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マリオン・ブラウン《ジョージア・フォーンの午後》を聴く [音楽]

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Bennie Maupin & Marion Brown, 1966 (L to R)

最近は街の中の普通の書店がどんどん無くなっていると聞く。書店に限らず、小さなCDショップ (昔の言葉だとナントカ楽器店みたいなの) や、チェーン店に属さない喫茶店なども軒並み消えてゆき、コンビニやドラッグストアや、あちこちで見かける看板と外装のカフェに変わっていたりする。既知の風景が見慣れぬ風景に、まるでオセロのようにくるくると反転してしまう。

でも西荻窪の北口からすぐのところに今野書店という昔ながらの本屋さんがあって、本の並べ方とか見せ方に、きりっとした清潔感があってとても好感が持てる。あ、まだこういうちゃんとした本屋さんってあるんだ、という気持ちになる。『重版出来』に出てくる河さんのような店員さんが、きっといるのだと思う。書店とは文化なのだ。

マリオン・ブラウンに《ジョージア・フォーンの午後 (Afternoon of a Georgia Faun)》というECMのアルバムがあって、ずっと聴きたかったのだが手に入らなかった。amazonやtowerで売っていたときもあったのだが、ずっと待たされた後で 「入荷しませんでした」 となってしまう。いまだとamazonでは中古で8000円くらいしてたりする。でも偶然、比較的きれいな中古盤が、ずっと安く手に入った。

ジョージア・フォーンの午後というタイトルは、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲 (Prélude à l’après-midi d’un faune)》の英語タイトル《Prelude to the Afternoon of a Faun》のパロディである。でも、もちろんドビュッシーとは何の関係もない。

このアルバムはマリオン・ブラウンのアルバムでありながら、そのパーソネルに特徴があって、つまりアンソニー・ブラクストンとチック・コリアが〈サークル (Circle)〉という不幸な短命グループを作っていたまさにその時期の録音であるからだ。
《ジョージア・フォーンの午後》が録音されたのは1970年08月10日だが、その数日後の08月13日、19日、21日には〈サークル〉の録音が行われていてそれらは《Circling In》、《Circulus》という2枚のブルーノート盤に残されている。《Circling In》の場合はそれより5カ月ほど前の3月14日、19日、27日にもレコーディングが行われているが、その日付はコリアのソロアルバム《Now He Sings, Now He Sobs》の録音日とかぶっている。
そして《ジョージア・フォーンの午後》にはブラクストン、コリアだけでなくベニー・モウピンも参加している。モウピンはマイルスの《Bitches Brew》における悪魔のようなバスクラが印象的だ。

マリオン・ブラウンはジョン・コルトレーンの《Ascension》への参加がエポックとなっているサックス・プレイヤーであるが、アヴァンギャルドというふうに分類されてしまうけれど、その当時の典型的アヴァンギャルド・ジャズとは少し傾向が違うような気がする。
wikipediaによれば、《アセンション》の後、彼はパリに行き、印象派の絵画、アフリカ音楽、そしてエリック・サティなどに興味を持ったのだという。《ジョージア・フォーンの午後》はECMという独自の音を持つフィールドで、パリで影響され醸成された成果が反映されたのだと思ってもいい。

このアルバムで聴かれる音は、アヴァンギャルドなのかもしれないが、多分にアフリカン・ミュージックなテイストがしていて、しかもそれがプリミティヴな素朴さに傾き過ぎてしまうということがない。あくまでコントロールされた美学である。ヴィラ=ロボスのようなローカルな色彩感は無く、アフリカというイメージを持つサウンドから抽出される技法的な感覚をのみ取り入れているような感じだ。最も特徴的なのはヴォイスの使用法だろう。土俗的に捉えられがちな声の重なりが、パーカッシヴな効果音の音源のひとつのように幾つも重なる。このクリアな音は単純にマテリアルとしてのみ考えられていると思ってよい。
つまりワールド・ミュージック的なアプローチでもなく、あくまでジャズをそのルーツとしているのであって、アフリカを肯定的にとらえたサウンドといえよう。だからピーター・ゲイブリエルとかトーキング・ヘッズが提示したプリミティヴな指向とも違うし、時期的にももっと前だ。

そうしたコンセプトの中で使われているブラクストンとコリアの〈サークル〉的な音との重なりかたは、とってつけたようでなく、うまく融合しているように感じる。1曲目の〈Afternoon of a Georgia Faun〉で、ピアノの内部奏法から始まるコリアの音は《ナウ・ヒー・シングス…》の中の最終曲〈The Law of Falling and Catching Up〉の始まり方を連想させる。

私が最初に聴いたマリオン・ブラウンは《November Cotton Flower》(1979) であって、それはかつてのアヴァンギャルドの詩人的な音ではなかった。音は明快で曇りがなく、なによりも、神経質で難解という感じでは無くて、太くて強い音にメインストリームなジャズの伝統を感じてしまうほどだった。それとも《November Cotton Flower》は単にコマーシャルなアルバムに過ぎなかったのだろうか。

