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ダニエル・ユメールの《Surrounded》を聴く [音楽]

DanielHumair_160926.jpg
(L→R) Raymond Guiot, Daniel Humair, Guy Pedersen, George Gruntz
17 November 1967

ダニエル・ユメール (Daniel Humair) は1938年スイスのジュネーヴ生まれのジャズ・ドラマーでいまだに現役である。1960年から演奏活動をしているのでその長い経歴には数々のミュージシャンが登場する。

アルバム《Surrounded》の正確なタイトルは《Surrounded1964/1987》であり、1987年に、それまでの幾つものセッションのなかからセレクトして収録したいわば落ち穂拾い的内容であるが、冒頭の2曲がエリック・ドルフィをソリストにして録音されている。ドルフィ晩年の記録として興味を引く。
オリジナルは仏・Flat&Sharpのアナログディスク2枚組だが、私が聴いているのは Flat&Sharp, Mediartis/I.N.A.と表記のあるフランス盤CDである。その後、1994年にドイツ盤が出たことがあるらしいが、現在はすべて廃盤であるようだ。

録音日は1964年5月28日、R.T.F.となっていて、RTF (Radiodiffusion-Télévision Française) とはORTFの前身であるが、つまりフランス放送協会のことであって、現在はRTFもORTFもすでに無い。
1964年5月というのがドルフィにとってどういう年かというと、それはドルフィ最後の年であって、jazzdisco.orgのリストに拠れば、ブルーノートへの《Out to Lunch!》が2月25日、そしてチャールズ・ミンガス・セクステットのツアーが続く。以前のブログ (→2012年08月03日) にも書いたがもう一度整理してみよう。

03月18日 Cornell University, Ithaca, NY
04月04日 Town Hall, NYC
04月10日 Concertgebouw, Amsterdam, Netherlands
04月12日 University Aula, Oslo, Norway
04月13日 Konserthuset, Stockholm, Sweden
04月14日 Old Fellow Palaet’s Store Sal, Copenhagen, Denmark
04月16日 Bremen, West Germany
04月17日 Salle Wagram, Paris, France
04月18日 Théâtre des Champs-Élysées, Paris, France
04月19日 Palais Des Congrès, Liège, Belgium
04月24日 Bologna, Italy
04月26日 Wuppertal Townhall, Wuppertal, West Germany
04月28日 Mozart-Saal/Liederhalle, Stuttgart, West Germany

クラシックの牙城、アムステルダムのコンセルトヘボウでのグループの演奏に、ミンガスの狷介なプロフィールをあらためて感じさせる。以前のリストより4月26日のボローニャが増えているが、プライヴェート・テープとあり内容は不明である。
さらにミンガス・グループ以外に、

03月01日または02日 ドルフィ自身のクァルテット
 University Of Michigan, Ann Arbor, MI

そして

03月21日 アンドリュー・ヒル・セクステット
 Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, NJ
04月06日 ギル・エヴァンス・オーケストラ
 NYC

にサイドメンとして参加している。
RTFにおける録音は、このミンガスの地獄のツアーの後、06月02日の《Last Date》の前という時期になる。そして06月29日にドルフィは亡くなっているから、死の1カ月前の演奏ということになる。
ミンガスはドルフィを手放したくなかったのだろうが、このヨーロッパツアーは、トランペットのジョニー・コールズは具合が悪くなるし、そしてドルフィはミンガスの懇願にもかかわらず、グループと別れ、ひとりの道を選んだ。結果としてこのツアーがドルフィの寿命を縮める要因になったようにも思えてしまう。

この《Surrounded》に収録されているのは〈Les〉と〈Serene〉という、どちらもドルフィ作曲のものだが、それぞれ4分ほどの短い曲で、ユメールは比較的スタンダードなドラマーであるから曲自体もスウィングしていて、ドルフィのメロディラインのみが奇妙な味わいという、少し以前のドルフィっぽい曲想となっている。
ただ、〈Les〉のような曲を聴くと、テーマにはまさにチャーリー・パーカーの影があって、そのパーカーのラインを如何に違うふうに装っていくか、というのがそのコンセプトのようにも思える。もっともアドリブに入ってしまえばいつものドルフィなのだが。
ピアノはケニー・ドリュー、ベースはガイ・ペデルセンである (ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセンとは別人)。ユメールとペデルセンのコンビは当時のリズム隊として活躍していたらしく、スキャットでバッハを歌ったことで有名なスウィングル・シンガーズの196年後半のアルバムにも幾つか参加している。
マーシャル・ソラールの最初のピアノ・トリオ・アルバム《Martial Solal》(1960) のベースとドラムスもこの2人である。またユメールにはミシェル・ルグランやジャン=リュック・ポンティ等のフランス系の人たちとの共演も多い。

