So-net無料ブログ作成
検索選択
前の3件 | -

スピルヴィルの森とドヴォルザーク [雑記]

WienKonzerthaus_170823.jpg
Wiener Konzerthaus streicherquartett

8月9日、池袋のジュンク堂で雑誌とジーン・ウルフの新刊を買った帰り、並びに丸善の池袋店ができていて、翌日開店ということでチラシを配っていた。この炎天下大変ですね、と思ったのを覚えているのだが、それから後、ずっと雨模様が続いて、今年は冷夏なのだろうか、そのほうが助かるけど、と思っているうちに8月も残り少ない。

こころかなしきときはおもひを野に捨てよ、と尾﨑翠は書いたが、捨てるほどの野原もないので、そういうときはセンチメンタルな音楽でも聴くのがいいのかもしれないと思うのである。
この前の《ブラタモリ》は長瀞だったのだが、長瀞といって思い出すのは中学生の頃の遠足の記憶ではなくて (その微かな記憶もあるのだけれど)、大塚愛の金魚花火だったりする。それはしんとして暗い。
野原だったらJalouseだけで消えてしまったLのことを私は思い浮かべるが、あのPVは野原というより森で、しかも単なる暗喩に過ぎない。森のなかが暗いことは同じだけれど (L: ラファエル・ラナデールについては→2011年07月19日ブログ)。

センチメンタルの王道は荒木経惟でもなくて、とりあえず私にとってはドヴォルザークの弦楽四重奏曲《アメリカ》である。いつも還って行く原初的記憶のなかの曲のひとつのような気がする。
でも、前にも書いたのだけれど、音楽というのは最初に聴いた演奏が深く刷り込まれてしまうことが多くて、たまたまあった東京クァルテット盤で聴いたら、なんとなくだるくて眠いのだ。私の最初の《アメリカ》は、おそらくウィーン・コンツェルトハウスのレコードのはずだが、確信が持てない。

尾崎翠を初めて知ったのはたぶん川又千秋の紹介記事によるものだったと思うが、同様な印象を松岡正剛も書いている。それは千夜千冊の0424夜で、花田清輝が尾﨑翠との引き合いに安部公房の 「デンドロカカリヤ」 を比較対象として選んでいたことに対して、

 そこが花田清輝にしてわからなかったのは、この時代、まだ少女マンガ
 というものが爆発していずに、花田は竹宮恵子や萩尾望都や大島弓子が
 実のところは尾崎翠の末裔であることを知る由もなかったからである。
 これは大目に見てあげたい。

というのだが、それは無理、と思わず笑ってしまった。このときの松岡の批評対象は創樹社版全集で、その後、筑摩書房版全集も出たので尾崎のカルト性は薄まった (尾﨑翠については→2013年11月06日ブログ。今回の記事はこの日の記事の焼き直しみたいなものです)。

ドヴォルザークは《アメリカ》を1893年6月、アイオワ州スピルヴィルのチェコ人居住区で書いたとされる。私はいつもこの曲を聴くとアメリカの夜のハイウェイとか摩天楼とかラスベガスのネオンのような光景を思い浮かべてしまうことを以前のブログに書いたが (→2012年02月01日ブログ)、ドヴォルザークが作曲した頃にはもちろんまだハイウェイなどは存在していなかった。

全音のEulenburg版のスコアには、第3楽章21~28小節のヴァイオリン主題はスピルヴィルの森で聞いた鳥の歌にもとづいていて、それはアカフウキンチョウなのだと書かれている。突然、ドヴォルザークがメシアンみたいに感じられてきて面白い。

第1楽章は前奏2小節に続いてヴィオラが第1主題を弾く。すぐに繰り返す1stヴァイオリン。そのとき、下を支えるチェロのピチカートが心地よい。f、g、a、c、dというペンタトニックの主題と、いつもは目立たない内声のヴィオラの柔らかい音色がその心地よさの源泉である。
ペンタトニックの使用はアメリカ先住民族や黒人などのプリミティヴな音楽へのリスペクトであるとともに、同様にプリミティヴなチェコや東欧の素朴な音楽への郷愁でもある。
17小節目からチェロ、ヴィオラ、2nd、1stと、同じフレーズを1小節毎に受け渡しながら高音楽器へと上がっていく流れなどに、つい私はハイウェイのイメージを重ねてしまうのだ。

