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アート・リンゼイを巡る人びと ― 別冊ele-king第5号〈アート・リンゼイ〉 [音楽]

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別冊ele-king第5号の〈アート・リンゼイ〉をぱらぱらと読んでみた。
アルバム《Cuidado Madame》はリンゼイの13年ぶりのソロアルバムだということで、そのプロモーション的な意味あいがあるのだろう。でも私はリンゼイについてはほとんど知らない。

cinra.netというサイトにリンゼイのインタヴュー記事があって、それによればリンゼイが初来日したのは1985年、トランペッターの近藤等則に招かれて、ファイブハンドレッドスタチューズというバンド名でツアーをしたのだという。メンバーはジョン・ゾーン、レック (FRICTION)、山木秀夫とのこと (Five Hundred Statues って五百羅漢ですね)。

近藤等則はアヴァンギャルドなジャズ・トランペッターでありながら、他のジャンルの演奏者と積極的にコラボした人である。フュージョンの古語としてのクロスオーヴァーでなく、わざと異種の音楽とのクロスオーヴァーにより刺激的な音を創り出すという考え方を持っていたようである。
たとえば浅川マキ《CAT NAP》(1982) とかエレファントカシマシ《東京の空》(1994) といったアルバムに参加している。

ファイブハンドレッドスタチューズの前年の1984年に、近藤はTOKYO MEETINGというイヴェントを主催したが、そのリストを見ると、ペーター・ブロッツマン、渡辺香津美のようなジャズ系の人とともに、ヘンリー・カイザー、坂本龍一といった、その頃まさに境界的なポジションにいた人たちが集められている。
その後、リンゼイは1985年の坂本のアルバム《Esperanto》に加わったり、繰り返し坂本と共演している。

しかしリンゼイのギターは単なるアヴァンギャルドではなく、その根本的な理念が異なっていることが注目すべき点である。たとえばギタリストだったらヘンリー・カイザーはそのエフェクトを含めて十分に変態だし、デレク・ベイリーはアヴァンギャルドの典型ではあるが、そのギターテクニックそのものは伝統的なジャズを踏襲した手法であり、一種のアカデミズムがそのルーツである。たとえば恒松正敏だったらベーシックはロックであり、ハウリングやカッティングのヴァイオレンスさがパンキッシュではあるが、そこから見えてくるコンセプトがアヴァンギャルドであるだけで、出音は尖鋭ではあるがアヴァンギャルドではない。
しかしリンゼイの11弦ギター (12弦から1本足りない) から出てくる音はノイズであり、それはチューニングをしていないというウソか本当かよくわからないセッティングのためである。

そうしたアヴァンギャルドさのスケールから見た場合、デレク・ベイリーの最もアヴァンギャルドな演奏は、楽器としてのギターの通常の音が出ていないemanem盤のアンソニー・ブラクストンとのデュオ (1974) であると思う。
そしてベイリーの80年代のアルバムにはジョン・ゾーン、ジョージ・ルイスとの《Yankees》(1983/Celluloid) があるが、つまりこの当時、ジョン・ゾーンというのはトレンドとして存在していたような印象がある (私はジョン・ゾーンがよくわからないので、なんともいえないのだが)。

さて、本に戻ると、アート・リンゼイとカエターノ・ヴェローゾの対談が掲載されている。2人のしゃべりかたは非常に親しい人同士の、途中を省略した会話だから、わかりにくいかもしれないがとても心に響く。たとえばリンゼイは、

 ナナー (ヴァスコンセロス) にいったんだよな。ボレロをつくってよと。
 彼は 「いや、ボレロなんてやらないよ」 って。あのときどうして言い張
 ったのかわからないけれど。ボレロはラテンのクリシェだよね。彼はな
 ぜだか、ラテンに対してアンチだったんだよな。(p.130)

ボレロはラテンのクリシェだと言い切ってしまっているので、え、そうなのか? と思うのだけれど面白い。
ナナ・ヴァスコンセロス (Naná Vasconcelos) はエグベルト・ジスモンチとの共演などで知られるパーカッショニストであるが、古いジャズのアルバムではガトー・バルビエリの《Fenix》《El Pampero》(共に1971) にも参加しているベテランであった。
リンゼイとは《Bush Dance》(1987/Antilles) にピーター・シェラーと参加したが、これはヴェローゾの《Estrangeiro》(1989) への布石だったと説明されている (p.135 注06)。

対談の最初のヴェローゾの話題はクロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』(Les mythologiques, 1964-71) の冒頭のことである。その冒頭のovertureに関してのアウグスト・デ・カンポスがヴェローゾに言ったとされる批評に興味を引かれる。

 するとアウグストは 「レヴィ=ストロースは知的な人物だ。彼はしかし、
 興味深いことに、推論を披露している。(p.129)

さらにヴェローゾは重ねて、

 いかに推論をかさねても、人は音楽そのものにはたどり着かないのだと
 彼 [カンポス] はいいたかったのだと思う。(p.130)

ヴェローゾはデ・カンポスの言うように、推論、つまり頭のなかで考えていることよりも現場主義の優位性を説くのだ。
対するリンゼイは音楽のノイズに関して、こう言う。

 話はアウグストがいったことに戻るけど、彼がいうにはノイズは音楽が
 それを求めるということだよね。(p.130)

