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裏返しのオメラス — アーシュラ・K・ル=グィン [本]

LeGuin_180219.jpg
Ursula K. Le Guin (朝日新聞DIGITALより)

『空飛び猫』(Catwings, 1988) というタイトルがあることからもわかるように、アーシュラ・K・ル=グィンはきっと猫が好きだったんだろうなあと思う。私のこれまでのブログ記事のなかのル=グィンの写真も、猫と一緒なのがあることからもそれはわかるだろうと思う。
この猫好きの作家について、朝日新聞2月18日付読書欄で小谷真理の記事を読んで、あらためてこの作家の指し示すものの深さを知るのである。

ル=グィンはそのエッセイのなかで自分のことを 「わたしは男です」 と自己紹介し、「この世は結局男を評価する基準しかないから、みんな男として評価されるし、女はその基準では二流の男なのよ、どんなすごい女でもね」 と書いているという。
それはアリス・ブラッドリーがジェイムズ・ティプトリー・Jr.という男性名のペンネームを用いたのと同じ意味あいであり、古くはジョージ・エリオットもジョルジュ・サンドも同じである。ジョージ・エリオットの頃などはそもそもフェミニズム以前であり、女が小説を書くことなどとんでもないという世間状況だったのに違いない (ティプトリーについては→2012年10月13日ブログを参照)。
ル=グィンが『闇の左手』(The Left Hand of Darkness, 1969) で両性具有の人類という設定をしたのも、性的な差別・偏見に対するアンチテーゼであり、そして闇と光という対比は『影との戦い』(A Wizard of Earthsea, 1968) から始まるゲド戦記シリーズのテーマに通底しているが、それは男と女という対比とは考えを異にしていると私は思う。

さて、小谷の紹介するル=グィンのいくつかの作品のなかで重要なのが 「オメラスから歩み去る人々」 (The Ones Who Walk Away from Omelas, 1973) である。ごく短く短編というより掌編であるが、その描くイメージは明確である。
オメラスという理想郷があり、そこでは全ての人々が平和に楽しく暮らしている。しかしその都市にある地下室にひとりの子どもが幽閉されている。子どもは裸で、貧しい食事しか与えられておらず、部屋は糞尿だらけで何の希望もない。子どもは外に出ることができない。なぜならその子どもがそうして幽閉されていることが、オメラスという都市を支えているからなのだ。子どもを地下室から出して自由な環境に解き放そうとしたら、オメラスは崩壊する。
どうしてオメラスがそういうシステムになっているのかをル=グィンは書かない。だがオメラスに住む人々は大人になる頃にその事実を知らされる。多くの人々は、ああそういうものなのかと考え、でもオメラスという理想郷に戻ってゆく。だがごくまれに、そうしたオメラスから歩み去る人々がいる。オメラスの外は厳しい自然があるかもしれないし、いままでのような生活を望むことは無理なのかもしれない。

この作品はマイケル・サンデルによって引用された。サンデルの提起もまた明快であり、「一人を殺せば五人が助かる状況があったとしたら、あなたはその一人を殺すべきか?」 というものである。これは提起である。サンデルの提起はもっと拡大解釈すれば、たとえばバリー・コリンズの『審判』などにも通じる思考である。そしてル=グィンの示しているものは寓話である (当初、ル=グィンの表現は思想的乃至は政治的過ぎるという批判もあったようだ)。

オメラスという単語は、en.wikiによれば車のミラーに映った 「Salem, Oregon」 という文字だったという。鏡像となった 「Salem, O」 を後ろから読めば Omelas となるからだ。今、それを読んで、う~んそうなのか、とちょっと納得できないでいた。
私は Omelas は Salome のアナグラムだと思っていたのである。サロメはもちろん、あのヨハネの首を求めたサロメであり、ティツィアーノ、クラナッハ (父) などを経てオスカー・ワイルド/オーブリー・ビアズリーに至るサロメのことである。以下、マルコ福音書 (ja.wiki) から引用すると、

