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ミレーヌ・ファルメール&スティング ― Please take me dancing tonight [音楽]

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Mylène Farmer (2015)

迷走台風は去っていったが、その湿気がずっと残っていて、車のなかはエアコンの冷気が水滴を作って曇っていた。書店で、目についた本を買ってしまい、肝心の買うべき本を忘れてきてしまったことに気がつく。きっとすべては台風のせいだ。

ミレーヌ・ファルメールの〈Stolen Car〉はスティングのアルバム《Sacred Love》(2004) に収録されているヒット曲のカヴァーである。そしてスティング本人とのデュエットになっていて、ファルメールのアルバム《Interstellaires》(2015) に収録されている。
Late at night in summer heat とはまさに今の時期の歌のように思えてしまうが、ファルメールのPVは夏っぽさとは無縁の映像だ。

色の無い車の列と金属的な輝き、犬の鳴き声。歌はまさにスティングの蒼白の世界で始まるが、don‘t be afraid で2人の声が重なると、俄然、ファルメールの雰囲気になってくる。
スティングの歌う部分は英語詞、ファルメールの歌う部分はフランス語詞になっているが、そのつながりが自然でぎくしゃくとしたところがないのがさすがである。

2番の、英語詞でいうと
Oh the smell of the leather always excited my imagination
の部分からファルメールのリード・ヴォーカルに代わって
Oh le cuir doux s’en mêle, Affole ton imagination
となるが、ファルメールの J’ai ce feeling~という個所のジェという発音がファルメールの特徴のひとつだと私は思っていて、ここだけでも彼女の個性が光る。

そしてサビの
Please take me dancing tonight I’ve been all on my own
に来ると音が完全にファルメール節になってしまうのが不思議だ。スティングのオリジナルな歌唱のときはそれはスティングのメロディで、そうならないのに。歌の後にからまるチープにも聞こえるシンセの音がファルメールの影を余計に醸し出すのかもしれないが。
フレンチにおけるこうしたシンセの使い方は、昔から、素材そのままにあられもなく使ってしまう傾向があって、それはフランス人の無造作に過ぎないのかもしれないのだが、そうした無作為さがかえって作為的に聞こえてしまうのは意識と無意識の境界線のようで面白い。

ただ、スティングのオリジナルは、
So here am I in a stolen car at a traffic light
以下が、一種のコーダになっていて、この部分が異質でいいのだが、ファルメールのカヴァーでは Please take me dancing tonight で終わってしまっている。
それと
I’m just a prisoner of love always hid from the light
の個所は、
スティングの I’m just a prisoner of love に対して、
ファルメールが Prisonnière de mes failles
と応答していて、その後、2人で歌う Take me dancing の部分につなげるようになっている。

PVもスティングのとファルメールのでは随分印象が違うように思える。そのアプローチにそれぞれの個性が如実にあらわれているし、ファルメールの色はその音と同じように、いつも変わらない。


Mylène Farmer/Interstellaires (Polydor france)
Interstellaires




Mylène Farmer & Sting/Stolen Car
https://www.youtube.com/watch?v=HQkkmYIu95I#t=84

Mylène Farmer & Sting/Stolen Car NRJ music Awards 2015
https://www.youtube.com/watch?v=K0J86CXRnsw

Sting/Stolen Car
https://www.youtube.com/watch?v=HijvesSMSQA
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マジャルの血 — ヴェーグとセーケイのバルトーク [音楽]

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Sándor Végh

ハンガリーとヴェーグという2つのクァルテットは、どちらもハンガリーゆかりのグループであるが、今年になってその廉価盤が各々出されているのを見つけた。ハンガリーは英・Venias盤の《Hungarian String Quartet The Collection》、ヴェーグは英・Scribendum盤の《The Art of Vegh Quartet》である。
どちらもその主要となる選曲はベートーヴェンとバルトークだが、特にバルトークを語る場合、この2つのグループは重要な意味あいを持っているように思える。

ハンガリー弦楽四重奏団は1935年にシャーンドル・ヴェーグ (Sándor Végh, 1912−1997) によって結成されたグループである。1stヴァイオリンはもちろんヴェーグであったが、1937年にゾルタン・セーケイ (Zoltán Székely, 1903−2001) が加入すると、セーケイに1stを譲り自身は2ndに回った。
セーケイのほうが年長であり、しかもバルトークと親交があったということが理由とされているが、2人ともフランツ・リスト音楽院の同窓でイェネー・フバイ (Jenő Hubay, 1858−1937) やゾルタン・コダーイ (Zoltán Kodály, 1882−1967) などに学んだ。コダーイはバルトークとともにハンガリーの民謡に関するフィールドワークを行ったことで知られる。

