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『あしながおじさん』を読む [本]

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Jean Webster (1876−1916)

新潮文庫のStar Classics名作新訳コレクションの6月新刊はジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』。訳者は岩本正恵、カバーは作家自身のイラストをコラージュしたデザインで、カヴァー紙質も通常と違って洒落ている。
『あしながおじさん』(Jean Webster, Daddy-Long-Legs, 1912) は、ジャンル的に考えると微妙なポジションにいる。主人公の大学生活を描いているので児童文学 (少年少女向け) でもないし、一般小説とも少し違う。青春小説というのが適切な形容だろうか。これまで私は児童文学をジュヴナイルと言ってきたが、それはせいぜいローティーンまでを対象としていて、しかも最近ではジュヴナイルという言葉を使うことは一般的ではないのだそうだ。だったらこうした比較的若い読者向けの小説を何と呼ぶかというと、ヤング・アダルト・ノヴェルズとのこと。
しかし、日本ではアダルトという単語は特殊な意味を持ってしまっていて、たとえばレディース・コミックという言葉と同様で、使うのがためらわれる。こうした何でもない汎用的言葉を色づけしてしまったという点で、日本の出版業界の性向や品位がよくわかる。

まぁ、そんなDirty-Low-Levelsなことはさておいて、最近は古くからの名作の 「新訳」 が流行っているように見えるのだが、でも読み始めると、物語そのものの魅力によって、訳の違いなどどうでもよくなる。どうでもよいと感じられるのは良い翻訳ということだ。

物語の構造はとてもシンプルである。孤児院で暮らすジェルーシャ・アボットは、そこから出なければならない16歳という年齢を越えて、高校に通わせてもらっていたが、卒業間近となった頃——つまり孤児院にいることのできる期限が残り少なくなったとき、突然、彼女を大学に通わせてくれるという奇特な人があらわれる。その人はジョン・スミスという匿名しか名乗らず、ジェルーシャに姿も見せない。彼女に課せられた条件は、月に1回、ジョン・スミス氏宛に手紙を書くこと、そして作家になるべく努力をすることだというのだ。
それで物語はジェルーシャがジョン・スミス氏に綴る手紙文という形式になっている。

巻末の解説で畔柳和代は、

 受け身で弱い、古典的なヒロインに似た立場にいる彼女の言葉が、この
 物語を語っていく。(p.254)

と書く。シンデレラ・ストーリーであるのにもかかわらず、語り口が単純な1人称ではなく、手紙文というフィルターを通した叙述であることが、その視野に独特の陰影を与える。だからといってそれは、内省的で極私的な世界には下りて行かず、潑溂とした表現に終始し、ところどころで落ち込む憂鬱も一過性で閉鎖的ではない。ただそれは作者がジェルーシャに与えた性格であり、作者そのものの思考ではない。作者は重ねられたフィルターのさらに向こうにいる。

ジェルーシャは、ジョン・スミスといういかにもふざけた匿名らしい匿名を許さず、たぶんあの人かもしれないというかすかに見た足の長い人の影の連想から、彼を 「あしながおじさん」 と名づける。そして自分の名前ジェルーシャが大嫌いなので、ジュディと名乗ることにする。名前へのこだわりは『赤毛のアン』と同じだ。

 ジェルーシャはどこかのお墓に刻まれていた名前です。わたしはこの名
 前が昔から大嫌いでしたが、ジュディはかなり気にいっています。ちょ
 っとそそっかしい感じの名前ですよね。わたしとは違う女の子の名前で
 す。(p.30)

もっとも、ジェルーシャがアン・シャーリーと決定的に違うのは、ジェルーシャという名前も、アボットという苗字も、孤児院の院長がつけたもので、本当の名前は別にあったのかもしれないということである。しかし、あったのだとしても、親に捨てられたとき、その名前も同様に捨てられたのだと解釈するのなら、それは無いのと同じなのだ。だから、院長がつけたジェルーシャという名前を彼女が改変してジュディとすることは命名の手続きとして等価であり、そこに名前の持つ呪縛は存在しない。呪縛があるのだとすれば、それは孤児院という負の重荷からの呪縛である。ジェルーシャがジュディになることはメタモルフォーゼであり、ひとつの夢なのだ。