ノイズのことは菊地成孔がそのinterviewのなかで呼応するように発言している。

 ピアソラだってタンゴにノイズを持ち込んだひとですよ。ヴァイオリン
 の弦をギュキュキュって鳴らしたり、グリッサンドとか高い位置でのダ
 ブル・ストップとか、弦の凶暴化という意味ではアート・リンゼイに近
 い。(p.092)

リンゼイにはキップ・ハンラハンとの共演アルバムもある。キップ・ハンラハンは後年プロデュース業となってアメリカン・クラーヴェというレーベルを作り、晩年のアストル・ピアソラをリリースした (《Tango: Zero Hour》(1986) など)。

ヴェローゾのボブ・ディランに対する見方にも興味を引かれる。ヴェローゾはアメリカのレイシズムの変遷をアメリカ人のルールという持論にからめて次のように言う。

 彼 [ボブ・ディラン’] はエレクトロニックな音楽に偏見をもっていたけ
 れど、発展していって、有名になったときにはロックだったんだ。その
 経緯は消えるんだ。もう彼はロックだとなったら、過去にどうだったか
 関係ない。それはブラジルでは起きないことだよ。よい意味でも悪い意
 味でも。(p.132)

つまりディランがエレクトリック・ギターを持つまでの葛藤と、最初にディランがアコースティクでない楽器を持ったことに対して批判していた人たちとその現象も、有名になってさえしまえば、すべてすっ飛ばしてしまえる、というようなことである。

リンゼイがジャン=リュック・ゴダールの映画を例にとってその音楽を語っている部分もある。

 それから、映画の世界でいえば、ゴダールがやったようなことを音楽で
 やる難しさとか。他の情報を挿入して、そのものを壊して、だけどその
 作品の魅力を失わないみたいな。モンタージュ的なことだよね。彼の映
 画はとても抽象的でいて、だけど映画のロマンスを保っている。それっ
 て曲づくりではとても難しいと思わない?(p.133)

今福龍太はそのinterviewで、自分のプレゼンテーションの際、いままでのお決まりの方法でなく、ビジュアルや音楽を使う方法を考え出しそれを実践してきたと述べる。そういうとき、リンゼイとともに使ったのがジスモンチであったと言うのだ。

 もっともよく使ったのはエグベルト・ジスモンチですね。彼の音楽には
 ユニバーサリティというか普遍性があります。(略) ジスモンチはギター
 でもピアノでもパーカッションでも、特定の楽器に過度にヴィルトゥオ
 ージティを求めることをしない。にもかかわらず、ピアノにしてもギタ
 ーにしても途方もないテクニックですから誰も真似はできないけれども。
 マニアックにひとつの楽器に沈潜するというよりは、ギターでもピアノ
 でも、音楽、あるいは音そのものがもっている普遍性に到達する。楽器
 の歴史的・文化的な固有性を超え出てゆく自由さといったらいいでしょ
 うか。(p.096)

今福はメキシコやブラジルに住んだことがあり、ブラジルはその土地が広大であるから場所によってまるで異なる国のようにいろいろな表情を見せているとのことだが、そのなかでレペンチスタと呼ばれる民衆的な吟遊詩人の話が心に残る。口伝えに歌で伝えていくそれこそがバラッドであり、そうした歌を聞き取り、小さな冊子にして一番で紐にぶら下げて売られるのがブラジルの民衆文学リテラトゥーラ・ジ・コルデル (紐の文学) であるという。

リンゼイの過激なギターワークと、まったく対照的な柔らかな歌唱との間にはどのような親和性があるのだろうか。しかし不思議にもそれはギャップではなく、融合している。そしてそのおおらかさのようなものがブラジルという土地に依存していることは確かだ。
また、リンゼイがジョン・ケージに対してどのような視点を持っているのか知りたいところだ。ケージとリンゼイの音楽はまるで異なるが、ジスモンチと違った意味で過度なヴィルトゥオージティを求めないということではなんらかの共通点があるのかもしれない。


別冊ele-king第5号〈アート・リンゼイ〉(Pヴァイン)
別冊ele-king アート・リンゼイ――実験と官能の使徒 (ele-king books)




Arto Lindsay live
https://www.youtube.com/watch?v=GkPQPDIO1qA
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あらがえないもの ― ピエール・バルーとSARAVAH [音楽]

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Pierre Barouh et Anouk Aimée
(www.francebleu.frの2016年12月28日付訃報より)

昨年末、ピエール・バルーが亡くなったことをこのSo-netブログのSpeakeasyさんの記事で知った。Speakeasyさんはいつも最も重要なポピュラー音楽の情報をもたらしてくれる。
私にとってのバルーは、つまりサラヴァである。そしてそのサラヴァというレーベル名は、私のなかでブリジット・フォンテーヌとともに記憶されている固有名詞だ。

Speakeasyさんのバルー逝去の記事に紹介されているジャケット写真はバルーのブレイクのきっかけとなったクロード・ルルーシュの映画《男と女》(Un homme et une femme, 1966) のサントラ盤である。
このジャケットが美しい。モノクロのスチルを何枚か組み合わせた上に斜めに入れた帯にタイトル文字だけが鈍い色の赤で un homme et une femme と配置されている。ジャケット左側は黒の縦帯で、左上にパルム・ドール/フェスティヴァル・ドゥ・カンヌとある。
年代を彷彿とさせる端正なデザインにもかかわらず、時代遅れでない。ここにもバルーの美学が現れているのではないか、と私は思う。