曲は63小節で繰り返し記号があり、3小節目へ戻るのだが、その直前のe-c-a-c-e、e-c-a-c-eという1stヴァオリンによる繰り返しには翳ったニュアンスがあり、最初に戻ると瞬間的に違和感が残る。でも、これは64小節目 (6) 以降につながっている音だと考えれば納得できる。
それに、その少し前の58小節目の2ndとヴィオラによるd、f♯、a♯、g♮、b♮、f♯、a♮、dという音がすでに違和感の感じられる前哨である。

などと書いていると、もっとだらっとして聴けば良いのに、とニワムスクイが同情をこめて鳴くのだ。昔の詩人なら、ああかけすが鳴いてやかましい、と簡単に言い捨てるのに違いない。


ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団/ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲アメリカ・他
(コロムビアミュージックエンタテインメント)
ドヴォルザーク:アメリカ/ハイドン:日の出、他




Dover Quartet/Dovorak: America, 1st movement
https://www.youtube.com/watch?v=6piTRGlSzDg

L /Jalouse [Clip Officiel]
https://www.youtube.com/watch?v=XAqpJfHCwSs
nice!(34)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

立花隆『武満徹・音楽創造への旅』を読む・2 [本]

takiguchi&breton_170818.jpg
瀧口修造とアンドレ・ブルトン (1958)

立花隆『武満徹・音楽創造への旅』に関する感想のつづきである。
(1は→2017年05月11日ブログ) だが、つづきであってつづきではない。

この本の成立過程は、1にも書いたように、立花が武満に、これまでの彼の歴史を訊ねるというかたちで行われたインタヴューを元にしている。それはどんどん溜まるカードのように堆積し、ひとつひとつはそれぞれの輝きを持っているが、関連性はない。すべてが揃ったところで、それを整理していけば武満の伝記ができあがる、というヴィジョンがあったのだろうか。それが完遂されないうちに突然、武満は亡くなってしまった。そのため本の後半である第II部はさらにサンプリング度を増し、カードはより多く堆積した。そしてそのまま、時間が経ってしまったのだ。

しかしそれで終わりにしてしまったのでは、全てのカードが死んでしまう。だから、順不同で未整理であっても、それらをすべて開示しようと立花は思ったのである。これは貴重なデータであり、それをもとにして、誰か武満論を書く人がいてもよいのではないか、そしてその際のデータとして使える部分があるのではないか、ということであると思う。したがって立花の文章に構築性が無いという批判はあたらない。

ただ、そうしたものであるからということだけでなく、語られている内容がすべて真実であるかどうかはわからない。本人が言った話だとしても記憶違いもあるかもしれないし、実際に武満の記憶違いは幾つか確実に散見される (したがって武満の多くの著作のなかの、過去の記憶を記述した部分も同様にすべてを信用することはできない)。
ある日突然、武満のところへ黛敏郎がピアノを送ってきたという話も、美談として伝えられるが (p.199)、黛に言わせればそんなことはないのだという。そんなことはないのだとしても、当時、ピアノがないと不便だろうから送ったなどということは、今考えるよりも大変な好意だとは思うが、脚色が強くなり過ぎていたことは否めない。
また黛自身は、ピアノが1台余っていたから送ったのだ、と言っているがそれは真実かどうかわからない。たぶんそれは黛の照れであって、武満を思う心が感じられる話である。

思わずカードという比喩を使ってしまったが、それはつまりエピソードの集積なのであって、面白い話には事欠かない。だがそれらが集積した結果が示されていないのが (というか示そうとはしなかったのだが) 物足りないといえば物足りないのだが、すべてはマテリアルであり並列であることに意味があると思えばそう思えなくもない。
ただ、そうした話題はTVのクイズ番組の問題と解答みたいなものであって、TVをオフすると同時に忘れてしまうように、実体的な印象に乏しい。

でも、とりあえず印象に残ったエピソードだけ幾つか列挙してみよう。

まず武満には初期の音楽的体験としての古典派やロマン派といった西欧伝統音楽への入れ込みというのが無く、最初から現代音楽だったこと (p.317)。それはたしかに少し特異な音楽遍歴かもしれない。

ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトはジャズ畑だけでなく、武満にとっても非常に影響を与えた。武満は非常に早い時期にこの概念を知ったという。1961年、来日したフォークグループ、キングストン・トリオのベーシストが武満にリディアン・クロマティックの原稿コピーを置いていったというのだ (p.366)。武満は後年、1988年6月号の『へるめす』でラッセルと対談をしているというが未読である。
パントーナリティとアトーナリティについて (p.369) は、船山隆の武満論に関する記事ですでに周知のことであったが、船山の解説のほうがこの件については詳しいので繰り返さない (船山隆の武満論については→2014年07月16日ブログ)。
また、当然ながらジャズシーンにおいても繰り返し言及されるシステムであるが、ビル・エヴァンスのラッセル・オーケストラに関するアプローチのこともすでに書いた (→2014年10月09日ブログ)。

そしてジャズのインプロヴィゼーションに関しての武満の言及として、

 ジャズの即興演奏が即興演奏といいながら、一時期、単にコードをルー
 チンにパラフレーズするだけの慣用句の積み重ねになってしまっていた
 んです。どんな曲であろうと、コードさえ同じなら、同じようなことを
 やってしまう。(p.371)

とあるが、これはマイク・モラスキーの記事のなかでも取り上げた通りである (→2017年08月10日ブログ)。リー・コニッツはそうしたストック・フレーズは真のインプロヴィゼーションではないと言ったが、しかし全く無から生じるインプロヴィゼーションというのはあり得ないはずである。手クセとして刷り込まれているフレーズはたとえ意識が混濁していても演奏することが可能なのはチャーリー・パーカーの逸話でも有名であるし、それはシュルレアリスムの自動筆記という手法があり得るのかという問題とも通底するはずだ。ネコがピアノの鍵盤の上を歩いたらそれはインプロヴィゼーションとなるか、ということを確か山下洋輔が書いていたが、どこに書いてあったのか忘れてしまった。

ジョン・ケージが初めて日本に紹介されたのは1961年8月、大阪の御堂会館における二十世紀音楽研究所の第4回現代音楽祭においてであったという (p.395)。
武満はケージから大きな影響を受けたが、でも音楽的には一致しないし、ケージは作品としては面白くないとも言っている (p.428)。対してケージは 「武満は 「美」 に関心を持ちすぎている」 と反撃していたとのことだ (p.429)。ケージと鈴木大拙についての交流と影響についての言及もあるが (p.446)、今福龍太『書物変身譚』において私にはすでに既知のことであった (→2014年09月15日ブログ)。
ケージについてはあまりに多くの文献等があるのでその全容を理解するのは困難であるが、音楽というよりイヴェント/パフォーマンスであることも多く、そのコンセプトが優先されてしまっている傾向があると思われる。それこそがケージといえばそれまでであるが。

ロシア (当時のソ連) の作曲家のオーケストレーションに関する勉強の話は面白かった。シュニトケやグバイドゥーリナは、あの執拗で威圧的な検閲のなかでどうやってオーケストレーションを習得したのかというと、それは映画音楽を書いたからだというのである。当時のソ連ではジダーノフ批判による不可解な弾圧があり、ショスタコーヴィチなどがそれに苦吟し対抗したのは有名な話である。映画に関しても当局の検閲があったのだが、映画音楽に関する検閲はなかったのだそうで、だからどんな大胆な実験をしてもよかったのだというのである (p.462)。

《ノヴェンバー・ステップス》で琵琶を弾いた鶴田錦史 (1911-1995) が女性であったという話は、知らなかったのでいまさらながらびっくりした。鶴田は資産家で亀戸駅前でナイトクラブを経営していたが、武満の音楽にのめり込み、その結果ほとんど資産を無くしてしまったのだという (p.480)。鶴田の数奇ともいえる生涯を追った佐宮圭『さわり』(2011) という本もあるが未読である。

と書いていけばきりがないのだが、つまりそうした数々の逸話は立花によって引き出された (言葉は悪いが) 一種の週刊誌的話題であって、その面白さは限りないが、音楽そのものではなくその周囲をぐるぐる回っているエピソードのように感じられる。

