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LaLa40周年記念原画展に行く [コミック]

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池袋西武百貨店で開催されている《LaLa40周年記念原画展》に行く。
実はあまり乗り気ではなかった。というのは白泉社のサイトに 「大島弓子先生の作品は複製原画を展示しています」 「竹宮惠子先生の (以下同様)」 というような表示がされていたからで、以前見たときはそんなことは書いてなかったような記憶がある。たぶんオトナの事情なんだろうけど、そもそも 「複製原画」 って 「複製」 は 「原画」 じゃないし、こういうのを形容矛盾という。

とはいえ、ちょっと前に大和和紀展があったのを見逃したので失敗したなあと思っていたから、とりあえず行かないと、という義務感みたいなのもあったのだ。そしてある程度少女マンガを知っていて、比較的満遍なく少女マンガの昔と今を感じたいのだったら、この展示は素晴らしい。
LaLaがこのレヴェルでなければならないのか、それとも少女マンガ全体がこのレヴェルなのかよくわからないのだが、特にこの展示における近年の作品のクォリティの高さはすごいと思う。

以下はあくまで私の好みで書いてるだけなのでご了解のほど。

最もきわだって目を引いたのは清水玲子である。彼女の描くブラウン系の透明感のある瞳は、それだけで清水玲子だと容易に識別できる特徴を備えている。
だが、この細密さと色彩と造形の特異さはオーソドクスでありながらアヴァンギャルドだ。結局、マンガの扉絵はどんどんイラストレーションに、つまり一般的な絵画に近づいている。でもマンガの扉絵とイラストレーションは明らかに違うはずだ。それはその絵の背後にストーリーが存在するか否かの違いであり、もしストーリーがイラストレーションにも存在するのだとしても、それが果たして抽象的でなくて具体的にありうるのかどうか、によるのだと思う。わかりやすい例としてあげるのならば、江口寿史のマンガ家の頃の絵とイラストレーターになってからの絵は明らかに異なる。それは単純な巧拙というような比較ではなくて、イラストレーションとは具体的なストーリーを必要としないものであり、それゆえにそれだけで自立するのがイラストレーションなのだ。
また、もうひとつの区分けとして、それはマンガなのか絵本なのか、というような描きかたの違いもある。どちらもストーリーを内包している点は同様だが、どこまでがマンガで、どこからが絵本かという線引きはない。
清水玲子の絵は、このマンガなのかイラストレーションなのかという境界や、さらにはマンガなのか絵本なのかという境界のあわいをときとして意識させる。それは真っ直ぐにこちらを見た正面からの顔のとき、顕著に感じられる。私はそうした手法に、唐突だが、内田善美の方法論を感じる。

たとえば清水玲子のWILD CATSの扉は、人と獣のバックに輪郭をきわだたせた草と花が描かれているが、この細密さは印刷時においては完全に飛んでしまっている。
なぜならカラー印刷は網点の掛け合わせでその色とかたちをいわば錯覚によって見せているのに過ぎず、それは一種の最も原始的なデジタル処理であって、そのスクリーン線数に洩れてしまった細密な線は、再現されるか再現されないかのどちらかなのである。再現されなければその分のデータは無いのと同様であり、アバウトなものに過ぎない。つまり網点で処理されたブリューゲルの版画が一様に眠いのは、かっきりとした線を曖昧な点々のつながりで近似値的に処理しているのに過ぎないからである。極端にいえばブリューゲルのほとんどの版画集はブリューゲルではない。
また印刷インクのラチチュードは、カラーインクに較べて狭いから、それは必ず狭い範囲での劣化した状態でしか再現できないということになる。それは印刷という大量頒布物の弱点である。しかしそうしたシステムを利用してマンガ雑誌は成立しているのだから、矛盾はずっと解消されない。

成田美名子の作品はその全てが常に奥行きがあり、立体感と深みのある色彩は素晴らしい。でも印刷ではその全てが吹き飛んでしまっている。またALEXANDRITEの金網越しの風景の描きかたは、もはや異常である。まず金網があり、その向こう側に風景が存在するのである。風景の前面に金網を描いたのではない。
かつて成田美名子を発見したとき、遡って『みき&ユーティ』から読んでいた頃の、最も明るい、透明な感情の、少女マンガの美しい部分だけを集めたようなその作品の完璧さを感じていたことを私はあらためて思い出す。それはノスタルジックな感傷に過ぎないのかもしれないが、それでもよい。

他にも葉鳥ビスコのセピアのフィルターを通したような深みのある描写とか、呉由姫の 「金色のコルダ」 のグリーンのマフラーの質感と顔との対比とか、あきづき空太のLaLa表紙の、ランプだけが明るく、振り向いた顔のやや暗い表情と、そこに降りかかる雪の雰囲気とか、印刷物と原画は、あたりまえだけれど、ものすごく違う。
青池保子の夜の飛行機の暗くて強い質感の表現もすご過ぎる。

絵の印刷物への再現性について、私が繰り返し挙げる例としてマグリットとドガがあるが、マグリットは比較的原画に近く再現されるが、ドガを再現することはほとんど不可能である。この不可能なほうに分類される絵を描く者は不幸だ。だが逆にいえば 「どーせ再現できないだろうザマーミロ」 的な部分もあるのではないかと思われる。

少女マンガファンなら必見の展覧会である。もう期日がほとんどないけど。
尚、もうすぐ公開の生田斗真/岡田将生主演の映画《秘密》の原作は清水玲子である。


LaLa40周年記念原画展
http://www.hakusensha.co.jp/LaLa40th/genga/
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池澤春菜の3つのアイテム [本]

