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あらがえないもの ― ピエール・バルーとSARAVAH [音楽]

barouh&aimee_170222.jpg
Pierre Barouh et Anouk Aimée
(www.francebleu.frの2016年12月28日付訃報より)

昨年末、ピエール・バルーが亡くなったことをこのSo-netブログのSpeakeasyさんの記事で知った。Speakeasyさんはいつも最も重要なポピュラー音楽の情報をもたらしてくれる。
私にとってのバルーは、つまりサラヴァである。そしてそのサラヴァというレーベル名は、私のなかでブリジット・フォンテーヌとともに記憶されている固有名詞だ。

Speakeasyさんのバルー逝去の記事に紹介されているジャケット写真はバルーのブレイクのきっかけとなったクロード・ルルーシュの映画《男と女》(Un homme et une femme, 1966) のサントラ盤である。
このジャケットが美しい。モノクロのスチルを何枚か組み合わせた上に斜めに入れた帯にタイトル文字だけが鈍い色の赤で un homme et une femme と配置されている。ジャケット左側は黒の縦帯で、左上にパルム・ドール/フェスティヴァル・ドゥ・カンヌとある。
年代を彷彿とさせる端正なデザインにもかかわらず、時代遅れでない。ここにもバルーの美学が現れているのではないか、と私は思う。

だが実は私は《男と女》という映画は観たことがなくて、ダバダバ歌っている映画くらいの認識しかなかった。バルーを尊敬しているにしては、ひどい認識である。
当時、バルーはこの映画の資金にしようと思い、その音楽を売り込もうとしたのだが、ルルーシュはまだ無名だったので、結局バルーが自分で出版することにした。それがサラヴァのはじまりである。この映画がヒットするなんて、バルー以外誰も予想していなかったのだろう。だが映画が大ヒットしてしまったため、音楽の権利を売らなかったことがかえって功を奏すことになった。

とりあえずこのサントラを聴いてみた。
曲数は少なく、さらに同じ曲のインストゥルメンタル・ヴァージョンと歌入りヴァージョンとがあって編曲で増やしているので、実際の曲数は5曲しかない。それですべてをまかなってしまっているのだ。
音楽を書いたのはピエール・バルーとフランシス・レイ。当時の録音はモノラルであるが、あまりのリアルさで聞こえてくることに驚く。

このサントラの中であえて1曲をあげるのならば、少しダークな〈Plus fort que nous〉を選んでしまう。今回のCDでは〈あらがえないもの〉という邦題が付けられている。
歌はピエール・バルーとニコル・クロワジールによるデュエット。ふたりが交互に歌い、最後に2人で歌うという構成。でもこの曲が手強い。歌詞がなんとなくわかるようにみえて、よくわからないというふうな、やや抽象的な言葉で綴られていく。

まず歌い出しはニコル・クロワジール。CDパンフレットでは次のような訳詞になっている (対訳:Lisa TANIと表記されている)。

 互いの経験をもってすれば
 もっと明晰に考えられたはず
 なのにふたりの警戒心はもう限界
 私たちは愛にあらがえない

 Avec notre passé pour guide
 On se devrait d’être lucide
 Mais notre méfiance est à bout
 L’amour est bien plus fort que nous

この訳詞に関してネットを探していたら、別の訳詞を複数に見つけた。そこではタイトルは 「愛は私たちより強く」 となっている。これは歌詞の L’amour est bien plus fort que nous を訳したものであるが、しかしタイトルは Plus fort que nous だけで L’amour est bien は無いから、邦題を 「あらがえないもの」 としたのだろう。
TANI訳は、各連の最終行に繰り返し出てくる 「L’amour est bien plus fort que nous」 をそれぞれに微妙に変えて訳していて、全体の言い回しも錬れていて、なかなかワザがある。

だが1個所よくわからないところがあって、それは4連目。バルーが2回目に歌う部分である。

 沼地で自由を謳歌するか
 檻の中で幸せに暮らすか
 僕らにはお構いなしに決めつける
 愛とは僕らにはあらがえないもの

 Vivre libre en un marécage
 Ou vivre heureux dans une cage
 Qu’importe il fait son choix sans nous
 L’amour est bien plus fort que nous

この沼地の部分について検索してみたら、「浅倉ノニーの〈歌物語〉2」 というブログに解説があった。

 marécage「泥地、湿地」が本義だが、「いかがわしい社会」といった
 意味でも用いられる。

とのことである。ネットのLarousseを見てみるとLittéraireな用法として、

 Bas-fond où l'on risque les compromissions et l'abaissement
 moral : Les marécages de la politique.

