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トマス・スタンコ《December Avenue》 [音楽]

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Tomasz Stańko

トマス・スタンコ (Tomasz Stańko, 1942-) の《December Avenue》は2016年6月にレコーディングされたアルバムである。収録地は南フランスのStudios La Buissonne, Pernes les-Fontaineとある。でも、それがどこであっても、いつであっても、スタンコの音は同じだ。冷たいひとしずくの音が流れて、すっと全ての風景を変えてゆく。いつでもそこでは12月の静かな木枯らしが響いている。

スタンコ・クァルテットは、前アルバム《Wisława》(2013) と較べると、ベーシストがルーベン・ロジャース (Reuben Rogers) に変わったが、ピアニストのダヴィ・ヴィレージェス (David Virelles)、ドラムスのジェラルド・クリーヴァー (Gerald Cleaver) は同じ。
スタンコのアプローチは、どんな曲を吹いているときでも、ひとつのモニュメントをいろいろな角度から見た解析結果のようで、光を透過させたネガフィルムに浮かび上がる物体のようでもあり、しかしなぜか懐かしいにおいを感じさせる。常に同じようでいて、でもどこなのか判別のつかない夢のなかの景色に似ていて、いつも違う場所なのかもしれない。
賑わいもなく色彩の乏しい町の、その街路をたどって歩いてみると、懐かしさの亡骸だけがとり残されている。そして、もつれて前に出て行かない足。しがみつく根は、冷え切った明け方の毛布だったりする。

アルバムはスローな〈Cloud〉から始まる。終わったような終わらないような装い。何曲か続くそうした静謐の連なりは5曲目の〈Burning Hot〉で打ち破られる。繰り返すベースのリフの上にアヴァンギャルドなピアノが重なる。ヴィレージェスのピアノが、ときとしてややフリーに駆けずり回るときがスリリングで彼の本領のように思える。

7曲目の〈Ballad for Bruno Schulz〉はポーランドの不遇な作家、ブルーノ・シュルツ (1892-1942) に捧げられた曲。その悲哀ともとれるトランペットの後の8曲目〈Sound Space〉では、ベースとピアノの音数の少ない対話のように思えて、突然ピアノがセシル・テイラー化する。

そして9曲目はタイトル曲〈December Avenue〉。トランペットの上行するテーマが印象的だ。全体の雰囲気はメインストリームなジャズといってよい。
10曲目の〈The Street of Crocodiles〉は、アルコ・ベースとブラシのスネアの上に展開されるトランペット、そしてピアノの内省的なつぶやき。トランペットもピアノも点描的で、ヴィレージェスはまた異なった一面を見せる。
11曲目の〈Yankiels Lid〉はベースの効果的な刻みから始まる、ミディアムの軽快な曲。マッコイ・タイナーを一瞬連想させるようなピアノだが、長くは続かない。そしてここでも長めのベースソロ。
もともとスタンコの音楽的ルーツは、アヴァンギャルドなスタンスのプレイであり、しかしそれは破壊的でも強迫的でもなかったために、ごく中庸でスタンダード風であるという、いわば誤解を受けながらそのまま年齢を重ねてしまったような面があって、そうしたプロフィールはチャールス・ロイドに似る。さりげなさの中に隠した棘はいまだに鋭い。

ピアノのヴィレージェスとベースのロジャースの使い方が上手いのも特徴としてあげられる。キューバ生まれのヴィレージェスには多彩なテクニックがあり、何でも弾けそうな予感がする。多分にフリー寄りであり、自身のアルバム《Continuum》ではフリー・ドラマーの重鎮、アンドリュー・シリルを起用している。

スタンコのフレージングは、一音一音の粒立ちがつぶれるようにつながってしまうときがあるが、それが彼特有の音を形成しているともいえるし、そのダークな音色はあいかわらず健在だ。エキセントリックではなく、といって枯れているわけでもなく、サウンドに滋味が滲み出てきているような感じがするのは年齢を重ねたためなのだろうか。
若い頃のもっとストレートで行き場のないような音と較べると、齢をとるのも悪くないと思えるのである。


Tomasz Stańko/December Avenue (ECM)
December Avenue




Tomasz Stańko/Wisława (ECM)
Wislawa




Tomasz Stańko New York Quartet/December Avenue trailer
https://www.youtube.com/watch?v=rB7GF8KWG4E

