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トミー・エマニュエル ―《Live at Sheldon Concert Hall》 [音楽]

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Tommy Emmanuel

前ブログでジャズマスターのことを書いてから、憑きものに魅入られたように、しばらくギターの曲ばかり聴いていた。私の聴き方は断片的で、しかもジャンルがめちゃくちゃだから、ところどころにピンポイントでギター・ヒーローが存在する。
ブルースギターといえばロバート・ジョンソン、そしてジャズの始祖といえばチャーリー・クリスチャンの名前があげられるが、確かにルーツではあるのかもしれないが、2人とも若くして亡くなっているのであまりに曲数が少なすぎるし、あくまで歴史上のギタリストという位置になってしまっている。それよりソリッドボディのエレクトリック・ギターの始まりは誰なのだろうか。そのあたりが判然としない。

リック・ニールセンがカッコイイと思っていた時期があって、《In Color》(邦題:蒼ざめたハイウェイ) を繰り返し聴いていた。もっともチープ・トリックがメジャーになったきっかけはそれより後の武道館ライヴであるが、私が聴いていたのはコクトー・ツインズを後追いで聴いていた頃と同時期だから、何でそんな後になってから突然注目してしまったのか、というのが謎である。何か触発されることがあったのかもしれないが、たぶんその頃、たまたま聴くものが無かったということなのかもしれない。
チェック柄大好きでいつもキャップ、ヘンなかたちのギターだったりして、エキセントリックにおどけて見せているようなのがリック・ニールセンのキャラであるが、それでいて実はちゃんと弾いていて、しかもとても上手いというそのギャップに惹かれたのである。そしてやや時代錯誤的なアイドル・ポップみたいな路線に懐かしさのようなものも感じていた。

しかし決定的なギター・ヒーローはトミー・エマニュエルである。ジャンル的にはカントリー系でそのルーツはチェット・アトキンスあたりなのだろうが、ギターを打楽器的に使うあたりに、ピアソラが楽器を叩くのと同じような衝撃を感じたのがその最初である。

トミー・エマニュエルはオーストラリア人であるが、オーストラリアというのは地理的にやや不利なのだろうか。オリビア・ニュートン=ジョンだっていたんだし、今の世界に地理的な差は無いように感じるが、でもアメリカやヨーロッパに較べるとオーストラリアはなんとなく辺境だ。それにタル・ウィルケンフェルドの場合もそうだが、オリジナルなオーストラリア盤だと価格が高いし入手しにくい。流通的に考えるとむずかしいのだろう。
そんなこともあるし、ギター1本でインストゥルメンタルが主体というスタイルのため、トミー・エマニュエルの知名度は、特に日本ではそんなに高くないような気がする。

メディアとして入手しにくいのにYouTubeにあるライヴ動画は多いというのが何とも不思議なのだが、最近の演奏もいいのだけれど、やや昔の収録年だが最も油の乗っているように感じられるのが《Live at Sheldon Concert Hall》での演奏である。
演奏時間は2時間に近く、ラフでワイルドでギターは消耗品と割り切っているような感じもするが、そのリズムとスピード感は比類ない領域にある。常に音楽に対する喜びを聴くことができるのも彼の特質で、能天気でスポーツのような装いに騙されて、聴き出すと、つい全部聴いてしまうのが難点である。

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Cheap Trick/In Color (Sbme Special Mkts.)
In Color




Tommy Emmanuel/Live at Sheldon Concert Hall
(Mel Bay Publications, Inc.)
Live at Sheldon Concert Hall [DVD] [Import]




Cheap Trick/Surrender Midnight Special
https://www.youtube.com/watch?v=LqB9lhHqmsE

Tommy Emmanuel/Live at Sheldon Concert Hall (全)
https://www.youtube.com/watch?v=2K_-nYymYdM
あえてトミーらしいリズム感からちょっとズレるが
ハーモニクスを多用したミッシェルもいい (1:19:06~)
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ジャズマスターの蠱惑 ― Rei そして大村憲司 [音楽]

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Rei

『ギターマガジン』2017年4月号の特集は 「恋する歌謡曲。」 というタイトル。だがその内容は雑誌の性格上、全盛期の歌謡曲のバックで演奏したギタリストについてである。スタジオ・ミュージシャンあるいはツアーのサポート・メンバーとしてのギタリストの人たち。
キャンディーズとかピンク・レディは歌謡曲なのであって、J-popではない。もちろん、J-popとして、ひとくくりにすることもできるが、その頃の演歌をも含めた楽曲は、歌謡曲と形容したほうがしっくりする (しかし、それにしても各記事のトップにあるこれだけ似ていない歌手のイラストというのも最近は珍しい。わざと昭和の雰囲気を出そうとしたのだろうか)。

