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長門芳郎『パイドパイパー・デイズ』など [雑記]

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Lisa Batiashvili

ここのところ落ち着いてブログを書いたり読みに行ったりする時間がなくて失礼してます。

仕事の合間合間に、いままで読めなかった本のなかから長門芳郎『パイドパイパー・デイズ』を読んでみました。長門芳郎——シュガー・ベイブやティン・パン・アレ-などのマネージャー、そして南青山にあったというレコード店パイドパイパー・ハウスの店長、さらに海外ミュージシャンのコンサート等のプロデュースを多数してきたというすごい人です。

書名はそのレコード店からとられているのですが、伝説の店として名前だけは知っているけれど、残念なことに私はそのパイドパイパー・ハウスという店に行ったことがありません。
あの近くだとたとえば嶋田洋書とかヴィヴィアン・ウエストウッド青山店は知っているのに。もっとも嶋田洋書も一昨年に閉店してしまいましたけれど。

最初の音楽の出会いとしてラヴィン・スプーンフルというのがちょっと特異です。世の中がビートルズやストーンズだった頃にラヴィン・スプーンフル! とのこと。その後の音楽的変遷もすさまじいものがあって、でも私はラヴィン・スプーンフルといっても〈サマー・イン・ザ・シティ〉しか知らないし、ほとんどわからないようなジャンルなので、う~んこれはすごいらしいぞ、ということしか言えません (いや、らしいじゃなくて文字通りすごいんですが)。
パイドパイパー・ハウスの終焉はアナログレコードがCDに変わっていく頃と同期していて、つまりそれは音楽のメディアがそのように変化していったという単純なことだけではなく、もっと象徴的な意味があるのではないかと思います。

本の後半、3分の1くらいは音楽雑誌に掲載されていたパイドパイパー・ハウスの広告が年代順に並んでいて、手書きだったり、素朴なクーリエのタイプライターで打たれた文字で作られている、いかにも古い雑誌の香りのするチープだけれど力のこもった内容に、音楽はこの頃のほうがずっといきいきしていたんじゃないかと感じます。

    *

バティアシュヴィリはデビューであるEMI盤を聴いてみました。ブラームスの第1番とバッハの無伴奏1番、そしてシューベルトのロンド D.895です。もう少し聴いてみないとまだ書けない感じで、この録音のとき彼女は20歳。無伴奏は1番だけですが、イブラギモヴァとはまた異なった演奏で (どちらかといえば対極的なのかな)、しかし冒頭に持ってきたブラームスがとても良いです。ものすごく美音とか、ものすごく美人とかいうわけじゃないのですが、非凡ななにかを持っています。
シューベルトの最後のほうなど、ちょっと荒い感じもあるのですがそのパッションの表出さが何か違っていて、でも何が違うのかがよくわからないのです。

    *

レイ・ブラッドベリの『華氏451度』の伊藤典夫訳を読んでみました。これは相当面白かったです。いままでの訳と今回の新訳とを較べてみるといいんですが、そんな時間が無くてそのままになっています。それより原文と対照しろよ、というツッコミはナシです (そうそう、1953年のバランタイン初版本というのを見てしまいました。もちろんそんなもの買えません。そもそもバランタインで出すことになったのは 「こんなの売れねぇょ」 ということだったらしいんですが、それが今ではブラッドベリの代表作に)。
でも、久しぶりに読んでみると、ああこういう話だったのか、と忘れていたところが多くて、しかも今の時代をまさに現しているようで、エピソードのなかには、たとえば最低なレヴェルの大統領選挙が行われていたりして、それ以外にもギミックみたいなのが笑っちゃうほど満載で、まさに今の時代にぴったりな内容です。ブラッドベリって非常にシニカルです。
それで、フランソワ・トリュフォーの撮った《華氏451》という映画がありますが、映画自体はトリュフォーとしても満足のいく出来ではなかったようですけれど、映画では隣家の少女クラリスと妻リンダ (小説ではミルドレッド) をジュリー・クリスティが2役で演じているんですが、それは《ピーターパン》を演じるとき、父親ダーリング氏とフック船長を同じ役者が演じるのと同じなのだ、と突然気がついてしまいました。違うかな?

    *

ゾルタン・セーケイのことについても、何か書くことがあったんですが忘れてしまいました。忘れてしまうというのは、きっとたいしたことじゃないんです。


長門芳郎/パイドパイパー・デイズ (リットーミュージック)
PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989




Elisabeth Batiashvili/Works for Violin and Piano (EMI)
ヴァイオリン・リサイタル




Lisa Batiashvili/Shostakovich: Violin Concert No.1 a-moll op.99
Tokyo 2009
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6164632
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もう心は雪のように白くはない — TBSドラマ《カルテット》 [雑記]

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TBSのドラマ《カルテット》をたまたま見始めたら面白くて最後まで観てしまいました。
今回は第2回目とのこと。松たか子主演だが、松たか子 (巻 真紀)、満島ひかり (世吹 すずめ)、高橋一生 (家森 諭高)、松田龍平 (別府 司) という4人による文字通りのクァルテットで、丁々発止のストーリーということになっているようです。
偶然集まった4人が弦楽四重奏を弾くというので、もしかして《のだめ》みたいな音楽ドラマかと思っていたがそうではありませんでした。

