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《鈴木其一/江戸琳派の旗手》に行く [アート]

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ぎりぎりになってサントリー美術館の《鈴木其一/江戸琳派の旗手》に出かける。正確なタイトルがこれで《鈴木其一展》ではないところがミソ。
この前、Eテレの日曜美術館で丁寧な解説をしていて大変参考にはなったのだけれど、これ、また混んじゃうよなぁ困るよなぁ、とも思って、そう思いながらだらだらと行けずにぎりぎりになってしまった。
鈴木其一 (すずき・きいつ 1795−1858) は江戸琳派・酒井抱一の弟子の絵師である。
其一と書いて 「きいつ」 と読むところがかっこいい。音がジョン・キーツみたいだし。それに 「きいち」 じゃ、塗り絵になってしまいます。もっとも、その 「きいち」 も好きなんだけどさ。

日曜美術館で取り上げていたのはメトロポリタン美術館からやってきた〈朝顔図屏風〉と根津美術館の〈夏秋渓流図屏風〉だった。
さて、サントリー美術館に着くとすごい行列で、これはヤヴァいと思って、入ってすぐに、まず朝顔を見てしまおうと思って、最初のほうの展示には目もくれずに〈朝顔図屏風〉の前に。でも恐れていたほど混んではいず、屏風があまりにも大きいので、誰もが引いた位置で観ていて、ゆっくりと堪能できました。

まず朝顔を観て思ったのは、とてもポップだということ。この抽象化というか、普通に描いているようにみえてデフォルメされているところはウォーホルみたいだし、その繰り返しパターンはテキスタイルのようでもある。
朝顔の花のかたちは実はそんなに写実的で植物図鑑的な朝顔ではない。このややデフォルメされたような朝顔の表現は、たとえば〈糸瓜に朝顔図〉という絵ではもっと極端で、単純な青の楕円形にまで簡略化されている。だが、いつもそんなデフォルメかというと、別の絵では其一はまさに植物図鑑的な緻密な花だって描いている。つまりどのようなアプローチでも描こうと思えば描けること、それが其一のテクニックであり、むしろそのどんなふうにだって描けますよ的なところが鼻持ちならないのかもしれない。
朝顔の葉のほうも、葉っぱの繰り返しパターンでありながら、それぞれが微妙に異なり、でもそれでいてツタを妙な装飾風にして飾ってみるような手法はとっていない。あくまで朝顔の花と葉の集積である。少しずつ異なるヴァリエーションが存在し、その集積が、単純であることによる一種のパワーを発生させる。単なる造形美などという言葉で片付けられない屈折した美学がそこに存在しているように思える。それが金地の屏風の上に延々と描かれている。

かつて琳派を語るときの言葉として、ステロタイプ、金ぴか、紋切り型といった否定的なイメージがあり、そうした評価に影響されてしまいがちだが (私もそうした影響下にあったが)、琳派はそれだけではない、むしろその類型化されたパターンのなかにこそ真髄があるというふうに読み取れてきてしまう。

〈夏秋渓流図屏風〉の場合は、その造形のアヴァンギャルドさがもっと顕著であり、様式化された葉っぱの強い縁取り、木々のそこここに紋様のようにふりかかっている苔のかたちなど、現代的な意匠が伝統的に見える絵のなかに混入している。この強い縁取りのしかたは時として異様で、その異様さが若冲をも連想させる。

逆に〈風神雷神図襖〉の場合は、そうした金地の上に展開しているいつもの琳派とは異なり、さっと描かれていて、むしろ手抜きのように仕上がっている部分がある。だがその手抜きのような印象はフェルメールに似ていて、その、すっと抜いてわざと描き込まないことが技法なのだ。
画集やネット上の画像ではこの風神雷神はべったりとしてしまって色彩が出過ぎていて、この軽さのような微妙な色合いと筆致の表情が出てきていない。

面白く感じたのは、息子である鈴木守一 (すずき・しゅいつ) との比較である。たとえば〈業平東下り図〉という其一の作品があって、それを模写しながら少しヴァリエーションを加えた守一の同名の作品があるが、その品位や全体の印象は較べるまでもなく、差は歴然としていて、琳派は世襲ではなく実力主義であったことを越えて、其一の天才性をあらわしている。
それよりこの其一のほうの〈業平東下り図〉の右下の造形に私はビアズリーを感じてしまうのだが、そうだとしたらもちろん其一のほうが元なのである。

