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《ドナウエッシンゲン音楽祭2015》を聴く [音楽]

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Mark Andre

ドナウエッシンゲン音楽祭 (Donaueschinger Musiktage) はドイツで開催されている現代音楽のイヴェントである。歴史的には1921年に始まった室内音楽祭が、第2次大戦後も何度か名称を変えながら継続されてきて、もうすぐ100年になろうとする伝統のある音楽祭である。
開催地のドナウエッシンゲンはシュヴァルツヴァルト (黒い森) にある人口2万人ほどの町である。シュヴァルツヴァルトという想像力を刺激する魅惑的な固有名詞から連想するのはメルセデスのシュトゥットガルトとかF1のホッケンハイムなど、自動車にゆかりのある地名であるが、ドナウエッシンゲンもダルムシュタットと並んで音楽の分野では有名な町である。
ナチスの強権により当初の理念と異なるプログラムを組まざるを得なかった時期もあり、その結果として戦後しばらくの間、評価を失ったが再び復活して現在に至っているとのことだ。

このドナウエッシンゲンの記録が、独NEOS盤でリリースされているのがずっと気になっていたが、その年によって枚数が異なっていたり、それにドナウエッシンゲンの基本的なポリシーは初演の曲ということになっていて、それを聴くのは一種の賭けである。いいかもしれないし、そうでないかもしれない。
以前の盤のなかにはブーレーズが振った年もあるのだが、とりあえず現時点で一番新しい2015年盤を聴いてみた。

収録されているのは6曲。作曲家は、ゲオルク・フリードリヒ・ハース、ヨハネス・ボリス・ボロウスキ、シュテファン・プリンス、マーク・アンドレ、フランチェスコ・フィリデイ、ヨアフ・パソフスキ。ん~、全然知らないや。

ざっと聴いてみたなかではマーク・アンドレの《„über“ for clarinet, orchestra and live electronics》が印象に残った。
冒頭、全然音が出て来ない。ヴォリュームを上げてみると、ノイズのようなごく小さな音が入っているのだが、音量がだんだん大きくなってきても各音は断片的で、連続した音の連なりにはなかなか達しない。ソロ楽器となっているクラリネットもなかなか本来のクラリネットの音を発さない。次第に音数が多くなってくると、パーカッシヴな音が支配的となる。そうした流れに覆いかぶさるようにして、クラリネットが音を引き摺りながらだんだんと正体を現してくる。
9’00”を過ぎてから、やや違うアプローチになり、クラリネットとオーケストラの音が増してくる。しかしオケの音は不穏だ。持続音と細かく変化するパルス的な音の錯綜。タイトルにライヴ・エレクトロニクスとあるが、そうした電気的な処理の音と生音との境目が曖昧になるように意図されている。
18’00”前後からもやもやした音が螺旋のように続き、それが終わるとクラリネットの早くて断続的なパッセージ。いつもバックグラウンドのどこかでセミが鳴いていたり鈴が鳴っているようなイメージ。22’50”あたりからの一定のリズムに乗ったクラリネットの、相変わらず断続的ないななきが繰り返される。
リズムが収まると、長く引き伸ばされた音が交錯し、27’50”頃から長いサステインを打ち倒そうとする打撃音が何度も炸裂する。
29’45”を過ぎてそれが収まると、ささやきと風、そしてその風の道をくぐもったクラリネットが通り過ぎる。強風は静まり、嵐の後の風のような、曇った音。バウンドするクラリネット。クラリネットは内省的でいつもヴェールがかかっている。それがときどき薄くなって、実像が垣間見える。
34’30”を過ぎてから音は沈黙し、ごく微細に。ほとんど停まってしまったような音楽。36’40”より後はかすかに音の残滓があるだけで、やがて音楽そのものの死となる。

現代音楽といってもその音の作り方に、ともするとステロタイプな印象を感じるときがある。それはごく私的で感覚的なもので、どこがどうだから、という理論的なものはない。アンドレのこの曲から感じられる潔癖さと鋭敏さは、そうした親密さや既視感からやや離れているが、それでいて孤絶感のような暗い表情とも違う。いまは曇り日なのだが、これから晴れるのか、それとも雨になるのかわからないような、繋留された場所・時間の不安定なここちよさのようなもの。スフォルツァンドは計算されていて、決して暴力的にならない。ほとんど音の無い部分に、なにかの音がある。