とある。bas-fondは浅瀬とか沼地のことだが、les bas-fonds de la sociétéという言い方があって、社会のどん底、さらに転じて最下層民のことを指すのだそうだ。compromission は、compromettre 巻き添えにする、の名詞形で 「かかわりあいになること、悪い意味での妥協」 とある。abaissementは低下である。
浅倉ノニー訳では当該個所は 「汚い世の中で自由に生きるか」 と意訳になっているけれど、とてもわかりやすい。他にもわかりにくい個所の注釈があり大変勉強になった。浅倉訳は素晴らしい。

ともかく、《男と女》という、ともすると軟弱に思われかねない映画の中の歌詞がこういう内容だなんて、さすがバルーというべきなのか、それとももっと敷衍して、さすがフランスというべきなのか、バルーの死をあらためて残念に思うばかりである。


Claude Lelouch/Un homme et une femme
sound track (日本コロムビア)
男と女 オリジナル・サウンドトラック 2016リマスター・エディション




Nicole Croisille & Pierre Barouh/Plus fort que nous
https://www.youtube.com/watch?v=1Od5IzOzGTQ
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Glamorous Sky — 中島美嘉 [音楽]

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少し前の話題になってしまいますが、02月05日の《関ジャム》は 「あなたの知らない音楽大学の世界」 というタイトルで、高嶋ちさ子さん他クラシック系のゲスト、その中には新垣隆先生もいたのですが先生の発言はあまり無くて残念。新垣先生より高嶋さんのほうが桐朋で先輩というのにも驚きました。
まぁそれはいいんですけど、番組最後の演奏では、中島美嘉の〈雪の華〉を渋谷すばる君が歌って、高嶋のオブリガートがからまる、おぉ、せつなくはかない雪の情景という感じでとてもよかったのです。すばる君は何か持ってるよなぁ。関ジャニはみんな楽器もうまいし、もっと評価されていいと思うのです。

その歌を聴いているうちに、あ、そうだ、以前は中島美嘉を随分聴いていた時期があったというのを思い出してしまって、しかもあの頃は流行だったのかアナログ・ディスクが出ていて、ジャケットの見た目で、よくアナログ盤を買っていました。こういうのも一種のジャケ買いなのかもね。
その頃は他にMISIAとかbirdとか、そんなのも聴いていて、今考えると何でそんなの聴いていたんだろうという感じもある……。若気の至りなのでしょうか。違うな。

MISIAとかbirdは消散してしまったけれど、中島美嘉だけは私の中でなんとなくまだ残っていて、つまりそれは〈Glamorous Sky〉があったからなんだろうと思う。〈Glamorous Sky〉は映画《NANA》の主題歌であり、中島は映画に主演して、そのキャラとして歌っていて、当時かなりヒットした曲とのこと。そうした 「なりきり」 パターンは蓮井朱夏とかRUIとか雨音薫なんかも同じで、音楽にそうしたコンセプトを持ち込むのは、その元を辿ればデヴィッド・ボウイのジギー・スターダストとかなんだろうと思う。

でも《NANA》の映画をDVDで観て、さらに矢沢あいの原作マンガも読んでみたんだけれど、《NANA》は私の感覚からすると、これだ! っていうポジションから微妙にズレているような気がしてノリきれなかったのです。大ヒット映画だったのかもしれないけれど、消費し尽くされてしまっているような気がするし、たとえて言えば、ドアが微かに開いていてそこからすきま風が吹きこんできているような感覚があって落ち着かない。もしNANAファンだった人がいたとしたら申し訳ないです。これはあくまで私の感覚なので。

あらためてキャストを見てみると、今では売れている俳優さんがまだ若い頃だったのか結構多彩で、キャスティングとしてはすごかったのかもしれないとも思います。でもその後、続編を宮﨑あおいが蹴ってしまったのも、役を選んで云々というよりは、そのすきま風のようなものに原因があったのではないかという気がしている。