雑誌の最後のほうのページに、広告を兼ねたようなエピフォンの記事が掲載されていた。ギターを試奏しているのはReiという、24歳のギタリスト&シンガーソングライターである。早速、動画サイトで検索してみた。ライヴの動画とPVとがあったが、PVはあまりにシンプルで様式的で、かえって彼女の本質が見えにくいように思われる。対してライヴは尖鋭だ。
ピンクのジャズマスターを弾きながら歌う。歌は、ちょっとどぉ? という感じのときもあるが、ギターの鳴らし方はラフに見せていて、相当に上手い。
それにジャズマスターは特殊だ。ストラトやテレキャスなら正統派だが、ジャズマスターはスタンダードから 「外した感」 があって、少しスノッブで、ややワイルドで、かなりダークな感じを持ってしまう。もともとはそんなタイプのギターではなかったはずなのだけれど、ガレージパンクからニューウェイヴ、オルタナといったミュージシャンが好んで使ったりするうちに、そういうイメージになってしまった。Reiは他にブルーのリッケンバッカーも使うが、やはりピンクのジャズマスターのほうがキャラが立ってみえる。

それではエピフォンの広告記事に連動している動画はどうかというと、それはエピフォンのマスタービルト・センチュリー・コレクションという、比較的廉価なエレアコのプロモーションであるが、アコースティクな楽器のためか、ブルース一色である。タイプの異なる楽器を試奏して、その音の特徴とか弾いた印象をコメントしているのだが、明快で堂々としている。楽器によって弾く時間やコメントに長短があるのは好き嫌いが現れているのだろう。
でも、ほんの数フレーズなのに、すごく渋かったり、あるいはロバジョンまで弾いてみたり、プロモーションとしてはなかなかよくできている。
大きめのボディの楽器に対して、女の子にはサイズが大きめなんだけど、そのちょっと大きめなのを女の子がガシガシ弾くのがカッコイイみたいなコメントをしていて、思わずそんな言葉にだまされて買ってしまうひとだっているような気がする。

さて、歌謡曲特集だが、ギタリストのひとりとして大村憲司のページがあった。大村憲司は、まず赤い鳥に参加、その後幾つかのバンドを経て、YMOが売り出し中の頃のサポート・メンバーとして知られる。YMOの3人に矢野顕子、大村憲司、それに松武秀樹の6人で、海外で精力的なツアーをした。ギターは当初、渡辺香津美であったが、途中で大村に変わっている。
だが私のなによりも偏愛する大村は、大貫妙子作品におけるギターワークにある。特に《A Slice of LIfe》(1989) は最もほの暗い表情の大貫を感じさせる美しいアルバムである。ロック系の曲を大村、クラシカルな曲をジャン・ムジーが担当。大村の創りだした音は、やや深いリヴァーブのなかに佇むグループ・サウンズの頃のような懐かしい音色を持ったギター。
〈もういちどトゥイスト〉はまさに古風なステップを連想させるツイストで、それは〈果てなき旅情〉や〈ブリーカー・ストリートの青春〉と並んで郷愁を誘う情景に満ちている。具体性にもう一歩届かない分だけ、過去は観念的な神話のようにいつまでも遠いままだ (この頃の大貫妙子のことはすでに書いた →2014年08月19日ブログ)。