それとこれは少し話題がずれるが、守一の〈石橋・牡丹図〉という三幅対があって、能の 「石橋」 (しゃっきょう) を描いたものだが、其一の双幅〈猩々舞図〉などと較べてしまうと、守一は小さくまとまってしまっていて躍動感に乏しい。
ただそれは別として、私はいままで 「石橋」 という能に、もっと哲学的な不条理さのようなものを感じていたのだが、それは世阿弥的な造形を至上としてしまう現代の目から見た後付けのかたちからの影響であって、描かれたこの絵から受け取ることのできる印象はまさにお目出度い獅子の姿である。
それは 「猩々」 (しょうじょう) にもいえて、其一の〈猩々舞図〉はもっと奔放で、様式美でありながらプリミティヴな様相を醸し出している。それは原初的な猿楽の伝統を内在しているのだ。
こうした切能の数々を、まだ無知な頃の私は形而下的とバカにしていたのだが、ある日、薪能で 「土蜘蛛」 を観て、その歌舞伎に通じる美しさと幻想、華やかさに目が覚めた。それは高踏ではなく庶民的であり、もしかすると江戸時代に、より洗練され発達したものなのかもしれない。

遠近法でなく菱形に伸びて行く部屋の描きかた――たとえば其一の〈吉原大門図〉に見られるような多くの人々が群れている描きかたには、明るさがあり寂しさとは無縁である。こうしたやわらかな筆致から江戸時代の生き生きとしたさまが偲ばれる。これはちょっとした想像力のタイムトリップであって、それは我が国の文化がすでに最盛期を過ぎてしまったのではないか、という疑問をあらためて感じさせてくれる。


別冊太陽 日本のこころ 244
江戸琳派の美:抱一・其一とその系脈 (平凡社)
江戸琳派の美: 抱一・其一とその系脈 (別冊太陽 日本のこころ 244)




鈴木其一/江戸琳派の旗手 (サントリー美術館)
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_4/
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マイルス・スマイルズの形成 ― Miles Davis bootleg vol.5 [音楽]

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昨日発売されたマイルス・デイヴィスの Bootleg Series vol.5《Freedom Jazz Dance》はvol.4までのブートレグとやや趣を変えて、スタジオにおけるセッションの様子 (session reel と表記されている) が記録された内容になっている。
マイルスのCBSにおけるアコースティク・クインテットの黄金期、《E.S.P.》(released 1965)、《Miles Smiles》(1967)、《Sorcerer》(1967)、《Nefertiti》(1968) という4部作の頃である。wikiにはPost-bopという表現になっていて、そういう言い方もあるのか、といまさらながら感心してしまった。
3枚のディスクのうち、1枚目と2枚目の大半は、アルバム《Miles Smiles》の全セッションとそのマスターテイクなので、この Bootleg Series vol.5 (以下 Boot05 と略記) は《Miles Smiles》セッションがメインと考えてもよい。

《Miles Smiles》がリリースされたのは1967年02月16日だが、レコーディングは1966年10月24日と25日で、ちょうど50年前。その全6曲のセッションと完成されたテイクとが並列して収録されている。つまりスタジオ内での会話や練習を含めた様子が、ところどころカットされてはいるがテイクを重ねていくのがわかる部分もあり、非常に生々しい。このテイクはかなりいいなと思っていても、突然マイルスにより演奏が中断されたりする。
アルバム《Miles Smiles》の完成形の曲順は次のようだが、その後にある日付は録音日である。

 1.〈Orbits〉1966.10.24.
 2.〈Circle〉1966.10.24.
 3.〈Footprints〉1966.10.25.
 4.〈Dolores〉1966.10.24.
 5.〈Freedom Jazz Dance〉1966.10.24.
 6.〈Gingerbread Boy〉1966.10.25.

このうち〈Circle〉のみマスターテイクが収録されていない。Boot05 に収録されているtake05のクロージング・テーマとtake06のクロージング・テーマ以外とを合体したものが〈Circle〉のマスターテイクであるとのことだ。

ディスク2とディスク3にまたがって、アルバム《Nefertiti》からの2曲〈Nefertiti〉と〈Fall〉の2曲が収録されている。また、ディスク3のtr03とtr04はアルバム《Water Babies》の〈Water Babies〉であり、この〈Water Babies〉と〈Nefertiti〉は1967年06月07日にレコーディングされている。〈Fall〉の録音は1967年07月19日である (アルバム《Water Babies》は1967~68年の録音のアウトテイク集であり、1976年になってリリースされた。アルバム《Nefertiti》とアルバム《In a Silent Way》のアウトテイクである)。

Boot05のディスク3のtr05~08は拾遺的なトラックである。《Sorcerer》の〈Masqualero〉の別テイク、《Miles in the Sky》の〈Country Son〉のリズムセクションのリハーサル、そして〈Blues In F〉というマイルスのピアノによる解説/指示である。08は Miles Speaks というタイトルであるが、ほんの6秒間の声の録音に過ぎない。