〈Les〉のアルトサックスに対して〈Serene〉はバス・クラリネットを使用したミディアム・テンポの曲だが、〈Les〉にも〈Serene〉にも共通していえるのは、非常にリラックスしたドルフィの表情が見られることだ。それはグループ全体がオーソドクスにスウィングしているということだけが理由のようには思えない。
たしかに 「鬼気迫る」 とか 「孤高の」 といった形容でドルフィのテンションの高いソロを語る風潮はあるようだし、ミンガスのヨーロッパツアーでは、常にそうした硬質な表情を要求されていたのかもしれないが、必ずしもそれだけがドルフィの音楽ではない。もう少しリラックスしたラインがあってもいいはずだ。ドルフィのファイヴ・スポットのトランペッターであったブッカー・リトルが参加したフランク・ストロジャーのアルバムについて、以前に触れたことがあるが (→2012年08月16日ブログ)、ストロジャーは2流だけれど色気があって、リトルもストロジャーの下ではのびのびと、ちょっとユルく吹いていて、そのリラックス感がここちよい。
《Surrounded》におけるドルフィの〈Serene〉のソロは、いつもと違ってあまりアヴァンギャルドに傾かない、それでいてドルフィの個性の出た柔らかさが美しい。

このユメールのアルバムの5曲目には1971年のフィル・ウッズの演奏が収められていて、パーカー・フォロアーであるウッズのソロのなめらかさに較べると〈Les〉のドルフィのソロから受ける印象は随分無骨だ。でもそのゴツゴツとした、本来行くべきではないはずのラインに音を無理矢理に誘導して連ねていくところにドルフィの真髄がある。
7曲目のテテ・モントリューのピアノ・トリオの演奏も、最もテテらしい音が出ていて、つまり翻って考えると、リーダーとしてのユメールの包容力が働いて、ドルフィの場合もリラックスした演奏になっているのではないかと思う。
だがそれは一瞬の安息であり、翌月、冥王星のような6月にドルフィはベルリンで亡くなる。ベルリンはデヴィッド・ボウイの《Low》の街であり、ドルフィの最後の地である。


Daniel Humair/Surrounded (Flat&Sharp, Mediartis/I.N.A.)
Surrounded 1964 / 1987




Daniel Humair/Les (from “Surrounded”)
https://www.youtube.com/watch?v=zJb-wMdPwSQ
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ストレンジ・メロディ — ジェーン・バーキン《Rendez-vous》 [音楽]

Janebirkin&daho_160921.jpg
Jane Birkin, Étienne Daho

雨の夜、心が沈んでいるときはチープなジェーン・バーキンの音に浸るのもいい。
バーキンの《ランデヴー》は2004年リリースのアルバムで、いろいろな歌手とのデュエットが詰め込まれている。ゲンズブールの頃からバーキンの音は原則としてチープだが、それは2004年になってゲンズブールがいなくなっても変わることはない。つまりこれがフレンチ・ポップスの伝統なのだ。豪華でなくて、厚みもなくて、でもそのほうが音楽の真実が伝わる。
レーベルはキャピトルで、EMIミュージックフランスのリミテッド・エディション盤である。リミテッド・エディションと日本盤のみ2曲多い (でも当時リリースされた日本盤はCCCDとのこと)。

1曲目の〈Je m’appelle Jane〉(デュオの相手 [以下同じ]:ミッキー3D)、2曲目の〈T’as pas le droit d’avoir moins mal que moi〉(アラン・シャンフォー) という流れはとてもホッとする空気を含んでいる。それはフレンチの音が頑固に変わらないということの証明のように聞こえる。
2曲目のタイトルの付け方はまるでゲンズブールの〈Je suis venu te dire que je m’en vais〉を意識しているように思える。この長ったらしいタイトルに対する邦題は〈手切れ〉。とてもシンプルだ。対してその〈T’as pas le droit d’avoir moins mal que moi〉の邦題は〈許さない〉。この日本盤を作った人はよくわかってるなあと思う。両曲とも最初のフレーズをタイトルにしただけというのも同じだし。
でも1曲目の Je m’appelle Jane (ジュマペルジェーン/私の名前はジェーン) ってタイトルも 「知ってるよ」 とツッコミたくなる。