いつだったか、YouTubeで偶然見つけた動画がある。それはインストゥルメンタルなギターが日本で大ブームの頃、つまり60年代のヴェンチャーズなどの楽曲によるいわゆるエレキ・ブームを回想する1997年09月02日のコンサートで、タイトルは 「僕らはエレキにしびれてる」 とのことである。萩原健太が司会をしている。その最後に大村憲司が演奏をしているが、使われているギターはジャズマスターであった。ヴェンチャーズの〈Surf Rider〉とシャドウズの〈Spring is Nearly Here〉の2曲、〈サーフライダー〉はサーフィン・チューンのなかの1曲で、コピーはテクニカルなアーミングを含めて完璧であり、何よりその選曲がマニアックである。サーフィンといえば普通なら〈Piprline〉か〈Wipe Out〉なのに (〈Spring is Nearly Here〉ではストラトに持ち替えている)。
〈サーフライダー〉はアルバム《Surfing》(1963) の収録曲で、この頃だとギターはたぶんモズライトではなくまだフェンダーのはずで、ヴェンチャーズは後年、ガレージ系が流行したときその系譜のなかで再評価されたが、そのブーミーな音は当時のエフェクト・レヴェルからすれば非常に際立っていた (wikiによればモズライトの使用はアルバム《In Space》(1964) からとあるが《Surfing》から使用していたとする情報もあり、正確な時期は不明である。尚、実は〈サーフライダー〉は《Surfing》より前のアルバム《Mashed Potatoes and Gravy》(1962) に〈Spudnik〉として収録されていた曲のタイトルを変更したもので、だから本来はマッシュポテト [というダンスのステップがあったとのこと] の曲である。スパドニックとは当時のソ連の人工衛星スプートニクのこと。またリリース年についてはwikiを参照したが、オフィシャルサイトはwikiと異なっている)。

山下達郎は、ヴェンチャーズが日本のエレキ・ブームというくくりの中でだけのレジェンドとして過小評価されるのを危惧していて、また初期に日本で出されたCDの音の出力レヴェルが低いと言い、もっとVUが振り切れるくらい高くて良いのだ、と自らプロデュースしてリリースさせた経緯がある。
アナログ・テープに記録された太い音がデジタルで痩せてしまうのが許せないということだろうが、何より当時、ごく短い期間であったにせよ、歌を伴わないインストゥルメンタルが日本で大流行したという現象は特異である。

『ギターマガジン』の記事によれば、大村憲司はやや狷介な性格であったようにみうけられるが、それは音楽に対する理想が高かったことにもあるのだろう。そしてギターは何よりも音色である。大村憲司の音は、そこに単なる音楽以上のなにかを包含している。
しかし残念ながら大村は 「僕らはエレキにしびれてる」 コンサートの翌年、病没してしまう。享年49歳であった。

ジャズマスターを弾くギタリストといえばもう一人、マイ・ブラディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズがいる。シューゲイザーのカリスマであるマイブラだが、そのアルバム《Loveless》のジャケットはジャズマスターだと思えるし、ああした音を出すために有効なヘヴィーさをもジャズマスターは兼ね備えているように思える。轟音のなかに静寂がある。これはメタファーではない。(マイブラとかコクトーズのことを書くと、なぜかアクセス数が高い。ありがとうございます。マイ・ブラディ・ヴァレンタインはたとえばここ →2013年04月19日ブログ。コクトー・ツインズ→2013年08月08日ブログ。でもたいしたことは書いてないです)

以前、仕事でお世話になった先輩で、昔、ヴェンチャーズなどを聴いて (弾いたりもして) いた人がいた。その人がジャズマスターを買ったという話を聞いた。モズライトでなくジャズマスター。う~ん、わかってますね。


ギターマガジン2017年4月号 (リットーミュージック)
Guitar magazine (ギター・マガジン) 2017年 4月号 (CD付)  [雑誌]




Rei/ORB (Space Shower Music)
ORB




大貫妙子/A Slice of Life (midi)
スライス・オブ・ライフ(紙ジャケット仕様)




My Bloody Valentine/Loveless (CREAI)
LOVELESS




Rei meets Epiphone Masterbilt Century Collection
(下にスクロールすると動画あり)
http://www.digimart.net/magazine/article/2017031302445.html

Rei/black banana (live)
https://www.youtube.com/watch?v=rcWNjx70F5U

Rei Official: Space Shower News
https://www.youtube.com/watch?v=x6Kc15lh4nM

大村憲司/Surf Rider~Spring is Nearly Here
live 1997.09.02
https://www.youtube.com/watch?v=yh5N7BxSyi4

MyBloody Valentine/To Here Knows When
live Fuji Rock Festvial 2008
https://www.youtube.com/watch?v=3DEnwUAzPG4
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モルダウの暗き流れに、あるいはしっかりしたリス ― TBSドラマ《カルテット》第9話 [雑記]

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《カルテット》第9話はいよいよラス前です。
実はこの前、野球放送が延びて第8話を見逃してしまい、あとからネットで観ました。ところが途中から別の音楽がかぶさっているひどい動画もあって見直したりしていて、あぁ疲れた。