この回の通奏低音となっているのはSPEEDの〈White Love〉だ。最初のほうのシーンで別府と結衣 (菊地亜希子) がカラオケで歌っている曲が〈White Love〉で、ボックスに遅れて入ってきた別府が内線電話で 「フライドポテト、メガ盛りで」 という。この大量のフライドポテトも伏線となっているのがニクい。
それぞれに片思いで恋が錯綜というのはTVドラマの王道だが、ややミステリーっぽいテイストとコメディとが加わっていて、これはなかなかイケるかもしれないと思う。光量不足のような暗い画面が多いのもいい。
詳しいあらすじ等は、番組サイト (下記) をご覧ください。

ところどころに入って来る一種のアフォリズムが面白くて、たとえば 「連絡しますというのは、連絡しないでね、っていう意味」 とか笑ってしまう。
「質問に質問で返すときは正解なんですよ」 というのもそう。

結衣は 「結婚するかもしれない」 と別府に言う。「(その相手と) どんな話をするんですか?」 と訊く別府に 「どこのタイヤが、どういいとか」 という返事。そんな男と結婚なんかするのやめちゃえよ、と別府は思う。
でも別府がホントに好きなのは真紀で、何回も偶然に出会う機会があった。でもそのチャンスを生かせないうちに真紀は他の男と結婚してしまう。
それはいいのだが、その偶然の機会というのがコネタになっていて、別府が最初に真紀の姿を見たとき、彼は銀色の宇宙人のコスプレをしていた。2回目に、よしそば行ったらバイオリンケース持った人がにくそば食べてて。3回目はヤマダ電機のマッサージ機に座っていて。でもいずれも声をかけられないでいるうち、4回目は結婚式場でバイトをしていたら、そこで真紀が式を挙げるところを見たことを告白して、ぼくと結婚してくださいと続けるのだ。
なぜなら真紀の夫は不在になっていて、でもその母である巻鏡子 (もたいまさこ) は息子が真紀に殺されたと思っているのだ。

その別府の告白に対する真紀の台詞がいい。ちょっとしたレトリックが古典的演劇ふう。

 悲しいより悲しいことってわかりますか?
 悲しいより悲しいのはぬか喜びです。
 おかしいなって思ってたんですよ。
 カルテットが偶然揃うなんて。
 でもこの4人、いいメンバーだなぁ。
 落ち込んでたから、神様が届けてくれたんだなって。
 うそだったんだ。

そして否定しようとする別府に、真紀はさらに畳みかける。

 別府さん、夫がいないっていうけど、
 いなくなるのって、いないってことがずっと続くことです。
 いなくなる前より、ずっとそばにいるんです。
 今なら落ちるって思ったんですか?
 いない人よりもぼくを。
 捨てられた女なめんな!

しんとした怒りの表現がまさに舞台のよう。言葉の使い方も、ドラマっぽい説明口調になるのを省いていて、少し飛躍があるのだけれど、こうしたときの人間のしゃべりかたはこんなもの、というのがよくわかる。

そして、別府は結衣がつまらない男と結婚するのが耐えられず、結衣にも結婚しようという。
それに対して結衣は 「お腹空かない?」 と話を逸らしてインスタントラーメンを作り、明け方のベランダで2人で食べる。
結衣は別府に言う。

 まぁ、私もずるいし、別府君もずるい。
 でも寒い朝、ベランダでサッポロ一番食べたらおいしかった。
 それがワタシとキミのクライマックスでいいんじゃない?

この割り切り方 (割り切らせかた) ってオトコマエでカッコイイ。結衣の部屋から帰ってくる朝の道。別府の足下をネコが通り過ぎる。レンズの割れたメガネ。
そして結衣の結婚式で、急造の弦楽四重奏団が演奏するのだが、新郎新婦が退出するとき、ひとりでソロをとった別府は、アヴェマリアを弾く。やがてそれが途中からWhite Loveに変わっていくのだ。SPEED、ツボだなあ。

真紀がすずめの片思いを見破っているのだと告げる台詞も、「またこれか」 ふうなのが来る。

 はっきりしない人って、
 はっきりしないはっきりした理由があるし、
 人を好きな気持ちって
 勝手にこぼれちゃうものじゃない。

エンディングに、「またこれか」 ふうな椎名林檎も来ます。ラストシーンに重なるメロディがハマり過ぎていて、要するにこういう退廃なのか?
脚本は坂本祐二。こういった台詞回しはぎりぎりのところなんだけれど、今のところ、ぎりぎりで成功してるように思う。4人の楽器の扱い方はイマイチですけど音楽ドラマじゃないから仕方がないのでしょう。(これと較べると玉木宏はすごかったなぁ。指揮のシーンのとき、う~ん、という個所がちょっとあったけれど全体的にはTVドラマのクォリティを凌駕していました)。

松たか子は、ずっと昔のドラマ《ラブジェネレーション》とか《じんべえ》くらいしか見てないけれど、久しぶりに面白いなぁと思ったドラマです。でも次の回を見るかどうかは、どうかな?
そうそう。《ラブジェネレーション》っていうのは2人の棲み家が独特のセットになっていて、そのことだけ覚えている。ドラマの内容は忘れてしまいました。CDは武部聡志のプロデュースしたアルバムだけ持っています。
それと、SPEEDではなく島袋寛子のソロになってからの動画を意味もなくリンクしておきます。