ジェルーシャは自分が孤児院で育ったことを誰にも言わずに大学での学業と寮生活を満喫する。だが彼女は、家庭での生活という過去を持たない。そして普通なら知っているはずの常識を持たない。
まず彼女は今まで知らなかった本を読んで、その空白を埋めようとする。マザー・グースや、デイビット・カッパーフィールドや、ロビンソン・クルーソーや、不思議の国のアリスや、シャーロック・ホームズを読む。
まごまごしていると、ラテン語や歴史や化学や生理学など、どんどんむずかしい大学の授業がのしかかってくるからだ。

それだけでなく、日々の生活のなかでの今まで知らなかったさまざまなこと、どのように遊ぶかとか、どのように服を選ぶかとか、そうした諸々のことに、そんなことは当然知っているという顔で対応していかなければならない。それは隠匿であり背伸びであるが、秘められた愉悦でもある。

孤児院という環境にずっと幽閉されていたジェルーシャが、町へ遊びに行くことの開放感と強烈な刺激を、そして誰にも言えないもどかしさを、彼女は手紙に書く。

 大学キャンパスの外に出るたびに、刑務所から逃げ出した囚人のような
 気分になります。この体験がわたしにとってどんなにすばらしいか、よ
 く考えずにだれかに話してしまいそうになります。猫がかばんから出そ
 うになって、あわててしっぽをつかんで引っぱり戻します。(p.48)

彼女は意欲的な努力によって、18年間の負債をどんどん返してゆく。そして、猫を隠したまま、屈託のない学生の日常に急速に溶け込んでゆく。ブロンテ姉妹を読み、その物語に夢中になりながらも、そうした閉鎖された環境へのシンパシィを持ちながらも、それを乗り越えてゆく。

ジェルーシャにとってうしなうものは何もなかった。だから過去に対する彼女の回想は直截で辛辣である。

 わたしの子ども時代は、不機嫌に延々と続く不快の連続でしたから、
 (p.126)

あるいはまた、

 大人になってどんなにたくさんの困難があったとしても、だれもが思い
 出に残るしあわせな子ども時代を過ごすべきだとわたしは思います。
 (p.132)

そして、日常の生活に慣れつつも彼女は初心を忘れない。それは決してくじけない強い精神である。

 とても大きなよろこびが、一番重要なのではありません。大切なのは、
 小さなよろこびを大いに重んじることです。おじさま、わたしはしあわ
 せの真の秘密を発見しました。それは、今を生きることです。いつまで
 も過去を後悔しつづけたり、未来に期待しつづけるのではなく、今のま
 さにこの瞬間を可能なかぎり活かすのです。(p.184)

さらに彼女は続けて、「たいていの人は、生きていません。競争しているだけです」 と書く。

ジェルーシャは、大学生活を続けていけるだけの援助を受けていることを負債だととらえ、それはいつか必ず返さなければならないのだと考える。経済的に自立することが恩義への返礼だととらえている。それは真摯で禁欲的であり、自分はあらかじめ何も与えられていなかったのだから、過剰に与えられるべき必然性はない、とする潔癖な結論に達する。決して現状に甘えてしまうことがない。
彼女は、友人たちと自分の立場の違いを、冷静に意識している。そして、「おじさま」 からの過大な援助や好意を断るのである。

 サリーとジュリアと一緒に暮らすのは、わたしのストイックな哲学には
 ひどく厳しいものがあります。ふたりとも、赤ちゃんのころからものを
 持っています。しあわせはあたりまえだと思って受け入れます。ふたり
 とも、欲しいものは世界が与えてくれて当然だと思っています。もしか
 したらほんとうにそうなのかもしれません——いずれにしても、世界は
 彼女たちに借りがあるのを知っていて、それを返しているように見えま
 す。けれども世界は、わたしには何の借りもないし、わたしは最初には
 っきりそう言われました。わたしは世界から後払いで借りることもでき
 ません。なぜなら、世界がわたしの申し入れを拒むときがいつか来るか
 らです。(p.198)

解説で畔柳が指摘するように 「ジェルーシャには戻りたい場所はなく、どこにも帰属していない」 (p.258) のだ。それはwanderer的な願望となって現れる。

 わたしには放浪に強くあこがれる心があります。地図を見ただけで、帽
 子をかぶり、傘を手に持って出発したくなります。テニソンの言うよう
 に 「死ぬ前に椰子の木と南の神殿を見ん」 です。 (p.146)

