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川上未映子『おめかしの引力』を読む [ファッション]

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川上未映子 (撮影・荒木経惟)

川上未映子の『おめかしの引力』が面白くてさらさらと読んでしまった。新聞に連載していたファッションのエッセイをまとめたものだが、「おめかし」 という表現がファッションに対するこだわりを反映している。多分に自己満足なのかもしれないが、でも 「私はコレ」 という芯が通っているので一般的なファッション本とは違い、だから 「おしゃれ」 じゃなくて 「おめかし」 なのだとのこと。最近の芥川賞作家って羽田圭介とかもそうだし、もはやタレント? なんだろうか。

服が好きで好きで次々に買うんだけれど、でもいざとなると着ていく服が無かったりして、しかしそれが止められないという、まさに 「断捨離」 とか 「こんまり」 とかとは正反対の世界である。私も断捨離とは無縁だからとても共感。とゆーか断捨離って、言葉自体が宗教っぽくってなんだかちょっとなぁ~と思ってるし。初めて聞いたとき作務衣の親戚かと思った。
それとご本人のお言葉によれば 「やっぱ大阪人ですよねー」 と言われても納得してしまう卑下なのか自慢なのかよくわからないファッション感覚が伝わってくる。地方性のせいにするのってズルイって感じもするけれど、大阪はたこやき・お笑い・ヒョウ柄とか言われてるのは本当なんですね。

ハイブランドを買うときに、あまりにも高い品の場合、「一生着るんだから一回につきこれくらい、と思えば安いんやないの」 と1日あたりの単価を出して無理矢理自分を納得させることとか (だからって毎日着るわけじゃないのに)、お姉さんとファストファッション店に行ったとき、お姉さんは大満足なんだけどご本人は爆死したみたいで (若くないとこういう服はムリとのことです)、素直に大阪ノリに乗り切れなかったり、そうした経過に大笑いしてしまう。
ハイヒール・命なのでマノロを買ったら絶望に近いほど感動して、この靴なら全力疾走もできるんだけど、妊娠して仕方なくレペット履いたら全然似合わなくて、ぺたんこ靴のほうが、きっと履きこなしのハードルは高いんだ、とか。

一番共感したのはタートルネックが圧迫感があって鬱陶しくてダメという個所。私も同じ感覚なので、以前はそんなことなかったんだけれど、ある日、その圧迫感がキモチ悪いということに気がつき、以来、タートルネックのセーターなんて絶対に着ません。あぁつまらないとこに共感してるし。

本の真ん中へんにお気に入り服の写真が挿入されているが、それらがほとんどハイブランドであるので私には無縁なのはいいとして、ファッション写真として写された2枚の写真がある。
1枚はKENZOのスカートと古着のブラウスを着た資生堂用の写真。撮影は荒木経惟。もう1枚はヴィヴィアン・ウエストウッドのワンピースを着た篠山紀信撮影の写真展用のもの。
小さい写真なんだけれど、プロのカメラマンが撮るとどうなるかということだけではなくて、荒木と篠山の写真のとらえかた/個性の違いがくっきりとわかって、この部分に一番感動しました。あ、それじゃ本の感想にならないか。荒木の作品はいつもと少し異質な川上未映子的な表情が出ていて、それは風景でさえも特殊な色に変えてしまう彼の存在がそうさせる強いなにかなのだと思う (トップ画像参照)。
川上未映子はちょっと上野樹里に似ていて、でもこう書くとどちらもそれぞれ嫌がるんだろうけど、つまりどちらも女優顔っていうことです (これもフォローになってない?)。

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川上未映子 (撮影・篠山紀信/本に掲載されているのとは異なるが同じ展覧会の作品)


川上未映子/おめかしの引力 (朝日新聞出版)
おめかしの引力




トップランナー/川上未映子
http://www.pideo.net/video/pandora/e46733b3d276a6d4/
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Every day I listen to my heart あるいはHALの見る夢 ― 高野史緒『ムジカ・マキーナ』 [本]

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Zauberflöte (Deutsche Oper Berlin)

前にとりあげた巽孝之『プログレッシヴ・ロックの哲学』のなかに、音楽SF小説として紹介されていた高野史緒『ムジカ・マキーナ』を読んでみた (前の記事は→2016年05月14日ブログ)。
文庫のカヴァーには次のようなキャッチがある。

 1870年、理想の音楽を希求するベルンシュタイン公爵は、訪問先のウィ
 ーンで、音楽を絶対的な快楽に変える麻薬〈魔笛〉の流行を知る。その
 背後には、ある画期的な技術を売りにする舞踏場の存在があった。調査
 を開始した公爵は、やがて新進音楽家フランツらとともに、〈魔笛〉と
 〈音楽機械 = ムジカ・マキーナ〉をめぐる謀略の渦中へ堕ちていく。
 虚実混淆の西欧史を舞台に究極の音楽を幻視した江戸川乱歩賞作家のデ
 ビュー長篇

魔笛にはわざわざツァウベルフレーテとルビが振ってあるが、もちろんモーツァルトのジングシュピール〈魔笛〉を連想させる。
フランツ・ヨーゼフ・マイヤーは駆け出しの指揮者で、自分の考える理想の音楽に近づけようと奮闘しているのだが、老獪なオーケストラをうまく動かすことができずイライラしている。ベルンシュタイン公爵にスポンサーになってもらえるかどうかもイマイチという状態。ところが商売敵の指揮者の振る〈魔笛〉を恋人と一緒に聴いているとき、彼女と仲違いしてしまい、外に出たところでイギリス人のセントルークス卿と興行主モーリィに出会う。セントルークスは今評判の《プレジャー・ドーム》というダンスホールを建てたのだが、そこには楽士はひとりもいなくて、機械が音楽を奏でているのだということをフランツは知る。
モーリィはフランツに、副業としてDJをしてみないか、ベルンシュタインなんかよりこっちの水のほうが甘いぞ、と誘うのだが、そのシステムをオペレーションするためには麻薬〈魔笛〉が必須で、気がつかないうちにフランツは毒されてゆく。理想の音楽が実現できるようなのは見せかけで大きな陥穽があったのだ。
ロンドンのクラブに集う客たちも同様に〈魔笛〉に浸食され廃人となってゆく。