1940年、当時の世界情勢の影響でハンガリー・ストリング・クァルテット (以下、ハンガリー・クァルテットと略記) はオランダに活動拠点を移すことになったが、ヴェーグはハンガリーに残る道を選びグループから退く。そしてヴェーグを1stとして新たに結成されたのがヴェーグ・クァルテットである。
ハンガリー・クァルテットは何回かメンバーを変えながら1972年まで活動した。いっぽうのヴェーグ・クァルテットはメンバーを変えること無く1970年代後半まで活動し、1980年に解散した。
ヴェーグ・クァルテットのバルトークはすでに米・Music and Arts盤があるのだが、今回のScribendum盤のほうが、多くの曲を網羅していてお得感が高いのでダブるのは仕方がないと思うことにする。

収録されているバルトークはハンガリー・クァルテットが1961年のステレオ録音、ヴェーグ・カルテットは1954年のモノラル録音である。
ハンガリー・クァルテットには1955年のTestament盤もあるが、バルトークは5番と6番だけで、またMusic and Arts盤の《The Hungarian String Quartet 1937−1968》というのもあるが、拾遺集的な内容であり全曲は入っていないしライヴ録音のもあるし、なにより価格が高値安定のままなのでまだ手が出せないでいる。
もう少し古いモノラル録音も聴いてみたいのだが、とりあえず全曲盤は現在このVenias盤だけのように見える。

ヴェーグとセーケイのヴァイオリンの師は、ともにフバイとされている。ヴェーグがリスト音楽院に入ったのは1924年で彼は12歳であった。セーケイがフバイから教えられるようになったのがいつなのかはわからなかったが、ヴェーグより9歳年長なので、ヴェーグに倣えば1915年頃ということになる。
こうした師弟関係を辿っていくのも、私にとっては、興味深いことのひとつである。

フバイと同年生まれのヴァイオリニストにウジェーヌ・イザイ (Eugene-Auguste Ysaÿe, 1858−1931) がいるが、彼はヴィオッティ→ドゥ・ベリオ→ヴュータン→イザイという系譜にあることは以前のヴュータンの項で書いた (→2012年08月11日ブログ)。
ヴュータンはフバイとも面識があるが、それはフバイが1878年にパリでデビューした際、その場に居合わせたことである。フバイは20歳、ヴュータンは58歳であった。ヴュータンはその3年後に亡くなるが、その遺作であるヴァイオリン協奏曲第7番がフバイに献呈されている。
このフバイから教えを受けたのがヨーゼフ・シゲティ (Joseph Szigeti, 1892−1973) であるが、シゲティはイザイから無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番を献呈されている。

さて、そのフバイの師はヨーゼフ・ヨアヒム (Joseph Joachim, 1831−1907) である。フバイは1871年、13歳のときからベルリンでヨアヒムに学ぶのだが、ヨアヒムの弟子には他にレオポルド・アウアー (Leopold Auer, 1845−1930) がいる。アウアーはヴァイオリン教育者として名高く、その教え子は多い。
そのヨアヒムが幼い頃に学んだ教師はペストのオペラ座のコンサートマスター Stanisław Serwaczyński (発音がよくわからないが、スタニスラフ・セルヴァチンスキ? 1781−1859) という人だったが、12歳でライプツィヒ音楽院に入り、メンデルスゾーンなどに教えを受ける。ただ、メンデルスゾーンはヴァイオリニストではないので、ヨアヒムがテクニックを学んだのが誰なのかはよくわからない。
整理するとヨアヒムの系譜は、ヨアヒム→フバイ→ヴェーグ&セーケイということになる。

これらの人々に共通に見られるのは、少しフランス (ベルギー) 系の人もいるが、多くはハンガリー系の人たちであり、そしてまたユダヤ系であることも多い。もちろん一概に出身地だけでは語れるものでもないのだが、マジャルの血の影響は濃い。

最初に戻ると、そのヴェーグとセーケイのそれぞれのバルトークについて、なのだが、まだそれが書けるほど聴き込んでいない。ただ感じたのは、決して派手ではないのだが、音に芯があることで、バルトークというと、つい刺激的な、ともすると暴力的な表現があったりするのだけれど、強く激しい音と乱暴な音とは異なるのである。
たとえばハンガリー・クァルテットの音を聴いていて思ったのは、6曲の弦楽四重奏曲のなかで比較的人気のない第1番と第6番の意味がよくわかってきたことである。特に第6番の構成の緻密さとその美しさはバルトーク晩年の心情がよく描かれている。
とりあえず各曲の演奏については稿をあらためて書くことにしようと思う。


Hungarian String Quartet The Collection (Venias)
http://tower.jp/item/4297164/
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The Art of Vegh Quartet (Scribendum Argento)
http://tower.jp/item/4235308/
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Quatuor Ebène/Bartók: String Quartet No.4
https://www.youtube.com/watch?v=E_XNfKk-Qbs
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カーネーションの《Multimodal Sentiment》 [音楽]