中島美嘉はこの歌の中だけでナナであって、他の歌ではナナじゃない。それは彼女がいつも極端に髪型やファッションをかえていくのと同じ意味あいがあって、いつもその歌を歌としてだけでなく、ドラマとして歌っているのだと思う。
そして、そのうまいんだか、うまくないんだかよくわからない歌唱は、逆に誰にも真似できない中島美嘉なので、下にリンクした〈Glamorous Sky〉のライヴは音が不安定なんだけれど、ヴィジュアルが美しいので選んだのである。

それで話は突然、現在進行中のドラマ《カルテット》に跳ぶのだけれど、第5話では、カルテットとしてとてもやりがいのありそうな仕事が舞い込むのだが、それは見事なまでに幻想で、4人は現実のメチャクチャな下品さに翻弄される。4人とも変なコスプレをさせられ、きちんとした音を出すより見た目のカッコが大事、練習することよりオエライさんの接待をすることのほうが大事、あげくの果てに、一緒に演奏するはずだったピアニストがリハーサルできないとのことで、本番は音を出さずに弾くフリだけすることを強要される。
不満そうな4人が帰った後、プロデューサー浅木 (浅野和之) は 「こころざしのある3流は、4流だ」 と言い放つのだ。これはカリカチュアのように見えて、でも実は芸能ビジネスの本質をとらえている。もっと敷衍すればオシゴトなんてそのほとんどはこんなもの、というような現実に思い当たる。嫌なほどリアリティがある話だと思いながら観ていた。

でもカルテットの編成が、偶然かもしれないにせよ、1stヴァイオリンとチェロという外声が女性奏者であるということが、すでに、キャッチーな見た目を意識しているのと同じことになっているのかもしれなくて、それは浅木が心にもなくベタ褒めして彼ら4人に仕事を振ってきたのと、質的にはそんなに変わらないのだ。女性奏者の多いオーケストラがファンとの懇親会をすると人気があるというのも同じこと。つまり音楽でないところの音楽を狙っているというのもビジネスだし、だから誰もが美人ヴァイオリニストだったり美人ピアニストだったりする。

ただ、そうした音楽の本質と離れたドタバタの中に音楽的な片鱗がときどき垣間見えたような気がする。最低な仕事の後、その欲求不満を晴らそうと4人は野外でゲリラ演奏をするのだが、逆境や鬱屈したときにこそ音楽は輝くのだ。音楽で大金を稼ぐことと音楽の喜びとは必ずしも同一ではないし、豊穣なオーケストラが鳴るときよりも、稚拙なピアノの一音が心に響くものを持っているときはある。音楽は細部に宿る、と思う。そして本当に弾いているわけではないけれど、この前の満島ひかりのチェロの弾き方はかなりがんばっていた。

NHKの《SONGS》で宇多田ヒカルは、自分の立場はアメリカから見ても日本から見てもアウトサイダーであり、疎外感である、というようなことを言っていた。井上陽水が宇多田を形容する 「せつなさ」 のようなものはそこから発する感情であり、帰属できる故郷を持たない者は常にエトランジェなのであり、そしてそれはナボコフの持っていた蒼白の孤独に似る。


中島美嘉/TEARS (SMAR)
TEARS(ALL SINGLES BEST)(初回生産限定盤)(DVD付)




中島美嘉/DEARS (SMAR)
DEARS(ALL SINGLES BEST)(初回生産限定盤)(DVD付)




中島美嘉 2013 Glamorous Sky (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=eETzXDPnOd4


当ブログが数日前に100万PVを超えました。人気ブログと比較すれば微々たる数字ですが、このブログの内容からすれば健闘しているほうではないかと自画自賛してみてます。今後もよろしくお願い致します。

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ニワムシクイを聴く ― メシアン〈La fauvette des jardins〉 [音楽]