火曜ドラマ カルテット (TBS)
直近の放送分のみ、無料でオンデマンド配信されています
http://www.tbs.co.jp/quartet2017/

hiro/As Time Goes By
https://www.youtube.com/watch?v=u5kcssH6KcM
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マリオン・ブラウン《ジョージア・フォーンの午後》を聴く [音楽]

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Bennie Maupin & Marion Brown, 1966 (L to R)

最近は街の中の普通の書店がどんどん無くなっていると聞く。書店に限らず、小さなCDショップ (昔の言葉だとナントカ楽器店みたいなの) や、チェーン店に属さない喫茶店なども軒並み消えてゆき、コンビニやドラッグストアや、あちこちで見かける看板と外装のカフェに変わっていたりする。既知の風景が見慣れぬ風景に、まるでオセロのようにくるくると反転してしまう。

でも西荻窪の北口からすぐのところに今野書店という昔ながらの本屋さんがあって、本の並べ方とか見せ方に、きりっとした清潔感があってとても好感が持てる。あ、まだこういうちゃんとした本屋さんってあるんだ、という気持ちになる。『重版出来』に出てくる河さんのような店員さんが、きっといるのだと思う。書店とは文化なのだ。

マリオン・ブラウンに《ジョージア・フォーンの午後 (Afternoon of a Georgia Faun)》というECMのアルバムがあって、ずっと聴きたかったのだが手に入らなかった。amazonやtowerで売っていたときもあったのだが、ずっと待たされた後で 「入荷しませんでした」 となってしまう。いまだとamazonでは中古で8000円くらいしてたりする。でも偶然、比較的きれいな中古盤が、ずっと安く手に入った。

ジョージア・フォーンの午後というタイトルは、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲 (Prélude à l’après-midi d’un faune)》の英語タイトル《Prelude to the Afternoon of a Faun》のパロディである。でも、もちろんドビュッシーとは何の関係もない。

このアルバムはマリオン・ブラウンのアルバムでありながら、そのパーソネルに特徴があって、つまりアンソニー・ブラクストンとチック・コリアが〈サークル (Circle)〉という不幸な短命グループを作っていたまさにその時期の録音であるからだ。
《ジョージア・フォーンの午後》が録音されたのは1970年08月10日だが、その数日後の08月13日、19日、21日には〈サークル〉の録音が行われていてそれらは《Circling In》、《Circulus》という2枚のブルーノート盤に残されている。《Circling In》の場合はそれより5カ月ほど前の3月14日、19日、27日にもレコーディングが行われているが、その日付はコリアのソロアルバム《Now He Sings, Now He Sobs》の録音日とかぶっている。
そして《ジョージア・フォーンの午後》にはブラクストン、コリアだけでなくベニー・モウピンも参加している。モウピンはマイルスの《Bitches Brew》における悪魔のようなバスクラが印象的だ。

マリオン・ブラウンはジョン・コルトレーンの《Ascension》への参加がエポックとなっているサックス・プレイヤーであるが、アヴァンギャルドというふうに分類されてしまうけれど、その当時の典型的アヴァンギャルド・ジャズとは少し傾向が違うような気がする。
wikipediaによれば、《アセンション》の後、彼はパリに行き、印象派の絵画、アフリカ音楽、そしてエリック・サティなどに興味を持ったのだという。《ジョージア・フォーンの午後》はECMという独自の音を持つフィールドで、パリで影響され醸成された成果が反映されたのだと思ってもいい。

このアルバムで聴かれる音は、アヴァンギャルドなのかもしれないが、多分にアフリカン・ミュージックなテイストがしていて、しかもそれがプリミティヴな素朴さに傾き過ぎてしまうということがない。あくまでコントロールされた美学である。ヴィラ=ロボスのようなローカルな色彩感は無く、アフリカというイメージを持つサウンドから抽出される技法的な感覚をのみ取り入れているような感じだ。最も特徴的なのはヴォイスの使用法だろう。土俗的に捉えられがちな声の重なりが、パーカッシヴな効果音の音源のひとつのように幾つも重なる。このクリアな音は単純にマテリアルとしてのみ考えられていると思ってよい。
つまりワールド・ミュージック的なアプローチでもなく、あくまでジャズをそのルーツとしているのであって、アフリカを肯定的にとらえたサウンドといえよう。だからピーター・ゲイブリエルとかトーキング・ヘッズが提示したプリミティヴな指向とも違うし、時期的にももっと前だ。

そうしたコンセプトの中で使われているブラクストンとコリアの〈サークル〉的な音との重なりかたは、とってつけたようでなく、うまく融合しているように感じる。1曲目の〈Afternoon of a Georgia Faun〉で、ピアノの内部奏法から始まるコリアの音は《ナウ・ヒー・シングス…》の中の最終曲〈The Law of Falling and Catching Up〉の始まり方を連想させる。