3曲目の〈In Every Dream Home a Heartache〉はおどろおどろしい音で、何これ? と思うのだが、ブライアン・フェリーとのデュオだ。フェリーの若い頃のアクの強い感じを彷彿とさせる。ゲンズブール/バーキンのロールスロイスが出てくる古いPVでこんなシンセ音を使っていたような気がするが、もしかしてそれを意識した音作りという可能性もある。
4曲目の〈Palais royal〉は一転して王道なアラン・スーションとのデュオ。
そして5曲目の〈La Grippe〉(エティエンヌ・ダオ) も、さらっとしている佳曲なのだが、ブリジット・フォンテーヌ/ジャック・イジュランの書いた曲である。

6曲目の〈Strange Melody〉はベス・ギボンズの曲。ベス・ギボンズはイギリスの歌手で、この曲ではコーラスを付けているのみだが、この暗い雰囲気がとてもいい。
7曲目の〈O Leaozinho〉はカエターノ・ヴェローゾとのデュオだが、ヴェローゾの声質は明るすぎて、このバーキンのアルバムのなかでは少し浮いているかもしれない。

8曲目から11曲目までの怒濤のつながりはこのアルバムのなかで最も高い山脈の部分。8曲目の〈Pour un flirt avec toi〉のミオセックは声が渋くてしびれる。avec toi という歌詞に思わずミレーヌ・ファルメールを連想してしまうが。
9曲目の〈The Simple Story〉(ファイスト) はシンプルに聞こえるオーケストレーションだが実は凝っているというのがミソで、ゴンザレス (Chilly Gonzales) のもの。fr.wikiのゴンザレスのページでは Production, arrangements の項の最初にこのアルバム名が載っている。つまり彼のキャリアの第一歩でもある。
10曲目の〈Te souviens-tu?〉はマヌ・チャオの曲で、デュオとギターも担当しているが、このチープなエレクトリック・ギターがこのアルバムの色を支配している。
11曲目の〈Smile〉(ブライアン・モルコ) は退廃。声質は違うのだがルー・リードを連想させるモルコの声が魅力的だ。

12曲目の〈Surannée〉はフランソワーズ・アルディとのデュエットだが、アルディの声もやっぱり若い頃とは変わっていることを実感。でも黄昏れているわけでなく声がクリアに耳に入って来る。
そして13曲目〈Canary Canary〉は井上陽水の曲だが、この13trackでは井上陽水の朗読が聴ける。16曲目にボーナストラックとして同じ曲が入っているのだが、技巧的なギター伴奏で始まるこちらのほうが私は好きだ。16曲目では井上陽水が一部を日本語詞で歌っている。
14曲目の〈Chiamami Adesso〉はパオロ・コンテとのデュオ。いかにもイタリアンな重鎮といった歌唱がいい。

このアルバムで特に気がついたのはバーキンの声の変化で、若い頃のコケティッシュをずっと引き摺っているのかと思っていたのだがそうではなく、色が無く、すごくオトナで凜としたたたずまいがありここちよい。
曲の長さが2分から3分台の曲が多く、一番長いのが〈カナリー・カナリー〉の別トラックで4分54秒。4分に満たない曲というのは、昔ながらのポップス風で、チープさと併せてそういう意味でもポリシーに揺るぎがない。
ジャケットデザインがちょっと謎なのだが (フォトグラファーは娘のケイト・バリー)、アルバムの内容そのものは豪華なデュオでありながら総花的ではなく筋が通っていて、バーキンのアルバムのなかでもかなり上のほうだと私は思う。


Jane Birkin/Rendez-vous (Capitol/EMI Music France)
Rendez-Vous




Jane Birkin/Canary Canary
https://www.youtube.com/watch?v=XFbHlLvEjqk
Jane Birkin/Smile
https://www.youtube.com/watch?v=5EB_ZC3tXAw
Jane Birkin/Strange Melody
https://www.youtube.com/watch?v=DZOJq8C0S1I
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夏の終わりの嬰ハ短調 ― 橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を読む・2 [コミック]

yumikoOshima_160916.jpg
大島弓子/綿の国星

2016年09月10日ブログのつづきである。

これは仮定の話だが、大島弓子が『綿の国星』を描いた後、それだけで終わりにしてしまったのなら、かなりカッコよかったと思うのだが、続きを描き、さらに猫シリーズを延々と続けてしまったのは、やはりそれだけの需要があったからなのだろう。現実とはそんなものである。

