェフェールの作品が最初に公開演奏されたランピール座の客席にいたのが、1951~52年に給費留学生としてフランスにいた黛敏郎で、黛は日本に帰ってきてからミュージック・コンクレートの作品を作る。そうした時代の風潮に武満も影響を受けるが、そのサンプリング音の作り方がものすごく原始的なのである。たとえばある自然音を録音したら、その音の入っている分の磁気テープを切断して壁に貼り付けていくのである。何百本何千本ものテープが、七夕の飾りのようなひらひら状態で分類され、あの音はどれ、と探して、持ってきてつなぎ合わせるのである。
テープレコーダーもまだ大型の時代で (といっても実際にどんなものなのか知らないが)、NHKのような専門的な場所にしか存在していなかった頃である。
おそらくモノラルか、あったとしても2chで、それらのデッキを複数に使ってピンポン録音するのだが、当然のことながらどんどんノイズは増してしまうので、限界を感じて武満はそれをやめてしまう。

今、バリー・マイルズの『ザップル・レコード興亡記』という本を読んでいるのだが、アップルの一種のウラメニューとしてザップルというのがあったのだそうで、バリー・マイルズはそのザップルを取り仕切っていた人である。
ポール・マッカートニーのアヴァンギャルド・ミュージックへの傾斜について、以前にもそのような内容の本が出ていたが、見逃してしまった。一般的なイメージとは裏腹に、ジョン・レノンは比較的コンサヴァティヴな音楽志向があり、ポールのほうがアヴァンギャルドであることが知られるようになったが、そのザップル・レコードに至る経緯の中で、Revoxを導入する話やポールがBrenellのテープレコーダーを使っていることなどが出てくる。
そしてカットアップという言葉で語られていることは、つまりテープを切り貼りしてランダムにつなぎ合わせたりすることによって音を作り出すアヴァンギャルドな手法であり、それはポールが〈エリナー・リグビー〉を書いた頃という記述で判るように1966年頃の話である。
武満がミュージック・コンクレートに出会った頃からすでに15年が経過していて、テープレコーダーも小型化されてきたのであろう。そしてアヴァンギャルドなクラシック音楽レヴェルで取り扱われていたテープ音楽が、ポップスにまで広がって来た証左であるとも言える。ザップルが始まった頃、ポールはルチアーノ・ベリオを好んでいたと書いてあるが (ザップル p.26)、武満とベリオは1961年に親交を結んでいた。ベリオはその時ちょうど、日本に滞在していたのである (p.736)。

そして武満がバーンスタイン/ニューヨーク・フィルから依頼され作曲した《ノヴェンバー・ステップス》が初演されたのが1967年11月9日。それは西洋オーケストラに日本の琵琶と尺八をソロ楽器として導入した曲で、大成功を収める。バーンスタインと武満の糸を繋いだのは若き小澤征爾であった。
その同じ年、1967年6月1日にリリースされたビートルズのアルバムが《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》である。1960年代後半は、まさにアヴァンギャルドの時代だった。

(つづく→2017年08月18日ブログ)

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武満徹&カールハインツ・シュトックハウゼン


立花隆/武満徹・音楽創造への旅 (文藝春秋)
武満徹・音楽創造への旅




バリー・マイルズ/ザップル・レコード興亡記 (河出書房新社)
ザップル・レコード興亡記: 伝説のビートルズ・レーベルの真実




小澤征爾/新日本フィルハーモニー交響楽団
武満徹:弦楽のためのレクイエム
live 1990.11.06. 東京文化会館
https://www.youtube.com/watch?v=lpBiLQV0lM0
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ヘンゲルブロックのマーラーを聴く [音楽]

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Thomas Hengelbrock (http://www.abendblatt.de/より)

ジョン・バルビローリのマーラーのライヴ集が伊Memories Reverenceから現在2セット発売されている。第1集に収録されている第1番は1959年1月、ニューヨーク・フィルとのカーネギー・ホールでのライヴ。歴史的に貴重な録音なのかもしれないが、モノラルだし、音もくぐもっているし、それに冬だからか聴衆の咳が多かったりして、最初は音楽に入って行けないのだが、古いフルトヴェングラーの録音と同じでそのうちに気にならなくなる。
でも最新のヘンゲルブロックのマーラーと較べてしまうと、音の鮮明さに相当な隔たりがあるのだが、でもそれは60年近い時の差があるのだからあたりまえなので、そもそも較べるほうが間違いである。