Tomasz Stańko Quartet:
live at Jazzklubb Fasching Stockholm, 2016.4.7.
(1曲目:December Avenue)
https://www.youtube.com/watch?v=eFsC-SHjDcU
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ヘンゲルブロックのロッティを聴く [音楽]

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Thomas Hengelbrock

トーマス・ヘンゲルブロック (Thomas Hengelbrock, 1958-) に興味を持ったのは、実はマーラーなのだが、彼の立ち上げたバルタザール=ノイマンの独ハルモニア・ムンディ盤が2016年末にまとめられてリリースされたので、まずそれを聴いている。

バルタザール=ノイマン・コーラス&アンサンブルはヘンゲルブロックのいわば手兵で、主に古楽へのアプローチをするために創立されたもので、まずコーラスが1991年に、そしてアンサンブルは1995年に結成された。このハルモニア・ムンディ・エディションはその創立25周年と20周年記念のリリースとのことである。

バルタザール=ノイマンというネーミングが最初はわからなくて、ノイマンといって連想するのはマイクロフォンだからゲオルク・ノイマンGmbHのスポンサードなのだろうか、などとバカなことを連想していたのだが、その由来はバルタザール・ノイマンというバロックからロココの頃の建築家の名前なのだそうで、音楽なのになぜ建築? という疑問が残るのだが、詳しいことはよくわからない。
ヨハン・バルタザール・ノイマン (Johann Balthasar Neumann, 1687?-1753) は非常に多くの教会や城館などを作ったが、その最も有名な建築物はヴュルツブルクのレジデンツ (Würzburger Residenz) であるという。

バルタザール=ノイマン・アンサンブルができて、コーラスとアンサンブルの両方が揃ってからの第1弾の作品がロッティのレクイエムであった。
アントニオ・ロッティ (Antonio Lotti, 1667-1740) はヴェネツィアの作曲家で、ヨハン・セバスティアン・バッハ (1685-1750) より少し前の人である。ヴェネツィア出身ということから見れば、アントニオ・ヴィヴァルディ (1678-1741) と同じで、当時は音楽の中心地はまだイタリアであったから、まさにバロック最盛期の頃の作曲家のひとりである。
弟子にドメニコ・アルベルティ (Domenico Alberti) やヤン・ディスマス・ゼレンカ (Jan Dismas Zelenka) がいるが、アルベルティはアルベルティ・バスという音楽用語由来の人である (アルベルティ・バスとは、ピアノの初歩の練習曲によく出てくる、左手のドソミソドソミソみたいな奏法のこと)。またボヘミアのバッハと呼ばれるゼレンカのことはヴァーツラフ・ルクス/コレギウム1704の記事ですでに書いたが (→2012年12月23日2013年01月02日ブログ)、目立つ録音がカメラータ・ベルンしかなかった頃と較べると、最近はずいぶん知られるようになったと思う。

さて、このハルモニア・ムンディ・エディションに入っているロッティの作品は、レクイエム、ミゼレーレ、クレドの収録されている盤と、叡智のミサ (Missa Sapientiae) である。サピエンティアエはバッハのマニフィカト243aと一緒に入っている。
レクイエムというとどうしてもモーツァルトとかフォーレ、さらにはブラームスなどを連想してしまうが、ちょっと構えてしまうようなそうしたレクイエムとは趣が異なる。
たとえばゼレンカだったら、やや素朴というかローカルなシンプルさを感じてしまうが、ロッティの場合はシンプルではあるが、それはルネサンス期から受け渡されたような正統的なシンプルさであり、ヴェネチア的な明るさも持っている。レクイエムの場合は明るさという形容が不適当であるかもしれないので、透明感といったほうがよいのかもしれない。
バロックが歪んだ真珠だとするのならば、バッハなどによって歪まされる前のクリアな質感を持っている。曲の表情は単一であり、ときとして明るく、そして愁いに満ち、というように様変わりするバッハのような複雑性は無いし、曲が流れて行くなかでの変化も少ない。それゆえにそのピュアなラインが心に沁みる。

まだ全部を聴いていないし、雑な聴き方しかしていなかった報いなのだが、BGMのようにして聴いていたら、いつの間にかミサ・サピエンティアエが終わり、次のバッハのマニフィカトに入ってしまっていて、それを知らずに、なかなか陰翳が感じられていいなぁと思っていたらバッハだったというオチに気づいて、ひとりで笑ってしまった。
つまりバッハと比較するのは無理過ぎるが、でもヴィヴァルディと較べてみるのならば、随分表情が違っていて、その澄んだ和声が心地よい。ヴィヴァルディがオレンジ色とすれば、ロッティは褪めたブルー。でも寂寥の色ではなく、なにものをも示さないブルーだ。