私が最初に聴いたマリオン・ブラウンは《November Cotton Flower》(1979) であって、それはかつてのアヴァンギャルドの詩人的な音ではなかった。音は明快で曇りがなく、なによりも、神経質で難解という感じでは無くて、太くて強い音にメインストリームなジャズの伝統を感じてしまうほどだった。それとも《November Cotton Flower》は単にコマーシャルなアルバムに過ぎなかったのだろうか。

パリというヨーロッパ文化からの影響として、マルセル・カミュの映画のサントラという記述がある。これはアルバム《Le temps fou》を指すのだと思えるがそんな映画はなく、おそらく《Un été sauvage》なのだと思うが、しかし映画のデータには、音楽担当は Nino Ferrer となっていて、それらの関係性がよくわからない。オーネット・コールマンの《Chappaqua Suite》に似て、幻のサントラだった可能性もある。
他のアルバムも聞いてみたいと俄然思ってしまったのは、このようなあまりにも情報の不足した部分にかえって探究心を揺り動かされるものだからなのだ。


Marion Brown/Afternoon of a Georgia Faun (ECM)
Afternoon of a Georgia Faun




Marion Brown/Afternoon of a Georgia Faun
https://www.youtube.com/watch?v=VTHcYM1JN44
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バルトーク《組曲第2番》— バルトークとバックハウス [音楽]

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Zoltán Kocsis (1971/19歳の頃)

アントン・ルビンシテイン・コンペティションは1890年から1910年まで5年おきにパリで、ルビンシテイン (Anton Grigoryevich Rubinstein, 1829−1894) によって開催されたコンクールである。その1905年の回に自信を持って出場したベラ・バルトークは、第2位という結果に終わってしまう。第1位はヴィルヘルム・バックハウス。2人は共に1881年の生まれで、そのとき21歳であった。
おそらくこの結果が、ピアニストでなく作曲家で行くことをバルトークに決心させたきっかけだったのかもしれない。

昨年11月、ゾルタン・コチシュ (Zoltán Kocsis, 1952−2016) の訃報に愕然としたことを書いたが、フンガロトン盤のBartók New Seriesは彼が残してくれた美しき遺産である。そのなかから《組曲第2番》Sz34 (BB40) を聴く。SACDのシリーズ番号は6である。
組曲第2番以外の収録曲は《ルーマニア舞曲》Sz47a、《ルーマニア民族舞曲》Sz58、《舞踏組曲》Sz77で、邦題では舞曲だったり舞踏だったりするが、全てタイトル中にdanceという言葉が入っている作品である。

組曲第2番はそれらのdance曲に先行する作品で、コシュートよりは後だが、いわゆる若書きのオーケストラ作品であり、まだバルトークらしさが出ていたり出ていなかったり、という状態がかえって興味深い。そしてこの曲の作曲年代は1905~1907年、つまりルビンシテイン・コンペのあった年である。組曲は4曲で成立しているが、そのうちの3曲は1905年に書かれたという。
この曲はその後、1921年と1942年に改訂されているが、そうだとしてもごく若い頃のテイストは色濃く残されているように思う。
それが《ルーマニア舞曲》になると、6年後の1911年に書かれたためか、もう明らかにバルトークらしい音が確立されていて、その対比が際立っている。このSz47aはオーケストラ版であり、そのもととなるピアノ版 Sz43はさらに1年前の1910年であるので、つまり大雑把にいえば、このあたりから作曲家としての自覚とか自負が強くなってきたのではないだろうか。

また一連の民族的タイトルの曲は、コダーイとの民謡収集のフィールドワークの成果でもあり、しかもそれを単純に作品として取り込むのではなく、自分の作品として消化していったところにバルトークの特質がある。逆にいえば西欧伝統音楽的なフィルターで濾過されていて、純粋なフォークソングではないという見方もできる。

組曲第2番の場合、リヒャルト・シュトラウスやブラームズの影響がまだある、という世評は確かにその通りであり、また1905年にパリで出会ったというドビュッシーの影響もあると思われる。
しかし、組曲の4曲のうち、第3曲目のAndanteと第4曲目のComodoは、そうした先輩作曲家の影響の中にありながらも、ときどき独特の音が顔を出す。
バス・クラリネットのソロから始まる第3曲Andanteは、その微妙なブレンド感が面白い。旧態依然なオーケストレーションなのに、ところどころそうではない部分が混入する。だが全体としてはまだ自己のスタイルとしては確立していない、そんな感じである。

第4曲Comodoになるとオケの鳴らし方に明らかにバルトークっぽい音がする。印象としては金管はまだリヒャルト・シュトラウス風なのだが、木管がバルトークといった感じだ。しかも曲の後半に行くにしたがってだんだんとバルトーク色が強くなるような気がする。
このCDのトラックでいうと、tr01から04までが組曲第2番であるが、その後、tr05のルーマニア舞曲が始まると、明らかなバルトーク・サウンドが聞こえてきて、その落差にちょっと笑ってしまう。

ルビンシテインのコンクール出場者にバックハウスがいなかったら、きっとバルトークが1位だったろう。でもそうだったとしたらバルトークはピアニストとしての道に進み、その後のバルトークの作品は無かったかもしれない。ちょっとしたきっかけがその後の展開を全く異なったものにするのは、よくあることなのだ。


Zoltán Kocsis/Bartók: Suite No.2, Rumanian Dance etc. (Hungaroton)
Bartok New Series Suite No.2 Rumanian Dance