ドラマの番宣では 「誰が嘘をついているのか」 みたいなキャッチがやたらに使われているけれど、これって 「嘘」 という言葉とはちょっと違うと思うんですよね。「嘘」 という言葉から連想される言葉にその言葉以上の何かが加えられてしまっていて、すごく違和感がある。確かに嘘をついているといえば嘘をついているんだけど、それが罪悪であるということが強調され過ぎていて……。う~ん、うまく言えない。まぁでもTVとか芸能誌とかスポーツ新聞とかそういうものなんだから仕方がないか。

それでドラマとしては第8話からの 「来週へつづく」 がうまくつながっていて、今回もまた、そう来たかというのの連続です。ひっぱりかたがうまいなあ。真紀 (松たか子) が突然真紀でなくなって無名性の仮面をかぶったような不気味な印象を与えるようにしてしまうという手法。
ストーリー自体に興味がある場合は動画でも観ていただくとして、以下は観ていることを前提とした感想です。

ドラマに引き込まれることの重要なひとつが軽井沢の別荘という設定で、この建物と部屋の魅力というのがすごくあると思うんです。つまりドラマを離れて、こういうところで暮らせたらいいなぁというリアリティに満ちている。それでいて、でもそれはドラマだから実際にはあり得ないということも薄々分かってしまう構造になっている。
世間から隔絶された環境というのは推理小説では常套ですし (グリーン家とか)、その秘められた空間は独特の魅力を持っているようで、憧れの対象となり得るのです。
「ノクターン」 もそうです。そういう、ある意味こぉゆぅ理想的なお店があったらいいなぁという雰囲気を持っている。でも真紀が、ノクターンでずっと演奏できるのならいいな、それって願望としては低い? みたいなことを言うシーンがありましたけど、そう、実際はそんなことしてたらちょっとそれは音楽じゃないっていう面もあります。
以前、そういう店で、つまり生ピアノをBGMとしているお店に入ったことがあるんですが、舞台なんかないからピアノを弾いていたって大半の客は音楽なんか聴いていない。がやがやしていて、まさにBGMでしかないです。女性ピアニストだったけど、一生懸命弾いているように装っている影に、なんとなくやさぐれているような風情もある。でも音楽ってモーツァルトの頃からBGMとして発達してきた部分もあるのでそれは仕方がない面もあるんだけれど、でもそうしたポジションに安住してしまったら音楽のこころざしとしては低いわけです。

SAJという記号が、すずめ (満島ひかり) と家森 (高橋一生) との会話のなかで展開されて、それが呼応して真紀と別府 (松田龍平) との応答につながっていく前提になるというのもすごい。SAJかぁ、DAIGOかっ、つーの。
有朱ちゃん (吉岡理帆) は今回もちょっとやり過ぎな楊貴妃とか形容される暴君設定になっているので、ファンの人は観ないほうがいいです。それより坂本美雨の役が、これもまた意外性の勝利というか、そう来たか、でしたね (坂本美雨は坂本龍一の娘です。いちおー、念のため)。

でも有朱の行動っていうのはドラマのなかでの単なる 「いろどり」 のように見えて、実はシビアな一種のアンチテーゼのようでもあり、その雑さ加減、もっといえば乱暴さとか暴力性、攻撃性が周囲の人たちに微妙なストレスとなってずっと残っていくような意味合いをもって設定されてるように思います。
それは世代の違いもあるし、メイン4人への異世代間闘争というか、より言えばヒエラルキー攻撃/挑戦でもあるわけで、それがいまの内向の時代の反映ともなっています。この前、真紀のヴァイオリンを持ち出そうとした有朱と、自分の楽器をすずめに預ける真紀の行動の対比というのも、悪意や憎悪に対する信頼とか愛情のメタファーです。

4人は最後の演奏でアヴェ・マリアを弾き、そしてすずめのチェロから始まるモルダウを弾きます。こういうお店での演奏だから、そんなにむずかしい楽曲を選ぶはずはなくて、いわゆるライト・クラシック限定になるのだろうと想像できますが、スメタナはまさに通俗ですけれど、こういうとき、スメタナとかドヴォルザークとかがまさにハマります。
こうした哀しみというのは、単純だけれど強く心に響くなにかを持っていて、人口に膾炙した有名曲というのは常にそうした俗な部分を併せ持っているはずです。そういう曲を持ってくるのはズルイんですけど、ズルさがなければドラマなんか書けない、のでしょう。

さて最終回がどうなるのか、これは逆に相当なドンデン返しみたいなのがないと期待外れになってしまうから作家にとってはむずかしいかもしれませんね。でも推理小説と同じで作家は倒叙法で考えているんだからそうでもないか。