作者のジーン・ウェブスターは大学卒業後、フリーのライターをしながら何編かの小説を書いていた。大学生の頃から政治的・社会的な問題にも関心を持って行動していたが、当時のアメリカにはまだ婦人参政権はなかった。
『あしながおじさん』(1912) で有名になったが、続編の『続あしながおじさん』(Dear Enemy, 1915) の年に結婚し、しかしその翌年、産褥熱により39歳で亡くなる。そしてこの本の翻訳者である岩本正恵も、2014年に50歳で亡くなったとのことである。そのため、これは岩本の最後の訳書となった。
まだ先があったはずの死は悲しいことだが、すぐれた本はずっと読み継がれるに違いないことが唯一の救いである。

私はなぜ、この『あしながおじさん』という作品に過度な思い入れがあるのだろうか、ということを読みながらずっと考え続けていた。
それはきっと、シンデレラ・ストーリーの香りに酔いたいためでもなく、ノスタルジックな古いアメリカの描写に共感があるためでもない。それは前に引用したジェルーシャの言葉のなかにある。
「けれども世界は、わたしには何の借りもないし、わたしは最初にはっきりそう言われました」 という個所である。世界と自分との関係性のなかで、いかなる貸し借りもないこと、もし世界を神と言い換えるのならば、いかなる恩寵も存在しないこと、それが自らの現在に引き寄せて考えたとき、最も共感できる部分である。

世界と貸し借りが無いことというのは、何にも属していないということであり、それは組織にも縁故にも頼らず、孤独であることである。それは一種のアナーキーな状態である。
ジェルーシャ・アボットという名前が (家系とか伝統といった) 「現実のしがらみ」 的重さを持っていないのだとすれば、それは本来、無名であり記号に過ぎなかったのかもしれず、そうした構造も同様にアナーキーなのだ。

昨今の世界は虚偽や欺瞞ばかりだが、狡猾な甘い水の誘惑に慣れた堕落者たちは、誰もが自分たちと同じように甘い水を求めようとしていると錯覚するのである。そして狡猾さは持って生まれたもので、改心することはない。
ジェルーシャ・アボットの、元気で、くじけない、一見しなやかで無邪気かもしれない表情の影に、俗悪に屈しない、強い精神性を私は感じるのである。人は、必ずしも、朱に交わっても赤くなるわけではない。


ジーン・ウェブスター/あしながおじさん
岩本正恵・訳 (新潮社)
あしながおじさん (新潮文庫)

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コメント 14

末尾ルコ(アルベール)

拝読しながら、いろいろなものが心の中をよぎりました。この新訳は近い内に読んでみなくては。
それにしても冒頭の、児童小説、青春小説、ジュブナイル、さらにヤング・アダルト・ノヴェルズなどの呼称に関する問題は悩ましいですね。「日本だけ」という現象ではないのでしょうが、特に日本ではメディアの出鱈目な言葉遣いによって、社会に流通する言葉のニュアンスがどんどん変わってしまいます。「大事なこと」を妙な言葉で表現されたり、「大事な言葉」に「妙なニュアンス」が付与されたりと、本当にストレスが溜まる状況です。
読みたい本がいっぱいあって、つい「若い人向けに書かれた小説」へとなかなか手が伸びなくなって久しいのですが、やはり読まねばなりませんね。「子どもも読める小説」という括りで考えて、わたしはどんなものを好んでいただろうと記憶をたどると、アラン・フルニエの『グラン・モーヌ』や宮澤賢治の童話などが上がってきました。ただ、英米文学はストーリーテリングに長けているので、読み始めると止まらなくなりますね。『ジェーン・エア』なんかにもそんなところがあります。主人公が女性ですし。『あしながおじさん』の主人公は、ブロンテ姉妹も読んでいるのですね。おもしろいですね~。ともあれ、詳細なご解説、堪能させていただきました。

>昨今の世界は虚偽や欺瞞ばかりだが、狡猾な甘い水の誘惑に慣れた堕落者たちは、誰もが自分たちと同じように甘い水を求めようとしていると錯覚するのである。そして狡猾さは持って生まれたもので、改心することはない。

まったくおっしゃる通り。ストレートに心に響きました。「堕落者」・・・わたしはよく「愚劣な人間」という言葉を使いますが。社会の広さや深さにはまったく興味のない人たち、そして「自分ら以外」もすべて「その程度の人間」だと高を括っている人たち。わたしはそうした人たちとは、時には明確に戦いの意志を示さねばとも思っています。