ロッティはヴェネツィアにあるサン・マルコ寺院に一生を捧げた人である。それは1683年、当時のサン・マルコ寺院楽長ジョヴァンニ・レグレンツィに音楽を学んだことに始まる。ロッティはやがてサン・マルコのオルガニスト助手となり、だんだんと地位を上げて1704年、37歳で第1オルガニストとなった。しかしサン・マルコ寺院の終身楽長に就任したのは1736年、69歳のときであった。
ロッティは1740年に亡くなるが、その墓のあった教会は後年、ナポレオンによりとり壊されてしまい、墓は不明となってしまう。翌1741年に亡くなったヴィヴァルディも共同墓地に入れられたため墓がない。これらヴェネツィアの作曲家たちの音楽が今も確実に残っていることが、せめてもの救いである。


Balthasar-Neumann -Chor & -Ensemble
Thomas Hengelbrock
deutsche harmonia mundi edition (harmonia mundi)
EDITION




Thomas Hengelbrock, Balthasar-Neumann -Chor and -Ensemble/
Lotti: Requiem aeternam
https://www.youtube.com/watch?v=_7Vuv60YPgM
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8年前のPerfume [音楽]

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この前、《関ジャム》でPerfumeを観てしまったので、衝動的に最近のアルバムを聴いてみた。最近といっても1年前の発売なのであるが、《Cosmic Explorer》である。去年の『装苑』にこの衣裳の表紙があったことを憶えていたこともある。ホントは映像のほうが良いのだろうけれど、とりあえず音だけでも、と思って。

というのはPerfumeは初期の頃に聴いていたのだけれど、あっという間にものすごい人気になってしまったので、まぁいいか、と思ってしばらく遠ざかっていたのである。

Perfumeの音はあい変わらずといえばあい変わらず。でも音のクォリティがさらに上がっているような気がする。ただ逆にいえば、あぁこういう音ね、という既視感ならぬ既聴感的な音もあって、人間ってすぐに慣れてしまうものなんだとも思う。
今、やっとのことで立花隆の武満徹本を読み出したところなのだが、当時、ミュージック・コンクレートという手法があって、まだテープレコーダーっきり無い頃だから、創った音、採集した音をひとつひとつ磁気テープに録音して、それらをつなぎ合わせて曲を作っていたのだそうである。音の断片の入ったそういうテープを壁に貼り付けて、そういうひらひらした吹き流しのようなテープがおそらく何百本とあって (いや、もっとかも)、それらの中から使いたい音を取捨選択するという気の遠くなるような作業をしていたのだ。もちろんサンプリング機器などまだ無いし、そもそもマルチトラック・レコーダーさえ存在しない頃である。
デジタル音の最先端である中田ヤスタカのサウンドを聴きながら考えていたのはそんなことだった。

Perfumeは最初にベスト盤を聴いて、それから《トライアングル》が出た頃で、見事にハマッてしまった。でもそれはもうすでに8年も前のことなのだ。
中田ヤスタカは基本的にヴォーカルも楽器のひとつとして捉えている。だから変調させても良いし、クチパクでも構わないのだ。そのいさぎよさがスゴい。

8年前にPerfumeについて書いていたことがあったのを思い出して、ひっぱり出してみた。
自分の過去の文章をあらためて読んでみると、今の私とちょっと感覚の違う部分があるかもしれなくて、あえて再録してみる。

たとえばライヴでもクチパクがあることについて、8年前の私はこう書いている。
「ジャック・ドゥミのシェルブールの雨傘は全編が歌詞になっているミュージカル映画だが、歌っているのはカトリーヌ・ドヌーヴでなく、ダニエル・リカーリという人だ。北京オリンピックの開会式で、パフォーマーと歌手が違うことが問題になったけど、そのうちパフォーマーと歌手が異なってもいいときが来るかもしれない。Perfumeのライヴを見ていて、そう考えた」
北京オリンピックという言葉が時代を感じさせるが、そしてまだオモテだってそういうことは起きていないが、でもそうなってもおかしくない。むしろCGとか、アニメ/声優という関係性のなかで職能の分離がもっと発展していく可能性もある。

〈edge〉についてはこんなふうだ。
「《トライアングル》付属のDVDでもっとも刺激的なダンスは〈edge〉である。このフリはつまりあえて英語で書いてしまうと、deaf & blindなのだと思う。マルソーの壁があるのはシャレだろうけれど」

〈edge〉の歌詞は当時、話題になった。

 誰だっていつかは死んでしまうでしょ
 だったらその前にわたしの
 一番硬くてとがった部分を
 ぶつけて see new world
 say yeh!