だが実は私は《男と女》という映画は観たことがなくて、ダバダバ歌っている映画くらいの認識しかなかった。バルーを尊敬しているにしては、ひどい認識である。
当時、バルーはこの映画の資金にしようと思い、その音楽を売り込もうとしたのだが、ルルーシュはまだ無名だったので、結局バルーが自分で出版することにした。それがサラヴァのはじまりである。この映画がヒットするなんて、バルー以外誰も予想していなかったのだろう。だが映画が大ヒットしてしまったため、音楽の権利を売らなかったことがかえって功を奏すことになった。

とりあえずこのサントラを聴いてみた。
曲数は少なく、さらに同じ曲のインストゥルメンタル・ヴァージョンと歌入りヴァージョンとがあって編曲で増やしているので、実際の曲数は5曲しかない。それですべてをまかなってしまっているのだ。
音楽を書いたのはピエール・バルーとフランシス・レイ。当時の録音はモノラルであるが、あまりのリアルさで聞こえてくることに驚く。

このサントラの中であえて1曲をあげるのならば、少しダークな〈Plus fort que nous〉を選んでしまう。今回のCDでは〈あらがえないもの〉という邦題が付けられている。
歌はピエール・バルーとニコル・クロワジールによるデュエット。ふたりが交互に歌い、最後に2人で歌うという構成。でもこの曲が手強い。歌詞がなんとなくわかるようにみえて、よくわからないというふうな、やや抽象的な言葉で綴られていく。

まず歌い出しはニコル・クロワジール。CDパンフレットでは次のような訳詞になっている (対訳:Lisa TANIと表記されている)。

 互いの経験をもってすれば
 もっと明晰に考えられたはず
 なのにふたりの警戒心はもう限界
 私たちは愛にあらがえない

 Avec notre passé pour guide
 On se devrait d’être lucide
 Mais notre méfiance est à bout
 L’amour est bien plus fort que nous

この訳詞に関してネットを探していたら、別の訳詞を複数に見つけた。そこではタイトルは 「愛は私たちより強く」 となっている。これは歌詞の L’amour est bien plus fort que nous を訳したものであるが、しかしタイトルは Plus fort que nous だけで L’amour est bien は無いから、邦題を 「あらがえないもの」 としたのだろう。
TANI訳は、各連の最終行に繰り返し出てくる 「L’amour est bien plus fort que nous」 をそれぞれに微妙に変えて訳していて、全体の言い回しも錬れていて、なかなかワザがある。

だが1個所よくわからないところがあって、それは4連目。バルーが2回目に歌う部分である。

 沼地で自由を謳歌するか
 檻の中で幸せに暮らすか
 僕らにはお構いなしに決めつける
 愛とは僕らにはあらがえないもの

 Vivre libre en un marécage
 Ou vivre heureux dans une cage
 Qu’importe il fait son choix sans nous
 L’amour est bien plus fort que nous

この沼地の部分について検索してみたら、「浅倉ノニーの〈歌物語〉2」 というブログに解説があった。

 marécage「泥地、湿地」が本義だが、「いかがわしい社会」といった
 意味でも用いられる。

とのことである。ネットのLarousseを見てみるとLittéraireな用法として、

 Bas-fond où l'on risque les compromissions et l'abaissement
 moral : Les marécages de la politique.

とある。bas-fondは浅瀬とか沼地のことだが、les bas-fonds de la sociétéという言い方があって、社会のどん底、さらに転じて最下層民のことを指すのだそうだ。compromission は、compromettre 巻き添えにする、の名詞形で 「かかわりあいになること、悪い意味での妥協」 とある。abaissementは低下である。
浅倉ノニー訳では当該個所は 「汚い世の中で自由に生きるか」 と意訳になっているけれど、とてもわかりやすい。他にもわかりにくい個所の注釈があり大変勉強になった。浅倉訳は素晴らしい。

ともかく、《男と女》という、ともすると軟弱に思われかねない映画の中の歌詞がこういう内容だなんて、さすがバルーというべきなのか、それとももっと敷衍して、さすがフランスというべきなのか、バルーの死をあらためて残念に思うばかりである。


Claude Lelouch/Un homme et une femme
sound track (日本コロムビア)
男と女 オリジナル・サウンドトラック 2016リマスター・エディション




Nicole Croisille & Pierre Barouh/Plus fort que nous
https://www.youtube.com/watch?v=1Od5IzOzGTQ
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Glamorous Sky — 中島美嘉 [音楽]

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少し前の話題になってしまいますが、02月05日の《関ジャム》は 「あなたの知らない音楽大学の世界」 というタイトルで、高嶋ちさ子さん他クラシック系のゲスト、その中には新垣隆先生もいたのですが先生の発言はあまり無くて残念。新垣先生より高嶋さんのほうが桐朋で先輩というのにも驚きました。
まぁそれはいいんですけど、番組最後の演奏では、中島美嘉の〈雪の華〉を渋谷すばる君が歌って、高嶋のオブリガートがからまる、おぉ、せつなくはかない雪の情景という感じでとてもよかったのです。すばる君は何か持ってるよなぁ。関ジャニはみんな楽器もうまいし、もっと評価されていいと思うのです。

その歌を聴いているうちに、あ、そうだ、以前は中島美嘉を随分聴いていた時期があったというのを思い出してしまって、しかもあの頃は流行だったのかアナログ・ディスクが出ていて、ジャケットの見た目で、よくアナログ盤を買っていました。こういうのも一種のジャケ買いなのかもね。
その頃は他にMISIAとかbirdとか、そんなのも聴いていて、今考えると何でそんなの聴いていたんだろうという感じもある……。若気の至りなのでしょうか。違うな。