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最近のTVで一番楽しみにしている番組は、この前までは《関ジャム》だったのだが、今は《ゴロウ・デラックス》にゾッコン。毎週、課題図書が1冊あって稲垣吾郎がそれについてゲストと語るのだが、その本の作者のこともあるし、そうじゃなかったりもあるしだけれど、これがとても面白い。もう随分続いている番組らしいのだが、迂闊にもずっと知らなかった。

課題図書といってもそんなに堅苦しい本ではなくて、たとえば8月11日の放送だと『オレンジページ』のミルクセーキの特集で、ゲストはタモリ組の能町みね子。そのせいか、ややタモリ倶楽部っぽい展開になってしまったのだけれど、あっちの店こっちの店のミルクセーキがおいしいという話のなかで、稲垣のドタバタしない個性がそこはかとなく出て来ていて心地よい。
前の放送を探してみると3月には魔夜峰央先生の回もあって、話題はもちろん『翔んで埼玉』だったのだが、動いている魔夜先生のお姿を久しぶりに拝見できて満足。先生の奥様もゴローちゃん目当てに一緒にスタジオに来られたとのことで笑いました。
魔夜峰央のギャグには独特のノリがあって、ダメな人はダメなのかもしれないが、でもドテ医者とか、最初に読んだときは魔夜峰央の創出語だと思っていたらそうじゃないのにもっとびっくり。

ところで、たとえば山崎まさよしの〈One more time, One more chance〉という曲を私はSotte Bosseのカヴァーで知ったのだけれど (そのことは→2015年10月31日ブログ参照)、必ずしもオリジナルからじゃなくて曲を知るということはよくあります。
山崎まさよしのこの曲の場合は、桜木町というたったひとつの固有名詞から限りなく連想が広がって、過去の記憶がプルースト的に甦るという、私にとっての奇跡みたいな曲だったのだが、そこまででなくてもこうしたヒットチューンはその時点での身の回りの何かの記憶と常に結びついているような気がしてならない。

それとは少し違う事例もあって、たとえばカーネーションというグループは私の記憶のなかでは〈夜の煙突〉のオリジナル・シンガーという認識しかなかった。つまりそれをカヴァーした森高千里を聴いたほうが先で、その単純な歌詞がいかにも森高らしくて、アルバム《非実力派宣言》のなかでダントツに素晴らしい。森高と直枝政広 (当時は直枝政太郎) はその歌詞構造の類似から引き合ったのだろうと想像していた。
カーネーションのアルバム自体も気にはなっていたのだけれど、つい後回しにしていたのに、ついこの前、新譜の《Multimodal Sentiment》のPVを見たとき 「これだ!」 と思って、すぐにHMVのボタンをクリック。繰り返し聴いている。

音はムーンライダーズやはっぴいえんどなどを連想するし、日本のXTCなどとも言われたりするようだが、PVの〈いつかここで会いましょう〉を観ているとその佇まいがなんとなく大瀧詠一ふうに思えてしまう。
ノスタルジックに見せて、でも実は似非ノスタルジックだと思わせたいところがやっぱりノスタルジックなモードなのだと私は感じる。インチキ電子音楽みたいなイメージを醸し出してくるところはフランク・ザッパ的な屈折した表現だともとれるけれど、でもそのちょっと古めのストレートなロックのビートが心にズンと響く。
つまり最新鋭らしくて、同時に古風なところが魔夜峰央にも通じる (強引ですが)。だって魔夜峰央の原点って細川智栄子 (旧・千栄子、知栄子) のような気がするし。ですよね?

でも実は〈いつかここで会いましょう〉の歌詞のなかの 「風を切る雲が走ってゆく土手できみを思う」 なんて、まるで三枝夕夏の曲のタイトルみたいで、それが私の記憶のセンチメンタルな深層を揺り動かす懐かしさにつながっているのかもしれない。幾つもの過去の記憶は堆積して地層のように縞模様を作っていて、それこそが知らずに年齢を重ねているという具体的な証拠なのだ。


CARNATION/Multimodal Sentiment (日本クラウン)
Multimodal Sentiment




カーネーション/いつかここで会いましょう
https://www.youtube.com/watch?v=mX1tcHNq8t0

森高千里/夜の煙突
https://www.youtube.com/watch?v=b9ZMzQ3-ERk
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ガル・コスタ&カエターノ・ヴェローゾ《Domingo》を聴く [音楽]

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Caetano Veloso e Gal Costa

ユニバーサルミュージックの 「ブラジル1000 Best Collection」 という廉価盤のアンコール・プレスのことはすでにトゥーカのアルバムのときに触れたが、再発盤50枚のなかで多くの枚数が出ているのはもちろんカエターノ・ヴェローゾである (トゥーカについては→2016年07月20日ブログを参照)。
とりあえずヴェローゾ初期のアルバム《Domingo》《Tropicália》《in London》の3枚を聴いてみた。