「see new world」 が 「死・ぬ・わ」 の語呂合わせというのがそれだが、今、読むと 「わたしの一番硬くてとがった部分をぶつけて」 という個所が鋭くささる。それに 「いつか死ぬ前に自分で死ぬ」 のだ。でも、そんなに深い意味はない。なぜなら音はサウンドでしかないからだ。母音 「い」 「う」 「あ」 の連鎖でしかない。

ただ、このアルバムとDVDの中心となっている曲は、Perfumeなのにあえて踊らないという〈I still love U〉である。これは今聴いても色褪せていない。

「DVDのトップにも入っていますが、このアルバムのメイン曲は I still love U です。youじゃなくUっていうのがプリンスっぽい。

 キミをどんなに想い続けても
 あたしにできることなんかなくて
 夕焼けみたいに沈む気持ちを
 胸にしまいこむ

「夕焼けみたいに沈む気持ち」 っていうのが妙に和風で、森高のディスカバー・ジャパン的な味があります。でもDVDの画像を見ると、これってマニエリスムですね。ズバリ言っちゃえば、キモチワルイかどうかのギリギリのところでやってる。

キモチ悪さは、サビの 「I still love U 抜け出せない」 のところにもあって、つまり4小節目と12小節目の最後が、短調にもかかわらずトニックマイナーじゃなくトニックで終止。これがキモチ悪くてキモチイイ!んです。繰り返し聴きのリピートに耐えます。

 震えた気がして電話を見て
 気のせいだとがっかりしたりもして
 次はいつになるとあえるかな
 思い続ける

「がっかりしたりして」 じゃなく 「がっかりしたりもして」、「あえるかなと思い続ける」 じゃなく 「あえるかな/思い続ける」、この違いが胸に痛いです」

と8年前の私は書く。
歌詞を聴かないはずの私が、細かいことに気がついているのはそれだけ聴き返していたのに違いない。
EQで音を補正するのは過去のことで、音をいじることは常に音を劣化させる方向へとシフトしている。むかしのAMラジオの同調がズレていくように、汚していくことが終着点で、フェイズもノイズも、すべてはダメージデニムと同じだ。

その他の曲については、
「〈NIGHT FLIGHT〉ってタイトルはサン=テグジュペリからのパクリです。そしてこのリズム・パターン、っていうかシークェンス・パターンはYMOの〈テクノポリス〉です。インダストリアル・ミュージック的な音が笑わせる (ホメ言葉です)。
あと最後の曲〈願い〉の出だしのメロディー部分は、鈴木あみの〈OUR DAYS〉ですね。これらのことってパクリっていえばそうなんだけど、たぶんワザとやってますよね~」

ああ、確かに。鈴木あみの後期はクォリティが低下していて音痴だったりするのにもかかわらず、そのレイドバックしたルーズさがなぜか心地よい。それはあまりにひねくれた見方かもしれないのだが。
でも最後のシメの言葉がもっと笑わせる。
「最後に、このPerfumeの3人のキャラ分担とノリって私はマジックナイト・レイアースだと思うんだけど」

その頃、CLAMPを読んでいたということもあるけれど、3人という単位はどうしてもそういうパターンになってしまうというのが、無難な解釈なんだろうと思う。でもレイアース、いいなぁ。そういうこと、最近の私は全然考えなくなってしまったし。

8年前のPerfume、あと2年経つと10年目の毬絵。あ、なんでもないです。
ところで《Cosmic Explorer》というのは……以下次号。


Perfume/TOKYO GIRL (Universal Music)
TOKYO GIRL(初回限定盤)(DVD付)




Perfume/COSMIC EXPLORER (Universal Music)
COSMIC EXPLORER(初回限定盤A)(2CD+Blu-ray)




Perfume/TOKYO GIRL
https://www.youtube.com/watch?v=vxl4gsvgEQY

Perfume/I Still Love U
https://www.youtube.com/watch?v=CZa4fyhQXBc

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ジェフティは五つ — ハーラン・エリスン [本]