穂村弘が、「あるいは」 の入ったタイトルはカッコイイと書いていたんです。「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」 とか。おぉx、そうかぁ。それで早速やってみました。前と後の関係性が支離滅裂のように思えるかもしれないですが、それで正解です。
でも全く関係ないように思えるリスの逸話は、《北の国から》のキタキツネと同じ効果をもたらしています。

     *

《03月16日追記》
回想場面に出て来た真紀の母は山本みずえ (坂本美雨) という演歌歌手、そして真紀の本名は山本あきこ [漢字不明] とのことでしたが、来杉有朱役の吉岡里帆が映画《明烏》に出演したときの役名が 「山本明子」 なのだ、とtwitterにありました。つまり真紀と有朱の相似的暗合が存在するわけです。


カルテット Blu-ray Box (TCエンタテインメント)
【早期購入特典あり】カルテット Blu-ray BOX(オリジナルコースター4枚セット)



火曜ドラマ カルテット (TBS)
直近の放送分のみ、無料でオンデマンド配信されています。
http://www.tbs.co.jp/muryou-douga/quartet2017/009.html
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レトロスペクティヴなライヒ —〈violin phase〉 [音楽]

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Steve Reich

ノンサッチの《Steve Reich Phases, A Nonesuch Retrospective》を聴いている。
スティーヴ・ライヒの70歳記念に出されたCDセットということだが、今、ライヒはすでに80歳だから10年前のものだ。ノンサッチで録音された作品の集成なのは当然だとして、私の好きな〈violin phase〉が入っていなかった。タイトルは Steve Reich Phases なのに (よく調べてから買いましょう)。

というようなどうでもいいことはさておき、ライヒの〈プロヴァーヴ〉が効果的な小道具として使われているリチャード・パワーズの《オルフェオ》について私はしつこくも繰り返し書いているが、〈プロヴァーヴ〉を聴く個所はこの小説の最も美しく求心的なエピソードであり、それは砕けて落ちる青春の残滓である。そこに自らのつたない類似の記憶を重ね合わせるような行為も、あながち見当外れではないだろう。
《オルフェオ》の主人公エルズは、すでに教授職を退役した作曲家であったが、先日新聞でポール・オースターの『冬の日誌』の発売広告を見たとき漠然と思ったのは、すでに冬の時代が到来しているということなのだ。〈プロヴァーヴ〉が青春の喧噪の象徴とするのならば、ドビュッシーの〈12のエチュード〉は静謐と失意の死に限りなく近い。それは作曲家が書いた時期が年齢的にそうだったからなのではなく、曲があらかじめ持っているプロフィールを、今という時代が明確に示すからである。

〈violin phase〉の動画を探していたら、偶然、その楽譜のpdfを見つけてしまったが、こういうのは著作権的にちょっと、と思うので見るだけにとどめておく。サブタイトルとして、for violin and pre-recorded tape or four violins とある。つまりひとりでも演奏できるということである。作曲したとき (1967年) にはもちろんハードディスク・レコーディングなんて存在しないから、磁気テープによるテープレコーダーを使用することが前提となっている。
4人で演奏している動画もあったのだが、ひとりからふたり、ふたりから3人と増えていくときの入り方が映像で見るとわかりやすい。曲はミニマル・ミュージックの手法の執拗な繰り返しのパターンで、わかりやすく言えば輪唱をしているような感じなのだが、それが少しずつズレていって、また少しずつパターンが変わりながら重なることによって、一種のモアレ (干渉縞) のような状態になり、その重なりかたによって誰も弾いていないはずの音が聞こえてくるような構造になっている。つまりそれが phase である。

基調となっている10個の音の繰り返しは、楽譜を見ると6個目の音から始まっているアウフタクトで、でもこれがそのうちにズレてゆく。ただリズムは一定で、永遠の無限ループを刻む。モートン・フェルドマンでもそうだったが、実際に書かれている音とリスナーが聴く音のイメージとは異なることが多くて、むしろその錯覚のようなものを起こすように/利用するように書かれているというのがその真相だ。それは偶然の産物である部分もあるかもしれないが、多くは意図して書かれる。だから何? というふうに疑問を提示することは可能だが、その回答は 「何でもないんだから」 なのである。すべてが説明できるのならばそれは音楽ではない。

ジョン・ケージの作品のように、偶然性による音をその重要なファクターとしている作曲方法もあるが、ライヒのこの作品はかなり周到に意図された音を出そうとしていて、その志向が心地よい。音が単純な繰り返しであればあるほど、それはかえって抽象の装いを持つ。