《Domingo》は1967年にリリースされたガル・コスタとのアルバムで、2人にとってのファースト・アルバムでもある。録音時、ヴェローゾは25歳、ガル・コスタは22歳であった。
ヴェローゾの音楽はいわゆるムジカ・ポプラール・ブラジレイラ (MPB: Música Popular Brasileira) に分類されるが、この1stは、ヴェローゾのジョアン・ジルベルトへのリスペクトであり、基本的にはボサノヴァだとされている。しかしそのボサノヴァ風味はごく弱くて、つまりいかにもなイパネマの娘的ボサノヴァではなくて、もっと柔らかで内省的な雰囲気に偏っている。
村上玲の解説によるのならば、これは 「最後のボサノヴァ、ボサノヴァの最期」 であって、「ボサノヴァの歴史に思いを馳せることもない」 という。だからイージーリスニングのつもりで聴けばよいとのことで、それは私のようなリスナーの心を楽にしてくれる。

またこのアルバムは、その多くの曲をヴェローゾが作っているとはいえ、歌唱はガル・コスタの比重が大きく、まさに双頭アルバムであるといってよい。しかし最初のアルバムがこの完成度というのは、そのなにげない曲想とはうらはらにすごいことなのに違いない。
冒頭曲が〈コラサォン・ヴァガブンド〉(Coração Vagabundo) のような、いきなりほの暗いイメージから始まるのは普通のデビューアルバムのやりかたではない。

《Tropicália》(1968) は3枚目のアルバムであり、トロピカリズモを具現化したアルバムであるといわれる。まさにMPBの端緒となったプロジェクトであり、そしてジルベルト・ジルを始めとするブラジルのミュージシャンの集合により作り上げられた音楽である。
そしてMPBはアメリカ&西ヨーロッパのロックに感化された音楽であり、政治的なマニフェストも併せ持つが、このアルバムについて微視的に見ればビートルズの《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》の影響があるといわれている。

だが聴いてみて、確かに新しい音楽へのアプローチは見られるし、その熱い意志があるのだとは思うが、ヴェローゾの個性がジルベルト・ジルに負けてしまっていること、それと私の好みでいえば冒頭のジルベルト・ジルの表現する明るく突き抜けた曲の世界に入り込んでいくことができない。その後の曲もサージェント・ペパーズ的なギミックがところどころに見られるが、今聴くと、そうした仕掛けのアイデアにはやはり時代を感じてしまうし、やや古びた印象を持ってしまうのはしかたがないと思える。

《in London (A Little More Blue)》(1971) は6枚目のアルバムであり、当時のブラジルから過激な表現者として追放されたヴェローゾがロンドンで作った作品である (正確なアルバムタイトルは Caetano Veloso なのだが、わかりにくいので in London または第1曲目のタイトル A Little More Blue で呼ばれる)。《Tropicália》のハイテンションが報われず、一種の失意のなかで、しかし挫けずに行こうとする方向性は見られるが、でも全体的な音楽完成度は、まぁ普通かなというふうに私は感じてしまう。それに1曲目の〈A Little More Blue〉という曲名は、ジョニ・ジェイムスのアルバム《Little Girl Blue》のタイトル曲であるリチャード・ロジャースのスタンダードをどうしても連想させる (ジョニ・ジェイムスについてはすでに書いた →2014年12月26日ブログ)。

逆にいうと1stアルバムである《Domingo》がいかに素晴らしく特異なアルバムであるかということがいえると思う。ただそれはボサノヴァに対するレクイエムだったのかもしれなくて、それにトロピカリア/MPB的音楽に見られる攻撃的姿勢とは無縁だ。しかしたとえば6曲目の、ギターだけで歌われる〈ネニュマ・ドール〉のような黄昏のただなかの音のなかに最も引きつけられる音が在るように感じられる。
それゆえに私はこの《Domingo》を、イージーリスニングな心安まる音楽のひとつとしてこれからも聴いてくのかもしれない。


Gal Costa&Caetano Veloso/Domingo (ユニバーサルミュージック)
(amazonでは品切れの表示だがまだ在庫多数のはず)
ドミンゴ




Gal Costa&Caetano Veloso/Coração Vagabundo
https://www.youtube.com/watch?v=2e_4PpwU2K4

João Gilberto&Caetano Veloso/Coração Vagabundo
https://www.youtube.com/watch?v=FlQREMHx1LY
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清水玲子『秘密 Perfect Profile』を読む [コミック]

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清水玲子の『秘密 Perfect Profile』を読んでいる。公開の映画に合わせた企画ものなのだが、seson 0の4巻と並んで平積みされていた。