リンクしてくださっている原田知世の動画、視聴しました。このしなやかな体のこなしは、他の日本の歌手にはなかなか見られないものですね。
夢野久作についてのご意見も、まったく同感いたします。短編も最近数作読んで、(う~む・・・)と苦笑しつつ楽しんだ次第です。

  RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-06-25 01:02) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

早速コメントをいただきありがとうございます。

ウェブスターに関しては、
フローベールの言い回しをパクるのならば、
「ジェルーシャ・アボットは私だ」 ということです。
といっても私は孤児院育ちではありませんが、
心情的に自分としか思えない部分が幾つもあります。

出版に限らず、メディアの日本語への奇妙なローカライズ化は
今に始まったことではないので、言ってもムダだとは思います。
最初はもう少しキツい言葉にしていましたが、
柔らかめな表現に改めました。(^^;)
売れない本でなければ出さない、とうそぶく出版屋を
私は信用していません。(わざと出版 「屋」 と書きます)

グラン・モーヌは知りませんでした。
今度読んでみたいと思います。
三島由紀夫はラディゲについてもフルニエについても
それぞれ意見を言っていますね。

ジェルーシャは常識的な知識を闇雲に吸収しようとしますが、
マザー・グースやロビンソン・クルーソーも読んでいない
という件のところで 「シェリーが詩人だったことも」
「ジョージ・エリオットが女性だったことも」 知らなかった
と書いていますが、今、これはもはや常識として
通用しないような気がします。
またジェルーシャは、夜は勉強をしないで本を読む時間にあてる
と言うんですが、つまり本を読むことは楽しみであって、
勉強とは違うのだ、ということです。
という常識も今では通用しないのかもしれませんが。

当時だとブロンテ姉妹は、いまほど古典ではないのだと思います。
100年ほど違いますから。

愚劣な人間というのは、言葉のニュアンスから
まだ人間の心の片鱗があるように感じますが、
狡猾な性格は、一種のサイコパスで全く良心が存在しません。
能楽でいえば般若でなく真蛇です。
そのような人間が私の周囲にいるので、つい書いてしまいました。
生まれつきDNAが狡猾なので変わることはないのです。

時をかける少女は、初めて見たとき、
稚拙な映像表現と思ってしまったのですが、
あの映画がカルト的な人気を持続しているのは
核となるものが、そこではないからなんですね。
それが後からわかってきました。
by lequiche (2017-06-25 02:36) 

青山実花

懐かしいです。
子供の頃、何度も読みました。
とはいえ、小学生の自分がこの物語を
どこまで理解していたのか(笑)。

ジュディが、
「普通の女の子が持つのと同じ過去がない」というのを
表すのに、
学友の
「私、大変なホームシックなの。あなたは大丈夫?」との
ジュディへの問いに対して、
(孤児院育ちの私に、そんなものあるわけない)
みたいな事を心で思うのを覚えています。
(たしかそんな場面、ありましたよね?←うろ覚え(笑))

新訳が出たのですね。
読みたいです^^

by 青山実花 (2017-06-25 05:17) 

足立sunny

Daddy-long-legsは、大好きな本の一つです。
大人になって原文で読みますと彼女の一言一言で自分の気持ちが揺らぎました。
by 足立sunny (2017-06-25 10:53) 

lequiche

>> 青山実花様

それはここです。素晴らしい記憶力ですね。(^^)b

 今、サリー・マクブライドがわたしの部屋に顔を出して、こう言いまし
 た。
 「ねえ、わたし、ホームシックにかかって、つらくてたまらないの。あな
 たはどう?」
 わたしはほほえんで、大丈夫、なんとか乗り切れそう、と答えました。
 少なくとも、わたしは家が恋しくなる病気とは無縁です! だって、孤
 児院が恋しくなる病気にかかった人なんて、聞いたことないですもの。
 (p.25)