MISIAとかbirdは消散してしまったけれど、中島美嘉だけは私の中でなんとなくまだ残っていて、つまりそれは〈Glamorous Sky〉があったからなんだろうと思う。〈Glamorous Sky〉は映画《NANA》の主題歌であり、中島は映画に主演して、そのキャラとして歌っていて、当時かなりヒットした曲とのこと。そうした 「なりきり」 パターンは蓮井朱夏とかRUIとか雨音薫なんかも同じで、音楽にそうしたコンセプトを持ち込むのは、その元を辿ればデヴィッド・ボウイのジギー・スターダストとかなんだろうと思う。

でも《NANA》の映画をDVDで観て、さらに矢沢あいの原作マンガも読んでみたんだけれど、《NANA》は私の感覚からすると、これだ! っていうポジションから微妙にズレているような気がしてノリきれなかったのです。大ヒット映画だったのかもしれないけれど、消費し尽くされてしまっているような気がするし、たとえて言えば、ドアが微かに開いていてそこからすきま風が吹きこんできているような感覚があって落ち着かない。もしNANAファンだった人がいたとしたら申し訳ないです。これはあくまで私の感覚なので。

あらためてキャストを見てみると、今では売れている俳優さんがまだ若い頃だったのか結構多彩で、キャスティングとしてはすごかったのかもしれないとも思います。でもその後、続編を宮﨑あおいが蹴ってしまったのも、役を選んで云々というよりは、そのすきま風のようなものに原因があったのではないかという気がしている。

中島美嘉はこの歌の中だけでナナであって、他の歌ではナナじゃない。それは彼女がいつも極端に髪型やファッションをかえていくのと同じ意味あいがあって、いつもその歌を歌としてだけでなく、ドラマとして歌っているのだと思う。
そして、そのうまいんだか、うまくないんだかよくわからない歌唱は、逆に誰にも真似できない中島美嘉なので、下にリンクした〈Glamorous Sky〉のライヴは音が不安定なんだけれど、ヴィジュアルが美しいので選んだのである。

それで話は突然、現在進行中のドラマ《カルテット》に跳ぶのだけれど、第5話では、カルテットとしてとてもやりがいのありそうな仕事が舞い込むのだが、それは見事なまでに幻想で、4人は現実のメチャクチャな下品さに翻弄される。4人とも変なコスプレをさせられ、きちんとした音を出すより見た目のカッコが大事、練習することよりオエライさんの接待をすることのほうが大事、あげくの果てに、一緒に演奏するはずだったピアニストがリハーサルできないとのことで、本番は音を出さずに弾くフリだけすることを強要される。
不満そうな4人が帰った後、プロデューサー浅木 (浅野和之) は 「こころざしのある3流は、4流だ」 と言い放つのだ。これはカリカチュアのように見えて、でも実は芸能ビジネスの本質をとらえている。もっと敷衍すればオシゴトなんてそのほとんどはこんなもの、というような現実に思い当たる。嫌なほどリアリティがある話だと思いながら観ていた。

でもカルテットの編成が、偶然かもしれないにせよ、1stヴァイオリンとチェロという外声が女性奏者であるということが、すでに、キャッチーな見た目を意識しているのと同じことになっているのかもしれなくて、それは浅木が心にもなくベタ褒めして彼ら4人に仕事を振ってきたのと、質的にはそんなに変わらないのだ。女性奏者の多いオーケストラがファンとの懇親会をすると人気があるというのも同じこと。つまり音楽でないところの音楽を狙っているというのもビジネスだし、だから誰もが美人ヴァイオリニストだったり美人ピアニストだったりする。

ただ、そうした音楽の本質と離れたドタバタの中に音楽的な片鱗がときどき垣間見えたような気がする。最低な仕事の後、その欲求不満を晴らそうと4人は野外でゲリラ演奏をするのだが、逆境や鬱屈したときにこそ音楽は輝くのだ。音楽で大金を稼ぐことと音楽の喜びとは必ずしも同一ではないし、豊穣なオーケストラが鳴るときよりも、稚拙なピアノの一音が心に響くものを持っているときはある。音楽は細部に宿る、と思う。そして本当に弾いているわけではないけれど、この前の満島ひかりのチェロの弾き方はかなりがんばっていた。

NHKの《SONGS》で宇多田ヒカルは、自分の立場はアメリカから見ても日本から見てもアウトサイダーであり、疎外感である、というようなことを言っていた。井上陽水が宇多田を形容する 「せつなさ」 のようなものはそこから発する感情であり、帰属できる故郷を持たない者は常にエトランジェなのであり、そしてそれはナボコフの持っていた蒼白の孤独に似る。


中島美嘉/TEARS (SMAR)
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中島美嘉/DEARS (SMAR)
DEARS(ALL SINGLES BEST)(初回生産限定盤)(DVD付)




中島美嘉 2013 Glamorous Sky (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=eETzXDPnOd4


当ブログが数日前に100万PVを超えました。人気ブログと比較すれば微々たる数字ですが、このブログの内容からすれば健闘しているほうではないかと自画自賛してみてます。今後もよろしくお願い致します。

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ニワムシクイを聴く ― メシアン〈La fauvette des jardins〉 [音楽]