中に清水玲子/萩尾望都対談がある。清水玲子は中学生のとき、最初に読んだ萩尾作品が『トーマの心臓』だったのだという。エーリクがケルンのお母さんに会いに行くときに、列車内で車掌と会話を交わすシーンがあって、乗り越しになっているから料金を支払いなさいとかいうのだが、そんなのはストーリーと直接関係はなくて、でもそれを丹念に描くというのがすごいという。
そこを読んでいたら、エーリクが授業中に年寄りの先生にリルケをバカにしたり、ベートーヴェンをバカにしたりして、先生がカンカンに怒るシーンを突然思い出してしまい、そうした関係のないシーンが印象的に残っているのはやはり作家の力なのだと思ってしまった。
萩尾はヘルマン・ヘッセからの影響があるというが、それは単純にドイツの風景描写だけではなくて、そのテーマにまでかかわっているように感じる。

清水が、身近な日常の出来事を描くようなものは苦手だったので、SF的な作品にシフトしていったというのは、萩尾が同じようにSF的な作品にシフトしていったことと似ている。
2人の話題は萩尾の『11人いる!』になるが、フロルという設定がル=グィンの『闇の左手』からの影響であること、性的に未分化で、ある時期にオスメスどちらになるかが決まるというのは爬虫類などではよくあることらしくて、それが人間のかたちをした生物にあったっていいかも、というのがル=グィンの発想であり、性が最初からどちらかに決定されているのでなくて 「ニュートラルな感じ」 であることが面白いと清水はいう。

清水は面白かった映画としてギレルモ・デル・トロの《バンズ・ラビリンス》を挙げ、萩尾はティム・バートンの《アリス・イン・ワンダーランド》を選ぶ。どちらもダークな部分が似ているという。

この対談のなかで一番面白かったのは、清水玲子のネームの描き方である。清水はネーム段階からきちんと人物の表情を描くのだそうで、そうでないと感情移入できないというのだ。萩尾は、ネームのときは顔など描かず単なる 「てるてる坊主」 なのだというが、でもネームはあくまでネームであり、心のなかですでに構想はできているのだそうで、それは作家による方法論の違いということだ。

その清水のネームの一部が収録されているのだが、これはすごい。表情を描くというどころか、コマ割りまでほぼ完全に決定されていて、顔の向きとか手の位置とかまで描いてしまうのだが、それがそのまま完成作品になってしまっている。ネームと仕上がりが並列されているが、ほとんど同じである。つまりネームを描いている時点で、ほぼ全体像は完了しているのだ。
このパーフェクトプロファイル、映画のプロモーション用のムックみたいではあるのだけれど、このネームを見るだけでも価値があると思う。
清水の描くデヴィシルっぽい表情と較べて生田斗真ってどうよ? って感じもするのだが、まあ実写は実写で別物なので、どなたかの映画評をお待ちしてます。

萩尾は、清水の部屋がきれいであることを褒めていたが、清水は部屋がきれいでないと作品ができないと答えていて、そのあたりもその人の性格が作品にあらわれているのかもしれないと思ってしまう。
ちなみに私の部屋はぐちゃぐちゃです (どうでもいいけど)。


清水玲子/秘密 パーフェクトプロファイル (白泉社)
秘密 パーフェクトプロファイル (花とゆめCOMICSスペシャル)




清水玲子/秘密 新装版 1巻 (白泉社)
新装版 秘密 THE TOP SECRET 1 (花とゆめCOMICS)




大友啓史×清水玲子が語る 「秘密」
http://natalie.mu/comic/pp/himitsu_movie04
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瓶入りの手紙 — 大久保賢『黄昏の調べ』を読む [本]

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Claude Debussy (1862-1918)

書店で、音楽書の書棚を見ていたら 「買って!」 と言っている本があったので買ってきた。大久保賢『黄昏の調べ』という本で、「現代音楽はなぜ嫌われる?」 という帯が付いている。
黄昏の調べというタイトルがすでに意味深である。最初に書いてしまうと、つまり20世紀に最も隆盛を極めた現代音楽はすでに黄昏れてしまったというのがその結論なのである。

前半は現代音楽に至るまでの音楽の歴史の過程が描かれていて、シンプルでわかりやすくて読みやすい。音楽史の教科書のようである。現代音楽というものの定義も明快で、それは 「調性」 があるかどうかによる、というのである (p.26)。調性がないのが現代音楽、調性のあるのはクラシック音楽という分類法なのだ。大久保によれば現代音楽という語が意味するのは20世紀以降に書かれた前衛音楽のことであり、前衛とはつまり非調性と言い換えることができるともいう。だからラヴェルとかブリテンは調性があるので、20世紀の音楽であっても現代音楽ではなくてクラシック音楽であるとのこと。

さらに調性とはメジャー&マイナースケールとその上に生成される三和音に基づく音組織の体系であって、

 とりわけ重要なのは 「ドミナント和音 (ソ・シ・レ) → 主和音 (ド・ミ・
 ソ)」 (そして、その中に含まれる 「導音 (シ) → 主音 (ド)」) という連結で
 あり、これが句読点となって調性音楽の文章は綴られている。(p.40)