Zoltán Kocsis & Barnabás Kelemen/Bartók: Romanian Folk Dances
https://www.youtube.com/watch?v=XX-XJdnu1I4
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マツコの知らない世界 — 小室哲哉 [音楽]

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TBSTV《マツコの知らない世界》でマツコと小室哲哉のトークを観た。
マツコはコムロ大ブーム期にまさにシンクロしていたようで、その時代性と憧憬が会話のそこここに現れていた。「今だから語れる」 的な話は、つまりそれだけ時間が経過したから許容されることになったのだろうとも思う。
といいながらも、華原朋美のことをマツコが 「トモちゃん」 と呼んでいたのにもかかわらず、小室は 「華原さん」 と言っていたのが印象的だった。

最も売れていた時期に関してのマツコの問いに対して、「自分が大きなものを動かしているという意識はあったが、自分が作っている曲が自分自身を超えてしまった」 という形容は的を得ていてすごい。そしてマツコが 「ふと冷静になると恐怖心みたいなもの、ありました?」 と訊くと 「ええ、ずっとありました」 と答える。「時代を変えてやろうとか作ってやろうと思っていたわけではない」 とも。

ライバルとしてつんく♂を挙げ、引退を考えさせられたきっかけとして、宇多田ヒカルを聴いたときだったと言う。その小室の述懐にマツコも各々同意する。ざっと箇条書きにすると、
 
 あったらしいな!
 [まずAutomaticのPVの衝撃] ずっと低いなぁ。最後まで低い。
 生まれたときから英語というのも聞いて、これ敵わないな。
 何がAutomaticなのか。何回か詞を追っても分からなかった。
 作詞の概念を変えられてしまった。
 僕にはAutomaticというのが、まず出て来なかったので。
 出ないってこと自体、クリエイター側からすると
 「あぁ、出て来ないんだ自分は」 [と思った]。
 詞のはめ方、ラジオでの喋り方、何から何までが自由で、
 いいなぁ、うらやましいなぁ、こんな好きに喋っていいんだ。
 この業界になってから、これほどやられた感はない。

この部分を一番興味深く聞いた。
新しいな、でなく、あったらしいな!とわざわざ言ったところにその気持ちがあらわれていた。

私はコムロ・サウンドをそんなにリアルタイムで聴いていたわけではない。その頃には、そんなに興味がなかったのだと思う。だから遡って聴いていったような記憶がある。
でもなぜか『heaven’s DOOR』というバブル期の頃のディスコ雑誌がウチの書棚にあって、創刊号ではあまり垢抜けないtrfが表紙になっている。宇多田ヒカルの最初のアルバムについては、以前のブログにも書いたとおり私が最も繰り返し聴いたアルバムであるので、圧倒的に宇多田に対する記憶のほうが大きい。

この番組を観た後、時系列的にどうなっているのか、調べてみた。
シングル盤で見ると、

華原朋美   1995年10月11日 I BELIEVE
安室奈美恵  1995年10月25日 Body Feels EXIT
globe    1996年01月01日 DEPARTURES
華原朋美   1996年03月06日 I'm proud
安室奈美恵  1996年08月21日 SWEET 19 BLUES
安室奈美恵  1997年02月19日 CAN YOU CELEBRATE?
globe    1997年03月05日 FACES PLACES
浜崎あゆみ  1998年04月08日 poker face
宇多田ヒカル 1998年12月09日 Automatic/time will tell

華原、安室、globe、宇多田のなかに浜崎あゆみを加えてみたが、こうして見るとあきらかにコムロファミリーの全盛があって、それから宇多田ヒカルが出て来たことがわかる。ところが浜崎あゆみというのは、ほぼ宇多田ヒカルとかぶっていて、私はどちらかといえばコムロファミリーの同時代だったような錯覚に陥っていたのだが、ポスト・コムロファミリーの位置だったのが少し意外だった。
私の個人的な感想を言わせてもらえば、その各々の最全盛期というのはどれもごく限られた期間だったというのがわかる。つまり1993年にtrfの《EZ DO DANCE》、1994年に篠原涼子のヒットがあるにせよ、極端にいえばコムロファミリーは上記の選曲の範囲からすると1995年~1997年でしかない。
浜崎あゆみも私が最盛期と規定するのは1stシングルの《poker face》から16thの《SEASONS》までであり、とすると1998年4月から2000年6月までのわずか2年間である。思っていたより流行のサイクルというのはずっと短い。

そうした時代の変遷のなかでの宇多田の1stアルバム《First Love》が1999年3月のリリースである。しかし小室が、新しいと思った宇多田サウンドは結果として宇多田の孤高のものであり、それ以後、日本のポップスが新しい局面にシフトしていったかというと疑問である。むしろその後の展開は伝統的歌謡曲路線への先祖返りでしかなかった。それはポップス、しかも 「J-」 という地域限定的冠詞が付く以上、ある程度しかたのないさだめなのかもしれない。


マツコの世界SP/2017.01.10.
https://www.youtube.com/watch?v=c1U0GedYAqw
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スヴェンセンのロマンス [音楽]

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Johan Svendsen (1840-1911)