ややミステリーっぽい仕立てでもあるので結末がどうなるかまでは書かないが、理想の音楽という考え方と、ストーリーのなかに散見される音楽的な小技が面白い。
ただ、舞台設定が1870年とあり、ウィーンではヨハン&ヨーゼフ・シュトラウスが現役であり、ナポレオン3世も登場するのだが、そんななかに突然、機械仕掛けの (というより電化された) ミキシング・コンソールやスピーカーが併存してしまうという世界で、その設定がやや唐突だ。
巽孝之は前述の著書で、

 蒸気機関とコンピューターが奇妙にも併存して混淆し、世にも妖しいア
 ラベスクを奏でる世界。(p.117)

と書いているのでスチーム・パンクを連想させるが、実際には蒸気機関という言葉は 「ロイヤル・アルバート・ホールの大オルガン」 が蒸気機関で風力を供給しているという記述が出てくる1個所だけで (ハヤカワ文庫JA・p.351╱以下同)、1870年という時代性はほとんど感じられない。ロンドンの描写は現代そのままといってもよいと思われる。

巽孝之の解説によれば pleasure dome とか、ディスコテークの店名として出てくる Xanadu といった用語はコールリッジの《Kubla Khan》(1816) からの着想であり、ピラネージからコールリッジ、ド・クインシーなどを経てボードレールやランボーに至る麻薬文化と人工楽園幻想の伝統によっている、とある (p.440)。
理想の音楽という概念とか、「〈それ〉は存在する」 というような表現で語られる、いわゆる 「おりてくる音楽」 についてのこととか、音楽の理解は一瞬である、つまりわかるかわからないかであることとか、ところどころに著者の哲学が披瀝されるが (p.21, p.101, p.239)、それよりもコールリッジの元ネタのような、一種のパロディのようなものがどうしても気になってしまう。

オルガンに向かうブルックナー教授という、「べらんめい」 みたいな (でも、ちょっと違う) 妙な言葉を話す人物が出てくるが、これはもちろんまだ認められていないアントン・ブルックナーのカリカチュアで、そのブルックナーが即興演奏に興じるシーンはジュリアン・グラックの『アルゴールの城』を連想させる (p.80)。
そのオルガンの調律師であるサンクレールは一種のメカマニアであり、彼の信奉するのは単純な2つの方法であるという。ひとつは人間の手を介さないで音楽を存在させる方法、それが音楽機械であり、もうひとつは、あらゆる物音に含まれ、それでいてあまりにも僅かな音楽の瞬間を最大限に鋭く感じ取るために薬物、つまり究極の麻薬が必要だというのだ (p.402)。
端役の軍人たちが、ワインガルトナーとかシューリヒトとかシャイーとかマズアとかいう指揮者の名前なのもお遊びの一環である。
stand-aloneで動いてしまう音楽機械という概念はキューブリックのHAL9000を連想してしまう。コンピュータが人間的な反応を見せるか見せないかは、単に人間から見た外面の表情でしかなくて、機械自体が傲慢で確信犯であるのは同じなのだ。

著者によれば、フランツは指揮者のフランツ・ウェルザー=メストがモデルであり、セントルークス卿はトレヴァー・ホーンがモデルなのだという。
だからモーリィがフランツのことをフランキーと呼び、「ねえ、ハリウッドに行ってみたくない? フランキー?」 と言うのだ (フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのプロデュースをしたのはトレヴァー・ホーンだから)。

ただ、ストーリーの弱点と思えるのは、クラシックの指揮者が安易に単なるDJに鞍替えしたりするものなのかという点 (つまりこの音楽機械の性能に対して私はそれほどの魅力は感じない) と、そのようにして機械に踊らされる登場人物の個性がやや薄いということである。
そもそもこの話の主人公がベルンシュタインなのかフランツなのかが判然としないし、ベルンシュタインもアクの強くないアルド・ナリスといった印象で、シンパシィを感じにくい (アルド・ナリスは栗本薫の小説に出てくるキャラクター)。ただ、主人公は人間ではなく音楽なのだといわれたら納得させられてしまうのかもしれない。

ふたたび巽の解説の部分を読むと、「高野作品が得意とする 「おぞましさ」 や 「いかがわしさ」 のもつキメラ的魅力」 (p.442) とある。
プログレ大好きな巽孝之だと思っていたが、その視点は意外にも冷静であるように感じる。私はプログレやフュージョンはは知識としてはわかるのだけれど、それは単なる一般教養であって、没入しにくい音楽だと感じていることもあり、なぜならたとえばELPには、やはりクラシックへのコンプレックスと剽窃があるからだ。それが悪だと言っているわけではなくて、そうした編曲ものの 「いかがわしさ」 こそがプログレの精神性のように思えるからである。いかがわしいことでは、たとえばデヴィッド・ボウイだって同様である。むしろそのいかがわしさがなければグラムではないし、それとは異なるのだけれど、プログレもまた 「いかがわしい」 のである。
メロディもまたマテリアルに過ぎない。だから、冨田勲より平原綾香のほうがホルストらしいかもしれないのである。


高野史緒/ムジカ・マキーナ (早川書房)
ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)




Frankie Goes to Hollywood/Welcome to the Pleasuredome
https://www.youtube.com/watch?v=WfHKgcTaU_4
平原綾香/Jupiter
https://www.youtube.com/watch?v=K7rob0JVlfE
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萩尾望都SF原画展に行く [コミック]

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吉祥寺で開催されている萩尾望都SF原画展に行く。
武蔵野市立吉祥寺美術館と名前はいかめしいが、FFビルの7Fといったほうが通りがよい。
この展覧会のことはRyo1216さんのブログ記事で知りました。Ryo1216さん、ありがとうございます。

萩尾望都のことは、以前、NHK-2の《漫勉》をブログ記事にしたが (→2016年03月05日ブログ)、いままで原画を見たことはたぶん無かったと思う。今回の展示はSFを題材とした作品に限った展示ではあったが、《漫勉》の記憶がまだあるなかで、とても刺激的な内容であった。

作品の中で最も古いものは 「あそび玉」 (1971) である。ごく初期の描線は、最小の線で最大の効果を出すという手法のように感じられて、この時代の絵に私はとても執着していたのだが、今回、年代を追って見ていくと、萩尾の絵にはそのように発展して変容していった必然性があり、後期の絵を 「怖すぎる」 として退けていたのは偏見だったことがあらためてわかる。