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Anatol Ugorski

一昨日からずっと、ウゴルスキの弾いたメシアンを聴いていた。
私は今までメシアンのピアノ曲は、ワーナー・クラシックス (エラート) の《Messiaen Edition》を基本としていた。このエラート盤のピアノはイヴィンヌ・ロリオである。もう1セット、メシアンがあって、それはブリリアント・クラシックスの《Messiaen Edition》である。そのピアノはビーター・ヒルである。DGの《Messiaen Complete Edition》は持っていない。発売時に、メシアンはもういいか、とパスしてしまったのである (買いたいと思ったときにはCDは無し)。

だが、各作曲家に関して 「とりあえず曲だけ揃っていればいい」 と思っていた私のそれまでの規準を打ち破ったのが児玉桃の〈ニワムシクイ〉(La fauvette des jardins) だった (ニワムシクイの収録されているECM盤《La vallée des cloches》のことはすでに書いた→2014年02月22日ブログ。尚、古いCDには 「庭のほおじろ」 とする表記もあり)。

昨日は、ずっと遅くなった新年会があって、公園に向かう道はいつの間にか多くの店に覆われ、住宅街にまでその触手を伸長していて、そのひとつの触手の先端にあたるところにあるいままで知らなかった店だった。道は祭日のためか、大変賑わっていて行き交う人と明るい照明、あってもなくてもよいのだけれど食指を誘われてしまう商品の数々で、まさにお祭りのようだった。
料理と会話はとりとめもなく流れてゆくが、スコセッシの映画《沈黙》を奥さんと一緒に観に行ったという人に対して、映画はひとりで観に行くものだと主張する人がいて面白かった。でも、このなかで、すでに2人は《沈黙》を観ているのだということのほうが、ずっと映画館に行ったことのない私にとっては印象に残った。

アナトール・ウゴルスキの《鳥のカタログ》(Catalogue d’oiseaux) は、かつてDG盤で出ていたのだが今は廉価盤パッケージに変わってしまっていて、調べたら、タワーレコード盤が出ているのに気がついた。これのほうが安いしオリジナルデザインだし、というのが購入の動機である。その最後に〈ニワムシクイ〉も入っている。
しかしウゴルスキの鳥は、ロリオのように立ち昇る音響ではなく吹きすさぶ音群であって、ときに暴力的に躍動する。刺激的だがちょっと疲れる。その打鍵はbarbaroなバルトークを連想したりする。

その後、ぼったくりバーのようなカラオケ店に行って、でもどこも街は人の波で、そこで私はふと気づいた。あ、これは 「星野君のヒント」 なのだと。「なぜ小鳥はなくか」、その解答はすでに出ている。〈この信仰のない時代の夜もすっかり冬のものだ。酔客ばかりのアスファルトの路をわれわれは騒ぎながら歩き、吉祥寺駅で別れた。〉せめてFunkyに行ったほうがよかったのかもしれない。

もう一度、立ち返って児玉桃の〈ニワムシクイ〉を聴いてみる。メシアンは確認するまでもなく沈黙のなかにある。しかしその沈黙の出生には、リチャード・パワーズが書いたように捕虜収容所で書かれた作品もあるのだ。それは妙に胸騒ぎのするようなピンクノイズを連想させる。信仰のない時代には不似合いなのかもしれない。
だからウゴルスキのような疾風怒濤も存在するべきだし、同時にその沈黙を純化させたようなクリアな児玉桃も存在するのだ。かつてロリオが弾いたそれはメシアンが示した規範であり、時代はそこから限りなく流れてきてしまっている。そういう意味からすると、メシアンはすでに過去の人なのだ。だが彼が書いた祈禱書は永遠に存在する。
児玉桃の回想するオルガンを弾くメシアン。オルガニストには世俗と隔離された秘教的なイメージがあるのかもしれない。たとえばセザール・フランクとか。
ぼったくりバーで飲んだ安ワインにアタマをやられたようになりながら、その情けないアタマで考えたことはだいたいそんなことだった。


Anatol Ugorski/Messiaen: Catalogue d’oiseaux
(Tower Records Universal Vintage Collection +plus)
http://tower.jp/item/4292757/
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Anatol Ugorski/Messiaen: Catalogue d’oiseaux〈Le chocard des Alpes〉
https://www.youtube.com/watch?v=hcq-gnwkNUQ

Momo Kodama/ECM recordsのPV
https://www.youtube.com/watch?v=j--4Cn5EzBo
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in other words, Fly Me to the Moon — 宇多田ヒカル《Bohemian Summer 2000》 [音楽]

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竹宮惠子の『少年の名はジルベール』という本は、『風と木の詩』を描くまでの苦難の道のりのように見えて、その本質はもちろんもっと他のところにある。こんなヘヴィーな内容だとは思わなかったので、面白かったけれど誰にも勧めない。

竹宮の最も暗い部分は風木ではなくて、『Passé Composé』に描かれたニーノ・ソルティである。私が最もシンパシィを感じるのは、華やかなエドナンの影のような息子ニーノなのだ。
それゆえに私の偏愛する竹宮作品はまさに偏っている。好きなのはたぶん、少年マンガの風合いを色濃く残している『空がすき!』(というより冬の暗さを感じさせる〈NOEL!〉) と、SF系の詩情を湛えた小品〈ジルベスターの星から〉、そして昔からの典型的なSF的構成を持った『私を月まで連れてって』である。
この作品のヒロイン、ニナ・フレキシブルはロリータの変形であり、その名前・ニナはニーノの女性形だと私は思っている。少女のなかに少年の永遠は封印される。
竹宮惠子の暗い情念をはっきりと見てしまった今、むしろエンターテインメントな作品を選び、その伝統的マンガの方法論としての物語性に没入して行くほうがホッとするし、私は以前から無意識にそのような選択をしてきた。それで正解なのだったと思う。