最もよく知られているヴァイオリン曲といえば、たぶんツィゴイネルワイゼンだろう。ヴァイオリンお上手! というのを証明するために、よくTVなどでヴァイオリニストがその一部を弾いたりする。
《ツィゴイネルワイゼン》という鈴木清順の映画があって、その予告編をYouTubeで見ていた。ずっと昔に観たのでほとんど記憶が無いが、考えていたよりずっと清新で美しい。もっとデカダンだと思っていた。

ツィゴイネルワイゼン以外のそうした曲 (キャッチーなクラシック曲) だと、たとえばロンド・カプリチオーソとかチャルダッシュとか、あと、フリッツ・クライスラーなどでもよいのかもしれない。逆にいうと俗に過ぎて、あまりまともに聴いたりすることがない。
ピアノだったら〈エリーゼのために〉がそうした曲の代表だろうが、その通俗さを逆手にとってタッジオに弾かせたのがヴィスコンティである。

シベリウスを聴いているうちに北欧系のヴァイオリンといえば、と考えだしたら、スヴェンセンのことを思いついた。
ヨハン・スヴェンセン (Johan Svendsen, 1840-1911) はノルウェーの作曲家であるが、ヴァイオリニストでもあり、グリーグと親しい人であった。一生のほとんどをデンマークで過ごした。

でもスヴェンセンのCDは全然持っていなくて、以前、弦楽四重奏にはまっていたときに買ったヒンダル・クァルテット+αの弦楽八重奏曲&弦楽五重奏曲しかない。それはNKF (Norsk Kulturråds Klassikerserie: ノルウェー文化審議会) というレーベルのノルウェー盤で、弦楽四重奏曲、五重奏曲、八重奏曲というのは皆、若書きの作品であるからなのか、芯になるものが乏しいような気がする。たとえばこの弦楽五重奏曲にしても、明るくてクリアで気持ちはよいのだけれど、ただそれだけで、深く心に訴えかけてくるなにかがあまり無いような気がする。

スヴェンセンはジャンル的に万遍なく曲を書いていて、グリーグはその交響曲に感嘆したとあるが、今となってはグリーグとスヴェンセンでは断然グリーグのほうが有名だ。ニールセンは指揮者としてのスヴェンセンのいわば弟子であったが、グリーグと同様にニールセンとスヴェンセンではニールセンのほうが人口に膾炙している。
その当時は有名だったけれど、今となってはその名声が衰えてしまったというのは、たとえばベートーヴェンと親交があったシュポーアなども同様で、彼の弦楽四重奏曲は第35番まであるのに 「シュポーアって誰?」 状態だし、もっと遡ればモーツァルトの対抗馬 (?) サリエリがまさにそうであった。名声と実力とは必ずしも一致しない。

スヴェンセンの《Romance for Violin and Orchestra》op.26 (1881) はもう少し齢をとってからの作品で、ロマンスというタイトルからして、ごく卑近な親しみやすい曲のような気がするが、さすがに若書きの作品よりはクォリティが上がっていて、スヴェンセンの個性も出ている。そして親しみやすい。
YouTubeにはテリエ・トンネセン/ノルウェイ室内オーケストラ (Terje Tønnesen/ Norwegian Chamber Orchestra) の演奏を見つけることができる。皆、カジュアルな服装をしていてほのぼのとした雰囲気だが、さらっとしていていながら、薄く憂愁のあるこの曲を、いかにも地元の名曲という感じで演奏していて、音楽の楽しみかたの原点という気持ちにさせられる。
メロディが下降していく部分に、マーラーのアダージェットを連想させるところがあるが、もちろんこの曲のほうがマーラーより先である。

たぶん今となってはスヴェンセンは2流の作曲家なのだろう。けれど常に、2流どころのほうが何かわからないのだけれど心惹かれる瞬間が時としてあって、それは1流どころの完璧な作品より人間的なように思えたりする。


Hindar Quartet with Arve Tellefsen, Sven Nyhus,
Hans Chr. Hauge and Asbjørn Lilleslåtten/
Svendsen: Octet for Strings, String Quintet (NKF)
https://www.amazon.com/dp/B000P3N8FG/

Terje Tønnesen & Norwegian Chamber Orchestra/
Svendsen: Romance for Violin and Orchestra op.26
https://www.youtube.com/watch?v=_sILd8oX7jk
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バティアシュヴィリのシベリウス [音楽]

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Lisa Batiashvili

音楽とは必ずしも技巧とか構成だけで測れるものではなくて、「こころかなしきときは」 むしろもっと原初的な情動がその感覚を左右するものなのである、というような意味のことと同じことを、尾崎翠と川上未映子とエル (ラファエル・ラナデール) に絡めて、かつて書いた憶えがある (→2013年11月06日ブログ)。