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Jeffty is Five

年に1回出るSFマガジンの別冊『SFが読みたい!2017年版』のランキング海外篇第1位はハーラン・エリスンの『死の鳥』だった。エリスンの文庫本は昨年の8月に出版されているので、いまさらの話題ではあるが、さすがエリスンである。

エリスン (Harlan Ellison, 1934-) 名義の小説の邦訳本は今までに1冊しかなくて、それは『世界の中心で愛を叫んだけもの』(The Beast that Shouted Love at the Heart of the World, 1969) である。後年、似たタイトルの日本の小説が出されたことがあるらしいがよく知らない。
今回の『死の鳥』は The Death Bird and Other Stories, 2016 という英語タイトルが一応付けられているが、日本編集の短編集である。
ちなみに第4位はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『あまたの星、宝冠のごとく』であり、新作のなかでのこの2冊は独特の光彩を放っている。
エリスンはカルト的な人気がありながら、その作品の翻訳が無いことで有名だ。翻訳が無いことによってカリスマ性が余計に高まるという皮肉な結果となっていた。今回纏められたのは雑誌に掲載されたままだった作品がほとんどであり、「やっとのことで」 という感慨がある。書店で見たら、すでに3刷になっている。

エリスンはSF関連のアンソロジストとして高名であり、またTVドラマの脚本家としての仕事も多い。ja.wikiによれば日本でよく知られるドラマとして、《バークにまかせろ》《宇宙大作戦》《ルート66》《アウターリミッツ》《アンタッチャブル》《原子力潜水艦シービュー号》《0011ナポレオン・ソロ》《ヒッチコック劇場》が挙げられている。

『死の鳥』の収録作品のなかにはもちろん 「ジェフティは五つ」 も入っていた。
〈Jeffty is Five〉は1977年のF&SF誌のエリスン特集の際に書かれて掲載された短編であり、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞、英国幻想文学賞、ジュピター賞受賞作品である。翻訳がSFマガジン1979年10月号に掲載されたが、その後、本にはなっていなかった。

ぼくが五つの頃、ともだちのジェフティも五つ、ところがぼくは成長して大人になっていくのにジェフティはいつまでも5歳のままなのだ。(おまえはエドガー・ポーツネルか! とツッコミたくなる)。ジェフティの両親は彼が成長しないことに恐怖とあきらめの感情を抱いている。しかし、そのジェフティとぼくは子どもの頃と変わりなく遊んでいる。
ある日、ジェフティはぼくにキャプテン・ミッドナイトの秘密暗号解読バッチを見せてくれる。それは新品のようで、今、そんなものがあるわけがないので、ぼくはびっくりする。でもジェフティはそれを郵便で受け取ったばかりなのだ。ジェフティは5歳の頃、聴いていたラジオの番組を今でも聴いているのだ。
それは昔の番組の再放送なのではなく、ジェフティにとっては毎日耳に入って来る新しい番組なのである。ジェフティと一緒にいるときだけ、ぼくもその番組を聴くことができるのだ。

いつも攻撃的なエリスンにしては非常にナイーヴで、そして悲しい結末のファンタシィなのだが、2人の語る固有名詞の多さがマニアックでカルトなのである。
それはラジオドラマやパルプマガジンなどのタイトルや登場人物なのだが、〈スーパーマン〉とか〈グリーン・ホーネット〉ならかろうじてわかるけれど (といってもグリーン・ホーネットなんて名前しか知らない)、〈ザ・シャドウ〉〈ドク・サヴェジ〉とか〈ジャック・アームストロング、オール・アメリカン・ボーイ〉〈キャプテン・ミッドナイト〉〈テネシー・ジェッド〉などになるとタイトルさえ初めて聞くものばかりだ。

この作品で最も重要なドラマである〈キャプテン・ミッドナイト〉について調べてみると、wikipediaによれば1938年から1949年にラジオ放送されていたいわゆる冒険活劇である。〈テネシー・ジェッド〉はwikiにも項目が無く、1945年からABCで放送された西部劇らしいのだが、よくわからない。
つまりここに書かれているのは、作者のエリスンが子どもの頃、聴いたり読んだりしていたヒーローものの回想なのだ。だから1940~50年代頃にアメリカで幼少期を過ごした人にとっては非常に郷愁を誘うものなのだろう。ひとつひとつのタイトルが全く見知らぬものであるはずなのに、懐かしさまで湛えて迫ってくるのがまさにエリスンの筆力である。
日本のドラマと比較するのなら、上記アメリカのドラマよりは年代が新しくなるが、月光仮面とか赤胴鈴之助の類いの、創生期の作品といえる。