パリというヨーロッパ文化からの影響として、マルセル・カミュの映画のサントラという記述がある。これはアルバム《Le temps fou》を指すのだと思えるがそんな映画はなく、おそらく《Un été sauvage》なのだと思うが、しかし映画のデータには、音楽担当は Nino Ferrer となっていて、それらの関係性がよくわからない。オーネット・コールマンの《Chappaqua Suite》に似て、幻のサントラだった可能性もある。
他のアルバムも聞いてみたいと俄然思ってしまったのは、このようなあまりにも情報の不足した部分にかえって探究心を揺り動かされるものだからなのだ。


Marion Brown/Afternoon of a Georgia Faun (ECM)
Afternoon of a Georgia Faun




Marion Brown/Afternoon of a Georgia Faun
https://www.youtube.com/watch?v=VTHcYM1JN44
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バルトーク《組曲第2番》— バルトークとバックハウス [音楽]

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Zoltán Kocsis (1971/19歳の頃)

アントン・ルビンシテイン・コンペティションは1890年から1910年まで5年おきにパリで、ルビンシテイン (Anton Grigoryevich Rubinstein, 1829−1894) によって開催されたコンクールである。その1905年の回に自信を持って出場したベラ・バルトークは、第2位という結果に終わってしまう。第1位はヴィルヘルム・バックハウス。2人は共に1881年の生まれで、そのとき21歳であった。
おそらくこの結果が、ピアニストでなく作曲家で行くことをバルトークに決心させたきっかけだったのかもしれない。

昨年11月、ゾルタン・コチシュ (Zoltán Kocsis, 1952−2016) の訃報に愕然としたことを書いたが、フンガロトン盤のBartók New Seriesは彼が残してくれた美しき遺産である。そのなかから《組曲第2番》Sz34 (BB40) を聴く。SACDのシリーズ番号は6である。
組曲第2番以外の収録曲は《ルーマニア舞曲》Sz47a、《ルーマニア民族舞曲》Sz58、《舞踏組曲》Sz77で、邦題では舞曲だったり舞踏だったりするが、全てタイトル中にdanceという言葉が入っている作品である。

組曲第2番はそれらのdance曲に先行する作品で、コシュートよりは後だが、いわゆる若書きのオーケストラ作品であり、まだバルトークらしさが出ていたり出ていなかったり、という状態がかえって興味深い。そしてこの曲の作曲年代は1905~1907年、つまりルビンシテイン・コンペのあった年である。組曲は4曲で成立しているが、そのうちの3曲は1905年に書かれたという。
この曲はその後、1921年と1942年に改訂されているが、そうだとしてもごく若い頃のテイストは色濃く残されているように思う。
それが《ルーマニア舞曲》になると、6年後の1911年に書かれたためか、もう明らかにバルトークらしい音が確立されていて、その対比が際立っている。このSz47aはオーケストラ版であり、そのもととなるピアノ版 Sz43はさらに1年前の1910年であるので、つまり大雑把にいえば、このあたりから作曲家としての自覚とか自負が強くなってきたのではないだろうか。

また一連の民族的タイトルの曲は、コダーイとの民謡収集のフィールドワークの成果でもあり、しかもそれを単純に作品として取り込むのではなく、自分の作品として消化していったところにバルトークの特質がある。逆にいえば西欧伝統音楽的なフィルターで濾過されていて、純粋なフォークソングではないという見方もできる。

組曲第2番の場合、リヒャルト・シュトラウスやブラームズの影響がまだある、という世評は確かにその通りであり、また1905年にパリで出会ったというドビュッシーの影響もあると思われる。
しかし、組曲の4曲のうち、第3曲目のAndanteと第4曲目のComodoは、そうした先輩作曲家の影響の中にありながらも、ときどき独特の音が顔を出す。
バス・クラリネットのソロから始まる第3曲Andanteは、その微妙なブレンド感が面白い。旧態依然なオーケストレーションなのに、ところどころそうではない部分が混入する。だが全体としてはまだ自己のスタイルとしては確立していない、そんな感じである。

第4曲Comodoになるとオケの鳴らし方に明らかにバルトークっぽい音がする。印象としては金管はまだリヒャルト・シュトラウス風なのだが、木管がバルトークといった感じだ。しかも曲の後半に行くにしたがってだんだんとバルトーク色が強くなるような気がする。
このCDのトラックでいうと、tr01から04までが組曲第2番であるが、その後、tr05のルーマニア舞曲が始まると、明らかなバルトーク・サウンドが聞こえてきて、その落差にちょっと笑ってしまう。

ルビンシテインのコンクール出場者にバックハウスがいなかったら、きっとバルトークが1位だったろう。でもそうだったとしたらバルトークはピアニストとしての道に進み、その後のバルトークの作品は無かったかもしれない。ちょっとしたきっかけがその後の展開を全く異なったものにするのは、よくあることなのだ。


Zoltán Kocsis/Bartók: Suite No.2, Rumanian Dance etc. (Hungaroton)
Bartok New Series Suite No.2 Rumanian Dance