HMVのサイトを見ていたら、最近リリースされたDGのリストのなかにバティアシュヴィリのシベリウスがあって、え? またシベリウス? しかもバレンボイムと――などと思ってしまったのだが、でもバティアシュヴィリにとってシベリウスは、まさにオハコなのかもしれないし、私にとって最もシベリウスの輪郭を際立たせて聴かせてくれるのは、断然バティアシュヴィリのような気がしている。
1回目のシベリウスの録音は、2006年、サカリ・オラモ/フィンランド放送交響楽団とのライヴを収録したSONY盤で、それまで聴いたシベリウスのなかで最もシンパシィを感じる演奏だった。
リザ・バティアシュヴィリはグルジア (というか最近の言い方ではジョージア、彼女自身もそう発音している) 出身のヴァイオリニスト。グルジアという名前から思い出すのはシェンゲラヤの映画《ピロスマニ》のことで、最近、映画もオリジナル版で再上映されたらしいが残念ながら観ていない。私の持っているのはロシア語版の古いDVDだけだ (もうすぐブルーレイ&DVDが出るけれどこれは買いです)。

シベリウスはスウェーデン・BIS盤から《The Sibelius Edition》という全集が出ていて、分売なのだけれど、とても枚数が多いので買い切れなくて挫折してしまったのだが、生誕150年とのことで今度は日本盤がリリースされるとのこと。でも分売ではなく一括セットの全集なので、やっぱり手が出にくい。
とはいえ、この頃、流行というほどではないのだろうがシベリウスを多く耳にし、なんとなくシベリウスが身近になってきているような気がする。以前はシベリウスといえば 「北欧だから冷たい感じ」 みたいな安直で短絡的な感想をよく見聞きしたが、さすがにそうしたレヴェルの認識もなくなりつつある。

あまたのヴァイオリン協奏曲のなかで、シベリウスのそれは傑作である。冒頭から、オーケストラがそんなに鳴っていないのに、ヴァイオリンだけでがんがんいってしまうのがやや特異であるけれどトリッキーではない。シベリウスはこの1曲しかヴァイオリン協奏曲を書かなかったが、自身がヴァイオリニストでもあったため、技巧的にもダブルストップが多用されていてかなりむずかしいように思えるし、変奏部分が非常に緻密に書かれていて美しい。
木管 (特にクラリネットとファゴット) の扱いがうまいし、たとえば第1楽章でも、一度ヴァイオリンのソロになってから、2/2が6/4にかわって再びオケが入ってきて、その後、Molto moderato e tranquilloでまた弾きはじめ、すぐにLargamenteとなりソロ・ヴァイオリンのダブルストップが続くとき、その下にさりげなく入ってくるヴィオラのソロとか (下記にリンクした2007年の動画で見ると1本目の4’46”から)、その後、2/2に戻る直前 (7小節前) に、下のほうでチェロとコントラバスのきざむピチカートとか、この軽くて暗い感触はなんなのだろう。
第3楽章の、オケのきざむリズムに乗ってソロ・ヴァイオリンが躍動するスリリングさは、常に郷愁をさそう原初的な懐かしさのかたまりであって、北欧の冷たさというようなおざなりの通俗表現とは対極の熱いほとばしりを感じる。それはたとえばドヴォルザークに感じるような、過去の記憶のどこかに忘れてきたような郷愁に似ている。

このバティアシュヴィリのシベリウスは、たまたま借用したCDで、借りたそのときはそんなに理解できなかったのだが、最近聴き直したらこの表現の深さにやられてしまった。たとえばチョン・キョンファの若い頃のシベリウスも素晴らしいのだけれど、ところどころ違和感のある個所があって、それはほんのちょっとしたタイミングとか強弱の違いなのだけれど、私にとっては疑問だった。その部分がバティアシュヴィリではことごとくクリアされていて、つまりそれは上手下手ではなくて、シンパシィの波長が合っているかどうかなのだと思う。

YouTubeにはサカリ・オラモとの2007年の演奏と、2015年のアントニオ・パッパーノとの演奏がある。2015年のローマでの演奏のほうがさすがに手慣れた感じは受けるが、逆に若い頃の、CDと同じ指揮/オーケストラによる、闇雲にいってしまう新鮮さがかえって気持ちいい。

それと2006年リリースのCDに入っているリンドベルイの協奏曲は、バティアシュヴィリに捧げられた曲であるためか、曲も演奏も出色で、その分、バレンボイムとのチャイコフスキーのカップリングよりポイントが高く思える。でもチャイコフスキーはチャイコフスキーで聴いてみないとわからないのであるが。


Lisa Batiashvili/Sibelius & Lindberg: Violin Concerto (SONY)
VIOLIN CONCERTOS




Lisa Batiashvili/Tchaikovsky & Sibelius: Violin Concerto
(Deutsche Grammophon)
VIOLIN CONCERTOS




Lisa Batiashvili/Sibelius: Violin Concerto
Sakari Oramo - Conducto
Helsinki, Finlandia Hall 11.05.2007.
https://www.youtube.com/watch?v=XCOZPFIx7AU
https://www.youtube.com/watch?v=7-w96Q_7ad4
https://www.youtube.com/watch?v=TZw-ihP29TQ
https://www.youtube.com/watch?v=cSRUCRMr9NM

Lisa Batiashvili/Sibelius: Violin Concerto
Orchestra Sinfonica Accademia Nazionale di Santa Cecilia
Antonio Pappano, conductor
Auditorium Parco della Musica, Roma, 24 January 2015
https://www.youtube.com/watch?v=n4aOgRjqHrc

オマケ
Franz Schubert: Rondo Brilliant for violin and piano in B minor
https://www.youtube.com/watch?v=nfGK2Se3Rnk
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読まなかった本・聴かなかったCD・その他 [雑記]