「11人いる!」 (1975) は、いかにもSFっぽいSF作品として一番最初に認識できるものであるが、その口絵等のカラー原稿はとても懐かしく、かつ古びていない。
「11人いる!」 の両性体という概念はル=グィンの『闇の左手』からのイメージであるが、タダとフロルは 「トーマの心臓」 のユリスモールとエーリクであり、悲しい終わり方をした 「トーマ」 のストーリーを挽回しようとして、この 「11人いる!」 に2人を再びキャスティングしたのでは、というふうにとっていたし、それは間違いではなかったと思う。
特に続編の 「東の地平西の永遠」 (1976-1977) は、見知らぬ宇宙の土地に郷愁を感じさせることにおいて、スター・ウォーズ的なdéjà-vuと同様なにおいがする。ソフトな筆致のカラー原稿が美しい。

今回、河出書房新社から出版された画集『萩尾望都SFアートワークス』は、そのカヴァーがスター・レッドと阿修羅王になっているが、特に阿修羅王のキャラクター (「百億の昼と千億の夜」 1977-1978) は、光瀬龍の原作 (1967) をよりわかりやすく具現化しただけでなく、ジェンダー的にはフロルの発展系であり、こうした強い女性を描くことによって (女性だけでなく男性でもそうだが)、その後の萩尾作品を方向づけた設定と言えるのではないだろうか。
私はこの時期だと、マイナーだけれど 「A-A’」 が好きだったりする。

今回の原画展では、《漫勉》でも十分に窺い知れていたことだが、萩尾の絵の描き方の徹底したアナログ的なこだわりの手法をよく知ることができた。
おそろしく細い線がある。それは0.1mmなんてものではなくて、もう一桁下の、どうやったらそのようにインクが乗せられるの? というほどの細線である。宇宙の星々の描写でも、細かい星をホワイトで打っているのだが、そのものすごく小さい点は半端ではない。それはもちろん一般的な点描や線描でも同様である。こうした細かさは、コミック雑誌の厚手のぼさっとした紙上には再現しきれていない/再現することは不可能なのではないかと思われる。
そこまで細く描いても、印刷上の限界ですべては飛んでしまうか、つぶれてしまうかなのだ。でも萩尾はそのように描くことをやめない。それは自分に納得できないからだろうと推察できる。

もしデジタルで、ペンタブレットで細い線を描いたならば、それはどんなに高解像度であっても、四角形の連鎖、ぎざぎざの連続に過ぎない。ピラネージの版画の画集が、スクリーンで分解することによりモヤッとしてしまうのと同じで、画家のあらかじめの意図が全く死んでしまうように、そうしたデジタルのシステムは萩尾にとって意味が無いのである。それはどこまでいっても近似値だからである。

ハヤカワの文庫のカヴァー絵も、その時代があらわれていて懐かしい。トマス・バーネット・スワンの『薔薇の荘園』のカヴァーの原画を見ても、おそろしく細かく描き込まれているが、実際の印刷物には反映されていない。と思って家の書架を探したが、どこにいってしまったのか出てこなかった。
今回の展示は、SFというジャンルに限られているのに、知らない作品も多く、萩尾がいかに多くの作品を描き続けていたのかがよくわかった。SF系以外の原画も是非、見てみたいと痛切に感じている。


萩尾望都 SFアートワークス (河出書房新社)
萩尾望都 SFアートワークス

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なつかしい土地の思い出 — バイバ・スクリデ [音楽]

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バイバ・スクリデの所属レーベルがOrfeoになってから、コンチェルトを次々に弾くような状態が続いていて、これを追いかけているのだが、近作のシベリウスとニールセンのカップリングなど魅力的なのだけれど、まだ聴いていない。スクリデを偏愛しているといいながらちょっとサボッてしまっている。

でも初期の録音をまだカヴァーしきれていないので、SONY BMGの頃のチャイコフスキーのコンチェルトのCDを聴いてみた。タイトルは《Souvenir Russe》となっていて、コンチェルト以外に〈なつかしい土地の思い出〉と〈白鳥の湖〉op.20から2曲という全チャイコフスキーの構成になっている。
録音は2007年9月3~4日と表記されているので、スクリデ26歳のときの演奏である。

スクリデを聴くようになったのは、以前にもこのブログに書いたように、ラヴェルのソナタの弾き方があまりに心にフィットしてきたからであるが、しかしその後、ツィガーヌを聴いたらその密度の濃さに少し認識を新たにした。それはラヴェルに対する認識であって、最も職人的な技法を備えている作曲家としてのラヴェルにとって、ツィガーヌはやや特異な曲であるという思いである。
ただそれは、単にラヴェルの曲が密度が濃かったからというだけではなくて、それを増幅するようなスクリデの演奏にもあったのではないか、と今になると思える (スクリデのブラームスについては→2012年08月26日ブログ参照。シューマンは→2015年01月03日ブログ参照)。

このチャイコフスキーのアルバムにおいてもコンチェルトの速度はやや遅めであり、聴き始めはちょっともどかしいような印象があるが、やがてその緻密な音のなかにだんだんと没入していくのが快い。
そして第2楽章、第3楽章とすすむにつれて、その昂揚感がどんどん増していくのがわかる。
CDのパンフレットにも書かれているが、チャイコフスキーのコンチェルトは、彼女がまだ子どもの頃、オイストラフの演奏をTVで観たのがその原点にあるとのことだ。
オーケストラはアンドリス・ネルソンズ指揮/シティ・オブ・バーミンガムというオーケストラだが、このオケは木管がとても美しい。
コパチンスカヤの同曲へのアプローチに較べればスクリデはずっと正統派だ。また、オイストラフの演奏もYouTubeにあったので参照してみたが、表現がさすがに古い。特にヴァイオリンという楽器は、テクニックだけでなく、曲の解釈そのものが確実に進歩しているように感じられる。

そしてタイトルの《Souvenir Russe》は2曲目の《Souvenir d’un lieu cher》(なつかしい土地の思い出) に引っかけられている。
〈なつかしい土地の思い出〉はもともとはヴァイオリンとピアノのための曲で、それをグラズノフがオーケストラ用に編曲したものである。瞑想曲、スケルツォ、メロディという3曲から構成されていて、つまりヴァイオリン・ソナタではなく小品集のようなものである。
1曲目の〈瞑想曲 Méditation〉はコンチェルトの第2楽章にするつもりだったが、それをやめて独立した曲として発表された。2曲目と3曲目は、あとから付け足して作曲された。