語り手であるぼくとジェフティの関係が崩壊するのは、ぼくが自分の商売にかまけてしまい、ついジェフティを置き去りにしてしまった行動をとったことなのだが、ぼくのその時の商売というのがソニーの新しいカラーテレビを売り込むという話なのだ。つまりこの作品は 「1977年から見た1940年代の懐かしさを語っているぼく」 というアプローチでもあるのだが、2017年の視点から見ると、1977年という時代もすでに懐かしいノスタルジアのなかにあるわけで、二重のノスタルジアが生じてしまう結果となる。
〈スーパーマン〉だって、エリスンが思い描いているのはリメイクされた最近の映画などではなくて、初期の頃のアメリカン・コミックでありテレビドラマなのだろうと思う (スーパーマンもコミックストリップの後、ラジオドラマがあったらしいのだがwikiにはそれ以上の詳しい記述が無い)。

今の映画のほうが、昔のラジオドラマや粗悪な紙質のパルプマガジンよりも数段上のビジュアルを再現できるし、CGの進歩がそうしたSF風な作品のリアリティをより高くする。でもそのかわりに人間は、古い真空管のラジオと一緒に、なにか大切なものを失ってしまったのではないだろうか。

     *

『SFが読みたい!2017年版』の施川ユウキのマンガ、笑いました。「口がないけど叫ぶチクタクマン」 とか。これって吾妻ひでおですよね? あ、リスの檻だ! 酉の市は、死の鳥→鳥の死→酉の市という流れで。


トップ画像:
Harlan Ellison Reads Jeffty is Five
(The Kilimanjaro Corporation, 1982)
Illustration: Jane Mackenzie
画像の向かって右、少年の背後にあるのが当時のラジオである (念のため)。

ハーラン・エリスン/死の鳥 (早川書房)
死の鳥 (ハヤカワ文庫SF)




ハーラン・エリスン/世界の中心で愛を叫んだけもの (早川書房)
世界の中心で愛を叫んだけもの (ハヤカワ文庫 SF エ 4-1)

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《ドナウエッシンゲン音楽祭2015》を聴く [音楽]

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Mark Andre

ドナウエッシンゲン音楽祭 (Donaueschinger Musiktage) はドイツで開催されている現代音楽のイヴェントである。歴史的には1921年に始まった室内音楽祭が、第2次大戦後も何度か名称を変えながら継続されてきて、もうすぐ100年になろうとする伝統のある音楽祭である。
開催地のドナウエッシンゲンはシュヴァルツヴァルト (黒い森) にある人口2万人ほどの町である。シュヴァルツヴァルトという想像力を刺激する魅惑的な固有名詞から連想するのはメルセデスのシュトゥットガルトとかF1のホッケンハイムなど、自動車にゆかりのある地名であるが、ドナウエッシンゲンもダルムシュタットと並んで音楽の分野では有名な町である。
ナチスの強権により当初の理念と異なるプログラムを組まざるを得なかった時期もあり、その結果として戦後しばらくの間、評価を失ったが再び復活して現在に至っているとのことだ。

このドナウエッシンゲンの記録が、独NEOS盤でリリースされているのがずっと気になっていたが、その年によって枚数が異なっていたり、それにドナウエッシンゲンの基本的なポリシーは初演の曲ということになっていて、それを聴くのは一種の賭けである。いいかもしれないし、そうでないかもしれない。
以前の盤のなかにはブーレーズが振った年もあるのだが、とりあえず現時点で一番新しい2015年盤を聴いてみた。

収録されているのは6曲。作曲家は、ゲオルク・フリードリヒ・ハース、ヨハネス・ボリス・ボロウスキ、シュテファン・プリンス、マーク・アンドレ、フランチェスコ・フィリデイ、ヨアフ・パソフスキ。ん~、全然知らないや。