音楽的な話題で興味をひかれたのは《鳥は星形の庭に降りる》(1977) における、星形を象徴する5つの音、C♯、F♭、F♯、A♭、B♯についての解説である (p.614)。この5音は武満の創案した独自のペンタトニック (p.60) なのだそうだが、真ん中のF♯は核音 (ヌクレア) で、それは半音 (セミトーン) で考えたオクターヴの中央に位置する音なのである。
武満は《鳥は星形の庭に降りる》について 「私の内に突然顕れる不定形な情動の縁、夢の縁 [へり] を透視したいと思う」 という (p.656)。そしてケチャックやターラについて言及する。

《ノヴェンバー・ステップス》以後、武満はむしろ西欧伝統音楽への回帰のような、いわゆる偶然性とかエスニックな楽器の使用からはむしろ離れるような伝統への回帰ともいえる傾向が見られたが、ずっと民族的なものへの関心は持続し、たとえばガムランを聴いたときのショックを語っている。それは響きの明るさと官能性を持っていて、なぜなら彼らは神を持つ民族だからであって、対して日本の音楽は神を持たない民族であるという思いを持つ (p.540)。
一方で、晩年の武満はスクエアな西欧伝統音楽に開眼し、ブラームスやフォーレ、モーツァルトを見つめ直している (p.605、p.664、p.742)。西洋音楽、日本の音楽、そして日本以外のアジアの音楽、そうしたなかで武満の心は揺れていたように思える。
武満にとって《ノヴェンバー・ステップス》はそのピークだったのだろうか。その後の作品において技法的な、いわゆる方法論は深化する。しかし挑戦ということでいうのならば、《ノヴェンバー・ステップス》の成功以降、武満は追う立場から追われる立場に変化した。名声を得たかわりに何でも試行できる精神性はより自由になったように見えながら、実は束縛が存在する。

しかし、こうして辿ってきて何か私のなかでひっかかっているものがあって、それは瀧口修造のことである。瀧口に対して武満は、父親であるかのような信頼感を抱いていたというが、しかし具体的な2人の関連性についての話題はこの本にはほとんどない。
武満は瀧口からピエール・ブーレーズの名前を知ったという (p.116)。それはその頃の日本においては突出した尖鋭的情報であったはずだ。

《マージナリア》(1976) は瀧口の 「余白に書く」 (marginalia) に連動した武満の作品であるが、瀧口は晩年、マスメディアを対象とした評論的な文章を書かなくなり、ごく小さなmarginalia的な創作に終始したのだという。そこに瀧口の世相への批判と対抗の精神を感じる。
でありながら瀧口の、正面切った音楽に対する発言は少ない。それはなぜなのだろうか。アンドレ・ブルトンはシュルレアリスム運動のなかで、音楽のポジションをほとんど認めなかった。それは単純に音楽が嫌いとか苦手とかではなくて、もっと深い意味があったように思える。排除したのではなく、取り入れることができなかったように私には思えるのだが、これは仮説の端緒であり、私の思考は常に演繹的であり、まだ具体的な姿を持たない。

瀧口の全集『コレクション瀧口修造』発刊時の販促パンフレットがあって、そのなかに1958年、ブルトンを訪問した瀧口が、ブルトンの書斎で2人で話している写真がある。そこから醸し出されるのは静謐の予感だけで音楽はない。

     *

さて、今回も河野悦子からのオマケの誤植チェックであるが、734ページ下段のノド側に、行が版面より1行ハミ出している。誤植とかなんとかいう範疇を越えていて、この苦しまぎれさは結構笑える。私のは第1刷だがその後、修正された可能性は、たぶんないでしょうね。


立花隆/武満徹・音楽創造への旅 (文藝春秋)
武満徹・音楽創造への旅

nice!(82)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

humide あるいは大人になったパソコン ― 宇多田ヒカル・インタヴュー [本]

utada_170815.jpg
宇多田ヒカルwebsiteより

ライダースジャケットというのは本来、バイクを乗るときのためのハードな服だったはずなのだが、どんどんアレンジされてファッションアイテムのひとつと変化してしまった。それは軍用であったトレンチコートがほとんどレディースファッションとなってしまったのに似ている。
『ROCKIN’ON JAPAN』今月号の表紙を飾るAcneのライダースを着た宇多田ヒカルは、でもメンズライクとレディースライクの中間あたりにとどまっていて、その黒一色で限定された禁欲のなかに多彩な色を秘めている。