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China Tom Miéville

あけましておめでとうございます。
年末年始はいつも多忙につき失礼しております。やっと今、しばらく時間ができましたのでこれを書いております。ということで、今年もよろしくお願い致します。

さて。
本やCDは、私の場合、別にブログネタにするために買うわけではなくて、それについて書こうと思っても、読んでなかったり、聴いてなかったり、そのうちそれらは埋もれてしまったりということが往々にしてあります。特に本なんて、その全部を読むわけではないので、どんどん屍となって堆積していきます。
また、一応読んだり聴いたりしたんだけどイマイチ、という場合もあります。つまり最終的にブログネタとなるのはごく一握りです。

というわけで反省の意味をこめて、昨年読み損なった本とか聴いてないCDとか、意味も無くリストにしてみました。
たとえば本にしたって、一度機会を逃してしまうと、そのうち読むかもしれないけど、たぶん読まないかなぁ、ということが多いようです。それと私は図書館を利用するという選択肢がないので、読もうとする本はすべて買ってしまうのですが、よいことなのか悪いことなのか。読まないんだったらムダですよね。でも確実に読まないというわけでもなくて、買って10年経ってから突然読んだりするんです、これが。

まず本から。
必ずしも昨年発売された本とは限りません。読む時間が無かったため読まなかったので、これから読むかもしれません。また、ここに挙げるほどではない本は除外しました。雑誌や文庫は基本的に除外しました。ブログに話題としてとりあげた本も除外しました。

〔音楽系など〕
クリストファー・ヤング『デヴィッド・シルヴィアン』(Pヴァイン)
リュック・フェラーリ『センチメンタル・テールズ』(アルテスパブリッシング)
ヴィヴィアン・ウエストウッド&イアン・ケリー
 『ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝』(DU BOOKS)
   伝記物ばっかりじゃん!
ロレンス・ダレル『アヴィニョン五重奏V クインクス』(河出書房新社)
   最後のVだけ買い損なっていたので。でも読み始めるのには決心が。
立花隆『武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋)
小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』(音楽之友社)
   武満もの。立花隆、厚過ぎ!
マリア・スサーナ・アッシ&サイモン・コリアー
 『ピアソラ その生涯と音楽』(アルファベータ)
長門芳郎『パイドパイパー・デイズ』(リットーミュージック)
フランソワ・ポルシル『ベル・エポックの音楽家たち』(水声社)

〔SFなど〕
ジョン・スコルジー『ロックイン』(早川書房)
ケン・リュウ『蒲公英王朝記巻ノ一』(早川書房)
ケン・リュウ『蒲公英王朝記巻ノ二』(早川書房)
グレッグ・イーガン『エターナル・フレイム』(早川書房)
ピーター・トライアス『ユナイテッド・ステーツ・オブ・ジャパン』(早川書房)
チャイナ・ミエヴィル『爆発の三つの欠片』(早川書房)
   新☆ハヤカワ・SF・シリーズは5001から全部買っています。
   ミエヴィルが5030だからちょうど30冊。
   でもほとんど読んでないよ。
『定本 夢野久作全集 1』(国書刊行会)
   一応、資料として。

〔画集など〕
須賀敦子『須賀敦子の手紙』(つるとはな)
   雑誌に載せたのをまとめて単行本化したもの。
   やや古風な雰囲気で美しい。これって画集ですよね?
荒木経惟『センチメンタルな旅』(河出書房新社)
   伝説の写真集復刻。
指原莉乃/細井幸次郎『スキャンダル中毒』(講談社)
深田恭子/ND CHOW『AKUA』(集英社)
深田恭子/ND CHOW『This is Me』(集英社)
   こうした写真集は買ったけど、中を見てないです。
江口寿史『KING OF POP 全イラストレーション集』(玄光社)
   いままでの画集は捨てちゃって、と言われてもね。
江口寿史『KING OF POP side B』(青土社)
   たぶん、こっちのほうがメイン画集より面白い。

〔その他〕
《小栗康平コレクション1~5》(駒草出版)
   これはDVDなんですが、一応、書店で売ってるので。
   当然、「6 FOUJITA」 も出ますよね?→駒草出版さん

なんか、これっていう本がないなあ。
まぁ、だから読んでないんですけどね。
逆に読んだけどブログには書いてない本も当然あります。

次にCDなどのリストも作ったのですが、CDでブログの話題にしてないものはほとんどがセット物で、資料みたいなものです。質・量ともに貧弱で、何も買ってないに等しくて、音楽ブログとしては失格ですね。ということでパス。(と思ったけど簡単に書いておきます。DGのブーレーズのconductsシリーズ4種、チェリビダッケのワーナー盤4種、マイルスのワーナー盤集成 Last Word、ビル・エヴァンスのOriginal Albumsシリーズ3種、Sex Pistols Live ’76、ルー・リードのRCA&Aristaコレクションetc.。それとビクトル・エリセとSW/フォースの覚醒、カエターノ・ヴェローゾのDVDなどなど)。
今年はもっとCDを買わないと。あ、買うだけじゃなくて聴かないと。


チャイナ・ミエヴィル/爆発の三つの欠片 (早川書房)
爆発の三つの欠片(かけら) (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

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