 斯てイエスの名顯れたれば、ヘロデ王ききて言ふ『バプテスマのヨハネ、
 死人の中より甦へりたり。この故に此等の能力その中に働くなり』或人
 は『エリヤなり』といひ、或人は『預言者、いにしへの預言者のごとき
 者なり』といふ。ヘロデ聞きて言ふ『わが首斬りしヨハネ、かれ甦へり
 たるなり』ヘロデ先にその娶りたる己が兄弟ピリポの妻ヘロデヤの爲に、
 みづから人を遣し、ヨハネを捕へて獄に繋げり。ヨハネ、ヘロデに『そ
 の兄弟の妻を納るるは宣しからず』と言へるに因る。ヘロデヤ、ヨハネ
 を怨みて殺さんと思へど能はず。それはヘロデ、ヨハネの義にして聖な
 る人たるを知りて、之を畏れ、之を護り、且つその教をききて、大に惱
 みつつも、なほ喜びて聽きたる故なり。然るに機よき日來れり。ヘロデ
 己が誕生日に、大臣・將校・ガリラヤの貴人たちを招きて饗宴せしに、
 かのヘロデヤの娘いり來りて、舞をまひ、ヘロデと其の席に列れる者と
 を喜ばしむ。王、少女に言ふ『何にても欲しく思ふものを求めよ、我あ
 たへん』また誓ひて言ふ『なんぢ求めば、我が國の半までも與へん』娘
 いでて母にいふ『何を求むべきか』母にいふ『バプテスマのヨハネの首
 を』娘ただちに急ぎて王の許に入りきたり、求めて言ふ『ねがはくは、
 バプテスマのヨハネの首を盆に載せて速かに賜はれ』王いたく憂ひたれ
 ど、その誓と席に在る者とに對して拒むことを好まず、直ちに衞兵を遣
 し、之にヨハネの首を持ち來ることを命ず。衞兵ゆきて獄にて、ヨハネ
 を首斬り、その首を盆にのせ、持ち來りて少女に與ふ、少女これを母に
 與ふ。ヨハネの弟子たち聞きて來り、その屍體を取りて墓に納めたり。
 (マルコ傳福音書6:14-29)

口語訳も併記すると、

 ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校
 やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘ
 ロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜
 ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あ
 なたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあ
 げよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願
 いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答
 えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐ
 に、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうござい
 ます」。王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たち
 の手前、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで、王はすぐに
 衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行
 き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女
 はそれを母にわたした。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体
 を引き取りにきて、墓に納めた。

サロメの場合は、簡単に言ってしまえばたったひとりの少女のわがままで、でも王は、何でもかなえると言った手前、しかたがないから首をはねてしまったという結果なのであるが、これをうがった考え方で見れば、ではひとりのわがままなら 「とんでもないこと」 と言ってしまえるが、オメラスをそれになぞらえば、大多数の意向が死を望むのなのならひとりの死くらいは許されるという論理ともとれる。これは詭弁なのだろうか。それはアリストテレスにでも聞いてみなければわからない。

尚、同じように 「首を欲しがる女」 ということで見れば、クラナッハにはユディトを描いた作品があるが、バルトークが《青髯公の城》において、青髯のことをまだ何も知らない妻に同じ名前のユディト (Judith) を設定したのは、そのバラージュの台本のもとがメーテルリンクだとはいえ、不思議な感じというか、意図したようにも思えるのである。

(聖書文語訳はwikisource.orgを使用したが、旧漢字はそのままに、句読点は岩波文庫版訳に揃えた)


アーシュラ・K・ル・グィン/風の十二方位 (早川書房)
風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

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Keepnews Collection について [音楽]

keepnews_180214.jpg
(L to R) Orrin Keepnews, Scott LaFaro, Bill Evans, Paul Motian,
at the Village Vanguard, 1961