それでともかく、本篇の『綿の国星』(1978) の話。
須和野時夫は、「今なら何をやっても少年Aで済む」 と思っている大学受験に失敗した少年である (もはや少年でもないか……)。時夫は子猫をひろうが、その猫 (チビ猫) は自分がいつか人間になることを信じているので、少女の姿として描かれる。つまりマンガの視点はネコの目から見たネコを主体とする世界なのだ。
しかし、チビ猫が明日を信じているということと、だからといって人間として描かれるということは、よく考えれば直接的な関連性はない。それを成立させているのが大島の魔法である。

まず、須和野時夫というネーミングは 「須臾 (しゅゆ) の時を」 の意味ではないかと私は思う。人間より寿命の短い猫と過ごす限られた時のことをそれは表している。それでこの須和野という姓に似た本須和という姓が使われているマンガにCLAMPの『ちょびっツ』(2000-2002) がある。『ちょびっツ』は人間と機械との恋というSFの永遠のテーマのひとつをなぞっている作品だが、その主人公に本須和秀樹という名前をつけたのは、CLAMPが大島弓子のこの作品を意識していたのではないかと思う。
こうした恋の形態はいわゆる〈人でなしの恋〉であって、〈人でなしの恋〉というのは人間と人間以外の恋を指す。語源は江戸川乱歩の同名の小説 「人でなしの恋」 (1926) であるが、この乱歩作品はつまりピグマリオン・コンプレックス (人形愛) である。たとえば《ブレードランナー》(1982) も人間とアンドロイド (レプリカント) の恋ということにおいて同様である。

少年Aと子猫 (つまりどちらもまだ子ども) という主人公の設定に対して、大人と子どもの関係性を明確にするためだろうか、橋本は次のように書く。

 大人は、子供を人間とは思っていません。子供は子供だと思っているの
 です。でも、子供は自分を人間だと思っています。そして自分を “子供”
 だとも思っているのです。(後p.223)

最後のフレーズ 「そして自分を “子供” だとも思っているのです」 という部分を除いて、この 「子供」 という個所を 「猫」 と置きかえれば、チビ猫の心情が浮かび上がる。つまり猫という言葉はメタファーであり、弱い者、子ども、女をあらわしている。
チビ猫として描かれている少女は (ではなくて、少女として描かれているチビ猫は) 少女期の大島であり、しかしそれは個としての少女でなく普遍的な少女となる。チビ猫に対して近づけない猫アレルギーの時夫の母は、同時にチビ猫の仮想母であり、それは普遍的な母として還元される。
そしてここで一般論的少女の性への目覚めと不安・恐怖について橋本は次のように分析する。

 子供の内部には一つのものがありました。得体の知れない、恐ろしく思
 える何かがありました。
 子供は知ります ―― そのことは、口にしてはならないものだと。それ
 はひきずり込むような何かです。身を滅ぼさせる予感のする何かです。
 そしてそれが “性” なのです。(後p.223)

自分の内部にあるものを知った少女は、少女でありながら 「おとな子ども」 になってしまったのであって、そうなってしまったら、知らなかった頃の子どもに戻ることはできない。そして 「性」 とはsexという言葉に包含される全ての意味あいとしての 「性」 である。

さてここで、いつか自分は人間になると思っているチビ猫に対して 「否」 を言う猫・ラフィエルが出現する。ラフィエルは 「猫は人間にはなれない」 と言い、「猫は猫たるすばらしさを おしえてやるよ」 とチビ猫を諭す。(後p.230)
ピノキオが人形から人間に変わったように、いつか猫から人間に変わると思っていたチビ猫にとって、ラフィエルの言葉は願望が不可能であることを認めざるをえない冷徹な最後通牒である。

 あまりにも
 ハンディがありすぎるじゃない
 なんでそんなこと おしえるのよ!!
 なんでそんなこと おしえるのよ!!