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池澤春菜の『SFのSは、ステキのS』を読む。
144ページという薄めな本なのだが、そのうち本文は105ページで、後注が38ページもあるってどぉよ?(しょーがないなぁ)

それと連載されているときはあまり気にしていなかったのだけれど、このタイトルの付け方は新古今和歌集かっ! ってことです (そもそもこんなタイトル付いていたっけ?)。つまりSF小説のパロディなんだけれど、よくわからなかったりするものもあります。
「勇ましいチビのSF者現る」 とか 「ボーカロイドは音楽の神の夢を見るか」 くらいならたぶん誰でもわかるけど (ちなみに元となるタイトルはトマス・M・ディッシュ 「いさましいちびのトースター」、フィリップ・K・ディック 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」 です)、「あるいは萌えでいっぱいの世界」 だと難易度高いような気がする (元タイトルはエイヴラム・デイヴィッドスン 「あるいは牡蠣でいっぱいの海」。しかもこれ、その後邦題を改変してしまった本が存在します)。

まぁこれも池澤春菜のSF好きがモロ出ているということなんでしょうが、鉄オタとかアニメオタはかなり一般的になってきてるのに対して、SFを語る女性はまだまだ少ない。SFを書く作家はいっぱいいるのに。
池澤春菜はケロロ軍曹とかマリみてなど、声優がそのメインなんだと思うんだけど、川上未映子なんかと同じでマルチな方向性を感じます。声優とSFとMac (ハンバーガーではありませぬ) が3大アイテムなのかもしれない。レイヤーっぽい面もあるしCDも出していて、やりたい放題。エミリーテンプルキュートやジェーンマープルが好きとも書いてある。

池澤春菜はSFに限らず、子どもの頃から重度の読書マニアだったとのこと。母親が本を読み過ぎると小学校の先生に相談したというエピソードがあるが、そもそも読書なんていうのは悪徳のひとつであって、母親の気持ちはよくわかる。私も子どもの頃、読書という禁断の悪に染まっていたほうだから。
私の祖母は昔気質の人だったので、私が小学生の頃、知り合いのおばさんなどに私のことを 「本ばっかり読んで勉強しないんですよ~」 と、よく言って嘆いていた。祖母の頭のなかでは、読書と勉強とは全く正反対のことであって、本ばかり読んでるようなヤツはロクなもんじゃないという価値基準があったわけです。それはまさにその通りなんでしたが。
教科書も非教科書もどっちも同じ本じゃん、というのは詭弁であって、それを読んでいるとき楽しいか苦しいかによって厳然と区別できます。現代の状況に換言すれば、PCの画面見てれば仕事しているように見えると思いこんでいるかもしれないけど、仕事用の画面を見てるときとそうじゃない画面を仕事のふりして見ているときとでは表情が違うはずなんです。ふふふ。

読んでいて一番納得したのは本の量のこととか、他人の書棚が気になるとかいうところで、そもそも彼女はもともと家に大量の父親の蔵書があったわけで、そこがスタート地点になっているからかなりアドヴァンテージがあって、ズルイっていえばズルイ。でも幾ら蔵書があったって、その夜の大海のなかからチョイスする眼力がなければなんにもなりませんから、すべては本人のこころがけ次第とも言える。

引っ越し屋さんが書棚を見て暗澹たる表情になったという話も笑えます。本というのは少ない数だったら紙ですが、実は組成的にはもはや石なので、悪の根源の要素のひとつとして数えられる。それは大量になったときに初めて認識できることだから。
それと本の収納に関する話題で、「限られたスペースにいかに大量の本を美しく、取りやすく収めるか」 と書いていますが、これも大変納得。ウチの場合、取りやすくというのがおろそかになっているので反省することしきりです。池澤によれば、本は横にして積んではいけないとのこと。横にした途端、本は死にます、と書いてる。つまり出しにくくなってしまうから。これはとても納得できるけど、でも横積みにしたほうが大量に入るということもあるので悩むところです。私の場合、縦に並んだ本の上の空間がもったいないので、その部分に本を横にして何冊か積む。確かに、とりにくくはなるんだけれど、でも少しでも書棚のスペースをかせがないとね。
理想としては本がいくらでもおけるような広大な空間があればいいんだけど、実際にはそんなことは無理ですし (京極夏彦先生の書斎の写真見ましたけど、すごかったなぁ)。

一応wiki的説明を付け加えておくと池澤春菜の父親は池澤夏樹で (金原ひとみ―金原瑞人という関係性に似ている)、ですから彼女の祖父は福永武彦ということになります。3代目ということ。もっとも幸田露伴―幸田文―青木玉―青木奈緒という系譜もあります。そういうふうに連綿と継続できる家系っていうのも一種のパワーというか、血のなせる技なのかもしれない。
もっとも最近はどんなジャンルでも世襲って多いようにも思えます。


池澤春菜/SFのSは、ステキのS (早川書房)
SFのSは、ステキのS




池澤春菜/夜想サァカス
http://www.nicovideo.jp/watch/1274840058
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ビートに抱かれて — プリンス [本]

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ここのところ本を読む気力が無くて未読の本が溜まるばかりなのだが、とりあえず雑誌の『現代思想』臨時増刊号のプリンス特集を読み始めたところである。