とある。この個所の註にはサブドミナントの性格に関する言及もあって、これとは視点が異なるけれども、この前、プリンスについて書いたとき、大谷能生がドミナント→トニックが強過ぎると書いていたことを思い出した (→2016年07月25日ブログ)。それはすべてを解決するモーションで、つまりそれこそが伝統的ヨーロッパ音楽の典型的な手法のひとつなのだとも言える。マイルス・デイヴィスがモードに新たなルートを見出そうとしたのも、この導音解決の押しつけがましさからの離脱に他ならない。

さて、上記のように現代音楽を定義してしまったので、その水源はたとえばスクリャービンとかドビュッシーに始まることになっている。ドビュッシーの和声の曖昧さを、機能的和声が生まれる以前、つまり中世~ルネサンス期の施法への志向があったと言い、そうした施法を拡大解釈していくことにより和声の機能を無効化したのだと分析している (p.52)。そしてドビュッシーの音は、アンセルメの言葉も引用しながら、調性でなく音響であるというように表現している (p.129)。
シェーンベルクとドビュッシーの対比 (シェーンベルクは協和音を意図的に避けようとしたがドビュッシーは和声進行そのものを無効化したのだという)、バルトークとストラヴィンスキーの対比 (バルトークはドビュッシーの影響を受けながらもヨーロッパ伝統音楽とハンガリー民族音楽の語法を共に尊重したが、ストラヴィンスキーは素材の切り貼りこそが方法論だとしたこと) という比較論もなるほどと思わせる。

そして現代音楽は、特に伝統的ヨーロッパ音楽の末裔として、より複雑に難解に高踏的に変化していったため、それに対抗する方法として、パロディ的な意味あいも想起させる引用/コラージュといった方法が出現してきたのだという。
コラージュの度合いと引用の多さとしてベリオの《シンフォニア》について言及し、そしてライヒを始めとするアメリカ系の反復技法 (≒ミニマル・ミュージック) の出現、そしてビートルズのミュージック・コンクレート的アプローチやフランク・ザッパ、セシル・テイラーなどのポピュラー・ミュージックにそうしたムーヴメントが影響して発展していくというのは、ごく表層的な辿りかたではあるが、それゆえに理解が容易である。

モートン・フェルドマンについての見方も興味深い。大久保はフェルドマンはクセナキスと逆に極端に少ない音でありながら、その 「音のありようが多義的 (≒曖昧)」 という。さらに庄野進を引用し 「フェルドマンの音楽は、まったくの無秩序でもなければ、厳密に構成し尽くされた秩序でもない」 と規定する (p.140)。
また、フェルドマンと同じように静寂が支配する作品でありながら、ルイジ・ノーノの《断章――静寂、ディオティマへ》(1980) に対して、同じ静けさでもフェルドマンのような静けさではなくて、そこに時々露出する暴力的な表情がノーノだとする。そうした緊張感は息苦しくもあり、本来享楽的であるはずの音楽という場を拒んでいるようにも見えるという (p.168)。
ノーノについて私は、著者も言うように、かつてポリーニの弾いた曲くらいきり知らず、フェルドマンとの比較となる沈黙に近い音の作品があるというのは意外だった (尚、フェルドマンについて私はすでに過去のブログで繰り返し書いた。たとえば→2013年03月19日ブログ)。

大久保のユニークな点は、必ずしも音楽系の人でないところから言葉を探してきて、それを音楽論としてとりこんでいることだ。たとえば哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットの音楽論から、今までの音楽は自分自身の中に引き起こす反響であったが、新しい音楽とは自己の外にある音楽であって、純然たる観照者となることだとか (p.128)、ジュリア・クリステヴァの記号論から 「どのようなテクストも引用のモザイクとしてできている。言い換えれば、どのようなテクストも別のテクストを取り入れ、変形したものだ」 という個所を引用し、そうした見方は音楽に敷衍できるとする (p.166)。

というようにわかりやすいけれど現代音楽史を、ある意味、淡々と解説しているようにも見えるこうした解説の果てに、巻末の結論的部分になるにしたがって、本書は俄然面白くなってくる。著者は現代音楽を愛しながらも、それが極端にわかりにくくなり、そしてその結果、孤絶した音楽となっていることに不満を表明しているのだ。そして現代音楽は能や歌舞伎のような一種の古典芸能だ、とまで言い切る。一定の枠組みや約束事や、そしてなにより世の中の動向から隔絶していることがまさにそうだと断言する。もはや現代音楽は contemporary ではなくtemporary (つかの間のもの) に過ぎないという。ああ、つまり一種の temporary file に成り下がっているということなのだろうか。