しかしそれに対してチビ猫は 「それでも生きてみよう」 と思ったのだ、と橋本は書く。それは 「生きてみよう」 とする意志であって、今まで自分の中にあったのは 「生きている」 ことを認識する意識だけだった。しかし 「生きてみよう」 と言ったことは、明日を見ようとする意志 (が芽生えたの) だ、というのである。それは自分自身を信じることにもつながり、そしてそれが『綿の国星』のテーマなのだという。(後p.231)

この 「人間に変わることを信じている猫」 という現象がメタファーなだけでなく、人間←→猫という対比そのものがメタファーであるという構造にもなっているのだと私は思う。
自分ががんばって獲得しようと思ってもかなわぬこと ―― だからといってそれを軽々しくあきらめてしまっていいのか、と言っているのがチビ猫の意志なのだ。それは見た目の弱々しさとは全く異なる強固な意志である。

     *

『バナナブレッドのプディング』は謎のような作品である。それは『綿の国星』に先行して描かれた。
橋本が指摘するように、主人公・三浦衣良 (みうら・いら) は読者の感情移入を拒否している状態で登場する。衣良は自分が食べられてしまうかもしれないという恐怖を持っていて、それを友人の御茶屋さえ子に言い、共感を得ようとする。

 衣良がこわがるのは、“10時すぎまでおきていると 美しいお面をかむっ
 た 男か女かわからないひとが 大きなカマスを用意して待っていて 
 子どもをつめて ひき肉機にそのままいれてたべてしまうという話” を、
 いまだに彼女が信じているからなのです。(後p.243)

そんな状態の衣良を彼女の両親は 「精神鑑定させよう」 とひそかに話し合い、しかしそれを衣良は聞いてしまう。そうした両親に対する不信をも、衣良はさえ子に言う。

衣良の怖がっている得体の知れないものは、衣良の内部にいるものなのだ。それは衣良に襲いかかり凌辱する男であり、そして衣良は男に襲いかかられるのを待っている女でもある。男が私を脅かすのではんく、男の心をそそり、煽り立てて狂わせるものが私という女なのかもしれない、と衣良は思う。だからそれは恐怖でありながら、同時に拒みきれない、甘美な何かなのかもしれない、とも衣良は思うのだ、と橋本は書く。(後p.243)

これはまさに少女期の、性的なものへの恐怖と願望のあらわれである。そうしたナイーヴなことを、大島はこうしたエキセントリックな衣良というキャラクターに仮託して叙述する。それは極端であるかもしれないがわかりやすい。
そして衣良が結婚相手として求めているのは、「世界にうしろめたさを感じている男色家の男性」 である。それはつまり性的なものへの恐怖と忌避である (男色家なら自分に手を出してくることはないという安心感)。そしてその理想の相手を、さえ子の兄、御茶屋峠 (おちゃや・とうげ) であると思い定める。だが峠は、衣良に合わせてそのフリをしていただけで実は男色家ではない。

世間にうしろめたさを感じているのは、実は男色家でなく衣良なのだが、衣良は自分の意識が虚ろであることを認めようとはしない (後p.246)。自分の存在が世間にとって必要だと思い込みたいために、衣良は 「うしろめたい男色家」 を助けてやろうとすることを自分の存在意義だとするのだ。それは性的行為から自分を遠ざけようとする正当な理由にもなると考えたのだろう。というよりもっと一般的な、恋愛感情によって自分が傷つけられることから逃げようとする意識といってもよい。
しかし、衣良の助けを必要とするような、そんな男色家は存在しないし、もっといえば衣良を必要としている人間はいない。そういう衣良は孤独であり、被害妄想であり自閉症的であると橋本は見る (後p.251)。

その他の登場人物の関係性は、よくあるTVドラマのようだ。御茶屋さえ子はサッカー部の少年、奥上大地 (おおかみ・だいち) に恋するが、奥上は 「世間にうしろめたさを感じていない男色家の少年」 である。そして御茶屋峠に恋している。さえ子は兄の峠に変装して、奥上の愛をかなえてやろうとするが、やがて奥上を追うことをあきらめる。
奥上は男色家の新潟教授の愛人であったが、教授は奥上が峠に恋していることを知り、奥上に対してサディスティックな行為に及ぶ。
衣良は御茶屋峠が男色家を装っていただけなのを知り、峠と別れて新潟教授に嫁ぐが、教授を誤って刺し、再び峠のもとに戻る。

衣良は王道的なTVドラマならばエキセントリックな端役のはずだ。その衣良がこの作品においてなぜ最も重要な主人公であるのか、というのがこの『バナナブレッドのプディング』の特殊で斬新な色合いに他ならない。
それは橋本が指摘するように、世界 (世間) が王道TVドラマの設定も含めて、男性主導の原理によって動かされていることへのアンチテーゼとして作用しているのだ。