最近知ったのだが、かつてのソヴィエト連邦の指揮者ムラヴィンスキーは、時の偏執的為政者の難癖に屈しなかったのだという。あのショスタコーヴィチでさえ、その作品が退廃的だと脅されたのに。パワーズも書いていたように 「プラトンから平壌まで、音楽を規制しようとする動きは尽きることがない」 のだ。なぜならそれは言葉の概念を超えて抽象的だからである。


Steve Reich Phases, A Nonesuch Retrospective (Nonesuch)
Phases: A Nonesuch Retrospective




Steve Reich: Violin Phase
https://www.youtube.com/watch?v=LimnkPiP9QA
or
https://www.youtube.com/watch?v=i36Qhn7NhoA
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浦沢直樹の《漫勉》— 清水玲子 [コミック]

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NHK-2の浦沢直樹《漫勉》のシーズン4の1回目〈清水玲子〉を観る。
まず浦沢直樹が道を歩いているシーンがあって、清水玲子の仕事場兼自宅に入っていくのだが、その仕事場がすごい。「これだけきれいな仕事場は、今までで初めてじゃないかしら」 というのに笑ってしまう。私はすでにこの整理整頓されたモデルルームみたいな清水の部屋の写真を見たことがあるので、あ、これこれ、としか思わなかったが、初めて見たら衝撃に違いない。一般的にいって出版にかかわる業種は作家も編集も、どこもぐちゃぐちゃというのがお決まりの情景なのだから。
清水玲子の透明感とか繊細さとか緊張感といったものがすべてこの仕事場の姿に反映しているのだというのが実感できる。決してあわてて片付けましたとか、このときだけきれいにしました、みたいなのと全然違う純度の高さが感じ取れる。

作業の邪魔にならないように仕事部屋に定点カメラを設置して撮影した映像をもとにして、清水と浦沢が語るというパターン。8人いるというアシスタントの部屋が一瞬だけ映るが、ほとんどは清水の作画映像だけである。
メガネをかけてマスクをして、ペン入れのときには白手袋をして、髪の毛が視界に落ちてこないようにガードして、机の上は作業するのに必要なものだけ。この風景と清水の表情から私が最初に想像してしまったのは外科手術をするドクターSであって、最も良い環境で最大限に優れたものを仕上げようとする姿勢が感じ取れる。

ライトテーブルでネームからエンピツでトレースし、でもそれが気に入らないと、ウラ側に描き直して、またオモテにひっくりかえして、そのウラ側のラインをオモテ側から再びトレースして最終的なラインを決める。ここまではエンピツ。太い線はエンピツで、細い線は0.3mmのシャーペンを使うのだそう。そしてそれにペンを入れるのだ。
清水のネームは、その段階ですでに細かいところまでかなり描き込まれているのにもかかわらず、そこからの下描きを経て、ペン入れまでの工程が繰り返し緻密に続く。つまり同じ絵を何度も描くのだ。だがその時間は、ナレーションの通りだとすれば、その内容の細かさに比して短時間である。それだけ手慣れた作業だということだろう (作業の実際はNHKのサイトに、放映されたのと同じ動画があるので、下記リンクから参照することができる)。

ペン入れは芸術的で、しかも確信的だ。美しい曲線が次々に迷いなく描かれてゆく。描きやすい角度を求めて、原稿用紙をくるくると回して描く。でも描き込み過ぎないようにしているという。浦沢も、上手い人は、つい描き込み過ぎてしまうものだが、清水の絵はその前で踏みとどまっていて軽いと評する。清水は、内容が重いのに絵も重いと、重くなり過ぎるからと応える。最小限の線で踏みとどまれるかどうかが重要なのだ。これはマンガに限らず、普通の絵画にもいえて、どんどん描き込み過ぎてしまうとかえってよくないことは往々にしてある。どこで踏みとどまるか、どこで終わりにするか、なのだ。
それはつまり必要最小限の線なのであり、清水は 「風通しのよさ」 という表現をしていた。

そして細かい修正。どうしても気に入らない線を描き直す。だが、はっきりいってシロート目にはそんなに違わない。でも作家にとってはとんでもなく違う線なのだ。それは作家本人にしかわからないこだわりなのである。仕事だと割り切るのならばそれはどちらでもいいことなのだが、芸術とするのならばそれは最も重要なこだわりである。マンガは大衆的で打算的なマスプロダクトなジャンルでありながら、アートとしてのこだわりがなければならない。それは矛盾しているタスクなのだ。もっともそこまでのこだわりはごく一握りの人たちによって維持されているようにも思える。