Zoltán Kocsis & Barnabás Kelemen/Bartók: Romanian Folk Dances
https://www.youtube.com/watch?v=XX-XJdnu1I4
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マツコの知らない世界 — 小室哲哉 [音楽]

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TBSTV《マツコの知らない世界》でマツコと小室哲哉のトークを観た。
マツコはコムロ大ブーム期にまさにシンクロしていたようで、その時代性と憧憬が会話のそこここに現れていた。「今だから語れる」 的な話は、つまりそれだけ時間が経過したから許容されることになったのだろうとも思う。
といいながらも、華原朋美のことをマツコが 「トモちゃん」 と呼んでいたのにもかかわらず、小室は 「華原さん」 と言っていたのが印象的だった。

最も売れていた時期に関してのマツコの問いに対して、「自分が大きなものを動かしているという意識はあったが、自分が作っている曲が自分自身を超えてしまった」 という形容は的を得ていてすごい。そしてマツコが 「ふと冷静になると恐怖心みたいなもの、ありました?」 と訊くと 「ええ、ずっとありました」 と答える。「時代を変えてやろうとか作ってやろうと思っていたわけではない」 とも。

ライバルとしてつんく♂を挙げ、引退を考えさせられたきっかけとして、宇多田ヒカルを聴いたときだったと言う。その小室の述懐にマツコも各々同意する。ざっと箇条書きにすると、
 
 あったらしいな!
 [まずAutomaticのPVの衝撃] ずっと低いなぁ。最後まで低い。
 生まれたときから英語というのも聞いて、これ敵わないな。
 何がAutomaticなのか。何回か詞を追っても分からなかった。
 作詞の概念を変えられてしまった。
 僕にはAutomaticというのが、まず出て来なかったので。
 出ないってこと自体、クリエイター側からすると
 「あぁ、出て来ないんだ自分は」 [と思った]。
 詞のはめ方、ラジオでの喋り方、何から何までが自由で、
 いいなぁ、うらやましいなぁ、こんな好きに喋っていいんだ。
 この業界になってから、これほどやられた感はない。

この部分を一番興味深く聞いた。
新しいな、でなく、あったらしいな!とわざわざ言ったところにその気持ちがあらわれていた。

私はコムロ・サウンドをそんなにリアルタイムで聴いていたわけではない。その頃には、そんなに興味がなかったのだと思う。だから遡って聴いていったような記憶がある。
でもなぜか『heaven’s DOOR』というバブル期の頃のディスコ雑誌がウチの書棚にあって、創刊号ではあまり垢抜けないtrfが表紙になっている。宇多田ヒカルの最初のアルバムについては、以前のブログにも書いたとおり私が最も繰り返し聴いたアルバムであるので、圧倒的に宇多田に対する記憶のほうが大きい。

この番組を観た後、時系列的にどうなっているのか、調べてみた。
シングル盤で見ると、

華原朋美   1995年10月11日 I BELIEVE
安室奈美恵  1995年10月25日 Body Feels EXIT
globe    1996年01月01日 DEPARTURES
華原朋美   1996年03月06日 I'm proud
安室奈美恵  1996年08月21日 SWEET 19 BLUES
安室奈美恵  1997年02月19日 CAN YOU CELEBRATE?
globe    1997年03月05日 FACES PLACES
浜崎あゆみ  1998年04月08日 poker face
宇多田ヒカル 1998年12月09日 Automatic/time will tell

華原、安室、globe、宇多田のなかに浜崎あゆみを加えてみたが、こうして見るとあきらかにコムロファミリーの全盛があって、それから宇多田ヒカルが出て来たことがわかる。ところが浜崎あゆみというのは、ほぼ宇多田ヒカルとかぶっていて、私はどちらかといえばコムロファミリーの同時代だったような錯覚に陥っていたのだが、ポスト・コムロファミリーの位置だったのが少し意外だった。
私の個人的な感想を言わせてもらえば、その各々の最全盛期というのはどれもごく限られた期間だったというのがわかる。つまり1993年にtrfの《EZ DO DANCE》、1994年に篠原涼子のヒットがあるにせよ、極端にいえばコムロファミリーは上記の選曲の範囲からすると1995年~1997年でしかない。
浜崎あゆみも私が最盛期と規定するのは1stシングルの《poker face》から16thの《SEASONS》までであり、とすると1998年4月から2000年6月までのわずか2年間である。思っていたより流行のサイクルというのはずっと短い。

そうした時代の変遷のなかでの宇多田の1stアルバム《First Love》が1999年3月のリリースである。しかし小室が、新しいと思った宇多田サウンドは結果として宇多田の孤高のものであり、それ以後、日本のポップスが新しい局面にシフトしていったかというと疑問である。むしろその後の展開は伝統的歌謡曲路線への先祖返りでしかなかった。それはポップス、しかも 「J-」 という地域限定的冠詞が付く以上、ある程度しかたのないさだめなのかもしれない。


マツコの世界SP/2017.01.10.
https://www.youtube.com/watch?v=c1U0GedYAqw
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