ただ、たとえば有名な第3楽章 (悲しい 「Are You Sleeping?」) などを聴き較べてみると、もっとも違いがあるのはそのアーティキュレーションであり、バルビローリはなるほど確かにバルビローリなので、それはたとえばバーンスタインなどとも異なるのだが、そうした20世紀の巨匠たちの音作りとトーマス・ヘンゲルブロックの音は著しく異なっていて、でもそれがマーラー解釈の面白さで、またそれだけ違いが出やすいのがマーラーなのだとも思う。

ヘンゲルブロックとバルタザール=ノイマンのことは前のブログに書いたが (→2017年04月16日ブログ)、ヘンゲルブロックは北ドイツ放送エルプフィルハーモニー交響楽団 (NDR Elbphilharmonie Orchester) の首席指揮者であり、ヘンゲルブロックに注目するのならば、むしろNDRを中心とした演奏活動をメインに考えたほうがいいのかもしれない。

ヘンゲルブロックのマーラー第1番のCDは、1893年ハンブルク稿に拠るものと表示されている。マーラーは1889年にこの第1番をブダペストで初演したが、失敗したといわれる。その第1稿 (ブダペスト稿) を改訂した第2稿を1893年にハンブルクで演奏した。この第2稿をハンブルク稿という。第1稿も第2稿も5楽章であり、第2楽章は 「花の章」 といわれる。
しかしマーラーは第2稿をさらに改訂し、「花の章」 を削除して4楽章にした。そして編成を4管とした。これが第3稿であり、最終的な交響曲第1番となっている。

いままで、削除された 「花の章」 を復活させる意味で 「花の章付き」 などと表示された5楽章版が存在したが、第3稿のなかに 「花の章」 を挿入したただけだったりする演奏もあったようである。マーラーは 「改訂の鬼」 みたいな人だったので、それぞれの稿のなかにも細かい違いがあり、第3稿にも幾つかの異なる楽譜が存在するようである。
ヘンゲルブロックのハンブルク稿版は、第2稿の段階のマーラーをなるべく忠実に再現した演奏とのことであるが、ハンブルクでの上演の翌年 (1894年)、さらに改訂してヴァイマールで演奏されたものをヴァイマール稿と呼び、ヘンゲルブロックの演奏はこのヴァイマール版に近いとの情報も読んだが、未確認である。

さて、ヘンゲルブロックの演奏を聴いてみると、そのクリアさとしなやかさ、全体のピュアなイメージに驚く。録音が優秀なこともあるのかもしれないが、そんなことではなく、肌理の細かい音で成り立っている印象を受ける。
第2稿と第3稿では、どの楽器がどのように違うのかを詳述している評などもあるのだが、そんなに聴き込んでもいないし、細かい専門的なことはわからないのでそうしたことは措くとして、その違いは3管と4管の差にあるのだと直感的に思う。なぜならトゥッティで鳴ったときのバランスが異なるからである。

3管は、4管と比較すればややつつしまやかであり、ヘンゲルブロックのバルタザール=ノイマンに通じる古楽的なテイストを持っている (とはいっても古典派だったら2管なのだから3管は普通なのだが)。第3稿の場合、基本は4管だが、ホルンは7本に増強されていて、パワフルさがまるで違う。
ヘンゲルブロックはそうしたパワフルさでなく、まだ若きマーラーの不安定にさすらう心を現したかったのかもしれない。特に、音の流れの中から立ち現れてくる木管にドキッとする表情がある。こうした表情はテンシュテットにもジンマンにも無かった音である。それはマーラーに対するアプローチが異なるからなのだ。
ただ、たぶんマーラーが最終的に志向したシンフォニーの音は、バーンスタイン的な執拗で起爆力のある音——不適切な言葉かもしれないがヘヴィな音だったのだろうとは思う。ヘンゲルブロックはその方法論を採らなかった。それによって生かされた部分もあるし、失われた部分もあると思う。

ndr.de/のサイトを見るとすでにマーラー第2番、第9番のプロモーション動画がある。この方向性でヘンゲルブロックの次のマーラーが出てくるのだろうと思われるが、どのような演奏になるのか、とても楽しみである。


Hengelbrock, NDR Sinfonieorchester/
Mahler: Symphonie No.1 (SMJ)
マーラー:交響曲第1番「巨人」[1893年ハンブルク稿(5楽章版)]




長い曲なのでさわりだけでも。
Hengelbrock/Mahler: Symphonie Nr.1 D-dur (live)
https://www.youtube.com/watch?v=RKA6G1icH1U&t=2781s

Hengelbrock/Mahler: Symphonie Nr.1 D-dur
2015.03.26 live: Korean ART Centre Concert Hall
https://www.youtube.com/watch?v=GDej24w2HYY

Hengelbrock/Mahler: Symphonie Nr.1 D-dur (CD)
https://www.youtube.com/watch?v=1Z2lR5jqRQo&t=32s
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