全体を通しての印象は、おそらく面白い部分だけを選択してつなげているのだろうけれど、5人のメンバーのそれぞれのテクニックが非常に高いため、こんなに簡単に曲ができてしまうのか、と思わされてしまうほどにスムーズに組み立てられていく感じがする。
ほとんどがリズム・セクション (ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス) に対する指示であって、マイルスとショーターはそのリズムに乗ってソロを吹くだけであり、彼らのプラクティスは無い。特徴のあるマイルスの声をこれだけ聞くことができるのは珍しいのではないだろうか。〈Freedom Jazz Dance〉のセッション部分はこの Boot05 のタイトルにもなっている通り最も詳しい内容になっていて、完成形の曲時間7:14に対して23:15も収録されている。マイルスがメロディを口ずさみながら、タイミングなどを指示したり、テーマの部分を何度も何度もトライする様子がわかる。

ただ、はっきり言ってしまえば練習風景 (見えないけれど) なので、マニアックなファンを対象としたリリースなのかもしれない。いままでのブートレグ・シリーズのなかで今回のBoot05が一番マニアックだろうと思われる。ビル・エヴァンスのオスロ・リハーサル・テープ (→2016年04月11日ブログ参照) と同様に、面白いと感じるかどうかはそのリスナーによる。
今、過去のブログを読み返してみたら Bootleg vol.4 については書いていなかったが、毎回、発売の楽しみなこのシリーズである。デザインが統一されていないのと、輸入盤は作りがやや雑なのが少し残念だが、内容がすべてを凌駕している。


Miles Davis/Freedom Jazz Dance
The Bootleg Series vol.5 (Columbia/Legacy)
Freedom Jazz Dance: the Bootle




Miles Davis/Freedom Jazz Dance (国内盤)
フリーダム・ジャズ・ダンス ブートレグ・シリーズVol.5(完全生産限定盤)




Water Babies
http://amass.jp/78449/

We Speak ― ブッカー・リトル《Out Front》 [音楽]

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Booker Little

10月16日の《関ジャム》は前回好評だったとのことで再び蔦谷好位置とヒャダインによるJ-pop解説。これがメチャ面白い。
宇多田ヒカルの話題になり〈真夏の通り雨〉にあるグレゴリオ聖歌みたいな4度の和声とか、短2度でぶつかっているバックのストリングスとかは、それを当然と思わせてしまう 「アーティスト力」 であるという言い方をしていた。もちろん同曲はストリングス・アレンジも宇多田が行っている。

それを聞きながら思い出したのは、3度とか5度を協和と感じ、そうではない和声を不協和と感じてしまうのは単純に伝統的西欧音楽に毒されている、といったら語弊があるのなら馴化されているのに過ぎないのであって、確かに理論的には比率によって協和しているのかもしれないが、その音を気持ちがいいと思うかどうかは民族的な慣習から来るものに過ぎないのだとも言える。そうした捉え方をしたのがバルトークでもある。

ブッカー・リトル (Booker Little) の《Out Front》(1961) を聴いていてその和声のことを思い出した。
このアルバムのテーマでの3管による和音はいままでの感覚からいえばどれもが不協和であって、でもそれが奇妙な調和を生み出している。
《Out Front》はリトルの数少ないリーダー作のなかで最も有名な作品であるが、録音が行われたのは1961年3月17日と4月4日、サイドメンにはエリック・ドルフィとともにドン・フリードマンが参加している。ドン・フリードマンといえば《Circle Waltz》(1962) であり、ビル・エヴァンスのエピゴーネンとも言われたりするが、それはごく皮相的な形容に過ぎない。

すべての曲はリトル自身によって書かれているが、以前にこのブログにも書いたフランク・ストロジャーのアルバム《Fantastic》でのちょっとユルい感じとは違って、このアルバムのリトルは全てがスクエアであり、でありながら全てが奇妙な衣裳をまとっているようにも聞こえる。
3曲目の〈Quiet Please〉から4曲目の〈Moods in Free Time〉はハード・バップのように聞こえて、でもそうではない。緩急が交互に出現するインプロヴィゼーション部分にはハード・バップのパロディのような雰囲気が漂う。でもこんなピアノはハード・バップではないし、音はダリの時計のようにどんどん曲がっていく。
そして5曲目の〈Man of Words〉から私が連想するのはマイルスの〈Sketches of Spain〉(1960) である。バックの単純な繰り返しの上に屹立するトランペット。赤い夕日。つまりこれもパロディなのだろうか。
すべての曲のインプロヴィゼーションの部分に、すっと入って来るドルフィのソロの鋭くてクリアな音色が心地よい。