宇野維正がプリンスが踊れなくなったことについて書いているのを読んで納得した。
最近のプリンスのライヴでは、その中間あたりにヒット曲をメドレーで歌う 「サンプラー・セット」 というのが存在していたのだそうだが、それはサンプラーの音源による、いわゆるカラオケで、いくらメドレーで歌うのだとしてもそれはちょっと手抜きなんじゃない? という否定的な意見をいうファンもいたのだそうだ。
しかし完全主義のプリンスがそうした手抜きをするはずがない。ではなぜその 「サンプラー・セット」 によりピアノやギターの弾き語りのような演奏スタイルをとったのかというと、その原因は踊れなくなったことにあるのだという結論なのである。

もともとプリンスは踊るパフォーマンスをする人ではなかったが、それが映画《パープル・レイン》において急に踊るようになったのは、やはりマイケル・ジャクソンの〈スリラー〉の影響があったのではないかという。
しかし《Diamonds and Pearls》あたりからダンスはだんだんと減ってきて、そして名前の読めない時期を経て《Musicology》で再びプリンスとしてメジャー・マーケットに復活した頃には完全に踊らなくなっている。そのPVでは子どもたちのダンスに目がいくようにしむけられているが、プリンス自身は踊っていない、というのだ。

《Diamonds and Pearls》が出たときに私のプリンスへの注目も復活したのだが (→2016年04月23日ブログ)、それは一般的なファンなら同じように彼の動向を注目することに回帰した時期だったのだと思われるのだけれど、でもそうした分水嶺の時期でもあったのだとは全然感じてはいなかった。

宇野によれば、プリンスは最近踊らなくなったよねぇ、と思わせるように見せかけていたが、実は踊らないのではなく踊れなくなったのであって、それは身体の酷使によってもはやダンスができる身体ではなくなったことを意味している、しかしそれをプリンスは死に至るまで隠し続けていたというのである。
だから2015年のグラミー賞にプレゼンターとして杖をついて現れたプリンスに対しても、杖本来の役目でなく、杖をまるでファッションアイテムのように見せかけたのだとすれば、それもプリンス一流の矜恃だったのだということなのだ。
マイケル・ジャクソンもプリンスも、ともに薬によってその命を短くしたといっていいだろうが、そのように薬に頼らなければならなかったプレッシャーとかストレスを考えると胸が痛むという結論になっている。

そしてまた、彼の未発表音源を今後無理矢理発表するのはプリンス自身のフィジカル、つまり彼が監修し最終的にチェックする工程が伴っていないのだからそれは音楽的なゴーストであって、そういうものをプリンスの作品として出しても意味が無いとするのだ。これは大変厳しい意見だが頷けるものがある (大全集を出して欲しいとするミーハーな心はもちろんあるのだが)。
プリンスは最後まで自分の音楽をCDというフィジカルに籠めることにこだわったが、そうした彼の意志とは関係なく、かたちの存在しない配信という方法に音楽の今後は変わりつつある。そんなときにフィジカルというメディア (=CD) にこだわったプリンス自身のフィジカル (=肉体) が消失してしまったという暗合は象徴的であるとするのだ。

また大谷能生によるベースラインの存在しない曲があるという指摘にも大変興味を持った。
大谷によれば〈When Doves Cry〉(ビートに抱かれて) にも〈Kiss〉にもベースラインが存在しない。これはいわゆるR&Bとかブルースという黒人発祥の音楽としては異質である。
マイルス・デイヴィスがこのことについてプリンスに聞いたところ、プリンスは 「僕にとってベースラインは邪魔者」 だと答えたのだという。ベース音が存在しない奇妙な空間の虚ろさが、いままでの定型的音楽と異質の感触を与えてくれるとのことなのである。プリンスの場合、曲のスカスカ感こそがカッコイイことはよくある。それはトラックを音で埋め尽くさないと気が済まない強迫観念へのアンチテーゼでもある。

大谷は濱瀬元彦のブルーノート理論を援用して、IV→I といういわゆるアーメン終止の可能性とその広がりについても書いているが、V→I のドミナント・モーションでは終止形として強過ぎる解決がアーメン終止では薄まるということであり、それはあえて近代スケールでなくチャーチ・モードへと遡ったかつてのジャズの拡張性/融通性/曖昧さと通じる部分でもある (濱瀬のパーカーに対する解析『チャーリー・パーカーの技法』についてはすでに書いた。というか私には高度過ぎてわからないということでしかないが。→2014年07月21日ブログ)。
プリンスがベースラインを除去したのもいままでのオーソドクスなセオリーからの逸脱であり、その結果としてジャームス・ブラウン的ステロタイプなR&Bテイストからも離れてしまうという道をとったのだともいえる。それゆえにプリンスのサウンドは奇妙で孤高であり、それがエロティックな志向とも重なるのである。

書店で、平積みしてある蓮實重彦の『伯爵夫人』を見たらすでに四刷。しかも百田尚樹の本と並んでいた。『重版出来』に出て来る河さんみたいな書店員がやったに違いないと想像して笑ってしまった。


現代思想 2016年8月臨時増刊号 プリンス1958-2016 (青土社)
現代思想 2016年8月臨時増刊号 総特集◎プリンス1958-2016




濱瀬元彦/チャーリー・パーカーの技法 (岩波書店)
チャーリー・パーカーの技法――インプロヴィゼーションの構造分析




When Doves Cry
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14347765

スーパーボウルでの完璧なライヴ完全版:
Prince/Live 2007: Super Bowl XLI Halftime Show
https://www.youtube.com/watch?v=IAVQGtOxOhI
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ナラ・レオンとトゥーカ [音楽]