「私を月まで連れてって」 というタイトルは、ジャズのスタンダード・ナンバー〈Fly Me to the Moon〉からとられている。でも、普通は 「月に連れていって」 という言い方が多いので、「月まで~」 という限定的な言い回しに、竹宮の意志を見るような気がする。
ちなみに原田知世主演によるホイチョイ・プロダクションの映画《私をスキーに連れてって》というタイトルは、この曲の邦題タイトルのパロディであると思う。「月→スキー」 という変換がオヤジギャグらしくて心地よい。

バート・ハワードの書いた〈Fly Me to the Moon〉はフランク・シナトラが歌ったことで大ヒットとなりスタンダードになる素地となったといわれているが、曲の雰囲気がそれらしく感じられるのは、シナトラのようなリズムを外している歌いかたでなく、たとえばドリス・デイのようなムーディでリッチなゆったりとしたサウンドのもとでの歌のほうである。

そして、ここのところ私は宇多田ヒカルの動画をよくYouTubeなどで観たりしていたりしたのだが、そうだ! 宇多田にも〈Fly Me to the Moon〉があった、と突然気がついた。それに〈Fly Me to the Moon〉は、アナログディスクを買い逃したのが残念だったということでも覚えている。

先日のTV《マツコの知らない世界》に出演した小室哲哉が、宇多田ヒカルが出現してきたときの衝撃を語っていたが、1stアルバム《First Love》の翌年、初めてのライヴ映像である《Bohemian Summer 2000》も同様に衝撃的であった。この最初のアルバムとDVDそれぞれのインパクトがあまりに強かったために、もっとも心が弱くなったとき、私は結局そこに戻って行く。私がこのライヴで一番好きなのは〈Movin’ on without You〉だ。このドライヴ感とせちなさ、チープさを装ったプリンスのようなシンセ音。リフレインの 「せつなくなるは/ずじゃ/なかった/のに どうして」 という歌詞の切り方がカッコイイ。

ライヴで宇多田は〈Fly Me to the Moon〉も歌っているが、当然、ジャズ・ルーティンのような歌い方ではない。日本の過去の歌手、尾崎豊や山口百恵のカヴァーにおける解釈や、自己曲の、スタジオ録音とは異なる崩し方とそのテンションの高さに、あらためてその音楽の密度の濃さを実感する。


宇多田ヒカル/Bohemian Summer 2000 (EMIミュージック・ジャパン)
宇多田ヒカル BOHEMIAN SUMMER 2000 [DVD]




竹宮惠子/少年の名はジルベール (小学館)
少年の名はジルベール




宇多田ヒカル/Movin’ on without you
Bohemian summer 2000
https://www.youtube.com/watch?v=dK4ORcX4KE8

宇多田ヒカル/Addicted to You
https://www.youtube.com/watch?v=fnSZD_YPfSM

宇多田ヒカル/Fly Me to the Moon
https://www.youtube.com/watch?v=JyMEoWiY7Sk

Doris Day/Fly Me to the Moon
https://www.youtube.com/watch?v=M_CRJNKvWsk
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下水のにおいとジャズの死 —《上海バンスキング》のメモ [シアター]

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串田和美、吉田日出子、笹野高史 (L to R/bookandbeer.comより)

井上陽水が1979年にリリースしたシングルに〈なぜか上海〉という曲があるが、同時期にオンシアター自由劇場の大ヒット作《上海バンスキング》という作品がある。この頃、なぜ上海だったのか、というのが私の素朴な疑問である。単純にそのノスタルジックでややあやしげな都市名とそれから連想されるなにかが流行だったのだろうか。

《上海バンスキング》は斎藤憐によって書かれた戯曲で、1836年、日本の軍国化を嫌ったジャズメンが上海に逃れて楽しくジャズをやろうとする物語なのであるが、やがて日中戦争が始まり、上海の自由な租界は潰えて、悲劇的な結末となる。

記録によると《上海バンスキング》の初演は1979年とあり、翌1980年の『新劇』3月号に戯曲が掲載されたことになっている。
だが上海といえば、それに先行する戯曲として佐藤信の《ブランキ殺し上海の春》がある。この作品は喜劇昭和の世界3『ブランキ殺し上海の春』として1979年に刊行されているが、戯曲にはブランキ版と上海版があり、同書によれば最初のかたちであるブランキ版が上演されたのは1976年11月、そして上海版が1979年5月となっている。

佐藤信と斎藤憐とはもともと自由劇場という同じ劇団に所属していた。それが演劇センター68/71となり、そして斎藤はそこから別れて串田和美、吉田日出子などとオンシアター自由劇場を結成した (正確にいえば最初は 「自由劇場」 で 「オンシアター」 という言葉が後から追加された)。
68/71が比較的硬派で政治的側面を持っていたのに対し、オンシアター自由劇場はエンターテインメントな演劇を目指していたともいえる。しかし、この同時期に上海というキーワードが並立したのは、佐藤信に対する斎藤憐のレスポンスと思えなくもない。
ブランキ殺しは一種のアナザー・ワールド的な構成をとっており、そこにルイ・オーギュスト・ブランキという悲劇の革命家をシンボルとして嵌め込んだユニークな作品であるが、《上海バンスキング》のほうが大衆に受け入れられやすかったことは確かである。
尚、同時期に、上海という名詞を含んだ作品として、寺山修司の映画《上海異人娼館 チャイナ・ドール》(1981) がある。