この《Out Front》の後、ドルフィとのファイヴ・スポットのライヴが、7月16日。その後にマックス・ローチとの《Percussion Bitter Sweet》が8月1、3、8,9日であり、ベツレヘム盤の《Booker Little and Friend》の録音は Summer, 1961 とだけある。しかしおそらくこれが最後のレコーディングであり、10月5日に彼は病により亡くなる。

リトルはクリフォード・ブラウン系の輝かしいトランペットという言われかたをするが、私は少し違うと思う。それは 「クリフォードのよう」 という言葉が褒め言葉のひとつであるからに過ぎなくて、リトルの音は柔らかく少し曇っていて、それは磨かれた銀器に生じた微かな曇りのように少しだけなのだが、その不安な瑕疵の分だけ、アヴァンギャルドしてもブラウニーより許される。
クリフォード・ブラウンは25歳で早世したが、ブッカー・リトルは23歳。あまりに理不尽過ぎて涙も出ない。


Booker Little/Out Front (Candid)
Out Front




Booker Little/Man of Words
https://www.youtube.com/watch?v=6J9IbZYeZGc
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Voy Cantando ― ヤン・ガルバレク《Dresden》 [音楽]

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Jan Garbarek (2003)

ときによって地名は、単なる地理的な位置だけでなくその言葉自身の持っている歴史までをも映し出す。それは幻影に過ぎないのかもしれないが、少なくとも私にとってはそうだ。たとえばデヴィッド・ギルモアの《ライヴ・イン・グダニスク》というタイトルのグダニスクという言葉から感じとられるものは単なる地名だけで終わらない。
ヤン・ガルバレクのアルバム《Dresden》(ドレスデン/2009) も同様である。ドレスデンという地名から連想するのは、音楽だったらシュターツカペレ・ドレスデンとか、文学だったらエーリッヒ・ケストナーとかが思い浮かぶが、なによりも強く想起されるのは、カート・ヴォネガットの《スローターハウス5》(1969) である。

ヴォネガットのこの小説は作家自身の体験を題材として、ドレスデン爆撃を描いている。そしてヴォネガットの奇妙な諦念のような心情をこめた 「そういうものだ」 (So it goes.) という言葉が繰り返し使われていたことを思い出す。そのヴォネガットの作品を原作としてジョージ・ロイ・ヒルによる同名の映画が作られたが (1972)、音楽にはグレン・グールドが用いられていた。

もちろんガルバレクのこのアルバムは、ヴォネガットとは全く関係ない。しかし、初めてのライヴ・アルバムと記されているそのデータを見ると、Recorded live October 20, 2007: Alter Schlachthof, Dresden とある。
ドイツ語のシュラハトホーフは、英語でいえばスローターハウスである。日本語では、最近は使ってはいけない言葉らしいが、屠殺場 (今の言葉でいえば食肉処理場) のことである。調べてみると、昔からシュラハトホーフであった建物を改装してライヴ・ハウスというか、コンサート・ホールのようにして使っている場所のようである。

コンサートは非常に叙情的で美しく、いつものガルバレク節がたっぷりと聴けるライヴである。
ところどころ、曲をいちいち終わりにせず次の曲に続けてしまう個所があり、そのつながりかた、変化の仕方が素晴らしく深遠だ。

CD1の〈Twelve Moons〉の後半、ガルバレクのソロが続き、それがそのままコロコロと丸いキーボードの音に導かれて次の〈Rondo Amoroso〉へと繋がっていくあたりが、このアルバムのクライマックスのひとつである。ガルバレクのソロは悲しみを湛えているが、いつも決して暗くはならない。最後にはメジャー・スケールに解決していくような優しさがガルバレクの特質である。

パーソネルは

 Jan Garbarek (ss, ts, selje flute)
 Rainer Brüninghaus (p., key)
 Yuri Daniel (b)
 Manu Katché (ds)

のクァルテットであるが、特にライナー・ブリューニングハウスが素晴らしい。アコースティク・ピアノとキーボードを使い分けているが、どちらもその個性が際立っていてセンスが良い。ECMにはブリューニングハウス名義の《Continuum》(1984) というアルバムがあって、マーカス・シュトックハウゼンが参加しているが、残念ながら未聴であり、しかも廃盤らしい。
ブリューニングハウスのコンセプトはミニマル系の音との評を読んだが、それはこのガルバレクのアルバムでも若干感じられる。たとえばCD2のtr3〈Transformations〉における長いピアノ・ソロも、ミニマルとは異なるが、音の連なりかたがジャズでもフュージョンでもなくて、延々と長い弧を描いていくような印象がある。キース・ジャレットのソロピアノを彷彿とさせる個所もあるが、キースほど黒くない。そしてtr4の明るい〈Once〉に移って行く。