清水が影響されたとして口にしたのはもちろん萩尾望都であるが、大友克洋の絵にも影響されたと語る。特に『秘密』などのヴァイオレンス描写には、大友の描き方は恰好のお手本である。
ただ、初期の、まだ売れていない頃の苦労話みたいなのはほとんど無い。歌舞伎を撮ったビデオを静止画像にして、その静止時間が解けないうちにデッサンするというプラクティスをしていたというエピソードも、絵が上手くなりたいという積極的な願望であることのほうが強い。貧しくて食べ物がなかったみたいな泣き言はないのだ。でも清水に、きっとそこまでの状態はなかったのだろうと思ってしまう。

絵が上手くなりたい、という気持ちは清水も浦沢も同じで、共感し合っていた。ネットの書き込みを見ると、こんなに上手い人がより上手くなりたいと思ってるんじゃ、私にはとても無理、みたいな感想が書いてあって、でもだからそれを乗り越えるくらい努力しないと一流にはなれないんだろうなぁとあらためて納得する。

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清水玲子/秘密 season 04 (白泉社)
秘密 season 0 4 (花とゆめCOMICSスペシャル)




NHK・番組関連グッズ
http://www2.nhk.or.jp/goods/pc/cgi/list_p.cgi?p=3310

NHK・浦沢直樹の漫勉 シーズン4〈清水玲子〉
http://www.nhk.or.jp/manben/shimizu/
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失われたとき、見出されたとき ― 児玉桃《Point and Line》 [音楽]

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Momo Kodama (http://www.concertclassic.com/より)

ECMからリリースされた児玉桃の《Point and Line》を聴く。
ウゴルスキのメシアンについて書いたときに、この児玉桃のメシアンについても少しだけ触れたけれど (→2017年02月12日ブログ)、それは児玉のECMからの1stアルバム《La vallée des cloches》に収録されているメシアンの〈ニワムシクイ〉についてであり、ラヴェル、武満、そしてメシアンという3者からの選曲のなかの1曲であることは過去に書いた (→2014年02月22日ブログ)。

さて、ECMからの2ndアルバムである《Point and Line》はドビュッシーと細川俊夫という組み合わせである。ところがあまり予備知識もなく、いきなり聴いてみたらちょっと驚く。
収録曲はドビュッシーの《Douze Études pour piano》と細川の《Étude I~VI for piano》で、つまりどちらもエチュードと名付けれた作品なのだが、この2人の作品がほぼ交互に入っている。ドビュッシーは12曲、細川は6曲なので、ところどころドビュッシーが続く。
それだけでなく、それぞれの並べ方も番号順ではないのだ。1曲目がドビュッシーの11番、2曲目が細川の2番、3曲目がドビュッシーの3番、4曲目が細川の3番といった状態である。
18曲のエチュードがシャッフルされて配置されていると思えばよい。

なぜそのようにしたのか、ということは解説等で述べられているので、そういうコンセプトでアルバムを作るのも面白いとは思うのだけれど、あえて私の好みを言うのならば聴きにくくてしかたがない。なぜなら私はCDは一種のアーカイヴとしてとらえているからである。ドビュッシーの12曲のエチュードを聴くのなら、それを全部聴くこともあるけれど、第6曲目だけ聴きたいこともある。そのとき、6曲目がtrack6にあるのが便利なのである。
もちろんCDプレーヤーで曲順をプログラミングし直して聴くとか、自分で新たに曲順を変えてCD-Rを作ってしまうということも可能だけれど、それは本末転倒である。逆にこのようにシャッフルして聴くという聴き方だってあるが、でもそれはあくまでリスナーの好みなのであって、シャッフルを強要されるのとは異なる。