68/71も初期の自由劇場も、その音楽は林光と密接な関係があったが、《上海バンスキング》では越部信義が音楽を担当している。越部の最も有名な作品は野坂昭如作詞による〈おもちゃのチャチャチャ〉であろう。

《上海バンスキング》上演における特徴のひとつは、劇団員がバンドマンとなって実際に楽器を演奏したことである。別にプロのプレーヤーだったわけではなく、シロートだった人たちがなんとかジャズバンドのかたちにまで演奏の腕を上げた。もちろん最初は散々な出来だったのかもしれないが、そのナマ演奏の迫力というのはなにものにもかえがたくて、しかも次第にその演奏はこなれていったのだと思える。特に笹野高史のトランペットはとても味があった。
また、吉田日出子の歌唱は1930年代に活躍した歌手・川畑文子を模倣したものであることは久生十蘭の記事ですでに触れた (→2012年05月03日ブログ)。
そして《上海バンスキング》は2010年まで、劇場をかえて繰り返し上演されていた。

《上海バンスキング》の悲劇的な最後は、音楽がなにも救ってくれないことの暗示でもある。ひとりは阿片におぼれて廃人となり、もうひとりは召集されて戦争では死ななかったのに帰還する途中で死んでしまう。上海の街の下水のにおいは自由なあこがれの匂いから死臭を思い起こさせるにおいに変わる。
そして戦争の暗い影のなかで、彼らのやりたかったオールドファッションなジャズも時代遅れとなっていた。ビ・バップが擡頭してきた時期でもある。主人公たちはチャーリー・パーカーの演奏を聴いて 「これがジャズなのか?」 と嘆くのである。それは上海の死と同時に懐かしきジャズの死であり、そして彼らの死でもあったのだ。


上海バンスキング・FIRST (アート・ユニオン)
上海バンスキング・FIRST




オンシアター自由劇場+博品館劇場/上海バンスキング
上海バンスキング [DVD]

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正岡まどか (吉田日出子) &the上海バンスキング楽団/リンゴの木の下で
1994 (終演後、劇場のロビーで行われたライヴの様子である)
https://www.youtube.com/watch?v=xfoInIHogzA

ウェルカム上海 (5:30~頃から)
2010.03.07.
https://www.youtube.com/watch?v=H6CKSTqftC8&index=1&list=RD_Ra4iO9yIEI

川畑文子/上海リル (1935)
https://www.youtube.com/watch?v=zBw_VKosIus
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〈Epitaph〉を聴く [音楽]

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Jakko Jakszyk

前ブログの記事でザ・ピーナッツの〈Epitaph〉のカヴァーを聴いているうちに、その本家キング・クリムゾンのエピタフってどんなだったけ? という思いからYouTubeを探してみたら、21st Century Schizoid Bandの演奏に行き当たった。
21st Century Schizoid Band はフリップのいないクリムゾンで、wikiによれば活動は2002年から2004年となっている。バンド名はもちろんクリムゾンの1st《In the Court of the Crimson King》のメイン・チューン〈21st Century Schizoid Man〉からとられている。

21st Century Schizoid Bandは《LIve in Japan》という新宿厚生年金ホールで収録されたアルバムが出ているが、そのとき私は会場にいたので、映像を見ると当時のことが甦ってきて懐かしい。でもプログレというのは私にはよくわからなくて、チケットが余っているからというお誘いで、半分イヤイヤみたいな感じで行ったのを覚えている。
YouTubeの解説部分には Il video del concerto è stato registrato il 6 novembre del 2002 al “Shinjuku Kouseinenkin Hall”, Tokyo, Giappone, ed è eseguito dalla “21st Century Schizoid Band”, formatasi nel 2002 dagli alunni dei King Crimson.と書かれている。(ん? なぜかイタリア語)

ステージングなどは全然凝っていなくて、こんなんでいいのか? 状態だったのだが、この映像を見てもステージングだけでなく肝心の音もスカスカな感じは否めない。オールド・クリムゾニストたちの中で、このひと誰? 的なジャッコ・ジャクスジクがひとりでがんばっているという印象があった。でもその後、彼はエイドリアン・ブリューの後釜のポジションになってしまったのだから、がんばっていたのは当然だとも言える。

逆に私はプログレをほとんど知らないので、マニアックなこだわりがない。エイドリアン・ブリューは昔からのクリムゾン・ファンには評判が悪かったらしいが、なぜフリップがブリューをチョイスしたのかはよくわかるし、それはその時代に何がトレンドだったかというのと密接な関係がある (たとえばトーキング・ヘッズとか。デヴィッド・シルヴィアンとコラボしたのもそう)。フリップはすごく流行に敏感なのだ。でもそれをダイレクトに取り入れることはしない。
ブリューはクリムゾンにいたときと、ピーター・ゲイブリエルのときと、私は2回ライヴに行っただけだが、いずれもそのギターは圧倒的であった。特に、ああいうふうに弾きながら同時に歌えるというのは信じられないというプレイ場面があった。
下にリンクした〈Elephant Talk〉は随分過去のものだが、その一種の下品さが素晴らしい。フリップのギターも秀逸である。そして近年の同曲はもっとアヴァンギャルドであったはずだ。