マーク・アンドレ (Mark André, 1964) はヘルムート・ラッヘンマンの弟子であり、フランス人だがドイツで作曲活動をしていて、名前のAndréのアクサンテギュがとれている。タイトルには《...als...》とか《üg》《hij》、そしてこの《über》など、略号のような短いものが多い。また、音価や音高に対する指示が厳密なのが特徴だとのことだ。
たとえば《Contrapunctus für Klavier》(1998/1999) という、やや古い作品が楽譜付きでYouTubeにあったのだが、煩雑に変わる拍子、強弱記号、3:♪といった指定など、難解過ぎる書法である。

アンドレ以外の曲では、フランチェスコ・フィリデイの《Killing Bach》が聴きやすい。キリング・バッハというタイトルは刺激的だが、一種のコラージュの積み重ねであって、ときどき懐かしい音が湧き出すように現れるのが過去の滅びた風景を幻視するようである。
ゲオルク・ハースの《Oktett für Posaunen》は脱力したように下降するトロンボーンがキモチワルくてインパクトがあるので、ぬるぬるした感触が好きな人にはたまらない曲かもしれない。

尚、アーチー・シェップに《Life at the Donaueschingen Music Festival》というジャズのアルバムがあるが、1967年のドナウエッシンゲンでのライヴ (SWF-Jazz-Session) とある。フリー・ジャズが音楽祭の一環としてセッティングされたのだろう。演奏日の1967年10月21日はジョン・コルトレーンの死後約3カ月であり、アルバムのタイトル曲〈ワン・フォー・ザ・トレーン〉(といってもこれ1曲だけなのだが) は、コルトレーンへのレクイエムという意味合いが込められている。


Donaueschinger Musiktage 2015 (NEOS)
Various: Donaueschinger Musikt




Mark Andre: „über“ for clarinet, orchestra and live electronics
https://www.youtube.com/watch?v=71So38QKPGI&t=2048s

Mark Andre: Contrapunctus für Klavier
https://www.youtube.com/watch?v=MjE6uTVrUNU
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末尾ルコ(アルベール)

聴きました!ふ~む、lequiche様のお記事を拝読しながら聴くと、より興味深く感じます。と言うか、こうした系統の現代音楽を、今初めて(なるほど)と思いながら聴いているような。あるいは、(ああ、そんな風に聴くのが一つの方法なのか)と納得させられています。もちろん芸術は、「鑑賞者が自由に感じる」というのが大原則ですが、そして比較的わたし自身はどんな芸術に対してもオープンマインドで愉しんでいるつもりなんですが、実はこの系統の現代音楽だけは、(どうかなあ)と感じ続けていました。その意味で今回のお記事は、わたしにとって「世界をさらに広げてくださった」ものと感じています。ありがとうございます。ある意味、「音そのものの魅惑」と言えますね。ふ~~む。 倉橋由美子は今読むと逆に新鮮だと思います。なかなか一般的には読まれないでしょうけどね。超然とした姿勢が好きですね。 RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2017-04-02 22:37) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

こんな長い曲をありがとうございます。
いえいえ、私の聴き方はごく素朴なシロートの感想でしかないので、
あまり参考にされたりすると困ります。(^^;)

ちなみに、ネットのCDショップの輸入元情報という紹介記事では
フィリデイとパソフスキを推しているようですが、
フィリデイは当記事にも書いたようにコラージュ的ですし、
パソフスキはミニマリズムと解説されています (そうなのかなぁ〜)。
コラージュ的な手法が嫌いというわけではないですけれど、
私の中での評価は低くなってしまいます。
またミニマリズムも千差万別ですが、う〜ん・・・・
というのが多いです。
ボロウスキ、プリンスはやや類型的、
そしてゲオルク・ハースは生理的に合わないので (笑)
消去法で一番フィットしたのがアンドレでした。
どういう構造になっているのかまで見極めていないですが、
聴いていて一番飽きませんでした。

今、立花隆の武満徹論を読んでいるところなのですが、
立花は現代音楽のほとんどはニセモノで、
そのなかからホンモノを探し出さないと、と書いています。
そういう表現はさすがにちょっとキツいですが、
ルーティン・ワークに陥るのは避けるべきだと思います。
たとえば古典的なヴァイオリン協奏曲の展開部で、
どこにでもあるような変奏をしているのは興ざめですが、
パターンとヴァリエーションで埋めようとする構成方法は
古典だけでなく現代曲にもあると思います。
発現する音楽が異なるだけです。

今の読者が文学に求めるものは 「癒やし」 ですから、
倉橋のようなスタンスだとむずかしいでしょうね。
by lequiche (2017-04-03 04:59) 

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