このグラズノフ編曲版の演奏がすばらしく良い。ピアノ伴奏版の演奏もYouTubeなどの動画にあるが、このオーケストラ版にはぜんぜんかなわない。瞑想というよりも官能に近くて、ある意味、通俗のきわみかもしれなくて、メロディメーカーの力が最大限に発揮されているようで、だからチャイコフスキーなんだと言われればそれまでであるが。
2曲目の〈スケルツォ Scherzo〉は文字通り、小気味よいスケルツォであって、ここでもヴァイオリンと木管のからみが美しい。
終曲の〈メロディ Mélodie〉はまさに美しいメロディラインなのだけれど、比較的普通の展開であり、でも締めくくりとしてはこのようなかたちになるのだろう。

チャイコフスキーはこの曲をスイスに滞在しているときに書いたという。lieuという言葉から私はすぐにビュトールの〈Le Génie du lieu〉を連想してしまったが、いつもと違う土地にはインスピレーションを湧かせる作用があるのかもしれないと漠然と思う。でもほとんど旅などしない私の考えることだから、全然間違っているかもしれないとも思う。


Baiba Skride/Tchaikovsky〈Souvenir Russe〉(SMJ)
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲、なつかしい土地の想い出、白鳥の湖より




チャイコフスキーの動画が見つからないので
スクリデとネルソンズのベルクのトレーラーを
Skride&Nelsons, Berliner Philharmoniker/Berg: Violin Concerto
https://www.youtube.com/watch?v=6qeYxfknggM

ジョシュア・ベルによるméditation
https://www.youtube.com/watch?v=rGA3o5_EuzY
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イブラギモヴァのメンデルスゾーン [音楽]

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先日、アリーナ・イブラギモヴァのことを書いたとき、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の録音はハイペリオンから出ているユロフスキ指揮の演奏きり私は知らなかった。ところが動画サイトにも同曲があると知り、YouTubeを探してみるとヘレヴェッヘとのものがあるのを発見。
ハイペリオン盤は2011年09月02日~04日の録音とあるが、ヘレヴェッヘは同年12月11日だからCDを録音したときより後である。
Radio Kamer Filharmonie o.l.v. Philippe Herreweghe
Alina Ibragimova: viool
11 december 2011, Grote Zaal van het Concertgebouw Amsterdam.
と記されていて、vioolというオランダ語表記がカッコいい。
ヘレヴェッヘだから、ということで早速聴いてみたら見事にハマッてしまった。

私にとってのメンデルスゾーンのコンチェルトの標準はハイフェッツの古い録音である。なぜハイフェッツかというと、まだ私が小学生の頃、家にハイフェッツ盤があってそれを繰り返し聴いていたからであって、自らが選択したものではない。でも最初に聴いた音というのは、それが若ければ若いときであるほど、いわゆる 「刷り込み」 になってしまって、別にその演奏が一番良いものでなくても、それを基準に他の演奏と比較してしまうことが多い。

メンデルスゾーンのコンチェルトはベートーヴェンのコンチェルトなどと較べると、聴きやすいというか、ある意味、通俗でわかりやすいという印象がある。それは最初の主題があまりにも有名で、ここをいかにせつせつとロマンティックに歌い上げるようにリスナーに訴えるのかがこの曲の演奏の常道なのだと思う。
でも、ヘレヴェッヘとのイブラギモヴァは、ちょっと何か感じが違う。もちろん十分にそのテーマは弾かれているのだが、比較的速くさらりと流れていって、「ここがキモ的」 なおしつけがましさが無い。
ハイフェッツやグリュミオーの古い動画とか、ヒラリー・ハーンの動画とかと較べてみても、普通はどっしりとしたように構えて弾くみたいなスタイルがあって、特にハーンは見ていても、音も姿勢もおっとりとしているが、イブラギモヴァの身体の揺れはすごく動的で、というか何かヘンで、なんと表現したらいいのかわからないのだが、私の勝手な言い方をしてしまえば 「ロック」 している。

主題が終わって、経過句が3連で下がっていき、それから上がっていくところの8分音符 (28小節と32小節) を強いアクセントで弾くのに、どきっとする。確かにスタカートは付いているのだが、ここをこんなふうに弾く人はあまりいないように思う。このスタカートにやられてしまった。

カデンツァの入り方もそうだ。ソロになる299小節からのスピードが異常に速い。やがてトリルを繰り返して最高音まで上がっていき、フェルマータがあってからa tempoで戻るのだが (323)、そこでももったいぶってだんだんと戻っていくのでなく、いきなり全開してしまう。でもハイペリオン盤では弾き方がちょっと違う。私は意表をつくヘレヴェッヘとの弾き方のほうが好きだ。
イブラギモヴァのこうしためりはりの付け方はスリリングで、いままでの比較的ベタッとしていたハイソ風なメンデルスゾーンとは違った印象を受ける。でも嫌いな人は嫌いなんだろうなぁとも思う。
カデンツァが終わって、再現部の第1主題、第2主題があって、調性がe-mollに戻る暗い部分がいい (414)。ここが第1楽章で私が一番好きな個所である。

イブラギモヴァにはキアロスクーロ・クァルテットによる弦楽四重奏の録音もあって、メンデルスゾーンの2番がすでにリリースされているが、キアロスクーロはまだ未聴である。クァルテットだとどのようにアプローチしているのか、興味は尽きない。

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Alina Ibragimova/Mendelssohn: Violin Concertos (Hyperion)
Violin Concertos




Felix Mendelssohn: Vioolconcert in e-klein, op.64
Radio Kamer Filharmonie o.l.v. Philippe Herreweghe
Alina Ibragimova: viool
11 december 2011, Grote Zaal van het Concertgebouw Amsterdam.
https://www.youtube.com/watch?v=b0EhBqVihEU
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巽孝之『プログレッシヴ・ロックの哲学』を読む [本]

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Patric Moraz (patricmoraz.comより)

1980年代の中頃に留学していたニューヨーク州イサカのコーネル大学は、風光明媚な峡谷のなかにあり、全米でいちばん美しい大学のひとつであるが、そこにかかるサスペンション・ブリッジは自殺の名所としても有名であったと著者は書く。

 かつてビートルズは 「ビコーズ」 で 「あまりに空が青いから泣きたくな
 るんだ」 と歌ったが、このイサカという環境がもたらすのはさしずめ
 「あまりに峡谷が美しいから死にたくなるんだ」 とでも要約できる情緒
 だろうか。(9.64)