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Nara Leão

ユニバーサルミュージックから 「ブラジル1000 Best Collection」 というブラジル音楽の廉価盤が出ていたのだが、今回、そのうちの50枚が再発されたので何枚か買ってみた。売上上位50タイトルという惹句が付いているがそれが本当なのかどうかはわからない。

私が聴きたかったのはトゥーカのアルバム《TUCA》で、1968年にリリースされている2ndアルバムである (ユニバーサルの帯の表記は 「トゥッカ」 となっているが、トゥーカと表記することにする)。昨年に発売されたのだが品切れになっていて再発売を待っていた。
トゥーカは、私にとってフランソワーズ・アルディの《La Question》(1971) におけるギタリスト/コンポーザーとして記憶されていて、そのアルバムへの偏愛についてはすでに書いた (→2015年03月16日ブログ)。

今回の再発のなかにはナラ・レオンの《美しきボサノヴァのミューズ》(1971) もあって、そこでもアルディの前述アルバムと同様のギタリストとしてのトゥーカを聴くことができる (しかし邦題の 「美しきボサノヴァのミューズ」 というタイトルが、いかにも時代を感じさせる。オリジナルのタイトルは《dez anos depois》)。
ナラ・レオンのアルバムに挿入されている歌詞カードにある解説は村上玲で、この解説がブッ飛んでいてかなり面白い。それは 「ボサノヴァ歌手、ナラ・レオンの歴史はレコード・デビュー以前にあらかじめ終わっていた」 と始められている。そして彼女とマリアンヌ・フェイスフルを比較している。

ボサノヴァについても、かつて私は 「音楽の中で最も人工的なジャンル」 と書いたが (→2012年10月03日ブログ)、つまりブラジルの知識階級によって、サンバをソフィスティケイトさせたリズムと話法を用いて作り出されたのがボサノヴァであって、それは一種のブームを形成し、そして衰退した。

一方で、当時のブラジルの政治情勢に反抗して、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルによって提唱されたのが 「トロピカリズモ」 であり、その代表的アルバム《Tropicália》(1968) も今回の再発の1枚に入っている。彼らの政治的な発言は軍事政権から敵視され、ブラジルを追われてヨーロッパに逃れることになる。
そうした動きに呼応するように、ナラ・レオンもまた同時期にブラジルから離れていた。

もはやそうした事実は歴史のなかのひとつのエピソードに過ぎないのかもしれない。その切迫していたであろう雰囲気を21世紀の今から遡って感じることは不可能だ。
トロピカリズモは単なる政治的ムーヴメントというよりは、サイケデリックとか、たとえばビートルズのサージェント・ペパーズなどに影響された面も大きい。カエターノ・ヴェローゾがブラジルからイギリスへ亡命した後に出された《ホワイト・アルバム》というタイトルは、当然、ビートルズの同名アルバムからの影響である。

村上玲が書くように、ナラ・レオンの《美しきボサノヴァのミューズ》は、彼女にとってすでに 「何をいまさら」 なボサノヴァ・アルバムだったのかもしれない。ボサノヴァは彼女のなかにおいても、時代的にも、すでに最盛期を過ぎていたのだ。
だが《美しきボサノヴァのミューズ》の、そのほとんどがフランスで録られたということに意味がある。そしてもちろんナラ・レオンの《dez anos depois》もフランソワーズ・アルディの《La Question》もリリースされたのは同じ1971年なのである。そしてそこから感じられるアンニュイもほぼ同質である。

《dez anos depois》の1曲目、〈Insensatez〉はギターだけの伴奏で始まる。ナラ・レオンの声とトゥーカの柔らかなギター。1968年から1971年という時の経過がそこに働いているのか、それとも単に音楽を演奏する環境の違いに過ぎないのか、それはわからない。
同時に、そうしたアンニュイな表情が時代への悲しみから発しているものなのか、それともインテリの悩みであり逃避だ、と片付けられてしまう種類のものなのかどうかもわからない。でも私の心に響くのは、残念ながら昂揚したトロピカリズモではなくて、アンニュイなナラ・レオンやアルディの声とその創り出された内省的な世界なのだ。それはもしかすると、時代を超えて、今もまたそうした生きにくい時代にあるということのしるしなのかもしれない。
5曲目の超有名曲〈イパネマの娘〉はいきなりサビから始まる。そこにはスタン・ゲッツ&アストラド・ジルベルトによる、アメリカナイズされ商業化された大ヒットボサノヴァとはやや違ったテイストが感じられる。ナラの声にからまるトゥーカのオブリガートがこころよい。

しかし、トゥーカ自身のアルバム《TUCA》はある意味、ゴッタ煮で、彼女の音楽的器用さがかえって散漫な方向性のはっきりしない状態を作りだしたような気がする。そこに展開されている音楽はカエターノ・ヴェローゾの《Tropicália》とは違うが、昂揚感については共通性があるように思える。それは《TUCA》と《Tropicália》がどちらも1968年にリリースされていることにより明らかである。
だがその時代に、必ずしも自分が作りたい音楽が作れる状況があったかどうかというと、はなはだ疑問であり、またその頃の音楽シーンは今ほど発達していなかったことは容易に想像できる。

トゥーカはアルディやナラ・レオンとアルバムを作ったとき、27歳。その後、薬の過剰摂取により1978年に33歳で亡くなっている。ナラ・レオンも何枚ものアルバムを作ったが、1989年に47歳で亡くなった。

ボサノヴァやタンゴはその特異な音楽的特性によって、人工的な表情でありながらもまだ十分に魅力的に私には思える。でも 「10年後」 にはどうなっているか、それは誰にもわからない。