リヴァーサイド盤の《Portrait in Jazz》はビル・エヴァンスとスコット・ラファロの最初の邂逅を記録したアルバムとして有名である。何度も再発されている人気アルバムであるが、最近リリースされているCDでは別テイクが増えているので、Keepnews Collectionというシリーズで出ている1枚を聴いてみた。
24bitリマスタリングとあり、〈Come Rain or Come Shine〉(降っても晴れても) は本テイクの5と別テイクの6、〈Autumn Leaves〉(枯葉) は本テイク (テイク数不明) とモノラルの別テイク9、そして〈Blue in Green〉は本テイク3と別テイク1と2が収録されている。別テイク4曲が後ろにまとめられているのは好感が持てる。

オリン・キープニュース (Orrin Keepnews, 1923-2015) はリヴァーサイド・レコードの共同創立者であり、当時のジャズ・レコーディングに貢献した敏腕プロデューサーであるが、このアルバムの録音は1959年12月28日、プロデューサーはキープニュース、Recorded by Jack HIggins at Reeves Sound Studios, New York Cityとある。そしてリイシューのプロデュースもキープニュースである。

最初の曲は〈Come Rain or Come Shine〉だが、音を聴いた瞬間に違いのあるのがわかる。それは24bitリマスターだからなのか、キープニュースがあらためてプロデュースしたリマスターだからなのか、それともそういう先入観があるので、これはきっと良い音に違いないと思い込まされてしまっている私のカンチガイなのかわからないが、私のプアなオーディオセットで何気なく聴いたのでさえも 「えっ?」 と思わず振り返ってしまうようなニュアンスがある。
音に奥行きがあるのだ。ただ左右に拡がっているだけのステレオ感ではなく、ピアノ、ベース、ドラムのあるスタジオの空間が見えるようで、私の感覚でいうと、それは弓形に拡がっていて、やや上から見下ろす位置に楽器が存在している。今から約60年前の12月も押し詰まった日のニューヨーク。その空気が伝わってくる。ピアノの鍵盤が見えるようだ。

このアルバムで最も有名なのは2曲目の〈Autumn Leaves〉だが、エヴァンスのタッチがキツ過ぎるように感じられるし、左手のコードの瞬間的なおさえ方のパワーが強いので、昔の安物のレコードプレーヤーだと音が割れてしまったりすることがあって、そういう演奏・録音なのだと思っていた。それで《Portrait in Jazz》は、どちらかといえばあまり聴かないアルバムだったのである。
でもそれは間違っていた。このKeepnews Collection盤では音はもちろん割れないし、エヴァンスの和音は太くてしかも柔らかくてそれでいて芯がある。テーマに入るまでの4小節がいままでエキセントリックな印象だったのに、それもない。

それでこのリマスタリングと表示されているシリーズはよいのかもしれないと思って、アート・ペッパーを聴いてみた。コンテンポラリー盤の《Art Pepper Meets the Rhythm Section》(1957)、当時のマイルスのリズム・セクションをバックにしたアート・ペッパーの中で最も有名なアルバムである。レーベルは違うけれど、プレスティッジやリヴァーサイドの、一連の黒地に白抜き文字の、OJCという品番の付いているジャケットである。
24bitリマスタリングで、マスタリングは《Portrait in Jazz》と同じジョー・タランティーノ。もしかして目の覚めるようなペッパーが聴けるかもしれない、と思ったのだが……。
少しクリアな感じはするし、アルトの音も澄んでいてとてもよいのだが、でも画期的といえるほどではない。まぁ普通。それにこのアルバムのオリジナルのプロデューサーは当然、コンテンポラリー・レコードのレスター・ケーニッヒである。