ビートルズの〈Because〉から醸し出される音の記憶が形容される風景に重なる。その大学のキャンパスで、ビル・ブルーフォードとパトリック・モラーツのデュオ・コンサートを聴いたこと。そうした描写の積み重ねが、著者の過ごしたその時代とその場の雰囲気を的確に伝えてくれるようで想像力を刺激される。

巽孝之の名前はSF系の雑誌などでよく目にしていたが、書店の音楽書の売場にこの本が置いてあったので、一瞬小さな驚きがあった。平凡社で2002年に出されたものを今回増補改訂したとのことである。

私はプログレのことをよく知らないので、ごく表面的にしか理解できないのだが、巽孝之のお好みは巻末のプログレッシヴ・ロック20選というリストでよくわかると思う。第1番目に選ばれているのがパトリック・モラーツの《Refugee》であり、プログレの3大グループ、キング・クリムゾン、エマーソン・レイク&パーマー、イエスが各1章ずつに設定されているなかで、モラーツにも1章が与えられている。
そのようにして巽の視点から見たプログレや、その他の関連する音楽についての取り上げ方を辿っていくのは面白い。
アルバムの20選は各グループ毎に1枚という選定基準らしく思われるが、イエスは《Relayer》、キング・クリムゾンは《Thrak》である。ちょっとマニアック!
サイモン&ガーファンクルをカヴァーしたイエスの〈America〉について言及している個所では、初期のイエスはビーチ・ボーイズやCSN&Y風コーラスとヴァニラ・ファッジ風オルガンを好んでいたと書かれている。

第二部のロック文学の起源として、ポーの 「アッシャー家の崩壊」 (1839) やトーマス・マンの『ファウストゥス博士』(1947) とともに、アレホ・カルペンティエールの『バロック協奏曲』(Concierto barroco, 1974) が提示されているが、この本、入手困難なので、う~ん……。
トマス・ピンチョンが『メイソン&ディクソン』(1977; 柴田元幸訳・新潮社・2010のタイトルは『メイスン&ディクスン』) のなかで、クリムゾンの《Thrak》のヴルーム (Vrooom) という名前を使っていると指摘している。また、ピンチョンの影響は矢作俊彦の小説にもあるのではないかとのことだが、このへんのことは未読だしよくわからない。
でもそうしたよくわからないことの断片がなかなか興味を引く。

その他、プログレ以外の話題として、ジョン・レノンの死に対する見方もなるほどと思わせられる部分がある。村上陽一郎のレノンに対する批判的記述、つまり 「音楽にメッセージだの、意味だのという夾雑物が入り込む余地はないはずだ」 というのに対して巽は、ロックは夾雑物のかたまりだという。

 ロックンローラーは夾雑物のかたまりなのである。その過程で、音を聞
 かずに音楽を評するという決定的に矛盾した向きも現れるだろう。だが、
 そうした夾雑物をも含めて生成していくのが文化であることを、とくに
 大衆文化であることを、わたしは基本的に疑っていない。(p.96)

また、マイルス・デイヴィスの《ビッチェズ・ブリュー》とクリムゾンの《クリムゾン・キングの宮殿》がどちらも1969年であったことを改めて認識させられた (厳密にいえば Bitches Brew のレコーディングは1969年9月であるがリリースされたのは1970年になってから)。

また、ビートルズの《リヴォルヴァー》《サージェント・ペパーズ》《マジカル・ミステリー・ツアー》といったサイケデリック的アルバムとSFとの関連について、密接に関わっているように見えるのがサミュエル・R・ディレイニーとジェイムズ・ティプトリーJr.であるという。
ビートルズを文学的主題として取り込んだのがディレイニーの『アインシュタイン交点』であり、ティプトリーの場合は 《The Tousand Light-Years from Home》に収録されている〈Mother in the Sky with Diamonds〉というタイトルを見れば自明である (Lucy in the Sky with Diamondsのパロディ)。そしてティプトリーの母親はメアリ・ヘイスティングス・ブラッドリーという大衆小説作家であったが、その晩年の母と娘との確執と (ジェイムズ・ティプトリーはペンネームであり、ティプトリーは女性である)、ジョン・レノンとその母ジュリアとの関係性が鏡像のようであるというのは鋭い。時代のそうした横のつながりについて、いままで意識していなかったのでとても納得してしまった (ティプトリーに関しては→ブログ2012年10月13日参照)。

それから第三部の 「ロック漫画の詩学」 において萩尾望都の〈アメリカン・パイ〉が取り上げられていて、これも非常に面白かったのだがそれについては稿を改めて。


巽孝之/プログレッシヴ・ロックの哲学 (河出書房新社)
プログレッシヴ・ロックの哲学 増補決定版

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重版出来!観ました [雑記]

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ちょっとうわさのTVドラマ《重版出来!》を観ました。
黒木華・主演のコミック誌編集部のドラマで、もう第5話になっているし途中からでよくわからないんじゃないかと思ったんですが、これが面白い。
このテンポと内容とキャスト、いいですね~。もう絶賛してしまいます。

今日の話の核は、黒沢心 (黒木華) の上司である五百旗頭敬 (オダギリジョー) がいい人過ぎるのはなぜ?と心が聞いたところ、五百旗頭は社長の真似してるだけと言う。社長の久慈勝 (高田純次) が質素な生活をしているのは 「運をためる」 ためであって、しょーもないところで運を使ってしまうと肝心なときに運がやってこないという昔からよくある話。
九蓮宝燈が出たら家が火事になってしまったので、それ以後、賭け事はやめましたとか、あまりにコミックスの王道過ぎます。

五百旗頭 (いおきべ) なんてマニアックな姓を使うのは、たとえばCLAMPだったら四月一日 (わたぬき) とか、よくある手だし、それと高田純次が絶対にどこかでギャグかますんじゃないかとかハラハラワクワクするんだけど、シリアスな役柄らしくてそれはナシ。でもギャンブル嫌いな社長の姓が 「クジ」 というのはシャレなんだろうなぁ。宝くじが小道具で出てくるんだけど。

その社長の過去の回想シーンとして宮澤賢治詩集との出会いというのが出て来て、つまり若い頃、荒れていた久慈が文学に開眼したのが宮澤賢治の 「雨ニモマケズ」 だったという話。それで自分でも賢治詩集を出したという話なのだけれど、逆算すると著作権の問題とかいろいろ引っかかるところはあって、でもファンタジィと思うことにすればいいんだし、それと 「雨ニモマケズ」 というのがあまりにもベタなんだけど、それもサラッとしていてなかなかいい。
そもそも今、宮澤賢治なんてもはやあまり知られていないのかもしれないし、そういうごくシンプルなわかりやすいところから攻めるのがむしろいいんじゃないかとも思います。