CD2の後半は、軽快で明るい音楽が多くなり、tr8〈Nu bein’〉はドラムのリズムに乗ってフルート (selje flute) が祭り囃子のように素朴に吹かれる。マヌ・カチェのドラムはいつも理知的だが決して冷たくはない。
この曲が最後の曲であり、歓声と拍手がやがて手拍子に変わって、アンコールとして演奏されたtr9は〈Voy Cantando〉であるが、この曲のテーマはアルバム《Witchi-tai-to》のメインの曲〈Hasta Siempre〉(Carlos Puebla) を思い出させる。むしろその変奏曲と考えたほうがいいのかもしれない。
〈Voy Cantando〉はアルバム《Legend of the Seven Dreams》(1988) にも収録されているが、このときのピアノもブリューニングハウスである。

Voy Cantando――音楽は結局、歌である。たとえそこに歌詞がなくても。
歌心という少し俗な言葉がガルバレクの音にはいつも含まれていて、それを改めて感じさせてくれる終曲である。


Jan Garbarek Group/Dresden (ECM)
Dresden: In Concert (Ocrd)




Jan Garbarek Group/Voy Cantando
Bergen, Norway, 2002.05.25.
https://www.youtube.com/watch?v=gltRJlspbyk

Jan Garbarek/Hasta Siempre
Nancy Jazz Pulsations, France, 2004.10.12.
https://www.youtube.com/watch?v=T5KYZ2F9IRs
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宇多田ヒカルのミックスからシンセのことなど [音楽]

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Isao Tomita

雑誌『Sound & Recording Magazine』の11月号に宇多田ヒカルの今回のアルバム《Fantôme》をミックスしたスティーヴ・フィッツモーリス (Steve Fitzmaurice) の記事が載っていた。
今回のアルバムは意外にも海外でかなり売れているとのことで、というのは過去に全英語詞のアルバムを出したのにもかかわらずほとんど売れなかったのに、今回のジャポニスムみたいな内容の作品がなぜ売れたのか、というのが漠然とした謎みたいなのだ。音楽がよかったから売れたのだ、と言ってしまえば簡単なのだが、コトはそんなにシンプルではない。

サンレコの記事はあまりに専門的なので、そういう部分はわからないが、フィッツモーリスはいままで宇多田のことは知らず、今回のミックスにあたって初めて聴いたときの印象として 「レディオヘッドやビョークに通じる実験的なニュアンスが感じられ」 たというようなことを言っている。
先日のブログのコメント欄で私は 「海外ではたぶん、たとえばビョークとか、そういう捉え方で聴かれているのではないか」 と書いたが、そういう見方でやはり正解だった。

しかし記事を読んでいくとフィッツモーリスが担当している部分は、ミックスが基本であって、それにプラスしてヴォーカル以外のレコーディングも行ったとある。肝心のヴォーカル・トラックは小森雅仁によって別の場所で録音され、おそらく完パケのものがフィッツモーリスのもとに送られてきて、それらとインストウルメンツとを合わせて彼がミックスしているのだということだ。
だから最も肝心な部分であるヴォーカルがどのように入れられたかということは、この記事からは窺い知れないのである。

フィッツモーリスのミックスは一度NEVEに通して、つまりアナログのシステムにおける処理であり、アナログのアウトボードなども適宜使用し、完成形をProToolsに戻すという方法だと語っている。そして、だからといって音像がレトロに傾かないように、生音にデジタル音をかぶせたりしているようだ。
彼のミックスのポリシーとしての 「最近は音を重ね過ぎた音が跋扈しているので、音を重ね過ぎないで空間を残す」 「重心を低く、シンプルに」 というあたりにこだわりが感じられる。やたらに音数を増やさないで、むしろ引き算でいくというのが (これも同様に前回のコメに書いたことだが) プリンスっぽい考え方なのだと思う。
DAWだけで完結するミキシングは嫌いといい、マイク・セッティングが肝心なのでEQはほとんど使わない、音は細かくフェーダーで調整するとのこと。そのあたりも昔気質だ (写真を例にとるのなら、撮影そのものこそが重要で、あとからPhotoshopでいじるのは邪道、というのに近い)。
こうした作業のほとんどがイギリスで行われているというのが宇多田サウンドの特徴となっている。アメリカとイギリスでは、やはり音に対する考え方が異なるのだろうなという印象がある。
アナログに落とすということは普通に考えれば劣化だが、SNが良いか悪いかというのは音質つまり音響の問題であって音楽の問題とは違う。