ナラ・レオン/美しきボサノヴァのミューズ (ユニバーサルミュージック)
美しきボサノヴァのミューズ




トゥッカ/トゥッカ (ユニバーサルミュージック)
トゥッカ




Nara Leão e Roberto Menescal/O barquinho, O pato, Manhã de carnaval
https://www.youtube.com/watch?v=5qVY8DEbbkE

Françoise Hardy/La Question (作曲/ギターはTuca)
https://www.youtube.com/watch?v=P0rYZEmhn1c
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クロイツェル・ソナタを聴きながら [音楽]

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Leoš Janáček

黒田恭一の『ぼくだけの音楽』という昨年出た本があって、出版元のブログによれば一般書店では扱っていなくてamazonとかCDショップでのみの扱いとあるのだけれど、私は神田の一般書店に山積みされていたのを買った。
とてもやわらかな筆致で音楽への愛情のこもった文章が集められているのだが、リストアップされているのがほとんど巨匠の領域の人々ばかりで、意外性のないのがちょっと物足りない。そのへんの王道さが、時代に流されずいつまでも普遍的であり続ける秘訣なのかもしれないと思う。
でも私は常にメインストリームから少し踏み外したところを狙いたいのだ。

さて、マイブームの続いているアリーナ・イブラギモヴァだが (もうマイブームなんて言葉は古いかも)、ベートーヴェンのソナタ全集は番号順に収録されているわけではなくて、だからCDの最後に位置するのはもちろん、ソナタのなかで一番有名なクロイツェル・ソナタなのだが、今日の話題はイブラギモヴァではない。

クロイツェル・ソナタは1803年にベートーヴェンがルドルフ・クロイツェルというヴァイオリニストに献呈したので、その名がある。ところがこのクロイツェル・ソナタに触発されてトルストイが書いた『クロイツェル・ソナタ』(1899) という小説がある。不倫した自分の妻を殺してしまったことを告白する公爵の話なのだが、妻の不倫の相手がヴァイオリニストであるということからクロイツェル・ソナタがその小道具となっているらしいが、私はこの小説を読んでいないので詳しいことはよくわからない。

そしてレオシュ・ヤナーチェクには《クロイツェル・ソナタ》(1923) という弦楽四重奏曲があって、このクロイツェル・ソナタはトルストイの小説から発想して作られた曲なのだという。
つまり音楽→文学→音楽という過程を経て成立している曲なのである。

ヤナーチェクには2曲の弦楽四重奏曲があり、第1番が《クロイツェル・ソナタ》、そして第2番には《ないしょの手紙》(1928) という標題が付けられている。第2番は作曲家の最晩年の曲で、彼はその年に亡くなっている。
私が最初にヤナーチェクの第2番を聴いたのはヤナーチェク・クァルテットによる演奏で、たぶん例によってFM放送かなにかで流れていたのがきっかけだったと思う。早速買ってみたヤナーチェクはチェコ盤のアナログレコードで、ジャケットは比較的シンプルな、というより質素なつくりで、紙質もペラペラで、こういうものなのかというかすかな感動があった。それはつまり虚飾のない美学という意味である。収録曲は第1番と第2番で、それで第1番の《クロイツェル・ソナタ》も聴くことになった。

その頃、私はバルトークやコダーイの追い求めた民族音楽系の音にはまっていて、その関連でヤナーチェクにいきついたのだろうと思う。ほぼ同じ時期に私はアーシュラ・K・ル・グィンのSF作品『所有せざる人々』(1974) にも強い影響を受けていて、それは一種のコミュニズムの話なのだが、資本主義国アメリカにおける知識人から見た共産主義 (より正確にいうのならば理想的共産主義) とは何かという示唆に満ちた内容であった。現在、この地球に正統的共産主義国家は存在しないが、ル・グィンは現実には存在しない共産主義の理想とその限界とを冷静かつ明確に描き出している。
そしてごく上滑りな私のような視点からは、ル・グィンの描いた共産主義国家アナレスも、禁欲的な宗教として知られるシェイカーズも同じようで、それは出来もしないのに質素さに憧れるというごく浅薄な思考に過ぎず、たとえば共産主義という名の恐怖政治のなかでのショスタコーヴィチの苦悩など理解できないようなレヴェルでしかなかったのだと思う。つまりヤナーチェクも、そうしたその当時のごく気楽な、勘違い的視点でとらえたヤナーチェクだったのかもしれない。

だが、ヤナーチェクの《クロイツェル・ソナタ》から受けた第一印象は、こう言ってしまうとどうなのかという危惧もあるのだが、ごくわかりやすく、というよりは通俗で、もっと言えば午後のTVの不倫ドラマのBGMのような感じもして、それはヤナーチェクが発想のもととしたトルストイの小説が十分に通俗的であったことに由来するのではないかと思う。