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Anatol Ugorski

一昨日からずっと、ウゴルスキの弾いたメシアンを聴いていた。
私は今までメシアンのピアノ曲は、ワーナー・クラシックス (エラート) の《Messiaen Edition》を基本としていた。このエラート盤のピアノはイヴィンヌ・ロリオである。もう1セット、メシアンがあって、それはブリリアント・クラシックスの《Messiaen Edition》である。そのピアノはビーター・ヒルである。DGの《Messiaen Complete Edition》は持っていない。発売時に、メシアンはもういいか、とパスしてしまったのである (買いたいと思ったときにはCDは無し)。

だが、各作曲家に関して 「とりあえず曲だけ揃っていればいい」 と思っていた私のそれまでの規準を打ち破ったのが児玉桃の〈ニワムシクイ〉(La fauvette des jardins) だった (ニワムシクイの収録されているECM盤《La vallée des cloches》のことはすでに書いた→2014年02月22日ブログ。尚、古いCDには 「庭のほおじろ」 とする表記もあり)。

昨日は、ずっと遅くなった新年会があって、公園に向かう道はいつの間にか多くの店に覆われ、住宅街にまでその触手を伸長していて、そのひとつの触手の先端にあたるところにあるいままで知らなかった店だった。道は祭日のためか、大変賑わっていて行き交う人と明るい照明、あってもなくてもよいのだけれど食指を誘われてしまう商品の数々で、まさにお祭りのようだった。
料理と会話はとりとめもなく流れてゆくが、スコセッシの映画《沈黙》を奥さんと一緒に観に行ったという人に対して、映画はひとりで観に行くものだと主張する人がいて面白かった。でも、このなかで、すでに2人は《沈黙》を観ているのだということのほうが、ずっと映画館に行ったことのない私にとっては印象に残った。

アナトール・ウゴルスキの《鳥のカタログ》(Catalogue d’oiseaux) は、かつてDG盤で出ていたのだが今は廉価盤パッケージに変わってしまっていて、調べたら、タワーレコード盤が出ているのに気がついた。これのほうが安いしオリジナルデザインだし、というのが購入の動機である。その最後に〈ニワムシクイ〉も入っている。
しかしウゴルスキの鳥は、ロリオのように立ち昇る音響ではなく吹きすさぶ音群であって、ときに暴力的に躍動する。刺激的だがちょっと疲れる。その打鍵はbarbaroなバルトークを連想したりする。

その後、ぼったくりバーのようなカラオケ店に行って、でもどこも街は人の波で、そこで私はふと気づいた。あ、これは 「星野君のヒント」 なのだと。「なぜ小鳥はなくか」、その解答はすでに出ている。〈この信仰のない時代の夜もすっかり冬のものだ。酔客ばかりのアスファルトの路をわれわれは騒ぎながら歩き、吉祥寺駅で別れた。〉せめてFunkyに行ったほうがよかったのかもしれない。

もう一度、立ち返って児玉桃の〈ニワムシクイ〉を聴いてみる。メシアンは確認するまでもなく沈黙のなかにある。しかしその沈黙の出生には、リチャード・パワーズが書いたように捕虜収容所で書かれた作品もあるのだ。それは妙に胸騒ぎのするようなピンクノイズを連想させる。信仰のない時代には不似合いなのかもしれない。
だからウゴルスキのような疾風怒濤も存在するべきだし、同時にその沈黙を純化させたようなクリアな児玉桃も存在するのだ。かつてロリオが弾いたそれはメシアンが示した規範であり、時代はそこから限りなく流れてきてしまっている。そういう意味からすると、メシアンはすでに過去の人なのだ。だが彼が書いた祈禱書は永遠に存在する。
児玉桃の回想するオルガンを弾くメシアン。オルガニストには世俗と隔離された秘教的なイメージがあるのかもしれない。たとえばセザール・フランクとか。
ぼったくりバーで飲んだ安ワインにアタマをやられたようになりながら、その情けないアタマで考えたことはだいたいそんなことだった。


Anatol Ugorski/Messiaen: Catalogue d’oiseaux
(Tower Records Universal Vintage Collection +plus)
http://tower.jp/item/4292757/
messiaen_catalogue_170212b.jpg

Anatol Ugorski/Messiaen: Catalogue d’oiseaux〈Le chocard des Alpes〉
https://www.youtube.com/watch?v=hcq-gnwkNUQ

Momo Kodama/ECM recordsのPV
https://www.youtube.com/watch?v=j--4Cn5EzBo
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