一方、『Keyboard magazine』の秋号では冨田勲の追悼という意味あいがあるのか、昔の記事の再録も含めた冨田特集になっていてなかなか読ませた。冨田がmoogで曲を作り始めた頃は、すべての音はモノフォニックで、それらを気の遠くなるほど重ねていくことによってあのサウンドを作り出していたわけで、初期の、まだ未完成なポリシンセが出始めた頃に冨田は否定的なことを言っていたようである。
2014年の冨田と小室哲哉の対談は冨田晩年の時期であるのにも関わらず意気軒昂でまだまだ次を見据えていて、このようにして最後まで現役だったのだから残念だけれど仕方がないと思うしかない。
《Switched on Bach》のウォルター・カーロスに対抗してmoogを始めたというのが冨田の動機だとのことだが、小室との対談では、いきなりシンクラヴィアの悪口を言ったり (高価で故障が多かったとのこと)、絶頂期だった頃の野外のコンサートの思い出とか、その歴史がシンセの歴史とオーヴァーラップしていてまさにプログレッシヴである。
小室の発言で印象に残ったのは、今、ハード・シンセとソフト・シンセではソフト・シンセのほうがしっくりくること。それはハード・シンセだと音がいろいろな経路を通るためにスピードが遅く感じられるとのことなのだ。ハード・シンセをアウトボードのよう、と表現しているのが面白い。
また、同じ音でありながらソフト・シンセのほうが音像がくっきりしていて、音がきれいだというのである。冨田が、それは平均律じゃないの? だとしたらつじつまが合わなくなるはず、と訊くと、いや平均律なんだけれど精度が高いので和音によってうねりが無く聞こえる、と小室はいう。このへん、やはり音を極めていないとわからない会話である。

そんなことから、話題はどんどんずれるのだけれど、YouTubeを見ていたら松武秀樹のテクノスクールという番組で、浅倉大介の自宅スタジオ訪問というのに行き当たって、ハード・シンセの巣窟のようななかでの2人の会話がマニアック過ぎて楽しく観てしまった。機種番号がやたら出てくるのは、どのジャンルのマニアにも共通している。
サンレコの記事によれば、このスタジオとは別の部屋に大きなmoogがあり、それはエマーソン・モーグ・モジュラー・システムというのだそうだ。機種名にエマーソンという名前が付けられてしまっているのがちょっとすごい。
JD-XAのデモ動画もあるが、小室哲哉と浅倉大介ではやっぱりアプローチが違う、というのが確実にわかる。こういうのもまたシンセの歴史の経過点となっていくのだろう。

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Daisuke Asakura Private Studio


Sound & Recording Magazine 2016/11月号 (リットーミュージック)
Sound & Recording Magazine (サウンド アンド レコーディング マガジン) 2016年 11月号 [雑誌]




Keyboard magazine 2016 AUTUMN (リットーミュージック)
Keyboard magazine (キーボード マガジン) 2016年10月号 AUTUMN (CD付) [雑誌]




テクノスクール 家庭訪問
浅倉大介さん プライベート・スタジオ ディレクターズ・カット版
https://www.youtube.com/watch?v=3IDPC7eD8KU
DAISUKE ASAKURA PLAYS [JD-X & AIRA]
https://www.youtube.com/watch?v=cYWnwD2lWP4
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チョン・キョンファの無伴奏バッハを聴く [音楽]

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Kyung Wha Chung

今、チョン・キョンファのバッハの無伴奏ソナタ&パルティータを聴きながらこれを書いている。
一時引退かと思われていたチョンが再起し、新たにワーナーと専属契約して、その第1弾アルバムである。
チョン・キョンファ《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲》、録音はライナーノーツによれば2016年2月19日−21日、3月24日-26日、4月3日−5日、5月30日−6月1日の合計12日間、場所はイギリスの St George’s Bristol とある (HMVとtower recordsのサイト記載のデータは2〜3月の個所がどちらも同じように間違っている)。

音はややホールトーンのある、といって嫌味なほどではない響きで明るく気持ちが良い。ただ、いきなりこれを書いてしまっていいのかどうかわからないが、え、これってどぉ? というのが第一印象だった。
すごく気持ちがいい響きなのだが、いわゆる巨匠芸的な音に私には思えてしまう。巨匠芸というのが揶揄した言い方なのだとしたら決してそんなことはないのだが、古色蒼然としたバッハではないのだけれど、つまりロマン派的傾向を持ったバッハであって、私が最近思い描いているバッハ像とはやや異なる気がする。
このチョン盤のリリースを期待していたので肩すかしといえばそうなのだけれど、でもよく考えてみれば、これがチョン・キョンファのスタイルなのだと思えばその通りなのだ。