しかし冒頭の〈You’d Be So Nice to Come Home to〉はやはり名演である。ものすごく速いフレーズのところがパーカーとは (もちろんスティットとも) 全然違っていて、たとえば前奏8小節に続いてテーマ、テーマが0’54”頃に終わってアドリブの1コーラス目、1’21”あたりからの一瞬のめくるめくフレーズ、この空気感は何なのだ、と思わせる。
もっと急速調な〈Straight Life〉のフレージングも爽快感があり気持ちがよいが、音の連なりそのものはややありきたりだ。しかしこの頃、ペッパーは薬漬けだったはずなのだ。

では、オリジナルでキープニュースがプロディーサーだったアルバムの24bitリマスタリングだとどうなのか。それに適合するサンプルが、ビル・エヴァンスの1962年のアルバム《Moon Beams》である。ジャケット体裁はペッパーの《…Meets the Rhythm Section》と同じで、CDケースオモテ面左のワク部分が透明になっていて、オレンジ帯でOriginal Jazz Classics REMASTERSと表記されている。
1曲目の〈Re: Person I Knew〉は私がひそかに愛着を感じている佳曲で、ピアノの内省的なイントロからブラッシングのドラムとベースとが忍び入って来るところが暗い情熱を秘めているようで美しい。チャック・イスラエルはラファロと較べると人気が無いが、こうした翳りのある曲におけるピアノへの寄り添いかたは素晴らしい。このアルバム全体の淡い官能のような色合いがそのジャケットデザインに見事に反映されているともいえる。

でも録音に関しては、結論から言ってしまうと、このアルバムもクリアな感じはするけれど、まぁ普通。でもペッパー盤よりはやや奥行きがある。4曲目の〈Stairway to the Stars〉にはたぶんマスターテープに起因するピアノの音にふるえが来る箇所 (3’07”あたりから) があって惜しい。
リイシューのプロデューサーはニック・フィリップスである。

つまり、まだ結論を出すのには早過ぎるのだけれど、24bitが良いのではなくて、キープニュース・コレクションが良いのではないか、ということに思い至る。たぶん、オリジナルもリイシューも両方キープニュースが手がけているからキープニュース・コレクションなのだ。
キープニュース・コレクションはCDケースオモテ面左のワク部分が白地に黒字でKEEPNEWS COLLECTIONとなっていて、オレンジ帯の 「単なる24bit」 とは違うのではないか、と推理するわけであるが、でもまだ検証してみないと何ともいえない。
なぜなら《Portrait in Jazz》の音源だけが、ものすごく良い状態だったという理由だってあるのかもしれない。ということで、いつ続きが書けるのか未定という状態でこの追求は続くのである。

それで全然関係ない話に変わるのだが、アート・ペッパーのようにというのは無理としても、最近サックスなど管楽器を習おうとする人は多くて、音楽教室でもいままでのようにピアノやギターだけでなく、サックス教室を設けるところが多くなってきている。特にアルト・サックスは楽器が小さめだし、人気があるのだが、その教室の講師は圧倒的に女性なのだ (というような印象がある)。サックスにもクラシック系とジャズ系があって、それぞれに適合する楽器もやや異なるが (たとえばヤマハのサイトには82Zはジャズ向き、875EXはクラシック向きという解説がある)、特にクラシック系のサックスだと、まず先生は女性だと思ってよい。ヴァイオリンだってほとんど女性の講師ばかりだし、もちろん女性講師が悪いといっているのではないが、男性はいったいどうしてしまったのだろうか。やはり手取り足取りの初心者には女性の先生のほうが向いているという音楽教室の勝手な思い込みがあるのだろうか。その勝手な思い込みは結構あたっているような気もするが、それにしても謎である。


Bill Evans/Portrait in Jazz (Riverside/Keepnews Collection)
http://tower.jp/item/2377928/
billevans_portrait_180214.jpg

Bill Evans Trio/Re: Person I Knew
https://www.youtube.com/watch?v=xiRRfKoNl50
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バリュー通り36番地 ―『ナディア・ブーランジェ』を読む [本]

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Nadia Boulanger (1966)