だから最近YouTubeにupされているDGM Liveは、今のフリップの動向を伝えているが、やはり昔より今の演奏のほうが音楽はより濃密であって私は好きだ。
たとえば私は《Red》の〈Starless〉を探していたのだが、オリジナルの〈Starless〉も歴史的には優れているし、その憂愁の色合いは今は存在しないのだけれど、音色的なパワーが弱くて、古い感じがしてしまう。でもDGMの音は今の音で、クリアだし、聴かせるなにかを持っている。
2015年、パリのライヴ〈The LIght of Day〉はまさにプログレッシヴなものを持っていながら、同時に内省的で、その叙情性こそ21世紀のSchizoid Manのたたずまいなのだと思うのである。


King Crimson/Discipline (WHDエンタテインメント)
ディシプリン




21st Century Schizoid Man/Epitaph
live in Tokyo, 2002.11.06.
https://www.youtube.com/watch?v=tVLHU8Yio24

King Crimson/Elephant Talk
on air, 1981.12.04.
https://www.youtube.com/watch?v=GTQrlDzqUCA

King Crimson/Starless
DMG live
https://www.youtube.com/watch?v=FhKJgqxNDD8

KIng Crimson/The Light of Day
https://www.youtube.com/watch?v=24wD_Tcapxg
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Pioneers of J-Pop — ザ・ピーナッツを聴く [音楽]

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〈恋人よ我に帰れ〉(Lover, Come Back to Me) という曲を私はジャズのスタンダードだと思っていたのだが、実際の範囲としてはもっと広くて、ごく単純なポピュラー・ソングとして認識されているらしい。オスカー・ハマースタイン2世の作詞、シグマンド・ロンバーグ作曲による1928年の作品である。
トマス・M・ディッシュの『歌の翼に』を読んでいるとき、こうした20年代の頃の古いブロードウェイの歴史とか、コットンクラブのこととかがわからないと、そうした音楽から真の意味での身近さを感じとることはできないような気がしたのだった。

それはともかくとして、YouTubeで何人もの〈Lover, Come Back to Me〉を聴いているうちに、とんでもないものに行き当たった。それはザ・ピーナッツの歌である。アメリカの有名なバラエティ番組のひとつである《エド・サリヴァン・ショー》に出演したときのもので、1966年3月28日に収録、9月18日に放送されたとある。かなり有名な映像らしいのだが、私は寡聞にしていままで知らなかった。だから 「何を今更」 と言われてしまうのかもしれないが、でも感動は感動として素直に記録しておきたいと思うのだ。

リズムは急速でメロディも変えてあるが、歌詞が終わって、途中からスキャットになる部分が素晴らしい。そして一度スピードを落として、いかにも日本風に歌い回し (たぶんこれはアメリカを意識したオリエンタルなサーヴィスだ)、再び急速調に戻る。3分に満たない歌唱だが、十分にスリリングだ。
編曲は宮川泰とのことだが、その音づくりは半端ではなくて、1966年という時代にこれだけの編曲と歌唱が存在していたということがまさに驚きである。

ネットに掲載されている幾つかの記事を読むと、本来は2曲歌うはずだったのだが、リハーサル中にトラブルがあって、1曲だけになってしまったという説と、何曲も持って行ったのだが、他の曲はOKにならず、この曲のみ合格したという説があって、どちらが本当なのかはよくわからない。

他の曲を探してみると、キング・クリムゾンの〈エピタフ〉のカヴァーなんていうのもあって、さすがにちょっとどうかなという感じではあるけれど、意欲的であることだけで面白い。
でもザ・ピーナッツはその後、もっと日本的な情緒の歌謡曲のなかに埋没してしまう。それは需要と供給の関係として仕方がなかったことなのかもしれないし、年齢も25歳であり、「いよいよアメリカ進出」 みたいな箔の付け方も必要無かったのだろう。それにこの〈Lover, Come Back to Me〉のような歌唱がどのくらいすごいのかは、当時はあまり認識されていなかったのではないだろうか、と後世から見ることしかできない私はごく無責任に思うのだ。

日本の歌手が、尊敬する歌手はと聞かれると日本の先輩の歌手の名前をあげるだけで、ドメスティックな曲しか聴かないのは音楽的には退歩である。別に欧米崇拝ではないのだが、J-popという区分はその囲繞地のなかだけでの限定的な繁栄を意味しているようにも思えるし、鎖国でもありインセスト的だ。もっと奔放さとかがむしゃらさが欲しいと思うのは無理な願いなのだろうか。
それに今、アメリカがあんな状態でジコチュー的で自閉的な方向になっているのを見ると、鎖国政策こそが世界のトレンドなのかもしれないと思うのだ。それならいっそのこと、日本も再び鎖国をして、また徳川の栄華のような心地よく秘密めいた限られた空間を作ることのほうが、人の心は落ち着くのかもしれない。

ちなみにthe peanutsで画像検索するとスヌーピーが山ほど出て来て、まぁそうだよなぁ、とあらためて思うのである。


究極盤 ザ・ピーナッツ・スーパーベスト (キングレコード)
究極盤 ザ・ピーナッツ~スーパーベスト~




The Peanuts/Lover, Come Back to Me
The Ed Sullivan Show, 1966
https://www.youtube.com/watch?v=WJNixjTwF_A

The Peanuts/Epitaph
https://www.youtube.com/watch?v=Y21_bGNsKVo
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