たとえば第1楽章の最初の3つの上向音が、そのまま上がっていってしまったらまるでツィゴイネルワイゼンのようで、でも逆にその通俗さ加減がロマっぽくて、それが民族音楽的面目躍如という点にもあるのかもしれない。バルトークとはまるで違う非・禁欲さで (むしろ情動的で) キャッチーな音である。
第2楽章も印象的な舞曲ふうのパターンの繰り返しから始まっていることでは同じで、このキャッチーさの連続は少し面映ゆい。何度かの波が収まると、ヴィオラのスル・ポンティチェロによるトレモロが始まり (48)、これが各楽器に引き継がれ、やや晦渋な雰囲気に変わる。幾つかの変形とつなぎの部分はあるものの、基本的には最初のパターンによる印象がこの楽章を支配している。
第3楽章はセンチメンタルに、いかにもドヴォルザーク風に1stが歌おうとするが、2ndとヴィオラが邪魔をする。そこで少し表情を変え、諦めたようになって2ndが呟く。それに1stが応答しチェロが下から支える。だがそれは長く続かず、再びドヴォルザーク的主題に戻ってゆく (93)。
第4楽章は前楽章に続き1stの詠嘆が続くが、センチメンタルというよりもっと虚ろな音に変化していく。この部分は美しい。1stだけとなりリタルダントして一転、(37から) Un poco più mossoで2ndの細かく刻むリズムの上に、他の楽器がかわるがわる顔を出す。
Adagioとなりやや刺激的な下降するピチカートが繰り返し刻まれる (98)。リズムが変わって (127) ヴィオラが維持するリズムの上に1stの毅然としたメロディが投げ出される。やがてリズムの刻みが優勢となるが突然それは止まり (168)、何回かキメ台詞を呼び交わすようにして終わる。

曲の長さがそれほどではないためか、展開がごくコンパクトにまとめられているという印象を受ける。なによりも、小説にインスパイアされているということからもわかるように、描写的で具体的なドラマのイメージがその元にあるのだろう。
《ないしょの手紙》もそうだが、ヤナーチェクには曲の後ろ側に作曲家のインティメイトなプライベートっぽさがいつもチラチラしている。絶対音楽的なベートーヴェンのような圧倒的パワーはなくて、ちょっとうろたえたりしていつも隙だらけだが、その親しみやすさのようなものがヤナーチェクらしさなのだ。


Janáček Quartet/Janáček: String Quartets nos.1&2 (日本コロムビア)
ヤナーチェク:弦楽四重奏曲




黒田恭一/ぼくだけの音楽 1 (MUZAK)
ぼくだけの音楽 1 (黒田恭一コレクション①)




黒田恭一/ぼくだけの音楽 2 (MUZAK)
ぼくだけの音楽 2 (黒田恭一コレクション2)




Leoš Janáček/String Quartet No.1 “Kreutzer Sonata”
https://www.youtube.com/watch?v=0TNeUJYiAoo
Leoš Janáček/String Quartet No.2 “Intimate Letters”
https://www.youtube.com/watch?v=FOSFulkl4o0

すべてのあなたはたったひとりのあなた — 大貫妙子と小松亮太《Tint》 [音楽]

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大貫妙子と小松亮太による《Tint》はタンゴ風味のアルバムだ。想像していたより音がやや豪華過ぎるような感じもするけれど、でもこれはこれで良いのだと思う。

小松亮太のインストゥルメンタルに続く最初の歌である〈Tango〉は、坂本龍一の《Smoochy》で大貫が作詞提供し、それを《Lucy》では自身で歌った曲。まさにタイトル通り、小松亮太とのコラボにはふさわしい。
ギターとベースの前奏に続き、すごく近く感じる大貫の声がひろがる。この漆黒のなかから立ち上がってくるような空気感が美しい。「空を映した瞳の色」 の後からバンドネオン、ピアノ、ヴァイオリンが一斉に入って来るところが典型的なピアソラで、笑ってしまうほどカッコイイ。

 すべてを無くしすべてを手に入れ
 場末の店で踊るTango
 あなたの前ではただの道化
 激しく不在に苛まれて

楽器数が多くなると漆黒の魔は薄くなりやがて消散し、「マテ茶」 というような歌詞アイテムが出現して来ると、もっと色彩的なタンゴの芳醇な香りを感じさせるいつもの大貫ワールドになるが、ときどきあるこうしたためらいのモノクロームのような音の瞬間を私は待っているのかもしれない。

この〈Tango〉に続く〈Hiver〉〈エトランゼ〉は、まさにいつものクリシェでもあり、おなじみな風景がくっきりと形作られる。〈Hiver〉がこのように編曲されるのも心地よい。だが〈愛しきあなたへ〉〈ハカランダの花の下で〉は、弦がさらに増えていたりしている影響もあるのか、わざとやや通俗に古風なアレンジでまとめてみましたというふうにもきこえる。

小松の腕の見せ所であるインストゥルメンタル、ピアソラの〈リベルタンゴ〉は、工夫があり意欲も感じるのだがちょっといじり過ぎのような印象がある。でも確かに進化したリベルタンゴでもある。

大貫作詞、小松作曲の〈ホテル〉は、歌詞のあちこちがユトリロとかヴェルレーヌといったスノビズム満開で、でも古いホテルのユトリロは当たり前だけれど 「名も無い レプリカ」 で、「ジタンの匂い」 や 「狭い裏通り」 や 「小さなラジオ」 が、うらぶれた哀しさにつながる。色褪せたホテルでは色褪せぬように思える想い出もいつしか色褪せる。

「小さなラジオ あなたと聴いた曲が」 で1回だけ 「あなた」 が出てくる。以前、〈Hiver〉についてのなかで私は、あなたなんていなくて 「王子様もゴドーも春も来ないのかもしれない」 と書いたが (→2015年04月11日ブログ)、つまり大貫の歌詞に繰り返し出てくるキーワードでもある 「あなた」 は魔法の代名詞で、それはもしかすると韜晦の代名詞かもしれなくて、ひとりだけのあなたがあまたのあなたになったのかもしれなくて、でも、すべてのあなたはたったひとりのあなたなのかもしれないと思わせる。
「あなた」 はtutoyerなのか、そうでないのか、「あなた」 が大貫の私生活を連想させるように見えて、でもそれが汎用性の海に沈んでいくのは、金原ひとみの書く小説がプライヴェートのカリカチュアのように見えてそうではなさそうな、でもそのなかに自らの体験を潜り込ませているような、ずるい企みに満ちているのと似ている。