 社会とは、男の都合に合わせてできているもので、女や女の子は、その
 都合に合わせれば都合よくやっていける仕組になっているものなのです。
 (後p.262)

と橋本は書く。つまり端的に言えば 「女は男と結婚すれば幸せになれる」 という原理であり、それが男の都合であり、世間的な正しさであり (もっと言えば正義であり)、それを体言化しているのがやさしい男としての御茶屋峠である。しかし衣良はその社会的都合に合致していない。

 衣良の不幸は、男の都合の枠の外にある問題です。御茶屋峠に理解はで
 きません。(後p.263)

夢の中の人喰い鬼に食べられてしまった衣良は自らが人喰い鬼となってしまい (吸血鬼に血を吸われた者が自ら吸血鬼になってしまうのと同じパターン)、そして理想の 「うしろめたい男色家」 とはほど遠い存在だった新潟教授を見限り、御茶屋峠のもとに戻るのだ。伊良は 「その社会の都合によって深く傷ついている」 (後p.265) のであり、それを癒やすのには峠を必要としたのだった。そんな衣良に峠は暖かいミルクを差し出して飲むようにいう。そして 「ぼくは きみが だい好きだ」 という。

 衣良は初めて自分に許します、「生きてみよう」 という意志を持つこと
 を。
 その意志を持った衣良は、人喰い鬼に食べられてしまった衣良です。衣
 良は言います ―― “でも わたしは鬼だから いつこの人をやいばにか
 けるか わからない それがこわいのです でも峠さんが それでもか
 まわぬというので ここにおります”。(後p.267)

そうした衣良のことを 「人喰い鬼に食べられてしまうことによって、初めて衣良は “普通の少女” になれました」 (後p.267) と橋本はいう。(「「生きてみよう」 という意志」 という言い方はチビ猫に対してのものと同じだ。)
「人喰い鬼に食べられてしまう」 という形容が、単に性的なものに対する克服であるということであるのと同時に、そもそも人喰い鬼とは何かというメタファー自体が何かということを考えさせる構造になっている。

さて、この『バナナブレッドのプディング』は、どのようにして『綿の国星』と関連しているのか。

 『綿の国星』のチビ猫は、生まれ変わった衣良なのです。だからチビ猫
 は、生まれながらにしてすべてを知っている無垢の少女なのです。(後
 p.268)

しかし、それでありながら同時にチビ猫はすべてを知らない。なぜなら、

 “知る” 迄に至ったすべての時間、“知る” 迄に感じたすべての苦しみすべ
 ての喜びを、すべて捨て去ってしまったのです。(後p.268)

と橋本はいう。
すべてを知っていながら、すべてを知らない存在であることがチビ猫としてリセットされた衣良なのかもしれない。そしてその無垢の心が『綿の国星』の冒頭に続くのだ。

 春は長雨
 どうして こんなにふるのか さっぱりわからない
 どうして急に だれも いなくなったのか さっぱり分からない
 (後p.218)

チビ猫は捨て猫で、須和野時夫に拾われ物語が始まる。
それを彷彿とさせるのが CLAMP『ちょびっツ』の冒頭である。その時代、パソコンは人間のかたち (多くが美少女) をしていて、ゴミ捨て場に捨てられていたパソコン 「ちぃ」 を本須和秀樹が拾ってくるのだ。
ちぃはすべての記憶を失っている。しかし秀樹は、ちぃに恋するようになる。次第にちぃの謎が明らかになってくるが、ちぃは起動する毎に初期化されてしまうのだ。だからそれまでの、秀樹のこととの記憶はすべてリセットされてしまう。しかし、ちぃが自分のことを忘れてしまっているのだとしても秀樹はちぃのことを愛する、というのが『ちょびっツ』のラストなのだが、すべてを知っていながら、すべてを知らない存在であるということにおいて、テーマは共通である。
ちぃの耳 (ヘッドフォン) はネコ耳の変形のようにも見える。

私は少し脱力感のある大島弓子が好きだ。たとえばそれは 「パスカルの群」 (1978) とか 「毎日が夏休み」 (1989) から感じ取れる。それはちょっとエキセントリックな恋愛観であったり家族観であったりするし、そのしなやかさややわらかさに騙されるけれど、芯にある強靱さを忘れてはならない。

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大島弓子/バナナブレッドのプディング


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