宮澤賢治って、私のブログによくコメントいただいているブロガーさんのところにも書いたんですが、まぁ、自分ではエラそうなこと言っていたけれど、ご本人は結構アヴァンギャルドで、生活的には破綻している部分があった作家です。
でも、私の知っているある人が、「宮澤賢治なんて、まともな生活ができていない人で、あんなヤツは文学者の風上にも置けない」 みたいなことをマジで言っていて、それは違うでしょ、と思ったわけです。
そもそも文学者なんて昔は生活破綻者であって、ロクなもんじゃなかったわけですよ。規則正しく9時5時に仕事して、週末は健康的にテニスして、心優しきナイスな作家先生なんていうのは、最近の人畜無害な人こそ社会的な規範みたいなイメージに則ってできあがったイミテーションな虚像なのであって、昔の文士なんてレッド・ツェッペリンよりももっとメチャクチャで、宮澤賢治なんてとってもマトモなほうです。
私の祖母は、もう亡くなってしまったけれど、昔ながらの価値観を持った人で、私が小学生の頃、「この子は本ばかり読んで勉強しないで困る」 と言っていたものです。つまり本というのは小説みたいなものを指すのですが、小説を読むことは退廃で悪徳であって勉強ではないんです。本を読むということは毒を摂取すること、不埒なことであって、マトモな娯楽ではないということ。
でも時代は巡って、今はそもそも本を読む行為そのものが少なくなってきていますけれど。
ホントはさぁ。そうやって不純な本を読まなきゃ、漢字の使いかたとか文章表現って養われない。漢検なんか幾らベンキョウしても、いざというときその文字が使えなければ意味がないです。

まぁ、そんなことはどーでもいいんですが、ドラマの話に戻ると、この、よくも集めたなというアクの強い演技陣のなかで黒木華、なかなかがんばってます。
久慈が更生するきっかけとなった素浪人みたいな火野正平、カッコ良すぎるゎ。おまえは座頭市か!とか思ったりして。あと、高田純次が 「紙の本は出し続けます」 と言うところもカッコイイ!
ドラマとしては、のだめ以来のかなり面白い作りだと思います。あまり深刻なのより、こういうドラマって楽しく見れるよなぁと、もう季節を過ぎてしまったサクラの絵柄のビール飲みながら思ったことでした。


松田奈緒子/重版出来! (小学館)
重版出来! 1 (ビッグコミックス)




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イブラギモヴァのこと [音楽]

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Alina Ibragimova

ブログなんて気軽に書けばよいと思うのだけれど、最も書きたい内容に限って、より正確に書かないといけないと思ってしまったあげく、結局書けなかったりしてボツということがよくある。ごく簡単に表現するのなら、好きなものほど書きにくいのだ。

でも今回は全然まとまっていないのだけれどとりあえず経過報告として書いてしまおう。それはアリーナ・イブラギモヴァのことである。
イブラギモヴァは、以前のブログでコパチンスカヤのチャイコフスキーのコンチェルトについて書いたときに、簡単に触れたことがある。それはバルトークの無伴奏ヴァイオリンソナタについてであって、イブラギモヴァとコパチンスカヤ、2人のバルトークに対するアプローチがそれぞれ個性的であるということなのだが、つまり傾向がかなり違うというのが第一印象であった。というか、これは一種のトラップのように思えたので、そのときは曖昧なままに話題をボカシてしまったのである。

このくらいのクラスになってしまうと、どちらが上手いとかいう評価はほとんど無価値である。細かいテクニックについての比較とかならできるのかもしれないが、そうした技術至上主義のような批評には私はほとんど興味がない。
ただ、はっきり言ってしまえば、バルトークについての解釈は、私にとってはイブラギモヴァのアプローチのほうがフィットするのである。そしてそこでも書いたように、バルトークの無伴奏という曲のコアとなるのはセバスチャン・バッハの無伴奏へのリスペクトとチャレンジである。
それならイブラギモヴァのバッハの無伴奏を聴いてみようと思ったのである。

YouTubeにあったのは、2005年10月21日の武蔵野市民文化会館でのライヴ映像であるが、彼女は1985年生まれであるから、この時20歳。音楽はある程度の経験とか人生遍歴がないとその深みがわからないというのはウソである。たとえば能楽には、ある程度の年齢にならないと演じられないとされる秘曲なるものが存在するが、音楽にはそんな制限はないのである。このイブラギモヴァのバッハは、バッハが何を書いたかがリスナーに伝わってくる音楽の深奥をとらえた演奏であるように感じるが、なかなかそれを的確な言葉にすることができない。言葉による形容は虚像でありアナロジィでしかなく、音楽のボディそのものではない。むしろ言葉にすることは最初から拒否されている。なぜならそれは言葉というパーツで構成されている文章ではなく、まさに音楽だからである。

バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータは私にとって特別な作品である。それは極私的なことになるので書かないが、そんなプライヴェートなことを抜きにしても、ヴァイオリン芸術のなかでの孤高の作品であり、これを超えるものは今後もたぶん現れない。

さて、イブラギモヴァのバッハの無伴奏は、2008年~2009年に録音されたものがハイペリオン盤でリリースされている。早速これを聴いてみたのだが、私の印象では、ある程度こなれてから録音に臨んだと思われるこのCDに録音された音より、それより3~4年前の武蔵野市民文化会館でのライヴのほうがよいように思う。よいというと語弊があるがシンパシィを感じる。特にパルティータ第2番でいえばシャコンヌに違いがあるように思える。

ライヴ録音というのは録音する際に編集などないわけだから、多少の瑕疵はどうしても出て来てしまうのだが、それよりもその場の臨場感による音楽の昂揚と展開が、一種の酩酊感を引き起こす。それはその場でしか存在しないもので、会場の雑音も含めてそれが音楽としての 「二度と甦らない時」 として記録されるように思う。

もちろんCDとして発売された演奏が悪いというわけではなくて、スタジオで録音されたアドヴァンテージである緻密さ、暗騒音が極小であることから醸し出される鋭敏さ、完成度の高さは当然であると思うし、そしてシャコンヌの場合、その構築性はより堅固になっていると感じる。
ジーグは、2005年のライヴでも2008~09年のCDでもやや速くて、せかされるような前のめりになるリズム、それはバッハの意図とは異なるかもしれないようなせつなさを助長させる。これは一種の悲しみなのであろうか。ロマン派の音楽に存在するのとは異なるその悲しみのような色がイブラギモヴァをかたちづくるトーナリティなのである。