渋谷陽一は今回のインタヴューをオファーするのに、宇多田に手紙を書いたのだという。メールではなくて手紙というところに意味がある。

2人の話はアルバム《Fantôme》を中心に展開するが、母親である藤圭子の死とその前後について、渋谷の聞き方は的確で、それでいて節制されていてこころよい。
母親の死があり、そして自分の結婚・出産について、そして休んでいた間のこと、再び音楽を作らなくちゃ、と自覚したことなど、それらのことが明らかにされていく。いつか母親にそういうことが起こるのではないかという予感をずっと持ち続けていたことがさらりと語られるが、その持続したままの不安感を思うとそれはとても辛く、心が曇ったままであるはずだ。

渋谷は《Fantôme》がリリースされたとき、業界的には地味という評価があったけれどそれは違うのでは、と思っていたし、リスナーのほうが正しく宇多田のメッセージを感じ取ったというが、一聴、派手さがないことがすなわち地味という感覚でしか受け取れないというのは、音楽をどのあたりの層で受け取っているかによるのだ。ほんの表層でしかないのか、もっとずっと深層のところまで聴こうとするのか、それはポップキャンディのような音楽だけを聴いていたのではわからない。

話のなかでとりあげられている〈真夏の通り雨〉はやはり存在しなくなった母を最も意識した内容であるし、そしてリードの部分で渋谷によって語られているように、いままでの歌詞のなかの二人称の 「君」 が 「あなた」 にかわったこと、それが重要であり、宇多田にとっての母の死の重さをあらわしているという。
渋谷はいままでの宇多田の曲との相違として、いままでの曲は乾いていた砂漠のような印象でシュールだったのだけれど、それが森のなかのような湿り気のある曲想になっていると突く。

曲想に湿度/生気があるということはとても共感できる部分で、私の感覚ではそれはwetとは異なりフランス語でいうhumide (ユミド) なイメージで、豊潤さと濃密さを秘めている。それは黒のなかに最も多彩な色彩が内在していることに等しい。その湿り気と日本語との親和性についても宇多田は熟知しているようだ。

また渋谷がKOHHの参加について、歌詞の内容を宇多田がある程度ディレクションしたのかと訊いたのに対し、それは無いのだと宇多田は答えている。何も言わずにおまかせにして、でもそのように寄り添ってくれた歌詞が出て来たことがうれしいと彼女はいう。
宇多田は休んでいる間の日常的な生活のなかで、たとえば男声の歌を歌うのが声域も広くて発声練習になるなどと言っているが、フランク・オーシャンいいねえ、と渋谷がいうように、その音楽的嗜好の延長線上にKOHHを選択したのだとも思える。

渋谷は宇多田の才能がいままでAIのように動いていたのだけれど、そのAIが心を持ったというのだが、それに対して宇多田は 「パソコンも大人になったというか」 と切り返しているが、パソコンという言葉から私が連想したのは、全く違った意味ではあるのだけれど『ちょびっツ』のそれであった。ごく日本的な家屋のなかに張り巡らされた高度な配線と少女のかたちをしたパソコン。それは未来への啓示でもあり皮肉でもあったが、パソコンに哀しみの表情のあることが胸をうつ。それが乾いた不完全なものであったとしても。

このところ、夏だというのに雨続きだ。渋谷は〈真夏の通り雨〉を何度も聴いたというが、夏がさらっていった命は、しかし忘却とはならずに心にとどまるのか、それともそれもそのうち風化してしまうのか、どちらにしても雨はすべてを洗い流す。

(宇多田のアルバム《Fantôme》についての拙文は→2016年10月01日ブログ)


ロッキング・オン・ジャパン 2017年09月号 (ロッキングオン)
ロッキング・オン・ジャパン 2017年 09 月号 [雑誌]




宇多田ヒカル/Fantôme (Universal Music)
Fantôme




宇多田ヒカル/忘却 featuring KOHH
https://www.youtube.com/watch?v=SmaeIlqqNCM

宇多田ヒカル/真夏の通り雨
https://www.youtube.com/watch?v=f_M3V4C8nWY

宇多田ヒカル/Forevermore
https://www.youtube.com/watch?v=sLlYBsZSAmU

宇多田ヒカル/花束を君に
https://www.youtube.com/watch?v=yCZFof7Y0tQ

宇多田ヒカル/二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎
https://www.youtube.com/watch?v=UPdlfIhzPEo
nice!(82)  コメント(10) 
共通テーマ:音楽
前の3件 | -