本のカヴァーには 「名演奏家を育てた“マドモアゼル”」 というキャッチが書かれている。ジェローム・スピケの描くナディア・ブーランジェの伝記『ナディア・ブーランジェ』は、もはや伝説の音楽教育家といってよいブーランジェの生涯を平明に淡々と綴っている。マドモアゼルという呼称からもわかるように、彼女は92歳まで生きたが、生涯独身であった。

ナディア・ブーランジェ (Juliette Nadia Boulanger, 1887-1979) はコンセルヴァトワールの教授であったフランス人エルネスト・ブーランジェ (Ernest Heri Alexandre Boulanger, 1815-1900) とロシア貴族の娘ライサ・ミケツキー (Raissa Mychetsky, 1858-1935) の次女として生まれた。さらに遡ればエルネストの父フレデリック・ブーランジェ (Frédéric Boulange, 1777-?) はチェリスト、母マリー=ジュリー・ハリンガー (Marie Julie Halligner, 1786-1850) はメゾソプラノの歌手という音楽家の家系である。
ナディアの父母の年齢差は43歳もあり、ナディアは父エルネストが72歳のときの子どもである。四人姉妹ではあるが、長女は1年、四女は半年で亡くなり、またナディアの妹である三女のリリも24歳で亡くなっている。強い生命力がナディアひとりに集中したのだといえよう。

私がブーランジェを知ったのは、アストル・ピアソラの進むべき道を示した人という有名な話からであるが、彼女の生徒のリストを見ると、もうとんでもないのである。果たしてこれは本当のことなのか、そんな時間が一人の人間の一生という限られた時間のなかで可能なのか、と誰もが思ってしまう。しかもそれだけではなく、彼女は多くのクラスで音楽を教え、演奏会もこなし、音楽というジャンル以外の知人・友人も多岐にわたる。逆にいえば彼女は音楽教育という魔物の虜囚であり、人生の全てはそのためにだけ費やされたのである。
これは例えば 「寺山修司は3人いたんだよ」 というギャグと同じであって、ありえないほど濃密な活動をした人間というのは、稀にではあるが存在するのだ。

スピケは父エルネストの友人としてシャルル・グノー、ジュール・マスネ、カミーユ・サン=サーンスといった音楽関係以外に、SF小説の創始者であるジュール・ヴェルヌの名前もあげている。
エルネストはナディアが12歳のときに亡くなるが、彼女は13歳でガブリエル・フォーレの作曲クラスを受講し、すでに頭角をあらわしていた。そして有名なピアニスト、オルガニストであるラウール・プーニョ (Stéphane Raoul Pugno, 1852-1914) と出会い、寵愛を受ける。プーニョの友人にはウジェーヌ・イザイ、ジャック・ティボーなどとともに、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの名前も見える。
プーニョとブーランジェは後年、ダンヌンツィオの《死都》(La Città morta, 1898) の音楽を共同で作曲するが、それは結局発表されなかった。ダンヌンツィオとブーランジェの交流についてスピケは 「彼を取り巻くきな臭い噂」 に彼女は臆することもなかったというようなニュアンスで書いている (p.42)。
(尚、ダンヌンツィオの薔薇小説三部作 (Romanzi della Rosa) は 「快楽」 「罪なき者」 「死の勝利」 (Il Piacere (1889), L’innocente (1892), Il trionfo della morte (1894)) からなるが、「罪なき者」 はルキノ・ヴィスコンティの映画《イノセント》の原作である。またダンヌンツィオは三島由紀夫に影響を与えたことでも知られる。)

話がやや前後するが、ブーランジェは作曲コンテストの応募等の際に、サン=サーンスやドビュッシーから一種の迫害を受ける。彼らは表向きにはルールの話を持ち出しているが、実は作曲界に進出しようとしているブーランジェに対する女性差別であることがわかる。
彼女はそうした迫害にもめげず、数々の 「女性で初めて」 を達成してゆく。