雨と冬とラジオというような何の関連性もない単語群は私にとって漠然とした死の影とともにあって、それは以前、メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲第6番のところで書いた (→2015年04月17日ブログ)。
最も暗いアルバム《PURISSIMA》を経て、もうそうした裏側の面に近づくことは大貫にはない。歌はもっと悦楽を目指すものであった良いはずだし、色彩が豊富なことは決して退嬰ではない。かつてshelaが色彩の付いたタイトルを並べながらそのアルバムタイトルが《COLORLESS》だったことを私は突然思い出す。
音楽は抽象で、何の色彩もないし何の思想性もない。だから音楽を言葉で形容するのは所詮アナロジィに過ぎない。それゆえにどんな矛盾も同時に正当でありうる。だからどんな高邁な理論も実は無力なのだ。


大貫妙子と小松亮太/Tint (SMJ)
Tint




大貫妙子/カヴァリエレ・セルヴェンテ
https://www.youtube.com/watch?v=OcND718iUEk
小松亮太/Libertango
https://www.youtube.com/watch?v=fsnuBEeDo3g

関ジャムの夜 [音楽]

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関ジャニ∞の番組《関ジャム 完全燃SHOW》が毎回とても楽しい。夜の時間帯なので自由なつくりができるのだろうが、今あるTVの音楽番組のなかではダントツです。
KInKi Kidsの《LOVE LOVE あいしてる》から《堂本兄弟》を経て《新堂本兄弟》という長いシリーズ番組も、トークの後にゲストとのセッションというかたちだったが、KinKiのアマチュア混成チームと違って関ジャニ∞はプロなので、同じようにセッションをしてもそのクォリティがとても高い。

7月3日の回を録画で観ていた。ゲストはドリカムの中村正人で、吉田美和がいないことをいいことに暴露話あれこれと曲作りの過程を話すのだが、吉田の曲作りについて 「おりてくる」 という表現を使っていて、ちょっと納得。松任谷由実からも同じような表現を聞いたことがあるし、槇原敬之の〈世界に一つだけの花〉だって、ごく短時間でできたものらしい。(ちなみに私の一番好きなマッキー曲は〈モンタージュ〉です。どうでもいいですけど)
吉田のインスピレーションを中村がいかにうまく構成して曲として完成させていくか、ということもよくわかる。ユーミン/松任谷正隆のコンビも似たようなパターンなのかもしれない。
しかし、挿入される吉田美和の歌唱の動画は皆ライヴなのだけれど、ライヴなのにあの全く崩れない歌は何なんだといつも思ってしまう。曲作りもすごいんだけれど、それより歌手としてのテクニックのほうがもっとモンスターである。

コブコロの回 (6月12日) でも、最近は曲づくりの過程での話とかが多くて、コード進行がどうのこうのというような、少しだけ専門的な部分もあったりするのだけれど、でもマニアックではなくて、そのバランス感覚が素晴らしい。
小渕が 「これだとありきたりだよねぇ」 と、違うコードとかメロディで実例を示されると確かにその通りなのだが、楽曲が完成形になるまでの試行錯誤というのは大変なんだろうなぁと思う。
いつの回でも、関ジャニ∞のメンバーがゲストの曲をよく知っているので、上滑りの話題にならないのに感心する。

専門的なことでというのなら一番面白かったのがその前回 (6月5日) の蔦谷好位置とヒャダインをゲストに迎えたときで、音楽プロデューサーって何? というテーマの下に、2人の曲づくりとプロデュースの実例のトークになったのだが、これがメチャメチャマニアックで、画面の下側にやたらコードネームなど出てくるし、ある意味、なかなか勉強にもなります。もっともこういうTVからの知識ってクイズ番組の回答と同じで、すぐに忘れちゃうことだから身には付かない知識なのだけれど。

吉川晃司 (5月15日) は齢を重ねるにつれ外見的にコワモテっぽい感じになってしまったけれど、音楽に対する姿勢はずっと揺るがないように思える。昔、まだ吉川がアイドル系っぽい扱いをされていた頃、音響系の新製品フェアの会場で機材/ソフトウェアの解説のサンプルとして彼の歌が使われたときがあった。会場からは 「え~っ、吉川?」 みたいなバカにした反応があったのだが、マルチトラックの各楽器を単独でプレイバックし、当然、歌だけのトラックでも音が出されたのだが、アカペラになった吉川の歌を聴いたら、皆黙ってしまった。あきらかに歌がうまかったからである。
音楽ってラフなようにみえて、細かいところの積み重ねで最後の様相ががらっと変わるものなのだ。

そして《関ジャム》は番組最後のゲストとのセッションがいつもすごい。ジャニーズのなかでは、たぶん楽器の演奏能力は関ジャニ∞が一番高いんじゃないかと感じます。
といっても、毎週だから、まぁまぁ及第点みたいな回がないわけでもないけれど、ときどき、すげーっ! っていうような歌と演奏があるのでそれを楽しみにいつも観ているわけです。たぶん出来不出来の差は、メンバーの入れ込み具合によるのでしょう。