このアルバムは、たぶん、この曲順で聴いてもらいたいという意志のもとに作られているのだ。
ひとつの仮説として、ドビュッシーの第1番を最初に持ってくるのを嫌ったのではないかと私は思う。このドビュッシーのエチュードは、エチュードといってもショパンのエチュードと同じく、非常に高いテクニックを必要としていて、実際には練習曲ではなくて、あくまでコンサート用の曲目であることはショパンのエチュードと同じである。というよりショパンのエチュードへのリスペクトと考えたほうがよい。
だが残念なことにショパンのエチュードのような華がない。それはドビュッシーだからしかたがないといえばしかたがないし、その、華という安易な言葉でくくれるような範囲の外にドビュッシーはあるのだから、と思えばよいのだが、第1番は〈Pour les «cinq doigts» ―d’après Monsieur Czerny〉(五本の指のために―チェルニー氏による) というタイトルで、ドレミファソファミレドレミファソファミレといういかにも練習曲風の音で始まり、そこにとんでもない音が重なり、やがて崩れていくという過程を通してチェルニーの練習曲をおちょくっているのだ。面白いといえば面白いし、相当高度なテクニックも必要とされるのだけれど、最初にこのドレミファソファミレが聞こえてくるのはイヤな感じもする。それはシューマンのダヴィッド同盟に似た笑えないギャグみたいにとれなくもない。
それでこの第1番を、なかのほうに閉じ込めてしまおうというのが真意なのではないか、と私は勝手に推理するのである。なによりも、第11曲を最初に持ってきたかった、というのもアリである。

しかし曲を、しかも2人の、年代も異なった作曲家の作品をシャッフルして配置するとどうなるかといえば、それぞれの曲が屹立しているという聴き方をされたいと演奏家とプロディーサーは思っているのかもしれないが、むしろ全体が靄のなかに存在しているようで、ベクトルの方向がよくわからないし、私にはその説得性や必然性があまり感じられないのだ。

ちなみにこのドビュッシーのエチュードには内田光子の演奏があり、その動画もYouTubeで見ることができるが、内田と児玉の個性の違いがくっきりと明らかになって大変興味深い。
児玉桃には、どんな難曲を弾いているときでも 「どうだすごいだろう」 感がない。たとえばラヴェルの〈道化師の朝の歌〉もさらりといつのまにか過ぎてしまうような印象を受ける。児玉にとってそうした曲を楽譜の通りになぞれるのは当たり前なので、課題はその先にあるからだ。

たとえばジャズのアルバムにおいては、最初にリリースされたときの曲順に人はその印象を左右されるものである。1曲目がこれ、その次に2曲目がこれ、という記憶が何度も聴くことによって刷り込まれているからで、最近のCDでやたらにオルタネイト・テイクや未発表の曲が増やされていると、違和感ありまくりのことがよくある。
チック・コリアの《Now He Sings, Now He Sobs》というアルバムは私の聴くほとんど唯一のチック・コリアなのだが、再発のCDには〈Matrix〉から始まる盤があって、気持ち悪くてあらためて買い直したりしたものである。〈Steps―What Was〉から始まらないとナウ・ヒー・シングスではない。
でも、次に何が出てくるかわからないというベストヒット盤的な聴き方だってあるのだから、曲順にこだわるのは固陋に過ぎるのかもしれないという迷いもあるのだ。

そういうポピュラー・ミュージックのアルバムのプログラム・ビルディングに似た意識が、この《Point and Line》にはあるのではないかと思う。つまりECMはあくまでジャズから始まったレーベルであり、だからアルバム全体をひとつのイメージとしてとらえているという考え方も成り立つ。そのほうが児玉の個性は引き立つから。
だがそれは逆にいえば、一種のインスタレーション・ミュージック的なムードをも連想させるし、もっといえば単なるBGMに堕してしまう危険性もあるような気もする。曲をバラバラに拡散させることはオブジェとしては面白いが求心性は弱まるし、この場合、ピアニストのプロフィールは明確になるが、コンポーザーに対するインプレッションは飛散する。

普通のクラシックCDのようなステロタイプでないもの、というECMの方向性はわかるような気がする。それはかつてのアルヴォ・ペルトであったし、そして境界線上に位置するようなエレニ・カラインドルーでもあったはずだ。だがキース・ジャレットがいくらクラシックを弾いても、それはジャズ・ピアニストとしてのクラシックでしかないという限界をかえって色濃く見せてしまったのもまたECMなのである。
以前は見やすかったecmrecords.comが、最近は妙にデザイン優先で見にくくなったのと、音楽の本質よりもスタイルをあまりに気にし過ぎるのはどこかで通底しているのかもしれない。


Momo Kodama/Point and Line (ECM)
Debussy/Hosokawa: Point & Line




児玉桃/ECM PV: Point and Line
https://www.youtube.com/watch?v=j--4Cn5EzBo

内田光子/Debussy: 12 Études
https://www.youtube.com/watch?v=oK8AuyAjOsY
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