ナディアの妹であるリリ・ブーランジェはナディアの薫陶もあり、すぐに才能を発揮して、ナディアのとれなかった作曲賞をも勝ち取り早熟の天才と呼ばれたが、生まれつき虚弱な体質であり、若くして亡くなってしまう。
ナディアはリリの作曲能力を見て、自分は作曲することを辞めて教育に徹すると考えたことになっているが、実はそれはナディア自身の創作であるとのことで、思われているより彼女はしたたかである。

そしてブーランジェは芸術のよき理解者であるエドモン・ド・ポリニャック公爵夫人と知り合う。彼女は芸術を擁護した偉大なパトロンであり、彼女の自邸をサロンとし、自費で芸術活動に対する数々の援助をしただけでなく、社会福祉にまで費用を出していた。
ブーランジェを通してポリニャック公爵夫人の恩恵にあずかったのがストラヴィンスキーであった。ブーランジェはストラヴィンスキーの才能を支持し、金銭的な援助をとりつけたのである。

ブーランジェの視点は新しい音楽だけでなく古い音楽にも向いていた。バッハのカンタータや、シュッツ、カリッシュミ、そしてモンテヴェルディといった古い音楽の発掘、紹介にも努めた。
やがて彼女はイギリスやアメリカにも進出し、ロンドン・ロイヤルフィル、ボストン響、ニューヨーク・フィルなどを振り、大成功を収める。
最も得意としていたのは恩師であるフォーレのレクイエムで、彼女はその曲を60回以上指揮しているという。フォーレへの理解と、深い信仰を持っていたブーランジェの解釈は今聴いても決して古びてはいない。

しかしやがて戦争が起き、彼女はアメリカに逃れる。戦後、フランスに戻ると、疎遠になってしまったポリニャック公爵夫人は亡くなっていて、そして知悉のサン=テグジュペリもポール・ヴァレリーもすでにこの世にはいなかった。

戦後、音楽はいわゆるセリーの擡頭があり、ブーランジェの音楽的方向性は旧弊なものへとなってゆく。彼女は新進の作曲家ピエール・ブーレーズに関心を持ったが、しかしドメーヌ・ミュジカル的な新しい音楽に対してはたぶん否定的だったのに違いない。彼女はベルクの《ルル》を例にとって、「私の好みとは一致しない」 と述べたのだという。
そしていまや有名作曲家となったストラヴィンスキーの恩知らずな行動にブーランジェは落胆する (かつて世話になった人への委嘱曲だったのにもかかわらずストラヴィンスキーは 「今、オレの作曲料の相場はもっと高いんだ」 と言って拒否したのである)。だがそうしたストラヴィンスキーさえ、もはや時代遅れになりつつあったのだ。パリにおけるセリー派のコンサートで自作を初演した彼はそれが不評に終わったことから、パリでは二度と指揮をしないと憤慨する。
それ以後、ブーランジェとストラヴィンスキーの仲は疎遠となるが、しかしブーランジェはコンサートにおいてはストラヴィンスキーの作品をとりあげていた。人としての性格はともかく、作品そのものの価値をないがしろにしないという姿勢がうかがわれる。

晩年になってもブーランジェは、モナコ公国との深い関係や、メニューインからの信頼を受け、彼のイギリスの音楽学校の教育に力をそそぎ精力的に活動した。その行動力はとても80歳を越えた人とは思えない。晩年は視力が衰え、下記にリンクした90歳の頃にはたぶんほとんど見えてはいないはずである。
彼女のメインとする音楽はクラシックであるが、その最も有名なエピソードはアストル・ピアソラに対する助言である。
ピアソラは自分の音楽が受け入れられないのでその出自を隠し、彼女の下で交響曲を書きたいと思っていたが、あまり感心する出来ではなかった。ところがピアソラにタンゴを弾かせたらそのインプロヴィゼーションで右に出る者はいない、とブーランジェに進言した者がいたのだという。