たとえばCDの売り上げが激減しているとか、音楽市場自体が沈下しているという話も聞くし、TVの音楽番組だって無くなっているといえば無くなっているけど、でもそれは音楽というジャンルが普遍的に拡散拡大しているだけで決して滅びていくわけではないと思う。
本を読むことが禁止された世界という設定のSFはあったけれど、音楽を聴くことが禁止された世界のSFってあっただろうか? でもSFの虚構でなく現実に、自由に本を読むことや音楽を聴くことが制限されている国は残念ながら存在するし、着るものや食べ物を規制されている国や宗教だってある。
音楽は抽象的な一面もあるゆえに、かえってその抽象性が狭量な為政者から危険視されるのだろうか。それは全く見当外れでもあるし、同時に全くその通りだとも言えるのである。


関ジャム 2016年6月26日
https://www.youtube.com/watch?v=GxXCRbS3gmw
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デルフトのイブラギモヴァ [音楽]

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デルフトという地名はフェルメールとともに有名になってしまった。そのデルフトで開かれている Delft Chamber Music Festival という催しがある。ヴァイオリニストのリザ・フェルシュトマンが主宰しているフェスである。

このデルフト・フェスにアリーナ・イブラギモヴァがモーツァルトの弦楽五重奏を弾いた動画があったのでこのところ愛聴していた。
イブラギモヴァはモーツァルトのソナタ全集を出し始めたところであるが、キアロスクーロ・クァルテットでのモーツァルトの弦楽四重奏曲のCDはまだ数曲しかない。また、2014年のモーツァルト週間における弦楽五重奏曲の全曲演奏会というDVDがあるのだが、これは1stを弾いているのがルノー・カプソンでイブラギモヴァは2ndなので、今のところまだ手が出ていない。
でもデルフトのライヴでは、フェルシュトマンは2ndに回ってイブラギモヴァに1stを弾かせている。曲目はC-durのKV515である。

モーツァルトの弦楽五重奏曲は6曲だけだが、それぞれに個性があり、バルトークの6曲の弦楽四重奏曲と同じで、全曲セットで聴いてみたくなる曲数である。私がずっと愛聴していたのはブダペスト・クァルテット+トランプラー盤で、きっかけは誰でもが陥る g-moll のKV516であって、これを何の予備知識もなく突然ナマで聴かされて、奈落の底に突き落とされたような衝撃だったことはいまだに忘れない。
この曲が作られた1787年は、モーツァルトが暗い闇に向かって落ち始める年でもあって、それは父レオポルドの死もきっかけであるが、《ドン・ジョヴァンニ》という最も構築性が高くて最も暗いオペラが作られた年であることに象徴されている。映画《アマデウス》の《ドン・ジョヴァンニ》の場面でも、その音のなかにモーツァルトの仮面の後ろ側に広がる世界の恐ろしさを感じてしまうが、そうした曲の特質をあの映画は的確に捉えていた。

死にゆく父への思いとも思えるKV515と516、そしてKV388の編曲である c-mollのKV406 (516b) は相次いで書かれた。これはつまりレオポルド・セットなのである。《ドン・ジョヴァンニ》はラントシュトラーセの家で書かれたとのことだが、これらの五重奏曲もほぼ同時期に並行して作曲された。

KV515は悲劇的なその3曲のなかで唯一、長調の曲 (つまり明るい印象の曲) である。この年以後、モーツァルト自身も困窮と死に向かって突き進んで行き、息苦しさを感じる曲も多いのだが、そんななかで515はむしろ少しホッとするような印象を与えてくれる。この曲の聴きどころはもちろん第1楽章と第4楽章だが、第2楽章の上品さは過去への父親との日々への憧憬なのだろうか。ごく穏やかな旋律で、5つの楽器がかわるがわる声を掛け合って溶けてゆくような第3楽章も、かえってモーツァルトの心のうつろさの反映なのかもしれない、と穿った見方をしてしまう。
モーツァルトの弦楽五重奏曲はヴィオラが2台なので、中域が厚く感じられる音なのだが、基本のかたちは1stとチェロの 「呼び交わし」 であって、その間を埋める2ndとヴィオラという構造である。単純そうに見えて、実はそうではない。モーツァルトは常に仕掛けがあるが、それは意図したものでなく自然に発してくるアイデアなのだ。

デルフトのライヴ映像は、舞台と聴衆の距離が近くて、手作り感に満ちている。このような場所であるためか響きが吸い取られて、やや音にアラが目立つのだけれど、聴衆の近さは音楽の親しみやすさとなって迫ってくるように思える。
弦楽五重奏曲ではKV516ばかりが異常に有名になってしまっているが、この515とか、最後のKV614が私は好きである。なにより、その激動の生活を感じさせないモーツァルトの音楽のどれもが二度と起こることのない奇跡の連なりである。


Alina Ibragimova, Cédruc Tiberghien/Mozart: Violin Sonatas
(hyperion)
Mozart: Violin Sonatas




Chiaroscuro Quartet/
Beethoven: String Quartet No.11 & Mozart: String Quartet No.16 (Aparte)
ベートーヴェン : 弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調 op.95 「セリオーソ」 | モーツァルト : 弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 KV428 他 (Beethoven ・ Mozart / Chiaroscuro Quartet) [輸入盤・日本語解説付]




Mozart/String Quintet C-dur KV515
Delft Music Festival of violinist Liza Ferschtman
with Liza Ferschtman, Alina Ibragimova, Amihai Grosz,
Jakob Koranyi, Gijs Kramers.
https://www.youtube.com/watch?v=iU-LiPWusrI
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