ざっと聴いてみたなかではマーク・アンドレの《„über“ for clarinet, orchestra and live electronics》が印象に残った。
冒頭、全然音が出て来ない。ヴォリュームを上げてみると、ノイズのようなごく小さな音が入っているのだが、音量がだんだん大きくなってきても各音は断片的で、連続した音の連なりにはなかなか達しない。ソロ楽器となっているクラリネットもなかなか本来のクラリネットの音を発さない。次第に音数が多くなってくると、パーカッシヴな音が支配的となる。そうした流れに覆いかぶさるようにして、クラリネットが音を引き摺りながらだんだんと正体を現してくる。
9’00”を過ぎてから、やや違うアプローチになり、クラリネットとオーケストラの音が増してくる。しかしオケの音は不穏だ。持続音と細かく変化するパルス的な音の錯綜。タイトルにライヴ・エレクトロニクスとあるが、そうした電気的な処理の音と生音との境目が曖昧になるように意図されている。
18’00”前後からもやもやした音が螺旋のように続き、それが終わるとクラリネットの早くて断続的なパッセージ。いつもバックグラウンドのどこかでセミが鳴いていたり鈴が鳴っているようなイメージ。22’50”あたりからの一定のリズムに乗ったクラリネットの、相変わらず断続的ないななきが繰り返される。
リズムが収まると、長く引き伸ばされた音が交錯し、27’50”頃から長いサステインを打ち倒そうとする打撃音が何度も炸裂する。
29’45”を過ぎてそれが収まると、ささやきと風、そしてその風の道をくぐもったクラリネットが通り過ぎる。強風は静まり、嵐の後の風のような、曇った音。バウンドするクラリネット。クラリネットは内省的でいつもヴェールがかかっている。それがときどき薄くなって、実像が垣間見える。
34’30”を過ぎてから音は沈黙し、ごく微細に。ほとんど停まってしまったような音楽。36’40”より後はかすかに音の残滓があるだけで、やがて音楽そのものの死となる。

現代音楽といってもその音の作り方に、ともするとステロタイプな印象を感じるときがある。それはごく私的で感覚的なもので、どこがどうだから、という理論的なものはない。アンドレのこの曲から感じられる潔癖さと鋭敏さは、そうした親密さや既視感からやや離れているが、それでいて孤絶感のような暗い表情とも違う。いまは曇り日なのだが、これから晴れるのか、それとも雨になるのかわからないような、繋留された場所・時間の不安定なここちよさのようなもの。スフォルツァンドは計算されていて、決して暴力的にならない。ほとんど音の無い部分に、なにかの音がある。

マーク・アンドレ (Mark André, 1964) はヘルムート・ラッヘンマンの弟子であり、フランス人だがドイツで作曲活動をしていて、名前のAndréのアクサンテギュがとれている。タイトルには《...als...》とか《üg》《hij》、そしてこの《über》など、略号のような短いものが多い。また、音価や音高に対する指示が厳密なのが特徴だとのことだ。
たとえば《Contrapunctus für Klavier》(1998/1999) という、やや古い作品が楽譜付きでYouTubeにあったのだが、煩雑に変わる拍子、強弱記号、3:♪といった指定など、難解過ぎる書法である。

アンドレ以外の曲では、フランチェスコ・フィリデイの《Killing Bach》が聴きやすい。キリング・バッハというタイトルは刺激的だが、一種のコラージュの積み重ねであって、ときどき懐かしい音が湧き出すように現れるのが過去の滅びた風景を幻視するようである。
ゲオルク・ハースの《Oktett für Posaunen》は脱力したように下降するトロンボーンがキモチワルくてインパクトがあるので、ぬるぬるした感触が好きな人にはたまらない曲かもしれない。

尚、アーチー・シェップに《Life at the Donaueschingen Music Festival》というジャズのアルバムがあるが、1967年のドナウエッシンゲンでのライヴ (SWF-Jazz-Session) とある。フリー・ジャズが音楽祭の一環としてセッティングされたのだろう。演奏日の1967年10月21日はジョン・コルトレーンの死後約3カ月であり、アルバムのタイトル曲〈ワン・フォー・ザ・トレーン〉(といってもこれ1曲だけなのだが) は、コルトレーンへのレクイエムという意味合いが込められている。


Donaueschinger Musiktage 2015 (NEOS)
Various: Donaueschinger Musikt




Mark Andre: „über“ for clarinet, orchestra and live electronics
https://www.youtube.com/watch?v=71So38QKPGI&t=2048s

Mark Andre: Contrapunctus für Klavier
https://www.youtube.com/watch?v=MjE6uTVrUNU
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