 はじめはピアソラが拒否したので、彼自身がタンゴでどのようなことが
 できるか見せてほしいと熱心に食い下がった。長い時間にわたって彼の
 演奏を聞いたブーランジェは、「これこそあなたの分野です。交響曲な
 どやめて、タンゴにあなたの力を注ぎなさい」 と熱心に告げた。そして
 彼はやがて、タンゴの王となったのである。ピアソラは、ナディア・ブ
 ーランジェを自分の第二の母親だとよく語っていた。(p.96)

しかしガーシュインに対しては逆に、彼の勉強したいという願いを断ったのだという。いまさら正統的な音楽理論を習ったとしても、それはかえって彼の音楽的な美学を疎外することにしかならないからだというのである。

彼女のオーケストラの指揮に対してやんわりと批判をする評論家もいたのだという。しかし彼女はそれについては十分に自分の立場をわきまえていたのに違いない。指揮をすることは自分にとって一種の贅沢でありご褒美であって、自分の使命は音楽教育をすることにある、と彼女は確信していた。

 彼女は、幾度も教師という役割について定義し、根本的には 「過酷な技
 術であり、技術についての深い知識なくして、音楽家は自分の最も重要
 だと思う箇所を表現することは出来ないのです。そこに割って入るのが
 教師です。教師にできることは、絶え間なく集中をし、常にその場にい
 て、忍耐することを学ぶよう要求しながら、生徒が自らの道具を効果的
 に扱うことができるよう成長させることです。しかし、教師は学生が道
 具によって具体的に何をするかに関しては、どんな積極的役割も担うこ
 とはないのです。」 (p.96)

スポーツでも名選手が必ずしも名コーチになれるとは限らない。だから彼女の作品と彼女の教育法は別物なのである。
ブーランジェは指標であり、水先案内人であり、より高みへ到達するための技術的伝達者でしかない。音楽の個性は音楽家自身が作りあげるものであって、ブーランジェはその個性自体に対しては関与しない。その潔さが彼女がもっともすぐれた教育者と呼ばれる所以である。

門下生のリスト (fr.wikiより)
Grażyna Bacewicz, Dalton Baldwin, Daniel Barenboim, Stanley Bate, Olivier Bernard, Idil Biret, Diane Bish, Serge Blanc, Elliott Carter, Walter Chodack, Joel Cohen, Aaron Copland, Marius Constant, Michel Ciry, Vladimir Cosma, Donald Covert, Raffaele D’Alessandro, Francis Dhomont, Miguel Ángel Estrella, Jean Françaix, John Eliot Gardiner, George Gershwin, Egberto Gismonti, Philip Glass, Jay Gottlieb, Paul Guerra, Gerardo Guevara, Hermann Haller, Pierre Henry, Pierick Houdy, Jacques Ibert, Quincy Jones, Maurice Journeau, Wojciech Kilar, Henry-Louis de La Grange, Michel Legrand, Lalo Schifrin, Robert Levin, Dinu Lipatti, Igor Markevitch, Armand Marquiset, Krzysztof Meyer, Edouard Michaël, Émile Naoumoff, Astor Piazzolla, Walter Piston, Robert Russell Bennett, Lamar Stringfield, Erzsébet Szőnyi, Antoni Wit, Nicolas Zourabichvili, Donald Byrd.
これ以外にも
Henryk Szeryng, Ralph Kirkpatrick, Keith Jarrett, Gigi Gryce etc....


ジェローム・スピケ『ナディア・ブーランジェ』(大西穣訳/彩流社)
ナディア・ブーランジェ




ブーランジェの講義風景 (ブーランジェ・90歳)
https://www.youtube.com/watch?v=Pwvr47DZekk

Astor Piazzolla y Milva en “Nuestro tango”, 1985
‘Teatro Ópera, Buenos Aires’ live
https://www.youtube.com/watch?v=gASKJeMhT1U
32’20”~ ミルヴァの Balada para un loco
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