そして、ではどうすればいいか、という問いに対して、「芸術であることの程度を少しばかり下げること」 だと大久保はいう (p.208)。かつてモーツァルトの音楽は、ハイブロウな人にも一般大衆にも、同時に受け入れられていた。そのような処世術があるはずだというのである。そしてシェーンベルクは 「芸術は万人のためのものではない」 と言っていたが、しかし 「ものには限度がある」 と切り返すのだ。
即物的かもしれないが、わからな過ぎる特殊化し過ぎた音楽を少しはわかるように、と願う著者の考え方がストレートに書かれていて小気味よい。大久保は、現代音楽でなくて、現代の音楽を聴きたいというのである。
しかし一方で、リチャード・パワーズの《オルフェオ》のように、孤絶した環境だからこそ輝きを増す現代音楽というとらえかたもあるわけで、それは自閉的でもあるのだが、どちらに加担すべきか簡単に選択することは困難だ (オルフェオについてはすでに書いた通りである→2015年10月09日ブログ)。

それと、後書きにあるように、大久保は武満徹の《カトレーン》を聴いた衝撃から現代音楽というものに興味を持ち、そして深入りしていったという自らの過去を語るのにもかかわらず、日本の現代音楽家のことに全く触れていない。とりあえず重要な作曲家のひとりである武満に触れていないのはアンバランスであるように思う。
それは著者自身もよくわかっているし今後の課題なのだろうが、世界のなかにおける日本の現代音楽の立ち位置について、次の著作を期待したい。


大久保賢/黄昏の調べ (春秋社)
黄昏の調べ: 現代音楽の行方




Mitsuko Uchida/Debussy: Etudes
https://www.youtube.com/watch?v=nafCb9wId1c
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クレンペラーのマーラー [音楽]

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きっかけはチェリビダッケである。ワーナー・クラシック盤のチェリビダッケ・エディションを聴き始めたことを以前のブログに書いたが (→2015年11月14日ブログ)、そのときは2セットしか持っていなかったので、その後、評価が高いといわれるブルックナー・セットなどを底値のときに買って、4つのセットが揃ったのだけれど、安心してそのままになっていた。
時間のあるときに少しずつ聴こうと思っていたのだが、ふと、魔がさしたのだろうか、モーツァルトのレクイエムを選んで聴いてみたら……う~ん。

ほとんどの演奏でチェリビダッケは速度が遅いと言われる。それは彼の特徴であるととらえればよいのだが、このモーツァルトはそういうのとは違っているように思える。速度の問題ではなくてリズムの問題なのだ。この一音一音に抑揚のないような、リズムにリミッターかけられているような (という無理な形容をしてみるが、要するにベッタリとして音楽の躍動感の乏しい) レクイエムでは、死者に祈る時にだけ着る黒い服のようではなくて、それはまるで、灰色の、もっさりと暑苦しいフリースの服のように感じられて、特に今は夏だからなおさらなのだが、それはいわば死者のためのレクイエムではなくてモーツァルトのためのレクイエムのようだった。
もちろん好き嫌いもあるし、指揮者にだって得手不得手はある。このモーツァルトを至高だと考えるファンだっているだろう。でも少なくとも私の理想とするモーツァルトにはかなり遠いように思えた。

そこで思い出したのがクレンペラーの振る《魔笛》だった。実は最初にクレンペラーを聴いたとき、スクエアな輪郭で、モーツァルトの愉悦とは少し違うような違和感があって、なんとなく謹厳実直というのか、融通がきかなそうで堅苦しそうな音楽のようにも思えて、でもそれはクレンペラーの外見から来る先入観なのに違いなかった。
だから《魔笛》も、なかなか入り込みにくいような気がしたのだが、それはごく感情的で音楽を識らない情動に過ぎなかったのだと今では思える。

そのクレンペラーのマーラーがある。クレンペラーはたとえばマーラーの第2番を何度も演奏していたりするのに、演奏していない交響曲もあって、マーラーの全集としては成立しない。なぜ演奏しない曲があったかということについて、嫌いな曲だから演奏しなかったとするのならまだしも、クレンペラーに理解力が無かったからマーラーの意図するところがわからなかったのだ、などという解釈は洒落で言っているのだとしてもくだらな過ぎる。
むしろ、なんでも片端から演奏してしまうのでなく、自分のテリトリーを狭めるという考え方もあるのではないかと思う。たとえばカルロス・クライバーもまたそうしたなかのひとりであったはずだ。

オットー・クレンペラーはブルーノ・ワルターと並んでマーラーから直接手ほどきを受けた指揮者のひとりであるが、2人の解釈は異なり、お互いにあまり好意的でなかったようなことが言われている。

聴いたのはクレンペラーのEMI盤で、これがいまのところ一番廉価である。1枚目の第2番を聴いてみる。オケはフィルハーモニア、1961~62年録音とある。
バーンスタインやテンシュテットと較べると、より冷静にマーラーが聴けるような印象がある。それはクレンペラーの演奏に熱がないのではなくて、パセティックな感覚に左右されない、もっと分析的な聴き方ができるという意味で、それはとても面白い。
マーラーは作曲の才能もあった妻アルマに 「キミみたいなのは音楽的才能のうちには入らないのだから辞めたまえ」 みたいなことを言ったトンデモ亭主だったのだが、それだけのことを臆面もなく言えてしまうだけの才能があったことは確かである。
そうしたマーラー的性格までも含めて音楽のなかに表現したのがバーンスタインやテンシュテットだとすれば、音楽の構造をまず優先していたのがクレンペラーであるような気がする。いままで食わず嫌いだったクレンペラーが、そうでもないように思えてきた。