あえていえば、2005年の武蔵野市民文化会館のライヴは、その強さというか、やみくもに弾いてしまっている若さのようなものが感じられて感動するのだ。といってそれは決してがむしゃらな演奏ということではなくて、むしろ冷静で、月の光のように陰翳があって蒼白である。そしてバロックというのは歪んだ真珠という意味だが、光沢があるけれど均一ではなく撓んでいる部分がある。その、ところどころひしゃげた部分こそがバロックなのである。
ついでにいえばバッハとかバロック音楽が抽象的とか絶対的とか、あるいは厳然とした巨匠芸のバッハとかに私は与しない。バッハの無伴奏にはあまたの演奏が存在し、どれもがバッハであるが、どれもが私にとってのバッハとは限らない。

イブラギモヴァはまだ数枚しか聴いていないのだが、そのなかで傑出しているのはベートーヴェンのソナタ全集である。ピアノのセドリック・ティベルギアンとの演奏は、2009年から2010年にかけて、いずれもロンドンのヴィグモア・ホールで収録されたライヴである。
全部で11曲のベートーヴェンはこんなにも躍動的で美しいソナタだったのだろうか。あっという間に全曲を聴き通してしまえるが、ヴァイオリンとピアノとの拮抗する音の駆け引きが音楽をより生き生きとさせている。まるでフランクのソナタに似て、ピアノの存在感が大きい。

イブラギモヴァは通常のピッチだけでなくピリオド楽器での演奏や、弦楽四重奏団としての演奏もあり、弾き振りもするのだという。シューベルトやモーツァルトもあるようだが、とりあえずベートーヴェンをもう少し聴き込んでみたい。

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Alina Ibragimova/Bach: Sonatas and Partitas for Solo Violin (Hyperion)
Sonatas & Partitas for Solo Violin




Alina Ibragimova, Cedric Tiberghien/
Beethoven: Violin Sonatas Vol.1~3 (King International)
ベートーヴェン : ヴァイオリン・ソナタ全集 (Beethoven : Violin Sonatas Vol.1~3 / Alina Ibragimova , Cedric Tiberghien) [3CD Box] [輸入盤・日本語解説付]




Alina Ibragimova/Bach: Partita No.2 for Solo Violin
2005.10.21/武蔵野市民文化会館
アルマンド クーラント
https://www.youtube.com/watch?v=paBW46iYqOg
サラバンド ジーグ
https://www.youtube.com/watch?v=1d9kIXbSOd0
シャコンヌ
https://www.youtube.com/watch?v=Tezau3hlRxs
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カノープスの見える空 — 野尻抱影 [本]

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野尻抱影

東京FMの篠原ともえの番組《東京まちかど☆天文台》の話題は以前のブログに書いたことがあるが (→2014年03月03日ブログ)、今年の4月から《東京プラネタリー☆カフェ》というタイトルに変わって、でもそんなに変わらない内容で続いている。いつもホッとする時間だ。
ちょっと前だけれど4月16日と23日の2回続けて、ゲストは南波志帆で、篠原と2人でしゃべっていると、それぞれに個性が違うのだがその声の周波数がこころよい。ラジオの気持ちよさを再確認させてくれる。

番組は南波志帆のニューアルバム《meets sparkjoy》のプロモーションであるが、今回はトーレ・ヨハンソンが参加していたり、持田香織が歌詞を書いていたりと、盛り沢山な内容のアルバムだ。会話のなかで篠原が、番組のコンセプトにからめて前アルバムの〈カノープス〉という曲のことにふれていたが、その曲も土岐麻子が歌詞を書いていて、大体の傾向がつかめてきた。
声は不思議ちゃん系なのかもしれないが、やっていることは不思議ちゃんではない。

この前、書店で本を見ていたらSTANDARD BOOKSという平凡社のシリーズ本を見つけた。一種のアンソロジーというか、その著者の入門書みたいなコンセプトらしいのだが、その1冊『野尻抱影 星は周る』を買う。黒と紺の2色を使ったシンプルな装丁で、色をたくさん使ったり、大きな文字のタイトルだったりというような自己主張し過ぎな今の本では全くなくて、ごく地味で慎ましやかで、昔の本のような雰囲気に心惹かれる。それで思わず手にとってしまったのである。

野尻抱影 (1885−1977) は天文が好きだった小学生の頃に読んだことがあって、その頃の私にとって最も大切な本は全天恒星図だったのだが、それと同じようにして繰り返し読んだ本であった。それはきっと子供向けに書かれた本だったのだと思うが、野尻には星に関する本が何冊もある。だが、今回の本の解説を読んで知ったのだが、彼は天文学者ではなく、本職は研究社の編集者だったということに驚いた。

この本はあちこちから集めた星に関するごく短い文章がほとんどで、だがその文章の品のよさ、全然古くなっていない平明さに引き込まれる。土星についての一文を引用してみよう。

 土星は、この夏も南の山羊座にいて、どんよりと憂鬱なモノクルを光ら
 せている。まったくあの星の表情は昔の星占いや伝説を聞くまでもなく、
 誰の目にもグルーミーである。けれど、一度小さい望遠鏡でも向けると、
 彼はたちまち、その憂鬱さを捨てて、星の世界にもこれ一つきりの奇観
 を見せてくれる。(p.44)

各文章の最後にそれが執筆された年号が入っているのだが、1945年という日付がとても多く、それは太平洋戦争が終わる前なのか後なのか、どちらにせよ一番大変な時期である。だが、戦争の雰囲気は文章のどこからもほとんど感じられない。まるで無いわけではなく、「甥の一人も沈んだガダルカナルの海」 という表現が出てくるが、野尻にとって当時の戦争体験を自分の著書のなかに反映させることは、きっとその美学が許さなかったのだろう。

文章は古びていないのだが、今では使わないような言葉がいくつも出てきて、そのヴォキャブラリーの広さにあらためて感心する。
たとえば 「鳩羽ねずみ」 という色があるのだということを私は知らなかった。 「〜ねずみ」 という色は幾つも存在するようで、北原白秋の 「利休ねずみ」 なら聞いたことがあるが、もっとたくさんの色味の種類があるということがわかった。そうした色の選別はいつしか廃れてしまっているが、それは文化が衰退しているのとかわりない。