チョン・キョンファのバッハは2014年にリリースされたサントリー・ホールでの1998年東京ライヴというのがあって、その第2夜でパルティータ第2番を弾いている。これもすでに聴いているのだが、その時はライヴという条件のためか、そのパッショネイトな演奏と会場の雰囲気というものに押されてしまって、そんなに違和感はなかったように思う。
さらにさかのぼればずっと若い頃のデッカ盤があって、これは一昨年に出されたコンプリート盤で聴いたのだが、無伴奏はパルティータ第2番と第3番で、1974年の録音である。

きっとバッハに対する私の感じ方が変わったひとつの分岐点はクリスティアン・テツラフにあると思う。テツラフの最もすぐれた演奏はバルトークの無伴奏だと思うが、バッハの無伴奏も2回録音があって、その禁欲的というか、色のない演奏に引き込まれた。
最近のテツラフは、以前に較べると共感できる度合いが少し下がってしまったが、それにかわって私のフェイヴァリットになったのがアリーナ・イブラギモヴァである。テツラフはイブラギモヴァの師匠のひとりなので関連性があるといえばそうだが、イブラギモヴァの持つ独特の暗さは彼女独自のものである。
イブラギモヴァの無伴奏バッハは、そのほの暗さと華やかさのない音が、現在の私にとっての至高のバッハである。

それに対してチョン・キョンファの無伴奏は、すごく華やかでダイナミックで、えっ? というアーティキュレーションありまくり、アゴーギクばりばりという感じだが、聴いているうちにこれが快感に変わっていくところが何ともいえない。例が悪いかもしれないが、G線上のアリアと同一線上にある無伴奏であって、決して難解玄妙なバッハではない。
こういうのが音楽の喜びといえば喜びなので、そのこちらの弱みをうまくついてくるチョンの表現力が優れているのだが、最初に聴いたときは思わず楽譜と照らし合わせてしまった。でも、あらためて思ったのだがバッハの楽譜には音以外のことはほとんど何も書かれていない。だからどう弾いたっていいのである。私が参照したのはアドルフ・ブッシュの校訂版だが、そこに付加されている指示は些末なことに過ぎない。
だから逆に有名なシャコンヌでは、たとえばイブラギモヴァだとすごく神妙で疲れてしまうという感じもあって、もっともその疲れてしまうほどの重さが心地よいのだが、それをチョンが弾くと、全然重くなくて、まさに昔から認識されているシャコンヌ的シャコンヌに聞こえる。

では昔のバッハ演奏は今ではダメで、ピリオド系のバッハがいいのかと問われると、私は相変わらずカール・リヒターのほうが良いと思ってしまうほうなので、必ずしも現在のバッハへのアプローチに賛同しているわけではないから、いわば支離滅裂である。でも音楽なんてどのように聴いたって良いのである。これが良いと思うバッハが真実のバッハなのだ。


Kyung Wha Chung/Bach: Sonatas & Partitas (Warner Classics)
バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全6曲)




Kyung Wha Chung/Bach: Chaconne (Partita No.2)
2014.12.01, Royal Festival Hall, London
https://www.youtube.com/watch?v=DEVLtf6J-g4
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宇多田ヒカル《Fantôme》を聴く [音楽]

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宇多田ヒカルの久しぶりのアルバム《Fantôme》を聴く。
アルバム収録曲全体に感じられる何かまろやかなもの。その雰囲気がとても 「和」 で、つまり日本的なテイストでちょっと意外な気持ちになるが、宇多田自身が、日本にもなじめないし、といって海外にいると自分が日本人であることを強く感じる、どこにいても自分はアウトサイダーだ、というような発言が心に残る。

最初の曲〈道〉の冒頭、このコロコロとした触感とその音色は、全く別の何かの曲で聴いたはずだと思うのだが思い出せない。明るくポップでキャッチーで、CM用の曲とはいえ、この明るさがモチーフなのかと思ってしまうと、それはことごとく裏切られる。この1曲目は偽りの表紙なのだ。

5曲目の〈人魚〉あたりからの展開が圧巻。〈人魚〉はハープの伴奏で始まり、美しい曲のように見えて、でもハープに加えてドラムが入ってくるだけで、音数が増えない。その虚ろさはなんだろうか。