     *

第2番の第3楽章スケルツォは、くねくねと上下する弦の響きに魅力がある。この弦の流れが全てといってもよい。
冒頭に2回、ティンパニが強く鳴ってから8分の3拍子でリズムが刻まれ始める。ティンパニ、ファゴットによる 「ド_ソ」 「_ミレ」 が下支えの音で、合わさって 「ドミレ」 と聞こえる3拍になるが (c-mollなのでミは♭)、上から入って来るコーラングレとクラリネットの音が妖しげだ。
しかもこれらが少しずつ時差をつけて入ってくる。ティンパニは5小節目から、ファゴットが7小節目から、そして8小節目からクラリネットが、10小節目からコーラングレともう1本のクラリネットとコントラ・ファゴットが、という具合で、このイントロのほんの数小節が蠱惑的だ。あっという間にウワッと増えて、13小節目で沈黙する。生き残るのは12小節3拍目から始まる1stヴァイオリンのくねくねとしたラインだ。3拍子のリズムは低音弦に引き継がれる。

初めてマーラーを聴いた頃、まだよく音楽を識らなかった私にとってその第一印象は、ルーズで、もっといえば何かだらしがない音にそれは聞こえた。でもその印象は当たっているのかもしれなくて、たとえばひとつのメロディを複数の楽器に割り振っても、片方は途中でそれを止めたり、少しずつ変化していったりして、きちんと最後まで役目を全うすることがない。音は離合集散して、カレイドスコープの視覚のように予期せぬ方向に動いてゆく。それは古典的書法から見れば気まぐれで軽薄のように見えたのだろうが、実はそうではない。

1stヴァイオリンのくねくねとした動き (12~20) はクラリネットに引き継がれ (20~27)、そしてフルートがつい先ほどの1stヴァイオリンの後半を模倣して (27~31)、1stヴァイオリンが再度同じラインをトレースし始めるが、それに対するリズムはコーラングレもコントラ・ファゴットも欠いていて弱めなので (32~36)、音に埋もれて、前のようなインパクトはない。むしろわざと埋もれたようにしているのかもしれない。

オーボエがちょっと顔を出してから、クラリネットと1stヴァイオリンのかけ合い (44~52) の後、Es管のクラリネットが登場して、奇妙な印象を残す (52~57)。このEsクラの出現する場面が一番好きだ。mit Humorと指示があるが、ユーモアと言っても暗いユーモアであり、もしバスクラだったらもっとドロドロなのに、などと余計なことまで考える。
しばらくして同じパターンの繰り返しがあるが、そこではメロディの一部をオーボエが補強する (91~96)。決して同じでないのがマーラーたる所以だ。Esクラで他に目立つところは、パーカッション的なうるさいスタッカートの始まる個所 (149~) のごく短いフレーズ (154~157) だが、これは直前のピッコロ (148~152) の模倣と思っていいだろう (最初に出てくるピッコロのフレーズは67~71)。
マーラーはこの曲でB管クラリネットを3本、Es管クラリネットを2本用いているが、途中でB管が4本になる個所 (287~) もあり、またA管に持ち替えの個所もある (400~)。

ところどころに、ほとんどトゥッティでクロマティックにすべり落ちてゆく個所があるが (98~102)、そこでもあちこちでバラバラで、ファゴットとヴィオラが1小節ハミ出す (102)。後半でもう一度同様の個所があるが (402~406)、音はさらに増強され、でもやっぱりファゴットなどが1小節ハミ出す。確信犯でやっているので、ぴたっと終わらせたくないのだ。この手口が見かけのだらしなさを醸し出す。
何となく不安げな雰囲気から (340~)、1小節だけでクロマティックにすべり落ちる個所 (347) でも、3拍のうち1~2拍は32分音符4回で3拍目が5連。つまり13個の音でオクターヴすべり落ちたいのだ。

というように聴いていくとき、クレンペラーのマーラーはすこぶる教材的な対象になり得るようにも思える。というふうにして私は10回くらい連続してこの第2番を聴いた。逆に、もっと若い頃、クレンペラーの表現はどんなだったのかということにも俄然興味が湧き出した。


Otto Klemperer/Mahler: Symphonies 2, 4, 7&9,
Das Lied von der Erde (Warner Classics)
Mahler: Symphonies 2, 4, 7 & 9 / Das Lied von der Erde




Klemperer/Mahler: Symphony No. 2 (complete),
Philharmonia Orchestra
https://www.youtube.com/watch?v=urWIADgIgUg
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