カノープスのことは野尻抱影のなかにも出てくる。カノープスはりゅうこつ座アルファであり、シリウスの次に明るい恒星であるが、日本から見ると高度が低いため見えにくい星である。南極老人星とも呼ばれるが、見えにくいので見ることができると幸運が訪れるとか、逆に不吉なことの前兆であるとか言われる。
野尻が最も好きだった星座はオリオンだとのことで、そのシンプルで純朴な選択にうたれるが、つまり星々の配置は地球から偶然に見た2次元的な結果でしかなくて、実際にそれらが星座を構成しているのではないのだけれど、その偶然性になんらかの意図があるのではないか、という疑念が通り過ぎる。

1945年と日付の付いている文章のなかに、野尻が望遠鏡で星空を見ているところに子どもたちと一緒に志賀さんという人がやってきたということが書かれていて、それは近所に住んでいた志賀直哉のことなのである。望遠鏡はミザールに向けてあって、それを説明しているのだが、その星への情熱のなかに1945年という時がかすめてゆく。
大佛次郎は野尻の実弟であるが、そのこともさらりと書いてあるだけだ。昨年は野尻抱影生誕130周年であったが、その記念展覧会は横浜の大佛次郎記念館で行われたということである。知らないままに過ぎてしまった。

抱影という雅号は、彼にまさにぴったりなイメージではないだろうか。影を抱くという意味のなかに、いくつもの意味が重なる。天文に対する一途な姿勢は、この小さな地球で争いごとを繰り返すことがいかに虚しいものであるかを無言で示している。


野尻抱影 星は周る (平凡社)
野尻抱影 星は周る (STANDARD BOOKS)




南波志帆/クラスメイト
https://www.youtube.com/watch?v=xmiWcg1qZAo
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コパチンスカヤのカラーエフ [音楽]

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Faradzh Karaev

ファラドシュ・カラーエフ (Faradzh Karaev, 1943-) はアゼルバイジャンの作曲家である。彼の父、カラ・カラーエフも作曲家であり、ショスタコーヴィチの弟子であった。
パトリツィア・コパチンスカヤがそのファラドシュ・カラーエフのコンチェルトを弾いているのを聴いてみた。オーケストラはアゼルバイジャン・ステート・シンフォニー・オーケストラ、指揮はラウフ・アブリャエフ、オーストリア paradino music盤である。

最初に聴いたときは、まともなヴァイオリンの音をわざと出さないようにしているのではないかと疑うようなアヴァンギャルドな奏法が冒頭から続く。オーケストラは一種のノイズのような背景として聞こえてくる。これはちょっと辛いかも、と思った。
ところがやがて、唐突にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の引用のような音が現れる。それはほんの一瞬でテーマそのものは弾かれない。だが和声とリズムでそれがわかる。テーマに続く変奏部分はメンデルスゾーンそのものだ。だとすると、一種のパロディ的な作品なのだろうか、という印象を持ってしまう。
しばらくすると今度は、オーケストラの流れとは全然関係ないようにヴィヴァルディの〈調和の霊感〉第6番のメロディが通り過ぎる。ますます謎である。だが終楽章のものすごいパッショネイトな盛り上がりとその後の官能的なヴァイオリンは、冒頭とはまるで別のような朗々とした響きの音となる。

YouTubeを探したらコパチンスカヤが弾いている同曲を見つけた。CDの音源とは異なるが、2012年の第4回カラ・カラーエフ・フェスティヴァルにおけるライヴとのことである。これで見ると、具体的にどのようにして演奏されているかがわかり、繰り返し何度も観てしまった。

第1楽章・主題なしの変奏曲 Variationen ohne Thema は、小技のオンパレードのような奏法で、わざとトリッキーを装っているように見えるが、すべては第3楽章に至るまでの伏線であることがわかってきた。それに、よく聴くと一定のパターンがあって、闇雲に奇妙な音を出しているわけではない。

第2楽章・テーマと暗示 Themen und Allüsien でヴィヴァルディが出てくる個所も、ヴァイオリン奏者のひとりが、やや離れた位置でやや訥々とした弾き方をする。別室で演奏するマーラーほどではないけれど、遠くから聞こえてくるというイメージなのだろう。
この曲におけるオーケストラは単なる伴奏にとどまらず、まさに協奏という意味での演奏を強いられる。弦は細かいさざなみのような、逆撫でした鳥の羽のようなニュアンスを持っている。重要なのは木管であって、フルート、クラリネットは持ち替えでバスフルート、バスクラリネットを用いていて、逆に金管は、ポケットトランペットのような小さい管に持ち替えていることからもわかるように、わざと金管の音を抑えて木管パートを際立たせようとする意図があるように思える。

木管が圧倒的な活躍をするのは第3楽章・4つの変奏と主題 Vier Variationen und Thema で、いままで弦が主体だったノイズのような音にフルートが加わると混沌とした表情はさらに深まって、ソロ・ヴァイオリンが繰り返し執拗に弾くパッセージに被さるようにして、鳥の声のような細かいひだとなって重なり落ちる。鳥のイメージはメシアンのようではなくて、もっと強く、まるでエリック・ドルフィの有名な〈You Don’t Know What Love Is〉の狂気に近い。
しかしその狂躁は突然静まり、その後に官能の溶暗が訪れる。そして終結部、暗いなかに郷愁のあるメロディが立ち現れるが、決して明るくはならない。この曲には 「わが母の思い出のために」 というサブタイトルが付けられている。

曲が終わるとブラボーの声のなかで、客席後部から作曲者本人が出て来て聴衆に応えている。いかにもアゼルバイジャンの古風なホールのつくりは、まるでピロスマニの映画に出てくるような風景である。
作曲者によれば第3楽章はグリーグの Heimweh がベースになっているとのことだ。Heimweh とは、抒情小曲集と呼ばれるピアノ曲 op.57の第6曲目にあたり、「郷愁」 という邦題が付いている。
あまりにもデフォルメされたグリーグで、しかしそれがカラーエフにとっての方法論なのだろう。ヴィヴァルディ、メンデルスゾーンの他にもブラームス、ベルク、そして父カラーエフの曲が引用され挿入されているとのことだ。


patricia kopathinskaja/karaev: orchestral works (paradino music)
ファラドシュ・カラーエフ:管弦楽作品集




Faradzh Karaev: Konzert für Orchester und Sologeige
https://www.youtube.com/watch?v=QFRKa5RvzG4
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