 水面に映る花火を追いかけて
 沖へ向かう人魚を見たの

と歌いながら、また 「あなたに会えそうな気がするの」 「あなたに会えそうな気がしたの」 とも歌う。人魚があなたなのか、それともあなたには会えなくて、そのかわりに人魚を見たのか。
次の曲〈ともだちwith小袋成彬〉は軽やかに聞こえるリズムにギター、ブラスが重なる。棒読み風の印象的なリフレイン、「Oh 友達にはなれないな にはなれないな Oh」 とさらりと歌いながら、ときどきドキッとするような歌詞が混じる。いや、思わせぶりなのはもうやめよう。

その次の7曲目〈真夏の通り雨〉は絶唱である。

 汗ばんだ私をそっと抱き寄せて
 たくさんの初めてを深く刻んだ

という歌詞からはそうした恋愛のありふれた情景を連想するが、でもそれはダブル・ミーニングであって、だんだんと様相があきらかになってくる。

 揺れる若葉に手を伸ばし
 あなたに思い馳せる時
 いつになったら悲しくなくなる
 教えてほしい

という。そう、ずっと悲しみは持続しているのだ。「教えて 正しいサヨナラの仕方を」 とか (この個所で私は Sugar Soul の〈悲しみの花に〉の 「あぁ 誰か教えてよ/悲しみの行方を」 を思い出す)、「あなたの思い馳せる時/今あなたに聞きたいことがいっぱい/溢れて 溢れて」 とか、まだ恋の終わりのようなシーンを連想させるが、その次でそれは突然崩壊する。

 木々が芽吹く 月日巡る
 変わらない気持ちを伝えたい
 自由になる自由がある
 立ち尽くす 見送りびとの影

 思い出たちがふいに私を
 乱暴に掴んで離さない
 愛してます 尚も深く
 降り止まぬ 真夏の通り雨

「自由になる自由がある/立ち尽くす 見送りびとの影」 という部分で茫然となる。これは真夏のレクイエムであり擬装していた恋愛ゲームは霧散する。
そして、真夏の通り雨という言葉から、私はT・S・エリオットの〈荒地 The Waste Land〉を思い出す。

 Summer surprised us, coming over the Starnbergersee
 With a shower of rain; we stopped in the colonnade,

 シュタルンベルガ・ゼー湖の向うから
 夏が夕立をつれて急に襲って来た。
 僕たちは廻廊で雨宿りをして   (西脇順三郎・訳)

これは〈荒地〉の第1部の冒頭〈The Burial of the Dead 死者の埋葬〉の8~9行目であり、最も有名な部分である。シュタルンベルガ・ゼー湖→シュタルンベルク湖とはババリアの狂王と言われたルートヴィヒ2世が水死体で見つかった湖のこと。

曲の最後はくぐもった声でのリフレインとなる。

 ずっと止まない止まない雨に
 ずっと癒えない癒えない渇き

宇多田の母の不幸な死も夏――8月の終わりだった。
アルバムの終曲は〈桜流し〉だが、宇多田は、この曲は最後に置くしか無いと言っている。それは松任谷由実の〈春よ、来い〉がアルバム《The Dancing Sun》の最後にあるのと同じだ。どちらの曲も死の匂いがする。というより《Fantôme》の構成全体がレクイエムだと言ってもよいのかもしれない。

その他、8曲目のタイトル〈荒野の狼〉はヘルマン・ヘッセの小説 (荒野の狼 Der Steppenwolf, 1927) のタイトルからとられているとのことだが、この作品における重要な言葉としてアウトサイダーと、そして自殺がある。NHKTV朝ドラの主題歌の〈花束を君に〉というタイトルは、私には 「アルジャーノンに花束を」 と 「まごころを君に」 の合成のように思えてしまう (「アルジャーノンに花束を」 はダニエル・キイスのSF小説。「まごころを君に」 はそれが映画化された際の邦題)。違うかなぁ。だから何だ、といわれれば何でもないんだけど。(「アルジャーノンに花束を」 は最もセンチメンタルなSF作品として今もカルト的な人気がある。知性の虚しさを描いているとも言える)。

とりあえず何回かリピートして聴いただけの雑な感想だが、わざと音数を少なくした、かなり内省的なアルバムのように思える。無駄な音はそぎ落とされ、それでいて寂寥とは異なる。柔らかだけれど何か色が足りない。ジャケット写真はモノクロでブレていて、かつて 「黒い服は死者に祈る時にだけ着るの」 (COLORS) と歌ったように色彩がない。その音は内容に合わせて、トリッキーでなく深い。ぜひアナログディスクもリリースして欲しいと思う。


宇多田ヒカル/Fantôme (Universal Music)
Fantôme




宇多田ヒカル/真夏の通り雨
https://www.youtube.com/watch?v=ASl2cluuyIU
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