私も子どもの頃にも、大人になってからも読みましたけれど、
今読むと細かいニュアンスで感心するところがあります。
それともうひとつ、
ジュディが名探偵コナンの蘭ちゃんみたいなところです。
つまり、「こいつ、ニブ過ぎるだろ!」 ということなんですが、
ジュディも蘭ちゃんもホントは気がついているのに
わざと知らないフリしてるのかもしれないという感じもあって、
これがずっと謎なんですね。
いくらなんでもウェブスターは
キャラをそんなふうには設定してなかったでしょうが、
そういうふうに穿って読むと、また面白いです。(^^)
by lequiche (2017-06-25 12:51) 

lequiche

>> 足立sunny 様

コメントありがとうございます。
おぉ、そうですか。それは素晴らしいです。
美しくて、奇跡的な小説だと思います。

実は1個所、私も気になるところがあって、
原文はどうなっているのか見てみたいんです。
by lequiche (2017-06-25 12:51) 

hatumi30331

私も足長おじさん、読みました!
大好きな一冊です。
懐かしい。
by hatumi30331 (2017-06-25 15:01) 

そらへい

私も小学生の時、学級図書を借りて読みました。
児童文学集のひとつだったと思います。
ほとんど初めて触れる小説世界は
いつまでも心に残りましたが
内容的にはシンデレラ・ストーリーが楽しかったのかも知れません。


by そらへい (2017-06-25 20:35) 

うっかりくま

泣きたくなるようなことでも笑い飛ばすジュディの
ユーモアや強靱な精神に憧れたり、明るく溌剌とした
外面に隠された秘密に触れた気がして、子供心に強い
印象を受けた覚えがあります。
手紙は、近況報告ではあっても相手を心配させない
ように極力明るく気を配って書くもの、という所を
上手く作品に取り入れているのかもしれないですね。
書くことで、精神が明確な形となり意識されていく。
御記事を読んで、深いものを読み取れていなかった事
に気付かされました。新訳を探して読みたくなります。




by うっかりくま (2017-06-25 23:55) 

lequiche

>> hatumi30331 様

そう言っていただけるとうれしいです。
決して古くならない作品だと思います。
by lequiche (2017-06-26 04:27) 

lequiche

>> そらへい様

小学生のとき読まれたのはすごいですね。
でも、小学生でも十分理解できるような
わかりやすい設定といえばそうなのかもしれません。
とても美しいハッピーエンドであることも優れています。
by lequiche (2017-06-26 04:27) 

lequiche

>> うっかりくま様

解説によれば、『あしながおじさん』の前作、
『おちゃめなパティ』 (Just Patty, 1911) には、
文章修行として架空の人宛に手紙を書く授業のシーンが
あるのだそうです。
『あしながおじさん』はその変形・発展形ですね。
手紙文には普通の文章とちょっと違う説得力とか
訴求力が必要なのかもしれません。

言葉だけですべてを描ききるという手法は
つまりそれだけ文章の構築性が堅固でなければならず、
それを、堅苦しくなく自在に操ることができたのは、
ウェブスターのなかに、書かなければならないという
創作に対する想いが強く存在したのではないかと思います。
私は、ピント外れかもしれませんが、
日本の落語に通じる言語的な美をそこに見ました。

19世紀初頭に書かれたカルトな小説として
メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』があります。
あの、映画で有名なフランケンシュタインの原作ですが、
全体が複数の登場人物による手紙文で構成されていて、
その構造自体が複雑です。
そのメアリ・シェリーの夫はパーシー・シェリー、
つまり上記の末尾ルコさんへのレスに書いた
「シェリーが詩人だったことも」 知らなかったジェルーシャ、
という形容のなかに出てくる高名な詩人のシェリーです。

このシェリー夫妻というのは
《あなたのことはそれほど》など上回るような
トンデモ夫妻なのですが、それはおくとして、
メアリ・シェリーとウェブスターとでは
全く違う傾向の小説であるのにもかかわらず、
どちらも手紙文という手法をとっているところに、
不思議な印象を持ってしまいます。
もしかすると小説作法の常套手段だったのかもしれません。
by lequiche (2017-06-26 04:27) 

sana

懐かしいですね。
深いご考察、こんなふうにまとまった形で読むことが出来るとは。
手紙ならではの精神性が感じられますね。
こういう作品は、日本の少女漫画の内容に影響を与えていると思います。

小中学生の頃、女の子はたいてい読んでいたと思います。
「あしながおじさん、読んだ?」「あれ好き、大好き」みたいな会話を何度もしました。
小学校にある児童文学全集にも入っていたような。少し簡単になっていたかもしれません。後に文庫でも読みました。
「少女小説」という言い方がありましたね。吉屋信子の作品などから指しますが、私の世代だと、そこまでは知らなくて、むしろ翻訳もののイメージ。「あしながおじさん」は「赤毛のアン」と並ぶ代表作かも。

メアリ・シェリーはちょっと興味があって、関連した映画を幾つか見たことがあります。あの天才性はすごいと思います。
当時は不倫は珍しくないというか、退廃的な18世紀から、建前と本音がきっぱり分かれる前の揺れ動く時期みたいな印象も受けます。
ちょっと空気が特殊というか‥革命と戦争のあとの動乱期であり、機械文明?が急速に発達しはじめる時期でもあり、といったところも作品に作用したのではないかと。

「あしながおじさん」の時代までには、手紙という形式は何度か使われていたのかも‥子供でも読める作品ではあまりないように思いますが。
女性作家の取る手法としては、わからないでもないです。
19世紀前半のジェイン・オースティンの手紙も面白くて、小説の書き方はその延長のような感じがしますし^^
by sana (2017-06-29 20:48) 

lequiche

>> sana 様

大変示唆に富むコメント、ありがとうございます。

児童文学全集では、少し簡単になっていたのかもしれないということ、
そう言われると納得できます。
たとえばモーリス・ルブランには南洋一郎訳がありますが、
児童文学としてかなり改訳されていて創作に近い部分もあるようです。
でも、私の初めてのルブラン体験ももちろん南洋一郎でした。
『あしながおじさん』も『赤毛のアン』も、
文章構造としてはややむずかしいですから、児童用とする場合、
ルブランなどと同様にやさしくなっていたのでしょうね。

メアリ・シェリーに関してはブログ本文には書きませんでしたが、
うっかりくまさんへのレスにも書いた通り、意識していました。
メアリ・シェリーの両親は
ウィリアム・ゴドウィンとメアリ・ウルストンクラフトですが、
父であるゴドウィンはアナーキストな政治学者であり、
ジェルーシャが 「世界との関係性において貸し借りが無い」
という認識を持っていることをアナーキーであると私が指摘したのは
まさにそこからの影響です。
また母のメアリ・ウルストンクラフトはフェミニストの先駆であり、
そうした環境のなかでメアリ・シェリーの感性が醸成された
とも言えます。

ただ一方で、たとえばブライアン・オールディスは
『フランケンシュタイン』をSFの始祖としてとらえていて、
それはジュール・ヴェルヌよりもさらに遡った時代ですし、
しかもヴェルヌよりもメアリ・シェリーのほうが
サイエンティフィックな印象があります。

 退廃的な18世紀から、建前と本音がきっぱり分かれる前の
 揺れ動く時期みたいな印象も受けます。

というのは卓見ですね。まさにそうした時代が反映されています。

オースティン、そしてメアリ・シェリーからブロンテ姉妹を経て、
ヴァージニア・ウルフへというフェミニズムの流れがありますが、
手紙文の手法というのは物事をダイレクトでなく、
紗がかかったような印象として伝えるような特質が感じられますが、
なによりウェブスターの文章は簡単に書いているように見えて
相当練られているように思います。
(ヴァージニア・ウルフをフェミニズムだけで捉えることは
かえって彼女の作品を矮小化することになると思いますが、
その根底にそれがあることは事実です。
ウルフについてはすでに少しだけ書きました。)
http://lequiche.blog.so-net.ne.jp/2016-12-03

松岡正剛は、ウェブスターのこの手法を、
アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』に喩えて、

 それをやったらその後の作家が二度とその手法を
 真似ができないほど絶妙だった。

と〈千夜千冊〉で書いています。確かにその通りです。
またトリガーとして「遠方からの何かの到来が必要」 なのであって、
それが、あしながおじさん的な想定であるとも書いていて、
与謝野晶子、尾崎翠、倉橋由美子、吉本ばななというふうに
日本のそうした系譜の作家を挙げています。
吉本ばななが一番影響を受けたのが大島弓子であることは
周知の事実です。
つまり少女マンガが小説に影響を与えている例です。

ただ、wikipediaを読んでいたら、
メアリ・シェリーの母、メアリ・ウルストンクラフトは
娘メアリを出産してすぐに産褥熱で亡くなっているのですが、
それはジーン・ウェブスターの亡くなり方と同じで、
年齢的にもほぼ同じで、
なんとなく運命的な類似性が見られるように思います。
by lequiche (2017-06-30 05:16) 

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